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1 メンバーとの聖書の勉強

友人の誘いでこの教会に何度か足を運ぶうちに、メンバーとの聖書の勉強が始まりました。勉強の際には、メンバーから、その時学んだテーマについて、「あなたはどう思うか」「あなたはどんな経験があるか」「あなたはどう実践したか」等々聞かれます。最初のうちは、これが精神的な負担でした。しかし、彼らの熱心さ、真剣さに触れるうち、自分が内心そんな気持ちでいること自体を申し訳なく思うようになりました。しばらくすると、メンバーからかわるがわる電話がかかり、朝や晩に一緒にお祈りをするようになりました。

勉強の内容については、自分の知りたいことと、教えられていることについてのギャップを感じていました。たとえば、イエス・キリストの復活を学んだ時には、いろんな人から「復活を信じるか」と聞かれます。よくわからないと答えると、「事実があったかどうかの話をしているのだから、答えはYESかNOかしかない」と言われ、その割り切り方、ゆっくり考える間も与えられず即座に答えを求められることに違和感を覚えました。「イエスの弟子になる」という話についてもあまりピンときませんでした。でも、このような漠然とした違和感や疑問も、勉強が進んでくれば分かるだろう、とその時点では深く追求しようと思わなかったのです。勉強の合間の雑談や会食を通じて、メンバーたちとの間の人間関係ができていたため、彼らの言うことを信頼しようという気持ちが無意識に働いていたのかもしれません。

2 バプテスマを受けるまで

勉強がだいぶ進んだある日、深夜にメンバーから、「明日は大事な勉強があるからこの教会に必ず来るように」と、電話がかかってきました。その強引なやり方に戸惑い、既に別の予定もあったため、素直に従うことには非常に抵抗を覚えました。翌日、悩んだ末に出かけたところ、昨夜とはうってかわって非常に優しく温かく迎えられ、びっくりすると同時にその優しさに感動してしまったのです。

今思えば、これ以後、この教会やその教えについて自分自身で考えることを放棄してしまったようです。木曜日の学び会、日曜日の礼拝以外にも集りがあることを知ったのはその頃です。なぜ最初にその話がなかったのだろう、変だな、と思いつつも、それ以上考えなくなっていました。また、メンバーからも、物事を自分一人で解決しようとしたり、判断しようとしたりすることは良くないことである、と教えられていました。「神様を第一にする」「聖書を基準する」ことが必要であり、そのために何か迷うことがあったら、教会のメンバーに相談するようにと言われたのです。

それから程なくバプテスマを受けました。バプテスマ直前の1週間はほぼ毎日メンバーと会っていたように思います。仕事を終えてから夜の11時ころまで、連日かなりハードなスケジュールでした。しかし、メンバーから「仕事や勉強で忙しいときに必死で聖書の勉強した」という話を聞かされたり、「学ぶにはタイミングがある。もう2度とチャンスは来ないかもかもしれない」と説得されたりするなかで、すっかり乗せられていました。(その時ですら、タイミングがあるという話には納得していなかったにもかかわらず!)

メンバーは、よく「(この教会の)クリスチャンになったことによって与えられたこと」を話します。その中身は、「通っていた大学のある町にこの教会がないので、大学をやめたところ、もっとランクのいい大学に合格できた」とか、「この教会のある町に引っ越そうと仕事を辞めようとしたら、もっと給料のいい仕事の口がみつかった」といったものです。信仰によって与えられたものについて世俗的な基準で評価するのは、この教会の、「霊的な(世俗的でないという意味)基準でものを考えるように」との教えと矛盾しているのではないか、と疑問に思ったこともありました。でも、これもこの教会に人を勧誘するための一つのやり方なのだろうと、納得していたのです。

闇、光といった勉強を終えた後、この教会が唯一の正しい教会だと教えられました。その時点では、既に自分でも漠然とそのように感じるようになっており、迷いなくその教えを受け入れていました。この教会に出会えてよかったとまで思いました。唯一正しいこの教会でなければ救われないと聞かされますが、そのことにも疑問を感じなくなっていました。メンバーからは、「神様の考えることで人間にはわからないことはたくさんある、この教会と出会うチャンスのなかった人たちが救われないという理由も、人間には説明できないのだ。」と聞かされました。

バプテスマの直前には、次のような決断を迫られました。「伝道のために、国内の僻地や、途上国に行くようにと言われた場合、どうするか。」、「この教会の人としか結婚してはいけないが決心しているか。」等々。その前の勉強で、光(この教会の教えに従って生きること)と闇(この教会から離れた場合に起きること)についての話を聞いていて、「光か闇か」と決断を迫られるのですから「光を選ぶ」と答えざるをえません。早くこの教会のメンバーになりたい、とりあえず答えておいて、実際に決断が迫られたときにまた考えよう、という気持ちも働いていました。しかし、こうやって人前で宣言したことが、あとでいろいろな場面で意味をもってくるのです。(なお、この時に、信仰を持たせようと恐怖心を煽るのはおかしい、と違和感もあったのですが、それが宗教の本質かも、なんて自分なりに納得していたのです。)

3 メンバーになってから

こうしてバプテスマを受けたのですが、メンバーになってしばらくすると、次第に、それまで見えてなかったものが見えてきました。

たとえば、男性や学生の場合には、教会で夜を徹して聖書の勉強をしたり、仕事で忙しい人の場合には、ハウスホールド(メンバーが共同生活しているアパート)や牧師宅に泊り込んで夜や朝に勉強していること。メンバーの間にピラミッド状に組織化された上下関係があり、自分を監督指導する立場にあるメンバー(ディサイプラー)とは、日々コンタクトをとらなくてはならないこと。その結果、自分の言動について、直接話していないメンバーにまで詳細に伝わっていること。教会のメンバーの数や献金の額について具体的な目標を立て、その達成を非常に重視していること。この教会で「人を救う」とは、この教会に勧誘し、バプテスマを受けさせ、メンバーにすることであり、それが全てであること。メンバーの信仰の強さに対する評価の基準が、「人を救う」ことにどれだけ貢献したか、つまりどれだけたくさんの人をこの教会に勧誘し、バプテスマを受けさせ、ディサイプルし続けているか、であること。伝道の際に救う人を選ぶ際の基準が、真に心の救済を必要としている人、ではなく、外見のよい人、学校や社会で活躍している人(この教会では「シャープな人」「インパクトのある人」と表現します)であること・・・・。

このようなことを疑問に思うたびに、メンバーは私のその心理状態をすばやく察知し、私を励まそうとします。「これは神様の与えた試練である」「あなたの信仰が試されている」等々。そして、疑問に思ったことは何でもメンバーに相談するように言われました。自分ひとりでゆっくり考える暇も与えられず、話の最後には、必ず「バプテスマを受ける前に確かめたでしょう。光と闇とどちらを選ぶの」と問い詰められます。結局、この教会の教えややり方に従いなさい、とプレッシャーをかけられていたのでした。

4 この教会をやめて、今思うこと

私がこの教会を知ってからやめるまでの期間は1年にも満たず、内部の詳しいことがわかっているわけではありません。しかし、私が離れてから感じたこの教会への疑問について述べてみたいと思います。

私が聖書の勉強をはじめようと思ったそもそもの動機は、聖書に書かれたいろいろな記述の根底にある本質的なメッセージを知りたい、というものでした。しかし、この教会の勉強では、その疑問に対する十分な答えが与えられないままに、気が付いたらバプテスマを受けざるを得ないような状況に立たされていたのです。それは、この教会の聖書の勉強が、バプテスマを受ける(この教会のメンバーになる)ことをゴールとしてマニュアル化され、集中的に行われていることの結果であるように思います。上に書いたように勉強中にもいくつかの疑問が生じていたにもかかわらず、集中的に教え込まれるなかでそれらをよく考える時間もありませんでした。この教会のメンバーは、「聖書を土台にしている」「神様を第一にする」という言葉を多用します。しかし、その聖書全体を自分の目で十分に読む時間も与えられないまま、すでにマニュアル化された教えを詰め込まれ、気が付くと聖書ではなく「この教会の教えに従う」、「この教会を第一にする」という決意を心理的に強制させられてしまうのです。

この教会をやめてから、統一協会などいわゆるカルトといわれる宗教の問題点とされる「マインドコントロール」についての本を読む機会がありました。もちろん、これらのカルトとこの教会の教義も手法も違います。しかし、本質的には同じであると感じました。物事を断定的に判断すること、短期間に集中的に教義を教え込まれること、メンバーとの心情的な一体感を重視すること、自分で考えることや行動することを放棄するように教え込まれること、正しいことをしているがゆえに既存の宗教から迫害されていると教えられること、この教会に反対する親には口答えせず、親に奉仕するように指導されること、といった点はまさに共通のものです。この教会のメンバー一人一人は、真面目で純粋な人が多いと感じました。でも、その純粋な気持ちが、神様のためと称して知らぬ間に組織のために利用されているのかと思うと、心が痛みます。

1999年8月20日記

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