back|home

Q.エゼキエル書の3章16節〜22節の「預言者の務め」または、33章1節〜21節の「見張りの務め」の箇所。この箇所を先生はどの様に解釈されているのか聞きたいです。

ヨハン教会の2004年3月頃の礼拝で、悪人に向かっての警告が「福音を伝えること」にすりかわり、福音を伝えなかったら滅びの責任がその伝えなかった人に移るとのメッセージを金牧師がなさったのを聞きました。今思えば、もっと声を大にしてこの適用のおかしさを主張して脱会しなかったのだろう…と後悔の気持ちすら持ちます。この聖書の箇所を理解するにあたって大切なポイントを教えてくださればうれしいです。

 

A.この箇所はいずれも預言者がその務めを果たさない場合に神から責任を問われるということが言われています。

そこから恐らく、類比的にキリスト者が福音宣教(伝道)の責任を果たさない場合には、その責任を神から問われると金牧師は説教されたのだと思います。

さて、ここでの根本的な問題は、果たして伝道することは、キリスト者(筍員)すべてに課せられた務めであるのかということです。これについては使徒パウロがはっきりと述べています。

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。・・・皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。(そうではない。だから)あなたがたは、もっと(伝道することよりも)もっと大きな賜物(愛)を熱心に求めなさい」(コリントの信徒への手紙T、12・28以下)

キリスト者は伝道すべきだということが、何か自明の至上命令のように言われがちですが、聖書を注意深く読んでみれば、そのようなことは言われていません。

例えば、伝道の勧めとしてよく引用されるマタイ福音書28・19以下の主イエスの言葉

「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」

これは、主イエスが、生前に選りすぐって訓練した11人という限られた弟子に語られた言葉です。「洗礼を授け」ということが明示しているように、今日で言うならば、神学的な教育と実践的な訓練を受け、牧師としての按手礼を受けた牧師、宣教師、伝道者に向かって語られた言葉です。

あるいはテモテへの手紙U,4・2「み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」も、しばしば伝道の勧めとして引用されますが、これも、使徒パウロが、教会全体に対して語った言葉ではなく、テモテという、やはりパウロが選りすぐって訓練した弟子個人に宛てた書簡の言葉であることに留意すべきです。

キリスト教会は、伝道者の教育と訓練に長い時間をかけてきました。今日でも神学的な伝統を重んじる伝道者養成機関(同志社大学、関西学院大学、東京神学大学など)は、最低6年間の学びと、その後2年間の実習期間を経て按手を授け牧師に任じるというプロセスをとっています。つまり伝道とは簡単なことではないのです。

聖書と教会史の言語(ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語)の最低限の知識の習得、それだけでも3年は必要です。聖書各巻についての緒論(これらの文書がいつ頃、どこで、どのような意図で書かれ、どのようなプロセスを経て現在の姿になったか)、古代から中世、近世にいたる教会史、教理史、そうしたキリスト教についての最低限の知識を踏まえて伝道ということが可能になると私は思っています。

このような主張に対しては「信仰は知識ではない」と批判されるかもしれません。しかし、そのような批判がまったく正しくないことは、キリスト教の歴史そのものが示しています。

すなわち、キリスト教の最大の伝道者は、生前の主イエスから直接訓練を受けたペテロ、ヤコブ、ヨハネら12弟子ではなく、12弟子から脱落したユダに代わってくじ引きで選出されたマッテヤでもなく、生前のイエスとは直接かかわりのなかった律法学者パウロであるという事実。そのパウロが書き残した書簡群が、福音書と共に私たちの信仰の正典になっているという事実です。

終末の到来がパウロの予想を超えて遅延した時(パウロは、明らかに自分の生きているうちに終末が来ると信じていた。テサロニケの信徒への手紙T、4・15参照)、すなわち、キリスト教が歴史的な現象になっていった時に、この信仰と知との結びつきはいよいよ必然的となっていったと思います。

教会史に名を残しているキリスト教の指導者、あるいは改革者たち、アウグスチヌス、ルター、カルバン、ウエスレー、彼らの福音に対する熱情は、深い知識に裏打ちされたものでした。

長くなりましたが、私が言いたいことは単純なことです。軽い気持ちで伝道などできないし、昨日今日キリスト者になったばかりの人を伝道に駆り立ててもいけない。洗礼を受けてキリスト者になることは、イコール伝道者になることではない。聖書はそのようなことを命じていない。パウロがすべてのキリスト者に勧めているのは伝道ではなく、「愛を追い求めよ」ということです。その「神の愛」の追求の仕方は、各人各様であるはずです。

All rights reserved by Kenji Kawashima.