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第2部   倫理的諸概念の批判

序:

倫理的諸概念を形成する方法について、及び、現在の倫理的諸概念が現れる仕方について

 

従属している諸概念は、それらがいかに多様であろうと、内容によっても、またその姿においても、体系に対する関係においては、ただ次のようにしか考えられない。すなわち、それら諸概念は、最高のイデーからの演繹によって生じたということである。それゆえにまた、次のことが必然的なのだった。すなわち、この最高のイデーの吟味をはじめること、そして、それからはじめて、より下位の諸概念に下っていくということである。しかしながら、あらゆる学問に対し、したがって倫理学に対しても、反対のことを主張する弁証法が存在するので、先ず、これを少しばかり叱責しなければならない。すなわち、その主張とは、私たちの対象との関係では次のようなものである。道徳的イデー自体は、人が様々な行為のあり方において、そのいくつか与える同意と、他の行為の結果起こる不快との間の対立を観察することで、分離の過程で見出されるものに過ぎない(という主張である)。しかしこれが前提とされるならば、一方でそれは単なる歴史的な問いに過ぎず、それ自体私たちの目的に干渉してくることはない。しかし、他の意味で受け取られれば、それは今の研究よりも高いところにあり、そこからは決して演繹されたものが生じることはない。〈122〉すなわち、倫理的イデーがそのようにして見出されねばならないとするなら、そこからは、その概念があたかも以前に存在していたかのような仮象は確かに生じる。しかし、その仮象は、問題そのものを次のように明らかにするまでになる。すなわち、〈それら諸概念は、倫理的諸概念ではなかった。そして、倫理的諸概念は、そのイデーの前では、この見解においても無意味なものと見なされねばならないということを各人が見る〉ように明らかにするまでになる。すなわちその同意と不快の概念に関しては、それらが倫理的イデーの発展に至る限りは、同様に倫理的であることができたが、しかし、正にそのゆえに、それらはただこのイデーの適用と見なすことができるだけである。[]その特徴が観察される以前に為された人間の行為の種類と区分に関して言えば、それらは倫理的であることはできなかった。むしろ、それらにおいて倫理的行為とそうでない行為とが、混在して見出されねばならなかった。例えば、力にしたがって、悟性と意志の行為における区分をするとか、あるいは、具象性にしたがって、内的行為と外的行為における区分をするとか、あるいは作用にしたがって、単に行為者のみに関わる行為と、他者にも関わる行為とを区分するとか、そのほかどのように、道徳的概念の発見の前に区分が為されようと、次のことは洞察し得ない。すなわち、これらの概念がどのようにして、大きな全体の中にではなく、その小さな塊の中でむしろ見出されることができたのか、したがって、それとの関連で、その区分もどのようにしてまったく偶然的なもの以外でありえるのか(洞察し得ない)。またそれに従って、どのようにして、この偶然性において、そのような区分が、倫理学体系の中に伝達され得るのか(洞察し得ない)[]むしろ、最初から正反対のことが推測されるとしたら、すなわち、道徳的イデーは、それが成長してきたような要素に合致して、そのような種類に解体されてはおらず、自然に反して切り刻まれ、砕かれたのに違いない。その弁証法的方法が、意識的に、道徳的イデーからではなく、〈123〉ある疎遠な領域から生じたことによって。しかし、それにもかかわらず、これに対立するような状況ならば、これは、ただ次のことによって真と証明され、承認される以外にないだろう。すなわち、倫理学の最高のイデーに対するこれら諸概念の関係が説明され、それら諸概念が、新たに、規則的に形成されるということである。そして、これによって、それら諸概念が純粋な演繹によって見出されたことが判明するなら、その場合に限り、体系におけるそれらの場所も異議にさらされることもない。

              *自然の目に見える対象については、状況は違っていないかと懸念する人にとっては、このことはまだ疑わしいかもしれない。そこである人は次のように主張するだろう。〈動物の体の構造についての自然科学的イデーが存在するずっと以前に、すでにそこに属する個々の概念を人は見出しており、いくつもの区分の下に生物を秩序付け配置した〉と。しかし、次の二つのことが認められねばならない。第一に、この種のもっと粗野な試みもまた、真の自然記述の精神にはなかった。同じような多くのものが、その扱いはそのイデーに隣接してはいるが、再び破壊されねばならなかった。同じような運命は、将来、自然の知識が、より高次の学問のために、すべてに厳密に取り組めば取り組むほど、いっそう多く現れる(ということが認められねばならない)。しかし、他方次のことも認められねばならない。他のものにとって、もっと完全な姿においてであるにもかかわらず、そのイデーが根底に置かれ、これがより完全に叙述されたことによって、それらのみが学問において正当にも自分の場所を手に入れたということである。同様に、倫理学においても、これらの諸概念が、自分の学問的要求を主張できるのは、ただ、それらがイデーから演繹され、イデーに対応するものとして見なされることができた場合だけである。したがって、このことが、それに従って諸概念が、私たちの研究において吟味されねばならない基準である。様々な体系の観察において、多数の諸概念が叙述される場合、それらはすべて、互いに上下の関係にあるか、〈124〉等しい関係にあるか、あるいはいくつかのものは、他に対してこのような関係にないかのいずれかである。したがって、ただ概念についてばかりではなく、系についても多数性が発見されねばならない。先ず、互いに一つの系を形成している諸概念に関して言えば、先ず何よりも、分割根拠が発見されねばならない。それは、個々の概念の内容を、それが倫理的イデーから、あるいはそのイデーと同時に与えられるイデーの適用領域から生じたものであるかを決定する。さらに次のことが注意されねばならない。すなわち、どの系にも、それが完結したものと見なされるべきなら、二種類の概念が存在しなければならないということで、一つは形式的と呼ばれ、もう一つは実在的といわれる。すなわち前者は単に道徳的イデー―それが一般的なものであれ、限定的内容の表示を伴うものであれ―に対する関係を表明しているに過ぎない。そして、他ならぬこの内容に関して、さらなる分割可能性自体のしるしを担っている。これらが無限なるものへ進行していくのでなければ、これら諸概念の空間は、最後には、実在的な概念で満たされねばならない。そのような実在的概念は、それ以上分割不可能なものと考えられ、統一の原理を自らの中に持っている。そして、この原理が道徳的なものかそうでないかということが、さらにそれらにおいて吟味されねばならないのである。たとえば、徳の概念一般が、同様にまた特に社交的徳の概念が、形式的で、その内容に関して、さらに分割可能である。これに対して、善行の概念あるいは他の特定の徳概念は、実在的概念で分割不可能と考えられる。もちろんこの概念も分割され得る。すなわち、次のようなことは考えられるのである。伝達による善行とか、行為による善行とか、外的なものあるいは内的なものに関係する善行とかである。しかし、それは、実在的概念として立てられることによって、そのような分割は、いかにそれが何らかの目的のために有用であれ、本来倫理的なものは、その分割によってはそれ以上分割されることはないという制限を自らに伴っている。なぜなら、次のことが前提とされているからである。すなわち、この徳を所有する人は、それを完全に所有する。そして、〈125〉複数の徳として現実においてばらばらに現れ得るような徳の部分といったものは考えられない(という前提である)。このようなことは、例えば、上述の形式的な概念としての社交的徳概念においては考えられなかった。次に明らかなことは、倫理学の体系には、複数の概念の系が見出されることが可能であり、おそらくは見出されるべきである。最高のイデーが見出される様々な姿のどれからも、諸概念の独自な系が演繹されねばならないからである。それゆえに次のことも注意されねばならない。これらの姿のどれに各系が関係しているのかということ、その系の下に含まれているものすべてが、荒廃することなく、また混合によって悪化することなく、この関係に忠実であるかどうかということである。

              *これを現在ある様々な体系に適用してみると、先ず次のことが生じる。すなわち、形式的諸概念が、下に下れば下るほど、各体系において、他の残りの体系における形式的諸概念といっそう異なったものとならねばならない。実在的概念においても同じことがさらに多く起こる。後者(実在的概念)に関して言えば、内容においてまったく異なる概念が、一体どうして個々等しく似たように発展できるだろうか?前者(形式的概念)に関して言えば、同様に次のことも明らかである。すなわち、異なるイデーの内容は、まったく異なった分割根拠を与えねばならないということ、そして、異なった体系においては、ただ道徳的肯定と否定の一般的表現だけが、同じであることができるということである。おそらく誰かがこれに反対して次のように言うかもしれない。〈分割が許されるのはイデーそのものではなく、イデーに割り当てられた領域である。そして、これは多くのものにおいて同じであり得る。同一のものに対する一般的表現の多くが、人間性を互いに共通に持っているのと同じである〉と。しかし、これもまた、もしイデーが異なれば、他の根拠によって分割されねばならない。そして、それが首尾一貫しようと欲する限り、その単なる知覚を目指す体系は、活動自体を目的に定めるような体系として、別の分割を企てるのは確かである。さらに〈126〉少ないが、次のような反論もあるだろう。道徳的イデーへの適合性という一般概念が、その内容に関わりなく、論理的原理に従って分割されるだろう。それはちょうど、カントが私たちに示したような、善と悪の概念を考慮にいれて自由のカテゴリーの目録のようなものであり、そこから、その要求内容の差別無しに、すべての体系において用いることが可能な形式概念が生じることは明らかである。なぜならこの目録自体は、十分に反対のことを示すからである。すなわち、ある時は一つの区分の下に、倫理学で生じ得るものと得ないものとが一つにされたり、ある時は、倫理的にはまったく意味を持たない区分が為された、またある時は、分離されるべきものが互いにごた混ぜにされたりするのである。したがって、この関連で、救いはそのような方法において至る所に見出されねばならないと考える人々に対して、多くを語る必要はない。然り、カント自身、言葉でまた行為を通して次ぎのように説明する。〈これによる自分のねらいは、倫理的諸概念の考案や配置であるよりは、むしろ倫理的諸概念への外部からの接近である〉と。しかし、さらに互いに独立した諸概念―これらは異なった系を開始する―について言えば、探求されるべきことは次のことである。いかに完全に各系が詳述されたか。さらに言えば、最高のイデーに相応しい姿に対する正しい関係が、現実にも基礎に置かれているかどうか。その結果、各体系が、それぞれ独自の完結した倫理的諸概念の圏を持ち、その諸概念によって、道徳敵領域の全体は、他の諸領域とは異なるものとして区分され、他の実在的諸統一によって満たされるであろう。然り、完全な詳述においては、この圏は、三重の圏でなければならない。少なくともこの吟味は、その不完全を補う。叙述によってか予覚によってか、不完全な系の個々の断片が持つ精神や価値から、残りの部分を推し量ることによって(補う)

              しかし、この詳細かつ骨の折れる方法は、これまで倫理学のこの部分で〈127〉成し遂げられてきたものの価値と、いかなる関係もないということは、本書の第一部が暗示している結論からも明らかであるし、また、導入された諸概念自体の単に表面的に過ぎない観察も、その結びつきにおいて、間違いなくそれを示している。なぜなら、前者が間違いなく示したのは、倫理的書体慶賀、その根本イデーにおいて互いに区別されるのは、通常考えられているよりもいかに少ないか、そして、ほとんどすべての体系が、他の体系への非難されるべき盗み見をしているということであった。この非難は、さらに悪いことに、最も詳細な論述に、最も鋭く当てはまる。しかし、これを行おうとする者は、次のことも見逃せない。すなわち、混乱が前もって予期された以上にいかに実際大きいかということである。至る所で、同じような区分や概念が現れ、嫌悪感を催すほどである。たいていは互いに相違している叙述も、互いに他を借用している。独自なものを発展させる代わりに、残りを着服するために手元にあるもののいくつかを否定することに甘んじるということが、組織的に為されている。換言すれば、すべてがすべて非常にありふれているので、歴史的な痕跡が消されたら、あるものをいっそうこの体系に、他のものはいっそう別の体系に帰する根拠をもはや誰も持つことができない。その結果自ずから生じる疑惑は、すべてこれらの見解や概念には、倫理的起源とは別のものが帰せられるのではないかということである。混乱は下へ行けば行くほどいっそう激しくなる。実在を内容とする概念では、それが非常に大きいので、同じものが、複数のまったく異なった形式概念に関係させられることもまれではない。そこで、論述の最も確かなあり方は、二つの部門を完全に互いに分離する。そして先ず形式概念が吟味され、そこから与えられるに違いない光によって、実在概念を照らすことである。

 

1.形式的な倫理的諸概念について

 

              倫理学の形式概念の吟味に移ると、他のすべてに先立って三つの概念が現れる。そのどれもが、自らの下に他の諸概念の系を持ち、他の概念に従属することはない。その概念とはすなわち、義務、徳、そして、善である。また、その対立概念が、それぞれ違反、悪徳、悪であり、さらにそれらに関係する補助概念がある。すなわち、暗に示されているように、これらは全体において現れる。なぜなら、個々においては、ここでも逸脱や混乱がないわけではないから。例えば、ストア派は、一般論では、徳と善を区別し、倫理学の別々の章でそれぞれを論じている。しかし、それから、善と徳に分類する。その結果、徳を表すのと同じ特徴が、必然的に善とも考えられている。あるいは最近の人のような、自分たちによく知られた徳と義務を扱う仕方もある。彼らはそれらを、一般的な説明においても、また、その各々をまったく違って区別するのが常であるそのやり方においても、区別するのだが、個々に下っていくと。まったく同じものが義務としても徳としても引き合いに出されることがしばしば見出される。したがって義務の数だけ徳もあり、両方の概念において同じものがまとめられ、両者を通して、道徳的なものが、等しくまったく対応する仕方で区分される。非常に奇妙な混乱だが、両者が互いに混同される場合もしばしばである。例えばガルヴェで、彼の説くところによれば、〈賢さは一つの徳である〉。それから彼は次のことに耳を傾けるように促す。〈賢い人の第一の義務は、大胆であると同時に思慮深いことである〉と。しかし、これ自体は再び別の徳である。その結果、このようにして〈129〉両方の概念がまったくお互いの中に忍び込んでいる。しかし、この混乱は、実在概念においてはじめて示される。したがって、それは演繹の過ちに過ぎず、遠ざけられるべき無作法に近いものとされる。より一般的に、また高度に、この相互侵入は、カントにおいて見出される。彼は次のような問いを立てる。〈どの程度これらの概念の一つは、他の概念によって言い表すことができるか〉と。そこで、そこにおいては多様で最高度に非弁証法的な複雑さがある。彼は義務を持つが、それは徳の義務である。またそうでない義務も持つが、それは倫理的である。またおよそ徳を行うことは、徳の義務ではない。そしてある時は、彼は次のように考える。〈その人は徳へと義務付けられている〉と言うことはできると。またある場合には、〈徳を持つことは義務である〉と言うことはできないと彼は考える。それにもかかわらず、この混乱も、また上述のストア派の混乱も、人を動かさないなら、研究への怠惰から次のような事態が生じざるを得ない。すなわち、両概念は等しいかあるいは一方が他方に従属しているとも考えないし、一方あるいは両方共に、それらはもちろん一般の語り方からとられているのだが、何かまったく学問に属さないものを示しているとも考えない。むしろ各人は至る所で、―その場合彼は多数の指示に従うか、あるいは自分の感情に従うかであるが―両者の本質的な相違についても、あるいは両者の同じ不可欠性についても、確信するところにとどまり、誤謬をただ自ら誤解している弁証法に求めるだろう。それを吟味しつつ叱責すべきなのである。さらに、その中のいずれも他に従属しないということは、つぎのことからもすでに明らかである。すなわち、それが考えられないし、自然に反しているということによって両者の一方が完全に欠如しているような倫理学の叙述が存在するので、ある学問が自分に属している諸概念の系の最中で、始まったり、終わったりできるということから (明らかである)。それらの本質的な相違や、それらの同じ起源を前提とすると、同じ地位を主張するような第四の概念はないのだから、次のような考えがいよいよ生じることになる。すなわち、それらのどれもが、〈130〉倫理的イデーの他の形式に対応しており、自分のあり方の最高のものとして、倫理的なものを―それが先の形式に関係している限り―表している(という考えである)[]最上のイデーの特定の形式に対するその関係が、確保されるのかどうか、さらにこの関係は損なわれることはないのか、そして、概念のさらなる分割は、その根源的な形成に対応しているのかどうか、これらのことが、それらと共に企てられるべき吟味の対象である。

 

1)義務概念について

 

義務の概念について、およそ永続している説明は全て、〈それは、法則との関連における道徳的なものである〉と言っている。この法則は、行為に直接関係しており、義務について問いは全て、ある特定の行為における道徳的なものへの問いである。したがって、この意味において何かがどこかで現れれば、それはこの概念(義務)に属し、ここで探求されねばならない。したがって、〈131〉カントは義務を法則によって規定された行為の必然性と説明している。また、ストア派の非常にわかりやすい説明では、義務とは、生の連関でいかに行為されるかを理性に適った弁護が認めるものである。理性に適ったとは、法則との関連によって見出されたものであり、その何よりもの目印は、いかに至る所で義務のみが明るみに出され、規定されることが可能であるか、そのあり方が非常によく暗示している。同様に、次のように問われる時、それはやはり義務についての問いである。すなわち戦いにおいて友を見捨てることは、古代の人の言葉を用いれば、立派なことであるのか、それとも不名誉な恥ずべきことであるのか、今日の私たちの言葉では正義か不義かという問いである。実際この言葉は、私たちの用語法では、法的な関係ではなく、道徳的関係を表している。この概念が純粋に形式的なものであり、その期待される内容は、一方では、法則の内容についてであり、他方では、法則が適用されるべき行為の領域の内容についてであること、このことは明白である。カントが、法則に応じていることのみを―すなわち、法則によって立てられ認識されたことのみを、神聖と見なす場合、彼は、神聖な義務の名を呼び出す理由を持っていない。感覚と享受を目指す倫理学の叙述において、義務がほとんど問題になっていないとしても、しかし、この概念はそこにも場所を持っている。なぜなら、その倫理学のイデーにふさわしい仕方でも、あるいは矛盾する仕方でも、衝動の対象が扱われることが可能であり、どの瞬間も、前者や後者の仕方で満たされることが可能だからである。しかし、さらにこのようなものとして、倫理学は義務概念から離れることを望まない。したがって、その普遍的妥当性は十分明らかである。しかし、義務概念の徳概念に対する関係について言えば、ストア派は、これを次のように言うことによって特徴付ける。すなわち〈義務に適った行為にはすべて、あらゆる徳が統合されていなければならない〉。そこからまた逆に、この同じ徳は、様々な〈132〉義務において活発に働くということが結果する。この両者は、両概念の関係と内容の差異を、最も明るい光の中で叙述する。これに対して最近の人々の間では、この違いは、次のことによって特徴付けられるのが常である。すなわち、道徳的なものに対して、それが義務に関係させられる限り、合法則性が帰せられ、またそれ(道徳的なもの)が徳に属する限り、道徳性が、狭義の意味で帰せられる。このようなことは明確と言うには程遠く、むしろ有害な誤解を許容する。なぜなら、少なからぬ人がこれを次のように理解するからである。すなわち、ある行為が、倫理的な意味で合法的であることができ、したがって義務概念に対応するが、しかし、道徳的心情に由来するのではないと。そこから〈まだ道徳的なものの外に置かれている領域が、義務概念に従わせられ、義務概念は倫理的概念ではあり得ない〉ということが結果する。むしろそのような行為は、誤った仮象によって、法則と一緒に見出されたに過ぎず、そのような仮象は、その行為が真に倫理的に特徴付けられるや、すなわち、そこにおいて比較される格率によって特徴付けられるや、直ちに消滅するにちがいない。その陳腐な事例の一つを選ぶ為に、次のことを仮定してみよう。ある人が委託された善を持ち、それを脅かされることなく手元にとどめておきたいとする。しかしながら、彼の暴力によって、白状させられたものの詳述によって、その後、その信任の所有に根をおろす為に、補うとしたら、この行為が倫理的に表しているのは次のことに他ならない。彼は、比較的より些細な利得よりも、より大きな、しかし、遠くにある利得を取ったということである。いくつかの幸福主義の倫理学においてそうであるように、利得が法則であり、節制が道徳的心情であるようなところでは、その行為は、合法的でもあり、また道徳的でもある。しかし、純粋活動的な倫理学においてのように、利得が倫理的目的ではないような所では、その行為は道徳的であるというに過ぎず、もはや合法的であるわけではない。なぜなら、それは、場所を全く持たない規則によって行為されるのであり、この見かけだけ倫理的な結果は、変化する状況に基づくに過ぎない。したがって、次のことは明らかである。〈133〉義務概念の側に合法性が、徳概念の側に狭義の道徳性が置かれるとしても、両者は、現実において離れているかのような対立であるはずはなく、観察におけるざっと見に過ぎない。なぜなら、単に肯定か否定かだけの法則に対する同じ関係において、力に対する様々な関係―それは大きいか小さいかである―が、対立する衝動を克服する為に生じるからである。このことをもストア派は示しており、彼らは道徳的力の度合を認めようとしないにもかかわらず、彼らの弁証法が、彼らの諸原則よりもよいものであることがいかにしばしばなことか。すなわち、彼らが法則との関連で義務と呼ぶ同一の行為を、彼らは、力と心情との関連で、賢者が、あるいは他の人がそれを遂行する程度に応じて、前者(賢者)の場合には、正しく完成する行為と呼び、後者の場合には、より低い、あるいは、あいまいな意味で作法に適ったもの(Schickliches)と呼ぶ。これが、ここで意図され、しばしば誤解を生む二つの言葉の意味であるということは、誰の目にも明らかである。後者はある人々によって、まだ他の類似の意味で用いられているが、それは、次のような規定を暗示する為である。すなわち、完全な道徳的心情が、その主張にしたがって、それらによって動かされるべきでないような、そういう事物への関連において把握されるような規定である。しかし、ガルヴェがこれと、それ以前の異教徒の徳とを比較する場合、彼にはこれが許されるべきである。というのは、彼は、ここにおいて全てを混乱させたマルクス・キケロに従っているからで、なぜなら、彼は常のごとく、パナイティオスから離れて座し、彼自身の馬鹿馬にまたがっているからである。それにもかかわらず、明らかに正しい道から大きく逸れて、彼において容易にしばしば出くわすように、法的なものと倫理的なものとが取り違えられ、合法性と道徳性とが対立するものとして受け取られている。それによって―その痕跡はいたるところに明らかだが―義務概念全体を損なっている。例えば彼にとって、〈134〉〈全ては義務から生じなければならない〉ということが、一つの特別な義務になっている。そしてさらに、〈人は全ての義務を満たすことを目的とする〉ということももう一つの別の義務になる。そして、その混乱を十分に大きくする為に、また、彼の倫理学の法律上の仕事を暴露する為に、両者は、そこにおいて私たちが、ただ格率のみを義務付けられるような人々にとって、全ての実際の訓練は、賞賛に値する。これはすなわち、法則の必要を超え出ている。このことが―他の場合には、倫理的合法性は、倫理的立法に対応しなければならない場合―後者(倫理的立法)についての彼の概念と統一されねばならないように、すなわちそれは、義務を同時に原動力になすものであるということ、このことを彼自身正当化したいのである。しかし他の人々にとって、ここから明確にならねばならないことは、彼において義務概念がいかに次のような概念であるかということである。すなわち、それは倫理学に先立ち、これを超えて、全く権能のない分離された法理論から取られた(概念である)

              *同じように不自然にフィヒテは、両者を分離し、同様な誤った道を行っているように見える。すなわち彼は言う。自由な、すなわち、単に形式的にではなく質量的にも自由な行為において、問われているのは、何(Was)によって、またどのようにして(Wie)ということ、あるいは形式であり質料である。これは交互に無限へと動いていくことを欲しているように見える。しかし、彼においてこれは不自然である。なぜなら、正しいあり方で扱われなかったものは、道徳的接近という彼の系の中にもなく、もし正しいあり方にしたがって問われなければ、それは正しいあり方で扱われることができないからである。したがって、そもそも、この何ということと、いかにしてということが不可分に結びついていなければならないように、もし前者だけが正しく扱われるなら、後者についてはもはや問いは生じない、またいかにしてということからも、もし、行為の瞬間だけが知られるのであれば、何ということは、自ずから生じるのでなければならない。しかし、フィヒテにおいては、法律的性格は、それほど強くはっきりと刻印されているわけではなく、至る所で、表面的に広がっているように、彼におけるこの誤った特徴も、それほど多くの混乱した結果を持っているわけではない。

              もし義務概念が、さらに自分の場所を、〈135〉道徳的なものの普遍的表示として堂々と主張すべきであるなら、義務概念は、道徳的なものをも全く把握し、どの行為においてもその適用を見出さねばならない。なぜならこの普遍性は、確かにこのイデーに帰せられねばならず、もしその幾分かがそれから取り除かれるならば、それには何も残らないだろう。このことは既に上でわずかながら言及された。しかし、ここでは、この概念との関係で、別の仕方で扱われねばならない。それは次のような場合が考えられることによってなされる。原則が、他ならぬその内容において、そのような制限を自らのもとに持ち込むことなく、ただその原則の適用において、諸概念の責任でこの制限が原則に課せられることによってである。そのような概念、それは現実的でポジティヴな概念として倫理学に導入される所ではどこでも、そのような誤った義務概念の特質を示すが、そのような概念は、許可の概念である。このような概念が、矛盾した概念であることは、容易に洞察される。なぜなら、それは、その内容に関して、常に、道徳的領域の内部にあるものを目指す。あるいは、次のことは笑うべき、誤った概念の適用ではないだろうか。すなわち、例えばある人が、〈消化することは許されるかどうか〉と問おうとするなら。しかし、これについて彼が〈それは道徳的には規定され得ない〉と表明するなら、その結果、そこにおいてその規定と規定されるものとは互いに破棄し合うことは明らかである。それにもかかわらず、彼がどのようにしてたいていの倫理学の叙述への入り口を見出すかということは、二重の仕方で説明可能である。第一に、彼は生における倫理学の適用において、その意味を見出すが、しかし、それは積極的概念としてではなく、否定的概念としてにすぎない。すなわち、彼は次のように言うのである。〈行為はまだその内容において、またその限界内で完全には把握されておらず、したがって、その道徳的価値は規定できない〉と。なぜなら、既に上に言われたことの結果、倫理的イデーは―その下にどんな内容が置かれようと―行為―それが心情の動きか感覚世界における変化に過ぎない限り―とは直接的何の〈136〉関係もない。そして、全ての行為について、それがそのように表現されるに過ぎない限り、言われねばならないことは次のことである。すなわち、その行為が許されているということ、つまり、その下でその行為が法則に適うような諸規定が存在する可能性があるということ、また、その下で、その行為が原則に反対するような別の諸規定が存在する可能性があるということである。然り、これは、牡蠣食に劣らず、人間的生の根絶に妥当する。なぜなら、普通の生活においては、そのようなまだ閉じられていない定式は、心情に対して、否定的あるいは肯定的規定が現れる現れ方に応じて、ある場合には許され、ある場合には許されない。このようなことは概念の学問的価値には何の影響も及ぼさない。これに対して、例えば、職業をなおざりにしつつ快楽を追うというような定式には、実践的倫理には少なくとも十分な規定がある。あるいは、全く単純に現れる盗みという定式には、先行する所有権の承認の取り消しが既に含まれており、したがって、ここにおいて許可の概念はもはや適用不可能である。そこから次のことが生じる。その概念が学問的な意味で語っているのはただ次のようなことに過ぎない。すなわち「行為の表示は、その道徳的評価の為には、まだ完成しておらず、その行為がそこにはまだとどまることのできないような地点にある」と。したがって、この概念は決して定まったものを含んではおらず、ただ課題を含んでいるに過ぎない。しかし、この概念が誤解されて、両者が取り違えられ、この概念は実際に何か倫理的に規定可能であると考えられるなら、次のような推測がなされねばならない。すなわち、その概念が誤って付き添い、その間に押し込まれているところの正義と不義の概念が、正にそのように誤解されているということ、そして、義務に適ったことが提供すべき定式の中に、道徳的な境界と大きさの規定をなおざりにしていることが見出され、それは、この概念と並んで、全く空虚な許可の概念が打ち立てられることを正当化するということ(が推測される)。例えば、単に誰もが主張するように〈牡蠣を食べることは許されている〉というのみならず、それによって倫理的に何かが規定されるべきだと思い込む人は、この問いについてもはや何も語ることはできず、その定式も、体の養育においてと自然物の使用において義務に適ったことの表示の為には不十分であるに違いない。なぜなら、それら(定式)が規定されるならば、その行為がすべての個々の事例において、これら諸規定の一つに−それはある時は肯定的な規定であり、また否定的な規定であるが−該当しなければならないということ、そして、それら(定式)がそれにしたがってさらに構成されねばならないということが、その概念には避けがたいからである。しかし、もし誰かが次のように語ることを欲するならば、すなわち、〈許可されるという概念は、その都度この更なる規定を行う為には、あまりにも取るに足りない対象に限定されるべきである〉と言うならば、これが非常に非学問的であることは明らかである。なぜなら、この規定の前には、行為の道徳的大きさや重要さについて、誰も何かを主張することはできないからである。このことを素晴らしく理解し、義務と違反の間のあらゆる中間を拒否したのはストア派である。彼らのどうでもよいものはこの場所にはふさわしくないが。然り、彼らは、最も完全な道徳的行為を表現したのと同じ言葉を、最も無意味な結果と仲間にし、完全に道徳的な散策、あるいは問いと答え、もっと多くのそのようなものを受け入れることによって、行為への法則の適用は、行為の見せかけの大きさとは無関係であることを表明する。というのは、彼らもまた次のように言うとしても、すなわち、〈義務でも違反でもない行為が存在する〉と言うとしても、彼らはただ弁証法的に、空虚な場所を示そうと欲したに過ぎない。彼らもまた自ら次のように言っている。すなわち〈自分らはその場所をただ不確かなもので満たす〉、なぜなら彼らが据える個々のものは、そこにおいて彼らが完全に道徳的なものを受け入れる所のものと同一だからであり、すなわち問うことは、答えることで、同じだからである。したがって、悪しき前兆によって許可されることという誤解された概念の最初の成立は全く義務概念の為であるということは、言われたことから明らかである。

              *第二は、既に有害と認められた道徳的なものと法的なものとの混同である。なぜなら、後者(法的なもの)は、人間的行為の領域を満たすことはあえてせず、〈138〉むしろ、そこからいくつかのものだけを排除するに過ぎないからである。したがって、義務概念は、正に否定的な概念であるので、当然のことながらそこでは許可の概念は、積極的概念である。この後者(法的なもの)が、道徳的なものに転用されるならば、前者(道徳的なもの)も一緒に連れていかれねばならない。カントのように、明らかにこの混同のせいで、許可概念を倫理学の領域に打ちたてようと欲する者は、義務概念の真の内容を奪い、それを、制限的な否定的概念に変えてしまうことが心配である。しかし、これは、今探求されるべき義務概念の区分の仕方の後に続けて行われる。

              先ず、予想される欠如との関係で注意したいのは、完全な義務と不完全な義務という最近の人々においてほぼ普遍的な義務区分である。それは様々な人によって、様々に説明されているにもかかわらず、そこにはいたるところで同一の概念が根底にあり、義務概念の同一の歪曲にしたがっている。なぜなら、なぜなら、一方において、不完全な義務は、他の義務によって制限され得る義務として説明され、完全な義務は、このような制限を受けないものとして説明される。その他の説明は、これとの結びつきにおいて立てられるべきである。すなわち、不完全な義務とは次のような義務である。すなわち、その義務を考慮する時、各人は、完全な義務においてのように直接行為に向かうのではなく、ただ格率を持つように義務付けられが、それが先に述べた可能な制限のゆえであることは明らかである。ここには、その区分の無効なこと及び、それと結びついた義務概念の誤解が容易に認められるべきである。なぜなら、これまで言われたことから、次のことは誰の目にも明らかだからである。すなわち、義務の定式はすべて、行為と共に、同時にまたその行為の境界規定を表現しなければならないということである。すなわち、義務とは、行為における道徳的なものの表示である。しかし、この行為において道徳的なものは、直接的にではなく、ただ心情(Gesinnung)に対する関係を通して認識されるべきで、その関係は再び、ただ次のことから生じる制限と条件において現れることが可能である。つまり、行為そのものではなく、〈139〉行為における道徳的なものが目指されたことから生じる制限と条件においてである。したがって、本質的にどの義務概念も、行為の境界規定による道徳的なものの構成である。そのような境界規定なしに、単なる行為を表現するような定式は、義務の為の定式ではない。そのような定式の例として、〈生を保持することは義務である〉と言われるような場合がある。なぜならこのような定式の下には、どのように、何によって、いつということが規定されていないならば、多くの不道徳的なものが格納され得るからである。これに対して、当然のことながら、法的義務からの仮象が生じる。この義務においては、このような規定は生じず、そして至る所で、その他のもの以上に、完全な義務の区分を満たしているのである。しかし、このような義務を特別に倫理的な意味で観察し、それらに独自な義務の名を容認することには、非常に注意深くあって欲しい。なぜなら、それらによっては何ら道徳的なものは定立されないし、規定もされない。双ではなく、単に不道徳的なものが表されるに過ぎないからである。しかり、それらは倫理的に見れば、それ自体として存在するものではなく、この性格に関してそれらに似ていない何らかの義務の分析の部分に過ぎないからである。その結果人は次のように言うことができる。そのような義務は、別の仕方で完結しているものの正しい実行の為の技術的な規則という価値を持つに過ぎないと。したがって、財産を寄付するという義務が示され、承認されるならば、次のことは、無理解な者や軽率な者に対する技術的注意に過ぎない。すなわち、彼は、個々の行為がその義務に即していると言うことに気付かずに、そうした行為によって、家具調度を傷つけたり、義務に適った商いを破棄したりすることのないようにというようなことは(無理解な者や軽率な者に対する技術的注意に過ぎない)。同様な仕方で、それら(法的義務)は、すべての人に、他の義務への注意を喚起する。すなわち、法的状態を引き起こすという義務、あるいは同じことだが、その状態を、継続的な引き起こしによって保持するという義務がその大部分である。それゆえ、古代の人々においては、倫理学においてそのような義務に言及されることがほとんどなかった。なぜなら、今よりもずっと公的で活発な彼らの市民生活のあり方においては、社交的状態に継続的な引き起こしの意識は、非常に活発であったので、そのような予防的規則は不要だったのである。法的状態を現実化するというこの義務は、同様に次のような義務でもある。すなわち、〈140〉その義務との関連で、〈いつ〉、〈どのように〉、〈誰と〉ということがあることにより境界を規定することによって義務として表現されるような義務である。そして、他ならぬこの規則によって、アリストテレスが次のようなタイトルの下に要約している多くの別の行為が分離されねばならない。すなわち、それについてはもはや協議されることのない行為、なぜなら、それらは新たに自由に始まる行為ではなく、そこに魂が捉えられている別の行為の必然的継続に過ぎない行為だからである。したがって、彼は言うのである。〈一度医者として立てられた者は、自分が病人を治療すべきかどうかについて協議する必要はない。なぜなら、そのことはその行為(医者として立てられたということ)と共に定立されているからである〉と。ペリパトス派のオイドロスのような、幾人かの古代人は、ここに、複合的な義務とそうでない義務の区分を基礎付け、職業や生活様式のすべての場所をその第一の義務の下にもたらした。このような区分はたしかに、最近の人々の区分よりも首尾一貫している。しかし、倫理的に見るならば、行為の遂行が、一つの分割されないモメントにおいて起こるかどうかということ、そして、その遂行が等しい部分に分けられるかどうかということには本質的な差異はなく、ただ開始とその継続の間に恣意的に受け取られた差異があるに過ぎない。したがって、不完全な義務がこうむる制限について言われたことが、ここに関係すべきであり、次のことを暗示するならば、すなわち、これら不完全な義務が体系において立てられる場合、その義務にはこの境界規定が欠如していおり、それは先ずすべて個々の事例の為に特に見出され、付加されねばならないが、それはあたかも、使用の瞬間に初めてよく合成へと混ぜ合わされるような一時的な構成要素のようであるということを暗示するならば、上記にしたがって、正にこの構成要素が本来倫理的な要素であり、この要素がかけている諸定式は義務の定式ではまったくない。然り、いわゆる完全な義務もその定式に戻すことができるので、そのようにして成立し、説明される区分によって、最後には次のように言われる。〈いかなる義務定式も立てられることができない〉と。しかし、これについて違ったふうに、文字通り次のように考えられるなら、すなわち、義務は他の義務によって〈141〉制限されるべきであると考えられるなら、制限をこうむる定式が、義務の定式であり得なかったことは明らかである。なぜなら、その領域の反発し分離された部分が、制限する義務として、したがって義務に反したものとして、対置され、それによって、その定式は、道徳的なものと不道徳的なものとを混同して含むからである。カントが〈それにもかかわらず、不完全な義務のみが、倫理学本来の内容を形作る〉と主張する時、矛盾は、別の仕方でさらに明らかである。なぜなら、制限する義務が、法的な義務であるべきならば、彼は、他の学科の下に、倫理学の堂々巡りの下位区分に陥っており、倫理学はそれに対して常に反抗しているからである。しかし、そのような義務もまた不完全であるはずで、したがって、生じるものは不確かなもので、それは、同じような点で不確かな別のものによって規定されねばならないが、そのような仕方によっては、何も規定され得ないのである。ある義務が別の義務によって制限されるということも、義務同士の衝突以外の何ものでもない。完全な義務と不完全な義務という区分を容認する人が、ほとんど排他的に、そのような衝突を倫理学の中に導入するのであって、他の人はそのようなことはしない。しかし、義務の衝突はばかげたことであり、義務の定式が、先のような仕方で不確かに、その概念に十分でないことをなす場合に考えられることに過ぎない。なぜなら、道徳的なものの生の素材、すなわち、目的や関係−それらは倫理的に変動し構成されるものとして定立されるのだが−は、論争に陥ることはあっても、義務は、この変動や構成の同一の適用の定式として、唯一同じ義務でのみあり得るからである。義務のこの制限が取り除かれるならば、義務もまた存在できなくなり、義務に関してもただ格率だけに誰もが結ばれることになり、何らかの確かな行為に結ばれることはなくなる。なぜなら、その時には、〈行為が、義務の場所において、同時に格率を放棄することなしに、放置されることはできなくなる〉ということが、正に義務の目印になってしまうからである。〈142〉そのような主張もまた次のような事例になるだろう。すなわち、以下に倫理学において主要概念が、他の概念及び、それに従った行為に対して、試金石として役立つかということが、そこにおいて示されるところの事例になるだろう。なぜなら、そのような制限可能な義務を立て、そしてそれに対する拘束意識を含むような心の態度(Gesinnung)を求めてみよ。このような心の態度は、もしそれが格率に対応しているならば、道徳的ではないだろう。なぜなら、その時、その心の態度は、格率と共に、その制限のかなたに置かれた不道徳的なものを目指すからである。しかし、その心の態度が、その制限の中に必然的に固く保持されるならば、それはそもそもまたその制限の原理に関係し、その原理と共にその心の態度は始まり、また終わる。しかし格率に対しては、ただ偶然的に関係するのであって、必然的にではない。したがって、正しくない義務概念は、徳概念をも腐敗させるのが常であり、正しい徳概念は、義務概念をも救い、改善するに違いない。他方、多くの人によって、完全な義務と不完全な義務との差異は、次のことにあると言われる。すなわち、前者(完全な義務)においては、誰もがその拘束力を判断できる状態にあるが、後者(不完全な義務)においては、ただ行為者自身にしかそれができない。ここにおいて、完全な義務として念頭におかれたのは、法的な義務であることは明らかで、そこにおいては、その違反によって反抗されたり、破棄されたりする行為が、誰に対しても眼前にあるのは当然である。しかし、不完全な義務においては同様に、定式の不確かさがある。なぜなら、もしある人が他の人に対して、ただそのような不確かさのみを呈示し、目の前にある事例に関係するような指示を抑制するならば、この人は、その制限を倫理的な原理にしたがって、現実に成し遂げる能力を持たないからである。これに対して、この指示が共に呈示されるなら、各人は、行為者と同じように自ら決定することが可能でなければならない、たとえカントが時折欲したように見える、許可の法則のようなもの―その法則の結果、倫理的イデーに無縁な他の動機に余地が与えられるのだが―は仮定されないとしても。しかし、ここから明らかなことはただ次のことである。すなわち、いかにわずかしか、この道徳の教師(カント)が、彼自身によって倫理的として輪郭を定められた領域、すなわち純粋に実践的な領域で〈143〉主張していることを自覚していないかということであり、彼はほとんどただ、ある時は単なる法律の機械的領域に、またある時は、彼の感覚においてただ実践的な幸福と賢さの領域にいるだけだということである。しかし、論理的な感覚を十分に備えていたガルヴェは、確かなものや健全なものが何も語られないようなところで、少なくとも一つの特徴で満足しない為に、他ならぬその蓄積を通して混乱を知らせたが、この人は、その導入された特徴に、さらに一つ別の特徴を区別するものとして付け加えた。すなわち、社会に対する格率の有用性である。これがいかに堂々巡りをし、分割根拠を個々の義務に還元してしまうものであるかは、言うまでもないことである。しかし、これを超えて、このやり方では、差異はただ量的な度合の差異に変わってしまい、その結果、どの義務が完全で、どの義務がそうでないかということは、恣意的にならざるを得ない。それによって、区分の学問的価値は同様にまったく破棄されてしまう。なぜなら恣意的なものは、学問に入る余地はないからである。したがって、この区分が、正しく理解された義務概念と一つになり得ないことは、一部は、法的なものの非倫理的見解に基づき、一部は、倫理的なものの全くの不確かさに基づいて、以上言われたことから十分明らかである。

              さて、もうひとつ別の義務区分、すなわち最近の人々の間で少なからず一般的な義務区分である自分自身に対する義務と他者に対する義務が、もっとよい状態であるかどうか、このことを次に検討しなければならない。しかし、これを正しく理解する為に、今はほとんど言及されることのなくなったかつての第3の義務の構成要素、すなわち神に対する義務を一緒に考察しなければならない。この義務は、最近新たにその地位を剥奪されたが、それは、先ず他の人々の別の理由によって、しかしまたカントによってなされた。その理由とは、神に対する義務の必然的な根拠である神の意思が、経験において与えられ得ないということである。このような理由は、昔の人々には説得力がなかった。なぜなら、彼らは〈144〉神の意志が、知覚可能なものとして与えられると思い込んでいたし、神はすべての人の前に、義務を課す存在として、自らを啓示し、認識可能であると思い込んでいたからである。しかし、このことは、誰かに対する義務とは何を意味するのかという問いに行き着く。その容易に理解しがたい言い回しについて、最も厳密な意味は、議論の余地なく次のようなものである。他者、すなわち義務を負わせる人の意思によって強制されることによって、義務のとなったものがそれである。この意味が受け入れられるならば、神に対する義務を承認する人々によって次のことは明らかである。すなわち、神の意思は、人間が自分にとっても他者にとっても賞賛に値することを成し遂げられるようなすべてのものに必然的に向けられ、また神の意志は、道徳的なものを完全に論じ尽くすので、もし、彼らが、この最高かつ無限の意思と並んで、もうひとつ別の意思を、それが自分の意志であろうと他人のそれであろうと、必然的なものとして仮定するならば、彼らは不正に行為し、手桶で海に水を注ぐようなものである。したがって、神に対する意思は、この意味で、自分に対する義務と他者に対する義務という、義務の他の二区分を呑み込むのである。その結果、区分はなくなってしまう。しかし、そのような意味での神に対する義務を拒否する人々は、他者に対する義務の保持に達することも容易ではない。なぜなら、彼らが神に対する義務を拒否すれば、神が義務を課す存在として与えられ得ないのだから、彼らは義務を課す根拠として、一つのイデーに構成されるような一つの意思を要求せず、現実に与えられた意思を要求することになる。したがって、これが人間に適用されるならば、他者に対する意思についても、残るのは、成文化された法によって現実的に要求される義務しかない。しかし、彼らが神に対する義務を拒否する理由が、それが不必要であるから、というのは、内容的には、神に対する義務は、自分及び他者に対する義務に他ならないことによって、より身近な意思が既に遂行していることを神の意志を強要することによって現実化するために疎遠な意思を取り寄せることは倹約の法則に反するというのであれば、同じことは、自分自身の意思との比較において他者の意思にも妥当するだろう。なぜなら〈145〉その倫理的イデーに誰かが従うならば、彼は他者に対する義務以外に何も受け入れることはできず、そのために、彼には、それが理性に適合した形式であろうと、幸福という形式、あるいは他のどんな形式の下にあろうと、自分の意思は必要なくなる。そこから最終的に明らかになることは、他の疎遠な意思による強制という概念は、空虚な現象以外の何ものでもないということである。もし義務を課する力が、その適用と支配が常に繰り返し自分自身の意思に依存するイデーに従って他者の意思に譲り渡されるのでないなら、義務を課する力は、どこから他者の意思にもやって来るのか?しかしカントは、この義務を課する力が、他者に義務を課するような義務の行使を通して、どのように獲得されるかを明らかにする為に、賢い発見をした。彼によれば、そのような義務を課することの混乱において人は次のような試みにあるという。すなわち、それとは全く別の、古代ローマ的な意味で、その義務を神聖なる名称として悪評するという誘惑である。そこで次のようなことが問題となる。この義務を負わせるという義務喪また他者に対する義務であるのかどうか、そしてこの容易ならぬ遊戯を最初に始めた人は、厳しく責任を問われる。その遊戯とは、自分の義務の遂行によって、他者に義務を負わせ、その義務によって、彼が再び義務を負わせられるという遊戯である。然り、人はそこに、普通の生活の慇懃さに対する深い理由を見出すことができる。その慇懃さは、それが他者に職務の遂行を示そうと欲する場合、職務遂行は義務を負わせる義務であるゆえに、先ずそのための許可を捜すのである。しかし、これについてこれ以上述べるのは、あまりに奇妙で空虚である。したがって、これを避ける為に、他者に対する義務には、より軽い意義が添えられねばならない。すなわちそれは、他者を考慮する義務である。この意味でカントも神に対する義務を承認しようとしたが、そのような義務として彼が見出すのは、神的な命令としての道徳的命令を認めるという義務に過ぎない。その限りこの義務を伴った試みは失敗に終わる。なぜなら、これをそれ自体としてみれば、道徳的でもなければ、恣意の支配下にあるわけでもないので、何かを洞察する義務というのは存在し得ないからだが、しかし、この試みは常に必然的である。なぜなら、義務が、〈146〉その対象であるものによって区分されるべきであるなら、そこからはないも排除されることはできない、然り、すべてが道徳的行為の対象になるべきだからである。他ならぬそのゆえに、対象を規定することは不可能である。なぜならこの対象はその都度多様に呈示され得るからである。すなわち、最小限その義務は自分自身に対する義務と他者に対する義務とに区別されることを望む。幸福のイデーからこれらの義務が導き出されるのであれば、いかに行為者自身が対象であるかは明らかである。そのような義務に対して、自然に即した義務が先行するというのであれば、それは同様に、損なわれている行為者の自然である。次のことも少なからず明らかである。すなわち、自分自身に対する義務が、いかに他者に対する義務として同時に現れねばならないかということで[...]このようなことをさらにさらに詳しく述べることは、各人の好みにゆだねる。しかし、これまでのところから、誰に対しても次のことを認める気を起こさせるのは間違いないだろう。すなわち、このような区分の根底には、義務概念において何も本質的なものはないということ、そして、先の区分と同様この区分にも、法的義務が広めた誤った見せ掛け以上のよりよい成立は証明されえないということである。

              しかしながら、そのような一般的判断からは、フィヒテの倫理学において現れている同じ区分のようなあり方は、ある程度排除されねばならない。そこでは、その区分は、言葉にではなく、行為に従って存在しており、別の区分の下に隠れ潜んでいる。その到来は新たな行為として予告されるので、それは、いずれにせよ詳しく吟味されねばならない。ここで先ず示されることは次のことである。すなわち自らを二つに分ける二重の区分−この体系では義務論がそれを包括しているが−の一方が、すなわち、一般的な義務と特殊な義務という区分の一方が、主要区分として存続することはできない。というのは、区分の根拠、すなわち、すべての人間的活動を、複数の、常により小さな区分に固有な仕方で切断する必然性は、共同体において自然を支配する義務によってのみ把握可能だからであり、そのような義務は、ここでは必要に従って明らかに、しかし、〈147〉個々の義務の系からは自然に反して、押し出された。このような義務の本質からこの区分が出てくることも決してなく、そのよりよい実現の為に選び取られた区分からだけ出てくる。どんな状況においても賞賛されるべき方策かどうか誰が知るだろうか。しかし、義務の普遍的区分が、次のような正しい区分であることは不可能である。すなわち普遍的でもなければ、個人によって実現されることもできない状態と関係しているような区分である。従ってまた、一方では、職業の区分における恣意性が、他方においては、この偶然的で変化するものに対して、本質的で不変なもの、すなわち人間の自然的立場が、同種の構成要素として立てられる不自然なあり方が、十分に間違いを生み出す。他の区分、すなわち制約された義務と、無制約な義務という区分は、先述した古い義務区分、自分に対する義務と他者に対する義務という区分の別名で、内容的には同一である。なぜならその他の点では同一であるすべてのものが、そのような仕方で二つの部分に分けられるからである。しかし、この区分の不当性は、他のどこよりも、フィヒテが公言した原則によって明らかである。しかるべきように前置きされることなく、ほとんど付随的に次のことが後から送られるのである。すなわち、理性の目的と命令の本来的対象は、常に理性的存在者の共有財産でなければならないと。したがって、私がこの目的や命令を私自身において満たすか、それとも他者において満たすかということには全体を分かつような本質的な差異はない。せいぜいそれによって、この両者の場合で、各義務の領域で各人によって成し遂げられるべきものの異なった度合が定立されえるに過ぎない。これに従ってまた、その(フィヒテの)原則の観点から見れば、制約された義務と無制約の義務が、詳細に両者の比較を行おうとする人すべてが同じものを見るほどに、常に同じものとしていよいよ現れることになる。なぜなら、境界規定に差異があるところでは、一半分は他の半分によって確かに正されるからであり、最初に調整されるべき個々の移動は、誰の目にもとまるからである。しかし、〈148〉その区分を観察して、この道徳の教師(フィヒテ)に帰せられるべき長所は次の点にある。すなわち、彼においては、この区分の無であることが、その使用自体から非常にはっきりと明るみに出され、その欠陥が無邪気に示されていることである。

              したがって、既にここからだけ推測することができたように、彼(フィヒテ)には、他のよりよい区分の萌芽が見られる。なぜなら、個々のものをより厳密に見る者は、どの区分にも、彼の自我性の主観的諸条件のこれやあれやに関係する義務を見出すからである。その結果、すべて彼の義務は、普遍的なものも特殊なものも、制約されたものも、無制約なものも、すべて、あるものは身体に、あるものは知性に、あるものは個性の意識に関係する。それはすなわち、自由な存在の多数性の承認に関係する。この最後の区分は、もちろん、あるものはなおざりにされ、あるものは不自然に切り刻まれるが、しかし、それは単にかき混ぜているに過ぎない。なぜなら、その部分は、前者の最高の区分の根拠として破り取られたからである。前者の上位の区分が、非合法的であるとして脱落する場合は、後者が自ずから最高の区分に持ち上がる。そして、これは正しいものの唯一の痕跡になることを欲するが、その痕跡は、従来の義務の諸区分において出会われるべきである。なぜなら、法則がそこにおいて自らを表現すべきものが、自らここにおいて、見出された−どこからであろうと私たちにとっては問題ではない−その本質的な特徴に従って区分されるからである。従ってこの区分は本質的根拠を持っており、単に義務の概念を決して無にしたりゆがめたりすることがないばかりでなく、見出されたものが正しく見出されたと前提するなら、いつか、倫理学との関係を通して、最高の学問と共に、真であることが証明されるのである。しかし、注目すべきことは、ここでもまたフィヒテの倫理学は、古代ストア派との類似性を保持していることである。すなわち、私たちが、キケロによってかなり歪曲されて伝えられたパナイティオスから〈149〉総じてこの学派(ストア)を推し量ることがゆるされるなら、初期と後期ストア派の差異に関わらないすべてにおいて、そこにもまた同様なよりよい萌芽と、隠された同じような誤謬があるのを見出す。なぜなら、周知のように、この学派は、義務を先ず四つの主要な徳に分けた。すなわち、賢明と節制、勇気と正義の義務で、これは既に上で別の折に非難された、論争の余地なく悪意に満ちた混乱である。しかし、この区分の背後にやがてもうひとつ別の区分が現れる。それは三つの部分と関係しているのだが、キケロが言うように−これは混乱を倍加するのだが−そこにおいてあらゆる徳が−彼はあらゆる義務と自然適合性というべきであったが−、存在しているのである。すなわち、認識の訓練、肉体を服従させること、理性の下にある自然衝動、そして共同体の維持である。このようなものは、内容についても、義務概念に対する関係についても、正にフィヒテにおいて見出されるものと全く同じであり、このことは既に言われたことでいまさら繰り返す必要はない。この立場が一度取られるならば、温厚寛大に吟味する者は、ついにはカントにおいても形式に従えば似た痕跡を見出すことができる。しかしながらあらゆる点において先の二者のはるか下においてではあるが。というのは、彼は人間性を決して考慮に入れようとしなかったので、既に示されたように、彼にとって、加工のために道徳的なものの前に提出されているものとしては、あらゆる格率の総体以外にはなかった。これ(格率の総体)は、当然のことながらただ区分されることだけが許される現実的な内容としてではなく、そこからいくつかが選ばれる生の素材として、他の場合には投げ捨てられるものである。格率の総体を彼は、ただ二つの目的にしたがって分けることしか知らなかったが、その目的を彼は、それらが道徳性を表現するべきである限り、拒否するのだが、生の素材を特徴付ける為には全く有用であることを発見する。その目的とはすなわち、幸福と完全性である。もちろんそこには、正しい思考の痕跡以外賞賛すべきものはない。しかし、いかに恣意的かつ不当に〈150〉自分の幸福と疎遠な完全性とが除外されるかということは、誰に対しても自ずから明らかでなければならない。なぜなら、要素から全体を構築する場合、幸福全体は、理性の目的と命令として現れる。そして、そこに要件を区分するフィヒテの規則を適用するなら、すべてを古いカント以前の秩序に戻すような交換以外には好都合なものは何も見出されない。同様に、とりわけカントに対しては、彼のとっぴな方法と、人間性についての彼独自な見解に助けられて、完全性という目的で、反対のことが示され得る。また、彼の小区分においても、〈完全性のあいまいな概念〉と〈幸福を慕う気持ちとそれを嫌悪する気持ちとの矛盾〉が十分明らかである。これらすべては、これまで言われたこととの結びつきで、暗示以上に十分明らかである。

              以上が従来なされてきた義務概念の区分であり、各自そこから、この概念が従来どの程度理解されてきたかを判断して欲しい。今や同様に徳概念について、それが何であり、それにより良い運命が与えられてきたのかどうかを考察する。

 

2)徳概念について

 

徳概念が、義務概念と同格に置かれるべきであり、倫理学のあらゆる叙述においてもそのように扱われていることは、誰も否定しないだろう。いくつかの体系においては明らかに、この概念は、複数の従属する個々の諸概念に共通の起源であるが、すべての体系において、これは独立かつ根源的なものとして現れ、自分と並ぶ他の概念−それによって徳概念が、他のもっと高次の概念の領域を同じ部分で満たすような−を持つことはない。ストア派が、この概念を個別的なものとして、善の概念に従属させたのは、おそらくこの種のものでは唯一の例外だが、これでさえ、詳しく〈151〉観察すれば、先の主張と矛盾しないことは明らかである。徳についての説明はすべて先ず次の点において一致している。すなわち、この言葉は何か全く内面的なもの、魂の性質、心情の確実さを意味しているということ、さらに、この確実さは道徳的な確実さであり、各人によって、倫理的イデーの内容を形作るものに関係させられている。そして、その際さしあたって、特殊よりも普遍に目が向けられるべきだということである。というのは、この概念は普遍的に流布していたが、それが先ず属するところの特殊な形式は、至る所で等しく認められてはいないし、周知されてもいない。従って、ただ一般的に〈徳は魂の最善の性質である。もっと正確に言うならば、それによってすべての義務が満たされるような性質であり、あるいは、その性質によって最高善をもたらすような性質である〉と言われるだけならば、結果として同じ意味が生じる。それゆえ、徳概念は、最も本来的な意味では、倫理的イデーの最初の特殊な姿でもなければ、最後のそれでもない。義務概念を賢者の理想や最高善の理想に、また善の概念を前者(賢者の理想)や法則に関係させることが可能であり、その場合、それらがどのように立てられたかという詳しい関係が、再び解消されることはない。それと同じように、徳概念が、力と心情を表し、それらを通して、正しい行為や働きがもたらされるのであれば、その概念は、最も普遍的な道徳的概念であり、賢者の理想に対応している。なぜなら、賢者とは、その人において、道徳的力と心情が絶え間なく排他的に作用しているような人であり、それら(道徳的力と心情)を通して実現可能なものすべてをもたらす人以外の何者でもないからである。しかし、他方で徳が善とも呼ばれているということが、正当に起こり得るのは、徳が同時に産出されたもので、活動自体を通して強められ確かなものとされること、またしるしよりも行為や働きを通して自らを現す直観的なものであるということに他ならない。それによってはじめて〈152〉善悪の概念において、さらに行動されることが可能となるのである。したがって、義務に対する徳の関係、あるいは行為に対する心の態度の関係は、法則のイデーに対する賢者のイデーの関係と同じであり、すなわち、形式−それを通して力は表現されねばならないのだが−に対する力の関係と同じである。上で、義務を徳から区別する為に、義務概念に属するものに対しては合法性という特徴が提示されたように、徳概念に対しては、道徳性という特徴が提示され、多くの場合いかにその真の意味が犯されているかが示され、一つに統一されているべきものが、分離された。同様に、ここでも似たような誤解が解かれねばならない。すなわち、多くの人は、概念の内面性を最も強く示唆するために、それを(表面的な)言葉と全く対立させた。そして、言葉を思考に対してそこから引き離したばかりでなく、両者を現実において分離可能なものとして表象した。あたかも言葉は心の態度に対して偶然的なものに過ぎず、どうでもよいものであるかのように。しかしながら、両者は現実には離れることのないものである。なぜなら、内的なものとしての心の態度を、外的なものとしての行為から区別する為に、すべての特定の働きを無視して次のように言うことは可能である。すなわち〈心の態度がそのような行為をなすことができたというような事例がたとえ現れなくとも、心の態度は同一の心の態度であり、同じ価値を持っている〉と言うことは可能である。しかし、すべての働き事態を無視し、心の態度は全く内的に存在することが可能であるなどと考えることはできない。しかしながら、心の態度は、その能力はなくとも何かを実現し、もたらすことを欲し、努力するのではあるが。なぜなら、このようなことを主張することは、概念を何か区別したり際立たせたりすることではなく、むしろ無にすることであり、それはすなわち、何もしないような活動は存在しないからである。少なくとも正にこの事例においては、そして道徳的な心の態度によって、これは確信をもって言われ得るのである。なぜなら、この心の態度は、ある特定の対象−その対象に対してのみこの心の態度を要求する義務があるのだが−に依存すべきではなく、イデーに関係すべきである。そのイデーに対してはすべてが〈153〉対象である。然り、全体において一つと見なされる道徳的心の態度に対してのみでなく、すべての個々の心の態度に対しても、それは妥当しなければならないし、それ以上に次のようなしるしでなければならない。すなわち、概念が正しく形成されているかどうか、そしてすべての徳があらゆる瞬間に何かを実現しなければならないということを通して、全体の真の部分が現されているかどうか(というしるしでなければならない)。従って、この場所から、〈完全な行為にはすべてあらゆる徳が働いている〉というあのストア派の格言が、義務と徳との差異と結びつきの正しい表現として、真であることが証明される。なぜなら、賢者によってあらゆる瞬間になされたり、なされなかったり、排除されたりしたもののみが、その瞬間の義務であり完全な行為だからである。従ってどの瞬間にもそのような(義務/完全な行為)が存在し、すべての徳が常に有効であり得なければならない。そして、対象や機会の欠如から、活動せずに見を隠したり、姿を消してしまうようなことは不要である。さらに、徳の概念が、道徳的なもの一般を特徴付けるべきであるなら、すべての現実的な行為が、義務に対する関係において、それ(義務)に従ったり逆らったりしたように、ここでも、すべての力や心の態度−そこから行為は生じるのだが−善か悪かのどちらかであり、それはすなわち徳に従うか逆らうかのどちらかである。学問としての倫理学は破壊されるべきでないなら、道徳的領域の外部に現実的行為が認められるべきではないように、行為の源泉も認められるべきではない。しかし、これに対して、大部分の人は二重の過ちを犯す。すなわち、彼らは先ず内的な行為する力を仮定するが、それは道徳的なものと無関係な為に善でも悪でもないはずである。それから、彼らはまた道徳的なものを定立し、その道徳的なものとの関係を魂の中に定立するが、それは力でもなければ心の態度でもないので、それは徳でもなければ悪徳でもないはずである。前者に関して多くの人の主張するところによれば、快楽と愛、愛着と嫌悪があり得るが、そのような情感の動きは、確かに至るところで〈154〉意思と関係しているが、それゆえそれは道徳的ではあり得ない。なぜならその対象は大して重要でないからである。しかし、上で義務において言われたように、道徳的イデーと外的行為との間には直接的関係は生じない。したがってまたそのイデーと外的対象との間にも生じない。そうではなく、この対象が関係させられるところの内的関係を介してだけである。従って、対象の大きさはどこでも問題になり得ない。そうではなく、その対象への愛着や嫌悪の道徳的重要さは、その対象が関係している内的なものに依存し、その内的なものは常にただ倫理的イデーとの一致または反感において考えることができる。しかし、他の人々は、行為する力を道徳的判断から排除しようとする。なぜならそれは意志の力ではなく、悟性や他の能力の力だからだという。これは誤解であり、道徳的なものについての問いを、私たちの探求によって排除された自由についての問いに再びしてしまうような誤解である。すなわち、この力が生来のものまたは自然に備わったもの、つまり意思に依存しないということにその根拠が特に定められることによってそうなる。しかし、この誤解を解き、その閉鎖的な領域を避けることは非常に容易である。すなわち、その大小の範囲の起源やそれやあれやに決定された能力の方向性の起源が、ここでは直接には全く考慮されていないということが検討されるだけでよい。なぜならここで重要なのは能力ではなく、活動する力だからである。そして、この力は意思だけである。なぜなら能力はすべて意志を通してただ訓練と活動において定められるからである。そして、これが起こるあり方の根底にあるのは、意思の方向性と規定である。ここにおいてのみ、活動する力が、倫理的イデーと一致するかどうかがわかる。意思の方向性のみが倫理的実在だからである。実行する能力の範囲は、ただ結果を規定するが、その結果が先ず問われるのではない。〈155〉しかし、その方向性はそれ自体では無であり、ただ意思の方向性に依存する。これに反対して言われるべきことがあれば、それは、第1部において、慣習や習慣について言われたことを参照することによって論駁される。そこから各人が自ら、単純なここに属する結果を引き出せばよい。同じ状態は、もっとはっきりと、次のような第二の見解と共に現れる。すなわち、ある人々は、徳や悪徳なしに、情緒(Gemuet)において直接道徳的なものに関わることができるという。これに属するのは、カントが道徳性の美的前概念と呼んだ驚くべきもので、それはまた共同的なものに還元されるが、それは〈道徳的なものを対象となす悟性の大小の訓練〉及び、〈感情の区別や感情が動かされることにおける感情の敏感や鈍感さ〉以外の何者でもない。これに加えて、能力一般が、道徳的判断に服従すべきすべての人に帰せられねばならない。なぜなら、もし悟性と感情がそこにおいて働かず、そこに向けられないならば、内的なものであれ外的なものであれ、道徳的なものは成立できないからである。もし、徳が認識であるというなら、どんな思念が根底にあるのか。しかし重要なのは力の度合であり、活動である。従って、いかにこれが、直接的であれ間接的であれ、意思の方向性に依存するかは明らかである。なぜなら、意思がイデーに対応すると言われるなら、それによって言われていることは次のこと以外の何であろうか? すなわち、これが常に現在的で支配的であり、すべてがそれに関係させられるということである。そして、もしイデーがこの力を行使するならば、その意志はイデーに対応し、それに向けられているということに他ならない。それによって次のことは明らかである。すなわち、知覚に与えられたものにおいて、悟性と感情とが道徳的なものを特に捜し求め、正確に区別するかどうかということは、〈156〉決してこの能力に固有な性質に依存するのではなく、ただ倫理的イデ−に対する意志の関係に依存するということ、また、倫理的イデーが意志に及ぼす力に依存するということである。そしてこのことは、対立し、また一致する場合であるが、そこでは〈道徳的認識が、悟性によるか感情によるかとは無関係に、それ自身徳である〉と言うことができる。

              従って、これが徳概念の規定であり、この概念が倫理学の中にこの概念だけにふさわしい場所を持つべきであるなら、この規定のもとで徳概念は思考されねばならない。このような規定のもとで思考されるその概念は、しかし常にまだ形式的概念にとどまっており、その内容は倫理的イデ−の内容にはじめて期待されるということは、証明不要であろう。それゆえにこれまでもすべて、事例を挙げることなく裸のままの言葉で述べることができたのであった。今までのところ内容とは無関係であったので、その結果、どの倫理学も、その内容が何であれ、何かを徳として立てることができるのでなければならない。なぜなら、倫理学の真理性と適用可能性は次のことに掛かっているからである。すなわち、意志というものが、ただ全く倫理学の最上位のイデーとして考えられるということに。そして、このイデーに対して、どの体系においても何か他のものが、単なる自然衝動の定式のもとに対立させられ、その自然衝動には、それが単純なあるいは多層的なあり方であれ、道徳的意志とは別の意志が関係しえるのである。従ってエピクロスによれば、積極的な快楽を求める意志はすべて不道徳的であり、ひたすら静穏に向けられた意志のみが道徳的である。しかしアリスティッポスによれば、単なる活動の為に自らを規定するような、あるいは、静かな動きや戻ってくる感覚に注意することなく、何らかのイデーを偏愛して運動するような意志も不道徳的であり、道徳的な意志とは、真の快楽だけを常に至るところで形成し、所有しようと努める意志である。これ以上注意を喚起することなしに、次のことは明らかである。すなわち、この種の倫理学の最小限の叙述において、〈157〉徳の概念は、固有なイデーに仕込まれ、そうして道徳的なものを、個々に詳細に書き留めているということである。今引用された幸福主義的倫理学の体系は、自分の徳を提示する代わりに、ただ疎遠な徳を、それぞれの原則に従ってより分けることに満足している。しかし、これが意味しているのは、概念を立てることは全くないということである。なぜなら、このように他の場所から受け入れられたものは、自分のものとただ偶然に一致できるだけだからである。そして、多様なもの、偶然かき集められたものとしてではなく、一つの、本質的なものとして、その心の態度は自らを示すべきである。アリスティッポスの単純で純粋な叙述に関しては、これについての責任は、彼のイデーの固有な内容にではなく、ほとんど彼自身に対する非学問的な悪徳の残滓の責任である。この羞恥心が、そのようにして見出された道徳的なものを、普遍的に妥当する法的なものと矛盾するように立てることを拒むのである。ここにおいて彼の前にすでに少なからず生じ、彼もまた個々には、自分の考えを十分明らかにしているにもかかわらず。しかし、エピクロスは、その一つの間接的な叙述を、他の叙述と取り違えたに過ぎない。なぜなら、既に言及されたように、彼は、その道徳性が制限された種類のものである人々の仲間だからであり、そこでは、徳概念をそれ自体独立したものとして叙述することは当然困難だからである。というのは、倫理的イデー自体が、独自な仕方で自分から生を形成せず、ただ否定的な性質を持つだけであるなら、そのイデーにふさわしい心の態度も、それ自体で自発的なものとして叙述されることはできず、そのイデーを抑制し、支配すべきものを介して叙述されるに過ぎない。従ってまた、そのような性質を持ったどの倫理学にも、徳概念に従った論じ方は無縁であり、特に、義務概念に従った論じ方だけは、当然である。このことをはっきりと感じ、厳密に観察することは、フィヒテだけによって、大きな長所として賞賛されることが可能である。これに対してカントは、不正にも、自分の叙述を徳の教説(Tugendlehre)と呼んだ。そこにおいておよそ実在的なものは、義務概念に過ぎないからである。そして、彼は、徳については、ただ正反対のもの、すなわち悪徳だけを使用することが〈158〉できた。このことは義務に対立して際立って驚くべきことのように見えるが、しかし、至るところで一人の人や一つのものが、多くに対応することによって、諸概念が同質でないことに注意をする機会が存在する。徳自体に関しては、しかし、彼は至るところで困窮している。徳は彼において、またこの種のすべての人々において、戦いの中にある。すなわち、単にそれによって道徳的な心の態度の不完全性が表現されたり、それと並んで、徳が克服しなければならない別のものが存在しているというばかりでなく、徳が、他の動因なしには全く思考され得ないということ、その動因をある場合にはすべて、ある場合には部分的に破壊することが、徳の唯一の仕事を形作っているということは、徳の何か本質的なものである。しかし、ストア派が、上で見たように、同じような状態にあっても、あらゆる古代の人々の中で最も詳細に徳概念を扱ったということは、彼らの倫理学の性質よりも、彼らの哲学的弁証的感覚に帰せられるべきである。このことは次のことによっても十分証明される。すなわち、彼らにおいて見出されるおよそ真実で正しいものは、彼ら自身が立てて呈示するものにおいてよりも、彼らが他の人々と論争して呈示するものにあるからである。すでに、彼らが徳に対立する心の態度を、理性に服従しない欲求として描き、徳自体を認識として描く時、上でこれについて言われたことにもかかわらず、誰もが次のことを見て取らねばならない。すなわち、彼らには、両方の心の態度間の本来的対立は失われており、彼らはただ同一の欲求を知るに過ぎない。ただ、理性がその上に立てる規則の実践的な知識をある時は伴い、ある時は伴わないという違いに過ぎない。したがって、彼らが徳を認識と呼ぶ場合の意味は、プラトンが同じ事を主張する場合の意味とはっきり区別されねばならない。なぜなら、プラトンが、彼の間接的な教え方によって示そうと欲したことは、ただ次のことだけだからである。すなわち、道徳的心の態度は、イデーを目指す。従ってそれは、正しい考えとして発展しなくとも、あるいは、現実の認識として発展しようと、イデーの意識と不可分である(ということだけだからである)。〈159〉しかし、ストア派が示そうと欲したことは次のことである。その心の態度は、自らを表現する為に、その心の態度には未知の前もって与えられた欲求を必要とする。その欲求を、心の態度は、規則に従って取り扱う(ということである)。したがって、ストア派による徳の説明は、一部は、選ばれるべきもの、または善−それは再び徳であるのだが−に再帰し、従って堂々巡りになるか、また一部は、全く形式的で、ただ論争的な価値しかもたない、ちょうど生全体における一致についての説明のような、あるいは、「道徳的な心の態度は、その性質に従って過剰を許容しないような心の態度である」と言うアリストテレスの説明に対立して立てられた説明である。なぜなら、アリストテレスによって与えられた説明は、仮にそれがカントと同じ程度でなされることなく、彼の言う理由によって退けられることはないにしても、賞賛されることはできないからである。なぜなら、それは同様に、表面的な現象に基礎付けられた間接的説明に過ぎないからである。すなわち、道徳的な心の態度から生じる行動はすべて、一つの対象を持っているが、それは同時にまた何らかの傾向性の対象でもある。したがって、その心の態度は、表面的な結果に従えば、この傾向性によってもたらされたものとある程度一致しなければならない。この程度が、常に両方の側に対して傾向性の極限と思われるものの中間にあるということは、アリストテレスのような経験主義者に全くふさわしい。同じことを、理性と非理性的衝動の一致についての彼の別の説明は語っているが、その説明は、同様に、彼がそれ自体において全く統一として認識したものを、次のように描いている。すなわち、それは現象においては二重性を持ったものとして分解すると。このような全く非学問的な概念の説明や構成が、個々の概念やその規定に対してどのような結果を持つことになるか、これを以下に示さねばならない。なぜなら、アリストテレスは徳を、形式的には分けなかった、少なくとも、原理に従って分けることはしなかったからである。ここで示されねばならないのはただ次のことである。彼は、〈道徳性そのものが否定的なもの〉とするような人々に属さなかったにもかかわらず、〈160〉道徳的心の態度についての彼の説明において、いかに彼がそのような人々に接近しているかということである。というのは、すなわち彼にとって、そのような心の態度の内的本質は常に、ある未知の大きさであり、彼を注意深く追跡する者は、それについて、多くの罪なき合図、然り、明白な告白に出くわすだろう。したがって、現在あるものの中で、ただ次のようなものだけが、純粋で信頼できる徳概念になることができるように思われる。すなわち、それが快楽であれ活動であれ、それに対して、道徳的なものが、単純な実在を、それ自体で把握されるものを表象するようなものである。完全性のありふれた最近の信奉者には、この単純なものは認められないので、ここでもまたアリスティッポス、プラトン、そしてスピノザに帰らねばならない。

              これまで、徳概念を規定する仕方について言われたことには、この概念が様々な人によって区分される常の仕方の詳細な観察による確証がまだ欠けている。私たちがここで先ず、次のような人々に、すなわち、徳が前もって与えられた他の欲求に関係しているような人々に注意を向けるならば、次のことは明らかである。すなわち、そのような人々にとって、従属する個々の諸概念を形成する規則として残るのは、徳が関係するような個々の概念の観察以外にないということである。それによって、徳は、徳の到来によってはじめて道徳的になったり、それが滞ることによって不道徳的になったりする生の欲求と同じように区分されねばならない。しかし、ここでもまた、そのような仕方で徳が区分されたということは言われ得ない。なぜなら、制限されたものだけが、そのように多様なもの(ein Vielfaches)として描かれるのであって、制限するものはそうではないからである。そして、徳の何らかのあり方または一部が、この場合に同じものを遂行し、別のあり方が、同じものを、別の場合に遂行するということは、示され得ない。しかし、この区分に関して、徳がふさわしい人々にはほとんどその痕跡が見出されない。そうではなく、むしろ、この耐え得る規定が決して適用され得ず、不道徳的なものに従って道徳的な心の態度が区分される場合のような声望をそれは獲得する。〈161〉その不道徳的なものとは、それが、欲求や興奮、あるいは激情などどんな名で呼ばれようと、徳に対立して立てられる。このことは、アリストテレスの方法に限って言えば、それほど不合理ではない。しかし、これをも十分に彼の弱点によってあらわしている。その傾向性自身は、欲求や嫌悪が対象に関係させられるような様々なあり方−このためにスピノザは、ストア派と似てはいるが、もっと規則的に、賞賛すべき試みをなしたのだが−によって区分されるのではなく、特定の対象、例えば、満足、富、名誉といった一般によく知られた三つの対象によって区分されるならば、これらは既に、傾向性自身に対して、特定のものではない。そして、それらがそれによって自らを区別するものは、欲求や嫌悪とは全く結びついていない。プリズムで分解された立体が、一平面の均一な運動によって、直線に沿って成立したものと説明されることによって、この立体を区分しようと欲するように、この平面が、三角か四角か、あるいはその他の形であるかによって、それは、成立したものの性質にとっては、学問的な観察において、少なくとも本質的ではない。同様に、ここでもまた、自然的傾向性の学問的観察にとっては本質的で華句、偶然的に過ぎない差異が立てられる。まして徳の観察にとっては、はるかに偶然的である。なぜなら、たとえ、それら傾向性がより理性的な仕方で区分されるとしても、徳は、それら(傾向性)に適った仕方で分けられることはできないからである。すなわち、人が徳を、先ず、道徳的イデーとは別のものに向かう傾向性の無い状態と見なすならば、その限り徳は、傾向性が向かっている多様なものや固有なものによって区分されることは不可能である。あるいは次のことは賛同を得ることができるだろうか? すなわち、闇を区分することは、闇が光の欠如である限り、それゆえに、光は現象においては同一ではないから、赤い光や青い光を奪うことによって、その他の点では、〈162〉プリズムで分解された光線のように、分けられる(ということは賛同を得られるだろうか?)しかし、人が徳を対立する傾向性との抗争にあるものと見るならば、このような状態は、徳の本質ではなく、一時的な状態である。なぜなら賢者における徳の完全性においては、徳は抗争なきものとして表象されねばならないからである。しかし、また、様々な傾向性は徳に対してその種類に従ってではなく、ただ大きさに従って様々であるに過ぎない。というのは、ある一つの情緒(Gemuet)において、道徳的な心の態度は、容易に力強くこの傾向性を克服し、また別の情緒においては、あの傾向性を克服するというようなことは、それは何か、他の徳との抗争に対応しているような徳のあり方や姿をそれが所有しているということを理由に導き出すことはできない。そうではなく、ある情緒においては、この傾向性が、またある情緒においては別の傾向性が、より弱い傾向性であるということから導き出されるのである。このことは非常に明白であるので、それをここから示すことは余計なことである。なぜなら、そうでなければ、すべての傾向性に対してのみならず、そのすべての対象に対しても、独自な徳のあり方が対応していなければならないからで、その結果、単に共同的な徳がよい趣味への傾向性に対置させられるのみならず、どの魅するもの、享受可能なものに対しても、特殊な徳が対置させられることになり、すべて残りのものにおいてそのようになる。もしこれがさらに続くならば、誰にも不合理と思われるような点が間違いなく生じる。そして、それは、この方法の絶滅に同意し、その結果、同一の格言によって、すべて以前の要素が滅せられ、徳は、それらがいかに多様であろうとも、すべての傾向性と対立関係にある一つ傾向性としてそこにあるに過ぎなくなる。大局的に見れば、このような区分が許されないことも、次のことから生じる。すなわち、それが決して倫理的イデ−の何らかの特殊な内容に基づくものではないにもかかわらず、それは、すべての対立する体系から見れば、他の体系に対して不合理に見えるのである。アリスティッポスの帰結が、しばしば言及された仕方で幸福主義において完成されたと仮定してみよ。その時には、この体系と、純粋に活動的な体系において、道徳的なものと不道徳的なものとは、名称が交換されただけで、全く同じものである。徳の区分が可能なのは、ただ徳でないものが自ずから区分されるその仕方によるとするなら、一方の体系においては、活動的な〈163〉心の態度は、その区分を快楽から借りなければならず、他の体系においては、反対に、快楽が、活動的な心の態度から、自らの区分を借用しなければならないのである。その結果、両者のいずれも、他方によって区分されることができないか、または、それができるとするなら、どちらも自らを内的根拠によって区分することが可能でなければならない。この誤謬の純粋さのゆえに、スピノザ以上に称えられるべき倫理家はいない。彼は、道徳的力と他の力とを、ただ完全性と不完全性として区別し、他の誰よりも巧みに、不道徳的な傾向性を区分したのだが、同じ区分を道徳的なものにも移し変え、道徳的なものと不道徳的なものとを個々に対置させることは、理性的に差し控えたのだった。

              *さらに私たちが次のような区分に目を向けるならば、すなわち、前提された道徳的内容がその根底にあるような区分、つまり、他の諸区分が、何ら固有なもの完全なものを遂行しなかったゆえに、道徳的なものを、所有と享受との対立において、行為と存在の中に定立するような区分に目を向けるならば、完全性をその形式に選んだすべての人において、精神的な力が区分されるような仕方に従って、徳の区分が広まっているのが示される。すなわち、悟性と意志の徳であり、あるいは、表象能力と欲求能力の徳、あるいは、その他、このような区別が常に暗示される魂の教説においてのようにである。このような区分に関して言えば、魂における他のすべてのものに対する意志の関係について既に言われたことへの関係が考慮されるべきである。意志によって何が区別されたか、倫理学においていかにすべてはただ意志に関係付けられることが可能でありその徳として現れることが可能であったことか。従って、アリストテレスや他の古代に人々が、認識能力のよりよいあるいはより悪い状態を、それが意志から切り離されて考察され得る限りは、倫理学の外の置いたことは正しかったのである。そこでもし、上記に従って、道徳的あるいは不道徳的心の態度が、それを私たちは魂の能力と呼ぶのだが、活動の中に定立され、そして、それらに〈164〉範囲と方向性とが決まるならば、単に、区分の名称が不合理に選ばれるのみならず、その根拠も無となるだろう。それはあたかも、光を区分するのに、光がそれによって動かされる主要な素材によってなしたり、あるいは、技法を区分するのに、技法がその役に立つような道具によってなすようなものである。しかし、もし他のすべてを意思の統一に還元することが中止され、精神の何らかの能力が、自分が規定されているように規定している心の態度に、目が向けられなくなるならば、その時には、悪徳と関係し、悪徳と一緒に一つの根拠から生じる徳が成立する。これは、道徳性とその対象とが至るところで何かであるべきならば、上で非難された義務の抗争以上に悪くなる可能性があり、いずれにせよ、概念の深刻な混乱のしるしである。したがって、人は、時として、悪しき心の態度と一致可能な完全な悟性について、また、悟性の弱さと結びついた善良な心について語られるのを耳にするのである。しかし、もし道徳的な心の態度が、悟性を必要とする所で、それを駆り立てることができないならば、そのような心の態度は、弱くならざるを得ず、そして、道徳的とは真に証明されないような善良な心において示されるに違いない。そして、もし直接的な行為において、不道徳的な心の態度が、支配的に自らを示すのであれば、そのような心の態度は、悟性の訓練と活動の根底にある意欲の系をも支配しただろう。その結果、いわゆる完全性とは、倫理的に見るならば、不道徳的な心の態度の強さと完全性以外の何者でもなくなる。そして、たとえ誰かが、同一の悟性が道徳的なものを一層完成させ、徳に役立つことができると反論したとしても、それは何も語っていない。なぜなら、その悟性は意欲を通して、意欲の為にということを他にして何も成し遂げることはないが、その意欲を通して、その意欲の為に、悟性は存在するのだからである。然り、次のことは、困難に思われる命題として主張され得る。すなわち、心の態度がひっくり返ることが可能であると仮定して、その場合、認識能力の新たな訓練と姿も、同じ巧みさでその新しい心の態度に役立てることよりも、先行しなければならない。〈165〉このことは、しかし、ここには属さない。この事柄自体は、しかし、ストア派が所有しているところである。他ならぬ誤謬から自由ではなかったが、次のような主張によって、非常によく表現されているのである。すなわち、賢者のみが、真理において、技法と学問の友であり達人であり得る(という主張である)。これが言いたいのは次のことである。この完全性は、それが、道徳的心の態度を通して、その真の範囲において委託され、引き起こされ、従ってまたその内部に閉じ込められている限りは、倫理的に見るならば、単に名称のみを享受しているに過ぎない。

              *さらに同じ叙述において、義務と同様に徳も、目的と対象に従って区分される。前者(目的による区分)を主張するのはカントだが、正確な詳述ではなく、混乱が伴っている。すなわち、彼は次のように言う。「徳は一つだが、理性が命じる様々な目的に応じて、複数の徳が区別可能である」と。しかし、こう言うことによって、彼の弁証法的悟性のあらゆる痕跡は消滅してしまうのである。なぜなら、どの目的の下にも、もう一つ別の独自な心の態度が置かれねばならないということが欠如する限り、むしろ、多くの表面的なものに対して同一の内的なものが根底にあるものとして明らかになることによって、目的が多数であることによってのみ、その心の態度は認識され得るからである。しかし後者(対象による区別)は、徳が、義務において以前そうであったように、社交的な徳と、自分自身を考慮する徳とに区分される場合、もっとうまくいくかと言うとそうではない。なぜなら、共感的な体系においては、善を欲する衝動も、利己的な衝動も、それ自体は道徳的ではなく、道徳的なのは均衡状態だけである。したがって、この心の態度が道徳的であるのは、ただこの差異が止揚された場合に限られる。しかし、実践的な体系においては、どの人もただ理性的共同体の一員である場合に限って道徳的なものの対象である。したがって、心の態度が道徳的であるのも、この差異が生じない場合に限られる。したがって、両者において、この区分は、アリストテレスの区分に似て、〈166〉見かけだけであるか、または他の区分のように、対立によるかである。なぜなら、利己的であり社交的でもある傾向性について、両者とも語るからである。また次のように問うことも可能である。いったい人は、人の多数性を、それを求める衝動によるのでないとしたら、どのようにしてそれを見出し承認するのか、したがって、それによって両者が再び同一の徳に変わることができるような、社交的な徳が、徳の対象以前に存在しているのではないかと(と問うことができる)。しかし、スピノザもこの差異を把握しており、自分の徳を剛毅さと高潔さとに区分しているということは、少なくとも次のことをはっきりと意識して行われている。すなわち、この区分が表面的な区分に過ぎないということ、そして、その徳は、このような仕方で、二つのそれ自体として異なった心の態度に分解できないということである。したがって、人は彼について、彼は倫理的感覚の欠如によってそれへと駆り立てられていると言うことはできず、ただ修辞的な意図によってなされているの過ぎないのである。しかしながら、彼が最後に投げかけられた問いに答え、倫理的心の態度の根が、そこまで掘り起こされた時、そこには、同じ方法を求める衝動も根を張り、その体系は、そのために、一つの全く骨の折れることの無い道をはっきりと示していたが、この意図を彼は、必然的に追求しなければならなかったわけではなかった。これに対して、プラトンは、可能な限り強力に、この区別への反対を表明したが、彼は、社交的徳の頂点に常に置かれる正義において、行為者自身に自らを関係させる同じ心の態度を求めることによってそれをした。この道における徳の不可分性を十分はっきりと示す為に、その試みには、まだ他の半分が欠けている、すなわち、行為者自身に自らを関係させる心の態度を、社交的な、最大限の普遍性に拡大するということが欠けている。最後に、なお幾人かの人々は、最近の諸区分に疑問を抱きつつ、あの通常のヘレニズムの倫理学の四つの主要な徳が依拠した分割根拠を探求したが、これはただ次の場合にのみ、学問的に使用することが可能である。すなわち、先ず、〈167〉これらの徳自体の意味が、従来よりも厳密に吟味された場合である。そこでガルヴェが先ず考えたことは、そこでは四種類の自然な情緒のあり方の知覚が根底にあり、このことは、既に観察された徳の区分である粗野な欲求や衝動による徳区分を引き合いにだすということであった。その場合、再び、それらの欲求衝動は、人間が最高のポテンツとして自らにおいて統一する存在の様々な段階に関わるが、このことは全くヘレニズム的ではないが、ある点では、人が予想する以上にスピノザ的である。それにもかかわらず、これは全く倫理的ではない。なぜなら、自分自身に対してだけ活動的と考えられるような存在のより低い段階に対応している心の態度が、完全性の性格を自らに持つことは不可能だからである。そして、ただそのような心の態度にふさわしくかつて行動したものは、賢者であることはできない。したがって、すべてその他のものは、それ自体徳であることはなく、ただ最高の徳の部分に過ぎないか、最高の徳に従属するかであり、それ自体は全く道徳的な特質ではない。

              したがって、徳概念に関しては、これまで言われたことから明らかなように、子尾の概念もまた大抵はふさわしく展開していないし、常に正しい方法で用いられてもいない。しかし、特に明らかなことは、この概念が今日に至るまであらゆる区分を拒んでいるように見えることであり、このことは、前もって、多くの至るところで現れた個々の特殊な徳について、有効な考えを引き起こしていない。

 

3)善悪概念について

 

              あらゆる倫理的概念の中で、研究上最も困難なのが善悪概念である。なぜなら最近の倫理学がこれを全く軽視し、この概念がとにかく存在するというだけで、それ以上の言及はほとんどどこにも見られないのみならず、古代の倫理学においても、この概念が自らを叙述している明晰さは、これをめぐってなされた多くの研究と無関係な状態にあるからである。〈168〉それにもかかわらず、次のことはそれ自体として明らかである。すなわち、この概念が、先の概念(義務と徳)の下でまとめられたものに対して、空虚な名称であるべきではなく、また倫理学の外に置かれたもの、つまり、道徳的なものをその目的としてもたらしたり維持したりする為の手段に過ぎないものを意味するのでもなく、この概念(善悪)が、昔からそうであるように、学問自体の中に自分の場所を主張すべきであるとするなら、この概念は、すでに私たちの間でこの名称が暗示しているように、さらに残っている第三の倫理的イデ−の姿、すなわち最高善に関係しなければならない。つまり、先の二つの概念(義務と徳)が、それぞれのイデー(法則と賢者)に、ちょうど要素が全体に対して、個が総体に対して、その下に包括されるように関係したようにである。しかし、最高善は、倫理的イデ−によって産出され得るものの総体として自らを示した。この産出は、もちろん一般的な表徴に過ぎず、より詳しい規定によって各体系において区別することが可能である。すなわち一方の体系においては、神に対する世界のような、他方の体系においては、思想に対する言語、または植物に対する果実のような、産出するものに対する関係である。したがって、ひとつの善であるべきものは、そのような仕方で産出された個々のもののような状態でなければならず、義務や徳とは別の倫理的統一でなければならない。そして、善の概念が意図されたのはこの意味においてであることは、容易にわかる。なぜなら、なぜなら、徳もまた一つの善と呼ばれるような場合は、前にすでに暫定的に説明された。そして義務という別の概念は、決してこれと混同されることはなかった。しかし、先の二者に対して、この新たな統一がどのような関係にあるべきなのか、そして、先に二者に対して第三の統一が起こることが可能であるのかどうかは、今詳しく検討されねばならない。なぜなら、至るところで、産出されたものが、産出する力や、産出の行為に対して、第三のものとなっているように見えるからである。そして、多くの行為が一つの力に属するように、多くの行為が、それによって産出されたものが成立するように要求され得るからである。〈169〉あるいは、一つの行為が、同時に団体において作用するものとして、多くの力に還元されえなければならないように、各行為は、複数の産出されるべきものを共同して目指すということから説明されることが可能でなければならない。しかし、道徳的なものへの関係においては、これは独自な困難に投げ込まれるように思われ、私たちは突如として、道徳的なものの形式とその質料についての古代の論争に再び投げ込まれる。この仮象から直ちに遠ざかる為には、先ず一般に次のことが思い出されねばならない。すなわち、善に対する義務の関係は、行為は手段に過ぎず、作品あるいは産出されたものが最終目的であるというように考えられるべきである。このことは先にすでに倫理学の性質と調和しないと説明された。倫理学においてはすべてが直接的に、それ自身のために存在しなければならないからである。むしろこれは次のことの確かなしるしである。すなわち、倫理学というものは、もしそれが他の独自な仕方でこの二つの概念を互いに関係させることができなければ、矛盾から自由ではあり得ないということのしるしである。あるいは、それができるとしても、それを成し遂げなければ、倫理学は自らを適切に理解し、形成しているとはいえないということが生じるのである。したがって、形式主義的な倫理学も、少なくともこの点からは、この概念に疑義を呈することはできない。同様に、正に形式主義の倫理学が望んだ次のような主張、すなわち〈義務は、善を産出するには不十分である〉と考えることも許されない。なぜならそのような事態によって、先の二つの概念の一方の事態によってと同じように、倫理的であることが止んでしまうからである。次のことは一般的にも保護されて前提されるべきである。すなわち、この状況の真の特質、そして、観察されるべき概念の意味は、個々の互いに異なった倫理学の叙述に対する関係においてのみ正確に観察可能だということである。

              先ず幸福主義的倫理学に関しては、すでに第一部で示されたように、それは準備的で、単に媒介的な行為無しで済ますことはできない。そして、持ち上がるべきでない欠点が、ここからこの倫理学に生じる。さらに次のことも記憶にとどめられるべきである。すなわち、この倫理学にとって最高善は単なる集積物以外ではあり得ないので、その結果、この見解に従えば、個々の善は、そのイデー(最高善)に対して、例えば法則のイデーに対して義務がそうであるようには有機的要素では決してない。またそれら個々の善は、完全ではなく、ただ接近によってイデーに一致するに過ぎない。したがって、その可能性はこの意味でも、最善の幸福主義的学派によって拒否された。しかし、問題が、善の概念がその真の意味で立てられたかどうかということに過ぎないのであれば、私たちは以上のことについて大目に見なければならない。なぜなら、イデーに対するその関係は、その制限された特質によって取り去られはしないからである。もし人がただ次のような行為にのみ目を向けるならば、すなわち、先ず準備にあたったり、手段を案出したりする行為ではなく、直接快楽の産出に携わるような行為に目を向けるならば、明らかに示されることは、それがいかにその完成に近く観察されるかであり、産出されたものとしての快楽自体と常に区別され得ることである。しかし、それは決して快楽に対して全く無縁なもの、あるいは手段として見られるのではない。そうではなく、それはいたるところで、一方なしには他方も考えられないように快楽と結びついて示される。なぜなら、快楽だけが時系列的に、同じ時系列において進行する行為を通して産出されるのではなく、行為自体も、すでにその本性上、快楽を次のような模範において含んでいるからである。その模範とは、その行為の発展と共に上昇しつつ、絶えず現実性へと移行する模範である。その結果、〈行為〉と、〈受苦として考えられた快楽の成立〉とは、一方が成長する時他方は減少するという正反対の秩序において結ばれた二つの系に比較される。このことと、諸統一の差異とは矛盾せず、快楽には多様な行為が一致可能であるし、また同じ行為が、いくつもの快楽に向けられえるのである。なぜなら、行為と享受とは別々の根拠によって、区分され、まとめられるからである。

              *実践的な倫理学へとさらに目を向けるならば、ここでは、その本来の完成よりもずっとあからさまに、活動がすべての行為に対応している。なぜなら、道徳的行為はすべて産出行動であるか、あるいは、人間同士の関係の保持−それが善と呼ばれるものだが−かだからである。つまり、道徳的行為は、その性質上常にただ行動において、あるいは行動によって存続するものであり、この倫理学の立場からは、行動以外のものは見られないのである。したがって、行動は、目的としての活動の為の手段として現れるのではなく、他ならぬ目的の一部なのである。そして、再びその活動の中に含まれるのは、そのような行動に他ならない。その結果、義務に適った行動が、活動の産出の為に十分であらねばならないことは明白である。こうして、義務と善との間に、概念の性質とその起源を要求するような関係が正に成立するのである。なぜなら、これによって、行動は単に部分として活動に従属するのみではなく、その活動も再び行動に従属するからである。行動自体について、決断はその本質であり、この本質においては、直接行為によって支援される活動だけに目が向けられるのではなく、その他のすべての活動、すなわち、善として、あるいは最高善の部分として差し出されるすべての活動に目が向けられる。すでに前に示されたとおりである。しかし、おそらく、活動の完成のために主張された行為の十分さに対して、次のように反対する人がいるかもしれない。すなわち、幸福主義の倫理学においても、実践的な倫理学においても、活動は純粋に行為から生じているのではなく、前者においては、自然に依存しているし、後者においては、大部分他者の行動−それは個々の各事例との関係では同様に自然かあるいは偶然であるが−に依存していると(反対する人がいるかもしれない)。さてここでもう一つ別の見解を、〈172〉諸原則の差異に関して検討しなければならない。すなわち、人間性の中の共同的なものだけが、道徳性の対象と考えられるのか、それとも特殊固有なものもかという問題である。(S.61111261も参照−編者)なぜなら、これらの事例について、各人は自分自身の答えを引き出すからである。すなわち、活動の体系においてほとんど一貫して生じているように、前者が定立されるならば、個人は考慮されないこの見解に対して、個々の様々な行動は、個々の異なった行動以上によりよく結びつくことはなく、少なくとも一つの行動は他の行動に対して偶然的である。したがって、ある活動について、それが偶然性を伴わない十分に道徳的な活動であったと言い得るように、その活動が産出され得るのは、後者の見解によってであって、決して前者ではありえない。そこで、後者を主張しようと欲する人は、個々の行動についてと同様に、活動の部分的トルソーにも満足できねばならない。それを彼は、快楽においても活動においても、純粋に道徳的なものとして見出すのである。享受の倫理学において最も普遍的かつ正しく生じるように、特殊と固有なものが道徳性の対象とされるならば、次のことは消失する。すなわち、道徳性が、力や素材の共同的なものを伴いつつ活動や快楽を目指すこと、また、概念によっても程度によっても、活動の完成に対する普遍妥当的な基準、これらが消失してしまう。そして、このことはまた次のような活動に対しても妥当するに違いない。すなわちそれは自然の助けなしに、自分の力によってもたらされた活動で、たとえ表面的には、単なるトルソーとして、あるいは、部分、しかしまた対立するものの現象として現れるとしても。

              したがって、このようにして、概念に対してその場所が、倫理学のあらゆる叙述において確保され、全体に対するその意義が、論争の外に置かれる。今や探求されるべきことは、概念がこの意義にもふさわしく、正しい場所に立てられているかどうかということであり、このことがここで、前の場合もそうであったように、個々の事例や実際によって、〈173〉次の章の内容を先取りすることなしに、吟味されねばならない。それは、その概念に結びついている同様に形式的な副概念、及び、概念を区分するあり方を通してなされる。

              ここでは先ず快楽を目的にしている倫理学について、次の点に注目してみる。すなわち、この倫理学は、言及された困難にもかかわらず、この概念をできる限り純粋に保持しなければならないことを知っていたということである。というのは少なくともアリスティッポスは、そこから次のようなものをすべて排除しているからである。すなわち、媒介的準備的行動の産物に過ぎず、使用することによってはじめてその特定の価値を保持するようなもの(を排除している)。また善と悪の中間概念も、彼においては、何か現実的なもの、道徳的に産出されたものとして現れることはなく、ただ空虚な場所として現れるに過ぎない。なぜなら、快楽も痛みも自らにおいて保持していないような状態は、全く不可能であるか、もしくはただ自己意識が破棄されることによって可能であるに過ぎないが、そのようなことは、もし行動の一部を行動全体と理解しないならば、道徳的に判断されるべき行動、すなわち、恣意的な行動によっては、この体系の結果として起こることは不可能だからである。この比較的に最大の純粋性は、この概念が、以前のどれよりも、そのような倫理学の土台を形成するのにふさわしいということを証明しているように思われる。しかし同時に、この概念には、そのような倫理学の混沌とした性質も明らかに現れている。というのは、この倫理学は、この概念の各区分以外のものを巧みに拒否することはできないからで、その理由は次のいずれかである。すなわち、善と悪、道徳的なものと不道徳的なものは、同じ仕方で区分されねばならないが、それは従来常に誤って認識されてきた。すなわち、その区分が、感覚の概念において結ばれた諸特徴に基礎付けられる場合はそうである。あるいは、それとの接触や取り扱いが快楽を生み出すところの諸対象にしたがって区分されれば、その区分は、区分されるものの価値と種類を様々に規定する本質的なものと何ら関わることはない。なぜなら、このような見解においては、快楽の原因は、アリスティッポスもはっきりと主張しているように、全くどうでもよいからである。厳密に言えば、この見解は、善とそれ以外のものとの間に、程度の差異以外の違いを認めることがない。少なくとも、程度の差異に他のすべての差異を従属させねばならない。〈174〉この差異からは学問的な区分は生じることができず、生ずるのはただ最高度に恣意的な区分である。したがって、学問的区分へのあらゆる可能性は消失する。その結果、善の概念に属する個々の実在は、強度に経験的で、不規則に互いに系統付けられ得るに過ぎない。ここでは最高善のイデー自体が、単にそのように系統付けられたものとして考えられるように。

              次に行動の倫理学に関しては、善の概念は、決して頻繁には用いられていないにもかかわらず、これ以上は無い混乱の中に置かれている。その大きな理由は、この倫理学が、善概念の形式的なものを、純粋に把握せず、快楽の倫理学において善概念の内容を表しているものを、一緒にそこにおいて受け入れたからである。アリストテレスについては、このようなことはあまり当てはまらない。そして、彼がこの概念を全く駄目にしてしまった理由はむしろ、彼が行為と並んで快楽に場所を明渡すその独自な仕方に求めなければならない。なぜなら彼は、固有な快楽を各行為の漸進的な進展を通して伴うことなく、ただ最後に快楽に目を向けるだけであり、快楽を出来栄えのよいものに、行為の外面的な最終目標の完全な達成に関係させたからである。これをその都度実現する為に、彼は正当にも、道徳的力を十分に見出すことはなく、準備的媒介的行為を必要とし、また自然と偶然の直接的な助けと決定をいずれにせよ必要とした。ここから彼は、その産物を善と呼ぶことを、欺きの下に−この欺きに対してアリスティッポスは、抵抗することを知っていたのだが−置いた。なぜなら、彼の善の一部は、最高善のイデーに関係してはおらず、彼自ら次のように告白しているからである。「このイデーの構成要素であり得ないようないくつかの善が存在する」と。その理由は、彼は活動を目指しつつ、内的なものを観察する場合、ただ生のあり方だけを、純粋に道徳的に産出されえるものと認めたということである。また、彼の様々な善の種類には、統一点が欠如しているが、彼はそれらを、プラトンあるいはむしろ〈175〉古代に共通の表象を模倣しつつ区分している。そして、それらの善がその下で把握されるべき普遍的概念を、倫理的概念として立て、規定することは困難である。なぜなら、そのいくつか、すなわち、すべて表面的で、身体的精神的なものの部分は、行為を補ったり容易にしたりするものに過ぎない。しかし、他のもの、すなわち、先の二種類(身体的精神的)以外のものは、通常行為によって引き起こされたものである。したがって両者は、倫理的には互いに全く分離され、概念の統一は、この学問の境界の外にあるように見える。しかし、上で言われたこと、すなわち、幸福主義的な要素は、概念の単に形式的な見方をも駄目にしているということは、ストア派によって、さらに本来的に主張されえる。すなわち快楽の倫理学においては、当然のことならが、人間の個人的状態に関係するものだけが善であり得る。所有の概念は善の概念と分かちがたく結びついているのである。この物質的特徴を今やストア派は、形式的概念の中に受け入れた。そして、ストア派は正当にも、幸福主義にもアリストテレスにも反対して、すべての善を産出するための道徳的力の十分さを主張しようと欲した。このことが、その形式的なものについて意味することは、私たちに従属するものだけが善であり得るということである。そこで彼らにとって、個人的状態に属する道徳的所有以外、徳としては何も残らなかった。したがって、人は次のように言うことができる。この概念は彼らによってただ論争的に受容され応用されたのであり、そのような価値を持つに過ぎないと。なぜならストア派は、ペリパトス派に反対して次のことを見事に拒否した。すなわち、徳の完成のために外面的な促進が必然であるということ、あるいは、要素として最高善に属さないものが、善になり得るということ(を拒否した)。彼ら自身にとって、この概念は根源的に全く空虚であり続けたのであり、ただこの空虚に対する恐れから、この概念は、体系を完成する代わりに、その滅びとなったのである。なぜなら、その受け入れられた特徴ゆえに、道徳的なものの叙述の概念は、〈176〉善を区別する特徴としては、彼らストア派には見逃されねばならなかったし、これと共に、徳のさまざまな関係も、徳が独立した根源的概念を形成する限り、また再び、実在としての善の概念に従属する限り、見逃されねばならなかったのである。しかし、ストア派は、自分達の弁証法的傾向に駆り立てられて、両者を区別しようとするので、彼らはあのアリストテレスと似た混乱の中へ入り込んでしまう。これが現実に善についての学問体系における善の概念の歴史であったということを、この概念の全論述は誰に対しても示さねばならない。なぜなら、先ず持って明らかなのは、どうでもよい事物の概念を扱う方法における個人的状態と所有に対する関係であり、それは全く次のことに基づいている。すなわち、その所有が道徳的根拠から求められることもできなければ避けることもできないような何かが存在するということである。しかし、次のことには決して基づかない。すなわち、あるいくつかのものは、どこにあっても活動ではなく、したがって、道徳的な心の態度を表現することもなければ、対立する心の態度を表現することもない(ということには決して基づかない)。善概念全般の大きな拡大、そして、存在するものすべてを善と悪に区分すること、両者のいずれも、単なる弁証法的な冒険ではありえないように、彼らに無縁な概念をどこかで結びつけるという困惑から生じたのである。しかし、善を表現と見なし、活動と見なす人のためにある課題は、彼らによっては全く考えられていない。さらに同じことは、彼らのすべての区分からも明らかである。それらは厳密に見れば、より一層弁証法的な言葉で表現されることによって、アリストテレスの区分と違ってはいない。ただ一方では、魂の中における善と、魂の外における善、両者のいずれでもないこと、この三区分の不合理を差し引くと、所有の思想が一層強く目立っている。しかし他方においては、道徳的なものを自らの中に持つ善において、そして、道徳的なものを引き起こす善において、そして、それら両者に妥当する善、道徳的関係の全体的な不規定性が目立っている。しかし、ここ以上に弁証法の卓越性を示す場所は容易に見つからない。〈177〉彼らがこれに忠実でありつづけたならば、この弁証法は彼らを必ずや正しい所に導いたに違いない。というのは、魂の中にも外にもないというこの定式は、もしそれに次のようなものが対応していないとしたらどのような意味を持ちえるというのか。すなわち、至るところで所有とは無関係であり、所有と考えることができないようなものが(対応していないとしたら)。そして、ただとにかく善のみが、この区分の外に属するべきであるとするなら、先の善もここに連れ戻されねばならないだろう。そしてそれらもまた魂において善のみでなければならない。なぜなら、それらは魂の外にはないからである。またそれらは魂の外にある。なぜなら、それらは魂の中にないからである。同様に、最小の区分からは次のことが生じなければならない。すなわち、もしこれほど様々な仕方で道徳的なものに関係する善が存在するならば、概念の本質的なものは、これらの関係が互いに対立するような所にあることはできず、共同的なものにある。この共同的なものは、しかし、単に不規定なものであることは許されず、規定されたものである。しかし、これは、活動と叙述の概念にほかならない。この叙述は、心の態度から生じ、再び心の態度を覚醒するが、それは、叙述が心の態度を述べ伝えることによってである。また叙述は、道徳的活動の他の系において共に働く力を道徳的に再生産した。さらに、それらの善が差異をないがしろにせず、幸福主義においては、すべてが単一性に関係しているのに、それらにおいてはすべてが共同的な性質に関係するならば、所有についての考えも、共同的所有についての考えに拡大されねばならなかったが、それは、その最大限の拡大において、直観に対してあるもの以外に考えられない。その場合自ずから、道徳的力の十分さの定式は、あの規則にしたがって自らを拡大する。すなわち、それに対してはその善もひとつの善であるような道徳的力と大きさ、つまり全体的な力と大きさは十分でなければならない。そしてここでもまた傑出しているのは再びスピノザである。彼も善の概念をそれほど多く使っているわけではないが、しかし、アリストテレスや〈178〉ストア派よりも強力な動機において、同じ誤謬を避け、誤用によって不使用の誤謬を倍加することはなかった。なぜなら、彼が人間を自然に依存的にさせる仕方において、彼ほど、自然の促進を何か道徳的なものとして、善の名において受け入れることを許容的な人は他にいないからである。しかし、このところから彼は次のような説明によって完全に遠ざかっている。すなわち、およそ真実な善は、現実に従えばすべての賢者に、自然に従えば万人に共通でなければならないと(いう説明によって)[...]しかし、最も純粋なのは、単に誤謬に関してだけではなく、この概念が最も完全に存在している。プラトンの倫理学においても十分に展開していないにもかかわらず。というのは、プラトンは人間が神に似ていることを、最高善と考え、存在者すべてが模像であり、神の本質の表現であるとし、人間も先ず内的に、しかしそれから外的にも彼の暴力の世界から引き渡され、イデーにふさわしく形作られるべきであり、そうして至るところで道徳的なものを表現すべきであると考えた。したがって、ここにはこの概念の決定的な特徴がはっきりと現れている。そして、その関係は、行為からも心の態度からも分離されている。そして、これがどの程度彼の思想において詳述されたか、どのくらい、私たちはそれを臨み見ることができるかを判断できる人は、もし私たちがあの偉大な作品を完全に持っているとしたらの話ではあるが、それを神は、妬む能力はないにもかかわらず、彼(プラトン)が詳述することも、私たちが所有することも許さなかった。

 

2.個々の実在的な倫理的諸概念について

 

個々の実在的な諸概念を、それらが所属する一般的形式的な諸概念から分離することについて、その原因は、後者(一般的形式概念)を可能な限り厳密に区別する必然性に他ならなかった。そこにおいては、ある時はこの、ある時はあの形式的概念に対する実在的概念の、しばしば疑わしい関係が、非常に困難な障害になっていた。したがって、当然のことながら実在的概念においても、探求の開始は次のような領域からなされねばならない。すなわち、最も多く分離され、あの境界争いに巻き込まれない領域である。しかし、この領域は、善の領域であり、一部は別の理由から、一部は、それによってなされたあまり広範ではない使用という理由からである。所与の区分の一つにしたがって−しかしながら、だからと言ってこの区分が正しいというわけではないのだが−見通しを整理する為に、先ず外的な善を、アリストテレスの追従者の叙述に最も多く現れるところに従って、検討してみたい。というのは、その大部分を、キュレネ派もストア派も退けているからである。ペリパトス派は、富と市民的力、さらには恒常的にうまくいっている偶然さえも善と呼ぶ。すなわち、その不正な見解の経過において、道徳的行為の幸運な結果を助成するものは善と呼ばれるが、道徳的行為の自然的必然的活動はそう呼ばれない。つまりすべては幸運な結果に資するもののためだけである。したがって、これらの善には、およそ倫理的なものに内在しなければならない普遍性という特徴が欠けているのである。このように所有者に関係させられることで、これらの善は、他の人々がそれをなしで済ませるという程度においてしか、その人に対して、価値を持たない。快楽を最終目的にした人々は、〈180〉非常に正しくも、それらの善をそのようなものとは認めようとはしなかった。というのは、彼らにおいては、ただ道徳的なものだけが、すなわち快楽が思考されているのでは決してなく、むしろ、善が手段である限り、快楽は善によって、不道徳的なものとして正当にも排除されるならば、快楽は善に全く含まれていないからである。しかし、道徳的なものが活動であるような人々が、これらの対象の目録から抹消する権利を持つことはあまりない。なぜなら、このことは大多数の人々によって、普遍的な賛同を伴って主張されたにもかかわらず、これはストア派を思慮なく模倣したに過ぎないからである。すなわち、すでに述べたように、ストア派は、実践的倫理学のイデーから善概念を形成したのではなく、享受的なイデーから善概念を受容したに過ぎない。したがって、常に個々の所有者を回顧するのである。しかし、彼らの倫理学は全く共同体、及び、共同的性質に向けられているように、これらの善を、彼らは、人間の全体との関係で見たはずである。そのような人々に対して、彼らは、共同的かつ排他的に自分達の価値を有している。その場合、富とは、先ずは直接的な富、すなわち、産物や加工品の量が多いことであるが、しかしまた間接的に、象徴的な富、善、道徳的に産出されたものや道徳的なものの叙述、すなわち、地上に対する人間の形成的支配である。しかし、所有者との関連でというのではない。なぜなら、所有はここでは、偶然的で一時的なものに過ぎないからである。そうではなくて、それへの参与が、イデーにおいて拡張されえる限り、すべてとの関連においてである。同様に、市民的力も明らかにすべて道徳的行動によって産出されるものであり、その保持から生じるのは、偉大かつ十分な人間社会の設立とこの共同体自身の表現に他ならない。したがって、ふさわしい、あるべき善とは、すべての人に共同的なものであり、その人々の行動によってもたらされたものである。市民的力は、〈181〉共同的なものによって規定される共同的な意志であるべきなので、それは、この倫理学のイデーにしたがって、他のどの人々に対して以上に、この力を行使する人に密接に関係する。然り、人は次のように言うことができる。実践的倫理学自体においては、好都合な偶然は、あらゆる道徳的な目的の自然的一致から自ずと生じる限り、[...]様々な善のもとで引かれなければならない。これらすべては疑いもなく、ペリパトス派によっては、そのような意味で考えられていなかった。そうではなく、単に行動の為に手段と考えられていた。それゆえに、彼らに対する論争において、ストア派によって正当にも退けられたのである。ストア派は、それら諸概念から、自分たち自身のイデーへの関係を獲得し、誤謬の絶滅に、少なくとも彼らにとっては正当なものの発見を付加する為に、彼らの弁証法を十分に遂行しなかったのである。しかし、友情に関しては事情はもっと違って容易である。ストア派もまたこれを正当にも善の中に入れているが、その理由は、友情においては、行動する倫理学において善であるべきものが、よりはっきりと現れているからである。なぜなら、友情が、ただ行動において、行動を通して存続するということは、すべての人に認められており、単なる好意は友情の名に値しないからである。そして、ただ道徳的行為のみが友情を生み出すことができ、不道徳に対しては友情は全く存在しないということ、これは古代の倫理学共通の命題である。彼らのうちの幾人かは、快楽を好んで友情をしりぞけるが、それはしかし、友情が、快楽を生み出す手段である場合に限られる。なぜなら、この意味において、彼らが〈賢者は、道徳的なものを持ち来たらす為に、自ら十分でなければならない〉と語っていることが妥当するからである。そうでない場合は、彼らにとっても、友情は、それ自体が直接的に快楽である限り、善である。つまり、継続的に、常に自ずから〈182〉産み出される快楽の状態である。その状態をそれ自体として観察すれば、そこには快楽以外のものは考えられない。というのは、あらゆる享受的な倫理学においても、それが置かれた範囲に比例して、友情が、形成されねばならない氏、形成されることが可能だからである。同じ意味で、他の人々によって富に算入されている他の諸対象も、幸福主義的倫理学において善であることが可能である。すなわち、それらが、個物の特別な規定をもくろんで仕組まれた確固たる関係を表現し、その関係において、正に同じように、ただ快楽だけが含まれ得る限り。このことは容易に次のことの原因になり得る。すなわち、通常の語りにおいて、前提にしたがって、特別に所有者のものとなり、教え込まれた実在的な所有物が、彼の善と呼ばれ、その他のものは、彼の能力と呼ばれるに過ぎないのかということの原因である。個々人の最も密接かつ確かな結合である友情から私たちが下って、友情に劣るものではあっても、それに似ているものに至ったとして、そのような緩やかで、包括性のより少ない結びつきもまた善でなければならない。一方の結びつきに対しては、共同的で道徳的行為の産物として、そこでは、道徳的なものが、完全に表現され、持続的に産み出される。他方の結びつきに対しては、その結合に固有な何らかの快楽が、設立された関係において、固く保持され、相互的な更新の為に前もって定められる。正に客の歓待をストア派は善に含めるが、今の私たちは、そこにただ善の最も不完全な段階を見るに過ぎない。すなわち、除かれることによって遠ざけられた悪の部分的軽減である。同様に、彼らが次のように言う時、すなわち、〈賢者のみが饗宴において正しく振舞うことを知っている〉と語るとき、彼らは次のことを認めているのである。すなわち、〈これもまた、その概念に一致する為に、道徳的行為から共同的に生じたのでなければならず、したがってまた道徳的なものを表現し、善の名に値しなければならない〉と。このことはもちろん、カントが取るように強いられた−誰もその理由を知らないが−見解とは全く違う見解を呈している。カントは〈183〉宴会を、争いあう対象のもとでの節制のなさへの形式的招待として、彼の決議論的問いの中に立て、それが許されることへの疑問をもって、議論している。このことは、一見些細なことであるにもかかわらず、あらゆる倫理学の精神を、区別しつつ特徴付けている。次のような関係に上昇することで、すなわち、人間をもはや個として把握するのではなく、人間をあたかも個としては無視して、共同的な全体の部分に変じるような関係に上昇することで、市民的社会も、家庭的社会も、活動的な倫理学に携わるすべての人によって、善の中に数えられる。なぜなら、賢者が国家行政を助けるかどうかという問いに、これは反駁できず、むしろただ、次のことを証明するに過ぎない。すなわち、ここに属するすべての学派は−アンティステネスの学派(キュニコス派)について私たちが知っているように−国家の理想を打ち立てるのが常であったということである。ここから十分明らかなことは、その問いが当てはまる国家というのは、最近の人がそう呼んでいるように、危機的国家だけであるか、または、全くヒ道徳的に成立し、形成され、自らのイデーを必要としているような国家である。同じ違いをストア派は、家庭的社会との関係で、対立する仕方で表現した。すなわち、次のように言うことによってである。〈賢者のみが、自分に属する者たちを愛する。すなわち、彼だけが、自分の家庭を、道徳的なもの、善なるものとして設立し保持できる心の態度を持ってそれを愛するのである〉。幸福主義的な倫理学においても、結婚が善であり得るかどうかは、そこにおいて社交的な感覚に余地が与えられているかどうかによって決まる。しかし、国家は常に必要悪として現れるに過ぎない。その結果、国家が自らをいらなくするよう努力しなければならないというあり方について、各主張がいずれの側に傾くか、これは各人が自分で決めねばならない。しかし、活動的な倫理学にとって、国家や家庭の例にしたがって、〈184〉学問的な倫理学も善でなければならない。それは当時は学派の姿において存在、今私たちはそれを、別の姿で知っているのだが。然り、教会も、フィヒテがそれを自分の倫理学において導いているように、これに属するだろう。そしておそらくは、フィヒテは思い切って言い出せないでいるが、フリーメーソンもそうだろう。しかし同業組合や、彼によって描かれている国家の閉鎖的な立場は困難だろう。これは、善を表わす各概念の統一がどのように規定されるべきかというまだ答えられておらず、おそらくは投ぜられてもいない問いについての事例として、ここにあることが可能であろう。なぜなら、最近の倫理学に属する引用された部分に対してのみならず、古代のものに対しても、この統一は頻りと浮かび上がってくるからである。したがって、次のことは古代に共通の説明である。すなわち、国家とは個々人が結びついたものではなく、世帯(Hauswesen)の結びついたものであり、したがって、それは本来国家の部分である(ということは古代共通の説明である)。そこで、問われるべきことは、全体の部分であるところのものは、全体と共に独自な善とみなされ得るのかどうかということである。同様に彼らは、国家を最高善の産出に十分な結合と説明したが、それは、その完全性において考えらえることによって、すべての善を自らに包含しており、それにしたがって次のことも探求されねばならない。すなわち、本来倫理的であり、学問的である友情も、国家の部分と見なされるべきかどうか。それは国家において、国家を通して産出されるのかどうか。この問いに対する答えは、どの倫理学においても自ずと生じるのでなければならず、その倫理学は、個々の善についての自らの表象を、経験から引き出すのではなく、体系的に産み出し、秩序付けるということ、そしてまた、それは倫理学の最も重要で問題となる対象に最大の影響力を持つことは、明らかである。このことは、善が、従来の、少なくとも美しく造形的な芸術作品すべてに比例しなければならないということを熟考する時一層明らかになる。快楽の倫理学にとっても、〈185〉特定の衝動の満足と刺激とが更新しつつ交替することとして、単に見ること(Anschauen)においてだけでなく、制作においてもそうである。この制作は、模範となる快楽の対象に近いものを産み出すことである。活動の倫理学にとっては一層そうである。イデーを表現する道徳的な行為からそれは生じ、正にイデーの精神を、すなわち、規則と原像とを感覚的なものにおいて表現するのである。その結果、この作品とあの作品との間には、純粋な行為から生じている以上、単なる行為と産出行為の間の相違以外の違いは存在しない。しかし、産出行為もまた倫理的に見るならば、常に一つの行為である。次のことを熟考する人は、すなわち、ただ義務概念によって倫理学を論じる最近の叙述において、ここに善として引かれている道徳的対象と関係の大部分が、いかに奇妙に現れているか、特に、国家とそれに付着するもの、及び、芸術とその作品とが、それらをめぐってすべてが動いており、しかも、それら自身は自らの場所を証明したり、学問的な装いをすることはないのだが、このようなことを熟考する人は、次のようなことを推測するようになるだろう。すなわち、善概念の下でのみ、これらすべては正しく叙述可能だということである。さらに、いわゆる身体の善に関して言えば、古代人はこれについて次の四つを数え上げた。すなわち、健康、美貌、強さ、立派な体躯である。そこで次のことは容易に分かる。すなわち、これらもまた根源的には、たとえそれが快楽や完全な活動のではないとしても、手段であり条件に過ぎない。したがって、その名を常に不正に保持してきたのではあるが、しかし、前に見たことと同じく、別の意味では、これらは、実際善である。すなわち幸福主義者にとっては、それらは人間にとって、いわば身体に結び付けられた快適な意識に他ならず、それはすべて他の一時的な快楽に、高揚する要素として加えられているものである。しかし、活動的な倫理学にとっては、それら(身体の善)が、偶然によって与えられたり拒まれたりする自然の産物と考えられず、自然に適った共同的生によってもたらされると考えられ〈186〉また、これら身体の善がそこに内住するところの種族や民族のあらゆる方面にわたる持続的道徳性を表現する限りである。なぜなら、行為や形成を目指す倫理学においては、その途上において達せられるものとして、美貌や立派な体躯も最高善の下に共に考えられるということは、誰も疑わないからである。しかし、ただ非常に恣意的であるのは、これらの善が個別化される仕方である。なぜなら、人が目を注ぐ美貌は他のものから容易に分離されるとしても、それらは互いに非常に密接に関連し合っているので、快不快としても、あるいは、道徳的なものの活動や叙述として見られても、倫理学にとって本質的なものは何も区別されえないからである。これに対して、最近の人々は、おそらくは、それらの欠如感や、よりより才能を持った野蛮人対する反感に駆り立てられて、正当にも、健康から、感覚の鋭さを繊細さを分離し、この悪の軽減、すなわち、すべての人工的な外的な装置や道具−それらは、倫理的に見るならば、感覚器官の拡張された継続と見なされるべきだが−を、武器の技巧的な強さや、その種のものと同様に、この種の善の仲間にするまでになっている。しかし、この四つの徳には、魂の主要な善として、同じく多くの身体の完全性や善が対応することによって、その四という数は求められているに過ぎないように思われる。

              ペリパトス派においてもストア派においても、この四つの主要な徳が、魂の善の中で、第一の場所を占めているということ、その結果、徳と善の概念が、個々において混乱しているように見えることについては、すでに上で言及された。その原因は、同一の対象について、十分はっきりと区別されていない二重の見方にある。すなわち、心の態度自体は、作用し、産出するものと見なされ、徳であり、賢者のイデーに属するのではあるが、しかし、それ(心の態度)は、〈187〉ある特定の大きさと考えられ、行為により、訓練を通して生じ、再び自らを現しつつ、行為と実行を通して生じた。したがって、それは他方において、一つの活動として、生じたものの叙述として現れ、実践的倫理学にとっては、産出されるべきもの、すなわち最高善の一部として現れる。ここでもまたストア派は、完全に理解されてはいないが、正当な非難(Ahndung)を受ける。なぜなら、ペリパトス派は、この違いを完全に消し去り、魂の美と強さは、彼らにとって、大胆さと正義の別名に過ぎず、賢さと節制の別名に過ぎない。魂が健康で、よい形をしているという古代ギリシャの徳を十分に正しく翻訳できなかったのである。なぜなら、後者(古代ギリシャの徳)は、魂の持続的ではっきりと見える魂の状態を示すのに適しているのに対し、前者(大胆さ、正義、賢さ、節制)は、ある特定の仕方で産出された力を示すのにふさわしいからである。そこでストア派は様々な技法である徳を区別する。すなわち、各々特定の活動を遂行しようと努力する徳を区別するわけだが、その区分の中に、四つの周知の名称が立てられるのが常である。また、訓練を通して自ずから生じるような徳も区別する。それはちょうど、特定の大きさと見なされる各々の心の態度について言われるのと同じである。したがって、ここでもまたその心の態度はその名称の下で現れるが、それらは、魂の状態と特質を示している。しかしながら、これら心の態度が、最後までこの正当な痕跡に従うことは無く、それらの徳を先の観点で、善に数え入れた。しかし、こうした心の態度が、それらが善である限り、各人がそれらを徳として立てるのと同じようにして整理され区分されるかどうかは、一般的には疑わしいことである。しかしさらに、疑わしいのは、先の四つの徳に対して、ここで言われるような魂の特質が対応しているのかどうか、そして、それらのどれだけが実際に異なっており、根拠にしたがって互い分離できるのかということである。しかし、〈188〉このことについてはこれ以上語るに値しない。このように身体的なものによって精神的なものを可視的に特徴付けることは、学問に全くふさわしくないからである。このような特徴づけは、全くただ悪しき、欠陥の多い説明に過ぎない。しかし、次のことは明らかであり、ストア派によっても承認され、証明された。すなわち、同じ規則によって、単にその四つの徳とそのほかもともとそう呼ばれている徳だけが善と見なされるべきではなく、すべて他の倫理的に規定された精神の完全性も、すなわち、精神にとって学問と洞察になるような悟性の完全性や、教養や社交の技法における完成へと発展するような他の魂の力の完全性も善と見なされるべきだということである。すなわち、それらが道徳的な活動である限り、すでに上述されたように、この枠によって、この枠内で思考される。なぜなら、これらすべては、それらの活動が、ある特定の道徳的なものの外的な表現であるのと同じく、その内的な表現だからである。特にここに数え入れられるべきなのは、次のような性質である。すなわち、多くの人によって道徳的性質として承認されながら、しかし、徳の系とは認められていない性質、例えば、道徳的感情の強さや繊細さなど、これに類するものである。なぜなら、これらもまた能力として自然に存在しているものではあるが、それらの強さや方向性によって、ある場合には個々の道徳的意志の証拠であるし、ある場合には共同体と相互作用の中にある人間的行為全体の証拠である。したがって、その進展と変化によって、共通の善であり、共通に実現された善である。然り、カントが次のように考えるならば、すなわち、思いやる感覚とその活動とは、義務にしたがっているものと見なすべきではないし、また単に世界と人間の装飾―世界を美しい道徳的な全体として表現するための―と見なされるべきでもないとカントが考えるならば、彼は、実際は並んで存在できるものを、対立させているに過ぎない。その場合には、さらに、生気のない自然に対して、あるいはそれを顧慮してその美を保持するために、彼によっていわゆる義務と呼ばれるものの活動が、同じ場所にさらに属するだろう。総じて彼においては、〈189〉世界を道徳的全体として表現する定式が、その名に相応しい最高善のイデーに、最も近くにあるように思われる。しかし、徳以外にも、さらに次のように言われる。〈すべて徳を持つ賢者は、それ自身で見ても、一つの善である。この点ではスピノザもストア派と一致している〉と。このことは、すべての実践的倫理学に対する概念の一般的特徴によって、拒否されるべきではもちろんない。なぜなら、賢者は自然的人間の中から、行為によって現れたのであり、この前提にしたがって、自分の存在と行為を通して、道徳的なものを、その全範囲において表現するのであって、それ以外ではない。しかし、どのようにして、ここでもそれらの統一が規定され、互いに保持されるべきであるか、というのは、個々の様々な心の態度が賢者の中にあり、あたかも彼の一部であるかのようだからなのだが、これは、独自な研究を要求し、手元にあるものから比較によって与えられることはできないだろう。賢者とその心の態度に次いで、さらにまた、ストア派によれば、彼(賢者)の三重の道徳的満足が善に数えられている。もちろん快楽としてではなく、道徳的な心の態度と行為によって成立した内的な状態であり、そこにおいて、彼の起源が叙述さる。そして、その状態は、特定の業によっても、思考のあり方や、行為の調子によっても再現されることはない。もちろん単なる弱気や、存在可能性のある悪をあれこれ気にしてきょろきょろすることは、消されねばならない。このようなことはスピノザも見抜いており、それを受け入れなかった。なぜなら、それは賢者との関係においては、悪であり得るに過ぎなかったからである。なぜなら、このような状態は、不道徳的行為の記憶から生じ得るに過ぎず、道徳的意識からは、確信だけが生じなければならないからである。活動と快楽の両体系は、背後にある意識が共に考慮されるべきところでは、当然のことながら多くの場合接近しているように、この意識も魂の善の中で、〈190〉活動的な倫理学と共に、享受の倫理学をも共通して持っている唯一の意識である。その内容に関して言えば、そのイデーに相応しく、対立する関係においても、快楽とは異なって規定されるにもかかわらず、それは来るべきものを過去と自己意識において予言的に結びつける。すなわち、これがあの大胆不敵、恐れのない状態である。それが、作用する力としてではなく、感情及び状態と見なされて、善と呼ばれ得る限りはそうである。しかし、その他、この種の倫理学において徳と考えられるものは、同時に善でもあり得ることはない。なぜなら道徳的な力は、それ自体ではまだ道徳的なものを表現することはなく、外からの要求との交互作用において考えられねばならないからである。これに対して、新手の幸福主義者たちが、もたらした見せ掛けは、厳格な吟味に耐え得ない。しかし、この概念の価値と使用について上で言われたことの証明のために、個々の善についてはもうこれで十分だろう。

              義務については、混乱をさらに長く抑制するために、次のような義務から着手する。すなわち、徳との混同にさらされることが最も少なく、むしろすでに命名の仕方によって決定的に義務概念に属することが認められるような義務である。そこで先ずは、多くの人にとって最も重要な義務と考えられ、万人によって第一の義務として示される義務、すなわち自己保持の義務から始める。これが、倫理体系においては、端的に義務であることはできず、至るところで何かによって規定されねばならないということは明らかである。なぜなら、倫理学はただ生のあり様を記述するのみであり、したがって、生の保持ということは、生のあり様の内容から生じてくるものだから、倫理学においては、そのあり様を他にして生を保持する仕方は現れないからである。さらにまた、危機が迫る所では一般的規則を規定することはできないのであるから、生自体を是が非でも保持すべきであるというのなら、行為における生の特定のあり様を確保することは可能である。したがって、〈191〉正にどの倫理体系にもあるような道徳的性格をそれ自体として持っていないような行為が、生の保持の為に現れるということはあり得ない。対立する命題、すなわち、生を保持する為には何か不道徳的なことがなされても良いというような命題は、全ての倫理学を転覆するに違いない。それにもかかわらず、大抵の近代人はこの矛盾に陥っている。すなわちある人々は、全く手荒にも、明白な言葉によって、この最も禁じられたことをその最終目的にしてしまっている。しかし、カントは暗黙の内に生の保持を完全な義務に高め、したがって、それはその都度行為自体に結びつき、何らかの不完全性によって傷つけられることは許されない。同じことをフィヒテは、より隠された仕方でなす。すなわち、彼は、総じて生というものを、道徳的生から分離し、それから技巧的な仕方によって、再び、前者を後者に服従させる。なぜなら、生を保持するという道徳的努力が、最初から道徳的生にのみ向けられたならば、忘却されたり見逃されたりするものは何もないからである。しかし、その義務に適った努力が根源的に生自体に向けられたのであれば、その義務は無制約的であり、その境界を自らの中には持たず、それを他の義務との抗争において保持しなければならない。その結果、先に言われた忘却や見逃しは、逃走で始まるという不都合に遂行された争いに過ぎない。しかし、争いはいかにしても争いである。このことはしかし、自己保持の義務の本来的で実在的内容であり、その内容と共に同時に与えられた境界であると言われる。このことを、他ならぬその境界を何らかの仕方で認めた人々について、大部分の人は規定することを正に怠ってしまう。そして、彼らが次のことを認める限り、すなわち〈生命を終わらせる為に何かをなすことは許され、死を望むことは行為の本来的定式である〉と認める限り、それはただそこから間接的に結論されるに過ぎない。そのようなことを規定するのは、キュレネ学派の一部だけではなく、ストア派もそうである。然り、スピノザさえ、彼において自己保持は道徳的なものの普遍的定式であるにもかかわらず、生を終わらせることが当然であるような場合を受け入れているように思われる。〈192

*キュレネ派に関して言えば、彼らの定式は本来は〈生を終わらせることは、そうする以外に不快を取り除けない場合には正当である〉ということのように思われる。したがって、これによれば、このことは無制約的なことである。しかし、生自体はその道徳的内容、すなわち快楽によって制約されている。なぜなら彼らは中間的なものは不変の実在とは認めようとせず、過渡的なものに過ぎないからである。したがって、それが不確かで、不十分であればあるほど、これは確かで正当であるように見える。なぜなら、不快は、それのみが生を代償としてでも取り除かれるべき絶対的なものであるのだから、快楽の要素が同時に破棄されたり、破壊されたりせず、そのような場合はただ、生の全ての善の全体的剥奪において現れることになる。したがって、ここでは快不快は、法則におけるのとは別の意味において理解されている。すなわち、そこからは他の残りの義務や徳が導出され得ないような意味で理解されている。しかし、反対に、単に優勢であるに過ぎない相対的な不快が意図されるべきであり、したがって、激しい痛みのどの瞬間も、自殺への正当な理由を与えるとしたら、善への観点は全て破棄され、その概念は意味を失ってしまう。したがって、ここには、善の概念から生じるものと、義務の概念から生じるものとの間に解き難い矛盾が存在してしまう。

*これに対して、ストア派においては、自殺に対する倫理的根拠は欠如しているように思われる。そしてこの(自殺の)許可は、最高善は時間の長さによって増大したり獲得されたりするものではないという論争的命題の弁証法的頂点にあるように思われる。なぜなら、そこにおいて規定根拠をなしているものは、道徳的なものの不可能性や、不道徳的なものの不可避性では決して無いからである。これによって判断すれば、彼らにおいては自己保持の義務な存在しない。実際、彼らは生や死をどうでもよい事柄の中に入れるが、しかし、このようなことは、ある場合には、この学派の他の言葉と矛盾するし、ある場合には、〈193〉貫徹困難であった。

*しかしフィヒテは、そのような境界点―その向こう側では、彼がむしろ拒否する反対のことが義務となるような―によってではなく、この義務の内容を正面から規定し、それによって、彼独自なあり方で矛盾に陥っている。すなわち、一方で彼のねらいは、義務を現実に規定することであり、その結果、生を保持する努力は、どこか別の所で成立したり、他の義務を前提とするように道徳的に限定されるに過ぎないということではなく、直接的に道徳的努力であるべきであり、道徳的根拠に基づくものである。しかし彼はそれを実現しないのである。なぜなら、彼は全ての制約的な義務を、唯一必然的なものを含んでいる無制約的義務に従属させるので、人は、まだ一つでも満たされるべき無制約的な義務が残っている限り、純粋に道徳的な方法で次のような所に至ることは決してできない。すなわち、自己保持の制約された義務に十分なことをなす為に、何かをはっきりと行うこと、各人がこの体系の方法に従って非常に容易に見出すようにして、その一つの義務を満たすために、たとえ物理的な力がすでに非常に弱められていたとしても、その力は、しかし、別の義務や、各義務の常に不完全な程度には十分で、義務を満たすことやその存在の無限に小さなものを通して、自然的道徳的生が、同時にゼロに移行するまでに。たとえ前もって、心や、あらゆる瞬間に自然衝動の要求から道徳的なものを選び出すものが、純粋に自然的衝動に、生を保持するために余地を与えていないとしても。しかし、他方でフィヒテは、この義務をも倫理的に制約しようとする。それにもかかわらずこの義務は彼にとって実際は、無制約的であり、したがって、それは無であって同時に全てである。というのは、本来の最終目標が無限者にあるのだから、どの行為も、自分の目的をただ身近にある次の行為に求めなければならないとするなら、再び心が、あるいは洞察あるいはそれをどう呼ぼうと、確かな原理や普遍的に規定された定式の無いままに各瞬間の使命(Beruf)を決定するものが、〈194〉それ自体道徳的な様々な使命の中から、次のようなものを選び出すことは不可能である。すなわち、生を破壊することによって、次の目的を不可能にしてしまうようなことを選び出すことは不可能である。そうではなく、自分の生の危機によって、何か疎遠なものを救うという代わりに、次のようなことのほうが疑いもなくより道徳的である。すなわち、できる限り速やかに何かを産み出したり、加工したり、探求したりすること、あるいは特別な、無制約的な義務が心にもたらすものである。このような矛盾からは、この体系にしたがって、次のような救済以外のものを見つけ出すことは困難である。すなわち、全ての可能な行為に至るまで―したがって、誰かが言い訳をすることはできないように―使命に変わり、その心が至るところで静穏な状態に移されることである。

*この点については、スピノザ以上に巧みに矛盾と不確かさを回避した人物は他にいない。なぜなら、彼は一方において、生を、その倫理的意義から分離することは決してせず、生は彼にとって保持の対象として、一部は、その純粋性にはただ接近のみが可能な絶え間のない真の行為に他ならず、また一部は、絶対的な存在の同一性に他ならない。これが保持されることができなければ、生は倫理的な意味ではすでに終わりであり、以前のものとの関係でなされるべきことについての問いはもはや生じない。他方において、スピノザの場合、生についての見解でも道徳性についての見解においても、ある瞬間と他の瞬間の対立に関係するような先鋭な問いは生じることができない。自己保持概念の統一性に関しては、そこに属するもの全てが、たった一つの義務を形作り、したがって、倫理的には同種の行為として現れるべきである限り、自己保持も不規定な数多性に解消する。なぜなら、それがただ物理的な生にのみ関係するのであれば、この生は、その座を身体に持つのではあるが、身体自体は、その様々な部分が、生に対して様々な関係を持つというあり方によって分割可能なものである。それゆえ、全ての行為がこの目的に対して、倫理的価値において等しいわけではなく、一つの行為方の行為に〈195〉従属しており、このようなことは義務の統一性と相容れないものである。この物理的物質的な意味において、カントはこの概念を最も遠くまで追及する。そして、生を直接的には含まない部分の保持に反対して生じるようなものを、部分的な自殺であるとする。しかし、この義務が、先の義務とは全く異なる地位を持っていること、したがって、共通の名称の下に二つの全く異なるものが一緒にまとめられていることは明らかである。というのは、この部分的な自殺においてカントは、全く義務に適ったことと、責任の様々な度合とを、その逸脱から、目指す所に応じて区別しているからで、その結果、ここでは保持の義務が、何らかの関係によって制約されているのに、直接的で全体的な保持は、無制約的だからである。同様に、もう一つ別の区分が考えられている。それは生の部分や条件によるものではなく、危険の程度や種類によるもので、そこからは全く同じことが生じる。しかし、ある義務を他の義務から分離する制約的な根拠が立てられるのでもなければ、両者を統一する根拠が規定されるわけでもないので、結果として、それらは全く一つでもなければ、全く別々なのでもない。そして、前者も後者の不規定性の中に一緒に引っ張り込まれる。このことは単にカントによって立てられた決疑論的な問い―それはほとんど常に彼の規定の不明確さと不十分さの証明であるが―によって明らかなばかりではなく、ストア派も同様な混乱をきたしているが、とりわけ、身体を最も無意味に傷つけることを自殺の原因としたりして、あたかも生と肢体とが等しいかのように、あるいは少なくとも両者の区別を規定しないことなどである。しかし、反対に、自己保持が全く経験的な自己に関係させられ、道徳律の道具としてのその質に関係させられるならば、非常に倫理的であるように見えるもの、あらゆる力と自然の完全性の発展、これがカントにおいては例えば特殊な義務―つまり、体を養う義務のように、完全な義務よりもはるかに劣る不完全な義務―を形作っているのだが、〈196〉このようなものが、ここでは、本来積極的で実在的なものとして、自己保持に属している。しかし、この積極的なものが、否定的なものから区別されることによって、二つの要素が残るが、それらは互いに抗争しながら、しかし、その場合、単に身体的に保持され、補充される振舞いが、精神的に展開した振舞いの最善なものに対してどの程度軽視されるのかということは決定されるべきではないし、その逆も言える。その結果、朝寝をする者と夜更かしをする者や、その他比較的大きな対立がここで現れるが、それらは全くそれぞれの気持ちに委ねられる。然り、上でその不可能性について言われたことは、フィヒテによれば、特別に保持の為になされるべきもので、その下で把握される身体と精神の発展について言われたことに劣らず重要であり、両者は常に、無制約的な義務の為に用いられる。さらに、この義務は、あの他の制約された特殊な義務と衝突するが、各々は自分の立場を選ぶべきである。なぜならこの洞察によって完成されるべき仕事は、発展と教育を前提とし、前者(発展)がやってくるまでは、後者(教育)がどの程度成功したかは分からない。このことをおそらくフィヒテは予感していたようである。彼が教育と発展を、特に子供達において生じるのが常であるものに置き、子供たちがしばしばこうむらねばならないものを禁じるということが、別の所で意識的に起こる場合(フィヒテは予感していたようである)。しかし、これを超えて、フィヒテにおいては、自己保持の精神的な部分の否定的なものも、この義務の積極的なもの全ても、あたかも下品な人里離れた場所であるかのように、次のもの全ての乱雑な容器である。すなわち、道徳的に見えるが、体系のそれに続く場所の形を損なう可能性のあるようなもの全ての(乱雑な容器である)。なぜならそれは、法則や秩序なしに、様々な命令の最高に不確かな多様性を含んでおり、それは、さらに悪いことに、ほとんど無限に自らを分裂していく間接的な振舞いを形成するが、これは、上で十分に示したように、倫理学においては全く許容できないものだからである。〈197〉したがって、身体を養う為には節制と秩序が命じられ、精神を発展させるためには、美しい芸術が奨められる。それがあからさまなものであれ、隠されたものであれ、どんな不活動も、すなわち、記号との空虚な戯れや、疎遠な思想の受身的受容などは禁じられる。ここで誰の目にも不可解なことが二つある。一つは、なぜこれはどこかで終わるのか、そして、なぜスピノザ同様フィヒテも全ての義務と徳を自己保持から導き出さないのかということである。その際次のような差異は常に残りつづけるだろう。すなわち、義務や徳は、スピノザにおいては、倫理学において当然であるように、互いに並列的に、その共通の根拠から生じるのに、フィヒテにおいては、全く非倫理的に、一つが常に他のために、目的に対する手段として見出されるということである。もう一つは、これら全ての命令がここで不確かになればなるほど、そして、それらの対象が、導出の痕跡が一切なしに、経験から前提されるほど、次のことがすべての人に対して一層活発に沸き起こることである。すなわち、それらが倫理学において全く威信を持たないか、または、それらが他の根拠に基づかねばならず、ただ他の場所でだけ妥当性を獲得できるということである。したがって、私たちは、この奇妙に結びついた多様なものを分割する場合、先ず注意すべきことは、この吸収したり吐き出したりする享受の適度さが、自己保持の部分または手段としてどのように提供されてるか。あるいは、人はどのようにして、身を養う欲求や性欲を、自己保持との関係でまとめたり区別したりできるのかということである。

*これはフィヒテとカントにおいて見出されるが、カントにおいては自己保持の下にではなく、それと並んで、動物的な本質としての特質における自己自身に対する人間のその他の義務としてであるが、その分離孤立化は、彼自身の概念に従えは、根拠の無いことである。食料摂取における節度が独自な義務と呼ばれていることは、両者のうちの年長者(カント)においてはある点で、むしろ大目に見られるべきである。なぜなら、彼は、自己愛に属するものを、それが保持あるいは享受に関するものであれ、道徳的に産出しようと望んでおらず、〈198〉それを道徳的に限定することで満足しているからである。したがって、彼にとって、独自な衝動と思えるものは、独自な義務をも要求するのである。しかし、この点に関しフィヒテにとってはそうではない。というのは、フィヒテによれば、自己保持の為になされることは、ただその制限によってのみならず、それ自体道徳的なものであるべきだからである。したがって、ただ生を維持する為だけに食料を摂取するのであれば、この目的によって、同時に行為の限界も定立される。そして、それが命令として与えられているように、それは〈もはや起こるべきではない〉というような禁止をもはや必要としない。それはむしろ行為への他の不道徳的な衝動を前提とする。[...]このことは、その全体的な延長において考える時、次のような結論を与える。すなわち、この境界に至るまで他の原理によって要求されるそのような行為の限界の道徳的規定としての適切さは、個々の徳の概念では全くあり得ない。なぜなら、実在的積極的倫理学においては、この限界内に決定されたものは、道徳的ではないか、あるいは、限界の決定が、義務の構想に基づいているか、あるいは、徳としてではなく、義務としての統一と妥当性を持っているかである。しかし、否定的限定的倫理学においては、これは全くの徳であり、他のものは存在しない。したがって、ここからもまた、フィヒテの場合においてと同様に、不可能性が生じる。なぜなら、カントは、この非難には該当せず、食欲に関する特定の態度や性欲に関する同様な態度は、自己保持の根拠から提供され得るからである。というのは、自己保持の為にだけ別のところから与えられるものは、制限されるべきだからであり、その結果、その命令は、それが立てられたときの性格を失ってしまったからである。命令が自らもたらしたものだけを命令は限界付けるべきであるなら、この場所で性欲は問題になり得ない。次のことは除くとしても、すなわち、それは全く非学問的であり、ましてや倫理学においては、〈199〉実在性そのものよりもむしろ実在性に対する限界が与えられ得るべきである(ということは除くとしても、ここで性欲については問題になり得ない)。しかしながら、私たちは、この衝動の扱いが結婚という状態において無制約的な義務の下で再び重要だからという理由で、その場所を評価しようとしないのではなく、結婚という目論見において、義務あるいは徳であるもの全てをまとめて探求したいのである。彼が、そこにおいてこの衝動を道徳的衝動に変化させたり、道徳的衝動と結びつけたりしたことを前提すれば、自然な性欲を満たす行為は、その衝動からではなく、むしろ、あらゆる道徳的行為の源泉である共同的な力から道徳的に生じる。したがって確かなことは、他ならぬそこに、行為の根拠と共に、その限界も与えられているに違いないということである。なぜなら、そうでなければ、実際に義務が立てられることは無いからである。しかしその場合、さらに、この限界内に置かれたもの全てが義務として提供されねばならない。それもその場所にふさわしく、無制約的な義務として。したがって、何かが義務として見出される場合には、自然に従って類の繁殖のために為すことが可能なこと全ては、それが一夫一婦制という狭い範囲においてであろうと、あるいは一夫多妻制というより広い範囲においてであろうと、自らを目的と為すことが可能であり、それから、この義務の実現においても、自己保持は全く顧みられることはない。しかし、次のこともまたそこでは決して実行されることはなかった。すなわち、栄養摂取による自己保持において起こったのと同じように、この衝動を倫理化することが実行されることはなかった。なぜなら、この衝動をただ道徳的衝動として持つという長所は、女性たちに先ず直接的に供与され、その結果、それは肉体的に、誕生以前に―というのは、それは意識にもたらされることが決してないからだが―殺されてしまい、精神的に愛として蘇るのである。しかも、男性においては、女性の恭順によって、この衝動は、応える愛(Gegenliebe)に変わり、その際、この衝動は、この導き出された道徳性に対する正当な埋め合わせの為に権利を持つのである。しかし、このこと全てが、いかに無価値で空虚な戯れであるか、とりわけ体系の原則に従ってそうであるかは〈200〉誰の目にも明らかである。なぜなら、せいぜいある英国人の推論に価値があるようでも、よく観察してみると、それがなすことは、次のことに他ならない。すなわち、先ず女性の利己的な衝動を、男性の利己的の衝動によって、共感的な衝動に変えること、それから、男性の利己的な衝動も、女性の利己的な衝動及び男性の利己的衝動に向けられた女性の共感的衝動によって、共感的衝動に変えることである。それは、この共感的倫理学の絶頂であり、したがって、その信奉者において、この徳は象徴的な徳であり、他の全ての徳の確証であるわけだが、それにもかかわらず、およそこのようなことからは、フィヒテの言う意味での道徳的なものは一切生じることができない。全て他のものは全く非学問的で、一層混乱している。すなわち、女性の同意などで、それ自体は、魅力の行為以外の何者でもなく、疎遠な欲求を善い行いで満たすようなもの、むしろ永遠の全くの献身であり、そこから結果するのは、二つの個体の完全な融合である。つまり、そのような、全く異なった道徳性の源泉を持つものたちが、さらには、男性の道徳性も、この疎遠な泉の水によって貫かれ、満腹にさせられ、総じて道徳性が、以前は、知的なものの内奥から生じていたのに、いまや、ついに、他の、おそらくはさらに美しい姿で、性欲から芽吹いてくる。この全ては、輪郭を暗示する以上のことをする為には、あまりに突出しすぎている。

*フィヒテにおいて、性欲が決して倫理化されていないことは、すでに言われたことから明らかである。それは他のところではさらに顕著である。なぜなら、カントは結婚を、ただ法律学において、合法的性衝動として許可し、総じて性欲が満たされるべき場合には、この結婚という契約を呈示したが、しかし、この当為自体を倫理学において示すことは決してなかった。ほとんどすべての他の人々、その頂点は、実践的学派の古代人たちだが、〈201〉彼らは、この衝動を、そこにおいて自然の最終目的、すなわち子孫繁栄が採用される限りにおいて倫理化した。そこからはこの義務の度合いが生じることもなければ、結婚が従属的価値以外の価値を持つこともなかった。結婚相手は副次的なものに過ぎず、子孫は目的であり、主題だからである。貞操がこの対象に関係する徳として、節制とは異なる何かであるべきであり、単に欲求の充足の度合いにおいて表されるものではなく、その独自な性格において、その充足の根底にある確立において表されるべきであるなら、フィヒテにおいて、貞操とは次のことの中に存在する。すなわち、その欲求の充足は常に、愛し愛されることから生じるということである。そのとき、この充足は、その愛の度合いでなければならず、そこにおいては、貞操以外は問題になり得ない。しかし、このような説明によって貞操が基づいているところのものは、同じ体系において、まだ倫理的概念として存在してはいないということは、前述のことの結果として生じる。これに対して古代人と、彼らに従う人々において、貞操とは次のようなことにある。すなわち、彼らにとって根底にあるのは、自然の目的(子孫繁栄)を果たすという意図である。しかし、このような意図が、この衝動全体を占めるべきなのかは、この衝動は、自然の目的と本性から平行して進むことはないし、まして過剰な衝動は、妨げとなる魅力として動物的に作用するのであるから、このことについては、独自に説明を必要とする。したがって、古代人の多くは、この自然目的の上に結婚を樹立するにもかかわらず、ある人々は、結婚を、道徳的に必然的状態として、あるいはフィヒテのように少なくともそのような(道徳的)努力として立てることをせず、またある人々は、結婚の他に、無目的で不自然な快楽に余地を残すが、それは、自然的魅力を片付ける最も容易な手段としてである。そこで、一般には、エピクテトスのように教える人々によって、この衝動の充足は次のように考えられている。すなわち、それは、独自な時間を満たすことも、特に情緒を働かせることもなく、一過的に生起するに過ぎないと。〈202〉しかし、自然な目的から逸脱した不道徳的なものを次のことの中に求めること、すなわち、生きた対象の代わりに、単なる画像が、情緒を働かせることに求めること、これはまったく無であり、まったく理解し難い。したがって、倫理学にとって最高に重要なこの対象が、実践的体系においていかに混乱の中にあり、第一の明確な概念を求めているか、このことは誰の目にも明らかである。というのは、享受の倫理学においては、この衝動は非常に用意に純潔なものにもたらされるからである。すなわち、静穏な快楽を目指す人々にとって、貞操は次のことにある。すなわち、すべての充足が、現実にただ静穏な状態にあること、すなわち、刺激されることのない自然な要求に従うことである。そして、その要求の規則はおのずから、その衝動自体が常に含まれている度合いに通じている。また次のことはまったく事柄に適合している。すなわち、そのように規定された貞操がこの体系にとって象徴的徳であるように、共感的な徳は、イギリス道徳哲学の体系にとって象徴的徳である。しかし、純粋な幸福主義においては、貞操は次のような条件によって説明されねばならないだろう。すなわち、どんな充足も実際は享受であり、享受のために企てられねばならない。したがって、それは自分の性格と度合いを持っていなければならない。また快楽の倫理学においては、貞操に従属し、それに自らを関係させるような羞恥心といった徳の概念は決して現れない。羞恥心は、その他の場合には、最近の純粋に実践的で、雑多な倫理学においては、羞恥の助けによってある場所を獲得した。しかし、この概念が、空虚で不安定なものであることは、容易に示すことができる。というのは、その内容は、その衝動に関係する思考と感受性を表に出さないことだからである。もしこれらが不道徳的であるならば、不道徳的なものはここでは共に考えられず、それを取り除くことこそ徳の仕事であるということなしに、いかにして徳が不道徳的なものに基礎付けられるのか分からない。しかし、それらがそれ自体としては不道徳的でないなら、次のことがまったく分からなくなる。そのような、カントが妬みについて主張しているような情緒の動きが、次のことによって、不道徳になり得るということが分からなくなる。すなわち、その心の動きが少なくともここでは不意に出現するということ、そこでは、この不意の出現は、〈203〉単なる伝達に過ぎず、その伝達を通して聞く者にもたらされ得るものとは、伝達する者自身に前もって存在しているもの、すなわち、不道徳的でないものに他ならない。しかし、思考の伝達ではなく、衝動行為の周知の遂行に関して言えば、食欲との類比から判断して、これに関しても、非難すべきことは、自然衝動についての見解とは別の見解に原因がある。すなわち、倫理的にまだ存在していない見解に原因がある。したがって、そのような観点から見れば、この概念に対するキニク派と、後期ストア派の幾分粗野な論争は、その本質とねらいに従って弁護することが可能である。

*この義務と徳とその場所については以上である。さて、自己保持とそれに付随したものとは、カントによれば、動物的存在としての自己自身に対する人間の義務であった。したがって、これに対して、もうひとつ別の完全な義務が、すなわち道徳的存在としての自己自身に対する義務がある。これに関しては、その内容が、その範囲と統一性によって規定されて呈示されることは決してなく、ただ間接的に次の三重の仕方で示される。すなわち、第一に、この義務が向けられる目的によって、それは、人間が自ら認識するものであるべきである。しかし、この目的は、その内容の大部分と、すなわち、伝達における真実性と必然的享受における完全性と、目に見える形で関連してはいない。少なくとも、人がすべて不可視なものについて〈それは認識の欠如にその根拠を持っている〉と言い得るよりも厳密に関連してはいない。第二に、この義務の実現の原理によって、同様に第三に、この義務の違反の根底にある悪徳によって。この二つの認識手段は、元来異なったものではなく、同一である。というのは、義務実現の原理とは、その際に特別な仕方で作用する徳以外の何者でもなく、また、その実現を妨げる悪徳とは、義務に対して〈204〉ただそれらに対立する徳に逆戻りすることによる認識手段に他ならないからである。それにもかかわらず、ここ(カント)においては、この原理は、そこから個々の原理を認識するためには、あまりに遠くに呈示され過ぎている。というのは、名誉心には、個々で引用される三つの悪徳のような、あらゆる悪徳が、同時に非常に対立させられており、たとえばなぜ怠惰が、人間を、虚偽や自己蔑視、あるいは自虐のように、嘲弄することがないのかは、誰も分からないからである。然り、もし名誉心が次のことに基づくのであれば、すなわち、人間は、原理に従って行動するという長所を断念することは許されないということ、そして、このことが、個々で扱われている義務に対する最高の共同的定式であるべきならば、ここには再び次のような完全な義務がある。すなわち、他のすべての義務を自らの中に把握し、特に不完全な義務概念からその実在性を完全に奪うような義務である。というのは、このようなあり方において、すべての行為が次のような格率の下に立つからである。すなわち、それらの行為は原理に従って規定されねばならず、したがってまた、不完全な義務の格率の自由な遊技場に陥るであろう行為も、このことは、この区分とその根拠の不合理性に、新たな展望を開く。しかし、私たちがその統一性を放棄し、この義務の、個々の非常に異なった構成要素に目を向けるならば、確かに先ず、誰もが次のことに驚くだろう。この反幸福主義的体系において、幸福な生の享受を、必要の範囲内においてであるにもかかわらず、道徳的本質についての完全な義務として、しかもその保持から分離されて要求されているのを見出して(驚くだろう)。というのは、刺激する手段として快楽の使用は、フィヒテによっても拒絶されていないからである。もちろん快楽が要求されるのは、享楽の為ではなく、自由な思考様式、すなわち、単なる所有に依存することからの自由を、確実に意識する為である。しかし、これは、疎遠な幸福に使用されることによって、体系の原則と精神にはるかにふさわしく達せられるだろう。したがって、この義務の特別な根拠は認められるべきでないということ、そして、もしそうでなければ、〈205〉自己自身に対する義務は、他者に対する義務と一つのものとして、しばしば示されたのであってみれば、ここでは、第一の種類の義務が、むしろ第二の種類の義務に変わらねばならないように思われる。しかし、この義務の反対として、またこの義務を制限する為にカントは、問題が多いにもかかわらず、もう一つ別の義務を、すなわち、節約という義務または徳を打ち立てる。この概念が彼の手から生じる仕方が不確かなので、法則に対する関係がなければ、目的を伴わない単なる享受の断念として、この概念は倫理的概念ではあり得ない。しかし、人がこの目的を補うとして、それは、享受がそれ自体享受として要求される限り、享受は断念されるべきであるということと同一的に起こり得るとするならば、享受は倫理的ではあるが、しかしもはや、排他的に所有権を自らの対象にするというその特徴とは一致しない。しかし後になって、この概念はさらにもう一度、内的尊厳保持の為に必要な独立を確保する為に、賢さの方策として現れる。すなわち、技術的な規則としてであって、直接的な義務としてではない。同様に、それは他の人々によっても賢さに数えられている。しかし、これが規定されたものの予見と考えられるべきであるなら、それは、これ自身と同様に、節約の反対も命じることができるだろう。したがって、それは、その反対も道徳的である限り道徳的であるに過ぎないだろう。しかし、賢さが、ただ、非予見的な意識にのみあるべきならば、節約の道徳性は次のような問いに基づくことになろう。すなわち、人はどの程度、所与の目的を、まだ知られていない目的の為に犠牲にすることが許されるかという問いである。この問いは、古代人によって出口を見出す技能と説明された賢さの一部によって、否定的に答えられ、その賢さの一部は、実践的体系によっても本質的なものと認められ、キュレネ派の体系においては、この主要な徳の全内容をほとんど形作っている。他者あるいは無制約的普遍者に対する義務の下でも、節約はフィヒテにおいて、所有権一般を作る手段といて現れる。そして、徳としてのこの観点において、正義に属する。〈206〉義務付ける程度、及び体系における場所と範囲のそのような不確かさから、次のことは十分明らかである。すなわち、もし人が概念の特徴付けを確保するならば、節約とは、何かを遂行するある種の方法以外の何ものでもないこと、その倫理的価値は全く不確かであり、したがってそれは概念にしたがって倫理的に成立したのでもなく、その統一性はむしろ別の領域にあるのでなければならないということである。しかし、節約が結びつくことが可能な倫理的なものを人が求める場合には、人はその特徴付けを超え出なければならない。そして概念の統一性は消失する。したがって、外面的な対象に向けられた関係の中に、確固とした倫理的が含まれることの不可能性を示すのに、他の事例は不要であろう。自己自身に対するその完全な義務の第二の部分は、誠実さである。この名称の下にカントは、他の全ての人と異なり、おそらくは空間の必要にそそのかされて、体系に対してのみならず、言葉に対しても暴力を行使し、二つの全く異なる概念を一緒にまとめてしまった。そうでなければ、一体誰が、彼が内的虚偽と呼ぶものを、言葉における不実によって一つと見なすことができるだろう。あるいはそれらの内的虚偽を、誰かが自らに言って聞かせる故意の不実と見なすことができようか。というのは、ここに必然的に本質的なものが属するからである。そして、どのようにして人はその一方を知り、その反対を信じたり、信じようと欲したりできるのだろうか? むしろその知は非知でなければならないか、あるいは信仰は不信仰でなければならないか、またはその両者でなければならないかである。そして後二者の場合こそ、カントが意図していたものに他ならない。というのは、知の欠如は、現実的な信仰と結びついて、少なくとも不完全あるいは不正な認識の誠実な所有であり、決して虚偽の烙印を押されるべきではなく、誤謬は、十分に進んでいない探求に過ぎず、その根拠は、心の態度において、自己認識の弱すぎる意欲である。しかし、カントが暗に示唆しているものは、不誠実な所有であり、仮に知は欠けだらけでも、それは、意図的に中断された探求と見なされねばならない。〈207〉その結果、真理として生じるものに従って行動することができなくなる。したがって、不道徳的な心の態度というものがあるとすれば―それは知の周りにもあるように―、それは、真理―それがすでに見えるものであれ、予見されているに過ぎないものであれ―に従って、行動しようと欲しないことである。そして、これはカントが言うように、道徳的完全性を高めるのに特に有能な不快であり、それに対する形で、命令が、そのように表題を付けられた義務の下で現れねばならないのである。外的な誠実さに関して言えば、先ず問われるべきことは、発話における誠実さと、約束事における忠実さとは本当に同じであるかということである。なぜなら、すでに上で詳述されたように、契約の遂行は独自な行為ではない。というのは、そのために新しい決断が必要ではなく、これはすでに、法と言語の共同作業を引き起こした人の中に把握されているからである。と言うのは、前者(法の共同作業)によって、絶えず意欲の行為がその遂行と結び付けられ、後者(言語の共同作業)によって、特定の形式と条件の下における語りが、意欲の行為に変わるからである。決断は倫理的に見れば、行為である。そして、この決断を、他の人に、自分とその人の知と共に手渡すことによって、私は彼に行為を手渡しているのであり、その行為から私は、まだ欠如している外面的なものを分離することはもはや許されないのである。このことを十分に理解しないことによって、フィヒテもまた、彼のその他の徳に対して、この概念の明確さを損なっており、そのために、道徳性に絶対的に対立するものと、対立はしても絶対的にではないものとの間に、〈彼の為に私はこれをしなければならないが、あれはする必要がない〉というような不確かな区別を導入しなければならなかった。したがって、契約における忠実さはもちろん言語の共同作業に基礎付けられるのではあるが、これは発話における誠実さには通用しない。なぜなら、ここにおいて言葉の多義性を隠れ蓑にする人は、ただ彼の不義に別の姿を与えようとしているに過ぎず、本来的な不義は、常に、〈208〉それでないものを他者に信じさせようとする意図にある。しかし、このことは、約束事における不実については、ただ特別な場合にしか言うことができない。すなわち、すでに初めから約束を守る意思がない場合についてだけ言えるのであり、その意志が現実に前提されている場合はいえない。忠実という義務あるいは徳は、両者の場合を包括しているのであるから、その根拠は、他の共同的な根拠でなければならない。さらに、同じことは次のことからも明らかである。すなわち、発話における真理と、約束事における忠実とは、抗争関係に陥る可能性があるのだから、何かを発話しないという約束が存在するし、存在し得る。それは、問い掛けられた場合に、ただ何も発話しないということによって、すでに損なわれている。ここから自ずと結果することは、一方あるいは双方がさらに制限されねばならないということである。発話しないことが、絶対的不道徳と見なされねばならないとするなら、それを約束することは不道徳であろう。しかし、さらに困難なのは、それが他の側面からは必要であると、誰に対しても表現されねばならないことである。というのは、フィヒテのようにこの義務を制限して、それはただ他者に直接役立つものを目指す場合のみとすれば、このような条件は、確かではないし、なぜなら、判断の規則は、私にとって直接役立たないものについてもその人が打ち明けることを前提としているから、また、完全でもない。なぜなら、フィヒテは、その際ただ特別な事例だけを視野に入れ、ここで引用されているような他の事例は見ていないからである。

*それからまた次のことも問われるべきだろう。すなわち、この誠実さは、約束事における忠実が、その誠実さから分離された後にも、義務として一つなのか、それとも徳として一つなのかということである。なぜなら、後者()としては、それ(誠実)は、一方で、単なる自然的な、つまり最も低い善意の表現に過ぎないように思われる。すなわち、常に特別で独自な意図がそこに属することにより、真理から逸れることによってそうなのである。あるいは、これがそれ自体で存在する行動様式であるところでは、私たちは徳を常に悪意に還元し、そして、他者の目的―それは未知であるにもかかわらず―を破壊するというねらいに還元する。〈209〉他方で、自分の長所のゆえに、真理を発話において損なう人は、利己的な人とは全く違う評価をされる。これに対して、誠実さが前者(義務)であるならば、誠実さの表現であるはずの命令が、目的をあからさまにか、あるいは前提を通してか、いずれかによって呈示しなければならない。そして、その目的によって、誠実さの限界が規定されるが、誠実さは、この義務に必然的な形式を今に至るまで、まだ決してもっていないように思われる。さらにカントは、奇妙な仕方で、仕事や真剣な用件に於ける誠実さと、交友における誠実さを混同している。そして、杓子定規に次のような問いを投げかける。すなわち、社交的な言葉において、辞書にあるのとは違う意味を持つ語り方の使用は徳に反しないかどうかという問いである。そのような意味は、共同的であり、誤謬の原因にはならないからである。したがって、このような習慣の使用は、誠実さという理由で非難されるべきでは決してない。むしろおそらく、その発見の理由は、自らを破棄する無駄な企てとは別である。しかし確かに、この関係の決定的な差異のゆえに、交友の誠実さを―彼はそれを比較的大きな範囲で理解していたにもかかわらず―仕事の誠実さから全く分離することをあえてしたのである。フィヒテにおいては、このような分離に対する根拠はもちろん見当たらないが、しかしまた誠実さを単なる気晴らしになる対話に拡張するような誘因もどこにもない。なぜならフィヒテは、そのための義務を、カントのように、自己自身に対する人間の関係に基礎付けることはせず、他者の自由の使用の促進に基礎付けたからである。似たような体系における義務の根拠のこの差異は、少なからぬ疑いを喚起する。フィヒテが、誠実を、善行と同じ根拠の上に立て、したがって、心の態度として両者を一つと見なすのに対し、カントは、義務と見なして、誠実を、善行と抗争関係にあるように立てる。彼が善行を、その本来的道徳的性格において記述しているように。なぜなら、〈210〉彼は、他者に対する義務を、次の二つに分ける、すなわち、それによって、義務の実行者が、他者に義務を課するような義務と、このようなことが起こらない義務とに分け、しかし、善行は前者に移し変えた後で、彼は次のことを欲するのである。すなわち、善を行うものが、それによって他者に義務を課すような見せ掛けは、注意深く避けられるべきであると。しかし、これが明らかに意味しているのは、他者に実際にはそうでないことを信じさせることである。あるいは、善を行うものは、その区分の真理を洞察しているにもかかわらず、同じことを説得しようと欲しなければならない。そして、表面的嘘を避けるために、内的な嘘へ逃げ込まねばならない。

*この、他の所でも賞賛され好まれている次のような徳あるいは義務、すなわち、道徳的行為の価値を、それが単に他者に対する表面的なものであろうと、あるいはそれが可能な場合には自分自身の意識においてであろうと、その価値を低下させる徳または義務は、吟味の中にあるカントの義務の第三の部分とも関係している。すなわち、それは独自な道徳的価値への要求を断念することを禁じる。カントはこれにさらに運動の根拠を加える。すなわち、他ならぬこの断念によって別の価値を獲得するということは、思いにおいて生じるべきではないと言うのである。あたかもこれは、一つの独自な義務であるかのように、しかし、もう一つ別の義務は、誰かの好意を得るために同じ事をしないということである。これはすでに形式において誤っている。なぜなら、道徳的価値の確保は、すでに道徳的な実在性であり、これを、全ての不道徳的な衝動に対して固く保持することは、常に同じ義務に過ぎないからである。しかし、不道徳的なものの差異性は、道徳的なものの分割の根拠ではあり得ない。その上、先の運動根拠は、出来の悪い定式である。なぜなら、そこで考えられている価値は、道徳的でない価値と思われており、したがって、その定式は、全て残りの定式を自らに含み、違いはこの点から見ても無だからである。しかし、その価値が道徳的価値と考えられるならば、その定式は、次のようなものに解消する。何か不道徳的なものを道徳的なものの代わりに保持するのではない定式に解消される。ここでの道徳的なものとは、同様にそれがあらゆる特別な事例に対して、独自な義務として引き出されるならば、義務の本来の系と並んで、さらに〈211〉もう一つ別の同じように進行する系をもたらさねばならず、それはただ義務についての誤謬を避けるということを言い表す。しかし、事柄自体に関して言えば、さらに二重の意味が生じる。すなわち、現実的な心の態度や業に基づく主観の道徳的価値が、評価の対象であるべきなのか、あるいはその人格における人間性の普遍的価値がその対象なのか、それとも両者は区別されるべきではないのか。いずれにせよ次に生じるのは、他者を評価する公平さによってこの自己評価を制限するもう一つ別の義務である。その結果、二つの義務は互いに他を破棄しようと努め、したがって、立てられた原則にふさわしく、義務として立てられることは決してなく、ただ道徳的に不確かな行動様式として定立されるに過ぎない。この行動様式は、義務になるために、共同の原理に関係しなければならず、同じ原理を通して、自らの中にある全ての行動様式を、他の様式に対する全ての抗争を破棄することによって、限定し、規定するか、あるいは、おそらく、独自なもの疎遠なものへの顧慮を破棄することによって、両者は、一つの同一なものとして、描かれる。これはしかし、カントにおいてのみならず、至るところで欠如している。なぜなら、至るところで、控えめであることと、自尊心とは抗争の中にあり、ある場合には前者に非常に多くが譲り渡され、後者には余地がなく、またある場合には、後者が非常に広く拡大し、前者の出る幕がなくなる。それである人々には、控えめさは卑屈と思われ、他の人々には、自尊心は高慢と思われるのである。そしてさらに、その内容は、より厳密な観察においては、全く揺れ動き消滅する。というのは、道徳的性質の承認自体は、特別な義務ではあり得ないからで、それは、全ての義務への服従の根底にあるからである。したがって、この点では、それは、あの特別な義務、すなわち、義務を動機の為に作るという義務に勝るものではない。しかし、他の人々がこの性質を承認したということは、彼らが共同して現れ、いつまでもとどまる人々との関係において前提されねばならない。そして、彼らがこの前提に対して、外見にしたがって、戦いを為すことができるということは、この持続的な市民権を凌駕することは決してできない。したがって、ある人の他の人に対する何らかの言葉や行いを〈212〉次のように解釈することもまた困難である。すなわち、それが彼の道徳的性質の持続的な見誤りから成立したと(解釈することは困難である)。なぜなら、通常そのようなものとして引用されるもの、すなわち、ある人が他の人を奴隷として所有するとか単なる戯れの道具―それは他の人の娯楽の為に、情緒のあらゆる任意の力を動かさねばならない―として所有するとして、このような状態も、しかし、そこでは共同作業のどんな痕跡も消えてしまっているというようなものではないし、また、そのような状況は、他の誰もが許可されたと認めるような状況と、ただ程度の違いであるということも否定できない。しかし、この評価が、共同的性質を目指すのではなく、各人の特殊な道徳性を目指すのであれば、これを正しく認識し、評価するということは、各人に対する義務ではあり得ない。なぜなら、不正な言明は、それが単に計算違いから、吟味する悟性の仕事の最中に生じたのであれば、不道徳と見なされることはできないからである。そうではなく、義務とは単に、そのような方法に従って探求を試みることに過ぎず、その根底に、不道徳的前提は存在しない。このことは、しかし、誰によっても主題と見なされてこなかった。そして、不正にも、自尊心の義務と呼ばれてきたのである。他者を、私たち本来の道徳性の承認へと動かす固有な義務が存在すべきだということ、このことは、フィヒテにように、友情を全く見誤ったり、カントのようにそれを非常に狭く限定したりするならば、考えられない。なぜなら、私たちが、不当な判断に基づいていると思われる行為に逆らうという義務は、運動の根拠に関係しているのではなく、その行為の性質にその根拠を持つからである。その認識を修正するという願いに対して、私たちについての判断と同じく、他の人々についての判断も対象でなければならない。したがって、考えられている義務のこの部分が、広がっていく真理愛に属するということ、それに対してはしかし、もしそれが、別に何か実在的なものであるべきならば、別の場所が求められねばならない。〈213〉しかし、混乱の原因は次のことのように思われる。すなわち、道徳的な価値とその承認とが、市民的価値と混同されているということである。このようなことは、不利な影響についての良い評判を扱う際には至るところにあった。

*このことは実践的倫理学に関係していた。しかし、幸福主義の倫理学には真理はそれ自体としては全く存在せず、ただ自然的偶然的なものの真理だけが、その前に快不快の発生に対する影響が存在している限り、ある特定の価値を持つ。現在的なものの真理について問いは生じ得ないし、過去的なものの真理は、さらに少ない価値しか持たない。むしろ、道徳的自尊心は、判断の自然の錯覚―それはしばしば産出されたものとして、偶然達せられたものを呈示する―によって、また記憶違い―それは過去から常に痛みよりも快楽を引き出す―によって、道徳性、すなわち快楽を増すに違いない。その結果、この錯覚をもたらし、習慣となすことは、課題にさえなるのである。真理は、他ではさらに少ない価値しか持ち得ない。正しく有利な考えからよりも、不利な考えから、より多くの快楽がもたらされることがしばしばである。したがって、次のことは、この生活様式の真の達人によって、徳、すなわち、賢さの方策と見なされている。すなわち、人が真理と栄誉とに固有な快楽を帰そうと欲する場合、その変わり易さゆえに、無制約的な価値をそれに添えないということである。同じことは共感的な倫理学にも当てはまる。他の倫理学の中で、この倫理学に対しては、固有な行為の価値の減少が、疎遠な感情の保護の為に、誠実さの自然な境界である。そして、そこから、善行という錯覚、幸福な誤謬などなどのあらゆる表象が生じた。これをその道徳性に従って判断することは、今の課題ではない。しかし、そこでは真理が全く消失しているということは、〈214〉明らかである。そして、これら道徳の教師達の幾人かが、正義に対する彼らの憎しみをはっきりと公言したならば、なぜ彼らが〈真理を示すことは、人間の特質である以上に時計の特質である〉となぜ語らないのか不思議である。自尊心と控えめさを統一する規則も、―これは、しかし、この体系で要求されるが―真理ではあり得ない。そうではなく、対立する快不快の十分な吟味であり、その場合、その不安定さは、それらの概念に、その内容の確かさを残すことはない。別の理由から、フィヒテには、自尊心の義務も、自己認識の義務も欠如している。なぜなら、彼は、本来の義務論において、単なる内的行為には場所を明け渡さないということを、法則にしたように思われるからである。したがって、私たちの道徳性についての他者による判断修正も、固有な義務ではあり得ない。なぜなら、直接的には、判断の修正は、その自由に対する愛から、その判断が直接的に自由に対して実践的であるところではどのような場合でも、結果するからである。しかし、間接的には、次のこと以外、それについては生じることができない。すなわち、その目的に対する関係が、伴う意識に過ぎないようなところで、各人が、自分の道徳性を行為によって叙述することである。

*さらにカントによって、呈示されている特殊な義務、すなわち、道徳的完全性の高揚という義務も同じような状態にある。なぜなら、この格率は、第一部で述べられたように、最高の倫理的イデ―として表象され、単に行使するだけのどの義務にも対立しているが、同様に、この格率は、個々の義務と考えられて、あらゆる瞬間に規定される使命のイデーに対立しているからである。すなわち、この使命のイデーによれば、本来道徳的な努力というものは、あらゆる瞬間に義務を全く実現するということに過ぎない。それは、うまくいったとしても、完全化の更なる要求に余地を残さない。しかし、これが過去との関連でその都度うまくいくということは、一部は、義務認識によっていずれにせよ解消され、不必要にされる自己認識を前提としているし、また一部は、独自な行為において自らを表現できず、〈215〉いずれにせよ、単に内面的な意識、特定の義務実現を伴う反省的意識にとどまる。他方でフィヒテも、単に内的な行為を完全に排除するその法則に、忠実にはとどまらない。なぜなら、彼は道徳性一般を促進する義務を立て、その義務によって、彼は次のことを洞察する。すなわち、それは独自な行為を引き起こすことはできず、各人が自分の責務である善を実行することによって満たされるのである。したがって、その義務は全く無であるか、この実行を伴うあの意図の意識であるかのいずれかである。したがって、そこには次のような誤謬が存在する。すなわち、その発言の公式の正当性についても、また概して、義務のこの領域についての彼のねらいについても、懸念を引き起こすに違いないような誤謬である。彼の無制約的で特殊な義務の中には、それを、制約された同じ義務と比較する時、少なからぬ不確かさと混乱が存在する。先ず、次のような疑問が生じる。彼の立場を、傾向性によってではなく、理解(Einsicht)によって選択するという一般的規則は、どのようにして自然的立場にまでも―そこにおいてこの選択が全く排除されることはないとしても―及ぶのか。というのは、愛もまた、そこに自然的衝動が混入している限り、自由に依拠しているのではないとしても、他ならぬこの説明が示していることは、愛の中に何か他のものが存在しているが、しかし、それは自由に依拠しているということなのである。したがって、この他のものが、特定の人格との関連で、自然的衝動と結びついているかどうかを決定することは困難であり、それは選択の問題である。また、この選択において、その理解(Einsicht)が決定できるのか、それとも他のものがするのかも(決定困難である)。同様に、衝動を満足させ、子孫繁栄をもたらす行為が、常に衝動から生じなければならないとしても、しかし、〈衝動がその行為を要求する時には、その都度この行為が生じなければならない〉と言われることはない。したがって、その際に生じる判断が、親の関係の写しというねらいで、自由な選択に関係しているかは決定されない。この点では、古代の道徳の教師たちの方がはるかにはっきりしている。彼らは、結婚を子供のためにだけ定まることによって、〈216〉妻に対しては選択の根拠を、子供の数に対しては、効果的な度合を呈示することを止めることはなかった。そして、私たちの間では、何処でも倫理的な判断に引かれることはない多くのことが、彼らにあっては、この点で恥ずべきことであった。そのような確かさは、しかし、学問の為に要求されねばならない。そして、結婚の独立性によっても、喜びと不自由の混同によっても、不可能にされることはない。さらに、職業の規定と区分も、ある場合には、原則によってではなく、手元にある基準によってなされるよう見え、しかも、一面的であって、決してどこかで、一人の人格における様々な統一の結びつきが問題になることはない。またある場合には、より良い理解による職業の自由な選択の規則に、対立しているように見える。なぜなら、その様々な種類は個々では次のように構成されている。すなわち、一方が他方に、単に市民的な理解においてではなく、倫理的な理解において従属するように示される。しかし、理解による選択には、特に、本質的相違についての知識が属し、そこから生じるのは、人は自由に、高度に教養ある人間に属するという要求を断念せねばならないということであり、このことは、精神的力における自然で生得的な差異が、その種類にしたがって、受け入れられるのでないなら、いずれの場合も、選択する者自身か、あるいは、その人を前もって理解に従った選択へと形作ったはずの人のか、あるいは最後に、両者が属する共通なものの不道徳的な行為様式を前提とする。その結果、どの場合であろうと、その規則の前提のもとでのそのような区分の可能性は、不道徳的なものに基づく。したがって、個々でもここの概念について、それらが理解されるあり方について、また、いかに、与えられた命令を通して、それらに十分なことが起こるのかについては、これ以上語る必要はない。

さて、他者に対するいわゆる一般的な義務に移ろう。他ならぬここでは、義務概念と徳概念の混同は、もはや個々の事例においてではなく、〈217〉ほとんど全般的に現れる。したがって、この形式の混乱は、個別に述べられるのではなく、これらの概念の関係について言われたことが、再びここで全てに対して引き合いに出される。そして、義務の為に見積もられた定式が、不十分にかつ不確かに、徳をさらに少なく特徴付けたり、その逆も可能になる。この説明にしたがって、前記のことは、先ず次のような関係に結びつく。すなわち、そこにおいて、概して自発的になされる倫理的自己服従が考えられるような関係、すなわち、善行と感謝の関係である。フィヒテにおいては、しかし、善行は、どの実践的倫理学に対しても、最も首尾一貫して必要を満たすことに全く関係させられてはおらず、ただ全てに対して、感覚世界における自由と道徳的行為の共通の条件として立てられたものに関係している。したがって、貧しい者も、少なくとも全ての人から共通に―たとえ各個々人からではなくとも―善行の行使を自分の権利として要求できる。したがって、感謝は―完全に消滅することはなくとも―その場所を変え、善行をした者に対する貧しい者の感謝はもはや義務ではなく、むしろ義務であるのは、自らそれを気取る全権大使として、その義務を満たそうと望んだ個々人に対する卑しさの感謝である。しかし、ここで注意しなければならないことは、一方で、このようなあり方では、善行もまた純粋な義務であることはできず、状態に基づくに過ぎず、その状態と共に、より良い時に消滅しなければならず、その止揚は、道徳的必然として示されるということである。このようにして、カントが望んだように思われる観点において、愛の義務の法的義務への変化が、道徳的に美しい全体としての世界の叙述を妨げることなしに起こる。しかし他方、善行は、フィヒテがそれを呈示したように、通常の概念を満たすことはなく、そこに含まれているのは、概念の精勤さである。この分離された概念に〈218〉フィヒテにおいては、あの、その他の時には全体に内在している不当性が退いたように思われる。なぜなら、ある使命が立てられるや否や、各人は、各瞬間に自分の目的―それは確かに倫理的であるが―の為に何かを遂行しなければならない。そして、他の人の目的を支援する試みは全て、一方では、禁じられた冒険的な徳行使の追求である。なぜなら、そのような試みは、放棄された特定の義務、間断なく継続している義務を無視することだからである。しかし、他方で、それは、私が知っているものの方よりも知らないものの方を選ぶ屁理屈、越権である。それゆえ、精勤さに関して残るものは、様々な使命のあり方の自然な相互理解だけである。その意識およびそこから成立する高い立場に対する低い立場の尊敬の中に、感謝もまた全くカント的な意味で、善行を行う者に対する尊敬、好意に対する返礼の努力として潜んでいるが、それもまた全くこっそり紛れ込んだ不道徳的なものに基づくに過ぎない。このことは、しかし、カントにおいて、感謝と善行の場合さらに明らかで、両者は共にある全体をなしているように、実践的イデーの根拠の上に、幸福―それが自分のであろうと、疎遠なものであろうと―に関係する義務が立てられているところでは何処でもそうである。カントにおいては特に、善行は次の前提に基づいている。すなわち〈各人は、自分が危機から救われるべきであることを望んでいる〉という前提である。しかし、この意志は、実践的倫理学においては、道徳的欲求でないことは確かである。そうではなく、危機においても徳の実行や義務を果たすことは可能なのであるから、この状態が、道徳的現存在を端的に破棄するということはない。したがって、この状態を変えるという意志は、与えられるはずの褒賞に応じて、道徳的になったり不道徳的になったりするのである。しかし、そのような自己服従の褒賞は、それによって不断の道徳的不平等が引き起こされるところの感謝の中に定立され、さらにその感謝は、偶然、すなわち善を行う機会に基づくのであり、〈219〉心の態度―この点において困窮者は、善を行う者と等しくあり得るし、勝ってさえいるのだが―に基づくのではないから、そのような褒賞はいずれにせよ不道徳的であるし、その関係は、感覚的目的のゆえに道徳的価値を軽視することである。然り、すでに、善を行う者に、少なくとも等しい、本来的には無限な返礼への要求が許されていることによって、善行の可能性と共に、道徳的奴隷状態の可能性も倫理的に定立されねばならないことになる。そして、危機からの救済は、自由が法則に適った仕方で売られ得る代価となるだろう。その結果、感謝が前提とされると、善行への義務を負わせる根拠は不可能となるが、しかし、その根拠に感謝は再び依拠するのであり、したがって、義務の体系は、その相互関係において全く許容できないように思われる。しかし、もし善行も他の根拠に基づき、したがってそれ自体で存在できるとするなら、感謝は実践的倫理学にとって、全く許容できないものとなってしまう。感謝が単に自己享受的な善行にのみ関係させられるや否や、人はその概念をも限定してしまうからである。というのは、道徳性に関して、享受的な善行の運動根拠において、最大限の確かさが獲得されるとしても、しかしこの個人的な関係からは、尊敬が生じることはできない。そうではなく、この尊敬は、全て他者に対してなされた善行にも、それらが道徳的なものとして皆に知られるように及ばねばならず、心の態度―それは活動的な証明における外的状況を通してのみ妨げられた―にも及ばねばならない。しかし、等しい職務に義務を課することは、さらにその上に、善行全体に義務を課する根拠に基づかねばならず、したがって、先行して受け入れられている善行を必要としないか、あるいは、この先行の善行と抗争状態にあるかのどちらかである。したがって、両概念のさらに別の新しい規定が必要である。幸福主義においては、感謝が報酬である限り、それは再び、その結合を解消する以外の意義を持たない。このことが前提としているのは、これが不快を作るということ、〈221〉したがって、善行をなす者が、その受取人と全く無関係に行為する。このようなことはそれなしには考えられず、ただその予見された不快を快―それは彼に報酬から生じるのだが―獲得のための手段として用いる。あるいは、彼の目的が、善行に予想される固有の快楽に向けられたのであれば、彼はこの目的を超えたのであり、それに対して彼は、見返りとなる快楽を得ていないのは確かである。あるいは、感謝は、新たな善行へと鼓舞する誘因である。しかしその場合感謝は、一部では受容する善行への関係を失っており、同じ理由から次のような全ての人、すなわち、善を行うことができる場合に、そのような誘因に敏感で、それを必要とする全ての人に対し、証明されなければならない。そのような点においてそれは先の善行と全く同一であり、その概念の本質的特徴は、この概念が道徳的であるべきである限り、他の所で求められねばならないだろう。また一部では、道徳的根拠が次のような期待のために立てられることはない。すなわち、快楽がその受取人を動かして、発起人に再び快楽を作り出すという期待である。それと結びついた振り払われねばならない不快が予見されれば話は別だが。このような場合には、善行と侮辱との間に、あるいは感謝と復讐あるいは損害賠償請求との間に、最高に混乱した驚くべき同一性が成立しなければならなくなる。しかし、さらに、両概念は次のように制限されることになる。すなわち、本来それと結びついていた快楽との関係において、その所有者自身に再び役立つものだけが、他の概念に適用されるということである。これによって両概念は、自由な交換の概念に移行し、本来的な関係は全く残らない。しかし、共感の倫理学において、全く類似したことがどのように生じるかをさらに詳述することはできない。同様に誰もが次のことを洞察するだろう。すなわち、善行も、それ自体として見れば、義務あるいは徳として立てられるためには実践的倫理学においてさらに詳しい規定が必要である。それは正にフィヒテの説明―それは最も確かに根拠付けられているが―によって、不確かな〈221〉命令から明らかであるように、一方では、善行の為にも誘因が現れねばならず、他方でしかし、誰もがそのためにはつましく倹約すべきである。[...]しかし、この対象について古代人、とりわけストア派が、義務の章においてより詳しく規定したものは、これによってはほとんど残らない。それは、一部は、道徳的生全般よりも、国家行政の領域に移され、一部は、その性質上、これまで言及されたもの以上に、カントもまた自分の良心の問いのもとに投げかけたもの、すなわち、善行と自己愛の境界にうまく触れるものはない。したがって、ここでもまた、真に道徳的なものにおける過剰の不可能性という命題にもかかわらず、ただ不確かな概念のみが支配した。徳と見なして彼らは、同様に善行を、正義の下に定立し、その表現として立てた。しかしながら、正義のあらゆる区分において、不義に対する反抗において、各人に等しい利益を共同体から保障する努力において、契約における立派な振舞いにおいて、いたるところで法的なものが、厳密な法的義務を超えているものと混同され、その結果、分離も示されなければ、本来のいわゆる善良さとして残っているものも見られなかった。

*活動的な支援の他にも、ほとんど至る所で語られているのが、他者に出会うものに感覚を通して参与する義務である。その要求は、実践的倫理学の通常の方法では知覚され得ず、一部はただ幸福主義の倫理学に、しかし、さらに多くは、共感の倫理学に精通しているように思われる。後者においてその参与は、利己的感情をも道徳的なものとして含んでおり、これが、個の均質性や、似たものの期待から生じる不快であるべきか、〈222〉あるいは個の対立や現在の解放から生じる快楽であるべきかは決して明確ではない。しかし、純粋な幸福主義において快楽が道徳的であるのは、ただ、混じりけのない快楽としてのみである。すなわち、自分自身の比較される幸福についての喜びとしての参与の性格を全く伴わないか、あるいは、固有な優勢な快楽―そこから常に、混入する様々な感覚の特別な魅力が問題となったのだが―としての参与の性格を全く伴わないかである。そのように見るならば、一部はこの享受をより多く恣意の暴力にもたらすという課題、また一部はこの享受を超え、それを冒涜する全てのものから解放されるという課題から、次のような命令が生じる。すなわち、その享受の満たしを現実から汲み取るのではなく、むしろ、模倣する叙述の働きから汲み取るという命令である。それによって参与の現実性は再び消滅する。しかし、このようなこと全てを切り離して、事柄を実践的倫理学の立場から見るならば、さらに大きな不確かさと混乱が現れる。というのは、先ずストア派の次のような命題、すなわち〈それによって一人ではなく、二人が苦悩する共感は回避されねばならない〉に関して言えば、これはうまく根拠付けられることはできない。なぜなら、痛みが悪でないとすれば、その伝播も悪と見なすことはできないからである。他方、この前提から、痛みを超える痛みを持つ理由が成立するわけではないにもかかわらず、むしろ、この共感がその根拠を、人間の社交的性質に持つとするなら、それは倫理的には不規定なものであり、一般的根拠からではなく、事柄から、疎遠なものがあらゆる場合に求められたり、回避されたりしなければならない。さらに、上に述べられたこととの関連で、全ての苦しみが、一般的に見て悪であるならば、悪の感情が生じるが、しかし、これは参与ではない。なぜなら、この関連において、疎遠な苦しみと、自分の苦しみとは、全く同じ仕方で観察され、扱われねばならないからである。最後に、誰かがこのこと全てを脇に置き、実践的倫理学に対して、単に次のような問いだけを残すならば、すなわち、その最も真実で、独自な悪について以外に、他の不道徳について痛みが感じられないかという問いだけを残すならば、〈223〉その不道徳さを感じないことは不道徳ではあるが、しかし、その感情を、それがあたかも恣意的に生じられるかのように、一つの義務として要求することも危険である。しかし、スピノザに、彼の見解によれば、他の全ての人との純粋に道徳的状態から、参与する悲哀が追放される。なぜなら、道徳的観察は、不完全性や悪の概念が、そもそも消滅してしまうような高みにあるからである。このようなスピノザに、人は次のように尋ねることができる。一体どのようにして、彼に思考と感情の同一性において、疎遠な堕落についての模写的な考えから、模写的な感情が分離されえるのか。また、次のような課題は生じないのか。すなわち、そのような感情を受け入れるだけではなく、体系に不可避な一貫した敬虔な喜びとその感情を同一化するという課題である。最後にアリストテレスは、善行については特に何も知らなかった。(というのは、彼の寛大さは、目的の特定の性質には関係せず、目的を遂行する仕方にのみ関係したからである。)それと同様に、彼は参与についてもほとんど知らなかった。そうではなく、彼は、妬みや意地悪に対し、境遇と道徳性の一致にのみ関係するネメシス(復讐の女神)を持ち出す。そうでなければ彼は、前者に対しても、後者に対しても、いかなる感情も引き合いに出せないからである。しかし、妬みと意地悪は互いに対立するものではなく、同一であるゆえに、いかに不正にこのネメシスが示されているかは明らかである。

*善行と参与についてのこの感情。さて、それが道徳的でありえる限り悪行についても、また、他者についての痛ましくはないが、不満げな感情について、すなわち両者を不道徳的行為と侮辱の関係において、これについて、どこかにより確かな何かを見出せるかどうか。快楽の倫理学において、復讐と寛大さとはそれ自体、道徳的でも不道徳的でもないことは明らかである。同様に、両者は怒りでもなければ柔和さでもない。そうではなく、どんな場合でも誰もが考えるように、最善は敵を傷つけず、自ら針を傷口から抜いてやることである。〈224〉それは彼にとって道徳的で正しい。しかし、共感的倫理学においては、柔和さは、自分自身の不機嫌と侮辱者への同情の混合でなければならない。この人(侮辱者)は、侮辱の瞬間には、利己的感情しか持っておらず、共感が欠如している。したがって、そのような人に同情することは、原理をそれ自体との抗争にもたらすような課題である。しかし、単に予想される後悔の状態に同情すべきであるというのであれば、このような規則は、一部は根拠がないし、また一部は、その更なる適用において、参与を破棄することは避けがたいであろう。実践的倫理学は、最後には、上の参与においてと同様、ここでも同じ困難を克服しなければならない。そして、その問いも内容に従って決定されるのが望ましいように、その後さらに特別な吟味がなされねばならない。というのは、情緒の動きそれ自体は、その原因や結果とは無関係に、規則に服しているからで、そのようなあり方で見出されたものが、一般的な礼儀作法の法則と、運動において一致するかどうかということは、これもまた正当にも、ストア派に該当する唯一の場所である。不道徳的なものに対する感情についての命令が、自分自身と疎遠な他者との区別なく、該当しなければならないのみならず、義務を課する根拠にしたがって、両者は同一でなければならない。このことは、積極的に道徳的なものに対する感情をも規定するが、これについては誰も注意しなかった。

*しかし、侮辱に対抗する振舞いについては、この種の道徳教師のある人々によって、寛大さと和解が賞賛され、他の人々によっては非難されている。状況は、先に善行との関連で感謝について述べられたのと全く同じである。というのは、ここでも行為者に対する心の態度と、行為者の処遇が区別されねばならないからである。そして、後者においては再び、〈225〉行為者との関連で直接起こったことが、その行為をその行為の対象者であるその人に対して、自己自身との関連で義務となすものから区別されねばならない。それによって、後者は弁護と代償を目指し、前者は処罰と教導を目指す。弁護はただ道徳的な作用とだけ関係することができる。どれがその実際の障害であり、どれが見かけだけの障害かが、明らかにされなければ、その概念は不確かである。しかし、正にこのことが、大部分の人によってなおざりにされ、他の人たち、例えばフィヒテによっては逸せられている。なぜなら、彼が説明しているように、道徳的なものを法的なものから区別する人は、生命の危機、財産の損傷、評判を傷つけられることが、弁護されるべきものの全範囲を汲み尽くすとは、考えないからある。他方で、誤った風評に対して、良い評判を弁護する義務は、あまりに大きすぎる。これは次のことからも明らかで、というのはもしそうでなければ、道徳的な人を常にその本来的使命の道において阻み、不道徳的なことへの行為を強要するということを、不道徳的な人々は、自分たちの暴力において持つことになる。しかし、処罰に関して言えば、それについての例がカントにおいて見出されるような―カントは禁止を、神の前で人間が罰せられることに基礎付け、誰も他者に罰を下すことは許されないとした―混乱した表象に反駁することは不要である。そうではなく、承認されたこととして次のことは前提されている。すなわち、倫理的に見れば、処罰も教導も同一であり、ただ方法によって区別されるに過ぎない。そして課題はただ各々の適用可能性を規定することである。なぜなら、処罰を至る所で排除すること、しかし教導は無限に要求することは、不道徳的なものに、罰せられることと同様に、無制約な優勢を与えるからである。したがって、それは、自分自身の弁護とのみならず、教導の活動の弁護と争う。しかし他方、賢者に寛大さを禁じるストア派のように、罰を至る所で執行すること、これは、〈226〉単に法的な狭い周囲における問題を拒絶するか、あるいは、不義をなした人から、間違いなく教導に対する受容性を奪うかのいずれかである。したがって、両者が一つにされねばならないということは、まだこの点が決して示されず、和解と温和が、厳格さと厳しさ同様に、皆倫理的に見れば全く不確かな概念―それらは要求されるより厳密な規定の為に、その要素も含んでいないが―であること以上に明らかである。しかし、義務に対して善い人々の共同の働きを弁護するということは、不道徳的なものの公示が義務に適しているか反しているかという問題が結びついている。その決定は、疎遠な認識の増大の義務と、本質的一致にもたらされねばならない。このことはしかし、フィヒテによって提示された直接的実践による境界規定と共に、非常に疑わしくなる可能性がある。しかしカントにおいては、一致の代わりに矛盾がある。それは彼の答えから〈一致が結果として偽りになる〉ということを示すのが困難でないからである。正に彼は、愛と尊敬に基礎付けられた義務の他に、さらに交際についての特別な義務と徳をほのめかした。しかしながらそれは、単に徳のある見せかけを直接もたらすに過ぎない出城(Außenwerken)についての疑わしい名称によってではあるが。このようなことが、倫理学の全形式にいかに逆行するものであるかは、誰の目にも明らかでなければならない。なぜなら、そのような状況が、徳のある見せかけを受け入れることができるということ、これは必然的に徳自体に可能なことだからである。したがってストア派も、徳と見なされたこの完全性を、賢者のみに帰し、それを、総じて感情の道徳的方向性を表す徳の部分と見なした。しかし、義務としてここに属するものを、他のものからいかに全く分離できるかということは、理解困難である。なぜなら、一方では、全て自由な社交的関係の扱いが、同様に愛と尊敬に基礎付けられねばならないことは明らかであり、したがって、そこにおいて〈227〉この心の態度から結果するものは、完全に示される。それに対する命令はそこに含まれねばならないのだから。また他方では、全ての業は、同時に交際であり対話である。そして全て真剣で規定された関係は、同時に自由な社交的関係である。したがって、この法則の下にある。たとえ、その遂行において、完全な道徳性に授けられることはないとしても。

至る所で個々の義務概念は、不規定で、行状を適切に秩序付けることができないか、あるいは、それら個々の義務概念が出会うべき他の概念と矛盾をきたすか、さらには、単に形式的な区分概念から適切に区別されないのと同じように、様々な義務やその義務の個々の適用が何処で示されるのか、しばしば疑わしいままである。また最後には、それら義務概念は、ある場合には、義務として、目的やもたらされるべき善に関係させられ、またある場合には、再び徳として、他の統一に従属させられ、細かく分けられて、その体系の様々な場所に、まずい仕方で結び付けられる。このようなことは遂行された事例から十分に明らかである。いまやしかし、さらに見なければならないことは、よりよき運命は徳の諸概念に―それらが義務との混同の支配下に置かれない限り、該当するのかどうかということである。このことは特に、古代人の叙述において探求されるべきで、そこにおいて彼らは、自分たちの形式的な純粋性によって自らを保っている。そのうちの第一人者は多数の徳を説いたアリストテレスで、他は言及するに値しない。彼は何らかの規則にしたがって秩序付けることもしなければ、それらの徳が道徳的心の態度全体を包括するかのような推測を持ってもいなかった。しかし、正にその故に、学問的な厳密さを求める人にとって、個々にも疑わしいのである。したがってまた、徳を記述する彼の仕方を弁護する為に言われたことが、ここで再び認められる。すなわち、彼は、徳を、全て他の人においては不道徳的な、感覚的傾向性の中間的度合に〈228〉定立したのではなく、このことを通じて、ただ現象を特徴付けようとした、すなわち、自然的事物を観察する彼のやり方にふさわしい仕方でそうしようとしたのである。しかし、それにもかかわらず、次のことは否定されるべきではない。すなわち、彼はここにおいて自分の最終目的を―それは暗い表象よりもより良いものの上に置かれてはいても―必然的に逸しなければならなかった。というのは、一方において、すでに時折申し述べられたように、その特徴づけは常に同じであるわけではなく、徳はある場合には、傾向性の過剰と不足の間に置かれ、ある場合には、二つの異なった傾向性への関係するように置かれ、またある場合には、傾向性とは無関係に二つの結果の中間に置かれる。例えば、正しさは、損失と利得の中間にあるが、これは、もし損失と利得とが正しさの概念によって循環的に規定されるのでなければ、正しいとは言えない。あるいは、物惜しみしないことは、過剰に与えたり取ったりすることと、過小に与えたり取ったりすることとの中間である。それによっては、なぜ物惜しみしないことが、正しさと同じであるのかは分からない。したがって、一般的な定式の適用の為の原理が全く欠如しているのである。そして、どこかで正しいものが見つかるという確かな確信も欠如しているのである。さらに、彼自身が次のように告白している。すなわち、傾向性は確かにそれ自体不道徳的なものを含んではいるが、中間がすべて、傾向性に徳の現れを与えるわけではない。したがって、それを規定する為には、これは他のより深い説明を前提とすると(彼自身が告白している)。ガルヴェもアリストテレスを次のように批判するが、まちがってはいない。すなわち、彼(アリストテレス)自身は、ここで慎重さと十分に用いなかった。そして、例えば恐れは、その平均において勇敢さが示されるべきだが、それ自体はすでに何か不道徳的なものと見なされている。このようなことは、確かに複数の事例によって主張され得る。[...]さらに、例えば勇敢さ自体において明らかであるように、この制限された目的の為に、与えられた説明はしばしば役に立たない。〈229〉なぜなら、勇敢さについてのそのような言辞が、勇敢さが恐れとして現れるところに置かれるなら、これがその根拠を、いかにそれがふさわしく、何のよって妥当であるかということに持つのか、あるいは、このような尺度が無縁の傾向性に持つのかは分からない。勇敢さが確信として現れる場合も同様である。また人が、その正しさを認める前提にしたがって、傾向性または対象は、本質的な差異を形成すべきであるという前提を受け入れないならば、様々な徳は互いに多種多様に進行する。なぜなら、ネメシスあるいは幸運の正義の喜び、そして、精神的偉大さに値する全てのものに向かって努力する精神の偉大さが、いかにして正義とは別のものであるのか。然り、もし善意が善―そこにおいて利得と損失が生じる―とは別のものと見なされるならば、正に友情は正義と一致する。他にどんな事例がさらに引かれることができようか。したがって、ここにおいて確かで正しい概念は望み得ない。

*次に目を向けるべきなのは、古代の大部分の道徳教師によって受け入れられている道徳的な心の態度の叙述で、それは次の四つの徳の下にあるものである。すなわち、賢さ、節制、勇敢、正義である。それら各々の内容と本質で、そもそもあるべきものが、見て取られるべきであるだけであるとしても、残念なことにストア派による一般的な説明は、これをなしていない。このような構想にしたがって倫理学を扱ったあらゆる学派の中でも、この学派からは、その大部分が、その主要な連関において私たちに残されているのみならず、総じて、最大の弁証法的な厳密さが期待されるのだが。ストア派によれば、先ず、選択に関係する節制も、分配に関係する正義も、なされるべきことの認識としての賢さから区別されるべきではない。すなわち、そこにある前提は〈認識という言葉は、万人において同じ意味を持っている〉ということである。なぜなら、選択は、本来は行為であり、分配は全て、再び〈230〉選択である。しかし、もし人が賢さをただ間接的な行為にのみ、すなわち、それによって選択されたものが実現し、決断によって分配されたものが現実に引き渡されるような行為にのみ関係させるならば、このような行為に対しては、単に一般的に、この徳に等しいか、より高次の位が対立するのみならず、この徳の個々の部分の記述―そこにおいてそれは明らかに義務と関係しているのだが―も対立する。同様に勇敢さは、耐え忍ぶべきことの認識として、一部は半端に一面的に記述され、一部はしかし、自分の徳としてではなく、他の全ての徳の十分な強さとしてだけ叙述される。なぜなら、耐え忍ぶことは、選択にも、行為にも、分配にもあるからである。そして、現実性に達しないのであれば、各徳が何を決定しようと、すなわち、これを勇敢さの欠如に帰そうと、あるいは、その都度要求される徳の強さの欠如に帰そうと、同じことだからである。したがって、このことが告知しているのは、一つの徳の中に完全に溶け込むことであり、様々に呼ばれている徳は、単に現実において、完全に分離され得ない―そのようなことは正しい要求ではないだろう―だけでなく、それらは思考においても決して引き離されるべきではない。

*同じことは、ストア派において、それらに従属している様々な徳を観察するときにも生じる。なぜなら、落ち着きは、私たちが悪に陥っていないという認識として、勇敢さに属するが、それは、賢さに属する有能さの意識、すなわち、あらゆる行為において出口を見出す認識の意識以外の何であろうか。同様に、快活さは、魂の無敵さの意識であり、目の前にあることを、労苦に妨げられることなく行う勤勉さは、いわゆる節制に属する堅忍あるいは学問に他ならず、それはひとたび正しいと判断されたことにとどまることである。そして節制は、理性に相応しいことを踏み越えない。さらに、各行為がいつ為されるべきかという行為の正しい整理―それは他ならぬ節制に属するが―〈231〉その整理はいかにして、賢さに入れられる分別―それは、いかに各行為が有用になるために為されねばならないかを洞察するのだが―から区別されるべきか。しかしながら、このような従属する様々な徳は、さらに次のような疑いを喚起する。すなわち、先の四つの主要な徳は、実在概念であるのか、それとも単に形式概念に過ぎないのか。さらに、これによって、従属する諸概念は、実在的に区別されるのか、それとも単に同一の心の態度や業が様々な事例に適用されるものとして区別されるに過ぎないのかという疑念である。これについては人によって意見が分かれている。落ち着きは高潔さ―これは善悪に出会うものの域を脱しているが―とは、業として全く分離して考えることが可能であるが、しかし、勤勉さは器用さ―それはその都度提供された最終目的を現実に達することを知っているが―から分離して考えることは決してできない。このような矛盾する記述を、ストア派の徳目録を手にしている人は誰でも、もっと多く見出すだろう。特に、ストア派が徳目録に加えることを望まないために、彼らがそれをまだ賢者の個々の性質として引用しているような心の態度や完全性と比較する場合にはそうである。しかし、これらが一つの徳であるのかどうかという不確かさ、すなわち、同一の人に、分離されることなくその全範囲にしたがって、同じ程度に完成したものとして、現実的にも一つの徳として、内在しなければならないのかどうかという不確かさは、倫理学の適用に決定的な影響を与える。これらの同じ徳が、幸福主義的な倫理学において扱われる場合には、それらが内容的に同一であるのか、それとも単に名称において同一であるのかということは、全く区別されるべきである。なぜなら、その名称は、その性質上単に形式的なものに過ぎないからで、それはストア派自身も承認しており、至る所で、自分の体系に固有な内容をもたらすものとしての付加物、すなわち〈理性的社交的本質という性質に相応しく〉という付加物を理解しようと欲している。もちろん、すべて他の最上位の倫理的イデーに対する心の態度の全概念の区分も、異なった状態になり、より低い演繹された形式的諸概念も、二つの体系に共通ではないが、〈232〉しかし、ここでは、その非難は、両者の間を揺れ動いている。というのは、前者も、その区分を、その最高のイデーとの結びつきによって排他的に自分のものとしたのではないからである。しかし、単に名称にしたがってのみならず、内容的にも実践的な徳が、幸福論の中にこっそり紛れ込んでいるならば、その内的な不安定さは直ちに、決定的に明らかになる。したがって、至る所で多過ぎたり少な過ぎたりしなければならない正義―というのは、それは少なくとも真の徳として、幸福主義的内容と共に叙述され得るからだが―に対するこの倫理学の特別な反感がある。なぜなら、各人が、人間の互いに並びあっている存在ゆえに、自分の幸福を求めることが許されている秩序は、常に、必然悪に過ぎず、その秩序によってもたらされる特質も、独自な徳ではなく、賢さの応用に過ぎないからである。そこにおいて最もよく示されるに違いないことは、各人に自分の領域内で任された公正さ実現の部分としての公正さの規定において、幸福主義が首尾一貫しているかどうかということである。なぜなら、これは、実践的なものと全く対立して、共同的に確立されたものの巧みな罪過に他ならないからである。同様に、勇敢さに属することが許されるのは、快楽の阻止に対する反抗であり、しかし、それは行為の阻止に対する直接的な反抗ではない。そうでないところでは、そして通常は、そうでないのだが、アリスティッポスが、この点において首尾一貫している唯一の人だが、そこでは、幸福主義者たちは、徳の点において、ストア派が善の点において陥ったのと同じ過ちに、しかも委任することにおいてと同様否認することにおいても、陥っている。

しかし、倫理学が徳の概念にしたがって扱う全ての徳の内のこの四つの形式から完全に自由なのはただ二人だけ、すなわち、プラトンとスピノザである。この二人はそれぞれ独自なあり方でそう言える。すなわち、前者(プラトン)は、繰り返し次のことを示す試みをなすことによって、つまり、徳全体は、これら各形式の下で叙述されるが、このことは彼にとって、ただ弁証法的な技法的熟練という助けのみによって、また〈233〉彼の倫理学の宇宙的神話的目的とは離れて、完全に成功しているので、たいていは他者に対する関係に関わっていると思われる徳が、人間が、大体において自分自身において、また自分自身に対して行使すべき徳として、また、それのみが彼を自分自身において保つことを可能にするような徳として示されている。同様に、最も内面的なものと見なされる節度も、単に表面的な生全体に浸透するのみならず、それを生じさせるものとして示されている。最後に、勇敢さも、それは一見したところでは、最も決定的に他の徳から分離され、個々の限定された領域に引き戻されるが、どの状況、どの業にも不可欠な普遍的徳として示される。したがって、このような叙述への招きは、これら四つの概念の学問的価値についての更なる吟味すべてから解放する。なぜなら、これまでそれらのより詳しい規定の為になされてきたことは、この久しくすでに存在している論争に逆らわないからである。しかし、他の相違を捜し求めたり、この分離の内的な誘因や、無意識の内にその根底にある真なるものを明示することは、現在あるものの吟味の限界を踏み越えることである。これに対してスピノザは、同じことを、次のことを通して行う。すなわち、彼は、それらの徳の内のたった一つの名称によって、すなわち勇敢さによって、徳全体を特徴付ける。このことは、また彼の根本イデーと密接に関連している。なぜなら、徳は可能な限り純粋な行為であり、その区別する本質は、逆らう力―それは表面的な影響を追い返しつつ支配し、苦悩を阻止するのだが―によって最もよく特徴付けられる。彼が認める唯一の区分は、先の四つの区分と比較されることはできない。なぜなら、これらのいずれも、場合によって様々に、彼による区分に該当するからである。またそれは、現実には程度の違いによってのみ区別されるような二つの異なった徳を確定すべきであると見なされることもできない。むしろ、〈234〉彼のもとにあるのは、不明瞭な表象の力に基づく分離以外のものではなく、そのいずれも、徳のこれらの表現の一つに排他的に結びついてはいない。そうではなく、今高潔な心をその作用によって弱めたのと同じ原因が、他の場合には、勇敢さの妨害になるのである。むしろ、それは明瞭にし弁護する方策であり、[...]徳自体は彼においては、現実性においてのみならず、思考と探求に対しても分割不能な一つのものであり、多様なものとして記述されるのは、誤解と愚かさに対する対立においてのみであり、そこ(誤解と愚かさ)から、その本性にしたがって、不規定かつ多様な人間の苦悩が生じる。したがって、その目録には、正当にも彼のまれに見る勤勉が活用された。したがって、個々の徳の多数性については、彼との関連では何も言うべきことはない。

 

補遺

T.倫理学の様々な体系に受容された少数の徳についてだけ例として示されることは、すべての徳、至るところにある徳にも、どこか特定の場所にのみ妥当する徳についても示されることが可能である。すなわち、それらは、倫理的に見るならば、あるものは、全く不規定な表示(Bezeichnung)であり、またあるものは、人がそれらを互いに比較するや分かるように、一つが他と共に存在する時に原則などによらず、むしろ、各徳が、他の徳に対して、体系における補完的で不可欠な部分としてのその場所を否定している。ここから〈235〉不可避的な帰結として生じるものは、もし、すべてこれらの誤りが至る所で単に弁証法的ではなく、不完全な説明に基づいており、そのような誤謬の一致や完全性を誰も信じないのであれば、次のようなものである。すなわち、それらの概念は、倫理学によって、また倫理学において成立したのではなく、平凡な生を学問に使用することによってだけ受け取られたものであるから、未発達で単に不明瞭に思考されたに過ぎない倫理的イデ―によって形成されたのではないことも確かであり、他の観点、他の精神によって形成されたのである。なぜなら、もし前者のような場合であるならば、それらの概念も容易に、何らかのはっきりと思考された倫理的イデ―に従属させられねばならず、またそのようなイデーに与えられる弁証法的な形成も、容易に個々の概念に移行しなければならないからである。平凡な生の精神において思考され形成された概念の根底に、倫理的イデ―が未発達のままあるのではないというのであれば、そこから次のようなことが帰結する。平凡な生の精神もまた、まだ決して倫理的精神ではなかった。しかも、実践的でないのと同じくらい幸福主義的でもなかった。なぜなら、そうでなければ少なくとも、一般にそのように見なされる徳は、先の倫理学の叙述に適応するはずだからである。しかし、古代人においては、生の精神は大部分が政治的であったのは明白である。すなわち、現存在の享受を直接的に当てこんだ自由な社会的関係自体が、そのより大きな生に従属していることによってそうなのであり、したがって、このことは、最高善をもたらすのに十分であると大部分の人によって考えられていた。しかり、アリスティッポス自身、彼は、誰にもまして、体系一致の伝来の表象を犠牲にする傾向があったが、支配的な精神に魅了されて、次のように主張することができた。すなわち、あらゆる法則や制度の没落後も、哲学者たちは、なお現在しているかのように、生き続けると。同じことが、哲学者たちにおいて倫理的とみなされた概念の根源的な内容でなければならない。このことは、アリストテレスによって数え上げられた徳からも、先ず持って明らかである。そこでは、〈235〉より小さな社交的関係に関する少数の徳に至るまで、政治的意義が否認されることはない。しかり、この人(アリストテレス)にとっては、一般に妥当することに奉仕することは当然であり、いくつかの市民的な特質を持っていたが、それらは、道徳的に考え規定すれば、他者と一致することであり、あるいは、より広い範囲で特徴付けられるならば、正に、それによって何かを変えたり改善したりすることなしに、徳の系に受け入れられた。同じことは、四つの古代ギリシャの徳においても否認されてはいない。それらが大部分の人によって叙述されているのと同様、ストア派は、それらを彼らの従属的な部分にさらに解体しているように。そのさい、プラトンの弁証法的探求における共通する意義から現れてくるものから人が見るように、生のより小さな関係に関するすべてのものは、最近の人によって通常節度と訳されるものの、より小さな部分を形作るに過ぎず、それらの真の統一も、ただこの観点から見出すことができる。最後に次のことも誰も免れ得ない。すなわち、新ストア派による義務の扱いにおいて、私たちがキケロを通して保持している所から判断すると、いかに政治的なものが際立って輝いているかということである。しかし、この全体の傾向を、単に通訳者に帰することは困難である。非常に多くを消し去り、同様に付け加えるという彼の無能力を疑うものはいない。最近では、この政治的精神は、徳概念からは全く抜け出し、義務概念の中に逃げ込んでいる。すなわち、明らかにその理由は、前者(徳概念)は、自己活動的産出を表わしているが、政治的なものは、私たちの間では自己活動の痕跡をほとんど持っておらず、したがって、排他的に、全くこの(自己活動的)関係に携わる徳には、正義(Gerechtigkeit)という名称はもはや一般的には適合せず、単に立法者や司法官あるいは、不平等な結びつきにおける支配的部分にのみ適合する。しかし、一般には、合法性(Rechtlichkeit)というより受動的な名称が、より正しい特徴づけを与える。これに対して、命じられたことをも思い出させる義務概念は、〈237〉どの受動的な模写にも非常によく適合する。そして、おそらくそこから、倫理学の最近の叙述において、徳や善などの概念に先んじて至る所で義務概念に与えられた優先権が説明可能である。[...

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