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Vさんの手記

私はアメリカに住んでいる30代の女性でマミコ(仮名)と申します。一年半ほど前にこちらアメリカの国際キリストの教会で、聖書学び会の最後の章まで勉強しましたが、洗礼を受ける決心がつかず教会から離れました。

最近になってあるHPの掲示板を通し、日本人の女性クリスチャンの方とメイルをやり取りする機会をもつことができ、キリストの教会での体験を描写したところ“カルトかもしれません”との指摘を受けました。全く予想してなかったのですが、早速インターネットで検索したところ、恵泉大学の警告文に当たり、そして元メンバーの会があることをこのHPで知り、夢中で脱会者の方の手記や、その他のリンクページを読みました。このような情報を提供して下さり、とても参考になりました。どうもありがとうございました。

そのクリスチャンの方に私の体験を説明しているうちに、キリストの教会で言われたことやその時の心理状態などを思い出し、冷静に振り返ることによって、何があの時自分に起こっていたのか、一年半経った今、頭と心を整理することが初めてできました。見ず知らずの私に、親身になって相談にのって下さったこの女性クリスチャンの方にはとても感謝しています。以下、トータルでは3ヶ月ほどの短い関わりでしたが、その女性に宛てたメイルを抜粋しながら、私の体験をまとめてみました。他の方と重なる部分も多々ありますが、思いつく限りのことを書いてみましたので、何かの参考になればと思います。

 

〈勧誘を受ける〉

ある日スーパーマーケットで買い物中に、見知らぬ女性から教会に行きませんかと声をかけられ、興味があったので、その週の日曜日に早速連れて行ってもらいました。皆フレンドリーで歓迎され、嬉しかったのを覚えています。

 

〈聖書の勉強や諸活動への参加〉

集会は活気があって、話も訴えるものがあり、勧められるがまま聖書の勉強を始めることにしました。週に1〜2回、一時間くらいずつ、4〜5人の固定した女性メンバーが私のために集まって教えてくれました。これと並行して、週一回のバイブルトーク、日曜日の定例集会、早朝のお祈り、アクティビティー(バーベキューやピクニックなど)にも誘われて行きました。また、私の勉強会メンバーの女性たちは、家に招いて手料理をご馳走してくれたり、映画などにも誘ってくれたりし、プライベートでも一緒に行動することが徐々に増えました。聖書を読むのは興味深かったし、教会に行くことも、アクティビティーも楽しかったので積極的に参加させてもらっていました。

そして何より、とにかく皆が親切にしてくれました。“私の為に○○してくれる”ことをありがたく思いました。仕事が終わって疲れているだろうに私の勉強会のために集まってくれる、そして次の日には早起きして私のために祈ってくれる、聖句を引用し心温まる励ましのカードをくれる、電話を頻繁にくれ気にかけてくれる、私が忙しいと言うと差し入れを持って夜に訪ねてくれる・・・。これらは、“ love bombing(愛の爆弾?)“と言われるマインドコントロールにはよくあるテクニックだそうですが(脱会者の英語版HPで知りました)、そこにウソは感じない、というか、テクニックとして愛を利用しているようには全然思えませんでしたし、実際、そうでなかったのではないかと思います。

“神の愛を知りその喜びの中で日々を生きている”と皆そろって言い、クリスチャンになった後の人生がいかに満ち足りて素晴らしいものか、説得力ある話を聞かせてくれました。弟子(メンバー)同士はシスター・ブラザーと呼び、普通の友情以上の親密で良好な友達関係を築いていることも間近にみました。聖書を片時も話さず熱心に勉強し、それを生きていく上でのガイド、価値観のスタンダードにして、イエスがしたことを日常生活に取り入れて実戦しようとしている姿に、私は“敬虔なクリスチャンたち”だと感銘を受けました。みんな、“マミコにも神は素晴らしい計画を用意して下さっている”“マミコが全身全霊を尽くせば神は応えてくださる”そう言われました。

それから私に付いてくれた、フルタイムで教会のために働く女性カウンセラー、ジェニファー(仮名)も魅力的な人でした。有名エリート大学を卒業した後、キャリアウーマンとしてバリバリ働く高給取りだったそうですが、それらすべてを投げ打ってでも、この教会に関わってからの人生のほうがはるかに幸せで充実していて価値がある、と言いました。ジェニファーの夫も教会の牧師(トップではないですが)で、“お互い相手が神をどれだけ深く愛しているかを知っているから、これだけ相手を信頼して、愛に満ちた結婚生活が送れている”と語り、この二人は絆の固い素敵な理想的カップルに映りました。聖書にも精通していて、私が質問するとすべて聖書を引きながら説明してくれ、その詳しさに感動することも度々でした。自分の基盤になるもの、信じるものがあるというのはどういうことなのか、それを持たない私には彼女が強くみえました。「例え拳銃を頭に突きつけられ、イエスを信じると言ったら撃つ、と脅されても私は信じると答える自信がある」とジェニファーは言い切りました。それほど強くなれる、信仰心をもつってどういうことなんだろう・・・私はますますこの教えに興味をもっていきました。

 

〈罪の勉強〉

2―3ヶ月経って罪の勉強までいき、今までに私が犯した、聖書で罪にあたることをひとつひとつ具体的にノートに書き出して、勉強会メンバーの前で発表しなければなりませんでした。そのメンバーとは週に2―3回は会っていて、それなりの信頼関係ができていましたが、それでも、かなりプライベートな内容を話すのは勇気がいることでした。思い出したくなかった過去のことまで話しているうち辛くなり、途中で泣いてしまいましたが、みんな真剣に聞いてくれました。大丈夫と慰め肩を抱いてくれ、全員で私のために祈り、愛していると言ってくれました。

それからは、今の私には洗礼を受けること以外に残された道はない、と思うような話が続きました。コップに貯まった汚れた水に、いくらきれいな水をつぎ足しても飲めない。一度汚れた水を捨てコップを洗わないと、新しい水を注ぐことはできない。つまり、罪を犯してしまった私が、今からいくら悔い改めようとしても、一度その罪を洗礼によってクリアにしない限り、心を入れ替えることはできない、と言うのです。洗礼を受けている他のクリスチャンみんながとても精練潔白で、私独りだけが汚れた水を心に溜め込んでいるような、そんな気がしました。闇と光を隔てている罪の壁を破り、新しい人生を送ることが重要のように感じました。

 

〈洗礼への葛藤〉

勉強会の全セッションが終了した時点で、洗礼を受けるか受けないかの決断を迫られました。ジェニファーから、“ここまで勉強して自分の罪も認めたのに、なんのアクションも取らないの?”と言われ、洗礼を決心できないことを言外に責められた気分になりました。ジェニファーは以下のような例え話をしました。

「マミコが道を歩いていて交差点があって、信号は赤だったけど、いいか渡っちゃえ、と思って渡りました。そうしたら、向こうから車が猛スピードで迫ってきて、轢かれると思った瞬間に、ある見知らぬ人が身体をはってマミコを守ってくれました。が、残念なことにその命の恩人は亡くなってしまいました。マミコはどう思いますか?申し訳ない気持はありますか?その人は何も悪くないのに、あなたが信号無視をしたばっかりに命を落としてしまった人がいるんですよ。その方の御両親にはどう顔向けできますか?自分が頼んだわけじゃないのに、勝手に死んだ相手が悪い、と開き直りますか? これと同じことが、マミコとイエスの間に起こっています。イエスはマミコが犯した罪のために十字架にかけられました。ひとり息子を亡くした父(神)にどうしたら顔向けできますか?」

私は内心、どうしよう・・・と思いました。でも、もしも実際その事故があったと仮定して、YesかNoかでしか答えられない質問をされ、“申し訳ないと思いますか?”と聞かれれば、自分の信号無視で人が亡くなったんだから、“はい”と答えるしかないし、“その方の両親には謝りに行きますか?”と聞かれれば、“はい”と答えるしか、その時の私にはできませんでした。ジェニファーからさらに、“その方のお父さんは、マミコが心から悪かったと反省して、改めようと努力するなら許す、と言って下さいました。許されたいと思いますか?努力したいと思いますか?”と聞かれ、私は許されるものなら許して欲しいと思い、又“はい”と答えてしまいます。“それが神の愛なのです。それほどの深い愛情を私達に注いで下さっています。”と言うジェニファーを支持するように女性クリスチャン一同、もっともだと頷いたり、「エイメン」と言ったりします。そしてたたみかけるようにジェニファーは、“その愛に応えようとは思いませんか?”と私に聞きました。

こうして今、事実を知ったうえで振り返ると、これらの質問も洗礼に導くための誘導尋問っぽいですが、その時の私にはわからなかったです。“罪を悔い改めようとしない私が人間として間違っているのか”“私がおかしいのか”と追い詰められた気持になり、自分を見失ってしまいそうでした。しかもその時は、自分の“罪”を数ページにわたり書いた後で、精神的に参っていました。自尊心が砕かれ、罪悪感に押しつぶされそうになって、とにかく“赦して下さい”という心境でした。

 

〈教会に対する疑問〉

しかし、自問自答を繰り返し、悩みに悩んで、それでもどうしても洗礼を受ける決心はつきませんでした。悩む理由は色々とあったのですが、周囲のクリスチャンではない人(両親や友達など)に相談して反対されたこと、日本の一部の宗教的習慣が大切に思えてきたこと、などもその一部です。が、それ以上に、この教会の方針に対して、どうも腑に落ちないものがありました。脱会者の英語版HPで“Something Wrong”という表現を使っていましたが、そうなのです、“ナンカおかしい”というか、ひっかかるものがあったんです。自分を出さないことや、聖書や彼ら以外の人の意見は無視しなければいけないような雰囲気にも馴染めませんでした。私は、特にアメリカに来てからは、自分をしっかりもとう、意見をはっきり言おう、と心がけてきましたが、それら私がしてきたことや価値観を覆すように、“自分を抑えなさい”と何度か言われました。自分を否定することは私には難しい、と伝えると、すべてはあなたのプライドからきている、神の前で十分に謙虚になれていない証拠だ、と(きつい調子ではないものの)非難されます。私がどう間違っているのかを、一事が万事、聖句を引用しながら説明されました。(例えばこの“自分を抑えること”はLuke9:23の“he must deny himself”からきているそうです。)彼らがしていることは全て神のことば(聖書)にのっとっていて、それが唯一で絶対の真実だから、人間である私は自分の言動に対し言い訳できない、と言われました。

これらのこと以上にこの教会に対し疑問に思ったのは、彼らの教会の弟子(メンバー)だけが救われる、という特有な気風です。他のキリスト教会に対し排他的なものを感じました。9.11テロの時も、“私たち教会のディサイプルの中にも、ワールドトレードセンターで働いていて巻き込まれた兄弟姉妹がいたけど全員無事だった。神はこの教えを伝道するために私達が必要だと思っている。”とジェニファーが言ったのを聞いて、私は間違っているのではないかと思いました。

このように、納得がいかないこともあり心が揺れたので、もう少し時間がほしい、ゆっくり考えたいので洗礼は待って欲しい、と伝えました、が、洗礼を受けイエスの教えに従うのは緊急性があることだと返されました。例えば「マミコに癌が見つかったとしたら、転移しない前に早急に手術が必要なのと同じで、悪くなる前に急いで対処する必要がある、手術を受けるのは怖いけど恐れてはいけない、神は早くマミコを救いたいと思っている」とこのように、とにかく一刻も早く私に洗礼を受けてほしいような雰囲気でした。さらにこの教会から離れた人たちが、その後どう人生を踏み外しているか(ドラッグに溺れただとか)を聞かされました。これも違うのではないかと私は思いましたが、あえて何も言いませんでした。

〈離脱へ〉

結局、これほど迷うのは今はまだその時じゃないんだ、こんなにすっきりしない気持のまま洗礼を受けるべきじゃない、と思い断ることに決めました。この決断に至るまで本当に悩み抜いたので、これだけ悩んで決心したことだから、たとえその後、彼らが言うような何か悪いことが起きたとしても後悔はしない、潔く受け止めよう、と思えました。勉強会メンバーに上記のような理由をダラダラ並べたところで、聖書を使って私が間違っていると切り返されるのはわかっていたので、ただ単に“私には向いてない”“私には合わなかった”と言って断りました(何を言われても心変わりはしないと固く心に決めて)。私の為にたくさんの時間を割いて、色々と教えてくれたことにお礼を言って最後の勉強会を後にしました。

ジェニファーに「教会の活動に関しては“All or Nothing (全てかゼロか)”の二者択一しかない)と言われたので、洗礼を受けないほうを選んだ私は、必然的にゼロを取ったことになりました。教会に通うことを辞め、聖書を閉じ、お祈りするのも止めました。そしてその最後の勉強会以来、彼女達とはピッタリ連絡が途絶えました。週に2〜3回は顔を合わせ、自分の過去を打ち明け、色々な時間を共有した親しい友達を、突然たくさん失ったような喪失感がありました。寂しかったです、が、それ以上に、もう悩まなくていいんだ、という解放感のほうが大きかったです。

 

〈今思うこと・このような団体に引き込まれそうになった原因〉

深入りしなかったからこそ言えるとは思うのですが、色々と勉強になったことは事実なので、いい経験をしたと今は思えます。それにしても事実を初めて知った時は、「まさか自分がこういう教会に入りかけていたとは!」ととても驚きましたが、前記した日本人クリスチャンの方のアドバイスを元に、どうしてそうなったのかを考えてみました。

1)キリスト教や教会に関して私は無知でした。聖書をどう解釈するかによって教義が変ってくることは知らず、“聖書に書いてあるならそうなのかな”と単純に思っていました。また、この教会に対してリサーチ不足でした。インターネットで調べたらすぐに分かったことだったのに、と後悔しています。

2)私は弱い立場に立っていました。“苦しい時の神頼み”ではありませんが、罪悪感に苦しむという状況に陥り、神様に赦してもらうには洗礼しか道はないと思いそうになりました。勉強会の形式も、クリスチャン4―5人に対し私独りで(言い方が悪いですが)多勢に無勢、また何か自由に私の意見が言えるような雰囲気もありませんでした。

3)皆がしていること(早起きしてクワイアットタイムに聖書を読み祈ること、HOPE活動や募金など)が、社会的にも健康的にも“いいこと”に見えました。

4)とにかく皆さんに親切にしてもらったので、人情として断るのが申し訳ないような気にもなりました。異国で頼れる人が限られている私には、皆に良くしてもらったのでサポートシステムを持ったような心強さを感じました。だから事実を知った今でも、彼女達に悪い感情は一切持っていません。皆、弟子を増やして神の愛に応えるため、教会のミッションに忠実に行動するため、そして私にも神の愛を分かって欲しいため、という彼らが言うところの“クリスチャンの良心”に基づいて接してくれていたのだと思います。

 

今回、自分の体験を振り返ることにより、また様々なHPなどを読むうちに、私がこの教会に関わってからずっと抱いていた、不信感、疑問、わだかまりなどが解け、目の前の霧がパーッと晴れたような安心感が押し寄せています。キリスト教や聖書に対し、かなり偏った知識になっていると思うので、いずれ一から勉強する機会があればと思っています。それから、ずっとどこかにあった、自分は罪深い人間で赦されていない、という後ろめたい気持もだんだんと癒されていくのを感じます。元メンバーの方がたはもっと大変な思いをされたこと、このHPで知りました。私が言うのも差し出がましいのですが、時間がかかったとしてもどうか傷が癒えますように。長い文章、最後まで読んで下さってどうもありがとうございました。

2003年3月8日記

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