Q.ヨハンの牧師・宣教師達はイエス様がいちじくの木を枯らされた話しを例えに「神様は実を結んでいない人は枯らされる」とよく言われます。実に関しては聖霊の9つの実・魂の実〜…etcなどをよく出されます。
そして金牧師婦人はよくこんな事も話されます。「私は聖書を信じないと言う人は必ずイエス様がいちじくの木を枯らされたという所を読んでイエスは実を結んでいないから腹が感情的になって枯らしたんだ。そんな自然を愛していない神様は信じない!と言いますが、それは間違いです。神様は自分でお創りになった自然を愛していない訳ありません。感情的になった訳ではありません。これは実を結んでいない時期に実を望まれた。だけど結ぶ時期ではない。つまりいつも実を結んでないと枯らされるのです」と言います。
ですがここで私なりに矛盾点があるのを見つけました。結局実を結ばない木は役立たずと思い枯らされる。と言うことですよね。確かに人間は花を咲かせない植物などは捨ててしまいますが、これでは言い方は違えど感情的になっていて人間の考えそのままだと思います。ここでイエス様はどのような事を言いたかったのでしょう?
ヨハンの現役信徒は実を結んでいないと枯らされるという恐怖から心もなく奉仕などをやっているのが現状です。また卒業生もこの御言葉から恐怖にとらわれていて自由な信仰生活を送っていません。川島先生はこの箇所をどう解釈されますか?宜しくお願いします。
A.主イエスが、いちじくの木を呪ってそれを根元から枯らしたという出来事は、マタイ(21・18以下)とマルコ(11・12以下)が伝えています。これを私がどう解釈するかというのが、クレープさんの質問です。
福音書が伝える限り、主イエスはその生涯で何度か激しい怒り、憤りをあらわにしていますが、ここはその一つです。このような箇所を読むときに重要なことは、主イエスはどのような文脈で何に対して怒り、憤っておられるのか、その怒りと呪いの矛先を理解することです。
そこでこの出来事が記されている箇所の前後を読んでみると、マタイでは直前に、エルサレム神殿から商人たちを追い出す主イエスの激しい怒りの描写が記され、直後には同じ神殿の境内における祭司長や長老たちと主イエスとの論争が記されています。さらにマルコでは、いちじくを呪う話が二分割されて、《イエスがいちじくの木を呪う》→《イエス、神殿から商人を追い出す》→《いちじくの木が枯れる》というように、主イエスによるエルサレム神殿批判を、中にサンドイッチするような構造になっています。
すなわち、このいちじく呪いの出来事は、エルサレム神殿及びそこを拠点に権力を揮っていた祭司長や長老たちといった、当時のユダヤ社会の支配者層に対する主イエスの批判と引き離して解釈することはできないということです。
祭政一致の古代社会にあって、当時のエルサレム神殿は単なる宗教施設ではなく、ユダヤ州の中心的金融機関でもありました。ユダヤ人の巡礼たちは、そこで宗教的な清めの儀礼を受けると同時に、十分の一税(今日の所得税)、神殿税(今日の住民税)を収め、しかも、ローマの貨幣をユダヤの貨幣に換金(両替)して収めるなどの仕組みによって、手数料もとられていたと言われます。そうして得られた利益が、貴族的な祭司たちの権力の基盤になっていたわけです。
こうした権力構造の中心となっていた神殿を、主イエスは、葉が生い茂って見かけはたいそう立派だけれども、本当に渇いている人の渇きを癒す実をつけていないいちじくの木にたとえて、これを呪って、根元から枯らすという象徴的行為によって、当時のエルサレム神殿に神の怒りと裁きが下ることを預言されたのです。
いちじくはぶどうと共に、当時のパレスチナの代表的な作物であり、ユダヤの民や王をいちじくにたとえる預言は旧約の預言者エレミヤなどにも認められます(エレミヤ書24・1以下)。
また、象徴的行為によって、より効果的印象的な預言を行うことは、イザヤ(20・2以下)やエレミヤ(27・1以下)にも認められる古代ユダヤの預言者の伝統的手法です。一本のいちじくの木を呪って根元から枯らすという主イエスの行為も、このような文脈で理解すべきで、自然を愛していない云々といった解釈がまとはずれなことは言うまでもありません。(この点は金牧師夫人に対する批判ではありません。夫人もこのような解釈は斥けておられるようですので。)
以上のような解釈に基づくならば、「実を結ばないいちじくの木」に対するイエスの呪いを、筍員を伝道(勧誘)活動に駆り立てるために用いるというのは適当ではないことは明らかであると思います。むしろ粉飾決済などで見かけを立派に見せながら内実のなかったどこぞの企業や、外観は立派だけれども、中身はボロボロだった耐震偽装マンションを売って利益を得ていた人々に対して用いられるような、社会性のある主イエスの怒りであると思います。
また、神殿に対する批判であったという点に着目するならば、教会が建物は立派で、沢山人が集まっていても、もし、そこに本当に飢え渇いた人を受け入れて、癒す愛が働いていないならば、葉ばかりで実のないいちじくと同じで主イエスの怒りの対象になるという自己批判として、私たちはこの言葉を読むべきだと思います。
All rights reserved by Kenji Kawashima.