Q.ヨハンの牧師・宣教師達がよくメッセージなので語られる御言葉で「無理やりでも連れてきなさい」という所が語られます。その時牧師達は「御言葉にも書いてあるように無理やりでもコンサート連れてこい」「無理やりでも礼拝に連れてこい」などとよく語られます。この御言葉はどういう意味でイエス・キリストは語られたのですか?
A.ご指摘の箇所(ルカ福音書14・15-25)は、昨年(2005年)の11月3日(木)の夜のヨハン教会の集会に出席した時に、金牧師が、これからキャンパス伝道に向かうメンバーを前に語っているのを、私も聞きました。
「教会の礼拝(集会)に、空席があっても平気というのは恥ずかしい。主は、無理やりにでも人を連れてきて、空席を満たせと言っておられる」
と、上記のテキストに基づいて力説しておられました。
それを聞きながら、私ならこの箇所からどのようなメッセージを語るだろうかと考えずにはいられませんでした。
このたとえ話は、イエスと「食事を共にしていた客の一人」(15節)が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と、おそらくはイエスとの会食の楽しさに感極まって発した言葉に端を発しています。つまり、主題は、「神の国」における会食がどのようなものかということを、この客人の言葉を巧みにとらえて主イエスは、教えられたのです。
そして、主イエスが、一番おっしゃりたかったことは、宴会に招待されていた人、招待されるにふさわしいと考えている人々は、実際には、宴会に参ずることなく、「神の国」の宴会とは無縁と思われていた人々が、その食卓に与ったということです。
これをルカ福音書が書かれた文脈においてみれば、ルカ福音書は、冒頭の献呈の言葉(1・1-4)が明示しているように、ユダヤ人ではなく、ローマ人(異邦人)に向けて書かれたものですから、本来「神の民」に約束されたユダヤ人ではなく、神の救いからは排除されていると考えられていた異邦人(それも金持ちや身分の高い者たちではなく、貧乏人、障碍者たち)こそが「神の国」に入ることになるというメッセージでしょう。
では、このたとえ話を、ヨハンのキャンパス伝道の文脈に用いるとしたらどのようになるでしょうか。ヨハンのキャンパス伝道で本来招かれているのは若い大学生たちです。若く将来のある大学生たちに一人でも多く教会(神の国)に来てもらいたい。ところが声をかけた大学生たちには無視される。最初は行くといっていた大学生も、当日になって「他に大事な用ができた」と断ってくる。途方にくれていたところ、新宿の駅前にいたホームレスの人から「ゴスペル聞きたいので大学生ではないけど、私のようなものでも行っていいだろうか」と声をかけられる。戸惑った筍員は、筍長に、あるいはリーダーに相談する。その時にこそ、筍長、あるいはリーダーは、この箇所を引用して、「ぜひ、その人を連れてきなさい。交通費がなければ、教会で負担しましょう。主イエスは、無理にでもそのような人を連れてきなさいといっておられるのだから」と指導する。そういう箇所ではないかと思います。
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