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東京キリストの教会(TCC)脱会手記

 

私はTCCに「弟子」として約1年間いた。最初の頃は「真理」を知り、今までのすべての罪が許された喜び、将来に対する希望、たくさんの兄弟姉妹、人の魂を救うという生きがいなどを得て心から喜ぶことができた。けれど次第に作り笑顔ばかりがうまくなり、心も身体も休まることはなくなっていった。TCCの何が人を苦しめるのか、何が危険なのかを具体的に挙げてみたい。

 

過酷なスケジュール

 

信者になる前の聖書の勉強段階ではあまり知らされないが(教会にとって都合の悪い情報は教えない)、実際に信者として中に入ってみるとTCCのスケジュールはかなりハードだ。月曜日から日曜日まで、毎日細かく集会やイベントや伝道(11秒を惜しんであらゆる場所で人を教会に誘う)、これから信者になる人の聖書の勉強(連日深夜にまで及ぶこともある)などのスケジュールが決められている。しかも、それは自由参加ではない。絶対に参加しなければならない。「強制ではない。でも、神様を愛していれば当然やりたいと思うはず」という言葉で事実上強制され、「自分の時間がほしいなんて自己中心の罪だ」「御国(教会)を一番にしなければならない」と言って責められる。たとえ疑問を感じても、最後には「自分の方がいけないのだ。悔い改めて変わらなければ」と思わざるをえない。みんな神様を信じて、愛して、良い業を行いたい、愛深い人になりたい、と思って洗礼を受けて信者になるので、「それは愛がない」「神様が悲しむ」などと言われたら(人間がそんなことを言って人を裁くこと自体おかしいのだが)もう反論できなくなってしまう。いちばん痛いところをついてくるのである。お目つけ役である「ディサイプラー」に毎日電話で行動や心理状態を細かくチェックされ、「教育」される。倒れないかぎり休めない、いや、倒れても休めない。私も何度も体調を崩し、それでも這うようにして教会まで行ったものだ。集まりを無断で休もうものなら1日に5本も10本も電話がかかり、具合が悪くて伝道に行けなければ「ゆっくり休んでね。でも家でも伝道できるから」と言って電話や手紙で友達を教会に誘うように言われる。仕事で遅くなろうが具合が悪かろうが、「10分でもいいから来て」と集まりに呼ばれる。信者はみんな純粋で善良で悪気はないので余計にたちが悪い。ただ神様を愛するがゆえにやっていることなのだ。みんな親切にしてくれ、心を尽くして愛してくれる。だから断れない。情に流される。真綿で首を絞められるようなものである。過酷なスケジュールに加えて必然的に外食が多くなり食生活も不規則になり(断食も頻繁にある)、忙しいのでみんな睡眠不足で疲れている。それなのに「いつも笑顔で人に与えなさい」「喜びなさい」と言われているので、張り付いたような笑顔をして目を輝かせている。扇動され、ハイテンションになることでかろうじてもっている。それは喜びとは違う。教会に行くと確かに活気があって励まされるが、癒されない。しかも、本人自身が精神的にも肉体的にも多大なストレスを受け続けていることに気づかないところが恐い。本人は喜んでやっていると思い込もうとする。そうしてなかば無意識のうちに身体も心も蝕まれ、家族や信者以外の友達との関係が壊れ、「教会」が人生のすべてになる。

 

全体主義

 

TCCでは、みんなが同じスケジュールに沿って生活し、同じ思考を持ち、同じ表情をして同じように生きることを要求される。そして、それに従えない者(教会から離れる者)は地獄に落ちると考えられている。TCCは唯一の正しい教会だから、たとえ他の教会で洗礼を受けても救われないと教えられる。その全体主義的傾向と独善性が問題だ。TCCに属していると自分の時間、自分の人生、自由、プライバシーがなくなる。以前はいろいろ趣味があったけど信者になってから時間がとれないとか、教会の活動のために仕事をやめたり夢を捨てたりして、自分が完全に無になる。それが美徳とされる。聖書には、聖書を土台にして生きなさいと書いてあるが、TCCの信者には土台しかない。土台を造るのに一生懸命で、誰もその上に自分の人生を築いていない。教会にとってよいこと、教会をアピールすることしか言わないので表面的で偽善的になり、みんな同じ事しか言わない。信者が若い知識層に偏っているのも特徴だ(伝道の対象にするのもそういう人が多い。教会のイメージをアップさせる人、伝道に使える人を求めてしまう)。信者になるとみな次第に話し方や祈り方まで似てくる。個性をなくしていく。神様は私たちがそんなふうにロボットのように働き、プログラムに組み込まれたように伝道して人を救っていくことを望んでいるだろうか。教会でしているように、シャープな人(知識層、エリート)やオープンな人(初対面でも警戒せずにフレンドリーに応対してくれる人)ばかりを選んで伝道することを喜ばれるだろうか。本当に救いが必要なのは、シャープでもオープンでもない人ではないだろうか。それに、彼らがよかれと思ってやっている伝道方法や、人に好印象を与える(はずの)笑顔や態度が必ずしもすべての人に通用する訳ではない。それは逆に人を不快にさせることも、神様から遠ざけてしまうことも多々ある。確かにTCCによる激しい伝道によって多くの人が聖書を知り、洗礼を受けている。それは素晴らしいことかもしれない。しかし、他方でそれと同じぐらいたくさんの人を傷つけ、苦しめ、真理から遠ざけ、信者の家族が崩壊している。人の救いに正しい方法などないはずだ。イエスはそんな一律的な方法で人を救いはしなかった。救いとは、信仰とは、そんなに形式的で狭いものではないはずだ。

 

無償の愛とは

 

イエスが説いた愛とは、端的に言えば「無償の愛」である。しかし、今思うとTCCでは「無償の愛」がオトリになっているような気がするのだ。信者たちはイエスの愛を伝えよう、示そう、と一生懸命にビジター(教会に来た人)を歓迎し、親切にし、愛する。その人のためになんでもする。いざとなったら命さえも捨てるだろう(外からはわからないかもしれないが、TCCの教えはそれほど極端で厳格なのだ)。その愛を受けて多くの人が感動し、教会に通い出す。しかし、なぜその愛の見返りとして「TCCのメンバーになること」「みんなと同じように激しく伝道すること」が要求されるのだろう。それは「無償の」愛とは言わないのではないか。マザー・テレサは貧者や病人を救済したが、その際、他宗教の信者に改宗を迫ったりせずに、亡くなったときはその人の宗教に従った方式で埋葬してあげたという。そしてそういう人々をみな「神の子」と呼び、「天国へ送った」と言ったそうだ。「他の宗教や宗派では救われない。世界中すべての人がTCCのメンバーにならないといけない」「TCCのスケジュールに従って生きないと救われない」なんて、なんと狭い考えだろう。なんと小さな神様を造り上げてしまっていることか。自分と違う相手を受け入れることも愛ではないか。他人の主義や文化を尊重することも愛ではないか。TCCでは人の気持ちや都合も顧みず、自分たちが愛だと思い込んでいるものを押し付けているような気がしてならない。人をひきつけて信者の数を増やすために愛を誇示しているように思えてならない。

 

正常な判断力の喪失

 

TCCではよく「素晴らしい」という言葉を使って人を誉める。これは、優れた信仰を持っている、霊的に強い、という意味で使われる。けれど、この言葉には大きな落とし穴がある。そもそも罪人である人間が、他人の信仰を外から見て優れているとか弱いとか、批判するのはおかしくはないだろうか。信仰というものはもっと個人的な内的なもので、他人がとやかく言える事ではないのではないか。そのように互いの霊的さを奨励しあうことでTCCの人達は既にこの世で報いを受けているのではないか。霊的である人ほど認められ、持ち上げられる。多くの人を教会に連れて来れば来るほど誉められ、アシスタントやリーダーに昇格できる。だからみんな頑張る。このようなシステムの中にいると、何か行動を起こすとき、人に認められたいという心理が嫌でも働くのではないか。大体「素晴らしい」って何だろう。TCCでしているように、親が泣いて止めようが悲しもうが、「迫害だ」と言って親をないがしろにして教会を優先すること、それは素晴らしいことだろうか。そんな人を見て誰がクリスチャンになりたいと思うだろうか。信者たちの行動は時として非常に常軌を逸している。それがTCCでは情熱の現れ、愛深さの現れ、そこまでして初めてイエスの愛が伝わる、と肯定される。夜中に突然人の家を訪ねること。執拗に駅で待ち伏せすること。早朝や深夜に電話すること。キャッチセールスのような押し付けがましい伝道をすること。友達をしつこく教会に誘うこと。忙しいからと新聞を読まずテレビも見ず、世の中の動きを何も知らないこと・・・世の中の事を知らずに世の人を救えるだろうか。神様が造られたこの世界で何が起きているかを見ないでいいのだろうか。病気で会社を休んでおきながら教会の集まりには頑張って出掛けること。いくら神様が一番だからと説明しても、会社の人が見たら信用をなくすだろう。他にも挙げたらきりがない。TCCで「素晴らしい」と言われていることは、実は世の中では素晴らしくも何ともない。むしろ逆につまづきになっている。「クリスチャンは常識がない」と思われても仕方ない。世の人からも尊敬されるような生き方をしなさいとは聖書にも書いてある(Iペトロ212-15)。礼を失さないのも愛だ(Iコリント135)。しかし、教会の内部にいると次第に冷静で客観的な判断ができなくなる。外部の人はみな「闇の世界の人」であり、彼らの言うことは「迫害だ」「サタンだ」と一蹴して耳を貸さなくなる。自分たちが正しいのだ、この教会が正しいのだ、他の教会はなまぬるい、という思い上がりも恐ろしいが、教会を離れたら自分は地獄に落ちてしまうという恐怖から、たとえ教会のやり方がおかしいと感じても従わざるを得なくなるところも恐い。こうなったらもう信仰でも愛でもない。

 

TCCをやめた今、私はとても自由だ。TCCにいたときと違って、教会に通うことも聖書を読むことも強制されないのでやめようと思えばいつでもやめられる。監視してくれるお目つけ役もいないので罪を犯そうと思えば犯せる。けれど、それでも私は神様に従って生きたい、もっと知りたい、愛したいと思う。聖書を土台にして「自分の人生」を歩みたいと思う。これからはもっと自由に、もっと大きな神様を知っていけると思うと本当にうれしい。

2000910日記

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