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Q.「淫らな思いで女を見た者は、心の中で姦淫を犯したのである」という御言葉をどう受け止めるのがよいか知りたく思います。

東京キリストの教会では性欲が組織の維持強化の目的で巧みに管理されているいう事が川島先生の提言の中にありましたが、通常のキリスト教会ではどの様なルールが一般的なのでしょうか。私は人との淫らな性交渉はよろしくないと思いますが、個人的に性的な思いに囚われる事すら「姦淫」として裁くのはおかしいのでは?と思います。幸いヨハンではそれをほのめかす様な指導はあったものの、個人的な性欲を厳しく取り締まる事はありませんでした。そのような罪に対する罪悪感を利用して人々を統制していった様な雰囲気はありましたが。統一教会などでも、そういった行き過ぎた純潔運動をしていると聞きます。そう考えると、ヨハンにはまだまだ良心的なところもあったと思います。

 

A.性の問題に関し「通常のキリスト教会ではどの様なルールが一般的なのでしょうか」とお尋ねです。

ヨハン教会の文脈では、この問題は未婚の男女の性的かかわりの問題ということになるでしょう。こうした問題を扱うに際して、先ず心に留めておかねばならないことは、使徒パウロ自身が、「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」(コリントの信徒への手紙T、7・25)と明言していることです。

パウロでさえ、これは神からの指示ではなく、あくまで自分の意見に過ぎないと言っている。この謙虚さを私たちもこの問題を論じるにあたって、常に心に留めておく必要があります。したがって、私が以下に書くことも、聖書的教会的基準といったものではなく、あくまで私個人の意見としてお読みください。

独身の男女の性的な関わりの基準として、「みだらな思いで他人の妻を見るものは誰でも・・・」という主イエスの言葉(マタイ福音書5・28)を引用することは適切ではありません。ここで問題にされているのは、あくまで「姦淫」、すなわち既婚男性が、自分の妻以外の女性をセックスの対象として見つめることが批判されているのであって、独身の男性が独身の女性を性的対象として見ることが批判されているのではないからです。(ちなみに東京キリストの教会では、少なくともわたしが聞き取り調査をした2000年頃までは、この「姦淫」を独身男女の性的行為にまで拡大適用することで、聖書の言葉の乱用がなされていました。たとえばマスターベーションも姦淫に相当する罪であるというような解釈です。)

さて、それでは独身男女の性的関係について何か基準になるような箇所が聖書にあるでしょうか。直接言及していると思われるのは、先に引用したパウロの言葉に続く以下の箇所です。

「ある人が、自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり・・・自分を抑制できないと思うなら、思い通りにしなさい。罪を犯すことにはならない。二人は結婚しなさい」(コリントの信徒への手紙T、7・36)。

ここにはパウロの個人的な意見として、未婚男性が、同じく未婚の女性に対して性的な欲望を抱くこと、またその欲望に従って行動することは罪ではないと明言されています。また続けて二人は結婚しなさいと言っています。したがって、これを拡大解釈すれば、婚外の性交渉は不適切と考えているようです。別の箇所で娼婦との交わりについてははっきりと禁じています(コリントの信徒への手紙T、6・15以下)。しかし、だからといって、婚前交渉を禁じるとまで言っているかどうかは不明だと私は思います。

私の個人的な意見では、経済的に独立している成人の独身男女が、両者の合意の上で結ぶ性的な関係は罪ではないと思っています。結婚という制度は、あくまで時代的制約の中にある相対的なものですから、これを神学的規範として婚前(外)交渉を罪と断じることはできないからです。

ただし、複数の性的パートナーを持つことは、ふさわしい行為でないと私は思っています。それは聖書の言葉に基づいてというよりは、もし自分のパートナーが、そのような行為をしたら、自分は深く傷付くだろうという思いからの類推で、私がそのような行為に走れば、私のパートナーも深く傷付くだろう。そのように人を傷つけることはよいことではないと思うからです。

以上、お答えになったかどうか分かりませんが、今の私の考えを思いつくままに書き連ねてみました。

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