パリサイ人

全6部

マーク・タラハン著 田中利子訳

テレスホールド アソシエイト・エディター

1990年ー91年、テレスホールド ニューズレター掲載

THE PHARISEES - A Six Part Series” by Mark Trahanassociate editor of THRESHOLDS,

this series appeared in the THRESHOLDS NEWSLETTER in 1990-91.

1部 この中にパリサイ人がいますか?

最近、自分の中で何かが引っかかっていることに気付いた。自分と同じ様にディサイプリング・ミニストリー(キリストの教会)を脱出した人たちと話す機会を持ったり、この教会に批判的な本や文書も読んだりしたが、そこで多くの人が、「あのディサイプリング活動は基本的には正しいけれど、少し度が過ぎているのが問題だ」と思っていることを知って、私はかなり苛立っていたのだ。もう三年もあのグループから離れているのに、それからずっと心の平和を感じたことがない、という元メンバーがいる。何故なら、彼は、未だにあの教会の活動は基本的には間違っていなかったと信じているからだ! これを読んでいる人の中にも、今まさにこの人と同じ心境の人がたくさんいるかもしれない。私は今こそ、その間違った認識を変える時であると思う。

ディサイプリング運動こそが、世界でたった一つの、本当に聖書に書かれていることを教え、実行しているグループである、と我々は言葉や言外の含みによって教えられてきた。今日では、世界で我々だけが、新約聖書のキリスト教に従っている本物のクリスチャンであると。もしこのグループを敢えて抜けるというならば、その者には死ぬまで恐ろしいことが次々に降りかかり、死んだ後は魂が永久に滅びてしまうと教わったのを思いだすであろう。

このグループの活動と同様、彼らが主張していることに、まず、私は公然と立ち向っていきたい。このディサイプリング運動は、少し度が過ぎているのではない。実際には、かなり度が過ぎているのであり、このグループが教えていることは、キリストや使徒たち、そして、一世紀の教会が教え、実行してきた教義とは全く異なる教えに値する。ディサイプリング運動が唯一「聖書的」なのは、その活動が、彼らの主張する一世紀の教会ではなく、一世紀のパリサイ人に不気味なくらい似ている点だと私は思う。パリサイ人は、信仰心の厚さを外見で表す人たちで、キリスト以外の人間は皆見下げていた。何故なら、キリストだけが彼らをはっきりと「白く塗った墓」と非難したからだ。(マタイ23:27-28)

次回からも、このパリサイ人を更に詳しく検証していくつもりである。彼らの習慣、教義、活動、神に対する考え、礼拝の仕方などを見ていくつもりである。そして、これらをディサイプリング運動と比較し、類似点を拾っていく。もちろん、全く合致することはないが、両方の状況があまりに類似しているので、私が驚いたように、皆さんも驚かれることと思う。

二十世紀に生きる我々が、パリサイ人の時代を振り返り、彼らを厳しく批判するのは容易いことだ。あの偽善者ぶり、自身の正当化、戒律を愛する点など、間違いは明らかに解る。

しかし、彼らをそんなに厳しく批判してはいけない。パリサイ人だって、毎朝起きて、うきうきしながら、今日はどんな悪事を働こうか、または、他人にどのぐらいの重荷をかけてやろうかなどと考えていたわけではないのである。彼らは、自分たちこそが、神に使える人々のリーダーであると本気で信じていたのであり、他の人たちを神に近づけようと助けていたのだ。そして「リーダー」としての地位が彼らに権力を与えていたのである。言い換えて見れば、彼らには誠意があったのだ。しかし、彼らの活動では、分派主義の研究をひけらかすことをあまりにも好んでいたので、そこに間違いがあったのであるが。

パリサイ人のバックグラウンドに関する情報はほんの少ししかない。彼らの起源ははっきりとしないが、紀元前5世紀後に現れたようだ。そして、紀元後一世紀には、三つあった分派の中で最も勢力を持っていたとされる。「パリサイ」とは、「選ばれた者」の意味であり、全盛期には、約6千人のパリサイ人が存在した。

他の者たちとは違うということを強調するため、彼らは異なる衣服を身につけた。たとえば、自分たちがより神に近い者であるとして、空の色と同じ青い礼服を着た。また、彼らは、聖句が書かれた巻物を箱に入れて、それを頭にかぶって歩いた。自分たちがいかに聖なる者であり、どんなに神の言葉を愛しているかを人々にみせびらかすためである。もっと、神に近づきたい時は、より大きな箱を買って、もっとたくさん巻物をその中に入れるのであった。「罪深い人」や自分たちより霊的でない人々を避けるため、彼らは、高い柱を建ててその頂上に座り、「自分たちはあの者たちとは違うことを感謝いたします」と神に祈っていたのである。そして、彼らが、より神に近づこうとするならば、もっと高い柱を建てるのだった。

このような行動は、奇妙でばかげて見えるが、彼らの行動そのものは、さして重要ではないことを頭に入れて置いて欲しい。この様な行動や、その他の似たような習慣につながる、彼等の信念と心構えを見つめることこそが重要なのである。

第2部 あなたがたのうちだれか、私に罪があると責める者がいますか?

筋書きは承知の通りだ。あなたが見たり聞いたりしたことで、合点がいかないことが出てくる。あなたがだんだん聖書を理解してくるにつれ、心の中で頻繁に疑問が湧いてくるようになる。「これは神の恵みのおかげだ、というけれど、実際には誰かが実行することで成果があがっているのではないか」「リーダーたちは、本当に神からの人々なのだろうか、それとも、あの人たちは権力を不当につかっているのではないのだろうか」「ディサイプリング・パートナーという考えは、本当に聖書に沿った考えなのだろうか」

それで、あなたは混乱し、答えを得たいと思う様になる。そして、ディサイプリング・パートナーに、この質問を尋ねるのだ。問題が起こるのはこの時からである。あなたが例えどのリーダーに答えを求めても、どんなに具体的に質問をしたとしても、いつも答えは一緒である。そんな質問をすること自体、あなたが心の中に深刻な罪を抱えている証拠である、と言われるだけなのだ。そして、終いには、あなたは、口を閉じて、何も聞いてはいけないということを学び、ただ単純にリーダーに従うか、もしくは、混乱したまま、自分と神の関係がよく判らないまま、教会を去っていくかのどちらかを選ばなければならない。

この様な状況を経験してきた人なら、よく判ると思うが、我々の主であるイエス・キリストもこのような策略にあった犠牲者であったのだ。現代のディサイプリング・ミニストリーにそっくりのグループが、イエスを罠にはめようとしたのだ。それは、もちろんパリサイ人のことである。

ヨハネの福音書8で、イエスはパリサイ人と対決をする。いつものように、彼らは、何とかしてイエスの顔を潰そうとする。40節から始まって、イエスは、パリサイ人の父は神ではなく悪魔であり、自分の話す言葉は神から出ているので、それを彼らは理解することが出来ない、と言っている。45節では、「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」と言っている。実際に、パリサイ人は、真理に従うことよりも、自分たちの地位や権力に興味があったのである。そして、イエスが話していることが真実なのかどうか確かめる代わりに、御国(彼らのいう、御国)のためには、キリストを黙らせて、暗殺してしまった方がいいと判断していたのだった。

そのパリサイ人が人の面目を潰すのに、好んで使った手法は、人を「罪人」呼ばわりすることである。(ヨハネ9:24)「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか?」と、イエスはヨハネ8:46で言った。イエスは彼らのやり方をよく知っていたのである。罪は、イエスに向かって使われる言葉ではない。イエスは罪のない方だったのだから。そして、クリスチャンも皆同じ状態にあるのだ。クリスチャンは罪を犯すのか?

もちろん、そうであるが、クリスチャンはイエスの血によって許されたので、神は彼らを罪のない者として見て下さるのである。クリスチャンに罪があるからと言って、その人の発言が意味をなさなくなるということはあり得ない。信仰に関してはことさらである。

そして、もちろんクリスチャンでない人に罪があるからと言って、その人の発言も意味をなさなくなることはない。誰かが質問をした時に、罪の問題を持ち出すのは、全く関係のない事であり、質問に答えるのを避けているに過ぎない。

もし、宗教のリーダーが「空は赤い」と言った時、例えば、アドルフ・ヒトラーが、「いや、空は青いのだ」と、その発言に異議を唱えたら、たまたまヒトラーが獣のような男になったからという理由で、ヒトラーの発言は無効になるのだろうか。もちろんそんなことはない。ヒトラーの言っていることが本当か確かめるには、空を見上げて見てみればいいのである。ディサイプリング運動では、ディサイプルシップ・パートナーの関係は、成長したクリスチャンの用いた手段として聖書にあると主張し、自分たちの組織は一世紀の教会と同じであり、自分たちの権威は聖書に沿っているのだと主張しているのだから(それらが本当にそうであろうと、なかろうと)、空を見上げて確かめてみるのと同じことをするべきなのだ。要は、聖書を開いて確かめるだけ、簡単なことである。

しかし、そんな質問をするのは、罪がある証拠であるとか、心が悪いからだ、と教えられる。

これは、本当の問題から目を逸らさせ、質問者の面目を潰す、あくどいやり方だ。

(そして、悲しいことにこの方法は、人の口を閉じさせるのに大変効果的なのである。)質問をするのが、クリスチャンであろうとなかろうと変わりはない。イエスは質問されたことには全てに答えた。たとえ、質問の意図が彼を罠にかけようとするものであってもだ。

(マタイ:22:15ー22)イエスは、自分にそんな質問をするなんて、罪深い証拠である、などと言って、質問した人を無視したり、攻撃したりすることはなかったのである。

結局、このような策略は、新約聖書の中の、キリストやキリストの教会が行ったことの中には見られない。しかし、キリストや真理に反対する人々には、このようなやり方はよく見ることが出来た。その人々とは、神を愛し、従っていると口先では言いながら、実は自分の地位や権力の方をはるかに愛していたグループであり、神への忠誠心よりも、互いへの忠誠を重んじ、その権威に疑問が持ち上がると、質問者の顔を潰し、本当の問題から注意を逸らしていたグループ、つまり、パリサイ人である。

第3部                 霊的な防護壁を築く人

ディサイプリング運動に関わっていた時、私と家内は、我々が罪を犯さないようにするために決められた教会の教えを聞いてきた。例えば、デートするなら不品行の罪を犯さないように、ダブルデートをしなさいと「アドバイス」されていた(言われていた)。兄弟たちは、「ヌード写真が売り物の」雑誌が置いてある、一定のニューススタンドの前を通りすぎないよう、「罪から2ブロック離れて歩きなさい」と指示されていた。

パリサイ人の間にも似たような教えがあった。その教えは、「防護壁」の律法と呼ばれていた。たとえ故意でなかったとしても、神の律法をひとつでも破らないように、こういう律法が定められていたのだ。もちろん当時はニューススタンドは無かったが、もし美しい女性がパリサイ人の方に向かって歩いてきたら、彼等は彼女の美しさに誘惑されないように目を閉じたのだった。

ヨハネ9章で、イエスは盲人を癒す。一見、よくある「イエスが盲人を癒す」話に見えるかもしれないが、良く読んでみよう。初めに14節で、この日は安息日であった、とある。また、6節では、イエスは、地面につばきをして、泥をつくり、それを盲人の目に塗って彼を癒した、となっている。面白いことに、パリサイ人が守っていた律法では、安息日に岩の上につばきをかけてもよいが、地面にはかけてはならない、となっていた。なぜなら、地面につばきをかけると、泥が出来るので、安息日に仕事をしたと見なされるからである。そういうわけで、ここでイエスがとった行動は、パリサイ人への挑発行為に他ならないことになる。パリサイ人の律法の中では、一見最も取るに足らないような決まりにさえも、イエスはここで公然と非難をしているのである。イエスは、パリサイ人の律法の真の姿を暴露したのだ。一部の限られた人間が、人々の生活を排除したり、判断したり、取り締まるために、作りだした律法に過ぎないということを。生まれつき目の見えない人を癒すために、イエスが「律法違反」を犯して泥を作ったというのは皮肉だと思わないだろうか。

パリサイ人は人々の行いを正したり、彼等が言う義の道から人々が外れないようにするため、このような規則や制約をたくさん持ち備えていた。パリサイ人にとって聖書は、して良いことといけないことが書かれた、ルールブックとなった。パリサイ人は、この本の作者が誰なのかをすっかり忘れていたのだ。神は、人の行動よりもずっと、その人の心の方を気にかけてくださるというのに。 パリサイ人は毎朝目を覚ますと、「今日はどうやって神の律法を破らないように出来るだろうか」と言っていた。しかし、イエスは律法の文字通りの意味に捕らわれて行動することなく、人々を愛することによって、律法の意味を実現したのだ。

そしてパリサイ人には、人々に律法を犯す機会さえも与えないようにと、次々に規則を作る必要が出てきた。要は、人々を「罪から逃れて安全にしておく」ために、彼等は、人々の周りに防護壁を築いたのだ。その結果、この防護壁のために、人々は壁に閉じこめられ、奴隷のような生活を強いられた。つまり、本来なら、神と関係を持って喜びに溢れた生活を送るはずであったのに、いつも忍耐ばかりの苦しい生活を送るはめになってしまったのだ。

イエスは、取るに足らない様な決まり事にさえも、神の態度はどうあるべきかということを私たちに示して見せたのだ。そんな律法は無くてもよいのだ。当時も今も、律法が、神と私たちの関係に入り込む隙間は無いのである。完全なものに、何かを足したり引いたりすれば、

それはもはや完全なものとは言えない。申命記4章2節、箴言30章5節から6節、ヨハネの黙示録22章18節から20節で、神の言葉に何かを付け加えたり、取り除いたりしてはならないと言っているのはこのことである。

たとえどんなに小さな規則でも人間が作れば、そんなつもりはなくとも、神の言葉に付け加えをしていることになるのだ。人間が規則を作るべきではない。ディサイプリング運動に関わっていた時に私は、「神の言葉というのは、ある分野については(例えばデートのこと等)曖昧にしか書かれていないので、その不足を満たすために我々が規則を作らなければならない」と教えられた。今の私は、聖書で曖昧にしか触れられていない分野のことは、わざと曖昧にしてあるのだと理解している。ひとりひとりの人間が、自分の持っている神との関係に基づいて自分で決断をするように、神はこういった分野を残しておいてくれたのだから。

第4部                 なぜイエスは彼らを選んだのか

イエスの時代には、他にも数多くの宗教グループが存在していたのに、イエスは、多くの時間と労力を費やして、その中のたったひとつのグループ、パリサイ派の罪だけを暴いた。限りなく真実に近く見え、神の言葉に基づいているように見える宗教に異議を唱えようと選んだのだった。イエスは何度も、真実とパリサイ人の教義を比較して、要点をわかりやすく説明した。

マタイ23章で、イエスはパリサイ人の生活や習慣を詳細にわたって語っている。ここでイエスは、彼等の教えを承認さえしているが、同時に、彼等は、他の人に教えていることを自分では実行していない、と指摘している(3節)。何度も聞いたことがある聖句だと思う。マタイのこの章は、ディサイプリング運動にいた時によく読んだ聖書の箇所のひとつであり、私はここを読むといつも不安になったものだ。あまりにも痛切に私の胸に響いたからだ。この章の中のいくつかの節を見て、皆さんと私の意見を分かち合いたいと思う。

4節ーディサイプリング運動では、「権力のない」者たちは、リーダーになるよう激励されて、一生懸命に働く。ところが、一度トップ・リーダーになってしまうと、個人的に「伝道」しなければならないという、非常に厳しいプレッシャーから逃れることが出来る。代わりに、自分の下に位置する者たちに多くの人を教会に呼んでくるよう、プレッシャーをかけるのだ。私は、実際にワールド・セクター・リーダー(ディサイプリング・ミニストリーの特殊用語)の一人に、「自分は二年間、個人的に誰もキリストに導いていない(このグループに人を導き入れていないの意)」と言われたことさえあるのだ。その理由として彼は、他の人たちに仕事を指図するので手一杯だったから、と答えた! すなわち、グループに人を導き入れるという重荷(負担)を、自分では全く負うことなく二年間を過ごしてきたこの男によって、我々は説教を受けていた、ということになる。

5節ー外見が全てである。私たちはどんなに自分たちの働きを自慢していたことだろう!私たちがいかに義に従い、成功しているかを人々に知らしめるため、バプテスマの数を全ての週報に掲載した。ディサイプリング運動の公式な雑誌では、世界中至る所で私たちが上げた成果を報告した。一世紀の使徒たちがペンテコスト(五句節の日)以降、バプテスマを受けた人の数や、アジアで多くの人を導いた成果などを、巻物に記していたことが想像出来るだろうか?

7節から11節ーイエスは、自分の宗教上の肩書きを愛してはならないと警告している。あなたがたは皆兄弟なのです、と教えている。この世の尺度とは異なり、神の目から見たリーダーとは、一番仕える者のことなのだ。いったい何回、ゾーン・リーダーや、伝道者があなたの家にやってきて、洗濯を手伝ってくれたり、子供の面倒を見てくれたりしたことがありますか? では代わりにリーダーの家で、兄弟姉妹たちが掃除をしたり、子供の世話をしているのを、あなたはどのくらい見てきましたか? ヨハネ13章1節から15節で、イエスは人に仕えるとはどういうことなのかを、自分で行動して私たちに教えてくれた。

14節ーパリサイ人は、恵まれない人たち(やもめ)から金を搾り取り、見栄のために長い祈りをしたとある。ディサイプリング・ミニストリーで、自分のバイブル・トーク(聖書勉強会)のメンバー全員にもっと献金を出させるよう、私は何度強いられたことだろうか。ここでは、いつだって、スペシャル・コントリビューション(特別献金)や、ダブルもしくはトリプル・コントリビューション(二倍、三倍献金)、といった、特別な献金を必要とする行事が何かしか行われていて、常に予算が足らないのである。私のバイブル・トークにいた兄弟姉妹たちの多くは、学生や未婚の母等で、低所得者だった。彼等は、食事を抜いたり、地下鉄を使わずに歩いたり、他の方法で犠牲を払い、献金を捻出するように指導されていた。そして、私たちは「神の国を広めるために必要なので、どうか我々に資金をお与え下さい」と、長い祈りをしたものだ。私は、例えばエペソやサルディス、そしてコリントで教会を始めるのに、いったいお金はいくらぐらい必要だったのだろうと考えずにはいられない。

23節から24節ーいったい私たちの内で何人が、バイブル・トーク、ハウスチャーチ・ミーティング、ゾーン・ミーティング、日曜礼拝、スペシャル・デボーショナル(特別祈祷会)に参加するため、自分の時間とお金を費やしなさいと繰り返し教えられ、反対に、自分の家族が、この教会に興味を持っていないからという理由で、頻繁に家族に会いに帰らない方がいいと「アドバイス」された(言われた)ことだろうか。また、自分の友人がたとえ金銭的に助けを求めていても、彼等が「オープンではない」(教会や聖書に興味がないの意)からという理由で、放っておくように言われたことだろう。神の言うはるかに重要な教えが、ここではおろそかにされていた。

27節から28節ーここでイエスは、パリサイ人を大げさに表現し、外見で他の人たちを騙せても、自分は彼等の内側をよく知っているので騙されないと言った。イエスは彼等の心を見ていたからである。

このような問題は、ディサイプリング運動だけではなく他の教会にも見られるが、この地球上で自分たちだけが本物の教会である、と主張しておきながら、このようなことを行っているからには、彼等は霊的に何も見えておらず、傲慢であるとしか言いようがない。そしてこの体質は、絶対に変わらなければいけない。これから私たちが、ディサイプリング運動だけではなくその他のどこででも、このような教義や活動を目にしたら、私たちの主、イエス・キリストはどのような態度を取ったのかを思いだして、主に従おうではないか。