Ausarbeitung Twestens zur Vorlesung 1811:“Die Dialektik“

In: F. Schleiermacher Dialektik(1811) herausgeben von A.Arndt, Hamburg 1986, S.84-85.

Zusammenfassung auf japanisch von Kenji Kawashima am 9. März 2000.

1.      実在的諸問から分離されたり、それらに対立させられるような知の最高原理についての学問は、好ましくないし、精神を殺してしまう。同様にそれらが無ければ、学問的方法は成立できない。

2.      知の最高原理と学問的構築の原理は一つである。超越論哲学と形式哲学とは分離され得ない。しかし、その記述においては、ある時は学問的構築(哲学する技法)への関連が、ある時は最高かつ最も普遍的知自体への連関が前面に出るということはある。

3.      最高の原理についての学問を、私たちはプラトンの用語法にしたがって、弁証法と名づける。したがってそれは倫理学と自然学の上にある。

4.      弁証法は、全学問の論理学(Organon)である。これによって人はすべての知(Kenntnis)に、学問の全範囲内においてそのあるべき示することができる。これに対して弁証法は何も産出せず、したがってそれ自体は空虚である。

5.      より高次の、すなわち理性的知と、より低い、すなわち経験的知との間に対立は存在しない。すべて知が知になるのは、知の原理の参入による。したがって、弁証法が場所を指示することのできないような知は存在しない。なぜなら知はすべて知の体系に属しているからである。

6.      懐疑主義が弁証法に着手することはない。なぜなら、a)懐疑主義は、知(Kenntnis)は知のイデーの下に包摂されることはできないと主張し、それから、結合の諸規則を承認し、それらと共に弁証法の諸原理を承認する。b)あるいは、懐疑主義は、統一を形成すべき人間理性の主張の対立性を引き合いに出し、そこから、あるものが知であるかどうかを知ることの不可能性を証明しようとする。その後で、懐疑主義は、統一の規則を承認する。したがって、その主張に何か真があるとしても、それは弁証法の領域の外にある。c)懐疑主義が知のイデーを思考不可能と説明することによって、それは同じことを承認している。つまり、生き生きとそれに向かう努力として作用しつつ。なぜなら、そうでなければ、懐疑主義は戦いの対象を持たないからである。

7.      もし知がすべて知の原理の登場によって知になるのであれば、弁証法を持つ以前知は人の中にどのようにして存在可能なのか。そのような知は疑いも無く存在するのだが。知が二重の性質を持つということはない。なぜならそのような二重の性質によって意識の統一は破棄されてしまうからである。弁証法を持つ前と持った後とで人が知をどのように見出すかに相違が生じることもない。しかし、人は知の原理を二重の仕方で所有することが可能なのである。すなわち無意識に単なる動因として活動においてと、意識にもたらされたものとして。第1の形式において、知の原理は、知の形式において私たちの中に現れるすべてのものを形成する。第2の形式において、知の原理は、第1の形式において形成された知を学問の形式に受け入れるという課題を遂行する。これによって、知の形式も意識の形式も特に相違するということはない。この対立はむしろ常に相対的対立である。

8.      人は最高原理に、それをすでに知っている以外、いかなる仕方で達することができるだろうか? 超越論的原理と形式的原理とを分離するならば、一方の正当性を前提とすることによる以外に、誤謬に陥っていないという確信に至ることは不可能である。超越論的なものと形式的なものを一つと見なすならば、それは所与の知すべての形式に含まれねばならない。(他ならぬ誤謬の形式にも。なぜなら絶対者を見出すためには、私たちは可能性としては誤謬のみであり得るような偶然を度外視しなければならないからである。)絶対者は個々の知すべてに含まれているという仮定は、そこから結果するものと同じ威厳をもつことはなく、その限りでは、知に対する信仰の優先性を認めなければならない。しかし、私たちすべての確信の中にある動因は、再び知の原理を形成する。

9.      したがって、最高の知は、次のような原理である。すなわち力としては、そこからすべての実在的知が、不完全な知も含めて生じるような原理である。また意識されたものとしては、そこから実在の学問が生じるような原理である。しかし私たちはその原理を、知と認められた個々のものから出発することによって求める。