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序論

1.         この批判のイデーについて

いかにしてある特定の倫理学の叙述が、その諸原則から、他の倫理学を吟味し評価するか、このことを私たちはすでにしばしば見てきたし、人間の行為の普遍的な規則について新しい仕方で語ろうと考えた人は、ほとんど皆それをやめることはなかった。そのような比較において通常経験されるように、そこから以下のことを取り除くことはできない。すなわち、どの程度一方が他方と異なっているか。この個々のまなざし―誰もが自分の道に有利な立場から他の立場に投げかけるところのまなざし―よりもより完全なものが何の為に必要なのか(ということを取り除くことはできない)。しかし、さらに少数なのは、両者のいずれが正しいかということである。なぜなら、しばしば事柄は次のような感情を引き合いに出すことによってのみ行われるからである。すなわち誰もが審判において自分自身のものに対して等しく前提とするような感情である。いったいそのような道においては、学問の為に何も決定することはできない。あるいは事例が示しているように、このような発言は、一方が証明し実現することを他方はそのようにできないということに基づく。また、一方が要求するものが、他方によっては要求されるべきでないということに基づく。この種の根拠にいくらかの重点が置かれるべきであるなら、吟味が関係するところのその倫理学体系は、すでに正しい体系として証明されたのでなければならない。しかし、これは、その体系が、自分について次のように語るとしても、すなわち、この体系からのみ、次のような態度が生じる。市民的社会で望まれるような態度、〈10〉神にふさわしくあり得る態度、総じて人間に真に有用であるような態度、これらがこの体系からのみ生じると語るとしても、そのようなことを用いることによっては不可能である。なぜなら前二者は倫理学説には無縁だからである。倫理学は、学問として、他の目的に従属することなく、ただ自己の為に評価される権利を持っているのである。最後の態度は全く愚かである。ある人が、ある倫理学派について、おまえは他の学派よりも徳にとって有用であると言うこと以上に笑うべきものを思いつくことはできない。そうではなく、これはただ以下のことによってのみ生じることが可能である。すなわち、そのような叙述が自ら、次のことを示すことによって、つまり、それが自らの課題を形式にしたがって完全に、また純粋に解いたということを示すことによってである。なぜなら、その叙述は、これが同じ結論を導くまでは、全て他の叙述をその要求と共に退けることができるからである。すなわち、倫理学になることを欲し、またそうあるべき全ての本来的学問にとっては、学問的形式の批判以外の批判は存在しない。そして、そのような批判を樹立することがここで求められるべきである。しかしまた、そのような批判によって、倫理学の為に多くのことが獲得されるのかどうかということも、正当に問うことが可能であろう。このように問う人は、その試みが示すであろう答えにさしあたり満足するか、あるいはその懐疑によって、二重の前提を参照するように指示されるだろう。すなわち、もしその内容について、またその諸原則によって、少なくともそれら自身が自ら主張するように、互いに非常に異なった倫理学の体系が、それぞれ自分のやり方で、技法にふさわしい仕方で、課題を解決するならば、その方法において、一方に対する他方の優位に関しては何も区別することはできないだろう。しかし、誰がそのようなことを信じられようか。同一の課題が、それぞれの原則にしたがって、複数の異なった解決に誤りなく達するということがあり得るというようなことは、学問についてはほとんど考えられない。むしろその場合私たちが確かさを持って推測することは、その倫理学が独自な一つの学問ではないということのみならず、その倫理学についての思想が、幾重もの空虚な図式に由来しているに違いないということである。〈11〉これに対して、もし形式の正しさについてのその証拠が、たった一つに与えられる、あるいは全く与えられないならば、その場合には、今後私たちは倫理学が学問であると考えることが許されるし、また、この批判のあり方が、私たちに倫理学がすでに実現しているところを示すか、または、なぜそれがまだ実現しないかを示すと望むことができる。なぜなら、形態と内容とが互いに証明に役立つということは、技法にも学問にも妥当することは疑いのないことだからである。すなわち、形態に反するものは、そのように作られた何らかの全体の構成要素であることを望むことは全く許されないし、他方また、ある特定の内容を身につけていないような形態は、全て他のものを自分の力から除去し、このような形態は、それを満たす為に、何か善いもの、価値のあるものが、提供されるように要求することも許されない。倫理学のように幾たびも論じられてきた学問が、その概念だけは与えられても、従来の試みのひとつだに承認されることなく、新しい試みを前もって立てることもなく、批判の下に置かれることができるという可能性は、このような原則に基づくのである。

 

2.         この批判の限界について

どのようにして倫理学がその従来の姿において、独自な真の学問であろうと欲する要求を正当化したかということを探求するのが、批判の仕事であるならば、結果として生じるのは以下のことである。すなわち、この批判がそれを遂行する権限があるのは、ただこれらの要求が言葉あるいは行いによってなされたところ、すなわち、その領域を包括する関連のある体系 それは人間の偶然的な行為を一つのイデーのもとに眺め、そのイデーによって、人間的行為の中でこのイデーにふさわしいものは、排他的に、例外なく善として定立され、同様に全てこのイデーと相容れないものは悪として拒否されるのだが が約束されたところだということである。しかしながらその際、一方においては、個々の叙述のほんのわずかな差異のすべてが、〈12〉このイデーに、特別に探求にとどまることを要求する権利を与えるわけではない。なぜなら、もしそのようなことになれば、結末が見出されることもなければ、次のことも阻止できないからである。すなわち、おそらく当初は誤解や不手際に過ぎなかったものが、私たちに報われない努力を引き起こすのを阻止できないからである。しかしまた他方、私たちが求めているものが、はっきりと表明された言葉で告知されたり、一目で自らを証明するような姿で詳述されるという必要はない。そうではなく、暗黙の意図、不完全な行為で私達には十分である。したがってプラトンでさえ、彼はこの分野で最初の最も優れた働きをした人たちの中でも傑出しているが、結論に達する完全な叙述を彼の倫理学において残さなかったのである。しかし、もしこの人が排除されるべきであるとするなら、誰が他によいといわれるに値する人がいるだろうか? あるいは、プラトンが倫理学を学問と考え、そう望んでいたということが否定されえないのなら、彼はそれをどのようにして可能にしたのであろうか。また誰もが認めねばならないほど明白なことは、そのようなほのめかしや発言は、彼の著作の中に、あちらこちらに散在するというのではなく、独自な全体の部分として、それに精通したものには容易に組合すことが可能な互いに連関し合う部分だということである。彼(プラトン)や、同じ状況にある人は、その人自身も、そのイデーも、その欠損ゆえに非難されることはできない。後者(イデー)に対しては、それがその性質上、始められたものを完成するには十分ではないということが示され得ねばならない。したがって、学問的な実行や目論見がそれ自体として(an sich)、あるいは私たちのために(für sich)現存していないところにおいてのみ、倫理的なものもこの批判の対象になり得ない。「私たちのために」というのは、次のような諸国民について理解されねばならない。すなわち、彼らについては、ヘレニズムに由来する私たちの知恵のようなものが、私たちとの関連で知られていないような諸国民である。「それ自体として」というのは、一般的な語りや考えが持っているすべての倫理的な発言について、また同様に、神的なものを前提とするような戒めに関係するすべての倫理学について理解されねばならない。なぜなら、存在の根拠による学問の批判は〈13〉凡俗な悟性が持つ半端でずれた諸概念や、啓示から生じるような教説と関わり合いを持つことは許されないからである。後者に対応するものとしての敬虔(Gottseligkeit)についての倫理学は、啓示によって提供された内容の叙述に過ぎないのだから、それは全く学問の外に置かれる。もしそれが、その内容を何らかの仕方で、自然的認識と結びつけようと欲するならば、それは必然的に凡俗な考えによる技法を欠いたばらばらの言表に従うか、何らかの学派の学問的方法に従うかのいずれかである。その両者を、この倫理学は、いつの時代も交互に成果を伴いながらなしてきた。両者は、この倫理学の内容の部分―その根底には神がまだ特別な対象として存在する―にも妥当する。なぜなら、凡俗な考えは特に倫理的なものと敬虔とを結びつけるからだが、しかし、学派の倫理学の方も、神に対抗する義務や心情について何らかの仕方で論じることをやめない。前者、すなわち凡俗な悟性の発言は、それ自体連関においては全く考察され得ないものである。そこには諸原則の表向きの統一さえ存在せず、あちこちにばらばらに置かれているように見え、それらを保持しているものも、倫理学とは無縁な関係に過ぎないからである。しかし、それにもかかわらずそれらは不可避な相互作用の中にある。ある時はこれらを規定し、ある時はそれらによって規定され、学問的倫理学の試みと共に、その限りにおいて、個々の事例で、これらを考慮することも必要である。

しかし、それに続いては、偶然的な人間の行為についてのあの体系だけが、探求の対象であるべきである。そして、これに上からあるいは下から関わり合ってくるのが常であるようなものには一切、この探求を拡大してはならない。それゆえ人間の行為は、それがこの学問の内容である限り、偶然的行為と呼ばれたのであって、自由な行為とは呼ばれなかった。すなわち、〈14〉考えの不均一ゆえに、個々では前もって決定できないような概念を完全に避けるためである。というのは、ある人々はこの概念を不可欠なものとして自分の倫理学の根底に据えるが、他の人々は、彼らもまた倫理学を立てるにもかかわらず、この概念を全く否定するからである。また、この概念を、最終目的のために、全く脇へ取り除けておく人々―カントもその一人だが―もある。仮に私たちが、これらの方法のうち一つを、倫理学のために必然的であると前もって決めるとして、どれかを選ぶとすれば、私たちは、別の考えを持った人々を初めから排除するという、私たちの権能外のことをすることになる。そして、すでに所有されている以外の場所に探求全体を置くことになる。したがって、この概念は定められた領域内にはまったくないものなのである。なぜなら、それを認める人であれ否定する人であれ、誰も次のように主張することはないからである。すなわち、もし自分の確信がそこから変化するならば、彼の善悪の基準も以前とは変わってしまうというように(主張する人はいないからである)。誰も、自分は善悪の区別を一切受け入れないなどと熱意を込めて語る人はいない。それが意味するのは、人間性を肉体のどこか一部よりも、わずかしか理想に服従させないということである。なぜなら、人間性について私たちが確信しているところは、そこではすべてが必然的に起こるのであり、したがって、理想の概念を使用しながら、様々な性質の間で、あるいは同じ性質の個々人の間で、完全なものと不完全なもの、あるいは美と醜の区別を誰がしないだろうか? したがって、人間の人為的な行為やその成功の上に、理想的なものに従った判断の体系が存在している。そして、その際その行為者もまた別のもっと善いことができるという自由を持つかどうかといった問いがその都度持ち出されることはない。そうではなく、この概念は、学問よりも一方ではより高く、他方ではより低い。すなわち、この概念によって次のような適用がなされるなら、その適用はより低いものである。その行為者が、別の仕方ではできなかった、あるいは、別のことを望まなかったということを、人が考えまた語らねばならないかどうか、もっと正確に〈15〉表現するなら、彼がもっと別の仕方でできることを望まなかった、あるいは別の仕方で望むことができなかったかどうかが、もし決定されるべきであるなら(その適用はより低いものである)。なぜなら、このような問いは、もし倫理的判断によって、行為に関し、疑いの対象である何かが―それもまた行為者に引き移されるべきものである限り―言い表されない限り、(このような問いが)投げかけられることはないからである。しかし、自由についてのこの問い自体が、倫理学という特別な学問よりも高い場合というのは、その問いが、人間の性質を、その本質的な連関において何よりも共に定立しつつ表現しており、人間の特性に対する人格の関係を―それによって彼は全体の一部なのだが―規定するはずのものである限りにおいてである。なぜならこれは明らかに、自然の秩序にしたがって、すべての個々の学問に先行しなければならず、決して同じところに引き下ろされることが許されない仕事の一部だからである。しかしながらこれによって次のようなことが言われているわけではない。すなわち、その問いは、そこから倫理学が導出されねばならないようなあの高次のものに正に属している(というようなことが言われているわけではない)。同一の理由から、大部分の人によって倫理学にとって必要と見なされている人間精神のあらゆる区分が問題なのではない。その区分は、個々の互いに付き添わされたり、従属させられたりする種々の力や能力においてなされるのだが(そうした区分が問題なのではない)。なぜなら、ここでもまた倫理学がそのような何らかの区分に関係しなければならないかどうかを決定しようと欲することは、先の概念形成の所有や人間性の導出を前提としているからであり、またそれは、従来の倫理学的試みから、不可避的に新しい試みを自らやってみることへと駆り立てられるからである。そうではなく、私たちになすべき義務としてあるのは、誰もが明るみに出したことから、次のことを示すことである。すなわち、どんな成果を伴って、その一方は、この補助手段を全く放棄し、他方は何を達成したか(を示すことである)。なぜなら、私たちは、前者の方法も後者の方法も、倫理学自体のないがしろにできない条件と見なすことはできず、そうではなく、私たちはすべての個々の事例に対して、それはこの体系において恣意的で偶然的に過ぎないのか、それとも、その最高原則―それが精神であれ文字であれ―によって制約され根拠付けられているのかを問わなければならない。

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3.         この批判の配列と区分について

本研究の配列について言えば、おそらく大部分の人―というのはそれが彼らには最も適切と思えるので―次のような期待をもっているだろう。すなわち、人が従来のあり方で様々な学派と見なすのが常であったような倫理学の様々な扱い方を、相互に、その独自な連関において評価するというような期待を持っているだろう。しかし、正にこの概念こそ、人が立て、また数えることのできるこれこれしかじかの多くの学派によって、何か現実的で本質的なものに関係するよりも、むしろ偶然的で、半ば創作されたようは表象様式なのである。もちろん、それが元来意味を持っていなかったというわけではない。しかし、これはむしろ歴史的概念であって、内容にも、慣習にも該当していない。この言葉の現在の用法は次のようなものである。すなわち、事柄に精通している人たちは意義なくそれに従うけれども、彼らはそれによっていかにわずかしか適当ものが示されないかも知っている。すなわち、誰もが認めるように、学問的な意味での学派は、単に創設者とその追従者からなっているということは許されず、それに従う人は、創設者が持っていた見解を、さらに形成し、常に自分の精神に忠実でありながら、その見解が許容する多様性にも光を当てるべきである。ある人はこの見解、他の人はまた別の見解というように、その人の性質に従って理解する。そのようにして、ある人は全体の中のこの部分に、他の人は、同じ全体の中の別の部分にそれぞれ優先的に携わるのである。この意味で、少なくとも倫理学の内部には、その根源的な固有性が失われることなしに、確固として完成へと形成されたようなものはまだ存在していない。なぜなら、たとえ誰かが第一印象で次のように考えることができたとしても、すなわち、古代にはエピクロス学派が、近年ではイギリス道徳哲学が、この考えに近いと考えることができたとしても、しばらく観察していれば、〈17〉このような見せかけは失われてしまうからである。しかし、このようなことは単に通りすがりに暗示されるに過ぎない。しかし、この見解に従って最適な仕方で研究が秩序付けられることはもっと少ない。それはただ不十分にしかなされず、読者を混乱させる繰り返しを伴うのである。なぜなら、このような学派すべての内部には、単なる逸脱―それは、他の観点では一方を他方から区別するものよりも重要ではあるが―があるのみではないからである。そうではなく、最大限の固有性もまた、他者に対する関係なしには―それはそのような分離によって眼前から取り去られるのだが―正しく理解され得ないからである。これを超えて学問のいくつもの部分では差異が消滅している。その差異は、全くではなくとも、人が最高のイデーの表現における逸脱によってや、その大きな不均一さの主張によって推測するよりもずっと多いのだが。したがって、倫理的課題の解決に不可避な条件にしたがって全体を秩序付ける方が、よりよく思われる。すなわち、この大きな主要部分の中で、叙述をある時はこう、ある時はまた別に作り上げる。その都度ふさわしい見通しと正しい比較が、ある時はこの、ある時はあの配列によって最大限引き立てられる。すなわち、暫定的に立てられた概念に基づいて、すべての倫理学の第一の必要条件は、主導するイデーまたは最高原則である。それは行為の性質を表現する。すなわち、このイデーによって個々のものすべてが善として立てられ、全体系が、このイデーが現れ得るようなものすべての記録であることによって、これはいたるところで再び見出されねばならない。このイデーを、そのような体系を基礎付ける為の適格性という観点からのみ評価することが、第1部の課題である。それからさらなる課題は次のことである。すなわち、不確かな状態と要求によって、善と悪が可能なすべての場合に対して、善が実現するような行為のあり方が、〈18〉主導的イデーとの関係においても、また、そのイデーの特別な対象との関係においても特徴付けられることである。この個々の倫理的概念の性質を吟味することが第2部の内容である。すなわち、善と称するものが本当に善であるかどうかを吟味するというのではない。なぜなら、このようなことは、私たちが自らを置いたところからは、それ自体決定できないからである。そうではなく、ただ倫理的な諸概念が、自らの下で、その最高の根拠と正しい関係にあるかどうか、そして、真実な内容と確かな輪郭を誇っているかどうかを吟味する。しかし最後に次のような問いが生じる。すなわち、これら諸概念の全体は、可能な人間の行為の全領域を満たしているかどうか、その結果、そこにおいて倫理的に形成され得るものは何も排除されておらず、倫理的判断の対象として示されるものは何も不確かなまま放置されていないか、端的に言えば、その体系も完全で完結しているかどうかということである。第1部において諸原則について下された判断の正当性を証明し、したがって最初に戻るこの研究は、第3部で全体を締めくくらねばならない。この過程で望まれることは、取られた立場との関係で、学問としての倫理学のこれまでの進展について完全な見通しを獲得し、すべての人が、そのように処理された内容の価値について判断を下せる状態にすることである。

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