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第1部                 倫理学の最高諸原則批判

従来倫理学の根底に置かれていた様々なイデーを、その価値と言う観点で、すなわち、学問的な建造物を叙述する為の有用性という観点で判断するに先立って、さしあたって、それらイデーの様々な起源への問いがおのずと浮かんでくる。すなわち、最高のイデーは、個々の命題によって、それらを通して見出されることが可能であり、それは、これら個々の命題を統一し、学問的形式を完成するという理性の要求を少なくとも個人において満たすためである。同様に確かなことは、幾何学(Größenlehre)においては、第1の、最も単純な命題が先ず見出されるということはなく、その使用において疑いを入れないものとして先ずおのずと湧いてくるものの基礎付けだけが求められた。あるいは、ある特別な要求が、この特定の学問に、その内容ゆえに向かうことが可能であり、したがって、ある人はこのイデーに、他の人はあのイデーに落ち着き、こうして誰もが目の前にした要求を満たしたように見える。あるいは最後に、この学問の最高のイデーも、さらにより高次の学問的根拠を自らの上に持ち、そこから純粋に下っていく研究を通して、何ら他の関心を持たないものとして成立したか、あるいはその根拠に結合し、そこへ帰って〈20〉いくものとして表象される。なぜなら、一方の理性が、学問的姿で現れる個々の命題によって、追い払われるが、それは、この命題や、それに付随するすべての諸命題が属する課題や、その解決の根拠を求める為なのだが、このことと同様に、他方のさらに学問的な理性に対し、この要求自体は単に個々のものとして現れるに過ぎず、その根拠はそれ自体さらに根拠付けられるべきものとして現れる。そのような努力が安息を見出すのはただ根拠についての学問、すべての学問の連関についての学問―ここではこれについてより高次の名称は不要であるとしても―の形成において以外にはない。このような学問は、先の個々の学問のように、再び最高の原則に基づくことは許されず、そうではなく、そこにおいてすべてが開始であり得るような、またすべて個々のものが互いに規定しあいながら全体にのみ由来するような、そういう全体として、それ(この学問)は考えられるべきである。したがって、この学問は受け入れるか拒否されるかであり、根拠付けられたり証明されたりできるものではない。そのような最高の、最も普遍的な認識は、学問論(Wissenschaftslehre)と呼ばれるのが正しく、その名称は、哲学という名称よりも議論の余地なくはるかに優先されるべき名称であり、その発見は、後者の名称(哲学)の下で最初に樹立される体系以上に偉大な功績と見なされるべきであろう。なぜなら、その体系が、分離されていない叙述によって、すべての学問的課題の根拠と、その解決の方法にまで降りてこない限りは、それが本質的内容自体を見出したかどうか議論の余地があるからである。しかし、前者(学問論)の名称は、それによってのみ、最終目的の達成が少なからず獲得されたのであり、人間の知のこの最高の目標に絶えず注意を向けさせ続けるのである。これに対して、哲学という名称は、単に一般的に、人間悟性の為に企てられた練習や改良を示唆することによって、誤った独断をへりくだらせるという従属的な役にしか立たないか、先の目標がまだ認められていなかった時代にふさわしい。もし先の最高の認識が、〈21〉すでに論争の余地のない仕方で、普遍的一致の直接的意識と共に見出されているのであれば、私たちの立場から、そこに基礎付けられている倫理学が、他のすべてのものよりも優先されるべきであろう。なぜなら、その欠陥はすべて、たとえ批判がそれを私たちに明らかにするとしても、容易に修正可能な偶然的なものに過ぎないからである。これに対して、すべて他の欠陥は、ほとんどそれ自体で存続しており、よく完成されているようにも見えるが、私たちにただ次のような課題を押し付けるに過ぎない。すなわち、それを前者の欠陥に戻すか、それによってその欠陥が見せかけの価値を手に入れたところのごまかしを暴露するという課題である。しかし、先の認識はそのような仕方で見出されたのではなく、ただ誰もそれを十分に満足させようとは思わない二、三の試みがなされたに過ぎない。したがって、倫理学の一体系に、それがそれらの一つと関係しているからと言って、はっきりとした優位を認めるという考えも成り立たない。したがって、先の試みを比較したり、それらの間で決定を下したりすることは、私たちの仕事ではない。しかし、至るところでそうであるようにここでも、探求されるべき最高のイデーの成立の仕方についての知識が、そのより良い理解に寄与するということはあり得る。また、すべての倫理学の形成がどのような必要から生じるのかということについての洞察は、私たちの期待に対して最初から、しかるべき方向を与えることができる。しかし、このようなさしあたってのことはもう十分である。事柄そのものに進もう。

古代人の中で、完結した連関においていわゆる哲学を講じた人々は、それを論理学、自然学、倫理学に区分するのが常であったが、これら三部門がそこから生い立つ所の共通の根源を示すことはなかったし、さらにより高次の諸原則を立てることもなかった。なぜなら、その幾人かにおいては、ある意味でこれら諸学の一つを他に次のようにして従属させる時、すなわち、論理学は他の二学の為に、真理の目印を含むとか、倫理学は、それに携わることは賢者にふさわしく、その存在の根拠を人間の業として呈示するということを示し、また、自然学は、〈22〉他の二学の対象に、全体におけるその場所を規定するというように従属させる時、そこからいよいよ明らかになるのは次のことである。すなわち、いかにこれら三つの学問が互いに独立しており、それぞれが自分自身の根拠に基づいているかということ。その際、それらの為に共通の推論が見出されることはなく、また、それが明るみに出されることもないということであり、また、以下に人はそれらに安んじなければならないか、そして、いかにそれぞれが、ある種の認識の全領域を包括しているかということである。同一の事情は、理論哲学と実践哲学という最近の哲学区分にも当てはまる。それは先の区分と、論理学の分離に至るまで完全に一致する。むしろここでさらにはっきり強調されているのは、いかに両者互いに共通項がないかということである。なぜなら、どの部分に対しても、とりわけその部分がそこへと分解される諸学問に対して、一般的哲学が上位に置かれる。それは哲学に共通する根本概念を含むものである。しかし、この両部分を結びつける為の、さらに普遍的な哲学は、見出されない。これによって倫理学は、そのイデーの起源とその諸原則の導出に関して、魂の理論からも、最高存在の理論からも同じく切り離され、その結果、ここでも、すべての人間的認識の体系的な結合に出くわすということもない。

カントは、批判という光明によって、この古い建造物をあたり一面照らし出す勇気を持っていたが、彼が、このような考えを実際に持っていたかどうかは、疑うだけの理由がある。なぜなら、彼は確かに、理性の建築術の少なからぬ迫力を持って語りはしたが、しかし、ソクラテス流に問うならば、理性的に知る者として熱心であったように見える。つまり熱情に欠け、理性が過剰であった。少なくとも彼が語ることは、次のことには役立たない。すなわち、何らかの個々の学問の必然性を明らかにすること、あるいは、その内部でそうした学問すべてが把握されねばならない範囲を、その中心点から描き出すこと(には役立たない)                   ある建造物の根本を問われた人が、部屋と部屋を隔てる間仕切りを明示して、〈23〉目の前にあるものの区分―それは最大限でも、弁証法的な要求を満たすことができるに過ぎない―に満足しているというような具合であり、これもまた不十分である。なぜなら、感との追従者や改良者の最善の人々がそれを受け入れたにもかかわらず、純粋な倫理学を、自由の為の理性の立法として、純粋な自然教説、自然の為の自然教説と区別して見ることに、誰が耐えられるだろう。この両学問における立法のあり方は、カントにおいては、全く相違しているので、倫理学に類似した自然の為の立法と、自然学に類似した自由の為の立法が同時に存在しなければならない。これは、これらの学問自体が、不手際な方法を容易に覆い隠すことができるように、変装しているということである。そして彼が、分離した二つの体系を一つにする為に、倫理学自体を人間の規定全体を説明するものとして、最高の学問にしようと欲する時、それはすでに古代において示されたのと同じ偏狭な考え方に過ぎない。よく言われるように、この倫理学者(カント)は、他の理性の達人たち(Vernunftkünstler)を雇用はするのだが、彼の学問によっては、彼らは決して基礎付けられないし、なぜ彼らが正にそのようなものとして見出されたかということも決して基礎付けられない。この実践的なものから出発するすべての理性認識の統一の為には、当然のことながら、これまで分離されていた二つの体系の間の移行、橋が求められねばならない。しかし、ここにあるのは誤解と恣意に由来する単なる空虚な見せかけである。なぜなら、仮に、自由や不死、神といったイデーが、どのようにして吟味する理性のあらゆる努力の最高の目標と見なされるべきなのか理解困難であることがはっきりしているとしても、それらが世界を説明するという作業における全く自然な誤解から生じたように示した人が、どうして理性的な仕方で次のような試みに導かれようか。すなわち、それらのイデーは、行為が命じられる場所では積極的な価値や内容を持つことができないかどうかという試みに(どうして導かれようか)。その場合この発見も倫理学の全く外部にある。〈24〉倫理学は単に理性が命じる内容を行為に対して立てるに過ぎず、その制裁規定(Sanktion)に付け加えられた脅しや約束によっては何も生み出されるべきではない。さらにどのような学問に次のような前提がふさわしいというべきだろうか。すなわち、カントによれば倫理性について及び、幸福について明らかであるように、一方のものゆえに、そして、それと共に同時にそれとは全く無関係な他方も定立され得るという前提が(ふさわしいというべきだろうか)。しかし、先に言った橋渡しをする為には、すべてこれらのことがもたらされねばならない。もし誰かが、不死や神といったイデーを要求された仕方で根源的に倫理学説の中に取り入れるならば、カントが理論哲学に対して行ったのと同じ批判が、非常に容易に次のことを示す。すなわち、それら(イデー)がいかに不必要で、単なる誤解からそこに侵入したかということ、そして、反対に、十分な権利を持って推測できることは、それらは思弁的な地盤に生み出され、そこに本来妥当な位置を持つということである。かくして、この建造物は、一方の岸から他方の岸へ投げたり投げ返したりできるふわふわとした素材で作られた子供の遊戯に変じてしまう。すなわち、このような仕方で最高存在のイデーは哲学の二つの部分に確かに共通ではあるが、一方にあるのは、不可避な欠陥によって成立した産物、つまり外へ投げ捨てられるべき産物に過ぎないし、もう一方にあるのは、何を動かすことも、何のよって動かされることもない余分な駆動装置に過ぎないのであれば、このイデーが、そのような両者を結びつけることは不可能である。カントは大変よいこともしているが、それは、これに応じて、このイデーから倫理学の内容を演繹することを許さないということである。それはこのようなあり方では土台を持たないし、そもそも全く成り立たない。したがってここから次のような連関、あるいはむしろその欠如が十分示唆される。すなわち、つまり誰もうっかりつられて次のようなことを信じることはないということ、あの物理神学あるいは超越論神学―それは最終的にはあらゆる知の殿堂のかなめ石になるべきではあるが―は、この賢者において、彼にとって何か現実的であるということ(を信じることはない)。それは確かに、そこから他の人々がそれを見た幸運な場所であり、それを〈25〉彼も求めているのはただ、彼も自分の道行きにおいて決してそこへ到達できないところのものである。ここでは詳述することは許されないが、しかし、注目すべきであって、全く無視されてはならないことは次のことである。すなわちこの学問体系において、理論的体系と実践的体系の到達不可能な統一の代わりに、全く予期しない仕方で、同一の想像力の下に両者が従属することがいかに示されるかということである。これは、哲学の精神が自由かつ慎重に自らを表しているところではどこでも、軽んじられていることは明白である。すなわち、幸福は想像力の理想に過ぎないということを、創始者自ら告白している。彼によれば、不死と神のイデーは実践的なものにおいて、ただそのイデーゆえにいわばおのずと涌き出るのであり、それらは理論的なものにおいても理性に従った仕方で成立することはない。したがって、残っているのは、それらの存在はどこにあっても想像力の働きのおかげということである。このこと自体はおそらく驚くべきことではないかもしれない。しかし、非常に驚くべきことがこの体系には残っている。すなわち、この体系の精神において、もくろまれたことが、それらイデーによって、いかにまずく述べられたかという強力な証明である。このように言われたことは次のことを示すに十分である。すなわち、カントもまた倫理学を目の前に見出したに過ぎないということ、そうでなければ彼もまた倫理学をもたらし、人間知の中心からそれを記述するという考えを持っていなかっただろうということである。このことは、彼が至るところで論争を遂行しているその仕方からも明らかである。すなわち、倫理学は人間的性質の概念に基礎付けられてはならない。つまり、そのような概念がより高次の地点から演繹可能であるというような考えを微塵だに持つことなく、常にただ普通の恣意的な概念に気を配るということである。さらに、彼自身は、彼の倫理的法則の表現の根底にあるものに全く気を配らない、すなわち、理性的存在の多数性と共同性をどこから演繹するかに気を配らない。そして、彼にとってこの前提は必然的であったので、それがなければ彼の法則は理解不可能なご神託になってしまうだろう。もし必要であれば、他に多くの個々のことが述べられ得るであろう。〈26

しかし、この哲学者(カント)に長くとどまりすぎた。そろそろあの哲学者に、すなわち、多くの人によって、その意思に反して、カントの体系の完成者と見なされている哲学者、すなわち学問論の発見者(フィヒテ)に移ろう。彼は、学問論の発見者として、また彼の倫理学説(Sittenlehre)の体系とそれがいたるところで学問論に関係するその仕方のゆえに、私たちが要求してきたような倫理学(Ethik)の導出実現という要求をなす。もちろん、のっけからこの要求のまったくの厳密さは、傷つけられているように見える。すなわち、もしこの学問論が―それはすべて他の認識の根であり最高の認識であるべきなのだが―、その発見者自身が満足行くように真に展開されるならば、すなわち、そこにおいて、どの特殊な哲学的学問に対しても萌芽が根付き、そこから、自由が許されるやその萌芽が独自な幹として高みへと上昇していくに違いないような、そういう展開がなされるならば、その場合には当然、倫理学説の体系は、学問論のこの特定の場所にまったく連結したはずであり、そのよりどころは、そこに倫理学のイデーが、必然的な思想として見出され、その方法的体系的発展は特別な学問を形成するはずだということである。これにまったく反して、彼の倫理学は、学問論の基礎にそのような場所を援用することをなおざりにしている。他のすべての倫理学同様に、一般的に現存する倫理的必要を指し示すことで始まっているように見える。しかしこのようなことからは、それが超越論的根拠を持たねばならないということは明らかにならない。なぜなら、一般的に見出されたものは、経験的根拠を持つに過ぎない錯覚であるかもしれないからである。ここからは次のような不都合な仮象が生じる。すなわち学問が、そのようなものでなければならないと知ることなしに、行き当たりばったりに始まるかのような、また、それが学問論と結びつくとしても、あたかもそれは偶然的な場所で、偶然起こったかのような(仮象を生じる)。そのようなことがどこでどのようにしてさらに多く存在し得るのか人にはわからない。〈27〉このようなあり方では、それは、人間の認識のすべてを包括する体系において、その必然的構成要素として現れることはないだろう。しかし、この見せ掛けに過ぎない非難は、事柄自体にはほとんど該当しない。そして次のことによって解消するだろう。すなわち、それが、学問論の最初の叙述に満足できないからであれ、あるいは何か別の理由であれ、その創始者が、ここに属する根源的学問の部分―それはここに一部は欠けており、また一部は不適格な姿で存在しているのだが―を、ただちに始めから新たに形成することを、それに不十分に見かけだけ依拠することよりも優先させることによって(解消するだろう)。なぜなら、専門知識のない者は、倫理学説と自然法という二つの互いに異なった特殊な学問に、共通して見出されるべき諸命題を、学問論の部分として認識するに違いないからである。しかし、そのようなことが可能なのは、それら個別の学問が、それらの上にあるより高次の学問に属する場合に限られる。しかし、専門知識をもったものは、一目で直ちに、すべてを基礎付ける課題、すなわち、自分自身を単に自分自身と考えることや、後にもっと詳しく規定されるが、自分自身を客体と見るという課題を認識する。したがって、学問論の最初の根拠に十分通じていない人だけが、次のことに本質的な困難を覚える(このことは講演の中ではもちろん不完全だが)。すなわち、この両者が直ちに同時に定立され、思考を度外視して、見出されるべきものを見出すことは放棄されるべきである(ということに本質的困難を覚える)。そのような学問論を再編成する補足を私たちは単に倫理学説の始めに見るのみではなく、そのあらゆる主要部分に見出す。第一に、それは倫理法則の空虚な思想だけを明るみに出す。また第二に、その代わりに、その内容と適用が見出され、そして第三に、それについてはここではこれ以上問題になりえないものである。何かそのような方法が私たちによって疑わしいとみなされているかのように、これらすべては言われるべきではない。むしろ私たちは〈28〉ここで要求されている最高の学問の部分を後戻りして教え込むことをも、それが正しいと証明される限りは、非常に賞賛すべきであると考えている。しかし、忘れられてはならないことは、それによって、導出されたものとすべての人間知あるいはその他の個々の部分との関連を得ようとして、普遍的なものと純粋に倫理的なものとの間に区別がなされるということである。さらに、それによって、二つの主要部分に、特殊なものが演繹されつつ普遍的なものから出発する場所と方法が、注意深く求められるということである。というのは、ここにおいて最大限の注意深さが求められる。それはこの哲学者の方法の特殊な性質の為である。つまり、それのみがその発見者に第一級の哲学者としての栄誉を保証するところの幾つかの偉大かつ独自な卓越性において、またおそらくは故意に工夫されたのでも、自ら呈示したのでもない危険かつ心を惑わす他の補助手段によっても、彼の方法は傑出している。とりわけ、大目に見ることによって、厳しく疲労させる体系の進行を、準備的な見解や思慮の下で阻止するようなところでは、何かがすでに一時的に半ば密輸入されている可能性があり、その不十分な証拠は、本来のより広い体系の発展において、後からは、いよいよ気付かれにくくなる。したがって、容易に対立の統一においても、またその他定式が幾重にももつれ合っているところでは、重大な計算間違いが、気付かれないまま滑りぬける。あるいはまた、あまりに狭く規定された専門用語を避けるという、他の場合には非常に有徳かつ賞賛に値することも、いくつかの完全に合法的とはいえない簡略化を助長することになる。また、単なる意欲によって、意欲と共に、同時に道徳律もまた見出されるべきであるとするような別の仕方では、あの驚くべきことは達成されなかった。確かに次のことは驚くべきことである。すなわち、自分自身を見出すというような、ある特定の必然的意識を実現するという課題が、〈29〉その点に関して全く偶然的な思考が見出されることによって以外に、解決されえないということ(は驚くべきことである)。したがって飛躍することなく、作品自体において賞賛されているように、意欲の普遍的な意識によってさらに導かれて、特定の義務の特殊な意識へと進んで行く。その結果、後者(特定の義務意識)は、すでに前者(意欲の普遍的意識)に含まれ、ただそこから展開し、叙述されるものとして考えられねばならない。なぜなら、後者の最後の意識は、前者の最初の意欲全般及び自由の意識との関係で、特殊な偶然的意識であるということ、このことをフィヒテは、他の場合とは違って否定できない。誰も理性的存在からそのような考えを完全に奪い去ることはできなかったという主張によって、彼は抗議するにもかかわらず。しかしながら彼がこのことを気にすることなく、どこか別の場所で次のように認めるなら、すなわち、自己活動の現われはある一つの選択において起こる。その選択においては、いかなる側においてもあの法則は考慮に入れられないと認めるなら、人間的な心情自体をも叙述している。すなわちそれは自由なものとして感じられる心情であり、そこでは自己活動の意識は、明るく照らす支配的な意識であるが、法則の意識はまったく暗くされ、破棄されてしまう。さらに、そのような仕方で、特殊なものが普遍的なものと共に、同時に見出されることは不可能であり、後者と同一の根拠によって制約され、規定されることはできないということを誰もが知らねばならない。そうでなければ、学問論に対しても次のような課題が出されることになってしまうだろう。すなわち、自我による同一の根源的行為から―そこから学問論は外部世界を展開するのだが―外部世界における運動、変化、形成の法則もまた導き出すという課題である。これに対して、学問論は常に非常に懸命に、思慮深く抵抗してきた。しかし最後に、この課題は、まず倫理法則という考えによって解かれるような、ある新しい課題ではなく、第一の課題であるということも十分明らかである。なぜなら、ほかでもなく前もって気づかれていたことだが、この自我は、今まで自己活動をひとつの能力として知っていた。したがってそのことによって、たいていの場合、能力の正しい概念に従って―これをフィヒテはいたるところで強調して立てているが―さらに非常に多くが無として成し遂げられた。そして、自己活動が〈30〉それをひとつの衝動として自覚すべきであるということ、そこから後になって直接的に倫理法則の考えが生じる。したがって、この導出は、前もっては吟味に耐え得ないように思われる。それを、扱い方の観察自体もまったく確証している。したがって、課題は、自己活動への衝動がいかにしてそのようなものとして自我全体に現れるかを見出すということになる。周知のようにフィヒテによれば、これは、部分的なものとして以外には見出されないし、叙述することもできない。それにしたがって、この衝動は、個々に、自我の両側面、主観的側面と客観的側面とを規定するものとして立てられるべきであり、この二つの規定は、いつものように、後になってから互いに一つにされるべきである。それはすなわち、先の衝動を意識において表象し、表すために、お互いがお互いを通して制約されるということである。全く単純に、事柄にふさわしくこの方法において受け取るならば、完全な自由の意識として―それは一つの衝動であるのだが―と、伴い完成するそれ自身のすべての発見としての、思考と感情である。すなわち求める感情であり、自由の思考である。等しく必然的なものとして、互いに制約し合い、互いに不可分である。このような解決は全く脇において、これに対して先ず―なぜなら、思考、それも全く別の思考のみが立てられるべきであるから―次のことが準備として示される。すなわち、ここでは感情は期待されるべきではない。なぜなら単なる感情はただ拒否され得るだけであり、同様に単なる思想も自らをほとんど主張できない。さらに同一のことゆえに、またしかし、この方法全体を、見かけだけ適用する為に、―ここで示唆されていたように―見込みが立てられるのではなく、ただ客観的なものを通して主観的なものが、また先の衝動を通してそのように結ばれたものが、それから再び、主観的なものを通してもそのように成立したものが、規定される。この方法の有能な弟子であったに過ぎない者は皆この方法を、不規則なものとして、自我全体の規定を表象する為に、終始不完全に見出すに違いない。しかし、このようなことすべてを度外視するとしても、しかしその結果はただ〈31〉不正な手段でこっそり入手されるに過ぎない。なぜなら、合法的に必然的な自己活動の思考は、本来思考の見出された内容であるが、それは、自己活動の法則の思考あるいは、自己活動の法則を自らに与えることには妥当し得ないからで、ここでは残念ながら、一方は他方に変化しなければならない。規定された記号と規定する記号とがその仕事をこのように取り違えるのであれば、この定式がその以前の価値を保持し、方程式の他の面に対応することは不可能である。そのような誤謬や、さらに方法には全く値しないいくつかの先述した変化が、多くの人に気づかれないままであったということが起こり、他の小さな危険なことを想起することがない。その理由はただ、最初から倫理的強制が課題全体の動機として示され、したがってすべての読者において、身近に伴う思想になったということである。彼らはそれを、それが可能になるや否や列に押し込むのである。クルミの殻に書き込まれたような他の小さな推論ももっとよいというわけではない。そこから生じるのは、理性が自分自身によって、自分の行為を、有限な理性が、有限な行為を規定するということである。なぜなら、本来的な行為と、その他の場合には理想的行為と呼ばれている表象における行為とが、互いに並んで立てられているようなところでは、思考と直観の諸条件が、後者(理想的行為)のための理性の法則であるような場合と同じ意味で、倫理的なものが前者(本来的な行為)のための理性の法則であることはできないからである。ここではこのことが示されているが―なぜなら、純粋な行為の規定は、存在ではなく当為を与えるから―、しかしここから説得する力は、ただ「存在ではない」ということにある。なぜなら、これを取り出す者は、次のことをもはや理解しないからである。すなわち、まったく説明のつかない当為の行為を伴う多義的表現の無差別性や、純粋な行為の規定が、彼にそれほど明確になったのは何のためなのか(理解しないからである)。したがって、また、存在と当為のを混同した使用も、倫理法則の別の表現の唯一の基礎付けであり、そこに後になって多くのものが結び付けられる。すなわち、この法則によって要求されたもの、なぜならそれはまさに常に存在すべきであるが、決して存在せず、無限性の中に〈32〉あらねばならず、その結果それにはただひとつの列において接近可能といわれるからである。連関の効力に関しては、第2の部分において、本来倫理的なものは、一般的なものからさらに鋭く区別される。なぜなら後者は、能力にしたがって、外的諸条件―その下でのみ自我が実践的でありえるような―を立てるが、前者は、ひどい混乱の中を、導くものなしに徘徊するからである。それは余分なものとして見捨てられた子であり、方法の貧困、この境界を定められた領域の中で、自分の空間を獲得するための過剰なあるいは過小な行為である。すなわち、ここではすでに上で半ば密輸入された自己活動的規定の概念が―どこから生じる自己活動の要求かということは定かでなく、したがって、形式的自由における、あるいはそれと並ぶ質量的自由についてもわからないが―通常はもたらされるべきである。最後には自由の意識への衝動が要求され、したがってまたその制限、すなわち不確かさ(Unbestimmtheit)への衝動も要求される。それにもかかわらず、誰にとっても確かに驚くべきことは、いかに不確かさへの衝動が、後から何かまったく確かなものへの衝動として展開すべきかということ、とりわけこの叙述において道徳律であろうと欲することである。また見掛けは正しく見える先の次のような言説、すなわち、もし自己規定がこの傾向に反する結果になるなら、より高次の種類の自由意識が成立するという先の言説によっては、この秤皿に何らかの不変の重きを、つまりここで立てられた純粋な衝動を期待するという傾向生じなかったら、人はここで落ち着くであろう。しかし、一体いかにしてそれ自体誰にも明らかなように、悪しき仕方で引き起こされた要求から、独自な衝動が導かれるだろうか?その体系が何をも恐れないとしても、自我にあるすべてのものは、衝動から説明されるべきであるのだから、それは反省による衝動でなければならない。なぜなら、反省から、単に自我において自由が支配するのみならず、自由を通しても―というのは、すでにこれを守ることによって、衝動の他の要求が〈33〉表されるから―自我は自分の自由を意識する。もし導出の最初に吟味された部分が、自由の意識の本来的制約が示された以上に、遂行されたならば、反省もまた自由を意識するであろうが。なぜなら、努力の感情が必然的に自由という考えによって伴われているということは、正に、他でもないこのことを言いたいのだからである。このように不足の多い仕方で引き起こされた純粋な衝動は、望まれた倫理的な衝動がそこから成長可能なことによって、およそ行為の制約として一般的な部分に導出された自然衝動と矛盾するように定立される。しかし、この矛盾は、常にいたるところで行為は自我の外部にある対象を目指さねばならないという前提とされている限定的行為の表象からだけ生じるのではなく、それ(矛盾)は、ただ非常に不十分にしか解決されない。すなわち、これ(矛盾)を定立するためには、純粋な衝動に因果性が否認されるが、その意味は、純粋な衝動が望むものは、質料に従えば、自然もまた望むもの―自然についてこのようなことを言うことが許されるならば―に他ならない。したがって明確に、意欲の質料に関係している。しかし、純粋な衝動に行為の形式が、産出のために割り当てられることによって、この矛盾が解決されるのであれば、これによって、同一の意味でその因果性は破棄されたままであり、この矛盾は未解決のままである。このような解決は、あの少なからず空中を揺れ動いている接近の系についての考えと結びついて、以下のことを生じる。すなわち、この系があの自然衝動の要求の系に含まれており、その結果、前者の要素はすべて、後者の一つの要素から取り出される。したがって、その継続によって自我が独立的になるような系は、その無限の総体が、自我の依存性の全体を形作るような系の部分である。この部分が、いかにこの全体を考えることができるかは、誰もが見ることができる。しかし、このような顕著な状況を除けば、一体どのようにして何らかの系の継続を通して、自我はその独立性に、すなわち、体系自体の意味にしたがって〈34〉その中止に接近できるのか?ある行動を他の行動に付加することによってである。その結果、もし無限の総体が引き出されることができなら、この中止は始まると考えねばならないのだろうか?あるいはおそらく倫理性の成長を通して、その程度に応じてであろうか。その場合、数や測量の技工士において無限なものを通して対立するものへ移行が起こるのと同じようなことがここでも生じるだろう。そして、この自負や誇りのゆえに非常にしばしば訴えられる哲学に何か控えめなところがあるとすれば、国家や教会のような手段のみならず、自我のような目的も、自身の破壊を故意に、義務として目指しているということではないか?なぜならこの哲学にはまだ神秘的本質を咎めることは決してなされなかったからである。しかし、この状況は次のようのものである。すなわち、先のことから常に明らかなことは、その意図と成立において矛盾する系と、証明されないものとして理解不可能なその規定性が、誰に対しても、すべての最初の点から、その唯一の内容であり、そこにおいて、道徳律とそれが要求されているものは、ここで学問論に属しているものと結びついているということである。この網の目―そこからのみ、主要な脈絡が正に終結した解明によって明らかにされることができたのだが―は、疑いもなく、それをさらに追求するすべての人にとって、混乱していると同じくらい解けたものとして現れるが、それは子供が見かけだけの巧みさを持って指に絡み付けるが、本当にはまったく固定されていないゆえに、再びそれを一息に解くことができるような糸と同じではない。だからと言って、ここに立てられた道徳律は真に使える倫理学の最高のイデーの表現であることはできないということが、確かに否定されるべきだというわけではないし、そこから導き出された倫理学の価値についてはなおさらわずかしか規定されるべきではない。ただ人間的認識の最初の圏とのその結合が維持され難くみなされ、それが存在しないように見なされるというに過ぎない。

倫理学を導きですことを求めたということで賞賛に値する二人の人物がまだ残っている。〈35〉古代人のプラトンと、最近の人としてはスピノザである。両者は、より高次の学問の達人として、互いに非常に対立しているようではあるが、しかし、他のいくつかの企てと共に、この(倫理学を導き出すという)企てをしており、叙述の仕方などは部分的に互いに共通している。すなわち両者は次の点で一致している。彼らにとって無限かつ最高の存在の認識は、他の認識があってはじめて産み出されるようなものではなく、ましてや他の第一根拠のために持ってこられた急場しのぎの補助手段ではさらになく、第一の根源的な認識であり、すべて他の認識はそこから生じなければならないのである。そこで明らかなことは、このような仕方においては、すべて個々の特殊な諸学問が、それらを超越した一つの学問の下に従属することが、困難なく遂行されるということであり、また、物理的なものから倫理的なものを分離することも何ら困難を引き起こさないし、自らを提供する両者の相互的な従属からも、有限なものから始める人々においては避けがたく思われるような困難が生じることはない。これに従ってスピノザは、自分が叙述したい特殊な学問に対して、最高の学問を、ほかならぬフィヒテと同様に、予備知識として共に与えつつ、神についての書を彼の倫理学の頂点に据える。それには当然のことながら人間の魂についての書が結びついている。なぜなら人間の魂という概念は、神についての教説において立てられた有限者や個に対する無限者の関係から導き出されるからである。つまり単にこの関係が容易に疑いを引き起こし得るというだけでなく、天体やその他の有機的実体、そしていわゆる死せる自然にまで下って、そこにおいて無限者が自らを表すところの思考と延長の様々な結びつきすべての同様な叙述に対して場所が示される。この人間の魂という概念には、しかし、必然的に能動的行為と受動的行為(Leiden受苦)の対立、変化の因果関係のうち分割される関係とされない関係との対立が含まれる。この対立は彼の倫理学において、善と悪の性格、あるいはむしろ―彼は一方の完全な排除を〈36〉無限性において要求することはしないで、いたるところで不可能なこととして導き出すので―完全と不完全という性格を規定している。この結合にはただ二つのものが欠如している。すなわち、まず、個々のすべての事物という概念、そしてまた、人間の概念は、確かに無限者に対する有限者の関係にまったく適合してはいるが、しかし、それらの特殊な正にそのような規定性においてそこから理解されてはおらず、その結果、彼は言うなれば個々の性格について試論をなし得てはいるが、それら自体を計算によって引き起こすことはできていない。しかし、このことは倫理学に対して次のことを通してよくなし得るのである。すなわち、その(倫理学の)最高のイデーも人間の特殊な概念には関係せず、魂がそこに帰せられるところの個々の事物の概念すべてに関係することによってである。それゆえに次のことが認められねばならない。すなわち、ほかならぬこのイデーが、個々の事物概念にとって自然であるのは、それを通して、個々の事物に可能な差異に対する基準が与えられる限りであり、不完全なものから完全なものを形成するための道をそのイデーが示すはずだという限りにおいてではない。もし彼がこの倫理学を目の前に見出していなかったとしたら、彼はこうした性格の倫理学をもたらすというきっかけを持たなかっただろう。というのは、彼は、普遍的概念との危険な戯れが、もっとも純粋かつ直観的な現実の反映をねらいとする彼の学問をだめにしないように、彼の独自性の全力を尽くして用心することによって、彼に独自な仕方で理想的なものを、普遍的概念と取り違えているからである。あるいは、彼は目的概念を憎み―それは不当ではないが―、それと理想的なものとを混同していた。その結果彼は、倫理学の独自な性格が基づくものに対する敵意に、あらゆる面でとらわれていた。このようなことは、もし彼から芸術や芸術作品のあらゆる表象がかくまで奪い去られていなかったならば、彼に起こることはなかったであろう。したがって、次のことを否定することはできない。すなわち、倫理学は彼にとって、ほとんど彼の意思に反して、ただ論争的に成立したのであり、それは卑俗な概念に反駁するためであり、あるいは、〈37〉彼の理論を最高存在によって正当化し、証明するためであった。このような欠点は、彼とプラトンとの間にある対立を、最も目に見える形で特徴付けるものである。

プラトンについては、彼をある程度知っている人はすべて次のことを知っているに違いない。すなわち彼が当初から、真なるもの、善なるものの学問のために、自然学と倫理学のために共通の根拠を見出そうという予感からいかに出発したかということ、そして、それらの根源に時と共にいよいよ接近し、この根拠をいかに絶えず探し出そうとしたかを知っているに違いない。そう、人は次のように言うことができる。もしそこにこのような努力が、そこから光が全体に及ぶような場所でないとするなら、彼の叙述の中に重要なものは何もないと。彼にとって無限なる存在は単に存在し、産出するものではなく、詩作するものでもある。そして、世界は、生成する芸術作品、様々な芸術作品から無限者へと共に立てられた神の芸術作品である。したがってまた、すべて個々のもの、現実的なものは、生成するものに過ぎず、無限なる形成者のみが存在するものであるので、彼にとって普遍的諸概念は、単なる仮象や人間の思い込みのようなものではなく、対立する方法において、それらは彼にとって事物において表現されるべき生き生きとした神の思いであり、そこにすべてがあるところの永遠のイデアである。彼はすべての有限な事物に、その生成の開始点と、時間の中におけるその進展を定立するので、最高存在との類縁関係を与えられたすべてのものの中に必然的に次のような要求が成立する。すなわち最高存在の理想に近づこうという要求であり、そのような要求に対しては、神に似たものになるという表現を他にして、その内容を論じ尽くす表現はあり得ない。したがって、ここではスピノザの場合よりも、最高の学問に対して倫理学がさらに固く結びついていることは明らかである。しかし、この最高の学問が確固たる足場を持っているのかどうか、スピノザの場合と同じくらい論理的に自らを組み立てているか、あるいはプラトンはそれをただ最高存在の詩的な前提にしたがって指し示しているに過ぎないかということ、これを判断することは目下の課題ではない。この研究の目的はただ次のことだけである。すなわち〈38〉倫理学をより高次の学問によって基礎付けようという考えをもったすべての人の中で、ただ客観的に哲学をした人だけが、すなわち、唯一の必然的対象としての無限者から出発した人だけが、今までのところ多分成功したということだけである。このような人は倫理学のイデーを、その結合の考えよりも持つことができた人である。したがって、一般的に受け入れられることは、現在まで最初に引き入れられた根拠のみが活動して、その成立にいたったということである。なぜなら、内的な道徳的強制の意識と共に、外的な学問的姿における個々の倫理的諸概念や命題もまた、学問の試み自体に対していたるところで先行したからである。しかし、意識やさらに確固とした法則に従って形成されなかったものはすべて、揺れ動き、不確かである。一体どこから最高の諸原則の差異は容易に説明されるのか、すでに個々に見出されたものを、一つにするか、それとも顧みる値打ちのないものとするか、そして先の内的な強制を満足行く仕方で表現するという二重の課題をそれは解かねばならない。そのようにして成立した様々な差異のどれを、私たちは概念の中に置くのかということを、さらに詳しく明らかにする。

 

1.従来の倫理的諸原則における差異について

                     もしすべての小さな相違点にまで目を留めようと欲するなら、昔から原則として倫理学の頂点に置かれてきた定式は無数である。またそれらを個々に数え上げ、論ずることは終わることのない仕事になってしまうだろう。なぜなら、全体において他者と一致していたような人々も、ある時は、容易に反論を和らげるという希望を、ある時は、より多くの普遍性や切り取られた規定によって〈39〉確かな根拠を置くという見通しを、自分たちに伝えられたものによって修正へと導くことがあるからである。またある人々は、言語の宝庫によって、古いものを新しい言葉によって装ったり、同一の方程式を違った仕方で配列したり構成したりするだけのことで、新しいものを発見したと思い込むのが常である。しかし、彼らが真に自分の建造物の根拠になったか、なることができたのである限り、私たちはこのような人々のいずれをも無視するべきではない。なぜならうわべだけの観察でわずかな差異しかないと見えたものでも、推論においてより重要に自らを示すことができるからである。そして、特殊な学問はすべてその言葉に正確に従う義務があるように、これらをいたるところでふさわしい仕方で敬わねばならない。しかしながら、もし確かさをもって、膨大な数の表現をより少ない数の考えに還元することが可能なら、吟味は容易になるだろう。なぜなら、どの思考されたものに対しても、最も適切な表現はたった一つ可能である。したがって、この比較によって、不完全なものはより完全なものに従属させられ、多くの小さな諸現象は、顕著な特徴によって区別が可能な少数の大きな現象に変容するに違いないというのである。このような仕事がいかに容易ではあっても意味のないものであるか、私たちはあのカントによって描かれた図表をこの際用いることができるだろう。その図表は、カントが約束するところによれば、あらゆる倫理的諸原則を、可能なものから現実にあるものまで含むというものである。ただ残念なのは、彼はここでもまた彼の流儀に従って、あまりに多くをなしながら、ほとんど何もなしていない。たとえば、誰が次のように語れるだろうか?すなわち、ミツバチの寓話の作者と老モンテーニュ、前者は市民的体制を、後者は教育を、それぞれ同じ意味において倫理的法則における意思の規定根拠へと高めたが、それは、古代の弁証法あるいはストア派が、完全性の概念を高めたのと同じであると(語れるだろうか?)むしろ誰もが次のことを認めるだろう。何を正当と認め、何を退けるかについて、特徴を呈示することと、その判断の形式を他ならぬその本質にしたがってただ事実として自然的な根拠から説明しようとすることとは、二つのまったく異なった行為であり、それらは〈40〉ある程度対象を共通に持つに過ぎないと(認めるだろう)。そして特に不可解なのは、どうしてそのような構成を他ならぬカントが思いつくことができたかということである。彼はいたるところで感覚における独立的な体系建設を持っている。[] 彼はまた倫理的原則をいたるところで当為の定式のもとで表現している。この定式を先に言われた両者の下に置こうとすることは、完全な誤解を超えて笑いを引き起こすに違いない。なぜなら、もしそのようなことをすれば、両者は、倫理的懐疑の旗印を後にし、一方はその望むところへ、他方は、倫理学を国政上の手腕に従属させた古代の学派のもとへ逃れることになる。先の図表においてあまりにわずかしか数え上げないことは、過剰になることもある。なぜなら、古代と近代の学派についての無知が、そこにはあまりに多く目立つからである。たとえば次のようなことに誰が我慢できよう。すなわち、エピクロス派に触れながらアリスティッポスが忘れられていたり、神に似たものになるというプラトンに意味深長な定式が、最近の内容の無い神の意志という定式によって排除されていたり、あるいはアリストテレスやスピノザがまったく忘れられている(ことに誰が耐えられよう)。したがって、この一般的なほのめかしで、次のような見解に対する不信を呼び起こすのに十分だろう。すなわち、その見解によれば、私たちにはすべての倫理的諸原則の間で、カントの原則とその他の原則という対置以外残さない。つまり、私たちが普遍的な合法性あるいは意思の自己統制というカントの原則を、他のあらゆる諸原則―それらは総じてカントの原則に従順であることを目指しているとして―から区別すべきであるという対置である。というのは、彼の吟味の間に、彼のいわゆる客観的なものは再び主観的なものに変わり、理性に適合したものは経験に基づくものに変化することにより、すべての自然的な色彩の差異が消滅してしまうほどに、カントのものでないものはすべていっしょに流されてしまうのである。形式的なものと質料的なものとのこの対立が、少なくとも個々の対立として存在するかどうか、このことは結果が教えるだろう。今はしかし、まず別の道が、示されるべきであり、〈41〉それは様々な諸原則の関係、その似ているところと似ていないところを、私たちの企てが求めるところにしたがって、発見するためである。ここで私たちがその体系的な区分を考えることができないということは、私たちの企ての意味を理解し、私たちが最初に置かれた場所を記憶している人には、自ら明らかである。単に多くの区分を、小数の共同的な区分の下にまとめる代わりに、むしろ私たちは次のような考えから出発すべきである。すなわち、個々人はすべて、その固有な特性と関係において多様であるという考えである。したがって私たちはこれも求め、私たちの吟味の対象である学問的有用性に対し、それが影響力をもつかどうかを見るのである。すなわち、様々な諸原則の中であるものはこの観点で、他のものはまた別の観点でそれぞれ似ており、それぞれにまとめられるということが、一体どのような場合に生じるのかを調べるのである。しかし、ここで一つのことがすでになされたこととして前提とされねばならない。すなわち、個々のものにおいてのみ相違しているものを主要な思想に従属させるということであり、それが正しく生じているかどうかは、事柄自体と結果の調和が最もよく示すであろう。

                     私たちの胸におのずと湧いてくる最初の対立は、カントも最初は受け入れ、やがてまもなく無に帰した対立で、古くは快楽と徳、そして自然適合性の諸体系の対立と呼ばれ、最近では、幸福と完全性の体系間の対立と言われているものである。最近の人の多くは、両者を行為に従って互いに不可分に結びついているとし、すでに古代後期の人々も同様な考えを表明しているが、両者は思想に従えばまったく区別され、根源的に対立したものとみなされてきたので、それがどういうことになっているのか、新たに探求されねばならない。これが最もうまい具合に起こるのは、私たちがこの諸原則を個々の場合に適用することによって追求するときである。ここで示されるのは次のことである。自然適合性や完全性、神との近似性といった諸原則〈42〉、およびその他ここに属すると思われる原則はすべて、人間のある定まった存在や行為に向けられており、他ではない。しかし、快楽や無痛の原則、それらに類似している原則は、そのような存在や行為自体にではなく、存在や行為についてのある特定の意識状態に向けられているに過ぎない。なぜなら快楽とはそのようなものであって、存在や行為ではなく、感情を通して与えられた存在や行為についての知だからである。したがって、ある人が身体的な強さにおいて完全であることができても、もし彼が、それが静止であれ行為であれ、この完全性を見ていないならば、そこにある固有の快楽を享受しないだろう。しかし、両者もそれ自体で一つではないように、意志に対して必然的に結びついているわけではないということは同様に明らかである。なぜなら、少なくとも意図に従って、その原則がこれであるところの人はみな、何かを自然適合性のイデーにしたがって成し遂げたなら、直ちに新しい行為へ進歩することが可能であり、その際以前のものに従う感情に注意を向けることはしない。その結果、このことが常に何がしか心に浮かぶとしても、彼はそれをただ偶然所有するのであり、意志に関しては、当の昔に飛び越えてしまっているのである。同様に、感情だけを目指す人は、これをいくつかの場合には少なくとも手に入れることができる。すなわち、行為したことによってではなく、過ぎ去った行為についての記憶を通して、または将来の行為の模範を通して、あるいはその表象全般を通して(手に入れることができる)。そして次のように主張する。先の人がまだ何もなしていなかったと思っているところで、自分の原則を実行したと(主張する)。そう、たとえそのような人が、その行動自体を成し遂げるために振舞っているように思ったとしても、それは、先の仕方で生み出された意識が対立する意識によって容易に破棄されるのを見るためではない。したがってそれはただ偶然起こるのであり、彼の意志はそこには向けられていない。したがって確かなことは、快楽の体系においては、行為や存在は手段として求められていないものに過ぎず、徳の体系においては、感情は、おまけとして求められていないものである。この対立を〈43〉古代の人は非常にはっきり意識していた。エピクロス派の人によって語られているように、彼らは最高善の概念に活動の概念がいっしょに絡まっていることを認められなかった。なぜなら彼らの最高のものは、能動的行為においてではなく、受動において与えられるものであり、自己の働きではなく、同じくどこかから働きかけられることだったからである。また弁証家またはストア派は、それゆえ、快楽を、意欲の対象に対するその関係を特徴付けるために、他のものの結果付随的にいっしょに生み出されたものと呼んだ。最近の人々だけが、本質的なものと偶然的なものとの差異を見逃し、両者を平和的に結合した。その結果、混乱は大きくなり、ほとんど解決できない。一方は、おそらく後者の心情を持ちつつ前者の叙述に携わり、これに対して他方は、正反対の配列で両者を捉えた。しかし、学問的に吟味しようと決心した人は、正確にはっきり表現されなければ不明確なままの心情の見せ掛けに惑わされてはならない。そうではなく、ただその表現にのみ頼らねばならない。それらがどこに算入されるべきか疑わしいものたちの中で、この表現に従うことは、今問題になっている対立をよりはっきりさせる。そこで現れるのが英国のシャフツベリーの学派である。そこでも常に徳が問題になってはいるが、全体としては快楽に耽っている。というのは、真の継続的な幸福はただ徳によってのみ獲得されるべきだということの証明を、すべてが目指しており、この学派の徳の本質をなしている善意(Wohlwollen)は、自らのその快楽がその善意に由来する限り自分の場所を保持する。その叙述の根拠の無い二面性は、間違いなくその根拠になっているものとして、あの感傷主義が当時すでに顕著になっていたということで、いっそう明らかになるだろう。その主義が目標とするのは、手足を動かすことなく、想像力による単なる共感を通して、〈44〉善意に由来するあの道徳的感情の甘美さすべてを手に入れることであった。なぜなら、シャフツベリーは、帰結として、このような享楽に、自分の行為から生じたものに対するのと同じ価値を認めねばならず、したがって、知恵はその目標を次のことの中に置くこととなった。すなわち、道徳的快楽は、そこにおいてはそれが可能であるがゆえに、想像力によって味わうが、有機的快楽は、そこではそのようなことは望ましくないので、現実において味わうということである。ここから最もよく明らかになることは、この体系においては、そもそも行為がいかに望まれていないかということである。たとえファーガスンのような人たちが、彼らの体系に快楽ではなく自己保存という名称を与え、その結果、直接的に存在に重きが置かれているように見えたとしても、しかし彼ら自ら、これがいかに従属的かを説明している。すなわち彼らの言うところによれば、悪を感じることも欲求を持つこと―これは快楽への二つの関係だが―も無い存在は、行動のための運動根拠も持たないだろう。この学派に非常に接近したガルヴェ(Garve)は、この学派の建造物に尖塔を積み上げたが、それはすべての人にとって目印となっている。すなわち彼は、尊敬(Achtung)―それは快楽とは切り離された純粋な活動を求める人々にとって、しばらく前から合言葉になっているが―を、善を行った人、つまり、善意によって幸福になった人の幸福への共感と説明する。

                     *しかし他方において、次のような人々にも注意が払われるべきである。すなわち、純粋な活動と密接な関係にありながら、多くの人によって言われなく快楽の信奉者とみなされている人々である。その第一人者はアリストテレスで、彼においてはっきりとわかることは、純粋な行為を目指す人が、論争への考慮が彼に無理強いしたというわけでもないのに、いかに快楽をも論じるかということである。すなわち彼は、快楽を、自然にふさわしい行動の完成と必然的に結びついたものとみなすが、それゆえにしかし、快楽は決して〈45〉彼が目標としているものではない。なぜなら、そうでなければ彼は何か痛みの結果のようなものに関わることなしに、すべての快楽を排除しないだろう。それは他の道においてはそのようなものとして引き起こされる。すべて過剰な行為を過度に伴う快楽、または、複雑な関係から成立し、特定の行動様式に固有でない快楽がそれである。またそれゆえに、彼は最高のものに到達するために、外的財の所有を要求するのだから、彼は別の仕方で判断されることは許されない。彼においてこのことは、一部は次のことに依っている。すなわち、彼は道徳的価値を、心情の静寂状態に見出すことには関知せず、行為の動的な状態にのみ見出した。彼が道徳論を国家論と結びつけたのはそのためで、すべての行動はただ市民的行動としてのみ可能であり、相当な作用圏と外的手段を必要とするのである。また一部は次のことに依っている。彼はこの価値をある瞬間において保持したり直観したりすることには関知せず、ただ長く引き延ばされた時間の中断されることのない使用においてこの価値は意味を持つのであった。したがって、次のことはまったく彼の精神において言われたことである―まもなく堕落した彼の学派はこれを語らなかったとしても―。すなわち、富を幸福の要素そのものとみなした人々は、幸福がいかに生活の様式であるかということを考慮していない。したがって、幸福は行動以外に他の直接的要素を持つことはできない。彼はまたしばしば十分に次のような説明をしている。彼にとって直接求められたものは、それについて人が活動そのもの以外求めることが無いようなものだけであると。彼が価値を置いた快楽が、彼にとっては、どこからか与えられたものではなく、自然に適合した力と性質の活動によるものであること、また、彼が快楽を評価するのは、それが強く感じられたからではなく、ただそれが、妨げられることの無い意識を認めることによって、完成のしるしであることによる。ここから明らかなように、完成へ向かう自然にかなった行動の吟味と証明として、彼は快楽を求めているに過ぎない。彼が名誉への欲求を認めるのも、それは、自分の判断を他者によって〈46〉確証するという欲求としてである。彼に似ており、彼を解釈した人にスピノザがいる。アリストテレスにおいては恣意的でほとんど偶然的に過ぎなかった感情と活動の結合が、スピノザにおいては、その思想の進展の中に最も深いところまで織り込まれており、彼の世界観の固有なものとなっている。彼にとっては、身体の変化が思想から分離できないように、思想もまた身体の意識から分離できない。彼の快楽は、より大きな力と現実性の状態への移行であり、それについての思想とこの思想の意識、すべては一つであって分離したり区分したりはできない。しかしこの最後のものをさらに、特に意志のために特別分離することは、彼にとってはおよそ思考可能なものの中でも、最も内容空虚なものであり、単なる表象の無の表象である。したがって、彼は、単に人間の一部分をより大きな完成のために支援するに過ぎないものや、それを示すに過ぎないものをすべて倫理的領域から排除する。それと共に、元来大部分の人によって自分自身のために求められていたいわゆる快楽の大部分を排除した。この快楽について、彼は、それは死の手段、あり方、方法であるとさえ語る。彼が単なる自己保存に向けられた法則から、あっさりと次のことを演繹する仕方、すなわち、倫理的なもの、純粋な行動は、それ自体のゆえに愛されねばならないことを演繹する仕方、これは、快楽の体系と、活動の体系の間の最も鋭い境界線を示している。

                     *このような事例を互いに比較することで明らかになるのは次のことである。すなわち、行為と、感情自体における行為への関係、それらは表象し説明するときには分離されないのだが、意志に対しては一つ同じものであることは決してできないということであり、その結果、完全性と幸福を融合しようとする最近の人も主張するように、意志が最初にどちらに向かうかはどうでもよいことになる。むしろ双方の観点は、道徳的にはまったく異なっており、したがって、すべての〈47〉倫理的原則は両者の一方に関係するか、それとも、一方では空虚に、他方では不純にいっしょに求めているかのように見せねばならない。純粋に快楽を目指している人々の場合、快楽の出所である対象は、少なくとも現在の判断にとってはどうでもよいことになるが、彼らは、上記のことを見据えていれば容易に見分けられる。これに対して、活動を目標としている人々は、他の点では互いに異なる姿であるが、この類似性は、誰からも、いつでも容易に認められるというわけではない。最初に分離されるのが、そこにおいて神への関係が表現されているような原則である。それらは互いにプラトンとスピノザのそれのように、独立して異なっている。後者は神の認識という原則であり、前者は神と似たものになるという原則である。それから再び、人間のもとにのみ、彼をただ自分自身と比較しつつとどまりつづける人々の中からある人々が区別される。彼らはより多くプラトンから出発し、人間の中に二重性を認める。したがってストア派は次のように主張する。人間の最初の状態は、彼が何か快楽を目指していても、決して反道徳的ではなく、すでにそこでは活動が彼の仕事、すなわち自己保存という活動である。しかし、後になって理性が、新しいものとして、あるいは意識において新たに見出されたものとしてやって来たに違いない。それは新しいもの、すなわち倫理的な生活を築くためであった。このようなストア派と最も近く意見が一致しているのは、カントではない。なぜなら「道徳的なものは調和した生活である」というストア派の言葉に対し、そこにはもともと自然との調和という含みは無いのに、そのような意味を添えるという不正を働くからである。カントが目指していたのはただすべての倫理的なものの均質性であることは明らかである。それは「心情は生活態度の源泉であり、そこから個々の行為が流れ出る」という説明との比較によって十分明らかである。彼らと、それ自体においても、また、定式の多様性においても、幾重にも一致しているのがフィヒテである。彼が自然的人間に〈48〉快楽のみを割り当てたことを除けば、彼は同じく二重の欲求を定立する。そのうちの後者、道徳的欲求が、発見された自由に依存する、もしくはそれと一つであるところの理性である。ストア派と同様に、彼は前道徳的時代における人間の自然的歴史と、一つの状態から他の状態への移行に満足する。道徳的なものすべての均質性はフィヒテにおいては、すべてが一つの系にあるように定立されることによって表現される。しかし、とりわけストアの定式の多面性は、フィヒテによる以上にうまく解説することはできないだろう。そして、ストア派についての不足した知識において、前期と後期との関係や、いかに一方においてはよい体系精神が、他方においては悪しき体系精神が表れているかといったことも、ほとんどフィヒテから理解できる。したがって、良心についてのフィヒテの説明や、彼の説く世界秩序について考えるとき、クリュシッポスの次のような定式、すなわち、徳に従った生活とは、すべての人に内在する霊と調和し、普遍的世界秩序の意思に従って生きることである、は驚きである。Archidemosは、外見上、より確かな表現を語ったが、それは、いかなる場合も分に応じて行為せよということだった。フィヒテもまた、ことあるごとに使命を果たせといった。ストアのディオゲネスは、さらに内容豊かに、前道徳的生活との関連で次のように語った。自然から獲得されるものを選びつつ理性に従って行動すると。フィヒテもまた道徳的欲求の仕事を、自然衝動によって要求されるものから選抜すること、最終目的にふさわしい対象の行為と説明する。それゆえ、事物の最終目的の洞察としての実践的学問であり、そこから人は、以前よりもより良くいかにこの後期ストアの定式が、クリュシッポスの初期の定式―それは自然に起こったことの正しい評価に従った生活についての定式だが―と再び結びついているかを見る。カントもまた、ずっと遠くからではあるが、これに連なっているということは詳述する必要は無いだろう。彼の道徳的なものが行為であるということは〈49〉誰も否定しないし、また、それが、ある新しい、理性の観察によって到来すべき力によって―それが衝動、その他何と呼ばれようと―作用することも周知のことである。他の人々は、よりいっそうスピノザに対抗して―スピノザは、そのような二重性なしに、道徳的欲求を直接に全体を保持する欲求として述べた―ただ能動的行為と受動的行為、外的行為と内的行為、自分の行為とそうでない行為とを区別する。これをしたのはキニク派であり、その真のイデーは、教養や社交に対立する自然的素朴ではなかった。そうではなく自己保持と自分自身の力による生である。その際彼らが見逃しているのは、社交やその果実も、いかに人間自身の力によって成立したものとみなされることができるかという点である。というのは、そのような思想は彼らの根源的な対置、すなわち、幸運と勇気、法と自然、情熱と理性に明らかに存在しているからである。正にここに、最近に人々のうち次のような人々も属するだろう。すなわち、その人々にとって、それが純粋に混じりけ無く、完全になる法則をめぐる真面目さであったような人々である。なぜならこのような法則には、独自な場所が与えられて当然だからである。そして、現在の連関においては、どうしてカントが、自らを幸福の連関へ戻すことが可能だったのか、理解するのは容易ではないように思われるし、また、どうして彼が、実践的意味における完全性は、あらゆる最終目的のための有用性―それはカント自身によれば実用主義的という名称にしか値しない―とは違うはずだということが理解できなかったのかを理解することは容易ではないように思われる。彼もまたただ次のことに気づいてさえいたら、すなわち、キニク派が―ある程度近代のストア派は再び彼らに接近しているのだが―そして同様にスピノザが、すべての倫理的差異を、能動的行為と受動的行為から、十分あるいは無駄に、そしてまったく用いられない力から展開したということに、カントも気づいてさえいたら、彼は次のことを見落とすことは無かっただろう。すなわち、いかにあの完全性という概念が―この言葉によって理解されているのは、彼の流儀における事物の完全性なのだから―〈50〉彼自身が望んでいるように、本来行動する存在とみなされる人間に応用されるか(見落とすことは無かっただろう)。偶然的なものと本質的なものとの調和についての共通の説明がすでに―それは文字面は非常によくないし、また根底にある表象も賞賛すべきではないが、そこで、人間はそれ自体、また物としての行為の前では本質的なものと受け取られ、行為はすべて偶然的なものと受け取られるが―彼に対し、彼の場所から、真のストア派の形式の意義を思い起こさせねばならなかったはずであるのに。そこにおいては、人間の高次の力の間断なき活動が非常に顕著に表れており、これのみが重要事である。しかし、もし彼がこの思想を、それを持ち出した大部分の人たち以上によりよく理解したならば、そして、その際に、芸術作品の完全性について考えたならば、そのときには、独自な、もっと深い意義が姿を現したに違いない。それとの関連で、この言葉は、容易に最も真実な倫理的表現になるだろう。なぜならそれは、真実に従って、直接イデア(Ideal)の思想と関係しているからである。

                     *完全性の原則を認めながらも、それを幸福の原則と同種のもの、あるいはまったく同じと説明する人々がいる。その理由は、幸福の真の色合いや継続は、最後には完全性に依存するからだという。このような人々について明らかなことは、彼らは、他人と同じように自分自身を理解しないか、あるいはまったく非学問的な平和嗜好、統一嗜好に余地を与えるかであり、内面的なものを軽視し、単なる表面的な一致を面白がる人々である。問題が比較されねばならない。あたかも天体の軌道は円か楕円かを議論している人々のようにである。それが結論に至らないようであれば、そのときには最後に、楕円派が円派に言うかもしれない。これは継続するに値しない論争です。なぜなら円は完全に楕円とみなすことも可能です。焦点を近づけるだけで、〈51〉楕円はすべて円となる。もし前者が焦点について何も知らず、機能のイデーにまで高まることが無いならば、両方の派が一つになることもないし、ましてや問題自体が現実にそのような仕方で同一になることもない。

                     しかし、カントが、この対立を不当に破棄することによって、少なくとも他の真の対立を立てたのではないか、すなわち、彼は形式主義の名のもとに、単に主観的なものからだけではなく、客観的なものをも―彼がそれをそう呼んでいるように―含め倫理学の唯物主義として両者から、彼の原則を分離したが、これは非常に疑わしい。なぜなら、〈前者(主観的なもの)においてはすべて、命じられたものは、何か外部にあるものに関係させられている〉という告発は、後者(客観的なもの)にとっては不当であるが、そこにおいてこの〈外部〉とは、人が全体について語ることができるようなものに過ぎず、それは部分の外にあるからである。むしろそれはカントに特に投げ返される。彼もそれから自由であると思っているが。なぜなら、彼はこの仮象をただ〈理性的存在〉という表現の持つ両義性によって獲得するに過ぎないからである。それは理性を能力として持っているものを意味することもできるし、同時に理性によって現実に駆り立てられたもの、またその残余が理性によって持たれているものをも意味できる。カントが前提としなければならないことは、前者の意味での理性的存在はすべて後者においても一つであることを欲するということである。彼の原則は、そのようなものの完全性を目指す。したがって、これがなぜ同様に、熱望されたもの(Angestrebtes)、意欲の質料と呼ばれてはならないのか。他の人にはそのほうがよくわかるだろうに。残念ながらカントにはもう一つ悪しき〈外部〉がある。すなわち、彼の最高善が、最終的なもの、全体において欲せられているものとして、よく分配された幸福という要素を自らの中に持つことによって、それによって、その都度個々に欲せられたものにおいて、釣り合いの取れた部分ではなく、最高度の威厳において幸福になるという対数がそこには含まれている。しかし、これについてはここでは省略し、これ以上述べることはできない。

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                     しかし、次のことは気づかないまま見過ごすことはできない。すなわち、上で様々な体系を整理した際、その原則は快楽と対立関係にある活動であったが、新しい別の対立が自ら湧き上がってきたということで、それを私たちは快楽の立場に立つ倫理学者においても再び見出したのであった。すなわち、その対立とは、二重性を持つ欲求を認め、その結果、道徳的な欲求を、自然的な欲求に対立させる人々と、倫理的生は特別に後になって成長してくるような欲求からではなく、生全体を包括する普遍的な欲求から展開するのであって、その結果、道徳的人間とは、何か新しい別の存在というわけではなく、同じことをよりよい仕方で行うように見える人であり、それは他のすべての人も自分から、自分の性質にふさわしくなさねばならないものであると主張する人々との対立である。活動を目指す人のすべてではないが大部分は、二重性を定立する。そしれこれは、快楽を目標とする人々によって大部分拒否される。なぜなら、すでに古代人たちは、すべて生きているものの普遍的欲求は、快楽を目指しているということを証拠として引き合いに出した。またフランス啓蒙思想は、人間性の内部で利己心以外の運動根拠によって行動が可能であるということを否定し、その結果、よく悟性を訓練した人だけが、他との区別をなし得るとした。イギリス道徳哲学の人たちは、快楽の二重の源泉を受け入れた。すなわち、個性的情熱(idiopathische)と共感(sympathische)とであるが、その結果、前者は、それが排他的に自らを定立するや否や、非道徳的なものである。しかし、両者はしばしばまた独自な内的性質にしたがって、同じ物を表現しようと求めるという。しかし、本質的にこちらの側に、快楽の体系が完全に赴くということはない。むしろあり得るのはその(快楽の体系の)大胆な擁護者であって、彼らは、活動自体に向けられた対立する欲求を、錯覚や誤解としてではなく、それもまた現実的な欲求として、すなわち、快楽や生を無に帰する非道徳的な欲求として説明する勇気を持つ。このようなことは、この種の思考様式の、現代にふさわしい、勇敢な最初の完成であろう。この対立は、〈53〉いずれの側でも、先の二つの側の参与者が一つになる、正にそのことによって、独自な対立として自らが真であることを証明するのだが、意見して次のような状態にあると思われる。すなわち、その二つの命題の一方は、倫理学からその本来の尊厳を奪うということである。なぜなら、二重の欲求が受け入れられるところでのみ、道徳的なものと反道徳的なものとの間に鋭くはっきりとした区別があるからで、これに対して他の側は、次のような誘因を与えるように見える。すなわち、悪は単に誤謬に変わり、善は一つの洞察に変わるという誘因で、これによって、学問としての尊厳を持った倫理学は、技術的な手引きというより低いランクに落ちぶれるに違いない。徳を学問と呼んできた人々や、そのような発言を、ただこの意味で説明することを知っていたもっと多くの人々はそのように考えた。しかし、一つの学問の内部で発見された対立が、その学問を超えて出て行くことができるというのは、単なる仮象に過ぎないこともあり得る。なぜなら、道徳的なものと反道徳的なものとのお互いの接近、そして、そこから結果する真の学問としての倫理学の破棄、この両者は、常に自らを再び止揚するからである。つまり次のことがいたるところで認められるからである。誤謬は単なる教訓によっては消滅することはなく、したがって、その内在的な原因として、行動様式や思考様式が前提されねばならない。それに対しては、道徳的なものが、誤謬に似た現実的な対立を保持しているということである。それでストア派も、彼らは本来二重の営みを受け入れていたにもかかわらず、ここの徳を学問として説明する。私たちは、彼らがこの言葉を受け取った意味から、[]そこに実践的なものをまったくはっきりと見る。それによって、彼らのその他の体系と非道徳的なものについての彼らの概念との間の矛盾は消えてしまう。したがって、これはただ見解の相違とみなすべきであり、内部においては何も変えはしない。したがって、欲求の統一性についての問いや、それがどのように答えられるかということは、倫理学の存在に〈54〉何ら損害を与えることができない。これにしたがって、あの相違、すなわち、道徳的に判断されるべき状態においても、二つの異なる欲求は有効と考えるのか、それとも、見出された一方のみを有効と考えるかという相違は、その人の価値観に基づくのでなければならない。

                     この対立と似ていながら、これとは区別されるべき別の対立がある。それは、前道徳的状態において実現可能なことに対する道徳的実現の関係に関わる対立である。すなわち、それが行為であれ享受であれ、倫理的原則に適合しているものは、その原則によってまったく固有に、新しく作り出されたものなのか、それとも、ただ別の場所からの規定と境界設定に過ぎず、原則なしでも存在しているものなのかということである。おそらくこの相違は、特定の姿で空間を満たすことがどのように作り出されるかという、その様々なあり方を比較することによって明らかになる。すなわち、生き生きとした形成力が、自らの法則にしたがって、自らを拡張しつつ働き、ある時の中に拘留されたと考えるなら、その場合には、そうした方法で、実現するものと、その姿とが同時に成立するだろう。死して、それは同一の根拠によって説明されるべきである。これに対して、そのような力が生じさせるものが、外から、ある特定の命令に従って切り離され、境界設定されたのであれば、その場合には、実現するものと、制限するものとは、それぞれ別のものであり、おのおのが自分と無縁だったものとの関係に入れられたことになる。前者に類似しているのは、自由な、または形成的な倫理的原理であり、後者に比較されるのは、統制し制限する原理である。双方のあり方が、快楽の体系にも、活動の体系にも存在していることは、様々な事例が詳細に示しているとおりである。エピクロスの道徳的なものは、ひたすら制限するのみである。なぜなら、それは、享受による自然的欲求の努力や逃亡という粗野な素材から、有徳な無痛状態、賢者の静穏な快楽を作り出すのだが、それは、先の欲求が自らを表さなかったところには、現れることができず、したがって、この道徳的なものは、自らは何も生み出さず、作り出さない。〈55〉より古いキュレネ派の道徳的なものはこの特質を持っている。なぜなら、それは他ならぬあの、自分自身の法則にしたがって動くという自然的欲求に従った快楽であり、ただ非道徳的なものだけが、制限し、否定する。すなわち、快楽が十分に形成されるのを妨げる怠惰なのである。またそれは、愚かさによる無秩序な詩作で、無意識のうちに、否定的な数量としての将来の痛みをもたらす。同様にひたすら制限的なのが、エルヴェシウスによって最もよく表されたフランス啓蒙思想の道徳性である。なぜなら、それは道徳性として表象されてはいるが、卑俗な便益との調和であって、独自な行動の源泉ではなく、自己愛の一般的欲求が要求したところに自らを表すに過ぎない。これに対して独創的に見えるのが、イギリス道徳哲学の道徳的なものの大部分である。というのは、多くの場合その行動は、偶然的なものに過ぎず、求められたものでなく、他の力によってもたらされたものであっても、しかし、このことは、直接的に獲得されたものであるその固有な快楽には妥当しない。この快楽は、ある新しい、他では考えられないような行為のあり方を通して現れる欲求にのみ従う。

                     *同様に、この区別は活動を目指す〈哲学的〉叙述にも見出される。まずまったく制限的なのが、論述において所与のものに依存しているストア派の原則である。より高次の性質が意識化されるに従い、それによって、直接的に自ら行動する新しい力が与えられるのではなく、自然的な自己保持の衝動の要求について決定するある新しいあり方が与えられるに過ぎない。したがって、理性の保持が、いたるところで共に含まれ、先頭に置かれる。このことを、すでに古代における彼らの敵対者が非難しなければならなかった。というのは、キケロもそれを経験したからである。そして、事柄に適合していないにもかかわらず、彼ら(ストア派)は、規則とは違うところに向かって行動する衝動を持っていると非難した。すなわち、倫理的原理は、彼らにおいては、〈56〉とにかく何かが起こるはずだというような向こう見ずの自然衝動によってはじめて定立されるようなものではなくとも、その都度要求される活動であり、引き起こされるものではない。なぜなら、その原理から、常に行為への最初の要求がすべて生じるのだからである。上ですでに述べられた生の遂行の源泉として道徳性という説明によって、この点について誰も思い違いすることはできないだろう。なぜなら、このことが言い表しているのは、あらゆる道徳的行動において、規制原理は常に一つで等しい原理であるということだけだからである。同一のことはさらに無意識のうちにストア派にまったく追随していたフィヒテに起こる。すなわち、彼が、まったく同様にすべての倫理的行為において、より高次の欲求を自然的欲求と結合することによって起こる。なぜならこの結合も、外的に表現された内容が等しいことだけによるのではない。そのような結合は、スピノザが次のような命題、すなわち〈すべての行為は、あらゆる種類の思想と結びつきえる〉によって言い表したように、偶然的な場合もある。そうではなく、フィヒテもまたそこから出発しているにもかかわらず、行為がなければ意欲もないし、外面的に存在し取り扱われるものなしには、行為はない。しかし、前者の関係は、フィヒテにおいては、違った、もっと内的な関係である。すなわち、高次の欲求は、素材をその都度、自然衝動から取らねばならない。それはその都度、この正に今要求されたものによるのでなければならない。そして、純粋な欲求の仕事は、他ならぬストア派においてと同様に、彼の形式にふさわしいものを選ぶことによって、先の要求の全体性からのみなる。このことは、単に討議自体の言葉や進展から明らかなであるのみならず、彼にすべての法則の制限的な性質、特に、排他的にそうだというわけではないが、身体の取り扱いに関係する法則のそれからはっきりとわかる。ここで誰かが次のように言うとするなら、すなわち、〈制限的な法則は一つだけに過ぎず、すでに以前持ち出された積極的な法則である〉というならば、次のように答えるべきである。〈正に主張されたことは、これが決して三つの原則ではなく、たった一つで、先ずその対置された要素において述べられ、そして、同じところから結びつけられた〉と(答えるべきである)。なぜなら、もし道徳的欲求が、ここで何かそれ自体から、それ自体のためにもたらされねばならないとするなら、〈57〉享受というような観点はまったくなしに、その欲求自体が行為―道具としての身体形成に貢献するような行為―のために要求されるだろう。そして、この行為は体系的な統一において、完全化の原理に従って、継続され得るのだから、享受に向けられた自然衝動の要求は、それが同時にまた形成に向けられることが可能であるなら、あの理想には程遠く、体系的な系には置かれないとして拒否されたであろう。そして、総じて前もって、次のような行為のクラスに落とされたであろう。すなわち、それを実現するためだけではなく、それについて協議するための時間も欠如しているような行為である。この倫理学者(フィヒテ)に対し高度な意識を否認すべきでないにしても、この欠如の意識は、次の命題からも際立っている。つまり〈人は徳の訓練をすべて捜して拾い集めるよう義務付けられているのではなく、それが差し出されたとき実現するよう義務付けられている〉という命題である。この徳の訓練の差出は、自然衝動を通してそれが与えられることに他ならない。同じことがカントの倫理的原則にも妥当する。そこにおいてこの特質は最も厳密に、カントが最大限に称えていたところの特質、すなわち〈その原則はひたすら形式的であることを欲する〉と関連している。次のことを示す必要はまったくない。すなわち、誰に対しても最初に示されることだが、この対立―それは絶えず動く力とも考えられているが―は、自分自身を通して何かをもたらすことは決してできないということである。というのは、もしその作用がただ次のことにあるなら、すなわち、行為の主観的格率(Maxime)が普遍的法則になる能力があるかどうかを観察するということにあるなら、この作用が参入可能になる前に、先ず格率が与えられねばならない。もしそれが自然的目的の部分として与えられるのでないなら、それ(格率)はいかに異なった仕方でこれ(普遍的法則)を望むことになることか。人が、原則というこの表現に頼ろうが、人間性を目的として扱うことについての別の表現に頼ろうが、思考上の目的の国という表現に頼ろうが、まったく同じことである。それにもかかわらず、まだ疑いを持つ人がいれば、そのような人は、カント自身が彼の原則をどのように適用したか、そして事例によってどのように証明しているか、その仕方を見るように指示されるべきである。それで、別の人々のもとには次のような問いがある。〈58〉すなわち、放棄された所有物によって、理性は何をするよう命じられているのかという問いである。もしここで、道徳的衝動が、自分自身を通して遂行され、その衝動が代表している法則が、ある特定の行動様式に導かれるなら、それは普遍から特殊へと進むことによって、叙述され得るに違いない。そのとき、その衝動は、受け取られた瞬間に、すでに、それを記述される仕方で処理する努力の中にあると考えられる。しかし、ここには、様々な可能な事例を法則と比較する以外に、規則は何も見出すことができない。道徳的衝動もまた、再現の直接的要求か、あるいは、横取りの試みがやってくるまで、ひたすら受動的(leidendlich)としか考えられない。したがって、この規則の実証においても、そのような所有物に伴うあらゆる不注意を避ける規則は証明されない。というのは、これは、自然衝動の観点から見ると、別の行為だからである。したがって、したがって道徳的原則にとっても、別の事例でなければならない。それは、もしこの事例が記述されたあり方で自発的なら、まったく違った状態でなければならないのである。しかし、それによって誰も次のように思う人はいないだろう。すなわち、道徳的なものが活動として現れるところで、原則がこの関係以外においては現れることができないと(思う人はいないだろう)。したがって示されねばならないのは次のことである。他の場合に、道徳的なものは、いかにして自らを自発的なもの、独自なものを形成するものとして表すのか。そして、これが最もはっきりと見られるのが、プラトンとスピノザにおいてである。このうち後者(スピノザ)は、自分の独特な存在を保持する努力を、あらゆる生き生きとした事物の本質として、また、あらゆる人間的行為の最終的根拠として立てた。すでに上で、一つの魂の中に二重の衝動を見るのを欲しない人々の中に彼を入れたように。しかし、またスピノザにおいてはっきりと示されていることは、私たちが今問題にしている対立が、先の対立といかに区別されるかということである。なぜなら、同じ一つの衝動であるにもかかわらず、それはどんな場合にも、この二つの姿のうちの一つにおいて現れることが可能であるし、そうでなければならないからである。すなわち、人間の真に固有な存在、彼の狭義におけるいわゆる行為を〈59〉対象として成立したもの、それが道徳的なものであるのか、あるいは、共同的で、他の事物と結合し、それらに依存している存在、その原因が一部は人間の外に見出されるような、単なる見かけだけの行為、従ってそれは正当にも受動的なもの、そのように成立したものには倫理的性質が欠如している。前者は、何か後者の改造ではないし、改良でもない。あるいは、最後に建てられたものというのでもない。そうではなく、始めから、それ自身としてあるものである。したがって、スピノザもはっきりと次のように主張している。悪を逃れること、すでに先に考えら、求められた非道徳的なものを無にすること、こうしたことは決して本来の仕事ではない。善が求められるとき、間接的に、自ずから起こることに過ぎないと。ここに最も鋭く示されているのは、悪を排除することによって善が実現するという先に見た立場との差異である。そして、自由で独自な行為領域を真に包含するものとしての倫理学の実が最もよく現れている。同じことは、神と似たものになるというプラトンの定式によっても自ずから判明する。なぜなら、自然衝動と呼ばれるものすべてに欠如しているのは神性であり、神性における高次の精神力の活動とは、純粋に自ずから生じ、創造し形成する力だからである。したがって、もし人間において、理性が、人間の自然衝動に制限されて行為するのみであり、そして自然衝動が先ずもたらされ、その後でその仕方において形成がなされるというのであれは、比較のための共通の要素は見出され得ない。しかし、そうではなく、私たちにおいても、低次な能力に対する関係は、高次な能力の本質的なものであってはならず、その中断された活動の単なる現われに過ぎない。ここからさらに見ておきたいことは、アリストテレスを、先に見た制限されたあり方の道徳性を持つ人々に数え入れることが、どの程度不当であるかということである。というのは、アリストテレスは徳を説明して、抑制された傾向性と言っているからである。おそらくこの説明は、〈60〉本質的なものを表しているのではなく、単に現象を表しているに過ぎない。道徳的なもの自体を論じ尽くしているのではなく、道徳的なものが個々の事例のにおいて、また感覚的傾向の対象との関係においてどのように表象されるかを言っているのである。彼は決して次のように考えてはいなかっただろう。すなわち、たとえば、抑制のない放縦が、欲のないよく整えられた魂に固有の性質と同一の原理生じており、ただ放縦が押し止められているのが後者の場合であるなどと(考えてはいなかっただろう)。次のことが確かに注意されなければならない。彼は個々の徳の表れについて、それらがある一つの対象に生じるのは、自然によって非常に弱くなった衝動の高揚によってとか、強すぎる衝動が抑制されることによってとは語っていない。そうではなく、彼は、継続的に内在する特質としての徳について語っているのである。彼がそれらの本質と成立を、上の説明によって特徴付けることを望んでいなかったことは、損害と利益の中間としての公平さについての記述から十分見て取ることができる。そこでは先の解釈は、それを無知な人にこっそり押し付ける以上に愚かしい。次のことからはもっと明らかである。すなわち、彼はいたるところで徳を、快楽を伴うものとして描いている。そこから、すでに解説された彼の見解によって次のことが結果する。すなわち、彼は徳を、内側からいわば一息に完成された唯一の行為と考えているのであり、二つの力の衝突から生じた、言うなれば裂かれたり中断されたりした行為とは考えていない。道徳性がひたすら制限され、その表れにおいて他の衝動に依存しているようの人々にだけ、不快感を同伴者として与えるのがふさわしい。今問題になっている対立に関して、行動する道徳性を完全性の名のもとに導きいれる人々について問うならば、彼らは思想において以上に言葉において一致しているので、これについては、一般的なことは何も聞けないだろう。そうではなく、ある人々は自分を芸術制作(Kunstbildung)という概念によってプラトンと結びつけ、他の人々は、自由な活動という概念によってアリストテレスと、また別の人々は、理性の支配という概念によってストア派と結びつけるだろう。それに従って、ある人たちはここに、他の人たちはあそこに〈61〉整理される。これが真の対立であり、どの倫理的原則も、そのどちらかの側に属するということは、今までのことから明らかである。

                     なお一つ対立が残っている。それはおそらくこれまでのものに劣らず重要であるが、次の点において際立っている。すなわち、倫理的諸原則に大きな多様性にもかかわらず、他の対立が、両方の側面において形成されているのが示されたが、この対立の場合そのようにではなく、その一方の側だけが、自然においては同じようにはっきり示されているにもかかわらず、ほとんどいたるところで暗示されている。すなわちそれは、類としての人間の概念にある。それが意味するのは、次のようなことである。すべての人は、互いに何らかの共通なものを持っており、その総体が人間性と呼ばれている。しかし、その内部には異なるものも存在しており、それによって誰もが自分を他の人から固有なものとして区別している。では、倫理的原則は、その両者(類としての人間と個人としての人間)の一方だけを対象に持ち、他方はそれに従属させて―あからさまにであろうと暗黙のうちにであろうと―いるのか。それとも両者を、普遍的なものと固有なものとを、一つのイデーによって互いに統一するのだろうか。後者はこれまでまだなされていないように思われる。その理由ははっきりしないが、まだ誰も次のような倫理学を打ち立てることはできていない。すなわち、固有なものに、普遍的なものと並ぶ特殊領域を割り当てたり、あるいは、両者を互いに合法的に制限したり規定したりするような倫理学である。今までのところ見られるのはそうではなくて、普遍的なものに固有なものを、あるいは固有なものに普遍的なものを、無条件で従属させる(教説である)。快楽を目標として、道徳性の産物として立てる倫理学に関して言えば、すでに昔から明らかに気付かれていることだが、いくつかの快楽の源泉が共通の人間性に還元され、しかし、また、各人の特殊な性質が、そのいくつかを取り去り、また新たなものを付け加えると言われている。したがってここでは、事柄の性質に従って、またそうでない場合には恣意的に〈62〉規定され、普遍的なものが固有なものに従属させられ、それに飲み込まれている。なぜなら、共通な性質の内部で可能なものからは、特殊な性質を許容するもののみが現実的に生じるからであり、また、誰もがひたすら目指さねばならないものは、一般的なものや規定されていないものにおいてではなく、自分において、自分に対して可能なものだからである。エピクロスの体系においては、この従属はあまり目立たない。一方において、取り除かれるべきもの、すなわち痛みと情欲が、他方において、過剰なもの、すなわち、積極的に心をそそる快楽があり、一方における状態は他方とは異なっていても、本来もたらされるべきもの、そこからは最高善しか生じないもの、すなわち無痛状態は、いたるところで同じものとして現れる。そこにおいて個人の差異は目立つことがなくなる。しかし、アリスティッポスの体系においては、事柄ははっきりしている。そこではすべて求められるべきもの、選択されるべきものは、その内容にしたがって、これやあれやのために求められ、選択されるべきものの姿の下に現れる。その普遍的命令は、快楽の本質だけを、その内容との連関は一切なしに表明できる。これとまったく異なるのがイギリス道徳哲学で、彼らは善意の衝動から生じる快楽を排他的に道徳的なものとして定立したが、それは、いかなる仕方でも正当化されえない絶対命令(Machtspruch)によってであった。すなわち、ある人が、〈この善意の衝動は弱すぎて、顕著な快楽をもたらすことができない〉と語ったとすると、それはもう受け入れられるべきではないというように、前もって決定されることによってなされた。これが絶対命令でしかないことは、自ずから明らかである。というのは、もし彼らが、この第一原則よりも、〈他ならぬこの弱さが非道徳的なものであり、それが取り除かれねばならない〉ということに依拠しようとするなら、彼らは、快楽のために善意を命じるということを止めねばならないからである。

                     *道徳的なものを活動として定立する倫理体系に関して言えば、そこにもまた同じような〈63〉違いが起こりえることは明らかである。また、次のことも明らかである。すなわち、普遍と特殊の合法的な統一が見出されないような事例を除けば、それらの体系は、自らの原則の中に、規定するものを―それは万人によって追求され、したがって、普遍的なものの固有の性質への観点なしに、固有性の完全な根絶を伴いつつ実現されるべきものだが―定立可能であるか、あるいはそれらの体系は、それ自体では規定されないもの、ただ特殊との関係において規定されるものを定立する、すなわち、そのようなものか、あるいはその行動様式を、共同的なものの軽視を伴いつつ定立するか、このいずれかであることは明らかである。このところに妥当する倫理学を観察するならば、ほとんどいたるところで特殊がまったくないがしろにされているのを見出す。それは抑圧されるよりもよくなく、非道徳的とみなされる。たとえばストア派においては、自然適合性という概念において、自然の特殊規定可能性はまったく問題にされていない。もし誰かが、通常それによって道徳的なものを特徴づけるような言葉で、私たちに似つかわしく、相応なように、何か特殊なものを内部に含む言葉の中に、この種の思想を見つけようとすれば、それは空虚な仮象であるとされる。むしろ、万人によって広められた正しい悟性が、万人に共通のものであり、すでに賢者が模範として立てられているように、彼は、同様な事例における万人にとって同じ型の行為を暗示しているのである。したがって、もし彼らの特殊な固有性という点で、二人の賢者が、同じ事例で、異なって行動しようとしたら、賢者であるのはどちらか一方か、もしくは両者ともそうでないかであり、一方もしくは双方共に道徳にそむいているとされる。フィヒテもまた、この仮象に関しても、事柄の真の所見に関しても、このストア派の立場に立っている。彼の〈使命〉という言葉は、各人違った固有なものを表しているように見え、したがって、そのような解釈と独自な点から各人の特殊な系を助長するように見える。しかし、この特殊は、人間の内面的固有性に基づくのではなく、各人が自分の自由を最初に見出した地点にのみ基づき、〈64〉また、各人の環境や外的状態に基づく。そのような関係は、ストア派の礼儀(Schickliche)の根底にもあったものである。したがって両者において特殊は、空間的時間的なものでのみあり得る。これは以下のことを見るときさらにはっきりと確証される。すなわち、フィヒテが自我性の条件の中で引き合いに出す個性も、自分自身の身体への関係や、人間の事例全般の多数以上に及ぶものではないということである。さらに決定的なのは次のような個所である。すなわち、他の人々に対する各人の自由な行為の運命性(Vorherbestimmtheit)を自由と統一するという課題が登場する個所、そして、精神的な意味における各人の特殊な規定性がまったく破棄され、全精神的集団が、完全に一様に想定されている個所である。全体的理性のために、自由と知覚の無限に多様なものがあり、そこに個人はすべて参与する。そして、各人のために存在するのは、複数の規定された自我ではなく、ただ自我の総体のみである。しかしただこれだけではなく、道徳的完成はまた他ならぬ次のことの中にあるとされる。すなわち、各人は、この総体の一様な部分である以外のあり方をやめるということの中にあるとされる。なぜなら、すべての人を規定すべき理性は、個人から共同性の中へと移され、万人に共通な理性以外にはあり得ないからである。その結果、万人において、正義はすべて、この共同にのみ関係する同一の根拠から生じ、各人は、他の人の場所では同一のことを果たさねばならず、唯一の規範からの逸脱はすべて、法を犯すこととみなされる。なぜなら、差異はすべて道徳的人間のもとでは、ただその人が立っている場所にのみ基づくべきだからである。初期カントにおいては、これと同様な考えが非常に強く出ており、それは、特殊な規定性をただ遠くから露呈するに過ぎないようなものでも、そのすべてに対する激しい論争へ悪化するほどである。このようなところから次のような結果が出てくる。すなわち、法則の実現は不快感と結びついているべきである。なぜなら、彼によれば、快楽とは、とりわけ個性が代表しているものだからである。さらに、快楽―それが行為の対象であることができ、またあらねばならない限り―を固有性との結合から可能な限り自由にするために、見知らぬ幸福を目的となすような義務があるが、そのような義務は、彼の原則からは、彼によって決して導き出されなかったし、導き出すことはできない。このようなことはすべて、体系の持つ内的精神から説明されるべきである。この精神は、言うなれば、倫理的であるよりもいっそう徹底的に法律的である。そしていたるところで、社会的立法の威信とあらゆる特徴を備えている。そのことは先のこととも正に関係している。なぜなら、倫理的原則が常にただ法律の姿で現れ、それが多くの共同的なものの一つに基礎付けられるだけであるならば、それは、社会的な原則、厳密な意味で見れば、法規則以外になり得ないからである。それゆえに、フィヒテの倫理学も、すでに見たように、本来同じような特徴をもつのである。ただカントにおいてはそれがもっと強く現れている。というのは、彼においてはそれが最高度に厳密に際立っており、そこにおける傑出したものはすべてこの特徴との関連で理解されるべきだからである。すでに彼の最初期の倫理的言説がまったく法律的である。たとえば、〈道徳的なものは、あらゆる個人的な恣意を自らの中に、また下に把握する最上位の意志から生じるものとみなされなければならない〉という。これによって特殊なもの、固有なものも同様に根絶される。なぜならそれは、互いに対立するものであるから、先の最上位の意志が含むことのできないものだからである。まったくの連関なしに、しかし、確固たる普遍的承認の確信を伴って立てられたあの思想―それは罰すべきこととそれに対立する幸福になるための威厳に関するものだが―も、正にこの点から説明されるべきである。なぜなら、市民的共同体の合法的な関係において、その健康状態が一貫して、法に適った行為と生活に依存することは、最高の、しかしまた解答不能な課題だからである。したがって、次のように言うことができる。〈66〉カントの最高善もまた政治的なそれに過ぎないと。彼の倫理学の最高原則からは、その倫理学への導入が決して説明できないような、義務を課したり課されたりというイデーの樹立が、政治的でなくてなんであろうか?あるいは、彼が、最も純粋な倫理的関係である友情においてさえ、その根底に置くすべての人に対する内的な隠された争いというイデー、その結果、彼に道徳的な友情―それは本来弁証法的な友情とだけ言うことができるものだが―でさえ、個人の停戦状態のひそかな享受として見られている。同様に、人間を目的そのものとして扱うという彼の定式も、それは何か別のものに到達できたにもかかわらず、同じ性格を持っている。というのは、人間はその個性ゆえに、そこに落ち着くことはできないとでも言うかのように、この定式は人間から人類へ転用されるからである。目的の国も市民的王国である。しかしそれは、様々な個々人が、規範に適いよく計算された仕方で互いに理解しあうことが主題であるような、よりよい意味においてでは決してない。そうではなく、その根底にあるのは、国家の最も悪しき表象で、全体に対する個人の関係はただ否定的であり、各人は本来は違ったことを欲しており、法によってのみ抑制されるという。カント自身は、自分は、自分の方程式のいたるところで、自然法の方程式を模範として選択したと考えているのだが、しかし、彼はこの考えを誰にも伝えない。なぜなら自然法というものは、対置されたものにおける平等の崩壊への萌芽を含み、普遍的なものと共に、特殊なものに対しても場所と与えることなしには考えられないからだという。なぜなら、そのようにして有機的結合が生じ、それに対してのみ自然法は存在できるからである。しかし、同じようなものだけが並んであるようなところに、誰がそのような有機的結合を見つけようと思うだろうか?カントもいかに自然法を模範とすることができないかということは、この種の最も小さな試みから誰もが見て取れる。自然のイデーのもとで見るなら、愛はひきつける根源力、尊敬(Achtung)は反発を起こさせる根源力であるとカントは考える。しかし、彼の模範は〈67〉政治的な法以外の何ものでもあり得ない。カントの倫理学が、幸福論ではなく、法律論に変えられるならば、もっとよいものになるのかどうか、それはどこか別のところで探求されるべきである。ここではただそれがもっている意図と問題の発見だけに止める。

同じことは、多少形を変えて、イギリス道徳哲学にも見られる。この学派が、その目標を活動に置くという見せ掛けを主張する限り、自然的衝動以上に、自分たちの倫理的原則を叙述しており、それゆえに、法律的という以上に自由な社交を視野に置いている。しかしながら、自由な社交というものが常に法的なものになろうと努める限りでは、それは先に見たものと同じである。そのような社交の姿は、すでに出来上がってしまっている社交における機械的前進よりも倫理的であるように見える限りでは、それは先のものよりも前に置かれるべきだろう。しかしこの学派もいかに個的なものをまったく拒否したかということはイギリス人以上にドイツ人のガルヴェにおいて見ることができる。彼は、快楽と活動との間の揺れを含めて、全く同じ所に属している。他のすべてのことに変わって、この関連で決定的なのは、人間性の普遍的な模範についての彼の発言である。そこでは、すべての特殊は、彼によって逸脱と考えられ、それは、道徳的法則が発見される以前の時代に、無秩序な行為によって成立したもので、法則に適って形成された行為によって、今一度取り除かれねばならないものである。そのようにして、道徳的力の最高の全作用として、人間の完全な内的平等がはっきりと生じるとされる。

                     *このような揺れ動く人々を後にして、快楽との密かな交流なしに、完全性を目標に据えた人々に移ろう。他でもそうであるがここでも、意見は様々に分かれている。言葉の多義性や、概念の不確かさを通して起こりえるのだが、様々な可能な事例がここでも同時に現れている。なぜなら、彼らは同様に、人間性の普遍的な模範を〈68〉根底に置くことができ、それから、固有性の排除によって、これまで引き合いに出された人々にひけを取らない。しかし、他の人々は、各人の特殊な規定性を、端的に所与とみなして根底に据えることができたが、普遍的なものに何ら関わることがなかった。その結果、彼らの道徳的なものは、その保持、発展、叙述としての固有性との関連でのみ規定された。しかし、これは、少なくとも学問的な建造物としては、まだ誰によっても試みられてこなかった。フィヒテが似たものを暗示したに過ぎないが、もちろんそれは非道徳的状態としてであり、規則の発見と共に終わらねばならないものであった。しかしながら、このような見解は、非学問的な姿で、しばしば現れるが、それは、現実の生の規則または詩などの芸術作品に表現された規則としてであった。したがって、それらに対し、その学問的な不可能性の実証にいたるまで、いずれにせよ空虚な立場は拒み得ない。さらに他の人々は、完全性のイデーのもとに両者を統合しつつ、次のような課題を捉える。すなわち、あの共同的な模範への接近を、ある種の原則に従って、固有なものの完成や叙述と一つにし、両者を互いに規定し、制限するという課題である。その際、当然のことながら規則が見出されねばならないが、それは、固有なものの多様性を整え、論じ尽くすためであり、また、それぞれがどこに属するかを個々に判断するためである。遠くからではあるが、この課題に行き着くのもまたプラトンとスピノザである。一方においてプラトンは、イデアを唯一のものとして描いているようにも見えるが、しかし他方、ある場合には彼の方法によって、すなわち、そこから下ってすべてを演繹するために世界形成へと登りつめる方法によって、特殊は神の素案の中に与えられている。またある場合には、彼自ら、様々な力と大きさの混合の中に、自然的差異を据えている。しかし、次のように言う者もいるだろう。すなわち、〈これが起こるのはただ政治の領域のみである。そして、そこで発見されて現れるものは、〈69〉倫理学の領域では、作り変えられるか、まったく取り除かれるものとして、放棄されるだろう〉と。これに対しては次の二つのことが対立する。第一に、プラトンはこの差異を産出によって成立したものとして定立する。それはたとえ神話的に解釈されるとしても、根源的で変更不可能なもののイデーは、含まれている。次に、彼はそれを、政治的に入念に、しかも永遠の時の中へ保管されるべきものとして据える。そのようなものは、二つの学問の結びつきにおいて、倫理的に根絶されるべきものであることは不可能である。同じことはスピノザにも妥当する。彼は普遍的な模範像について少なからず語ったにもかかわらず(妥当する)。もし人が次のことを熟慮するなら、すなわち、彼の倫理学のいたるところに現れ、そこにおけるおそらくは不可避な思想を、それにもかかわらず必然的なものとみなすことはできない(ということを熟慮するなら)、また、スピノザの次の言葉〈この模範への接近は、真に有益なことである〉と、彼の教説の根本思想、すなわち〈各類ではなく、各個々の存在が、その特殊な仕方で無限者の根源力を表現している〉を関係付けようと試みるならば、次のことが不可能であるのを誰もが容易に認識するだろう。すなわち、彼の言う意味に従えば、この固有なものを、欠陥のある、したがって取り除かれるべきものとして扱うべきだ(ということの不可能であるのを容易に認識するだろう)。したがって次のことは十分明らかである。倫理学を、プラトンとスピノザの根本的特徴に従って完全に、それが他の体系において生じたのとまったく同じように、打ちたてようと望む者は、あらゆる共同的なものと固有なものとの統一という課題を避けることはできない。どのように様々な仕方で、そのような倫理学がこれやあれやの体系においていかに実現されるべきかということは、ここでの課題ではない。ここでは、この対立がいかに至るところで起こっているか、またいかに倫理学が様々に試みられてきたか―このなおざりにされてきた側面は、ほとんどすべての様々な諸原則によって少なくとも放棄されたにもかかわらず―を示したということで十分である。従来の倫理的諸原則の重要な差異については十分語られた。今は、体系樹立に関しての、その有用性の吟味に移ろう。

 

2.様々な倫理的諸原則の、体系樹立の為の有用性について

1)この有用性の条件

倫理的原則から行為の体系が展開すべきであるなら、この行為あるいは状態の全体性も含めて考えられねばならない。それによって同時に、本来的行為に向かうものではないが、全体及び同種のもの―それは一つの概念の下に叙述できねばならないものだが―を形作るものが、含めて考えられねばならない。しかし、さらにまた次のものにも注意が払われねばならない。すなわち、そこにおいて、それを通してこの全体性が実現されるもの、つまり、道徳的原則によって統制された魂である。前者(行為の体系)が、外的で移り変わる叙述であるように、これ(魂)は、同じものの内的で持続的な叙述である。これは、様々なすべての表現において一つの同じ力として、単に物理的にではなく、倫理的にも一つで同じ力として、一つの概念のもとに捉えられねばならない。ここから、最高善と賢者という二つのイデーが成立する。これらは、通常、これやあれやの学派に固有なものとみなされているが、真理に従えば、すべての学派に、同じ仕方で属するのでなければならない。先ず、本来倫理的原則といわれているもの、それは狭い意味では規則と呼ばれる―というのは、それは個々のものに関わるから―のだが、最高善というイデーとこの倫理的原則との関係を見るなら、それは測量術において、方程式や公式が、測量の対象である曲線に対して持っている関係と同じである。後者が前者によって規定されるのであるから。すなわちここで、変化することのない量が想定されるならば、公式によって指図された方法にしたがって、変化するものが相互に次々と定められることにより、そこに属する他の変化するものが、そしてそれと共に曲線上に一つの場所が、その都度見出される。倫理学においても同様であって、それが人間性であれ、その他何であれ、変化することのない量が定められるなら、非常にしばしば、人間の倫理学的関係全体のもとにあるこれやあれやの点は、あたかも座標軸上の点にたとえられるが、原則によって示された方法を行使することで、その都度行為が見出される。その行為は、倫理的生の全体において、この点に属する要素を表現するのである。しかしながら、倫理学上の方法においても、数学の方法においても、このような仕方では、単に曲線上の個々の点が、あるいは、最高善の個々の部分が見出されるに過ぎない。それは多かれ少なかれ、脈絡のない方法に不可避な隙間次第で、遠く近く動かされてしまう。これに対して、ある一つの工具を考えてみる。それは公式との関係で精確に調整されており、その線上を絶えず移動することによって、個々の場所ではなく、全曲線を、絶えず途切れのない全体として記録しているのである。そのような工具にたとえられるのが賢者である。彼は人生の線上を絶えず移動することによって、最高善を、その連関において、逸脱することなくもたらすのである。そして、すべての工具において公式が、言うなれば機械的に自らを叙述した生を獲得したように、賢者も生きた規則また最高善を生み出す力である。ここからすでに、これら二つのイデーは、互いに一方がなければ他方も存在し得ないことが、十分明らかである。賢者というイデーが、倫理学体系―それはここに分離された要素によって組み立てられねばならないが―の樹立に直接的には用いられず、ただ次のような告白、すなわち〈途切れのない全体を叙述するために、これはいかに不十分か〉という告白を含むものであったとしても〈72〉しかし、それはすべての体系において等しく暗示されねばならない。もしある道徳的法則に、それに応じた賢者のイデーが欠如していれば、正当にも次のような邪推が生じるに違いない。すなわち〈この法則によって形成された行為は、独自な内的なものとして生じたのではない、この人の似ている力と方向性とは、この法則の不屈な根拠ではない。そうではなく、その類似性と、法則の本来の本質とは、何か外部のものに依存しているのだ〉という邪推である。また、ある法則に最高善のイデーが欠如していたら、〈この課題はそれと離れることのない完全性において思考されたのではない〉と推論されるだろう。たとえば、もし法則が直接に、自分が実現するものを目指さず、ただ他の行為様式の破壊だけを目指すなら、その法則うによって働きかけられるものの統一は、容易に隠されてしまうだろう。また、その法則が、自分が求めているものを実現するには不十分であれば、その最終的目標として考えられたものは、この法則に関しては、偶然現れたのであり、体系に樹立されないことが正しい。同様に、最高善にも、また賢者にも法則が欠けることも許されない。なぜなら、そうでないと、その総体は、偶然、表面的に成立したものとして現れ、内的に、合法的に成立したものにならないからである。したがって、その時には倫理学も成立し得ない。それは原則の統一性に従って企てられた、体系的な最高善の分析に他ならないからである。また、その場合には、学問が関わるべき生の遂行も成立しない。なぜなら、それを成し遂げるための十分な力としての行動様式の統一性が彼に指図されていないところで、どうしてその人に、自分の努力の全体性として何かをなす気を起こさせることができるだろうか?

                     しかし、ここから次のように考えることはできない。すなわち、この三つのイデーがどの体系においても、等しい明確さと規定性とを持って置かれ、等しい強さで現れているということである。というのは、倫理学に関しては、それに携わる人々が、〈73〉その全連関およびすべての部分について、等しく明確な表象を持つほどには、まだ成長していないからである。また他方、諸体系の目的における相違が次のような事態をもたらしてもいる。すなわち、この体系ではこのイデーが、あの体系では別のイデーが、より少なく使用されるということで、解明する光はより少なくなっているが、このことは、それらの体系にとって無条件の非難となることはなく、ただ批判に次のような義務を課すのである。すなわち、従来の叙述の欠如に対し、比較によって得られる内的知識によって対策を講じ、また、一見して欠如しているように思われるイデーの隠された要素を探求するという課題である。それらが現実に繁茂しているか、それともただ目立たないだけとか、しかるべき空間を満たしていないかとかであれば話は別だが。なぜなら、次のことはまったく起こりえることだからである。すなわち、ある体系において、それら(三つのイデー)の一つがまったく欠けているとか、あるいはただ見せ掛けだけとか、誤解された仕方で模写されているように見えるとか、その結果、そのイデーは、他の残りのイデーに対応していない(ということが起こりえる)。それにもかかわらず、真の、その体系には同様にふさわしいイデーであり、ただ正しい場所で、完全に展開していないだけというイデーが存在するのである。また、これら三つのイデーのうち、どれが第一の根源的なイデーであるかということを、一般的に決定することもできない。すなわち、そもそもどのイデーも他のイデーから演繹されることはないのである。倫理学は次の原則、すなわち〈すべての行為は、様々に規定された最高善の一部であるべき〉という原則によってと同様に、また〈どの人の中にも、様々に表現される道徳律が、第一の要因として含まれているべき〉という原則によってもはじめることが可能である。なぜなら、前者、最高善からは、方法の規則が演繹され得るのと同様、後者からは、産出されるものの全体性のイデーが、同様にうまく演繹されるからである。それはちょうど、身体における曲線―曲線は身体に属している―を観察することによって、機能が発見できるのと同じである。そこでプラトンは、彼の世界観において、先ず人間の最高善、すなわち〈神との類似性〉を見出したことは明らかである。そして、それから、人間性の概念の演繹によって、〈方法の規則〉が来るのである。これに対してスピノザは、彼の世界観において、先ず、〈すべての行為に属している考えの妥当性〉という法則を見出した。〈74〉そして、それからはじめて、最高善、すなわち、〈すべての人に含まれている神認識〉が来る。したがって、双方のイデーは一貫した相互関係にある。そして一方のいずれが早く現れるかということは、ただ、その倫理学に携わる人の固有な見解に、あるいは、この学問が見出された連関に依存しているに過ぎない。つまり、遅い早いは、今はまだ、私たちにとってまったく偶然なのである。この制限はしっかり念頭に置きつつ、しかし、この三つの提示された倫理的イデーは、どれも独自なイデーであるが、しかし、いずれも最高原則の関係すべてを表現しているわけではないということ。したがって、どのイデーも、その最高原則の独自で不可欠な姿とみなされねばならないということは、同時に必然的である。もし、それらのうちの一つが倫理学の根底にあるべきならば、そして、このことは、道徳的原則の体系的建築術的有用性の必然的条件であるならば、各々について、その語られたところから明らかにならねばならない。

                     この姿の多様性に次いで存在するのが、二重の方法である。これを通してどの原則も自らの仕事を遂行するのであり、したがって、自分の特質において真であることが認められるために、どの原則も、この方法に相応しい能力を持たねばならない。この原則は次のような状態でなければならない。すなわち、その原則によって―そのようなことがただ一般的にのみ保持される叙述において可能である限りでだが―すべての道徳的行為や存在自体が示され得る(という状態でなければならない)。この原則が、そのために仲介し指導する概念を使用できるということは、すでに上で認められたが、また、この概念について、私たちの研究の領域では前もっての判断は、なされないということであった。なぜなら、この概念は原則自体と、一つの同一な共通の高次存在に基礎付けられなければならないにもかかわらず、これが個々の場合の状態であるかどうかは、私たちの限界の外にある問いだからである。しかし、倫理学そのものの領域においては、この概念は、原則とは独立していることが可能である。なぜなら、この概念は―原則が法則の姿をとるのであれば―自分の適用領域を持っているからであるが、〈75〉しかし、この概念は、最高善の適用、その区分の根拠を含むべきである。ただ次のことまでは自ずから明らかである。すなわち、両者はこの関係において互いに補完し合う関係にあるべきであり、一方は他方を完全に論じ尽くさねばならないということである。その結果、補助概念によって描かれた略図には、原則によって倫理的に規定されていないようなものは何も残らず、また、人間世界内部に、あの概念に対する原則の関係を通して見出されないような原則の適用は考えることができない。もしこれがなされないとするなら、どの程度その責任は、補助概念の誤った選択―それが恣意的であったというような―にではなく、原則自体にあるのかということは、一般的に決定してはならない。なぜならこの問題は、体系の完全性の判断に関わることであり、それは本書の最後に扱われるからである。そうではなく、今私たちが見ておかねばならないことは、一体この原則に―それ自体としてであり、補助概念との結びつきにおいてであれ―このための有用性が認められえるのかどうかということである。[]しかし、この方法はそれ自体再び、二重の方法を含んでいるように見える。というのは、体系におけるある場所が、どのように満たされるかという仕方と、現実の生における時間部分がどのように満たされるかという仕方は同じではないからである。すなわち前者は、ある特定の対象との関係における道徳的方法の全体を含んでいる。この全体は、単に瞬間瞬間の一つの系においてのみ表される。しかし、各瞬間において何がなされるべきかと問われるならば、示されるのは、様々な要求の多様なるものである。それは体系の様々なところから取り出される。そして、統合されるか、あるいは、時間との関係で互いに従属させられねばならない。したがって、この原則の現実的適用は、実行されると、二つの要因からなっている。一方は、どの対象が今扱われるべきかを示し、他方は、〈76〉その対象がどのように扱われるべきかを示す。しかし、道徳論争についての倒錯した思想にきっかけを与えるのは、この、単純であるにもかかわらず、見かけだけの二重性である。なぜなら、道徳的な対象はどれも定まった大きさを持っており、それを超えると、その対象は道徳的であることをやめる。したがって、その体系も、その対象の大きさの規定による以外にその対象を立てることはできない。このことが持つ意味はただ次のことである。すなわち、この方法に対する原則の有用性には、必然的に、〈この原則を通して、すべての道徳的なものと共に、同時にまた、それが他の残りのものによって限定されるあり方も見出されねばならない〉ということが属している。この〈樹立する方法〉に対立しているのが、もう一つ別の方法で、それは〈吟味する方法〉と呼ぶことができ、証明のための最初の方法に役立つ。すなわち、原則は次のような性質を持たねばならない。どの与えられた行為についても、原則との比較を通して、―原則が最高膳の形をとっている場合ならば―その行為が最高膳の一部になっているかどうか、あるいは―原則が法則として立てられているのであれば―その行為がその原則を通して構築されるものと考えられるかどうかが、直ちに決定される(という性質を持たねばならない)。そのような問いは、もし原則が、真にそれがあるべきものであるならば、答えられないままであることも、また二重の答えも決して許されない。なぜなら、答えられないということは、その原則が不十分でその全領域を包括していないということを示すし、二重の答えは、原則自身が多義的で曖昧であるか、あるいは、補助概念―それによって個々の道徳的なものは規定されるのだが―が、倫理的目的との関連で、また原則に対するその関係に従って、内容に相応しく区切られておらず、見知らぬ点から暴力的に―まったく恣意的に偶然に委ねられてはいないとしても―切り取られているということを示す。両者は、最初の方法においては容易に隠れていることが可能であり、そこではただ樹立されたものだけが観察される。したがって、この第二の方法は、第一の方法の必然的な確証であって、それ無しには、原則について確かな判断を下すことは不可能である。しかし、その際注意されねばならないことは、上のことからも明らかなように、行為はただ〈77〉瞬間に対する関係も表現された場合にのみ確かに与えられるということである。なぜなら、そうでなければ、その際に適用された道徳的概念が、その真の倫理的内容においても、見知らぬ見かけだけの拡大なしに捉えられているかどうか、判断できないからである。これを怠ったことが、個々の倫理的体系について、時に不当な誹謗中傷をもたらした。さらに注意すべきことは、行為もまた全体として与えられねばならないということである。もし行為が、原則に落ち度はないのに、倫理的に規定できないものと思われたりしたくないのであれば、あるいは、同じく行為が、誤りが補われたり、その何倍もの量が関係の仲に定立されたりする度合いにしたがって、異なって判断されるということができないのであれば(行為もまた全体として与えられねばならない)。恣意的なものとそうでないもの、意図的なものと偶然的なもの、複数の行為の結びつきについての問いもまたここに属する。これらの問いは、倫理学の最初の部分で探求され、それらの連関を除いて弁証法的な恣意によって扱われ、少なからず困難を引き起こしてきた。しかし、これらはすべて、倫理的統一の問題に属する。答えることにさほど困難はないと思われる。道徳的な意味では、行為は意欲に等しい、現実的意欲が存在するところに行為はなされる。意欲による以外に、業(Tat)は行為(Handlung)にならない。その本性に従って、意欲と結びつかないであり得るような行為は、道徳的でもない。確かに恣意が道徳的なものの境界である限り、それ自体〈我知らずなされるもの〉(Unwillkürliche)は排除される。しかし、恣意的なもの自体は、今とここでの場合だけは、意欲と結合していないように思われる。したがって、放棄された意欲の非存在(Nichtdasein)も倫理的に判断されるべきである。なぜなら、もし意欲でないもの(Nichtwollen)が、端的に偶然的恣意的であるなら、意欲も同様に―なぜなら、それはどの個々の場合にも起こらないままであることができるのであるから―偶然的で恣意的である。そして、生起したことについての倫理的判断はすべて止んでしまうだろう。しかし、一見我知らずなされる(scheinber unwillürliche)78〉行為も、部分として、他の行為と関連が可能である。そして、この他の行為における意欲は、一見我知らずなされる行為とも関係しなければならない。このようなことは、意図して習慣とした行為においても、また意図せずして身について習慣となった行為においても起こる。人は後者を免責する―なぜなら、その講師においては何ら意志が働いていないのだから―という不正をなすと同様、前者からそれに当然与えられるべき賞賛を奪うという不正をなす。なぜなら、意図的に習慣とする人は、この決定において、後になれば特別な意志を必要としないような行為を欲しているからである。このような行為は、その原因となる意志と同時に遂行される行為とまったく同じように、最初の意志と関わっているのである。しかし、別のことを欲しているうちに、知らぬ間に何かを習慣として身につけた人でも、これが同時に欲せられていたと考えるべきである。なぜなら、それは彼が知っていた方法で、自然に身についたのであり、彼の行為の結果に違いないからである。したがって彼は、少なくとも、このような習慣が伴うことを承知で、その別の行為を欲したのである。それはちょうど、自分の力を軽率に行使したことによって損害を与えてしまった人について、〈彼はこの損害を欲していなかった〉とは言わないのと同じである。そうではなく次のように言うだろう。〈彼は自分の目的を、自分の道徳的な大きさの外に求めた。なぜなら、彼はそれによって、同時に、物理的な能力の、思慮を欠いた適用を―それは明らかに非道徳的だが―を欲した〉。あるいはもっと正確には〈思慮深い、倫理的目的に適った適用を求めなかった〉と。なぜなら、意欲の直接的内容は常に、目的概念に過ぎないが、欲していない行為の内容は、倫理的に規定可能であったはずのものなのにそれがなされなかった倫理的規定だからである。したがって、外的行動がその意欲から切り離された場合、あるいは、それが目的概念にまで導かれなかった場合[]は、いかにその行為も引き裂かれ、その断片だけが判断されることになるか、以上言われたことから理解しなければならない。しかし次のような危険〈79〉すなわち、一つではなく複数の行為が互いに混乱した状態で吟味に付されるという危険があるが、それが生じるのは、単に個々の部分が他の行為に引っ張り上げられることによるあの引き裂きからだけではなく、行為の高次の統一という思想からさらにいっそう広い範囲で生じる。すなわちそれは手段と目的の結合に基づき、すべての―それが以下に多かろうと―そのようにして結ばれた行為を一つにしようというのである。それ自体倫理的に意味があり、従って、それ自体で原則に従って規定されるべき行為が、単なる他の行為の手段として定立されるや否や、このことが判断を必然的に混乱させるに違いないことは、容易に判る。なぜなら、そのような行為はその本性に従って次のような要求を持っているからである。すなわち、それ自体で、それ自体のために遂行され、従ってまたそのように判断されるという要求である。このような二つの要求が、今や他の行為によって呑み込まれるのである。手段の行為自体が、それ自体として見られ、生じたのとは違って、おそらくは対立する仕方で遂行されるならば、このようなことが統一をもたらしえないことは自ずから明らかである。悪は善のために生じるはずがないという定式にもかかわらず、手段の行為のについてここで特別な判断が避けられないことは、誰にでもわかる。それによって表されるのは最も粗野なものだけである。しかし、たとえ、その行為が、それ自体が要求されているように遂行されたとしても、まったく同じことである。なぜなら、それをそのように遂行するという意思決定は、実現されなかったからである。そして、この目的行為についての判断と並んで、特別な判断がこの不本意について形成されねばならない。この混乱の例は身近にある。もし次のようなものを行為と考えるなら、いやらしい行為とはこのことである。すなわち、ある人が、生計を目的に自分の才能を磨くような行為あるいは、あるひとが、第三者の寵愛を得るために、ある他の人に親切をする行為である。後者は好都合と判断される。前者が許された手段だったから。一方で、人間が手段として、驚くべきほとんど笑うべき定式のように見える手段として利用され、他方では、〈80〉些細なことのためにより大きな事が起こっているというようなことの中に、憂慮すべきことがあるというのではない。そうではなく、そのような考量に依存しない事柄自体にある。なぜなら、手段と考えられた両者は、それ自体で選ばれまた拒否されるべきだからである。この選択の中にある道徳的行為は、それによって根絶されている。この種の目的行為は、自分の弟アベルを殺し、そして、弟の番人であることを拒否したカインのようである。しかし、弟の血は、大地から叫び声を上げ、そして告げるのである。〈二人いるはずなのに、一人しかいない〉と。したがって、他のための手段は、それ自体倫理的には意味がなく規定できないものである。この条件の下でのみ、原則は、単純な判断をするという責任を負うことができるのである。これが倫理的原則のために、その本質的な活動から生じる有用性の条件である。この基準にしたがって、その活動を吟味することに移ろう。

 

2.立案された条件による諸原則の吟味

 

                     先ず倫理的原則の三つの姿の共存に関してだが、とりわけ注意すべきことは、最高善が、明確に形成され、完了されることはできないが、それは単に集合体として与えられているのみであって、一つの系として、もっとうがった表現をすれば、その系を表現する方程式としては与えられていないからということである。なぜなら系においては、すべての要素は、その性質に従って、全体に対して等しいあり方で適合しているだけでなく、その係数によって、自分の場所が排他的に決まっている。しかし、集合体は、個々の不確かで様々な量をまとめたものからなっており、その内容が与えられれば、おそらく系よりもずっと早く完結する。これに対してしかし、この集合体のすべての部分について、それは間違いなく組み合わされているのかという疑いが生じる。なぜなら、どの構成要素に対しても、全体を高め、加速するために、他の、もっと大きな要素を加えられるからである。〈81〉活動を目指す倫理学の体系の中で、このような構成を規定する原理が可能なのは、フィヒテがおそらくは最初にはっきりと要求した原理である。すでに前に言われたことからも明らかなように、一般的に考えてある行為が道徳的であっても、ある場所では非道徳的になり得る。同様にまたすべての行為が、ある場所では非道徳的になり得る。そのような場合、最高善の部分を、他の活動で、たとえそれがさらに大きなものであろうと、代替することはできないだろう。したがって、この倫理的叙述の下には、この欠如で損なわれているものしか存在しない。なぜなら、そこには、あのアリストテレスによるような種類の規定根拠が欠如しているからである。アリストテレスの念頭にあったのは完全な活動だけであった。したがって、彼に対して最高善は、ただ集合体としてのみ現れることができる。したがって、彼には次のような心配も生じた。すなわち、そのような行為のすべてが、それともただ最善の最も優れたものだけが、部分として最高善に属するのかという心配である。しかし、快楽の体系においては、このような不確かさは当然で本質的である。つまり、先の定式との類似に従って、ある瞬間に可能な満足というものがあると仮定できるかもしれない。[]それによって最高善は関連に規定される。しかし、誰の目にも明らかだが、能動的行為と(快楽の)享受との間には差異があり、この定式は後者(享受)には適用されえないのである。なぜなら、快楽は度合いによって変化するので、一人の人のそのような快楽の上昇は、他の残りの人に対する関係を変えてしまうからである。また快楽は、少数の例外を除いて、行為の場合のような、自然的終点を持たない。したがって、いつある瞬間が終わりとみなされるのか、そして新しい自己規定が要求されるのか、正にこの点が恣意的なのである。したがって、何重ものあり方で、系の指数は、無限で、それ自体探り出せない〈82〉大きさである。最高善をただ集合体として実現する以外にないのである。ここにおいて、上で注意された困難、すべての部分を構成するための困難が現れる。なぜなら、個々の享受の総体とそれらの集中からまとめられる人間の享受全体は、規定された有限なものとみなすことができないからである。それは等しいあるいは等しくない部分に分解され得るのかという問題も生じる。生の不規定性ゆえに、また内的外的にもたらされる原因自体の不規定性ゆえに、それは規定されないのである。それゆえ、すべての個々の快楽について、なぜ他の、もっと大きな場所をとらなかったのかと尋ねることは可能である。しかし、全体は捉えることがほとんど不可能である。なぜなら、快楽の生じ方における様々な方法の種類と、その様々な次元が互いに争うからである。方法の種類とはすなわち、快楽のある種の傾向は、他のそれと常に対立しており、最高善のある部分を定めることは、至るところで他の部分を、単に時間したがってのみならず、将来に対しても排除してしまうということであり、様々な次元というのは、快楽の時間を延長することは、感覚の強さに損害を与える。そして、両者はまた変化という活気を妨害するということである。キュレネ派のある亜流が、決定的な最後の瞬間を説明して次のように主張した。〈快や不快はそれ自体として、あるいは本は来無である。あるのはただ一方において新しく未知なもの、他方には飽きてしまったものであり、それによって快、不快は規定されている〉と。このような説明は、いかに、これやあれやの一面的な主張が存在しているかということのより明らかな証明に役立つということぐらいである。したがって論争が終わることはないのである。しかし、〈すべての快楽は等しく、差異はない〉というアリスティッポスの逆説自体に関して言えば、対立してはいるがより重要なストア派の逆説と似ていると言うことは不可能である。したがって、彼の見解は、〈83〉感覚における度合いの差異をすべて破棄するというようなものである。なぜなら、一方では、これによって選択に際しての未決定が生じ、それは原則をまったく無用にするし、他方で、アリスティッポスはこれにより、彼にとっては非常にいとわしいものであったエピクロスの否定性に傾くことになるからである。というのは、あらゆる快楽の完全な同質性において、唯一特定な仕方で遂行されねばならないのが、痛みを遠ざけられるということだが、しかし、その後でさらになされるべきことは、運命に委ねるということなのである。そのような命題は、むしろ次のような対立した意味を持つことができるのみである。すなわち、度合いの違いが唯一の違いである。これを除けば、いかなる快楽も他の快楽以上に大きな価値をもつことはない(という意味を持つことができるのみである)。しかしながら最高善の確定において、イギリス道徳哲学によってなされたものは、最悪の考え方である。彼らは、そのような価値の差異を受け入れる。したがって、様々な満足において関係を求めねばならない。また、さらに見つけるのが困難だが、この差異に相応しい心の平静を考えるが、そのようなものは、その本質に従えば、政治的な平静よりもつまらないものである。そこで、必要なのはたとえば次のような問いのみである。他利的な親切による喜びが、自己愛的なそれよりもよいものであるなら、後者(自己愛の喜び)に認められた場所すべてが、前者(他利的親切の喜び)によって占められないのか。それへの動機は決して欠けてはいないのに。そうなれば、自己保持は快楽なしに営まれ、それはまた最高善の部分としてではなく単なる条件としてなされるだろう。ハチスンがまったく正当にも、最初に見出したとおりである。ただ、おかしなことが目に飛び込んでくる。すなわち、他利的親切が最後に目指すのは、他者の保持であり自己愛的快楽である。そうすると最高善は、最高善よりも低いものによる快楽の中にのみ存在することになる。この従属関係が、人から人へ慇懃な利己心を伴って循環することになる。この循環からの救済は、原則の大胆なしかし自然な拡大による以外にないように思われる。これを最高度の平和的に〈84〉イギリス道徳哲学の倫理学は、フランス啓蒙思想のそれに引き渡す。すなわち、親切が最高のものであるなら、なぜそれは、その満足を、他者の直接的自己愛的な幸福による快楽から取ってくるべきであるのか、むしろ、もっと高次の、しかも親切であるような快楽に、もっと高次な喜びを見出すべきではないか?この喜びを私は、私自身がそれを見るために提供されている幸福の実現による以外に、確かに促進することはできない。その実現は自分自身に対してではなく、他者に対する義務として命じられており、その結果、人間の道徳性は、最終的には、自分の低次な喜びを超える他者の喜びによる高次な喜びからなっているのである。このような仕方で、最も確実に、もしそれが至るところで可能であるならば、次のような要求が満たされるのである。すなわち、最高善は、すべてその土地の仕方で作用し、永続する、最も真実な自然的満足の、最大級の総体の中に、その満足と共にあってのみ存在可能な、多くのより小さく価値の低い満足と結びつきつつある。しかし、このようなすべての傾向性そのものが、その定式を超えて輝かしく一つになるということが成り立つのは、同じ拡張の法則が、私たちを再びさらに高く追い上げることがない場合に限られるということは明らかである。したがって、最高善はこの原則によっては決して実現できないのである。しかし、アリスティッポスと共に、すべての快楽をその種類に従い、価値において同列に置く者も、この困難を克服できない。同時に生じるものに目を向けるなら、困難はさらに倍化されるだろう。なぜなら、ここで先ず一般に生じることは、快楽の享受を通して、快楽の享受に対する人間の能力が変化するということである。その結果、享受はすべて、非享受の原因になる。そして、非享受はすべて、より高められた享受を促進する。したがって、最高善は、その要素に分解すれば、個々の要素を、知られて入るが決して実現されることのない欠乏と享受の定式においてのみ表現できるということになる。しかし、さらに特に明らかなことは、対立するものにおいて常であるように、不快がしばしば快楽の原因であり、快楽は再び不快の原因であるということで、したがって、拒否されるべきものが、選ばれるべきものの条件としてあり、〈85〉また後者が、前者を自らに引き寄せるものとしてある。このようなことは、必然的に、最高善の教説に大きな混乱を引き起こさざるを得ない。ただアリスティッポスの場合は、他の後の幸福論の教師たちの誰よりも、このような混乱は少なかった。なぜなら、不快が、快楽を来たらせるための手段であるような場合には、彼には最も首尾一貫したものとして、次のような課題が述べられているからである。すなわち、この結合を、単に偶然に過ぎないものとして破壊するという課題か、あるいは、そのようにして獲得された快楽に、他の快楽をこっそり押し付けるという課題である。快楽が結果として不快を伴うようなところでは、彼は、その快楽に同時に存在している恐れを助けとして用いるが、それは、その快楽を、不純なもの、真の善のしるしを持っていないものとして拒否するためであった。それゆえ、彼は、賢者に恐れを残したが、それは言うなれば、真の快楽を誤った快楽から区別する巧みさとしてであった。それにもかかわらず彼は正当にも、完全な、越えることのできない快楽の集合体としての最高善を、喜んでまったく拒否し、それに実在性を否認することに甘んじる。彼の考えるところでは、その集合体は直接求められるものではなく、各人はただ個々の快楽だけを求めている。そこからだけ、その集合体は、その都度可能なものとして生ずるのである。連関のある生というイデーが、この体系においてはまったく破棄され、救いはただ、次の瞬間のみが考慮されるということにあるなら、Hegesiasが、この体系から出ることなく、また、独自な考え方の決定的影響なしに、どうして次のように主張することができたか分かるのである。すなわち〈もし快楽がもはや与えられないのであれば、死を選ぶべきである〉と。倫理的原則が生を放棄するならば、それは、その原則が、生を前にある目標に導くのに無力であることを認めたということの確かなしるしである。

                     *同じことは、私たちが幸福主義の中に賢者のイデーを求めるときにも存在する。もちろんそれは、私たちが先の最高善のイデーのためにも、さらにある種の救済を見出すのでなければ、もはやまったく糸口をつけられないが。〈86〉しかし、この賢者のイデーは、ここでは以下に見るように、まったく独自な意義を含んでいる。私たちは、上記においてすでに、幸福主義が、普遍よりもいかに特殊に目を注ぐかということを見出した。そして、正にそのゆえに、それが、万人に妥当する最高善を実現し得ないということが実証された。しかし、おそらく、その際生じる様々な種類の構成や要素間の争いは、区分によって調停され得る。すなわち、あるものはこの傾向性の従属関係を、他のものはあの関係をとる。同じように、あるものは繰り返しを、他のものは交替を、また別のあるものは、方法に支配的な規則への集中を作り出す。その際ついでに注意すれば、学問的文書よりも生における表現をいっそう好むフランス啓蒙思想の様々な流れとの同様な水準で、イギリス道徳哲学の体系は、心情の特殊な方向性のために、そのような特殊として現れる。これに従って同様に、最高善を現実に作り出す賢者が表現されるべき場合、これはただ一つの姿において生起するのではなく、すべての規定され限定された最高善の姿に対して、それもまた心情の独自な方向性と状態とを必要とする。もし誰かが次のように考えたとするなら、後者のうちの一つがその他のものよりもよく、また前者についても同じことが言えると考えるなら、その人は、これがなぜ幸福主義において認められないのだろうかと懸念するだろう。先ず、最善のものは普遍的なものにもならねばならない。このことはしかし、各々の性質と争うことになる。各々は特殊に過ぎないからである。そして、それによって、最後のものも失われてしまうだろう。すなわち、もし、各々から、少しずつではあっても、すべてから、総じて完全に最高善が達成されるならば。さらに人は、自らをこの姿に、いかに彼がそれに対立しているのを見出そうとも、形成しなければならないだろう。彼が、原則にしたがって整えられた生を遂行し始めたその時において、それをしなければならないだろう。しかしこれは労苦を伴う。そして労苦は不快である。そこで、〈87〉倫理的に否定されるもの、すなわち不快が、倫理的に肯定されるものへの手段とみなされねばならない。このようなことは、上で示されたように、原則が役に立たないことを示すに十分である。したがって知恵は次のことにある。各人は画一的に、自分があるところにとどまる。それは逸脱することなく、最高善の自分の分に関与するためである。その分が、自分の本性が受け取ることのできる純粋に混じりけのない分量である。そこで、人間の最も偉大な完成は、最高度の内的不活動であり、習慣において最高度に硬直化することとなる。これが現実に体系にまったく対応していることは次のことからも明らかである。すなわち、至るところで同じ体系における行為は、純粋な手段、倫理的に規定できないものに過ぎない。従ってそれは正当にも、特殊な対象とはみなされないし、それ自体時を満たすものでもありえないからである。他の諸体系においてこの無意識状態が、すべての機械的行為に対する目的であるように、この体系においても、すべての行為に対してそうなのである。行動しないことを、誰もが非道徳的であると見なすべきだということがあたかも前提とされているかのように以上のことが言われたのではない。そうではなく、前提とされている非道徳的なものとは、自らを機械と化すことである。その思い上がりを私たちは徹底的に遠ざけた。さらに、以上のことが言われた理由は、事柄のそのような見方によって、倫理学の学問的な諸要求―それは単なる自然描写に貶められた。すなわち、確かな地点によって結び付けられないまま不確かなものに四散するものに(貶められた)―は言うまでもなく、倫理学の概念が完全に破棄されるからである。先の区分という観点からエピクロスの否定的見解が、自分の心情状態のために、最高善の部分を切り取るような個として示される。この固有な領域において彼の原則は、自然的欲求に対する従順さの原則である。そして、彼の最高善は、その欲求の興奮と満足の途切れることのない循環である。なぜなら、彼の平静な無痛状態は、感覚の完全な欠如ではなく、予示された痛みとの関わりで落ち着かせる感情だからである。〈88〉そこから同時に明らかなことは、すでに言われたように、彼の道徳性が自分自身から行動できず、ただ自然的衝動の活動に従わねばならないということによって、まったく制限的なものだということである。彼の倫理学の固有性であるところの、本来的根拠、正にそこに、この倫理学は自らの否定をも見出す。すなわち、恐れの過剰である。なぜなら、これのみが、快楽を求める人を動かして、刺激的で生き生きとした享受よりも落ち着いた享受を優先させるからである。この恐怖に対抗して彼は、魔法の手段として、あの魂の平静を考案する。これは、よく知られた主張である〈強烈な痛みは短く、長い痛みは我慢できる〉に基礎付けられている。これはしかし、あきらかに道徳的方法の不十分さに基礎付けられた慰めである。なぜなら、自然的欲求への慎重さによって痛みを追放することを知る人が、何かを恐れるものだろうか?反対に、痛みの支配をかくもわずかしか考えない人が、痛みを追放するために何をするというのか?したがって彼に反対行動を取るよう駆り立てているのは道徳的なものではなく、単なる動物的衝動である。道徳的なものはここでは完全に不活動にいたり、したがって、三度、この幸福論は、受動的な期待と依存に終わる。[]

                     以上見てきたことの後に、なお幸福論の諸原則の応用可能性―それがどのような形であろうと―特に吟味されるべきであろう。それについてはただいくつかのことが言われる必要があるだけである。先ずカントが、これらの諸原則に対して決定的なこととして述べた非難について、すなわち、それらによっては、何も特別に規定されることができない。つまり、快楽が一般的に要求されてはいるが、全体あるいは個々の事例において各人にとって快楽が何であるのか、原則によってはまったく判断されることができず、ただ経験的にその都度判断できるだけである。すでに上より明らかなように、この非難は、〈89〉限定されて、より詳しく規定されねばならない。すなわち、たとえばアリスティッポスの原則は〈感情として明らかにされる穏やかな活動を求めている〉ということは、それ自体としては、所与の場面において何が選ばれ、何が避けられるべきなのかを規定できない。これはしかし、他の、決して幸福主義でない諸命題もまた共通していることである。少なくとも一面ではカントの原則も同様である。これについてさらに以下に詳述する。しかし、無条件に、最初から決して拒否すべきでないこと、少なくともカントが見ていた以下のことは拒否すべきではない。すなわち、主導概念によって、人間の傾向性や享楽の全体を構成する多くの諸要因の一つを、その原則あるいは他のそれに類似したものは、結合の中に定立することによって、規定することができた(ということは否定すべきではない)。この点に、この体系が独自なことをなし得る唯一のあり方として、私たちは注目したい。それはすなわち、求められたものの発見と、所与のものについての判断に関係する。先ず後者に関して言えば、次のことは明らかである。すなわち、エピクロスの体系においては、彼の言う道徳的なものや善を怠ることは、罰せられない。したがってまた、この判断の継続的な繰り返しにおいて、人生がまったく空虚であっても、それは倫理的な意味ではどうでもよいことで、賞賛されるべきことでも非難されるべきことでもない。なぜなら、平静な快楽がもたらされなかった瞬間に、これは道徳的方法の無力の結果であるとされるからである。同様に、それは容易に成立した。なぜなら、自然は至るところで、何ら欲求を刺激しないからである。告発はまた、切迫して、回避されるべき痛みによってもなされた。後者(痛み)は、道徳的判断のまったく外部にある。その領域は、引き起こされた刺激と共に、その後に始まる。この場合一体何によって、倫理的判断が下されないですむのか。その瞬間の空虚さは、単に事故としか思えない。しかし、さらにすでに〈90〉上で示されたように、あらゆる行為がただ同じ規定された怠りとの比較で判断され得るように、すべての意欲はただ明らかに共に定立された不本意(Nichtwollen)との結びつきにおいてのみ判断され得る。というのは、ただ伴う刺激と、現実に与えられた行為の可能性に応じてのみ、決断の内容についての倫理的大きさが測定可能だからである。その結果、この体系においては、判断する方法の妥当性はまったく破壊されてしまう。この過ちは、すでに最高善の規定においても現れている。それは不動の全体としか記述されることができない。すなわち、〈それは刺激と満足の間断なき交替〉である。そのようなところには容易に、倫理的でない要素、すなわち刺激が織り込まれるのは避けがたい。したがってまた賢者もただ心情において動揺せず、身体において健康と特徴付けられる。後者(身体の健康)は、身体的な痛みの不在を示しているのではなく、―身体的痛みをエピクロスは最高善を損なうことがないように、魂の喜びによって根絶することを約束したが―、身体的な魅力と要求の生き生きとした状態を示している。この無能力はエピクロスを取り巻く固有なものであり、快楽に基づくのではなく、道徳的方法が自然的なものに依存していることによる。すべての幸福主義的な倫理学と共に、そこに共通しているのは、個々の事例についての判断の避けがたい多重性である。すなわちその際に生じるのは、あの恐れなき状態になるために要求される訓練から生じるもので、それなしには、妨げなしに、自然的な欲求に従い得ないのである。なぜなら、その指示は経験におけるものを他にして確証を見出しえないので、行動による訓練がそこに必然的に属するのである。しかし、この訓練は痛みを伴う試みにおいてしかありえない。そして、その痛みは原則によれば避けられるべきものであり、この痛みとの関係で、すべての行為はそれ自体道徳的に規定されねばならないのである。訓練は度外視するとしても、ここではすべて〈91〉教訓を通して達成されるというのであれば、このために費やさねばならない時間との関係において成立することになる。そこで問題は、この同じ時間に、最高の目的を直接実現するものは成し遂げられないのかということである。したがって、どのような仕方にせよ、手段として起こるべきものと、目的が要求するものとの間で抗争が避けられないということである。これについてさらに多くの事例をこの学派の思考様式から引くことは不要であろう。直接に快適な異なったものの有用性を許容する幸福主義的学派にはすべて同じ事が生じるに違いないことは、明らかである。両者の間の戦争は、常に活発で、その性質上終わることがないからである。それは最高度に暴力的で、しかもそれはうわべは装われているので、アリスティッポスが両者を和解させようと試みた説得はまったく不十分であろう。私たちはまもなく、建築し演繹する方法を検討するが、その際、快楽のすべての体系には例外なく原則の不十分さが明らかにされるだろう。なぜなら、一方では、あらゆる契機において、間接的なものへの要求が直接的なものに出くわし、どの対象にも、このような仕方で二重の取り扱い方法が当然与えられるからである。また他方では、偶然いっしょに生じるもの―それは徐々に明確になり、考慮されねばならないのだが―決して考慮されない。同様に、決定の後でも、また実現の途中でも―前者(決定)ばかりでなく後者(実現途中)にもこれは基づくのだが―道徳的な状況は、まったく姿を変えることがあるので、その結果、プラトンによる次の暗示が最高度に確証される。すなわち〈この倫理学は、その根拠において学問でもなければ、他の確実な認識でもない。そうではなく予言か思いつきに過ぎない〉。アリスティッポスも、これを包み隠さず白状している。すなわち、彼は〈すべての賢者―原則が彼の中では常に活発に示されているにもかかわらず―常に健康な状態であるわけではない。入り口―それは決して快楽を理性的な仕方でもたらすものではないが―常に悪い状態になる〉と認めている。もし誰かがさらに次のように考えるなら、すなわち、このすべては、外的事物の影響、そしてその事物に服している意識の秩序といかに関わるのかと考えるなら、次のような確信が心に浮かぶ。すなわち、彼の感覚の快適な流れが、外的世界に依存するのであれば、人間の最高の分別がそこにあると。感覚的な享受は、幸福の不可欠なできない要素であるので、それは次のことを通して達成されるほかはない。すなわち、感覚的享受がすべて、記憶と想像―それは、外的なものによっては決して破壊されることのない確固たる空想において成長するのだが―において変化するということによってである。そのように見るなら、この知恵は、その望まれ、うらやまれている目標が、恣意的に達せられるのではないにせよ、喜ばしい、おめでたい幻想に他ならないことによって、あらゆる理性と学問に正に対立するものである。このような命題は、学問的教訓において講演されることは決してなくても、しかし、幸福の徹底した信奉者には十分に承認されることはしばしばあったのである。

*一見そうでないように思われても、以上のことはすべて、イギリス道徳哲学にも当てはまる。すなわち、この学派が自分たちの原則に忠実で、自分たちが命じる親切な行動に対して、快楽を、その規定根拠として主張する限り当てはまる。なぜなら、この学派は、敏感な非難の対象である自分たち自身の妨害や、満足と同時に引き起こされる不快なことと同様に、自分たち自身を保護し、癒す空想を持っているからで、それに値するよりよい名称が見当たらないので、それは、一般に熱狂と呼ばれている。その最高善もまた少なからず変化する集合体であり、その個々の部分において、―それらが多様なものを論じ尽くし、互いに等しくない場合には―、集中的により強いものについての不愉快な問いも避けることができない。というのは、彼らの中にはアリスティッポスにしたがって、次のように主張するものはまだ存在しなかった。すなわち、〈行為―そこにおいては二つの衝動が要求された釣り合いの中にある―についての感情は、互いに等しい。〈93〉なぜなら、その釣り合いは化学の飽和と見なされねばならず、身体的な事物の場合と異なり、それに対しては、結合の段階と産物のみが存在するからである。あるいは、そこにおいては構成要素の大きさはどうでもいいような関係と見なされねばならない〉と主張する者はいなかった。

*この学派の原則に従ったこの演繹と規定に関して言えば、それらはまだ特別な困難に屈している。なぜなら、そこでは、真理に従って道徳的なものは、次のような性質を持っているからである。すなわち、それは、誤ってアリストテレスの道徳的なものに帰された性質だが、ある非道徳的なものから他の非道徳的なものへの移行の中にそれはあり、両極端の間の中庸であり、なぜならこれは規定できないもの、自ら規定不可能なものである。というのは、あまりに弱すぎて中庸な点に達することのできない傾向性はすべて、非道徳的である。その点を超えると再び強くなる。もし人がここから暗示される結果を認めようとしないならば、次のように主張しなければならない。道徳的なものはここでも同一の傾向性の成長によって生じるのではなく、他の傾向性の反作用によって生じると。それによって明らかに、道徳的なものはすべて、単に関係に左右される意義を持つに過ぎなくなる。各々の衝動が他の衝動に対して道徳的なものになり、それ自体で道徳的ではなくなる。しかし、悪は避けられるべきであるのだから、このような仕方においていかに他者が選ばれるかは、明らかである。なぜなら、道徳的なものが制限と見なされるとき、エピクロスの過ちが不可避であることは、誰の目にも明らかだからである。あるいは、双方の衝動のうちの一方が十分に強くなく、他者から―それはその場合素材を知覚しない―適切な場所に限定されることができない場合、いかにしてそれは不道徳的に見出されるのか?さらに、ここでも二重の判断が成立するように思われる。すべての誘因は、自己の傾向性にも、また親切な傾向性にも共に関係させられ得る。ここにあるのは、あの釣り合いの人工物であり、平均点が常に同一でなければならないようなところから、誰もが出発することになる。〈94〉ここに見出されるのは、次のようなすばらしい平凡な判断である。すなわち〈両者は同一の行為と見なされるべきであり、一方は自己愛から、もう一方は親切から生じた〉。そして学問的に見るならば、あらゆる共同的な道徳性の完全な放棄がそこから生じることは容易に明らかである。これが快楽の側面から活動の面へ揺れ動きつつ結びついていこうとするとき、どういうことになるか。それについては、以下にさらに語られる。

さて、道徳的なものが純粋な行為である人々に移っていこう。すると先ず明らかになるのは、そのような人々には共通の調停できないほど大きな誤謬があったということである。なぜなら、彼らにおいて最高善は、法則なしに組み合わされたもの、変化するものではないからである。たとえそうであるとしても、それはアリストテレスにおいてそうでなかったようにではない。すなわち、単なる活動がその要素と称されるのではなく、法則に従って次のように規定された活動が、すなわち、交替と繰り返しの間の選択、あるいはより強い活動とより弱い活動との間の選択が考えられえないように規定された活動がその要素と呼ばれている。それによって、全体としてみれば、最高善は至るところで、たった一つの全体、一つの規定されたものなのである。あるいは誰かが次のような懸念を表明したとしても、それを誰も愚かとは見なさないだろう。すなわち、この最高善は、それが、いくつかの大胆な行為を含む代わりに、正義の訓練の組み合わせであるとき、あるいは逆に、正義の訓練が、最高善の組み合わせであるというとき、この最高善は、より大きなもの、より完成されたものであるのではないか(という懸念である)。あるいはまた、ある活動が自分自身だけに、あるいはごく少数のものに向かったからといって、その活動がすべて、社交的で、市民的であるといえるだろうか(という懸念である)。またこの種の学派も、これはそう、あれば別といった自分に都合のよい区別をすることを決してやめない。

*それでフィヒテは、あたかも一息のごとく、系における各々の点に要求されている全規定性によって、ストア派は、もう少し穏やかに、二重の仕方で、すなわち、先ず、道徳的なものにおける大きさの各々の相違を破棄し、〈95〉それから、すべての徳を、互いに等しいものとなす。それから、最高善が時間的長さを通して成長することを拒否することによっても(これをなす)。両者はただまったくアリストテレスを誤解している。すなわち、アリストテレスは美しい行為と最も美しい行為を区別したし、完成された生なしに幸福を認めなかった。したがって、後者から次のようなことは推論されるべきではない。すなわち、彼ら(フィヒテとストア派)が、アリスティッポスと同様に、ただ要素のみを認め、全体を拒否する(というようなことは推論されるべきではない)。そうではなく、彼らの体系において意図されていることは、次のような最高善についての彼らの表現から明らかになる。すなわち、彼らは最高善を、彼らにとっての道徳的なものの源泉の間断なき活動において定める。あるいは彼らがそれをそう呼んでいるように、生の妨げられることなき流れに定める。その際、それがどこまで流れるのかということは問題にされないのである。したがって、この最高善は、両方の頂点に向かってどこまでも延長可能な双曲線にたとえられる。しかし最高善のそのような統一性と完全性も、快楽の体系においては達成され得ないことは、十分明らかになった。

*同様に、プラトンにおいて最高善を構成している神との類似性も変化するものと見なすことはほとんどできない。なぜなら、測定できる大きさに属するに過ぎないものはすべてこの概念には含まれないからである。さらにまたスピノザの万物における神認識、そこでは確かに、各々の認識がそこにおいて与えられるところの場所は、どうでもよい、規定されないものと見なされているが、しかし、その内容は、各々の世界に対して完全に規定されている。なぜなら、この認識は唯一の相応しい真の認識として、たった一つの認識だからである。このことが、完全性の概念についてはほとんど語られていないということは、見せ掛けに過ぎない。なぜなら、確かにこの概念において全体は無限であるが、しかし、それは規定不可能性という意味においてではなく、全体は形式に従えば完全に規定されるように、そのすべての部分は、たとえ現実自体との関係においては無限であっても、全体との関係において規定されているのである。〈96

*近年のストア派的な哲学者たち、すなわちカントとフィヒテの最高善も問題にすべきである。彼らにとっては批判が助けとなり、彼らの原則から、そこに含まれる最高善を、形成し、打ち立てるに違いない。なぜなら、彼ら自身は、彼らの体系の叙述のために最高善は必要ないと考えており、従ってそれは放って置かれたからである。少なくともフィヒテによっては、より厳しく必要ないと判断された。そのうち捨てられたもの(最高善)は、彼においては容易に補われ得たからである。すなわち、彼がさしあたり最高のものとして引き合いに出すもの、完全な独立性を備えた自我、これは確かに私たちによって立てられた意味で、彼の最高善と見なすことはできない。なぜなら、彼の表現を借りれば、それは倫理学の対象であり、完全な独立性とは矛盾する上に、この思想は、倫理学をはるかに上回るものだからである。しかし、次のことは容易に見て取ることができる。すなわち、彼の最高善は、次のもの以外ではありえないということ、つまり、自我のあらゆる条件との関連での使命の完全な実現である。そして、自ずから明らかなように、これは、変化することのない、完全に閉じられた全体を形作っている。

*同様に、これに対するカントの原則のより詳しい観察において、彼の働きの全体として生じるのが、あらゆる格率の無制限な支配である。それは、普遍的な立法の能力に高められて、可能的量(大きさ)を表現する。これはもちろん、互いに結び合わされたものに過ぎないように見える。なぜなら、この表現自体からは、格率同士がいかに関わりあっているかということは現れてこないからである。しかし、次のように考えられる。格率とは、実践的に可能なものに、他に先駆けて添えられている優れたものの表現に他ならない。したがって、ここにいかに体系の萌芽が隠されているかということがまもなく明らかになると。しかし、カントが最高善の概念をどのように見なしていたかということについて、それほど都合よく解釈することはできない。なぜなら、彼はそれをフィヒテのように脇には置かず、そうではなく、その名称の下に、その名称にはまったく対応しないものを立てるからである。その結果、それは〈97〉彼が、その真の意味を、他のものにおいても理解しなかった名声を獲得する。それはまた、彼が他の定式を解釈し判断する仕方を通してもまだ確証されないのは残念である。すなわち、彼が最高善を、道徳律を通して、その活動において思考されることが可能であるような全体と表象するとき、彼はエピクロスによって、〈彼の最高善は、幸福の意識と考えられる徳である〉とも言えないし、ストア派によって、〈その最高善は幸福の中に、その幸福が徳の意識と感情として表象される限り存する。〉とも言えない。なぜなら、両学派がそれをまったく求めていないということは度外視するとしても、彼らによって立てられた原則からは生じ得ないような産物がそれだからである。同様に、カントが人間の最高善として立てた、あの完全性と幸福の統一も、原則に従った人間の活動によってはまったく到達され得ない。そして、その限り、倫理学の領域を自らのはるかな背後に置き去った宇宙的イデーも同様である。そのようなイデーが願望の形式の下に立てられるということがいかに正当化され得るのか、これは倫理学内部の根拠から弁護され得なければならない一つの、しかし空虚な意志であるり、これは、その創作者も含めて誰にも分からなかった。上記より理解されたように、ただ誤謬の原因だけが理解可能である。

さらに、これらの体系において、その原則によって、個がどのようにして、生の中にもたらされ、また体系の中に見出され表現されるか、同様にまた、それが与えられるならば、原則に関係させられるかを見てみよう。したがって、次のことが注目されねばならない。先の両人(フィヒテとカント)およびその先駆者であるストア派が、根拠を共有していること、すなわち、彼らにおいて道徳的活動は、先行する活動に依存しており、これを制限し規定したに過ぎないということ、また、その結果をも同様に互いに共有していること、すなわち、彼らは、自分たちが置き去りにしたことを、道徳に反すると考えてることはできず、〈98〉また、すでに述べたように、これにさらに依存したことである。なぜなら、ストア派においては、自然による最初の刺激や要求が出されない場合には、理性もまた何も改善したり支配したりしてはならない。彼らが暗示するのは、このようなことも道徳的に規定されるべきであるということで、たとえば、彼らは次のように言う。〈賢者はすべてをよく為す。彼が為すことも、また為さないことも〉と。しかし、他ならぬ次のことによって、すなわち、〈彼らはただ賢者のイデーにのみこれを結びつけることを知っている〉というそのことによって、次のことを告白しているのである。すなわち、〈彼らの体系には、そのための場所は見出され得ない〉と。賢者についてのこのような記述において、エピクロスにも起こったように、次のような一つのしるしが具体化されているのである。すなわち、最高善の記述にも道徳的原則の記述にも同様に、何ら対応物を持たないようなしるしである。

*同様にフィヒテにおいても、自然衝動が良心を道徳的なものの形式として受容的に許容できるものには向かわなかったゆえに、良心が命令的に語らなかった場合、これについて倫理的有罪判決は起こらない。なぜなら、良心の声を伴わない行為はすべて、反道徳的で、譴責されるべきであるが、しかし、人間は、そのような声なしにその行為を拒否し、そして自由に中止する。それによって、自然衝動はいっそう発展できる。したがって、次のことはひたすら彼の中にある自然の問題なのであり、道徳的力の領域の外部にある。すなわち、良心がそれについて肯定的に語るに違いないすべてのことがいつでも発展できるかどうか。あるいは、いくつかのことは刺激されないまま過ぎ去るかどうかということである。そして、これが欠如していることは、何らかの個々の特定の義務をないがしろにすることにも、あるいは人間性の一般的根源悪の一つにも還元されることはない。したがって、フィヒテの言う賢者にとっては、彼が、恒常的なものとしての自分の召命の系を完成すべき場合には、道徳的力の外に、さらに自然の使命が伴われねばならない。道徳的力は、エピクロスにおいて示された場合に劣らず、無力で不十分である。

*カントにおいてもまた、何の非難もなく、空虚な場所が成立するが、それは、〈99〉普遍的立法の形式に対応する格率が意識に上らないたびにである。このことがどのような影響を現実の行為に及ぼすに違いないかということは、エピクロスの事例においてすでに見られたのと同じである。しかし、カントの定式において以上に、このことが活動の領域において明らかになることは他にない。何にも勝る事例をあげると、次のような合法的でない格率、すなわち〈ある人が、何らかの一般的な惨事に際して、公共の秩序と幸福の保持のために活動できるにもかかわらず、感覚的享楽に耽っている〉という場合、カントによれば、しかし、公共の福祉をないがしろにするという誘惑を免れる手段のために労するよりも、(快楽の享楽という)幸福のために労することは許されると、カントは言う。ある人が彼の一片の義務に気付かなかった場合、この気付かないということは、格率に従った行為ではなく、したがって、倫理的判断の対象でもない。行為者はただ許された格率に従って行為したのである。しかし、それにもかかわらず、義務は現実に怠られ、道徳的空白が生じた。しかし、気付かれなかったということの免責を後から問うことは、〈倫理的行為において表面的で物質的であるものが、自然的衝動の現実的要求の下に見出されないならば〉カントの倫理学においても、フィヒテのそれにおいても為されない。そうではなく、〈彼には、その徳の訓練が提供されなかった〉という答えで十分だというのである。これに対して、道徳的力が、自らの力を目覚めさすために、先ず他の活動を要求することなく、根源的かつ自己行動的なものとして定立されているような体系においては、他ならぬこの〈気付かなかった〉ということは、道徳的力の弱さの作用、抑圧された感じやすさとして、非難されるのである。私たちは、この判断と吟味の次に、個の演繹と規定とを観察しよう。そこで先ず注目すべきは、他ならぬこの三者、常に繰り返しいっしょに扱われるカント、ストア派、フィヒテが、次の点においてもまた一致しているということである。すなわち、彼らは自分の原則だけによっては〈100〉―なぜなら、それは関係を表現するに過ぎないから―、何も規定したり建てたりできない。この関係に内容を与える他の概念の干渉があってはじめてそれができるという点である。カントの三つの定式、すなわち、立法への適合性、目的としての人類の取り扱い、目的の国をあらゆる側面から観察して見よ。そうすると、これらだけによっては、何らかの現実的な法則や徳あるいは義務を導き出すことができないことが分かるだろう。それ自体では、この姿においては、この原則はただ、対象の吟味にしか役立たない。というのは、彼自身が、この観点で自分の真であることを証明するために、自ら事例を引く至る所で、著しい欠如が示されるからである。次のような問いが立てられねばならないようなところではどこでも、すなわち〈この格率あの格率が、普遍的な法則になることを望むことができるかどうか〉というように問いが立てられるようなところではどこでも、それはすなわち、他ならぬすべての本来道徳的であるものにおいて、合法的なものへの対立の中で、原則が不十分であることが示されているということである。なぜなら、あの吟味する意志に、規定根拠も付け加えられねばならないからである。従ってそれは、原則の外にあることになる。しかし、矛盾が生じるところには、疑問も生じえる。たとえば放棄された善行において、人は容易に方法の矛盾を、条件へと押し戻すことができ、次のように言うのである。〈それは許可の法則である。そのような仕方で放棄されたものを着服するリュクルゴスの盗みの法則と同じで、それによって、怠惰は、偽りの信頼に支持されて、常に悪しき形式に甘んじることなく、むしろより良い怠惰が見出されたのである〉と。したがって、結果として、一方において、カントの倫理学は、その内容と大きさによって、まったく市民的で合法的に見えるが、他方、まだ残っているわずかな倫理的要求によって、合法的状態の根本的改善を滞らせる。しかし、このことは誤謬に関することであるので、ここでは問題にせず、先へ進む。

*それ自身から個を演繹できないというこの原則の無能力を誰もが認める。なぜなら個が始まる仕方も見つけ出せないからである。同じことはストア派においても明らかである。なぜなら、自然適合性自体は純粋な関係概念であり、自然が規定されるまでは、何も規定できないからである。同様にフィヒテも、自己活動の最高概念から、規則的で漸進的進展によって信頼でき応用可能な倫理学に達するという要求をしているにもかかわらず、同じよう状況にあることは、容易に分かる。なぜなら、カントにおいてと同様に、フィヒテにおいても、単なる定式から実在的なものへの移行を形成すべき様々な表現はすべて、この課題を解くことができないからである。自然衝動においても、客観の最終目的に従ったその(客観)の処理を含むもののみが、純粋な衝動と一致するとするカントもまたこの課題を解けない。ここから彼(フィヒテ)は、彼にとって、形式的原則を現実の命令に移す手段である自我の本質的諸条件について直接語り始めるのだが、あたかも彼がその最終目的を達したかのような見せ掛けは、次のことを吟味するや、すぐに消滅してしまう。すなわち、これら諸条件における本質的なもの―倫理学全体はそこに基づくのだが―は、必然的にではなく、単なる可能性に過ぎないもの、すなわち個の数多性として演繹され理解されるに過ぎないからである。事実、必然的に求められる自我の一回限りの要求が、どのようにして一般的な理性の性質に変化するのかは、奇妙で真に魔術的であり、決して漸進的でも規則的でもない。なぜなら、人は次のように尋ねるだろうからである。すなわち、フィヒテが別のところで、可能なものを指し示すかのようにして、より高次の存在が自我を共感を持って憐れみ、霊が彼に、彼の定めた仕方で現れるかのように指し示すとき、それは十分、真に、小さな奇蹟ではないか?また、神話的なものが〈102〉どうしても避けられないという場合、それはより悪い事態ではないのか?あるいは、創作(Kunstwerk)として現れたものが現実でもあると自我はどこから確信できるのか?そして、このような考えの起源は、あの恐れの他ならないのではないか?すなわち、それはその名を切断された親指からとられた。なぜならそれは自らに悪を加える傾向があり、理由なしに、ここでもまた自由を台無しにするからである。そのような自分の陰に対する恐れは、フィヒテによって引かれる他の輝かしい言葉においても、高らかに暴力的に響いている。それは、ここでは人類(Menschheit)という言葉で、それが彼に呼びかけるところに、彼は身震いしながら静かに立っている。このような霊を想定すること自体が、フィヒテの教説全体に非常に不利であり、このようなことすべてから人はあたかも次のような帰結を引き出すようなものである。すなわち、自我を補うために不可避的に求められたこの理性の補完物が、しかしながら最後に見出される場所は、理性によって激しく非難されたあの諸力、すなわち、愛と幻想に他ならないということである。確かに、フィヒテ自身が、ここから、すなわち個の数多性から、倫理学は制約された学問であり、一つの前提に基づくと認めていることは正しい。しかし、彼はそれほどはっきりとこれがそのすべてであると認めているわけではない。そうではなく、彼がまったく告知すべきでなかったはずの誤った誉れの幾ばくかを手元に残しておくつもりなのである。

*それゆえ今やストア派が前に引き出されるべきである。彼らは、同じような結合概念を、まったく自由にあからさまに、恣意的に受け入れられた説明として立てる。なぜなら、それが両者において同一であることは、誰も疑い得ないからである。すなわち、人は、フィヒテの自我の諸条件である、身体、知性、多くの他者との関係の中に、人間性についてのストア派の諸特徴である獣、理性、社交を誤って認識するに違いない。しかし、フィヒテがストア派と一致しているように、カントが原則と個々の倫理的なものとの調停を図る仕方には、イギリス道徳哲学へのカントの自然な傾斜が、いかに彼自身はそれを意識していなくとも、決して見まがわれることはない。そして人は次のように言うことができる。〈103〉彼の倫理学は、その(イギリス道徳哲学の)政治的幸福主義に、学問的体裁を与えるという試みを目指していると。なぜなら、本来カントの結合概念であるはずだった〈人間的格率の全体性の実在的特徴〉は、それによって、個々の格率が導き出され、普遍的立法に対するその関係が規定されるのだが、それは最後には、何か異なった姿の人間性の概念になってしまう。これは先の場合と同様である。自然的傾向性の衝動によって導かれる以外に、いかにして彼は、すべての格率の内容を、前もって、自分自身のものである完全性と、見知らぬ幸福の両者に限定するという結果に至ることができるであろうか?彼がこれについて説明し、正当化しつつ持ち出すものを、誰も証明とは見なさないだろう。しかし、この傾向が極めてイギリス道徳哲学的であることは、次のことから明らかである。すなわち、彼にとって、この完全性もまた、他の目的のための手段としての目的に過ぎないということ、そして、したがって、同時に義務でもあるような目的は、他ならぬ見知らぬ幸福以外に残っておらず、したがって、また、親切以外に道徳的力はないということである。これはあの学派における結合概念の導出、その精神に付随するものである。

*しかし、彼らの有用性の吟味においてここで重要なのは、このようなことではなく、三者皆に共通する特質、すなわち、結合概念が、互いに結ばれていない様々な特徴の数多性を含むという、確かな演繹を不可能にするような特質である。なぜなら、体系の中に、〈身体〉や〈知性〉、〈現存する個との共同〉への関係において道徳的なものが叙述されてはいるが、しかし、その関係は規定されておらず、そこにおいて、これら個々の倫理的実在性は、互いに相対している。この不規定性は、生における適用をまったく妨げる。すなわち、受け入れられようと望んでも、個々の行動は排他的に、あるものは身体に、あるものは精神、あるいは共同体社会に関係させられている。したがって、どの〈104〉瞬間にも数多性が生じ、そこから選択されねばならない。なぜなら、これら諸対象の要求は絶えず走り去り、どの瞬間にも各人に対し、いくつかの為すべきことがとどまる。その結果、例えば、ある人は自分を道徳律の道具に、可能な限り鍛え上げるということ以外、何か他のことをすることなしに、絶え間なく自分の身体と関わることができる。したがってこのような方法が受け入れられないことは、明らかである。[]最も容易にフィヒテからこのことが期待されるべきだった、彼は、ある領域を他の領域によって互いに規定したり境界付けしたりする方法を我が物にしていた。そして、彼が、それらを正にここで使用せず、昔の不完全な方法によって、十分なものを見出したということは、彼の倫理的固有性を評価するために注目に値することである。しかし、この補助手段が見出されなかった限り、そのような構想には、ある義務と別の義務との争いは、単にあちらこちらにではなく、すべての瞬間に不可避であり続ける。

*少なくとも今日までそれが論じられてきた限りでは、完全性の概念から出発する倫理学も、同じ非難にさらされてきた。その概念には、単に規定されず、その意味で無限な力の大きさのみならず、その様々な表現の関係が定立される。これを規定したところで、まだ法則が立てられていない。したがって、あのすでに言及された一般的な模範が、まったく恣意的に前もって指示されねばならないか、あるいはそのような関係の規定されない数多性が受け入れられ、ただ各人個々に、そのどれかを同じように保持することが要求される。両者のいずれかが生じてみよ、〈105〉そうすれば常に二重の課題が生じる。すなわち、ある場合には、受け入れられた関係をもたらすという課題であり、ある場合には、同じ関係の諸規定において、個々の諸要素の大きさを高めるという課題である。もちろん、最後に言及した課題―それは、各人に自分自身の理想を指示する―は、最初の課題を免れることが可能である。そして、この見解に対立する幸福論の首尾一貫した取り扱いによって、均等に次のように命じることができる。〈関係がもたらされるべきではなく、そこにおいて各人が先ず自己自身を見出すようなものが確保され、形成されるべきである〉と。しかし、これを前提としても、私たちは、各要素が、自分の要求を例外なくすべての時間部分に向けることが可能であることによって、個々の諸要素の要求の間に再び論争を見出す。したがって、私たちは個々で二つの党派間の争いのみならず、一般的な興奮を、不特定な大きさの下で眺める。それは自然心理学が、多かれ少なかれ、人間性における多様なものを受け入れる度合いに左右される。その結果人は次のように言うことができる。〈ここには、混乱の極みが示されている。それは、このような互いに結びついていない多数性から生じ、ここでもまた最もあからさまに概念―それはあらゆる倫理的に規定可能なものの内容を特徴付けるべき概念であるが―の統一が要求される〉と。

*この完全性の体系を後にする前に、この体系をさらに、最高の倫理的イデーの様々な表現の同時存在と一致についての問いとの関係で観察しなければならない。ここで明らかなことは、この体系が、最高善のイデーによって始まるのが明らかであるのに対し、原則は、この体系によっては、まったく表現され得ないということである。なぜなら、完全性が、生じさせられるべきものの全体であるのは明白であり、〈自らを完全にせよ〉という定式は、この最高善が現実に作られるべきであるという意味に他ならず、決して個々のものに関わらない。というのは、いかなる場合も、この定式によって、直接、所与の状況下で為されるべきものが規定されることはできないからである。しかし、このイデーのためのそのような原則がいたるところで見出されるわけでないことは、先のことから明らかである。なぜなら、〈106〉個のための方法の規則が、最高善という表現から演繹されるためには、その区分根拠を含む概念によらなければならないからである。この区分はしかし、上に述べたことにしたがって、不規定であり、本来根拠を持たない。さらに、そのような統一がまだ見出されない限り、どうしてそのような規則が可能であるはずがあろうか。というのは、この体系の一つの要求、すなわち、集中的高揚は、たとえそれが、ある特定の通常関係の固持に過ぎず、その生起ではないとしても、他の要求と正に矛盾することになる。なぜなら、完全化の主語が、まだ多様なものと考えられる限り、高揚もまた部分的なものとして命じられるに過ぎないからである。しかし、そのような高揚はすべて、その関係をずらすことは避けられない。集積体として表現される量が累乗されるかあるいは倍加される時と同様に、それが、行為をもくろむ各要素の完成へと向かうところでは、全体の形式と意図に逆らうような重量超過が保持される。その結果、人は次のように言うことができる。〈この体系は、幸福の体系とは別の原因からだが、同様に不活動に終わる〉と。なぜなら、その道徳的なものは、他ならぬ不道徳的なものとの絶え間ない交替を通してもたらされることができるのだからである。この矛盾が最高点にもたらされるのは、幸福が完全性との結合にもたらされるべき場合である。なぜなら、幸福は、それが現実的快楽であるべきなら、何よりも部分的活動から生じるからで、[]したがって完全性に属する均衡とは矛盾するからである。しかし、もし幸福がただ無痛状態であるべきなら、それはこの均衡に対応するが、しかし、完全化によって邪魔をされる。また反対に完全化は、時間以前に自己満足の感情がもたらされるということによって、妨げられる。したがって、ここから、最も明らかなことは、〈107〉スピノザが打ち立てた快楽と活動の結合以外は不可能だということである。すなわち、そこでは活動は一面に過ぎず、快楽も一面に過ぎない。両者は確かに不可分に結合しているが、しかし、意志は直接的にただ活動にのみ向けられる。今非難された誤謬が、必然性へ行き着くように、倫理学における人間の行為と努力のそのような統一は、基礎を置くように導かれる。フィヒテはそのような統一を要求したが、見出せなかった。スピノザは、それを樹立したが、それを行為、すなわち体系の完全な実現を通して、示すことはしなかった。しかし、さらに別の仕方で、完全化の倫理学は、不活動に終わる。すなわちそれが、あのエピクロスやアリストテレスの神々が喜ぶ静寂による自然的努力である限りは。いずれにせよ行動可能なための手段として人間自体を描くこと要求する他の倫理学とまったく正反対に、ここではすべての行為がただ生成のための手段として要求されるに過ぎない。厳密に受け取るなら、これまで獲得された熟練の上よりもむしろ下にあるような、いわゆる徳はすべて、もはや訓練にはなり得ず、無益に時間をつぶすだけの徳として破棄される。完全性が大きくなればなるほど、それを超える徳は少なくなる。そして完全性が達成されたとき、行為の根拠も論じ尽くされ、道徳的なものはすべて、内省的静寂に達する。おそらくは、この目論見に対して、さらに鋭い実行の対立を求める人は、むしろ好んで次のように言うかもしれない。〈その実現されたものは、粗野に過ぎない。なぜなら、この完全性は単に故意に一面的なものの不規則な交替においてのみ、すべての面にわたる形成を描くことを知っているから〉と。この側面からそれはプラトンのイデーに通じているが、それは、この完全性が必要としている救済手段に通じているということとしてである。すなわちプラトンは、一つの他の行動する神と、最終目的としてこの神に似ることを導入する。したがって、一方において、行動は別の意味で不可避である。すなわち、作り上げ表現することとして〈108〉、それは精神の存在と存続と一つであり、したがって、最高の完全性にのみ最大限固有のものである。他方において、個々の行動間の時間を超えた争いも調停される。なぜなら永遠の秩序を伴う神の行動は、生じるべきすべてのものの定められた系を、その性質上含むからである。したがって、活動の諸体系において、道徳性の限定的性質および、その(活動の)使用を媒介する概念の不都合な性質から発生するすべての誤謬が、いかにプラトンおよびスピノザの叙述において最もよく回避されるか、これまで見たところから十分に明らかである。

最高の倫理的イデーについてなお二つの対立する規定が、検討されるべく残っている。それらは、その作用によって互いに緊密な関係にあり、ここでも並べて置かれるべきである。すなわち、先ず、道徳的衝動が依存的で単に限定的のものとしてではなく、自ら活動し、自立的なものとして定立されるとしても、それにもかかわらず、その衝動は、道徳的状態において、すべてを規定し、排他的に活動する活動するものとして考えられるのか、それとも、その衝動と並んで、別のもの―たとえそれが前者には値しないように見えることを行うためのものに過ぎないとしても―を許容できるのか、ということがある。前者の場合にのみ、あらゆる人間的行動は特定の道徳的価値を持つことができるということ、しかし、後者の場合、道徳的衝動に逆らうものでなくても、それによってもたらされたのではなく、その領域の外部に置かれ、倫理的にはどうでもよいものと見なされなければならない。このようなものは、概念の周辺にある、いわばどっちつかずの中間物である。なぜなら、何か新しいものをそのように命名しても、それはここで引き合いに出すに値せず、倫理的に見るならば特別なものでもなく、次のような表明に過ぎない。すなわち〈一つの問いが不完全に投げかけられたが、当然のことながら、それに対して、確かな答えが生ずることはできない〉(という表明に過ぎない)。古代の人は、両者を非常に正しく区別し、後者を、それ自体としてではなく、〈109〉ただ偶然に善あるいは悪であるに過ぎないものと見なした。同じような結果は、道徳的衝動が、限定的なものに過ぎないところでも起こり、その結果、それはその都度、他の衝動によって喚起されねばならない。また、そこでは、すべての道徳的行動を、特定の系として形作りつつ表象する規則が欠如している。なぜなら、このような場合、自然衝動の中に、道徳的なものとその衝動との平均的地点のこちら側にあるものすべては、倫理的に等しい度合いにあるものとして叙述可能である。すなわち、どうでもよいもの、単に許されているものとして叙述可能である。これに対して、特定の系が定立されるところでは、ただ平均的地点自体に対してのみ、倫理的可能性は帰せられ、他ならぬそのゆえに、その可能性と共に必然性も帰せられる。

*したがって私たちは、フィヒテの体系―それは、系の規定を確保するよう努めているが―において、この中間物の概念を不可避なものとして、さらにはっきりと承認されたものとして見出す。おそらくこの中間物概念は、さらに強くストア派とエピクロスにおいて現れる。なぜなら、ストア派においては優先させられるべきもの、エピクロスにおいては運動において自らを示す積極的な快楽であり、それはすなわち自然的欲求から成り立っている。これらは体系において同じ場所を占め、互いに正に対峙しあっているが、それは、人がこれやあれやと規定するものが、道徳性を増すことも減らすこともなく、ただその現象の表面をいわば着色し変更するだけという点で(体系において同じ場所を占め、対峙しあっている)

*カントにおいてこの中間物は、単に道徳性の欠如した性質や系の不規定性の故にではなく、彼自身が、道徳的状態において、これに向けられた衝動と並んで、自分の快楽を求める衝動にも、隠された仕方でではあったが、作用を及ぼしつづけさせたということによる。これは彼の叙述によっては、誰にも示される必要のないことである。しかし、彼もまた時折、怠惰な理性の救助手段として以外にどこにも属さないような概念を使用するのである。

*この概念が、イギリス道徳哲学の中の次のような人々において、少なからず該当する。すなわち、親切の衝動を何よりも道徳的と見なす人々である。この中間物が、学問的〈110〉倫理学において、まったく非合法な概念であることは、容易に見て取れる。なぜなら、この概念が、道徳的規定可能性の内容を、最高に恣意的なあり方に限定していることは、人が行為の所与の成立に目を向けるとき、この概念がただ自然的なものの仮象を持つに過ぎないことによって、明らかである。これに対して、その内容に目を向けるならば、これらすべての中間物の下にたった一つのものも見出せない。道徳的衝動によっては要求されることも退けられることもできなかったような事例のゆえに、それら中間物がいかにわずかしか現れないことがしばしであったからである。したがって、それらは、生における道徳的行為の確かさも、また、その叙述における連関をも妨げる。そして、倫理的イデー全体の真理性をも疑わしくする。これらが一貫して真であることを示すのを妨げることによって(疑わしくする)

*したがって、いずれにせよ、Ariston von Chiosが導入しようとした教説は、一つの改善策であった。すなわち彼は次のように主張したのである。〈善があるところには、衝動はまったく起こってはならないし、徳と悪徳の中間にあるものに対して感情が動くこともあってはならない〉と。彼がこれのみを最高の目的として立て、道徳的なものの極めて詳しい特徴を立てたはずだというのは、後の解釈者の愚かな誤解に過ぎないことは確かである。しかし、次の原則は明らかに正しい。すなわち、学問としての倫理学は、もしそれが、人間の行為の全体を包括する権利と義務を持たないとしたら、存続し得ないということ、そして、完全と考えられた道徳的生において、すべての行為は、道徳的なものに変じ、その結果、倫理的に判断されるべきものに変わる。しかし、他の仕方で成立したものは、止揚されるべきものとして、その完全性に損害を与えると見なされねばならない(という原則である)。そのようなあり方においてのみ、他の衝動から生じたすべてのものは、プラトンにおいてもスピノザにおいても現れる。なぜなら、プラトンは、たとえ原則自体は決してはっきりとは認めていなかったとしても、〈111〉それに似たものが存在する限りにおいて、道徳性をまだ争いにおいて把握されるもの、したがって不完全なものとして叙述する。しかし、スピノザは、たとえ彼が完全な道徳性を人間性にとって不可能なものと見なすとしても、彼の学問的見解の純粋性をますます強く示すのみである。その完全性において捉えられた純粋な衝動の活動から直接生じたのではないものを、どうでもよいものと見なす不可避性が、彼を動かすことができなかった場合に(強く示すのみである)。しかし、その間に彼が語った次の言葉、すなわち〈理性を通すことなく生じた行動は、善にも悪にもなり得る〉は、決して反証と見なすことはできない。なぜなら、それは、彼自身が学問的なものとは区別している限定的な意味で、然り、ただ偶然的な意味で理解されねばならないのと、また、それは、彼の前提と相容れない、非常にしばしば聞かれた次のような主張、〈悪からもまた、間断なき系において、ただ悪のみが結合し得る〉に対する論争において語られたことに過ぎない。

判断の同じ原則は、今やまた、最後の対立についても決定を下す。その対立とは、すなわち、道徳的なものに出くわすべきところは、ただ人間性の共同的なものにおいてだけなのか、それとも、各人の固有なものにおいてなのかという対立であり、また、一方は他方を排除するのか、それとも両者は互いに結合されるべきなのかという対立である。固有なものに共同的なものが従属させられ、共同的なもの自体が排除されるならば、いかにその固有なものは、規定されない、規定できない多様性の中に必然的に分解してしまうか、このことはすでに上で幸福主義の倫理学について論じたときに示した。また、実践的な部分においても別のことは期待できないということも、そこから同様に見ることができる。[]112〉しかし、道徳的なものが、ただ共同的なものに見出されるべきであるとすると、固有なものはすべて、止揚されるべきものとして、完全に排除される。そして、次のことは明らかである。すなわち、たとえ行為の全領域でなくても、しかし、すべての行為において、何かが倫理的に規定されるということができなくなり、いたるところで、それがどのように遂行されるかという仕方、あり方において、なお多くが自由に残される(ということは明らかである)。しかし、現実に生じるべきものは、一貫して規定されねばならない。そこで、唐突に、無制約的な恣意か、あるいは何らかの機械論が―それが習慣や慣習の外にか、あるいは傾向性の内部にか、いずれであれ―倫理的領域に入ってくることになる。カントがしばらくの間いかに後者(機械論)の下で嘆息したか、そして、そのために前者(無制約的恣意)に来ることを欲したかを人は知っている。しかし、そのような機械論は、もしその規則がすでに、多くの行為を規定しているのでなければ成立し得ないし、そのようなことは、道徳律の見過ごしなしには生じない。その結果、ここでもまた道徳的なものの実現は、それ以前の不道徳的なものに依存していることになる。しかしまた、行為の全体自体が存在し、それは、単に共同的なものによっては規定し得ない。例えば、人間がそれによって、自分はある共同関係―例えば結婚のような―に今入るべきなのか、それとももう少し後でか、あるいは入るべきでないのかといった自分の立場や召命を選択し、確保できる普遍的な規定根拠は、どこから受け取られるべきなのか(ということは単に共同的なものによっては規定できない)。なぜなら、もしそれらが、各人の固有なものにあるべきでないなら、その最善の確信―フィヒテが考えているように、私たちは傾向性によってではなく、この確信によって、これらの事柄において決定すべきなのだが―の瞬間はどこにあるのか?フィヒテは、最近の人の中で、この対象について言及したほとんど唯一の人である。しかし、古代の人たちは、これらをうまく基礎付け、体系の中へ持ち込むことの不可能性を感じていた。したがって、常に次のような問いを立てた。賢者がこれまたはそれをしたか、しなかったか、その答えを通して、それらは一般的にも決定された事柄である。賢者は普遍的模範であるのだから。しかし、次のような意識を伴う。すなわち、それらはこれを〈113〉秩序によって、体系の方法に従って実行することはできない(という意識である)。いかにこの課題、[]すなわち普遍的なものと固有なものとの結合及び一方による他方の規定という課題が、スピノザとプラトンのイデーによって、初めて解決されることができるか、これについてもすでに言及した。然り、直接的に触れられ、一方の側からは、悪くなく解決されて、次のように言うことができる。〈それは、確かにプラトン主義的ではなく、神との類似というイデーに適合する仕方でそれを区分することによって、しかも道徳的な業全体を生の様式の草案と、生の遂行とに区分することによって〉と。なぜなら、スピノザにおいては、固有なものが確立され、そして、共同的なものによってのみ限定される。プラトンにおいては、普遍的規則が優勢であるが、その結果、すべては、前者の固有なものによって規定され、それに関係させられる。

以上で、諸原則の差異については十分だろう。この点に関して従来の倫理学の学問的価値を吟味したし、また、倫理学の十分な原則を樹立しようと望む人が、提示しなければならない課題を明らかにした。今や、私たちが様々な体系において出くわす、個々の倫理的概念の吟味に移る。

 

114

付論:いくつかの学派によって語られたことについての注釈

 

                     T.アリストテレスが、特別な意味において、他に先駆けて、倫理学を、国家論に従属させたこと、そして、前者を特に後者の準備、根本教説として扱ったことは、すべてをはっきりとした言葉で聞き取る人々には、ニコマコス倫理学の序論と、結論から判明する。この倫理学を、その名称の由来である人物に、その創作者として帰することは、なぜ息子が父と同じように考え、書くことができたかが、はっきりしないゆえに、たとえ、それが自分の息子マルクスに対する曖昧な訓戒ではなかったとしても、マルクス・トゥリウスが語ったことに対する無批判の中でも、おそらく最もひどいことであろう。なぜなら、類似の度合いの多さのゆえに、アリストテレスの三つの倫理学すべての起草を、同じ弟子たちに帰する―彼らはそれぞれ自分の記憶を師の講義から蒐集した―ということに傾くとしても、しかし、ニコマコス倫理学に関しては、その結論が、そのような考えと矛盾することは、あまりにも明らかである。すなわち、人が、同じような仕方で政治についてそのお陰をこうむってはいないと望むか―しかし、そのような証拠の痕跡はない―あるいは、このわけ隔てられた作品を、そのようなはっきりとした指示で締めくくることに対して、この息子がまったく無理解であったと見なすかだが、いずれの場合にせよ、この結びつきは、間違いなく父に帰せられねばならない。〈115〉深く洞察する人は、アリストテレスが出発点とした見解から、他のことを期待しないだろう。なぜなら、彼は倫理学に、人間における非理性的な部分の徳を書き留めるという領域のみを割り当てることによって、倫理学はその目的を、自分自身の中に持つことはできず―そのような目的は、純粋に享受する生以外ではあり得ない―、そうではなく、倫理学は、理性的部分の目的であるものに役立たねばならない。したがって、彼の意図によって、それは単に内省的で学問的な目的か、あるいは、国家を形成するという社交的目的のいずれかである。前者については、多くの痕跡が幸福主義の倫理学に見出されるし、後者は、ニコマコス倫理学及び大倫理学における支配的な関係である。

                     それにもかかわらず、アリストテレスは、歴史的に見るならば、古代の倫理学の中心点である。そこから、一方において、ストア派が生い立ち、形成され、他方においてエピクロスが出てきた。そして、前者は、いわば彼の叙述の半分で、キニク派の精神と生に結びついており、後者は、他の半分で、キュレネ派と結びついている。したがって、アリストテレス自身に、この特質の責任を負わすことはできなくとも、彼は、快楽の体系においても、活動の体系においても倫理学の否定的制約的な性格の源泉になったと思われる。なぜなら、ストア派の自然適合性は、アリストテレスの次のような定式とまったく同一だからである。すなわち、〈幸福は次のことに存する。ある人にとって特にあるものが善であるという場合、それがそれ自体においても、また一般においてもそのように見なされなければならない〉という定式である。そして、自己保持という自然的衝動に対する理性の支配は、アリストテレスの理性的なものに対する非理性的部分の従順とまったく同じである。したがって、彼の著作や生において、前者が後者を侵害することはない。然り、快楽の信奉者に対する論争の根底に置かれたストア派の見解〈快楽は行為に伴うあるいは行為後の所産に過ぎない〉もまた、明らかに彼から借用されたものである。これに対して、〈116〉エピクロスは、彼の全教説を包括する区別をアリストテレスから受け取った。それによって彼は、アリスティッポスの教説を改善したと考えたのだが、それはすなわち、静寂な生と魅了する生の区別であり、自然的欲求と不自然な欲求の区別である。いかにこれら両者が互いに不和であるか、したがってその様々な諸要素は、対立の中に置かれたかは周知のとおりである。しかし、もし人が、彼のイデーの連関から、はっきり言えば、幸福主義の倫理学の結論から―後者は正に彼に由来するというべきだとして―、次のような推論を下すなら、すなわち〈彼の倫理学を省察的生と結びつけるなら、それはスピノザの教説と見解を帯びることになる〉という推論を下すなら、これは実り豊かな観察であろう。プラトンの固有な方法に対する感覚が彼には欠けているということから、この分割可能性を完全に把握することは、これまでのことから、誰にとっても十分たやすいことであろう。

                     U.したがって、この点に関してストア派の人々に対して、しばしば、すでに古くから為されてきた次のような非難〈彼らは何も新しいものを発見しなかった〉は正しい。そして、彼らが学派の論争において、この非難をもたらしたということに対して、ペリパトス学派を悪くとるべきではない。しかし、あの、その他の点では賞賛に値するローマ人(キケロ)が、この非難を繰り返して言う仕方は正当化されるべきではない。それは、キニク派に対するストア派の関係への当然為されるべき注意が払われていないし、学派を超えて立つ人に要求されるような、個々の歴史的連関から全体の精神を区別することもされていない。しかし、彼が、至る所でいかにわずかしか古代ギリシャ哲学を理解していなかったか、これを示すためには、この種の彼の全著作と論争しなければならない。ただ分かることは、いかに彼が、ストア派の様々な定式、初期と後期とをごちゃごちゃに混同しているかということである。それらの差異についての予感もなければ、それらが再び一つになるあり方についての予感もない。そうではなく、彼はあたかも悪しき類語反復か、修辞学上の〈117〉解説―それは厳密ではないので、人はそれらに対し多くのものをいっしょに立てる―を扱っているかのようである。あるいは、いかに彼自身がエピクロスを―彼は誇らしげに反対を誓っているが―誤解していたか。そして、その体系の精神に対して、いかに悪く、彼が自分の祖先、Torquatusに息子の処刑について弁護させたか、あるいは、ストア派においても、プラトンやアリストテレスの教説においても、いかに彼が、まったく堕落したその追従者と、偉大な専門家たちとをいっしょくたにし、精神に対する何らの洞察もなく、これらの体系の差異についてまくし立てたことか。その結果、すべて他の報告は、愚鈍なディオゲネスの収集により、それらは、ただ悟性を持って読まれるなら、より確かな道しるべであるが、また、キケロから古代人の倫理学を知ろうとするものは、倫理学の何らかの体系を、この学問の最近の一般的批判的歴史から判断しようとすること以上のものを得ることがないのは確かである。

                     V.今述べたアリストテレスの多義性の対を成すのが、様々な見解を伴うイギリス道徳哲学である。この現象の非常に様々な原因を誰も互いに混同しないように願いたい。非常に様々な著述家たちに由来するものを故意にまとめることは、不正になる恐れがある。それによって、見掛けの一致や矛盾をもたらすことになろう。しかし、それに精通している人は誰も、等しい点に気付かない。シャフツベリーはいっそうプラトンに近いとか、それに対してヒュームは、アリスティッポスの要素をまとめたとか、ファーガスンは、多くの人によってストア派と見なされている。なぜなら、シャフツベリーにおいてと同じく、二つの衝動の平衡が主題であることが明らかだからである。ハチスンについては、〈彼の道徳的感覚は、両者の平均点に対してのみ、フィヒテの良心―それは現実の自我と根源的自我の一致のためにあったが―と同じ感情である〉と言い得る。〈118〉これに対してスミスは、道徳的特徴への人間の共感を作り出す彼の原則によって、上で親切が再び自己愛に戻っていく仕方について言われたことすべてを凌駕する。なぜなら、観察する者たちは、その自己愛的衝動が非常に弱い人々と共感することは確かにない。なぜなら、そうでなければ、彼の親切も破壊され、彼の保持はそのとき彼らにとって、無益な悪徳と堕してしまうからである。また他の、普通はここには入れないクラークやウーラストンがいる。彼らは少なくとも同じ学派に属している。なぜなら前者に適合する事物の扱いは、人間を超えて拡大される共感に他ならないからである。しかし、ウーラストンは、彼が行為から引き出した諸命題において、至る所で親切を前提としている。そして、彼は行為の導きになるような見解についての前提を必要としている。そうでなければ、行為から無数の命題が引き出されてしまうからである。また、吟味する方法の処置と形式という点に関してだけ言えば、彼はカントに先行していると言える。したがって、これらイギリス人に共通のものはまたいかにわずかな価値しか持たないか。何らかの学問的感覚を持っている人は、まだフランス啓蒙思想の叙述を優先させねばならない。彼らにはまだ、最近の人々の中でほとんど排他的に、一つの学派を形成したという誉が残っている。この学派は、国民の全思考様式への適合性によって、学問的形式にもたらされた彼らの共同的悟性の産物として、真であることをよりいっそう証明する。

                     W.しかし、最高の倫理的イデーの三つの異なった姿が、古代人においてどのように知覚され、区別されていたかを、この関連で概観するために、次のことが注意されねばならない。すなわち、先ず、私たちが〈幸福〉によって伝えるのが常であり、それはまたすでに日常の語りにあり、そこから引き継がれ、半ば平凡に、半ば神秘的になっている言葉が、学派の用法において、〈119〉容易に各人によって不当に我がものとされているということである。したがって、そこには同じ内容があるというわけでは決してなく、等しいのは体系における概念の位置に過ぎない。〈どんなひどい苦痛の下にもある賢者の幸福〉というストア派とエピクロスにとって困難と思われる命題は、形式的には両者において同一のことを意味しており、ただ内容的にはまったく異なっているのである。それゆえエピクロスもこれを主張できたが、アリスティッポスは、それをアリストテレスと共に拒否しなければならなかったのである。ここではたいていの人が、その中にはカントもいるが、この言葉によって失望させられ、その責任をストア派に―彼らは快適な感覚の総体を、彼らの最高善の中に持っているかのように―帰した。それから彼らはさらに創作し、その調和のゆえに、エピクロスに対する非難はもっと小さなものであった。彼は徳を実践的な意味において持っている(という非難であった)。さらに、古代人が〈目的〉と名づけたもの、そこにすべてが関係付けられ、そのゆえにすべてが選択されるもの、この言葉は、さしあたり、最高善に対しては、非本来的に用いられたに過ぎない。そして、本来は、すべての行為に共通の、選択においてもっとも身近な規定根拠であるものを表すべき言葉である。したがってそれは私たちの擁護で、〈規則〉と呼ばれているものである。ただ古代人は、この定式の内容を、独立に叙述することはめったになく、全や徳の概念に還元した。ここから、後の報告者たちの統一困難な諸表現や明らかな誤解が最もよく理解可能となる。しかし、Marcus Ciceroの転用によって、これに反駁しようとする人は、多くの次のような不手際を記憶すべきである。すなわち、例えばストア派が、完成されたものとの対立において、並みの義務と呼ぶものを、彼が、まったく無意味に、始まったばかりの義務と訳すような不手際である。最後に、古代人が〈自分自身のために、また他者のために何が選ばれるべきか〉という問いが投げられ、そして答えられるとき、彼らが見逃しているのは、部分と全体、手段と目的との間の大きな差異である。〈120〉そして、全体との関係において部分についても語り、〈それは他者のために選ばれたが、そのような前進において、一つの対象から他の対象へといった意志の移行が起こらないということを案じることなくなされた。むしろ、一つの同一のものにおける安定し変わらないものである〉と言われる。したがって、私たちには驚きと思えるいくつかの命題がある。例えば、〈徳は自分自身のために、しかしまた最高善のために選ばれる〉。しかし、彼らが賢者のイデーを、上述の導出に相応しく用いているということは、すべての体系において、賢者について現れているすべての判断から明らかであり、詳述は不要であろう。

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