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1.東京キリストの教会との出会い

 私が東京キリストの教会(当時はボストンキリストの教会と言いました)に入会したのは今から10年ほど前になります。当時18歳の私は地方から上京し、英語の専門学校に通っていました。高校は地元のミッションスクールでした。 初めての東京、一人暮らしを私なりにエンジョイしていました。

しかし私は自分の育った家庭環境などから、どこか虚無感を抱えながら生活をしていました。 友人と遊んでいても、好きな英語を学んでいても何か満たされない毎日を送っておりました。

 ある日私は自分の母校のシスターに連絡し、東京でどこか良い教会を紹介してくれるよう頼みました。彼女は幾つか教えてくれましたが、「そのうち行けばいい」と思い、その時は何も行動しませんでした。

 それから半年も経たない頃、私は学校で紹介してくれたアルバイトをすることにしました。 それは晴海で行われる「国際見本市」での通訳という仕事でした。そこで私はキリストの教会のメンバーの1人に出会うこととなったのです。彼女は大変フレンドリーでした。 社会的にもすばらしい職業を持っているにも関わらず私のような一学生に対して気取らず、親切に接してくれました。彼女は私が憧れているもの−国際的な職業・英語力・自宅暮らし−すべてを持っているように思いました。

 彼女と色々話していくうちに、「教会に通っている、あなたも来ませんか、英語のバイブルトークもありますよ」と誘われました。前から教会を探していた私は、当然「ぜひ」と返事をしました。そしてお互いの連絡先を交換しました。−私は彼らの言葉でいうところの「Openな人」だったのです。

Openとは文字通り、キリストの言葉に飢え渇いた人、心開いた人 という意味です。)

 アルバイトが終わってしばらくして、私は同じ専門学校の友人を「英語の勉強もできるし・・・」と誘い、一緒に教会で行われている<バイブルトーク>なるものに行くことにしました。バイブルトークは10人ほどの女性だけで運営されていました。当時家族の問題を持っていた私は、その時のディスカッションの内容に非常に感銘を受けました。また皆大変に親切で、私について大変興味を持って聞いてくれました。東京に来て、いえ生まれて初めて、「わたし」という人間を受け入れてもらったような気がしました。雰囲気もアメリカナイズされていて、大変気に入りました。

 バイブルトークリーダーは青い目をしたアメリカ人でした。私には英語と日本語混合で話しかけてくれました。私はこんな素敵な教会で是非クリスチャンになりたい、とすぐに思いました。 全くキリスト教に興味がない、という友人でさえ「是非また来たい」と言いました。それほどバイブルトークのグループ魅力的だったのだと思います。そのバイブルトークの後、やはり何人かのメンバーと連絡先を交換して別れました。

 2、3日するとバイブルトークのリーダーから電話が来ました。「また会いたい、是非来てください。 聖書の勉強をしませんか? いつ会えますか? それでは渋谷で待ち合わせしましょう」 と言われました。その時はなぜ勉強を? それも教会ではなく、渋谷で、なのだろう・・・そんな疑問を持ちました。 しかしまた、「あの親切な人ガイジンさんに会えるし」と考え直しとりあえず次回会う約束をし、電話を切りました。

 渋谷で、バイブルトークリーダーのアメリカ人と、私をバイブルトークに誘ってくれた女性(後に私のディサイプラーとなりますと3人で会い、喫茶店に入りました。私は「なぜ?喫茶店なの?聖書の勉強なら教会ですればいいのに」と思いました。また「どうして3人で、なのだろう。」とも思いました。その喫茶店で、私以外の2人は「どれほど神が素晴らしい方なのか」「教会のみんなが現在どれだけ満たされた生活を送っているか」等を話してくれました。 時折分厚い聖書をテーブルに置いて聖句を見せてくれました。私は話の内容が他の人に聞こえているんじゃないか、ただでさえアメリカ人と一緒だから目立つのに・・・・なんて考えていました。

彼らの熱心な誘いもあって、私はまた2、3日後に会う約束をしました。そして日曜日には教会に行く約束もしました。次の約束までずいぶん間隔が短いな、と思いましたが学生だったため、時間はたっぷりありましたから「まぁ、しょうがないな」と思いました。思えばこのときが、キリストの教会の人々による「洗脳−マインドコントロール−」の始まりだったのでした。

2.勉強を始めてからバプテスマを受けるまで

そうしたいきさつで、聖書の勉強を始めました。

平均すると週に3回ほど会い、やはり喫茶店などで勉強しました。まず自宅でヨハネ書を読むように指示されました。同時進行で彼らと会う度に違ったテーマで聖書について学んでいきました。クリスチャンになった後にその「勉強」はきちんとプログラムになっていて決められたプロセス通りに進めていくことを知りました。勉強会では、私を教会に誘ってくれた人がバイブルトークリーダーの話すことをノートに取り、まとめて、勉強が終わると私にそれを渡してくれました。その勉強のプログラムの詳細については残念ながら覚えていないのですが、印象に残っているのは、キリストに基づく教会は一つであるということを彼らがしきりに強調していたことです。また異常なほど1世紀の使徒と教会を私たちは見習うべきだと言っていたことも記憶に残っています。

当時私は自分の育った家庭や人間関係などで、聖書に「癒し」を求めていて、イエスキリストのやさしさ、愛と信頼に溢れたクリスチャンの生活を聖書から学びたいと思っていたのに、彼らは私にしきりにキリストの弟子であることを強制しました。正直あまり気が進みませんでした。もちろん私はキリストの弟子になるつもりでした。しかしそれは私にとってキリストの愛を学び、実践していくという意味でした。彼らの言うキリストの弟子というのは、私の思っていたものとは異なり、マタイ5章20節で漁師であるペテロがイエスに従うためにすぐに網を捨てたように、私たちも何を捨てても(時に職業さえ捨て)イエスに従うべきであるというものでした。 

日曜日のアルバイトや試験をあきらめて教会を一番にすべきだと言われました。勉強が進めば進むほど高い目標を与えられました。しかし不思議なことですが、それほど苦にはなりませんでした。(高い目標は「鞭」、一般社会ではありえないFriendshipとFellowshipは「飴」だったのかもしれません。)

勉強が進むと、以前は疑問に感じていたことも、そう思うことが罪なのだと思うようになりました。 これが多分マインドコントロールなのでしょう。事実彼らは私が疑問を持つことは「罪」によって真実が見えなくなっているからだと言いました。(今は疑問をきちんと言葉にし、それについて選択する権利、自由を人間に与えてくれたことこそが神の愛ではないか、と思うのですが。)また早く素敵な教会のメンバーの一員になりたい、とも思っていました。バプテスマを受けて教会のメンバーになった人は「光」、まだバプテスマを受けていない、また他の教会でバプテスマ(洗礼)を受けた人は「闇」であると勉強して知っていましたから・・・

勉強が進み、教会の行事に参加していくうちに、「この唯一正しい教会でバプテスマを受けよう」と決心しました。そしてその決心をバイブルトークリーダーに話し、いよいよバプテスマを受ける準備を進めていきました。(ちょうどその頃私は、同じ専門学校でバイブルトークに誘った友人が先にバプテスマを受けたことで焦っていました。)そしてある日、バイブルトークリーダーから「バプテスマを受ける前にしなければならないことがある」と言われました。それは「罪の告白」でした。「ノートに自分が現在分かっている自分の罪について書き出して下さい」と言われました。 それをバイブルトークリーダーに見せてその罪がイエスを十字架にかけたことを心から理解したらバプテスマを受けることができるということでした。

私は少し躊躇しましたが、思いつく限りの罪を書き出しました。しかし当然ながら「性的」なことを書くことはできませんでした。本当に恥ずかしかったのです。それを書かずに結局バプテスマを受けました。バプテスマを受けた後非常な罪悪感を持ちました。私のバプテスマは有効ではなかったのでは?と思いました。そしてその罪悪感からとうとうバイブルトークリーダーに書き残した罪を告白しました。彼女は仕方ない、あなたのバプテスマは有効だったと言ってくれました。

ここまで私の体験を書き出してみて、不思議なことがたくさんあります。まず、なぜこの教会こそが唯一光であると彼らが信じているのか、それは大変な傲慢ではないか、人間が「光」と「闇」の境界を引けるのでしょうか? またなぜすべての罪を書き出さなければならなかったのか、それは人権侵害ではなかったのか、今はそんな風に思っています。

3.東京キリストの教会での活動内容と脱会した理由

バプテスマを受けすぐに、私のディサイプラーになる女性をバイブルトークリーダーから紹介されました。 ディサイプラーとは信仰生活を送る上で「師」となり、パートナーとなる人を言います。 私のディサイプラーは私を教会に誘い、聖書の勉強につきあってくれた人でした。 そして毎日ディサイプラーにその日の出来事を電話するように、何か問題があったらその人に相談するようにと言われました。ディサイプラーにはまたそのディサイプラーが、その上にはバイブルトークリーダーがといったように、教会はピラミッドのように組織されていました。

バプテスマを受けてしばら経ったある日、私は「教会に来るように」とバイブルトークリーダーに呼び出されました。気楽な気持ちで行った私に、彼女は厳しく私の弱点を指摘しました。「あなたは非常に『independent』である。もっとディサイプラーに相談してから、行動に移すべきだ」と使徒言行録2章43節から47節(初代教会の信者の生活)、コリントの使徒への手紙1・11章1節(わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもわたしに倣う者となりなさい)という聖書の箇所を見せられて、私も1世紀の教会のクリスチャンのように「毎日」交わりを持ち、ティモテがパウロに従ったように信仰の師に「倣う」ようになるべきだと言われました。「倣う」ということはその人の信仰だけではなく、時に「話し方」や「行動」も真似することだと言われました。一瞬クリスチャンになる前に図書館で見かけた、ボストン教会をディサイプリングチャーチと表現されていた本を思い出しましたが、「聖書に書いてあるのだから」と言われてしまえばそれに逆らうようなことはできません。私は彼女たちに「毎日電話または会う」こと、「自分一人で決めて行動に移さない」 ことを約束しました。そしてディサイプラーや私より信仰の強いクリスチャンは次々と厳しい指示を私 に与えるようになりました。

その指示とは次のようなものでした。

・クリスチャンになる前に英検2級の一次試験に受かっていたが、二次試験が日曜日に行われるため(つまり礼拝の出席ができなくなるために)、受験しない方が良い。
・内定が決まっていた企業の、新入社員研修(泊まりがけ、日曜日をはさむ)に出席する際には、礼拝に行けるように人事担当者に頼んでみるように指示された。

・会社の飲み会には出席しないように、どうしても出席しなければならないのならお酒を決して飲んではならない。

・上司にタバコを買ってくるように頼まれたら断ること。また宴会でお酒を決して注いではいけない。

・霊的ではないテレビを見たり雑誌を買わないように。

・クリスチャンと過ごす時間を最優先にし、悪魔の誘惑になる会社の同僚、家族、友人達とは「伝道」の目的以外で会わないほうが良い。

こうした命令に従うことで、私は会社や地域社会から孤立していきました。遠く離れた親は、電話するたびに激怒し、時に涙ぐんでいました。しかしこれらのこともキリストの弟子となるために必要なことと自分に強く言い聞かせました。いつの間にか私は日常生活を営む上で人に相談することなく行動を決定することができなくなりました。(脱会後は一番これに悩まされました。 自分で何かを決める時とても不安になるのです。 本当にこれでいいのか、と。)そして罪を犯さないようにと心砕く毎日を過ごすことになりました。教会にいた頃の私は毎日ディサイプラーに電話をかけ、週2回の教会ミーティング、週一回のバイブルトーク、週末の余暇活動、礼拝出席と忙しい日々を2年間過ごしました。1人で暮らしていたワンルームマンションにはアメリカから帰国した姉妹がやってきて、一緒に暮らすことになりました。その後はより「信仰の強い」姉妹と暮らすために杉並の3DKのマンションに引っ越しました。その3DKのマンションでは私を含めて4人(多い時には6人)の姉妹が生活していました。初代教会の人々が「すべてを共有していた」ことに「倣い」、私達は食物・光熱費・洋服・住居・毎朝の祈り、すべてを共有しました。しかしその頃、一般企業に就職したばかりの私は慣れない仕事で家に帰ってくる頃にはくたくたになっていました。しかし帰宅すればいつもそこにはクリスチャンや勉強中のノンクリスチャンが3,4人いて、1人のスペースはありませんでした。教会活動・伝道活動のために帰宅するのは10時11時でした。朝7時半には出勤しなければならないのに、朝6時半頃には眠い目をこすりながら共に暮らしていた姉妹と朝の祈りを持ちました。 それは私にとって「喜び」ではなく「ルール」でした。また批判・非難されたら困ると思っていました。くたくたでした。毎日「思い切り寝てみたい」と思っていました。私も会社の同僚と同じように遊んだり、恋愛してみたいと思いました。しかしそれを思うことが私の罪なのだと思いました。

学生から会社員になって1年程した頃、私はスランプに陥っていました。(一年間は学生でしたし、時に「新婚生活」「ハネムーン」と表現されるように教会員としての責任もなく、ちやほやされました)彼らのことばで言う「struggle」していました。私は「伝道」が得意ではありませんでした。 東京キリストの教会の伝道とは出会った人すべてに言葉を掛けるというものでした。電車の中で隣に座った人、コンビニの店員、タクシーの運転手、もちろん家族、友人、会社の同僚、私の周りにいるすべての人にキリストの言葉を述べ伝えるように言われていました。私はそれがとても苦痛でした。人の顔色が気になるのです。電車で何人かの人達に声をかけてみましたが、当然怪訝な顔をされてしまいます。そのことで傷つくのがイヤでした。そして次第に電車に乗ることが苦痛になりました。特に他のクリスチャンの人と電車に乗るのがイヤでした。また「伝道していない」と指摘されるのではないか、と内心ビクビクしていました。特に毎日顔を合わす会社の人には伝道したくありませんでした。噂になると怖いと思ったのです。私はなんて罪深いのだろうと思っていました。私と同じ頃クリスチャンになった友人は次々と弟子を増やしていくのに私はこんな感じでしたから、全く弟子を持つことができませんでした。つまり私と同じ頃クリスチャンになった友人、または私より若いクリスチャンがバイブルトークリーダーになったり、「出世」していくのに、私はいつまでもただのクリスチャンに過ぎなかったのです。見た目がかわいい、社会的にすばらしい職業を持っている、英語が話せる、「ガイジン」(悲しいことですが)「身体障害者」という人々をリーダー達は持ち上げました。 ミーティングで「○○さんはこんなにすばらしい働きをした、アーメン!」とリーダーが言う度に、何もしていない自分が恥ずかしい気持ちになりました。 しかしその反面、これは何かおかしいのではないか、と思う冷静な自分もいました。ディサイプラーやリーダーは私に期待していないことが分かりました。私には利用価値がない、そう思われていたことが、何となく伝わりました。私は教会にいてもダメな、人に必要とされない人間なんだ、だったらなぜこんな苦しい思いをしてまでもここにいる必要があるのだろうか、ある初夏の日にふとそんなことを思いました。もう電車に乗っても緊張しなくてもすむ、私も普通のOLとして楽しい生活を送れるのかもしれない、どうせ地獄に行くならば(このまま教会にいてもどうせ私のような働きが少ないクリスチャンは神様から切り落とされるだろうし)この世の楽しいこと貪って生きた方が良いのではないか、と思いました。自分だけはこの教会の兄弟と結婚して死ぬまでこの正しい教会にいるのだと思っていたことも、もうどうでも良いような気がしてきて、ある日教会をやめることを決めました。誰にも相談しませんでした。相談しても必ず反対され、ひどい目に遭うことは2年間の教会生活でイヤと言うほど見ていましたから。

ある日曜日、共に暮らしていた姉妹達が教会に行ったのを確認して私は急いで荷物をまとめました。 机や椅子といった大きな荷物はあきらめて、とりあえず当面必要な荷物だけを紙袋に入れて、急いで逃げました。私にはどこにも行くところがありませんでした。昔の友人は「しつこい伝道」のために私から去っていきました。ホテルやアパートを借りるほどのお金はありませんでした。仕方なく嫌っていた弟のアパートに転がり込みました。私が教会から逃げ出してきたことを弟から聞いた両親は泣いていました。

「ごめんね、姉妹達。ごめんなさい、神様」と思いましたが、なぜか教会に戻ろうとは思いませんでした。 それより毎日好きなだけ寝られること、同僚と会社の帰りにお茶できること、自分の稼いだお金を好きなように使えることただそれだけが嬉しかった。地獄に行ってもいいや、どうせ他の人も一緒だし、そう思いました。そしてその後ボロボロになった聖書と兄弟姉妹の電話番号ばかりのアドレス帳、聖書を勉強した時のノート、逃げ出したとき部屋に置いてあった姉妹からの手紙などを燃やしました。私は自由になりました。教会にいた2年間は10年にも20年にも感じました。しかし本当の意味で「自由」にはなりませんでした。その後長い間抑うつと罪悪感と戦うこととなるのです。

4.脱会後のわたし

教会をやめてしばらく東京でOLをしていました。恋愛をしたり、旅行をしたり、飲み会に出席したり、好きなことを始めました。しかしいつもそこには「罪悪感」と「その場から浮いている自分」を感じました。その場が楽しめないのです。こんな私を見て神様は泣いている、と思いました。そして会社にいても、家に帰っても訳もなく涙が出る日々が続きました。こんなこと誰にも相談できませんでした。 言えば馬鹿にされると思いました。この世でたった1人だと思いました。何か悪いことが起これば「自分が教会から離れてしまったせいだ」と思いました。

日曜日が恐怖になりました。過食症にも陥りました。アルコールはあまり飲めなかったので、タバコに頼る日々が続きました。孤独でした。東京にいればいつ教会の兄弟姉妹に会ってしまうかわからない、故郷に帰ればこの孤独感や罪悪感から解放されるかもしれない、そう思って故郷に帰ることにしました。両親は喜んでいました。故郷に帰った私は何も変わりませんでした。 かえって孤独になりました。そして両親からの過干渉や地方の独特の文化が私をさらに苦しめました。私は狂いそうでした。 かえって狂っていた方が気がらくだったでしょう。狂えなかった私を救ってくれたのが今の夫でした。彼には結婚するまでこの教会にいたことを話せませんでした。またちょうどその頃一緒にクリスチャンになった友人から電話がきました。「私も1年程前に教会をやめた」という言葉を聞いて心からホッとしました。そのことをきっかけにして教会をやめた人々と連絡をとるようになりました。約2年間悩まされていた罪悪感や孤独感からやっと解放されたのです。そして私が教会をやめた後、一緒に暮らしていた姉妹の1人が私を「わがままだったからやめたのだ」と言っていたことを聞き、愕然としました。やっぱり私は彼らから裁かれていたのだ思いました。またちょうどその頃「マインドコントロールの恐怖」(ステーヴン・ハッサン著・恒友出版)が出版され、その本にボストンムーブメントのことが書かれていたのも大きな救いとなりました。自分は悪くなかった、あの集団が悪かったのだと知ったときは驚きました。こうして長年苦しんできたマインドコントロールから解放されたのでした。

解放された、と言ってもそれは本当の意味での「解放」ではなかったことを知ったのはそれから何年も経ってからです。もしかしたら未だに「解放」されていないかもしれません。(あの教会が間違っているということは収集した資料を読み、確信を得ることができました。)

現在は色々あってプロテスタントの教会に通っています。「普通」の教会です。具合が悪くて欠席しても誰からも咎められません。誰も私の信仰や生活に干渉してきません。それが物足りないような気がすること、聖書を読んでいると時々無性に罪悪感に苦しまされることがあるということはあの教会からの影響が残っていると言っていいのでしょう。

しかし今は心から神の恵みを感じています。神様は「愛」です。繰り返しますが神は「愛」なのです。 
罪を犯すことも恐れていません。 それが私達人間なのだから。イエスキリストは肉となり誰よりも私達の弱さに共感してくれ、憐れんでくれたのです。私は今自分のあるがままの姿を神に差し出すことにしました。私は罪と病を持つ「人間」です。それ以上でもそれ以下でもないのです。だからこそイエスキリストが十字架にかかって下さったのです。それゆえ私は罪と病から解放されたのです。私は自分を裁くことをやめました。それは傲慢であるからです。私のはらわたや髪の毛の数までご存知である神の前で私は一つも隠すことができないのです。私は本当に無力な肉を持つ人間です。何一つ自分の意志で変えることはできません。神様どうかあなたの力で私と私の心を変えてください。私がほかの人や自分自身を裁くことをあなたの力で止めさせてください。私の罪や病を憐れんでください。
  あなたが私を造ったのです。あなたにできないことはありません。それを信じます。どうか早く来て、私を救ってください。神様、私は本当に無力な人間です。あなたのおっしゃる通りにいたします。どうかその道を愚かな私にも分かるように知らせてください。私はその知らせを待ち望みます。あなたが「愛」であることを私は今心から感じています。その確信が私の中で成長しますように助けてください。

最近聖書の書かれた歴史的背景を牧師と共に学んでいます。私はあの二年間の「神様中心の生活」で一体何をしてしていたんだろう、と思うほど、そのような知識を持っていないことに気がつきます。歴史的背景を学ぶことで、今まで疑問に思っていたこと、罪悪に考えていたことがすべて解決しつつあることに驚いています。

私が東京キリストの教会から逃げ出してもう8年が経とうとしています。(記憶が古いため、うまく文章を紡ぐことができなかったことをお許しください)あの日々は決して無駄な経験ではなかった、と今は思っています。すべては神様が益になさってくださったと思っています。しかし今あの教会にいて、とても苦しい(自分では分からないかもしれないけど)日々を送っている兄弟姉妹を思うととてもつらいです。教会をやめて今より苦しむことはないのです。教えられているようにやめたからと言って「死ぬ」ことも「レイプ」されることもありません。さらに神様はみんなを祝福してくださいます。このつたない文章が何かの役に立つことを祈って。

ガラテヤの信徒への手紙1章10節

「こんなことを行って、今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。 あるいは何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。 もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」

エフェソの信徒への手紙2章14節〜17節

実にキリストはわたしたちの平和であります。2つのものを1つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において1人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一 つの身体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

1977年秋 記

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