Fさんの経験談
私は電車の中で,東京キリストの教会(TCC)のメンバーに声を掛けられました.彼女は,とてもきれいな方でした.当時私は,壁にあたり,人生の意味がわからず苦しんでいる毎日でした.知らない人に声を掛けられて,教会に行くなんて,と両親は疑っていましたが,私は英語の勉強をもっとしたいこともあって,アメリカ人がたくさんいるからどうぞ,という言葉に魅せられたのと,悩みが教会で解決されるかもしれないという思いで,この教会に行きました.
少し不安もありましたが,教会名は,普通っぽいし,会堂も立派だし,たくさん人もいるし...と不安が消えました.そして同じ年齢層の多くの女性を紹介され,彼女たちは私にとてもやさしくしてくれました.私のもっている悩みを初めて真剣に聞いてくれる人がいた!とうれしくなりました.礼拝後,食事に誘われ,その週の平日にバイブルスタディをしようと言われました.正直言って面倒くさく,そんなに突然私にコミットするなんて...と思いましたが、彼女たちは「何時まででも待ってるよ」といってくれ,ちょっと感動して,私は行くことにしました.こうして私は,TCCのグループの一つに関わることになります.
それから,少しづつ,少しづつ彼らとの時間が増えていきます.(これがすごくシステマティックだと思います)一緒に映画を見に行ったり,牧師の家に泊りに行ったり,毎朝祈りを電話でするようになりました.聖書の学びもTCCの姉妹の家で行われ,楽しいものでした.
しかし,「罪」の箇所を学ぶところから,それまでとてもやさしかった彼らの態度が変わりました.それぞれが罪を告白しました.私もしました.私は,普通の人が言えない罪を皆が堂々と言い表していることに感動しました.私も告白しました.そして次に彼らに会ったとき,「あなたはその罪を本当に悪いと思っていない.くだかれていない」と私を責めるようになりました.
責められるのはとても辛いことでした.この2ヶ月の間に,毎日会っていたので親しくなっていた彼らに責められるのは悲しかったのです.そして,「本当に悔い改めていない私」に対して,泣きながら責める彼らに罪悪感を抱いていました.結局,その状況から抜け出すのは,バプテスマを受けるしかないと思いました.私は神様を心に受け入れ,信じたことの証として洗礼をうけるのではなく,そのグループの人々や牧師達を喜ばせるために,一人前と認めてもらうために洗礼を受けようとしていたのです.でも当時の私は,本当に神様を信じていると思っていたのです.
両親はこの教会に私が行っていることにずっと反対していました.両親は,キリスト教に反対なのではなく,彼らとの時間の過ごし方が異常だと思っていました.私は,両親に次の日曜日洗礼を受けたいと言いました.両親にずっと大切に育ててもらってきましたから,受け入れてもらいたかったのです.しかし,両親は怒り,そんなことをするなら絶縁するとまで言いましたが,私には彼らの声が心に届かなかったのです.両親は神様を知らないからだと思いましたし,TCCには親と連絡をずっと取っていない人がたくさんいて,それが美談にもなっていたのです.当時はTCCの問題性がわかっていませんでした。
しかし、ある人から「何で洗礼を急ぐの?」と問われ,だんだん神様のためではなく,TCCの人々を喜ばせたいのだ...とわかってきたのです.それまで,心の奥にありながら,考えないようにしていた疑問が一気に出てきたのです.神様は洗礼を待っていて下さる,大切なのは神様と私との関係なんだ...と思えてきたのです.そして,アメリカに住むクリスチャンの方から,TCCが問題になっていると聞いたのです.私はグループのメンバーに電話をし,洗礼を受けないこと,TCCに行かないと告げました.何度かその後の一週間電話があったようですが,不思議と神様によって助けられ,話す機会がありませんでした.
その後,安心できる教会を紹介され,神様に救われたのです.そこでは,弱い私をそのまま受け入れてくれる温かさがありました.あのまま,TCCにいたら,私は神様と個人的な関係を築くことはできなかったでしょう.ただ他の人々の目を恐れ,他の人々を喜ばせるために生きていたでしょう.私がこの教会と関わりを持った期間はほんの数ヶ月でしたが,それでも今でも恐れがあるのですから,長くいた方の傷はどんなに深いでしょう.本当にTCCの方も含めて,全ての方が神様に救われることを祈ります.
1998年10月4日記