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Zさんの手記

私はTCCを脱会してしばらく経つ。振り返ってTCCの内部で実際に経験したことを書きたいと思う。すでに多くの問題点が指摘はされているが、まだ知られていないことも多くあるように思う。この手記が、知られていなかった事実を新たに知らしめるものとなれば幸いである。

1.献金

TCCでは、聖書に基づいて10分の1の献金、余裕があればそれ以上の献金が求められる。しかしそのやり方がシステマチックで、聖書の教えから明らかに逸脱しているので、その指摘はたやすい。ここでは特に特別献金について触れてみようと思う。

特別献金はボーナスが支給される夏と冬の年2回で、特別献金が行われる日は教会全体でディボーショナル(以下ディボ)が行われる。特別献金の23週間前には、献金の倍率が指定され(後述)、特別献金でいくら献金するか匿名で金額を書いた紙片を牧師が集める。そして、次の週のディボで牧師が「みんなの捧げる心が足りない(額が小さい)ことに僕は傷ついた」「まだ間に合うから精一杯最後まで努力しましょう」などと説教するのがパターンである。そして、当日は各自に封筒が配られ、こちらは署名、金額の記入、そして現金であれば封筒に入れ、振込みであれば各リージョンごとの振込み専用口座への振込み日を記入するのである。

また、先ほどの倍率指定だが、毎週の献金の1525倍の範囲で教会が毎回決めるのである。ちなみに年間52週あるから1ヶ月は365÷52で約4.3週である。そして、これも牧師がしつこく言うが、基準の収入は手取りでなく額面だから、まず毎月の献金は

月給(額面)× 1/10

となる。すると特別献金は

月給(額面)× 1/10 ÷ 4.3 × 1525)(=3.5ヶ月分〜5.8ヶ月)

である。国民の平均が2.3ヶ月(夏冬合計4.6ヶ月、平成12年中央労働委員会事務局調査)だから、TCCの信者が国民平均並みのボーナスを貰っているとしても、1.5倍から2.5倍も1/10基準をオーバーしているのである。つまり、ボーナスの15%から25%に当たる額の献金を教会が要求しているのだ。TCCの信者のおそらく10%は失業しているし、女性の半数近くはボーナスが出ない派遣or契約社員である。TCCの信者のボーナスの月数が国民の平均を下回るならば、この倍率指定が1/10以上の献金を集めるトリックとして利用されていることは一目瞭然だ。

しかし、そもそも聖書に「監督者が集めるべき献金額を管理しなさい」という聖句があるだろうか?倍率指定のように、勝手に基準を作ってよいのだろうか?

また、こうした献金が、集金の性格が混じってくる以上、いくら献金しても信者にとっては「自ら」「100%捧げている」とは永久に言えないのではないだろうか?これはクリスチャンとして非常に不幸なことだと思う。

 

2.TCCの牧師・スタッフ

彼らは特別献金の日が近くなると、自分たちの給料がいかに少ないかアピールする。しかし家賃・交通費・電話代が全て教会負担であるのであれば、その分は全て給与所得として考えるのが社会通念であり、それらを含めた収入は決して安月給だとは言えない。しかしそれにもかかわらず、引越代数十万円を信者からカンパさせるそばから、子供を金銭的負担の大きい国立や私立小学校の受験などさせるケースもあったようだ。(もちろん名門学校に進学させるのが悪いと言っているのではない)

別の話になるが、彼らの子供の教育という視点からは非常に世俗的な側面がうかがえる。彼らは説教では、学歴やキャリアを積むことは人生の目的でないということが耳にたこができるほど聞かされる。

それにもかかわらず、牧師やスタッフは彼らの子供を例外なく名門小・中学校の受験をさせる。私は、そうした自己矛盾を平気で冒す牧師を疑問に思い、あるリーダーに「なぜ彼らは子供に名門校を受験させるのか」と尋ねたところ、返ってきた答えは「子供がそういう学校に入れば、年収や社会的地位の高い親と知り合えて、救いに導けるから」だった。

 

3.信者の恋愛・結婚

周知のとおり、この教会では洗礼の直前に内部限定結婚の言質を取る。しかし、その聞き方は「クリスチャンになったら、クリスチャンとしか結婚できないがそれでも良いか」というものである。内部のみという言い方はしない。「クリスチャン」はTCC(ICC)という含みがある。また、クリスチャンはすばらしいと散々聞かされる上、結婚は将来のことだからとりあえず洗礼を受けようと考える人もいるだろう。しかし、重要なのは、そこで付き合うのも、結婚するのも、牧師に認められないといけないという事実が告げられない点である。両性の意志に基づく自由な結婚は憲法でも保障されているが、そこを侵しているのがTCCのやり方だ。付き合う(ステディ)、婚約、結婚について、牧師とそのリージョンのリーダーズミーティングで認められないといずれもできない。ステディではどちらかが勧誘数が減ったり、目立たなくなると牧師が学び会を別々にし、無言の圧力をかけるということもあるし、同様に婚約しても結婚が認められるまで2年以上かかったカップルもあったと聞いている。

ただし、こうしたやり方を利用して、教会で恋人さがしすることとトレードオフとして表面上TCCの方法を素直に受け入れ、目的が達成できたら離れる信者もいるという事実も見過ごされてはならない。

 

4.信者同士の金銭関係

信者同士で金銭がらみのトラブルは意外と多い。ジュビリーは海外では一回10万、国内でも6〜8万ぐらいはかかるが、ジュビリー前にはゆとりのある信者と、そうでない信者との貸し借りがしばしば発生する。また、ハウスホールドに住む失業している信者は、生活費を他の信者に工面してもらうケースも多い。その金銭関係を発端にしたトラブルからその信者が引っ越したり、解散するのも何度か見てきた。また、収入の多い女性信者が、教会ではリーダーの失業中の男性信者に送金しているという話もある。これらは全ての信者に該当する話ではない。しかし、これがイエスの弟子同士の関係と呼べるのだろうか?聖書には借金する者は貸した者の奴隷となるという言葉がある。

 

5.TCCの聖書を使った教えの矛盾

これについてはいくつか感じたことをまとめてみたい。

@まず、TCCでは「霊の実を結ぶ」ということを自分が誘って教会に連れてきた人に洗礼を授けることと捉えられる。そして「実を結ばない木は焼き捨てられる」というロジックで信者を脅し、勧誘させようとする。しかし「実」とは本当にその意味なのか?そもそもイエスの死により救いがなされたとするならば、伝道しない(声かけをしない)ということで捨てられるとは、イエスの死とはそんなに軽いものだったのか?

A次に、聖書に書かれているキリストの伝道のやり方は、食料を増やす、病気を治すなど人間にとっての現実的ニーズを満たすような奇跡を示し、それを見た人が信じた、というシーンが多い。使途ペテロやパウロも使徒言行録でそのような行為をした記述がある。文字通り「神がかり」的な力を示したからこそ人が信じたのである。したがって、「声かけも必要(な勧誘方法)ではあるが、伝道の本質ではない、と思うがどうか」とある牧師に聞いたところ回答は「確かにそうだが、そうじゃないこともある」とあいまいな回答をもらった。

B第2コリント6章の「同じくびきにつながれてはいけない」という聖句は、本来コリントの教会が道徳的に堕落し、異教徒が教会内にはびこったことに対する戒めとしてなされたものであると理解されている。TCCでは、毎年チャリティーコンサートと称して芸能人が教会のステージに上がりパフォーマンスをする。しかしこれは教会の公式行事で、やはり勧誘するよう勧められる。教会のためにクリスチャンでない人が使われるのである。これを同じくびきにつながれていると言うべきだと思う。ホープ関係でワールドメイトという団体との関係も取り沙汰されているが、これも同様に問題だと思う。そもそも、TCCは「聖書の勉強」の段階で自分たちが宗派を認めない団体と言い、相手に超宗派的な融和を目指す団体を思わせる。しかし、実際は排他的で他のICC以外の教会との協調関係が全く築けない点が超宗派的な団体との決定的な違いである。

 

6.TCCの批判に関して

少なくともこの手記は、自分の記憶に残るもののうち確かなものに基づいて記したつもりである。網羅的ではないが、同じような経験をしたり、感じたりした人が他にもいるであろうことは確信している。総じてTCCは内部からの批判は一応耳を貸す姿勢があるが、外部の批判には過敏に反応するがあまり、始めから聞かなくてすむようにシャットアウトしてしまう傾向があるといえる。TCCはあたかも外部からの批判がTCCの存在を完全に否定されているように感じているかのようだ。しかし、そうしたものもあるかもしれないが、必要なのは何度も指摘される問題(他教会の洗礼を認めない、内部限定結婚など)を根本から改めれば済む話だと思う。つまりTCCは全否定でなく部分否定されているのであり、それを改めるべきなのだ。それらの問題点こそがTCCのTCCたる所以かもしれないが、仮にそれを捨てても信仰、教会の仲間、土地や建物は基本的にすべて残るのである。ICCは、及ぼしている悪影響や迷惑行為をまずしっかり見つめなおし、捨てるべきものを捨てる決心をしてほしい。私は、現実的には困難であることはじゅうじゅう承知しているが、もし自力で変われなければ、ソ連の崩壊のように案外ころっと体制が崩壊してしまう可能性があるとも感じている。

 

2002年9月8日記

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