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Uさんの手記

 僕はTCCでの聖書のスタディを、No.7の「闇」を越え、次のNo.8の「救いの計画」にさしかかる程度まで進んで離れた者です。

 友達が入信した事を知り、どんな所に入ったのかという興味から、誘われるがままに礼拝に参加した事が切っ掛けでした。実際に参加してみると、アメリカナイズされた熱気があって、既存のイメージの神妙な静寂さとの対象性に驚きました。皆、オープンで気さくな感じだったのですが、全体的な雰囲気に、どこか無理をしているような不自然さも感じました。その不自然さは、何回か出席するうちに精神的な苦痛になっていきました。心から出たハイテンションなノリには、僕も楽しい気分にさせられるのですが、無理に演じられたそれは不快です。

 聖書の勉強をしないかと誘われ、当時僕は何となく西洋の精神文化の土台であるキリスト教と聖書の知識を得たいという漠然とした願望があり、すんなりOKしました。後になって解ったのですが、僕の勉強を担当したのは友人が所属する学び会のリーダーでした。聖書についての知識は殆どなかったので、それを学ぶ事はとても新鮮でした。新しい発見もあり、それは今後も財産になっていく事でしょう。

 しかしその勉強と呼ばれるものは、僕が期待したものではありませんでした。僕は聖書の勉強を通じて、そこに真理があると感じたのであれば、クリスチャンになる道があっても良いとは考えていました。しかしそれは聖書のメッセージを深く学んでいく事をイメージしていた先での話で、TCCの教え込みマニュアルで一つのルートしか存在しないような勉強を想定していたわけではありません。TCCの勉強は聖書のメッセージを学ぶというよりも、むしろそれをTCCの解釈風に信じ込ませるだけのものでした。この件については、「バイブルスタディーテキスト」をご覧になれば理解できると思います。ほぼそのまま、勉強は進展していきました。

 ここで、勉強の過程について不可思議な部分に触れたいと思います。No.4「イエスの復活」の部分で、イエスの復活がなかったとするとどういうケースが考えられるかを問い、結論としてはこれは本当にあったとしか論理的にも考えられないという展開に持っていくのですが、これが支離滅裂です。「弟子達が驚いているから、弟子達の陰謀ではなかった」とか、「大勢の証人がいる中で、実際には死んでいなかったとは考えられない」とか、聖書の中の話だけで裏づけを取って解説をしています。そんな証明が論理的に許されるはずがありません。また、「集団で幻覚を見ていたのではないか?」という問いに対しては、「集団でそのような幻覚を見るなんて、常識的に考えられない」という回答が用意されていました。全知全能である神の子・イエスなのですから、そんな集団幻覚を見せるくらい可能なのではないかという疑問を投げかけてみたのですが、「いや、やはり常識的に考えられない」と突っぱねられてしまいました。イエスの復活を否定するような話の中では、途端にイエスの奇跡は常識的な範囲内に収まってしまうのだなと不思議に思ったのですが、今マニュアルの存在を知って考えてみると、マニュアルに用意された回答と異なる結論に至ってしまうわけにはいかなかったのでしょう。僕はマニュアルにない影武者説などを提唱してみました。勿論、反論・否定してきましたが、論理的に有り得る話として結論づいてしまった記憶があります。僕はその時に、「復活がなかったという話で辻褄を合わせようとしたら、いくらでもできてしまうのでこの勉強に意味があるとは思えない」と発言し、この話は終了しました。

 スタディーNo.5「神の言葉/聖書の勉強」で、聖書は人間の書いたものではなく神の書いたものであると信じ、それに従う決心をさせるのですが、これについても疑問です。そもそもこの決心は、イエスの十字架を信じた後に自然と湧き上がるものではないでしょうか。「この前提がなければ、勉強を進めても意味がない」と言われたので、僕は「そのように心がけて接するようにする」という意志を伝えました。

 No.7「闇」(罪のリストの作成)から、罪の勉強が始まります。ここからは、如何に自分が罪深い人間であったかを自覚させなければなりません。他の方の手記にもあるように、今まで好意的・肯定的であった彼らが、否定的に接してくるようになります。今まで些細な変化も「かなり変わってきたよ」「良くなったよ」と過剰に持ち上げてくる彼らだったのでしたが、「まったく変わっていない」「神様を一番にしていない」「醜い罪人なんだ」などと責め始めます。たぶん、言葉の暴力によって心を砕きにきたのでしょう。まるで自己啓発セミナーのようだなと思った印象が残っています。よく言われる罪のリストも作成しました。

 罪に砕かれるというのはよくよく聞いてみると、自責の念や衝撃で口も聞けなくなって震え出したり、激しく嗚咽するような状態を指すようでした。そういう人もいるでしょうが、イエスの求める悔い改めにそんな過程は必要条件であるとは思えません。ただ、神様とイエスの言葉を受け止め、信じ、その基準で正しく生きようとする志を求められるのではないでしょうか。これについて疑問を投げかけても、「砕かれなければ変わらない」「悔い改めるの、悔いはそういう事」と頑として譲りません。そういうものなのでしょうか。

 スタディー期間中に、さんざん自分を捨てて聖書に自分を委ねるように推奨されました。それが子供のような心なのだそうです。そうでなければ、天の国には入れないし、聖書も理解できないのだそうです。自分の頭で考える事を否定され、ただ無批判にTCCの教義を受け入れる事を強く要求されるのです。僕は何度も、「自分が強く出ている」と批判されました。また度々、彼らには真理を知っている神に選ばれた人間であるという意識から、高慢な態度が見受けられました。TCCの教義と異なるものに対して度々、露骨に侮蔑の感情を出してくるのです。リーダーであるフランクの説教からも、そんな感情が窺えます。内部にはそのような人間ではなく、謙虚さを正しく身に付けた人達も大勢いるという事は、誤解がないように書いておきます。

 また僕に聖書を教えたリーダーは、度々「聖霊をいただいているから気付くのだけれど」と前置きをして自分の意見を発言しておりました。これが出てきた後は、必ず僕に対して否定的な発言になります。彼は度々認識において誤解し、誤解に基づいて僕を批判しました。例えば聖書に従う生活ができているかと尋ねられた時に、僕が「Aは出来るけど、Bはこういう理由で難しい」と率直に状況を述べた時の事です。彼は「それは言い訳だ」と責めてきました。僕はBは今後の課題としてクリアしていかなければならないというニュアンスで発言しているのに、彼は正当化として捉えてしまったのです。僕が彼の認識を正しても、彼は納得いかなそうな表情で引き下がるだけで、軽い謝罪の言葉もありません。心の中では、自分の見解が正しいと信じている様子が窺えました。実はこの自信過剰さによって行われる弟子間での指導が、大きな問題を発生させているのではないかと思います。

 色々見ている内に、TCCは聖書に忠実に従う事を要求されるのではなく、TCC内の聖書解釈や行事に無批判に従う事を要求され、多大な献身を強いられる場所だと確信を持つに至りました。ビジターであったはずの僕ですが、何故か正当な理由なしにデボや礼拝、学び会に参加しない事が許されない強制力を感じました。ビジターでそうなのですから、入ったら尚更でしょう。身体が弱い人もハードワークを強いられ(神様を一番にするために自発的にそうするように誘導され)、慢性的な疲労や体調不良を抱えている人が多数見られます。

 個人個人は、聖書に感動してクリスチャンになろうと決意した人達なのですから、良い人柄の人物が多いように思えます。純朴な感じの人が、多くおりました。そのような人間の良心を刺激し、良心を満たす事を教会に献身する事に巧みにスリカエていくTCCのやり方には辟易とします。伝道活動の比重が強く、また献金の負担も非常に大きい。その彼らの良心は、教会が大きくなる事に使われているのです。

 幸い、僕は元々幸福でありました。だからTCCのおかしさに気づく事が出来たのだと思います。元々自分がいた状況によっては、TCCは素晴らしいものに見えるかもしれません。

 最後になりますが、リーダー単位の人達が一斉に海外に行く時がありました。出発2日前のデボではこれが大きなイベントとして牧師から語られ、「残された弟子にとっては心細い思いをする試練の時になるが、逆にチャンスだと思って頑張って欲しい。帰ってきたリーダーを驚かすくらい一人一人の弟子個人も学び会も成長した姿を見せて欲しい」といった内容が熱く語られていました。それに呼応して、場内は緊張した雰囲気に包まれていました。果たしてどれくらい長い期間なのかと隣の席の人間に尋ねてみたところ、わずか3日後には帰ってくると聞いて驚きました。デボ終了後、若い弟子の一人に「たったの3日で、そんなに不安なものなのか?」と尋ねたのですが、「その、たったの3日でも心細いんだよ」と本当に心細そうに回答してきます。少し会話を重ねてみると、それは「その間に何かあったらどうしよう……」といった感じの不安でした。他の弟子の様子を見てみても、デボ中の緊張した厳しい雰囲気を見てみても、どうやら同じように感じている弟子は珍しくないようでした。僕には、たった3日程度いなくなるだけで、何故そこまでになってしまうのか理解できませんでしたが、後にディサイプラー制度などの内情を知る事ができて、ようやく理解できました。弟子はリーダーの指導を生活全般に渡って受け、精神的にかなり依存してしまっているため、短期間離れるだけでもかなり不安になってしまうようです。学び会単位でのリーダーは、その学び会では男性は<お父さん>、女性は<お母さん>と呼ばれています。全ての学び会でそのように呼ばれているかどうかは、解りません。彼らにとっては、親が旅行に行ってしまって残される子供のような気持ちなのでしょう。20代の人間として、これはいくらなんでも異常だと感じました。

 教会内部の人間関係に強く依存心を持たせてしまうTCCでの信仰が、本当に正しいのでしょうか。他の部分も含めて、弟子や誘いを受けている人は、自分の頭で冷静に考えてみてください。

20021017日記

――後日談です。

 僕の聖書の勉強を担当していたリーダーに、僕はTCCで洗礼を受ける意志がない事を告げました。メールで「教会という接点はなくなってしまっても、絶交しようという意志があるわけではない。友人関係は継続したい」といった内容も同時期に伝えました。少なからず時間を共にし、色々と言葉を交わした仲です。僕も彼、そして彼らの多くに対して情を持つようになっていました。ところが、そのメールに対しては何の反応もありませんでした。まったくの無視です。聖書を勉強していた期間には、ベストフレンドとまで言っていたのにです。

 多少他の人の話などを見聞して、勉強を止めた途端に無視されるようになったというエピソードをいくつか記憶していたので、特には驚きませんでした。彼らにとって、結ぶ友情は洗礼を受けさせる前段階のステップに過ぎないのでしょう。洗礼を受けさせられないと彼らが諦めた瞬間に、友人関係も消滅したのです。出会った最初の頃は「クリスチャンになるつもりはないよ」と言っても、「別にそれは構わないよ。一緒に食事でもどうかなと思って」などと人懐っこく誘ってきたものでした。

 彼らには彼らの言い分もあるでしょうが、教団外との友人関係・友情の構築を、洗礼を受けさせるためのステップとして扱っている姿は、僕には不純に見えます。

 そういえば、信者向けの伝道マニュアルのようなもの(?)をチラっと読む機会があったのですが、そこには確かに伝道の入り口として《友人関係を構築する》といった記載がありました。

20021029日記

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