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最終更新日200084

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3   倫理体系批判

1.倫理学への体系イデーの適用について

           

体系のイデーは、おそらくその内容に関してはさらに議論の余地があるだろうが、いずれの場合も次のようなイデーである。それは確かに理性一般の要求として、人間による認識の性質について熟考するすべての人によって、承認されねばならない。しかし、個々の事例に対するその適用は、懐疑論者の反対に対して、そのイデーの直接的現実的実行によって確実に据えることが可能であるか、あるいは、所与の正しいと認められている類似の適用への関係によってそうするかのいずれかである。したがって、倫理学が体系として存在するのであれば、それがそのようなものとして存在すべきかどうかという問いは滑稽な問いに過ぎないだろう。しかし、私たちはそのような体系を未決定のままに残さねばならないのであるから、そのように言うことはできない。むしろ、その要求を正当化することが私たちの責務である。人間的認識の全体のみが存在するのであれば、体系として与えられたものは単に輪郭に過ぎないだろう。そして、その際に認められねばならないことは、倫理学がその全体の本質的な部分を形作っているということである。したがって、それゆえに倫理学もすでに〈248〉体系的に形成されねばならないということは、容易に示すことができる。これに対して今日後者(倫理学の体系)は、ある人々によって否定され、前者(人間の認識の体系)も他の人々によって否定されている。そして、倫理学に類似した認識が体系として示されるとしても、その類似性の根拠についての論争が生じるだろう。すなわち、その際に人が、何らかの個々の、したがって論争のある倫理学の表象から出発するのか、それとも、認識全体の体系―そこではもちろん個々の部分は他の部分に対応していなければならないが―の、本来はまだ全く現存していないイデーから出発するかという論争が生じるだろう。それゆえ、もし次のような考えが浮かんでこないならば、すなわち、その全要求が、直接倫理学の理想に関係せず、むしろその実在的なものに、あるいは言葉を換えて言えば、認識にではなく対象に関係するというという考えが浮かんでこないならば、この要求全体は、十分な根拠を持っていないように見える、いやむしろ、この要求は放棄されねばならないだろう。実在的なものが、それが所与であれ、初めて産出されるべきものであれ、体系と呼ばれるのは通常二通りの場合がある。すなわち、先ずそれが、それ自身で完結した全体と見なされ、その部分は単に全体から、全体を通して理解されるに過ぎない場合と、次に、それが全体性と見なされる限り、それは個々の多様性において自らを表すに過ぎない力の表現の全体性であるか、あるいは、そうでなければ、個別化して自らを現す一般的なものの全体性であるかである。したがって、第一の意味では、そこに私たちの大地も先ず所属するところの天体の全体性が体系と呼ばれる。それにはしかし次のような留保条件がついてはいる。すなわち、そこにおいてそれが再び他の部分として現れるような他の観点から見るという留保である。また、もう一つの意味では、全世界は、他ならぬあの物理的建築術的力の表現の全体性として体系であることを意味し、その力は、その差異においてその全範囲を論じ尽くすような個を通して自らを現す。しかしながら同様に、次のことも承認する。すなわち、私たちは、それにしたがって個々物の総体がその全体を汲み尽くす規則をまだ見出していないということを承認する。同様に、私たちは第一の意味において、すべての有機的体を体系と呼び、〈249〉他方の意味において、同様に先の留保のもとにではあるが、有機体の全現象を取りまとめる。ここから同時に最もよく明らかになることは、すでに存在する全体とこれから初めて産出されるべき全体との間の相違が、ここではいかに考慮されていないかということである。なぜなら、芸術作品が第一の意味において体系であると認めることを拒否する人は誰もいないし、同様に、すべての芸術とその作品が、各々が他と本質的に異なっている限り、一つの体系を形成すべきだと認めることを拒否する人もいないからである。そのような体系的な実在によって、間違いなく理想的な叙述も体系的になる。もしその理想的叙述が他の場合にも誠実であり、イデーを―その下でのみその叙述が関係する実在が、問題のある仕方でではあっても直観される―見捨てないならば(間違いなく理想的な叙述も体系的になる)。しかし、至る所で学問あるいは認識が、それがそのような叙述であるというのとはさらに別の理由から、体系と見なされねばならないかどうか、そこから生じる諸要求に十分であるかどうか、これは十分に疑わしい問題である。然り、おそらくは、人が幾何学の事例やいわゆる論理学の例に目を向けるならば、前もって否定されるような問題である。なぜなら、これら二つは、学問という名を最も古くから承認されて所有しているが、しかし、誰もそれらのうちの一つを体系と呼んだ者はいないし、あるいは、それらに対してその種の要求をしたものもいないからである。その理由はすなわち、前者(幾何学)は自らの外部に常に拡大し、新しい部門が発見されるが、その際にそれ以前の連関に何らかの隙間が知覚されることはないからである。もう一方(論理学)は、そのあり方の進歩がなされることはできないにもかかわらず、始点も終点も、何らかの確実な境界線も示すことがなく、本来の実在的学問論の根底にありながら、あらゆる面で、それに依存しているからである。然り、体系的な形態への誤った接近を両学問がしてしまうのは、ただ、それらの学問が、自分たちの理想的な領域を断念し、〈250〉ただ特定の実在的領域にのみ関係するという仮象を受け入れる場合である。したがって、それは幾何学が、その本質的な部門の何らかの命題をただ個々の課題解決のための条件として立てたり、あるいは、論理学が、理想的な芸術作品と見なされ得る三段論法の分析以外何も望まないことに甘んじるようなものである。しかしながら、このついでに投げかけられた問題も同じ状態にあるのだが、倫理学に対してなされる、それが体系であるべきだという要求は、倫理学に依存せず、そうではなくただ次のことに、すなわち、倫理学が関係している実在的なものがすでに、誰によっても体系として表象されねばならないということに依存しているのである。

第一に、なぜなら、人が実践的倫理学の観点から出発し、その倫理学の内容を形作る実在的なもの―それは義務概念に従った通常の取り扱いにおいて現れるーを観察するからである。ここでは、この概念について言われるすべてのことから、特に義務は常に境界付けを通してのみ見出され得るという観点において、明らかであるのは、体系に相応しく、個々のものがその都度全体から理解されるということである。なぜなら、義務に適合するものはどの決定においても、ただ次のことによって判断され得る。すなわち、欲せられたものが、欲せられないものと一緒にまとめられる。つまり、不道徳的なものとではなく、ただ直接的に熱望された道徳的なものが、間接的に促進されたもの、むしろその要求に戻されたものと一緒にまとめられる。したがって、次のことは明らかである。すなわち、個々のものが、より低いものとしてより高次の一般的なものから、あるいは他の個々のものから導出されるのではなく、ただ全体から、すべての個々のものの総体から導出されるということである。すなわち、どの瞬間においても、または、それについて一般的に言われ得る限り、何か義務に適ったものに過ぎない。なぜなら、ただこの定式によってのみ、道徳的目的の総体は促進されることが可能であり、他のどんな定式によっても、部分が他の部分を妨げ、したがって、行われたものは、ただ〈251〉道徳的なものの仮象の下で、部分的に不道徳的であり得るに過ぎない。もし、ここにおいて、さらに次のことが観察されるならば、すなわち、一般に承認された要求にしたがって、倫理学の叙述が、義務概念に従って次のように整えられねばならない。すなわち、義務概念にしたがって、すべて完全に与えられた行為が、与えられた場所に対して、道徳的であったかどうかが吟味されねばならない(ということが観察されるならば)、それによってすべて個々のものが規定されるところの同じ全体のイデーから、次の認識が生じるはずである。すなわち、そのような個々のものではなく、行為の全課題の実現への接近に存することもできないようなものの認識である。この種の全体は、しかし、明らかに完全に自らにおいて閉ざされたものでなければならず、そこにおいては、偶然的なものに余地はない。これを例えば幾何学―それは提示された意味での体系ではないが―は、他ならぬそのゆえに成し遂げることができない。そうではなく、この種の問いが投げかけられ、それに対して答えはまだ現存せず、複数の個々に与えられるものとの比較によって求められねばならない。というのは、そのような問いは、例えば、円に内接する等辺の多角形でしかも頂角が等しくない図形のように、確かに答えられはしても、しかし、答えられたもの自体は不可能であり、最初の必然的な命題と衝突するゆえに、倫理学において、いわゆる完全な義務を損なうもの―それについても答えを立てることができない―に比較され得る。それ自体制約された可能性を含むそのような問いは、例えば、その制約の中には、等しくない平面によって境界付けられた物体が、球によって包まれることが可能であるという場合のように、学問の必然的命題によって答えられるということはなく、複数の個の比較を通して特別に探求されねばならない。もし人が次に実践的倫理学の実在的なものを、いかにそれがその扱いにおいて善の概念によって現れるかを見るならば、すべての人が要求するように、その(善の)総体、〈252〉または最高善は、各個の善が次々に、それぞれの体系にしたがって様々な仕方で崩壊するように成し遂げられるというように現実に作られるべきではなく、むしろ漸次的な接近によって作られる。その結果、すべての人に同時に働きかけられるのである。なぜなら、そのようにしてのみこのような扱いは、義務概念に従った扱いと一致できるからである。その個別化する方法が、倫理的に不可能であると解されることにより、同時に次のように言われるだろう。すなわち、これらの善の各々が、他の残りの善を制約する。その結果、それらは互いに全体を形作る。それはすなわち、それらを求める努力においても、また、その下準備においても、過ちは許されない。なぜなら、そうでなければ、その他のものも正しく実現にもたらされることも叙述されることもできないからである。したがって、この側面から見ても、倫理学は体系として現れねばならない。しかし、人間の行為は、たとえそれらすべてが道徳的なものと考えられても、時間の自然的秩序においても、また目的の秩序にしたがって見ても、一つの全体を形作ってはいない。そうではなく、それらの結果にしたがえば、偶然的に現れるし、それらの働きにしたがえば断片的である。しかし、このことは、上記のことを心に思っている人に対し、異議を申し立てはしない。なぜなら、行為の本来実在的なものは、決心に過ぎず、様々な決心は、互いに全体を形成し、そこへとそれらが組み込まれる義務論として、一つのものを形成するからである。その作用に関しては、樹立された善の諸概念に相応しく、それらがその性質に従って倫理学における共同的な働きであるように、個人が産出するものの総体も要素と見なされねばならない。そこにおいてはしかし、同様に、それが統一されるのであれば、善の体系的連関が否認されることは不可能である。

しかし、第二に、享受の倫理学の観点から出発するなら、上で十分示されたが、幸福も一つの全体として考えられねばならない。それは、決してその完全性において一つとして現れるのではなく、〈253〉個々の形態の数多性においてのみ完全に現れるような全体ではあるが。このようなことをも、この倫理学の弁護者は皆多かれ少なかれはっきりと分かっている。なぜなら、幸福全体を持つことのできる人がいるなどということは誰も考えないからである。そこで、どの生にもあるような避けがたい不快の故だけではなく、あるいは、ある人々には、あらゆる種類の快楽への機会が欠如している故でもなく、同一の快楽を味わい、幸福の様々な要素に対する同じ関係を消化する複数の、一つにできないあり方が存在するゆえである。幸福を取りまとめて含んでいるこれらの様々な形態は、ただ恣意的に規定されるに過ぎないので、誰に対しても、その人の幸福のために一つの道が示されるということはできないし、誰も自分が何を求めるべきで、何にそれが含まれているかを、一つの規則によって知るということはない。そのようなことによっては、倫理学全体が破棄されてしまうことは明らかである。しかし、それら(幸福の様々な形態)は、本質的に、またその性質に従って、互いに離れているので、各要素がなぜある人にのみ固有で、他の人にはそうであり得ないのかということには特定の根拠が存在するのである。そのような条件の下でのみ倫理学は存在するのである。そこである部分では、それらが、普遍的なものがその下で現れるところの諸現象の総体であることによって、それらはすべて互いに、第二の種類の体系を形作らねばならない。ある部分ではまた、どの個人においても、それらにとって可能なものが、共通の特徴によって結び付けられ、一つの定式の下に把握されねばならない。この定式は、共通の特徴を論じ尽くし、その結果、各幸福は、再び今度は第一の種類の体系を形作る。倫理学はすべて、活動的か享受的かのいずれかの区分に属するのであるから、倫理学はすべて体系と見なされ、吟味されねばならないことは明らかである。同じことはまた、上で注意された倫理的根本イデーの様々なものについても言える。しかし、一つの、しかも最も容易で分かりやすいものが展開されればそれで十分である。

 

2.このイデーによる吟味の諸契機について

 

            さて、さらに探求すべきことが、吟味されるべき学問の叙述がこのイデーに適合しているかどうかをどのように決定すべきかということであるなら、これは、ある部分では、その叙述の内容から、ある部分では、その形態から洞察し得る。なぜなら、この両者(内容と形態)は、非常に密接な連関にあるので、形態の完全性は常に、内容の均質性と完全性とを保証するからである。そして、再び後者(内容の均質性と完全性)は、自ずから、美しく十分な形態の中に整えられることなしには、現存できない。このことを特に示すというのは余計なことであろう。しかし、この連関とは、〈不完全性が生じないところで、内容の欠如にはすべて、同じように類似した形態の欠如が、それが原因としてであれ作用としてであれ、対応している、またその逆もある〉というようなあり方についてではない。両者の対象の違いと調和しないような場合には、一方のみを、それはどちらであっても同じことだが、吟味観察すればそれで十分だろう。むしろ、共通の原因、つまり、根底にあるイデーの誤謬の作用として、両者は多様な仕方で互いに関係させられ、内容において、孤立した欠如として現れたものは、全体の形態をだめにするし、またその逆もある。それはちょうど人間の体でも、ある器官の奇形が、複数の全く異なった生気に損害を与え、ある体液の欠如や悪しき状態が、形態全体の形を損なう原因になり得るのと同じである。他ならぬそのゆえに必要なことは、この両者、形態と内容とを別々に観察することで、ある場合には、他方の観察においておそらくは注意を逸してしまったことを、もう一方においてよりいっそう確実に発見することで、またある場合には、現在の仕事の境界が許す限りで、その原因の発見をもそれぞれにとって容易にすることである。

            先ず、倫理学の内容に関してだが、体系のイデーから、倫理学の内容に対して二重の要求が生じる。すなわち、そこにおいて呈示される個々のものすべてを、本質的にもその中へ属させること、そして、その特徴それ自体を担うこと、それによって全体が結ばれるのである。それからまたさらに、全体に属するものすべてが、実際にそこで見出されねばならないし、この種の問いすべてが、もしただ悟性によって、正しい仕方で投げかけられたのであれば、そこから決定され得なければならない。このうちの第一の要求については、すでに、本書第二部の成果が、不都合な決定を含んでいる。なぜなら、そこで示されたように、ほとんどどの倫理学の叙述においても、その諸要素は、イデーによらずに純粋に倫理的と認められ、道徳的なものと不道徳的なものとを混同して含んでいるような諸概念にまとめられるからで、もしさらに、その根本イデーが完全に互いに相違しているような最も異なった叙述において、それにもかかわらず、これら諸概念が出会われるならば、次のことは十分明らかである。すなわち、体系において呈示されたものすべてが、その体系に属するわけでは決してなく、異質なものが至る所で混入しているということである。ここから、学問一般の現状に対して、また、その倫理的体系的能力―それがこの叙述を遂行し、それによって満たされたのだが―に対して結果することは、同様にそこで十分示されたのであった。しかし、このような非難は、倫理学の現在の叙述に対してのみ該当するのであって、これによっては、次のことは決定され得ない。すなわち、倫理学はよりよくなり得るのかどうかということ、また、倫理学がその上に呈示されたのと同じ根拠の上に、よりよい否の打ち所のない境界を設定することは不可能であるということは決定され得ない。なぜなら、これを示すためには、次のことが示されなければならないからである。すなわち、最も正しい道徳的学問的意味と、それ自体で存在している同じ正しい諸概念が、最初のイデーの不合理のゆえに一致して形成されることができない(ということが示されねばならない)。しかし、そのような主張は、ただ論争的な意図から生じ得るだけであり、単に批判的な〈256〉補助手段によって実行することは困難である。むしろ、先入観によって濁らされてはならない批判は、そのような偶然的な誤謬を改める試みに傾かねばならない。そして、全体についての判断を、それがこの根拠に基づくべきである限り、すべての判断が可能な限り最善のあり方で実現されるまで、動かさねばならない。それゆえ、今や、注意は特に二番目の要求に、すなわち、内容の完全性に向けられるべきである。これはしかし、あたかもすべての叙述において、そのイデーによって倫理的に可能なものすべてが、はっきりと呈示されなければならないというように理解されるべきではない。むしろ、この点では、体系のすべての叙述は不完全でなければならない。その理由は、実在的なものは分離という行為に対して、常に無限なものを提供するからであり、したがって、所与の叙述においては他のものの下に捉えられているに過ぎない個別のものをつかみ出すことができるのである。しかしさらに、実在的なものがここでのように、直接精神的なものであり、それに対しては、起こってくるすべてのことによって、次第に条件が変化し、結果的に、それらの条件と共に、条件付けられているものの形態も変化する。したがって、特に義務概念に関して明らかでなければならないことは、その概念の前にあるものから義務と見なされるものすべてを正確に含むような完全性はいかに不可能であるかということである。しかし、総じて、道徳的なものの進歩や、さらなる形成、現実化において、次のことは不可能的に現れねばならない。すなわち、古代に由来する倫理学が、現代の倫理学によって要求されるべきことすべてを明確に含むことができるということ(は不可能的に現れねばならない)、そして、同様に、遠い将来のためになることが、今の倫理学に含まれているということもほとんどない。そうではなく、意図されているのはただ、道徳的なものは欠如することが全く許されないということ、次のような場所が、すなわち、そこにおいて道徳的なものが、他のはっきりとした命名の下に含まれているような場所が示されるべきではないということである。同様にまた、すべての要求された判断に対して、その根拠が現実に立てられて見出されねばならないということである。この意味において、すでに上で、いくつかの欠如が引き合いに出されたが、それらは〈257〉これやあれやの倫理的イデーの特殊な性質から必然的に結果したように思われる。もし、ここで単に手元にあるものの観察からこれが確証されるのみならず、同様に複数の新しいものが付加されるならば、それもおそらくは、それについての必然的原因を、根底にあるイデーの何らかの特徴において示すこと無しにするならば、その場合には、あたかも後者も、すべての体系の偶然的に変化する状態を示しただけで、その本質的な制限と無用性についての判断を基礎付けることができないように思われるだろう。しかし、この状態は、個々の正しさに非難を加えられた、しかもこれらの理由から加えられたこととは違っている。すなわち、先ず、そのような欠如の本質的な根拠は、もしそれが体系の主要イデーに見出されるべきでないなら、人間性の概念にあるが、その概念は、その際、範囲の表示として、また区分の根拠として受け入れられる。そして、両者の間に再び必然的な連関が生じるということは、すでに始めに思い出される。しかし、それからまた、別の体系は、自ら発見し、樹立するが、他の体系は、ただ手元にあるものを比較しつつ説明し並べるだけである。すなわち、前者は、道徳的感覚が学問的感覚によって適切に指導されない場合には、正しいイデーにおいても失敗することがあり得る。というのは、叙述は正しくなくても、行為においてはおそらく、概念が混乱させたものを感情が整理する。その際、その感情が、直ちにその叙述に有利に反応するということはない。しかし、体系においては全く触れられず、議論の余地なく倫理的な対象が、経験において現実に現れるなら、それが正しい仕方で扱われようと、不正な仕方で扱われようと変わりなく、道徳的感覚は、それが現存するところでは必然的に、事実の中にある課題を知覚しなければならない。そして、イデーに相応しく、正しいものを対象について規定しなければならない。然り、もし前者が沈黙するなら、学問的感覚が、自らには一つの場所が見落とされているということに気付かねばならない。そして、欠如を満たしつつ、欠如の最初の源泉に戻らねばならない。しかし、〈258〉そのような要求において、隙間が知覚されることが少なくなればなるほど、イデーから全体を導き出すために必要な特質が、イデーにも一層確実に欠如する。然り、そもそも、イデーを産出し、受け入れる人々の道徳的、学問的能力が欠如していたら、それを正しいイデーと見なすためにどんな根拠が残るだろうか? それゆえこの種の本質的な欠如は常に、体系の無用性にとって決定的である。

            しかし、他方、全体の形態に関して言えば、ここでも同様に、最初の要求は内的四肢構造の一貫した正当さと一致の要求である。しかし、これについては同じく本書第二部ですでに論じたことに何も付け加えることはない。なぜなら、ほとんど一貫して明らかであった形式的概念の不適当な区分、そして、その最初の関係における誤解は、次のことを認識するのに十分だからである。すなわち、正しい系統的分類についてはまだ何も考えられていない、少なくとも最も広く行われている体系においては最もわずかしか考えられていない。そうした分類は、たいてい不自然に、ある場合には、異質なものと結合され、ある場合には同種なものと離れ離れに放られている。しかしながら、巧みな説明によっておそらくは、そのように不恰好な体系も、よく整理された正しい体系に変わることが可能である。したがって、ここでもより決定的なのは第二の要求、すなわち完全性の要求である。しかしながらそれは、次のように理解されるべきではない。すなわち、個々の部分あるいは行動様式の様々な関係すべてが互いに示されねばならないと(理解されるべきではない)。むしろ次のことは当然である。すなわち、ここにおいて最も真実で美しい全体が、最も無尽蔵であり、したがって、その叙述においてその大部分が、観察者自身に求めることを委ねられねばならない。ただ少数の者に、この関係に、残りのものを見出すための規則が与えられねばならないということも当然である。しかし、厳密な意味で要求される完全性は、一方では、表面的な輪郭の調和であり、他方しかし、学問を、他の身近にある類似したものに対して境界付けをはっきりと分かり易くするものである。それなしには、根源的なイデーが正当なイデーであることは不可能である。したがって、これが、これまで樹立されてきた倫理的体系の内容と形態に関して、吟味されるべきものである。

 

1   内容に関する倫理体系の完全性について

T.行為における〈いかに〉

            この問いとの関連で探求される第一のことは、次のことである。すなわち、従来の倫理学の叙述において実際に呈示されているものは、仮定されたイデーに相応しい人間的行為の適切な像と正当に見なされ得るほどに、一貫して規定されているのかどうかということである。そして、ここにおいて誰もが直ちに認めなければならないことは、〈何が〉(das Was)は、規定されてたが、〈いかに〉(das Wie)は、少なくとも至る所でほとんど規定されないままだということである。すなわち、すべての道徳的命令は非常に幅広いので、それらにそむくこと無しに、その義務は非常に様々なあり方で行使されることが可能である。つまり、その内的本質における行為の類似性は消え、ただその作用の表面的な類似性だけが、あるいは最終目的の一般的類似性だけが残る。そこで例えば、多くの人が報復の正義という同じ義務を、同じ原則に従って行使でき、そこには共通の幸福あるいは個人的な功績、観察されるべき尺度の等しい表象といった観点が伴っている。しかしながら、また、それに伴う感情には、決定的な無関心から最も活動的な参与まで非常に様々な段階があり、最終的な目的は、より一層〈260〉この差異によって対立的に現われ、それは先の等しい命令による一致以上である。同様に、多くの人が自分の確信を、それに反対している人に伝えるという責務を果たすことができるが、ある人は、強い熱情をもってそれをし、他の人は、思慮深い平静さでそれを為す。またある人は、自らを弁明し、目的に直接属することの他は何もしない。しかし他の人は、その連関に深く入り込み、似たような差異についての将来の論究に進路を開くために、一層大きな連関に入り込む。他にも違うことがあるとすれば、職業を実行したり完遂したりする仕方であり、またその際に熟慮を実行と結びつける仕方である。なぜなら、個別の働きにおいて他の人々が別の秩序に従って振舞うように、ある人は、先ず部分を完成するが、他の人は、一様にすべてに働きかける。したがって、全く仕事上のあるいは創造的な生も、異なって配置されることが可能なのである。多くの他の事例をあらゆる方面からこれに結びつけることができるだろう。しかし、いかにこの不確かさが義務の全領域に及んでいるかにすべての人の注意を喚起するには、すでに引かれた事例で十分だろう。おそらくここで、カントがどこかで次のように語っていることを弁護として用いることができるだろう。すなわち、どの行為においても複数の義務が一緒にやって来る。したがって、〈いかにして〉についての解明は、〈何を〉についての章とは別の章の下で見出されるということである。しかし、このことは、上で義務概念の説明との関連で為されたことに従えば、その全くの曲解であり、そのようにして、系の体系の欠如は、どこかで現実に解決されることなく、ある部分から他の部分へ押しやられる。というのは、義務概念の本質は正に次のことにあるからである。すなわち、所与の行為や所与の瞬間に対して、何が全く道徳的なものであるかを規定することである。したがって、この規定は、義務概念を介して、ある場所に全く分割されることなく見出されねばならない。しかし、このような弁解がどんな状態であるかは、そこからも明らかである。すなわち、〈261〉人が考えにのみ注意を向け、不当な名称を大目に見て、ある行為における多くのあるいはすべての徳の現在によって、より正しいストア派の名称をその場所に置くならば。なぜなら、すべてそのようなあり方や方法の特殊性を人は、それらが尺度を越えない限り、徳の名の下に置くことができるからである。しかし、様々な徳をただ一つの方法で結びつけるのか、それとも様々な方法で結びつけるのかということは、どうでもよいことではあり得ない。したがって、この要求は単に承認されるのみではなく、必然的に義務概念に投げ返される。同様に、人がこの問いを根源的に、善の観点から見ようと欲するなら、その要求は義務概念に戻ってゆくだろう。しかし、注意しなければならないことは次のことである。すなわち、この欠如を取り除くために批判が要求していることは、〈道徳的なものとして唯一の可能な行動様式がどんな場合にも立てられる〉ということではない。なぜなら、そのような行動様式は一つだけなのか、それとも多数存在するのかということを、批判は前もって決定できないからである。批判が要求することはただ次のことである。すなわち、経験を通して呈示された他ならぬこの問いが、学問的に答えられるということ、そして、その場合に、仮定された多数性の範囲と条件が規定され、それによって、各人が道徳的なものを不道徳的なものから区別できるようになるということである。なぜなら、このことを倫理学において通り過ぎてしまうということは、容易に容赦されるべきことではなく、それはあたかも次のような事態だからである。すなわち、形成する技法への指針が、一般的な指図で満足してしまい、次のような事態を全く認めようとしない。つまり、どの対象にも、それを叙述において―その叙述は先の一般的な指図と衝突することはないのだが―扱う非常に様々な仕方が存在するということを(全く認めようとしない)。技法論が、これらすべての非常に様々な仕方が誤謬をもった方法であるのではないかをその都度決定しなければならないように、倫理学もそうなのである。しかし、もしある人が次のように言おうと欲するならば、すなわち、この様々なあり方の持つ重要性は、倫理学の領域では、技法論の領域においてよりも少ないのであり、倫理学においては、それら様々なあり方は、進んで正当に、等閑にされ得るというならば、そのような人は、〈262〉事例の類似性を理解しておらず、さらに、このような様々な逸脱がどの程度広がり、そして、どのような形態でそれらが大局において見られ現われるかをまだ考えているのである。なぜなら、それら(様々な逸脱)は、最後には、思考がどのようにつなぎ合わされるか、感情がそれに対してどんな関係にあるかに依拠するからであり、そこでは、各人は、生のあらゆる部分を通じて、あらゆる行為において再認識する自分自身の方法を持っているのである。その自然的な持続性が、ある部分では、個々の指図においてこれについて何も規定されないことの原因であり、またある部分では、全体においてこの人間の固有性[シュライアーマッハーにおいては個性と人格性―編者Otto Braun]が、ただ沈黙しそれゆえに非学問的であるにもかかわらず、不可侵性を享受する原因でもある。なぜなら、少なくとも共通の判断は、それ(不可侵性)を認めており、それは、その判断が行為を―その行為はある人には、その確固とした規則から出現し非難されないものとして来るが―他の人にとっては、同じ事例においても、それとは一致しないとして非難に値するということによってである。したがって、大局において見れば、どの道徳的なものの価値についても最もよく判断され得るところで、これは、気分の差異の重要かつ困難な場所である。あるいは、この差異が道徳的に可能である場合に対して、これを最も威厳のある名で呼ぶために、性格の差異の重要かつ困難な場所である。技法論のスタイルの可能性を持った人以上に、倫理学にとって確かに重要であり得る人を、それにもかかわらず倫理学に対して放棄してしまうならば、それは無理解の極みであり、倫理学の固有な本質が全く見誤られていることの最もはっきりとした証拠である。というのは、この多様性から何の知識も受け取らないのは、表面的な業だけを問題にする人だからである。しかし、心情における所与の事例において起こったことの総体を、道徳的なものの下に理解する人、そのような人によって、この多様性はよく観察され、それについての決断が把握されねばならない。この全体を少数の言葉で統一するために、問題は次のことである。すなわち、賢者のイデーは単純なものか、それとも複雑なものなのか、〈263〉そして、それがどのような様式のものであれ、すべての倫理学がこの問いを決定すべきであることが要求されているのである。というのは、あらゆる体系における様々な道徳的命令の不規定性において、多くの人が、それら同じ命令に、同じ程度に進歩して応じることが可能であり、したがって、彼らは、賢者の理想に同程度に接近していると見なされ得るが、しかし、それにもかかわらず、彼らは、彼らの行為や存在において、本質的に異なって見える。したがって、倫理学が自分の対象を規定すべきであるなら、それはまた次のことも決定しなければならない。すなわち、多くのそのような人々は、この違いを破棄すること無しに、その理想に到達できるのか、その場合、その理想は各人にとってある点では異なるものであるのか、それとも、それはすべての人にとって端的に同一であり、したがって、その差異はすべての人において、次第に消滅していくのか、それとも、一人の人が他の人のやり方に移っていかねばならないのか(ということを決定しなければならない)。しかし、次のような逃げ道もまた遮断される。すなわち、これが、倫理学の領域の外に置かれ、自然的で生得的な説明し難い人間の差異に関係があるというような(逃げ道も遮断される)。というのは、現実の人間的行為に関するもので、倫理学の領域の彼岸にあるようなものは、何もないからである。なぜなら、すべては、素質にしたがってではなくとも、少なくとも力にしたがって、訓練や偶然的恣意的行為そのものを通して成立したものとして、倫理的にも判断し得るからである。したがって、その差異が、一つの分割不可能な善の形態に反すると見なされるならば、それも道徳的に無にするものとして立てられる。そして、これは倫理学の課題でなければならない。そうでないところでは、それは、道徳的に産出されるべきものとして、あるいは、形成されるべきものとして承認されねばならない。したがって、いずれの場合にも、その場所を倫理学の中に見出す。なぜなら、この学問に対する無差別的(Gleichgÿturyltigen)という概念は、完全に破棄されるからである。これは、大部分の倫理学においては全く見られず、十分なものも規定されていない。というのは、賢者の理想が、一つのものとしてはっきりと定立されていないところでは、道徳的なものの多様性もまた適切に承認されたり規定されたりしない。さらに、それが起こるところでは、画一性がはっきりと確定され、明確に描き出される。しかし、〈264〉その問い自体の決定が、先ず、あのすでに言及された見解の差異―すなわち、道徳的なものは、すべての人に共通なものであるべきなのか、それとも、特殊なもの固有なものでもあるのかという差異に依存するということを各人が見る限り、それは、この成果によるように思われる。あたかも、その差異が、十分はっきりと意識にもたらされなかったかのように。上ですでにこれについて呈示されたものを顧みるならば、すなわち、先ず享受の倫理学に関していえば、これは、自分自身を保持するために、必然的に道徳性の固有なものを受け入れなければならない。なぜなら、幸福はいくつもの形態において全く現実的に現存するに他ならず、そして分割されるが、両者は、対象にも、対象を扱う仕方にも関係し、様々な人によって、様々な仕方でもたらされる。したがって、これらの諸体系から、道徳的なものにおける特殊多様なものの最も広範な取り扱いと、いかにして人は賢くなることができるか、その様々な仕方の記載が、正当にも期待され得る。これに全く対立して、幸福主義がこのあり方について示さねばならない少数のものがある。そして、断片的に不十分にしか現れないものは、ほとんどただ学問的でない叙述にのみ分散している。しかし、関連している叙述は、すべて特に共同的なものにのみ頼っている。それは、一般的なものではありえないので、不規定なものでなければならない。正しいもの、必然的なものが、学問的形態よりも一層別の形態に現存するのであれば、すでにこのことが、体系のために有利な兆候ではあり得ない。なぜなら、〈その内容は、学問的な形態に反している、そして一方は他方を破壊する〉という推測が正当にも成り立つからである。この欠陥の原因が、とりわけ次のことの中に見出され得るように、すなわち、その精神に忠実にとどまりつつ、その体系は、共同的なものを全くないがしろにしなければならないということに、見出され得るように、それは、制限する条件のために、特殊なものに役立つことは決してできない。したがって、これは制御されたりまとめられたりされることはなく、無規定なもの、〈265〉無限なものの中に散乱しなければならない。したがって、臆病な不完全性と皮相性、この種のすべての倫理学において皆の注意を引くに違いない。しかし、第二に、活動の倫理学に関して言えば、その共同的精神からは、特殊固有な道徳的なものの承認や叙述への特別な傾向といったものは、決して生じない。というのは、上で次のように言われたにもかかわらず、すなわち、この体系においても、正しく理解されれば、最高善も同様に、各人からでは全くなく、ただすべての人に共通のものから生じ得る(といわれたにもかかわらず)、しかし、この区分は単に作用されるものに関係するに過ぎず、内的行為には関係しない。この内的行為は、他の規定根拠が入ってこないならば、すべての人において同じものであり得る。したがって、この種の体系すべてに共通なものの中には、次のような必然性はない。すなわち、これらの体系が、知恵に接近しながら、単に姿勢によってのみならず、それ自体としても互いに異なっていなければならないという必然性はない。したがって、期待されるべきことは、この見解の他の相違が、この対象についての思考様式の多様性をもたらすべきであり、ある人々はこの面に、他の人々はあの面に、傾くべきであるが、しかし、各人は一定でなければならないということである。しかし、ほとんど全く、すべての人によって、この固有なものは、否認されもしなければ、見落とされもしなかった。そして、この観点がひとたび把握されれば、人が全体において認める不完全性は多様である。先ず、異論としてここである人々の心に試みに浮かぶのは、ペリパトス派が常に為す叙述である。しかし、それらはここに属するものではない、なぜならそれらは、とりわけ非難されるべき個々の特質の外的な現象に関係するものだからである。それに対して、同じ観察精神が、ペリパトス派の叙述を、そのより大きな固有性へも導かなかったという欠陥が、明らかになればなるほど、それらの諸原則にしたがって、共通の原像からのすべての逸脱は、それらにとって同様に非難されるべきものとして現れなければならない。というのは、個々の道徳的なものの不規定性や、召命のイデーの全くの欠如は、アリストテレスをもそそのかして、次のようなことをさせたのである。すなわち、〈266〉相互に比較して疑いもなく道徳的なものを立てるということ、そして、様々な美しい行為から最も美しい行為を引き出すということである。彼にとってどれほど多く一定の気分が最も美しい気分として現れ、他の残りの気分は不完全なものとして現れねばならなかったことか。古代の他の学派からは別の理由から、画一的に規定された道徳的なものの受容が期待され得る。すなわち、その理由の一部は、彼らが政治的な全体に―個人はその部分に過ぎない―置くより大きな価値が、彼らを、特殊なものよりも共同的なものの訓練へと一層導いたからである。また一部は、彼ら自身確かに特殊から出発し、本来はより大きな体系の部分であり枝に過ぎないのに、誤って自らを全体と見なしているからである。このことは、上で幸福主義の二つの体系について言われたのと同様に、プラトンの体系との比較において、ストアとキニク派の体系についても言われ得る。ストア派において、特殊な性格を道徳的なもの全体と見なす誤解は、各人に明らかである。それに対し、キニク派には、この誤解をより小さくした証拠が、おそらくは相応しい。しかし、それによってキニク派は、多様性を遂行し、彼らに従う者たちに、補佐的な姿を明らかに示すべきはずであったが、そのような兆候はない。同様にストア派は、賢者の原像と、すべての内的関係に及ぶ、あらゆる場合に完全な行為の統一以外のものを、堅持すべきではなかったはずである。それに対して、パナイティオスやエピクテトス、その他同じ仲間たちにおいては、行為することの固有性に対して、行為において取られるべき顧慮の十分な痕跡がある。また、その際にただ状況の表面的な差異のみを考えるのは困難であるという(十分な痕跡がある)。しかり、たとえこれらが後期の不純なものとして拒否されるべきであるとしても、すでに、キニク派についてのストア派の有名な格言で十分である。なぜなら、知恵にいたる、短縮された、しかしすべての人に必要であるわけではない道が存在し、しかもそれが、それに賛成したり反対したりする外的要因や〈267〉召命を決定できないような道であるならば、これに加えて、他のもう一つ別の根拠が―それは内的根拠以上に特殊な根拠であるべきにもかかわらず―存在することは困難である。したがって、ここで拒否できず明らかなのは、次のような痕跡であり開始である。すなわち、それらは連続しておらず、したがって、全体の不規定性であり、ここでも矛盾無しには済まないものである。より新しいストア派的なものの下で、カントは同じような仕方で揺れ動いている。なぜなら、カントは確かにはっきりと、特定の心情、すなわち、壮健で喜ばしい心情について、道徳性に対する任意ではなく必然的な手段について語るように語るが、しかし、他ならぬそれらが手段に過ぎないということ、然り、その一方の要素は、他の手段の条件に過ぎないということから、次のことが生じるように見える。すなわち、それらは、完成された道徳性において再び放棄され得るようなものの仲間にされ、したがって、道徳性には、構成要素として必然的に属さないということである。このことは、次のことを考慮する時さらに強まる。すなわち、カントが、他のところで、人間を不親切で反抗的と見る―しかし、これは壮健でもなければ喜ばしくもないということなのだが―見方について、自然的で、全く批判されるべきでない見解や気分についてのように語っているのを考慮する時、さらに強まる。そのような、内容的には明らかに何か道徳的であるような気分が、徳の実行を損なうことなく存在できるのであれば、憂鬱で哀愁的な気分以外は、他の観点からどんな気分が叙述されようと、同じ権利を持つことを否定できない。しかし、このような気分は、暗示されたり構築されることもなければ、その影響を狙って評価されることもない。

            *フィヒテは、全く画一的に規定された道徳的なもののイデーにより一層忠実にとどまっているように思われる。というのは、彼においていかに道徳的行為が実現しているかに注意するならば、すべては熟慮に譲り渡され、一見して示されるのは、見込みを立てる指示の差異だけであり、せいぜい、一つの同じ規則にしたがって、すべての人のために変化させられるべきものの下に、その気分が算入されるだけである。しかし、彼もまた次のような証拠である。すなわち〈268〉この画一性が、言葉によって表明されるほうが、実際に形をとって示され現されるよりも、容易だということの証拠である。なぜなら、どのように信念やその都度の義務概念が成立するかというそのあり方に向かって、上で良心の行為様式について言われたことの助力によって人がさらに昇っていくならば、人は次のことを見出すからである。すなわち、もしこれが全く向こう見ずな予感能力であるべきでないなら、その場合には、まさに道徳的に無規定に放置された多様性の根拠であるところものが、すなわち、考えや感情を配列し関係させる特殊な仕方が、いずれの場合も義務として見出されるものの規定のために決定的な影響を持たねばならない(ということを見出すからである)。すなわち、誰も可能な行為の領域を、その範囲と内容にわたって完全に見渡すことはできないのであるから、当然のことながら、誰もがただ、自分の固有性に応じて、他の部分にも注意するのみならず、そして、すべての人にとって破棄されるべき不完全性と見なされねばならないものを軽視するのみならず、完全に見渡すという前提のもとで、確かに各人は、個々にある人が他の人に時間的にも価値的にも従属するあり方を持つが、その差異については、同じことを、確信をもって一般的に語ることはできない。フィヒテにはまた、彼が、〈各人に自分の心に行け〉と命じる時、一般に通用する分かり易さを装って、この全くの無規定性を覆い隠す言葉が存在する。この心が、非難される悪の座であることは明らかである。それは、矛盾なくあるためには、そうでなくてもその諸機能の大部分を破棄する倫理学において全く引き裂かれねばならない。その結果、ただ判断力と、同じく不可解な良心だけが残ることになる。あるいは、それ()はさらに規定されねばならず、それによって、その心と共に、あらゆる種類の悪しき心が定立されないためであり、あるいは、そのような道徳的判断力の悪しき心が、この領域を損なうのである。それでしかし、今経験されたように、その心と共に、間違いなく無規定的なものが、〈269〉決定し得るものの原理無しに、道徳的行為の全領域を通じて定立されるのである。

            さらに他の仕方で、幾人かの完全性の教師たちは、自分たちの目的を達し損ねている。彼らも唯一可能な道徳的性格を主張しつつ、他の人々よりも一層それを正確に書き留めようと努める。しかし、その彼らのやり方は、幾分荒っぽく、差異をただ次のようなところに認めるだけに過ぎない。すなわち、彼らが過剰によって道徳的規則から遠ざかるということである。あるいは、彼らは、節度によってそれを全く破棄すると信じており、それによって、彼らは、むしろはじめて道徳的に構成されるというのである。というのは、この種のあり方では、画一性は、ただ現象の表面的な画一性であり、内的原理は常に違ったままであり続ける。そして、例えば、温厚な精神によって行為する人は、道徳的であり、他ならぬそのゆえに、節度を持って現れる。なぜなら、不正の暗黙の是認や、何かそれに類似したものが示されることはなく、真剣で同じようなあり方で道徳的な精神によって行動する人と異なって行動した人も、両者は表面的には区別されないからである。

            そこで、自分たちの原則に従って、すべて道徳的なものの画一性から出発する人の状態は、次のようである。すなわち、彼らは実行において、差異の間接的な承認を避けることをせず、したがって、対立するものの間を揺れ動きつつ、画一性を現実にはほとんど主張できないのと同じく、差異を規定することもできない。しかし、固有なものを道徳的なものへと形成することから、したがって、特殊な、多様に形作られた道徳的なものから出発した人としては、すでに言及された幸福主義者を度外視すれば、ごく少数しかいない。名を挙げられるのはたった二人、すなわち、プラトンとスピノザである。スピノザについては、すでに上で、以下に彼にとってそのような特殊なものの受容が自然であったか語られたが、彼はそのような場合に、それを十分はっきりとは自覚していなかった。そして、ただその注意深い読者だけが、〈270〉彼の念頭に何かそうしたものが浮かんでいる個所を見出すのである。いったい人間がその諸原則にしたがって観察と行為の対象である限りにおいてのみ、そのような固有性が必然的なものとして現れるのだが、しかし、行為の側面から見れば、彼の賢者の理想も、単純なものに過ぎない。なぜなら、一貫した万物における神認識は、純粋な学問として、一つの全く同じものであり得、そこから生じる神への愛という衝動は、ただ一つの衝動だからである。その結果容易にこれは、彼もまたほとんど自分自身と一致していない立場の一つとなり得る。この側にいるのは、ただプラトンだけであることは至る所で明らかである。なぜなら、彼は非常に注意深く共同的なものの領域を、特殊なものの領域から区別し、後者を、彼が弁証法的な証明を超え出るものすべてにおいてするのが常である方法で、すなわち、神話的、神秘的な取り扱いによって、根源的なもの、永遠なものとして定めている。然り、この宇宙論的で確かに体系的なこの多様性の編成は注目を免れない。そこから明らかなことは、彼もまたこの対象との関連で、より確かで一致する直観によって、いかにはるかに次のような人々すべての先頭に立っているかということである。すなわち、彼らが巻き込まれた無規定なものからの出口を見出すことを知らないにもかかわらず、全体を形式に従って叙述しようと駆り立てられる人々である。しかし、この両者の並置は、彼らの固有性を知っている人に対して、最もよく決定的な合図を与える。それは本来、ある人々が、道徳的なものにおける特殊なものを、そのはっきりとした教説において明確に否定し、それからしかし、暗黙のうちに密かにそれを再び受け入れ、また他の人々は、それを弁証法的に途上で見出しはするが、しかし、根本的に理解することもなければ、適切に取り出すこともできないという混乱の原因である。なぜなら、プラトンが、優先を誇り、スピノザがそれを無しで済まさねばならない場合、その原因は、容易に見出され、おそらくそれがここで以上にはっきりと証明されることはない。〈271〉それは他の残りのものとの比較を通して為されるが、それについて語ることは骨折りがいのあることである。しかしながら、研究の境界領域にあるものは、倫理家の物理的な理論と密接に関係しているゆえに、まだそれを理解していなかった人々に対しては、ただわずかな言葉によって暗示され得るに過ぎない。すなわちこれが悪の原因であるように思われる。すべての人がほとんど、人間の精神的能力を、ただ理性と見なし、この根源力についての他の見解を、自由な結合・産出能力あるいは想像力として、まったく等閑にする。しかし、それは本来倫理的見解でなければならず、他ならぬそのゆえに、論述においても見逃すことはできないのである。というのは、理性はもちろん万人において同一であり、まったく共同的で画一的である。したがって、個人的理性について語ることは、もしこれが有機体の単なる数字上の違い、時間と空間の外的条件の違い以上を意味するのであれば、そもそも無意味である。しかし、想像力は、各人の本来個人的で特殊なものである。そこには明らかに、上で規定されずに放置されたものの特徴として示されたものも属している。そこで、例えばカントが、彼は、自分の倫理学はただ理性的であることを望む人にだけ有効であると喜んで認めるのだが、そのカントは、もしある人が、倫理学の第二部を、理性はもちろんだが、理性だけでなく想像力をも持つことを欲する人のために要求するとしたら、いかに驚き言われたことをまったく認めないことであるか。[]というのは、彼には次のことは分からないからである。すなわち、あたりを漂う煙から像を創作することを彼が許可したのと同じ力によって、すべて他のものを形作らねばならないということ、そして、他ならぬこの力が、理性を確証したり否認したりするすべての来るべき行為を明示するのみならず、〈272〉選ばれたものをも初めて生き生きと作り出さねばならないということ(がカントには分からないからである)。フィヒテにおいても事情は同じである。彼にとっては、カントよりも首尾一貫して、そのわずかなものも消滅しており、想像力のすべての機能は、それが再び背後で、理性によって要求される場合を除いて、十分に顧慮されていない事物の表題に属している。いかに彼が、まったく正当に個人から共同的なものへと移された道徳律を除けば、道徳律の道具であるべき悟性と身体以外のものを認めていないように、その他のものは彼にとって外的なものに属さねばならず、それによって、人間が自らを見出す地点が規定されるが、その偶然的なものの下に、想像力も、彼の存在についての教説との大いなる一致のために眠っている。それにもかかわらず、ここでも道具のたとえを示そう。それは真理と調和せず、先の誤謬とすでに言及された他の誤謬との連関、すなわち、立場と召命を選ぶ方法における不確かさという誤謬である。なぜなら、固有なあり方や考え、感情を創り出すことは、人間が存在している瞬間から、画一的で普遍的に妥当する命令の下にもたらされねばならない―そのための指針はまったく欠如しているが―か、あるいは、それは持続的なものとして、必然的な影響を、各人が道具であるあり方に、そして、それによって彼が自分の働きかけの対象を選ぶところの規則に与えるかである。その規則は、同様に欠如しているのみならず、社会に譲与された禁止の法と矛盾するだろう。

U.倫理的に規定されたものの誤謬

            同じ理由から生じているかどうかは、各人の判断に委ねられるとしても、明らかに、〈273〉これまで非難されてきたこととの密接な連関の中に、次のような第二の誤謬がある。すなわち、倫理的に規定されなければならない多くのものが、倫理学の叙述において全くと言ってよいほど見逃されていることである。先ずこのことが明らかなのは、当然のことながら、人間生活の次のような部分においてである。すなわち、従来、固有なあり方と方法として義務に適った諸行為において叙述されてきたものが、同時に諸行為に固有な内容を形作っているような人間生活の部分においてである。しかし、そのような固有な内容が存在するということ、そして、それが全体に対して大きな重要性を持つということは、誰も否定しない。なぜなら、一方で、大部分の人においては明らかに、彼らの本来的な行為が心情の力すべてを働かせることはなく、機械的な遂行が行われるところでは、訓練や慣習自体は、注意を個々の瞬間における以上に対象に結びつけること無しに、高度な完全性を可能にする。そのような思考と感情の系は、行為とただ時間の同一性を通して結びついているのだが、正当にも、道徳的規定と判断の独自な対象と見なされる。しかし、ここですべての差異が、何か表面的に誘因となり促しとなる諸対象に基づくのではなく、思考を結びつけ、結合する固有なあり方に基づくということ、これは明らかでなければならない。というのは、同一の対象の場合でも、まったく異なる観察が成立し得るし、その逆の場合(同一の観察が、まったく異なる対象に成立する)もあり得るからである。したがって、各人は次のことを認めねばならない。すなわち、この領域の内部に、適切な種類の内的理想的行為の大きな塊が存在するということである。確かに、これを無意識的なもの、微々たるものという口実の下に、道徳的なものの領域から排除するということはできない。なぜなら、両者についてはすでに上で言及されたし、そのいわゆる理想的行為への適用についても必要なことは言われた。すなわち、ここにおいて次のことは特別に拒否されるべきではない。つまり一方で、それはしるしまた表現として関係している道徳的状態を、訓練や習慣としても固定するということ、〈274〉そして、他方で、それは、ある意図的な指導において、現在的なものの吟味と観察を通して、準備され改良されつつ、将来的なものへ作用できるということである。単に女性の道徳性だけが特に生のこの部分に依存しているわけではなく、機械的に働く社会の区画のもとにある多様で特殊な道徳的諸現象も、これによって説明されるべきである。然り、最も悲しく、最大限追放されるべき人間の魂の状態、すなわち狂気は、この諸表象の内的戯れの無制御な倒錯による以外に原因はあり得ない。しかし他方、その行為にほとんどあるいはまったく機械的なものが混入していないような人々も同様に、自由で内的な活動の切り離された状態を持たねばならないが、それは何か、それによって初めて、それが満たされるかそれとも拒絶されるかが調べられるような必要によってではなく、そこに与えられているものすべてが人間の生に存在すべきであるがゆえに、ただ正当なあり方においてであり、さらに、最も本質的な道徳的最終目標の大部分が、一つの体系ではなく、すべての様々な体系によって達成され得るのは、ただ自由で内的な活動による以外にあり得ないからである。またおそらく誰もが感じていることだが、いかにしてこの活動内容によって、制限や拡張、道徳性あるいは不道徳性が自らを表現し、成立するのか、そして、その対象においても、それを扱う方法においても、いかに器用さと不器用さとが、人によって異なっているか、このようなことについての指示は、倫理学の何らかの記述において、誰も示してこなかった。あるいはそれが可能なのは、自分の空虚さと乏しさについて、何かを思い出す必要のないそういう人々だけであろう。

            *さらにこの誤謬はきわめて自然に、この内的に生じたものを他者に伝達する仕方にも広まっている。それについては同様に、たいていの場所で一致した意味についての道徳的表象が、〈275〉無為に求められているのである。なぜなら、交際の法則は概して、ほとんど至る所で、何らかの仮の礼儀正しさか、あるいは、最高でも自ら構築された表面的な礼儀正しさに、否定的に関係させられるに過ぎないからである。その上、単に弁証法的な関心から成立したに過ぎない見かけだけのストア派の完全性―それは、ここに関係する徳の空虚な表題を、それを実際に満たす以上に立てるが―が、これ以上さらに広まることはない。それへの誘因は体系の精神にもなかった。本質的に倫理的な目的の助成のための自由な伝達の利用は、彼ら(ストア)においても、他の人々と同じようにほとんど考えられてはいない。そして、彼らが立てる自由な社交の徳は、彼らの善の目録において、何も引き合いに出すことはない。そして、おそらくは誰かが言うであろう次のこと、すなわち、〈行為のあり方は、この点で、人間愛の普遍的な命令―それはどの体系においてもそうであるように―と、真実さによって判断されねばならない〉ということは、単に争点をずらすに過ぎず、最高でもその誤謬を先の種類の一つの誤謬に変えるだけである。なぜなら、その命令は至る所でただ普遍的であり、自由な伝達においては、しかし、すべてではなくとも大部分は、単に内容だけでなく、様式によっても同様に、固有なものに基づいており、その結果、判断の原理は確実に欠如している。たとえ、後者はただ大きな制限を伴ってのみ承認され得るにもかかわらず、そのための場所はそこにあるとしても。また、いかにわずかしか、特に最近の実践的倫理家には次のような考えがないか、それは誰もが知っている。すなわち、この対象について何かを規定し、この種の伝達を本来道徳的に構成しようと欲する考えである。というのは、カントにおいて次のような格率、すなわち〈人間は、自らの知識と考えにおいて孤立化されるべきではない〉という格率が、いかに不注意に、本来の場所も連関もないままの状態にあることか、また、〈道徳性に属さないことは、見知らぬ完全性を促進する〉という原則において、以下にわずかしかその格率が語られ得なかったことか。この原則をフィヒテは、同じあり方で立てなかったが、しかし、彼においては、厳密には学問的でないか、あるいは〈276〉職業行為に属するすべての伝達が、ただ一つの要求に関係し、道徳的なものは、この要求が何か直接的に実践的なものを対象と為す場合には、ただその観点においてのみ存在する。もし人がこれを先の考察に値する言葉、すなわち、〈社会を作ることは人間の責務ではなく、彼は、もし自らをそこに見出すのであれば、荒野にとどまってもよい〉という言葉と比較するならば、そのような人もまたいかにわずかしか、生のこの部分を倫理的に構築することに気遣っていないかということが分かる。とりわけ彼は首尾一貫し厳密であるゆえに、カントにおけるよりもさらにこの正しい点を見出すという問題が実際に解かれることなく、教育が自らを分離し限定する粗野で厳しいあり方による、自由な道徳的作用についての規定性のこの欠如がはっきりしている。しかし、このようなことは、ただ付随的に示唆されるに過ぎない。しかし、次のことはこの非難に値する。道徳的に要求されたものとしての自由な伝達を樹立し、訓練することを怠り、単に実践的な倫理学のみならず、少なからず快楽と享受を目指す倫理学も、それに対しては、それらが、ある程度有機的なものの上に自らを拡張しようと欲する限り、これは正に最も重要で、最大の善の座でなければならない。したがって、驚くべきことは、彼らにとっては本来悪と思われるに違いないことが、これほど多く正義にとどまっているのはなぜかということである。そしてむしろ一つの国家を宴会のように立て、あるいは、そうでなければ、賞賛すべき高貴な娯楽の共通の享受を立てることである。

*とりわけ彼らにとって重要なのは、戯れや機知を導き出し規定することである。しかし実践的な道徳教師にとっても、この種の道徳的なものの範囲と固有な境界を見出すことは、多くの関係ゆえに、重要な課題であることは明らかである。しかし、いかにわずかしかそれが問題になっていないことは誰もが知っている。なぜなら、その他の時には戯れを知っているような人においてさえ、倫理学においては戯れはまったく消えてしまっており、彼らにとっては、それが記憶にさえ上らないほど無縁のものだからである。他の人々においては、それ(戯れ)は、先ず感動の手段として横隔膜に関係させられるか、刺激として神経に関係させられるかであり〈277〉身体に属するものである。その結果、それはそもそも医師によって処方されねばならないのである。ストア派も、〈賢者は酩酊しない〉ということを知って、カントよりもさらにさらにはっきりしているが、この点に関してはほとんど論じていない。アリストテレスは、戯れに、他の倫理的要素と同じくらいに広い場所を与えている唯一の人である。ただそれは落ち着きのゆえに、手段としての必要からではあるが。戯れがそれ自体で目的を持ち、意義を持たねばならないというようなこと、あるいは、戯れがあたかもその根であるような特別な世界観については何も語られてはいない。生に劣らず技法は、生を直観へもたらす努力をするものであるにもかかわらず。そして、ここではさらに加えて、大部分の倫理学の制限的な性質についての自然な作用が現れ、例えば、戯れを根源的に道徳的な方法で産出しようと欲することは、そのような倫理学にとっては意味をなさないのである。そこでは、戯れを与えられるがままに、自然的で素朴な傾向として受け入れ、それをただ何らかの見知らぬ道徳的な命令で制限し、抑制することで十分なのである。そのようなところからは、当然のことながら、確かなもの、規定されたものは生じることができず、その結果、このほとんど普遍的な特質は、これや先の種類の欠如の必然性を覆い隠してしまう。

            *さらに、もっと重要な人間の諸関係についても同じようにほとんど規定されていない。それら諸関係によれば、内的なものの共同は不可欠な条件である。というのは、もし私たちが、これらについて、狭義の意味での愛と友情という二つの名称のもとに、最もよく要約するならば、両者が至る所でいかに無規定なまま放置されているか、誰もがすぐに気付くだろうからである。すなわち、それら(愛と友情)が、まだ学問的な取り扱いの痕跡をまったく持っておらず、両者をどのように区別されるかもほとんど見つけ出すことができないゆえに、もしそれらを〈278〉通常の用法に従って、問題の多い仕方で分離することが許されず、また、それがもうこれ以上うまくいかないということは事柄自体が示しているということを参照するよう指示することが許されないならば、それらについてはまったく問題にされないだろう。これら二つの関係がすべての倫理学にとって、最も重要な対象に属することは明らかである。なぜなら、幸福に対してこれら(愛と友情)は、快楽も痛みも倍加することによって、全体的変化を引き起こし、より高次のポテンツに高め、さらにまた、これらが定立されるや否や、そうでない場合とはまったく違った事物の従属や計量が生じるのである。さらに実践的倫理学にとっても、これらの課題自体が、まれに見る注目すべきものであり、その他のものに少なからぬ影響を与える。両者において愛と友情は常に幻惑し魅惑する仮象の座であるが、それは、愛や友情の口実のもとで、昔から、多くの幸福や正しい行為がしくじられるということによってである。したがって、すべての場合に両者に必然的なことは、これらの関係を先ず、本質的に道徳的な目的―それが存在すればだが―との必然的な連関において立て、そして、そこからそれらの範囲と境界を正確に規定することである。ここにおいて、全体として幸福主義の道徳教師は、少なくとも努力の優先権を持つように思われる。なぜなら、彼らは常に、概念の厳密な規定と、明らかにその諸原則に反するものすべてを分離することによって、友情を、そのイデーによっても道徳的な関係として叙述する努力をしているからである。さらに詳しい観察によって十分明らかなことは、すべての善意は、すべてを支配する快楽への努力によって破棄されると主張する実践的道徳教師に対する自己弁護が、ここで大いに関係しているということであり、また、彼らもその概念を、すでに現存している概念以上に自分たちの体系と合一しようとしているが、それは、彼らがその概念を最も内的な諸原則から産出する以上にそうであるということである。概して、単にある程度貫徹されただけの友情についての教説について、幸福主義の倫理学においては考えられない。〈279〉そうではなく、一方の人々は、常にあまりに多すぎることを証明しようとする。つまり、彼らは友情を、より大きな市民的な一致の根底にも置こうとするが、それは、倫理学において避けられない共同的なものに対する特殊の優位に反する。しかし、他の人々は、常にあまりに少なすぎることを証明しようとする。すなわち、彼らは友情を、確固たる自立した関係として築くことをせず、ただ自分の努力と成功が見知らぬそれと偶然出会うことに過ぎないとする。愛に関して言えば、性欲のみを最も大きな善の一つと見なす人々によって、別の何かに向けられたすべての友情から愛を分離することが、よりよいこととして証明されることもなければ、愛の対象がそのような分離においてどのように扱われるべきか、そのしかたが示されることもない。また、近年まれでないより高次の愛の弁護者たちによっても、そのように異なった二つの要素の統一の根拠が示され、それらがその本質と作用において叙述されるということもない。しかし、行為に重きを置く道徳教師たちのほうが、自分自身とよりよく一致しているとか、その課題を解決するまで解消するとかいうことはないのは確かである。その際、より古い人々にとってのほうが、これを非難をより深刻にしており、彼らは、友情をもたらす能力を幸福主義者たちに対して、非常に特別に誇っており、その場所を、彼らの建造物の主要な輝かしい場所として、明らかにし、飾り立てたからである。しかし、最近の人々には、彼らは体系的理由からよりもむしろ歴史的理由でこの争点を放棄したが、彼らに対しては、次のように悪口が言われるべきである。すなわち、彼らは、昔の人々よりも、事柄自体においてさらに悪く見出されると。なぜなら、先ず愛、特殊なものとしての、すなわち、最も厳密に内的なものの共同を目指すものとしての愛について言えば、古代人たちは、両性間の道徳的に不平等な関係、しかも受け入れられ外的にも示された関係において、これが彼らにおいてまったく通り過ぎてゆく場合には、容赦されていた。したがってむしろ人は、次のような場合に満足しなければならない。すなわち、高貴な少年愛の場所に現れたものが、不完全に表現され、〈280〉事柄自体の不条理以外期待できないように、非常に欠陥のある仕方で導かれるとしても(満足しなければならない)。一般に、例えばストア派が説明しているように、他者の美から成立して、自分の改善を求める努力としての関係は、適切には理解されることができないものである。なぜなら、そこには彼らに、象徴的なもののイデーがまったく欠如しており、彼らは、自然的なものと倫理的なものとの連関を提示することができず、美に与えられるその優先は、純粋に恣意的で不道徳的に思われるからである。しかし他方、倫理的課題は、非常に限定して把握されるならば、少なくとも明瞭で理解可能である。しかし、最近の人々においては、この対象におけるほとんどすべてが、不明瞭で不確かである。そして、彼らは、自分たちの状態と思考様式の産物をどのように消化すべきか知らないように思われる。というのは、それを否定する勇気を持っているのはただカントだけであり、彼は、自分が実践的愛と呼んだもの以外道徳的な愛を認めなかったが、それは、法則に従った処遇であり、それは扱われる主観以上に法則に関わり、したがって、愛の名に決して値しないものである。この種の何か特別なもの、より高次なものを認める気は、彼にはまったくなかったので、彼は夫婦や両親の関係もまったくそのような痕跡無しに取り扱う。もしこれが、首尾一貫し、それ自体において連関しているとして、私たちの批判的な立場から賞賛されるべきであるというなら、これに対して、同じ立場から二つのことが非難されるべきである。第一に、彼には、彼が病的愛と呼ぶものが、社交的振舞いに対する大きな影響の実際的なものとして与えられている。彼はそれ(病的愛)を道徳的なものとは認めたくないので、不道徳的なものとして否定しなければならない。これをもちろん他の人はみな、一緒に建てられないものすべてが否定されることによって、ただ暗黙のうちになすことができる。ただ彼には、このような助けは役に立たない。彼は対立する道を取って進み、徳を、最も多く、それに対立する悪徳によって記述するからである。そこで、病的な愛も、徳に対立する特殊な〈281〉悪徳として現れねばならない。しかし、そこで人が見るのはむしろ、いかにまったく不当にも、自分の小心に打ちのめされて、彼が、それ(病的愛)を受け入れるべきなのか否認すべきなのかという不確かさに苦しむ姿である。彼にこの疑いから明らかになることがあるとすれば、それは、そのような(病的愛という)名称によって、さらに別の何かが、本来の病的愛とは違う、非難されるべきものが潜んでいるということである。なぜなら、彼はその場所も名称も知らないからである。そこで彼はさらに最後には次のような推測に至るのである。すなわち、これは自らを、幾分共同的なものの上に、しかし、不道徳的な傾向としてではなく、道徳的なものの純粋な固有性として基礎付けなくてはならない。したがって、そのようなものが存在しなければならない(という推測に至るのである)。第二の非難されるべき点は、愛を除くと、夫婦と親子の関係には、成立根拠と確固とした絆が欠如していることである。なぜなら、自然に対する従順―それによって彼は愛を説明しなければならないのだが―は、自然の意図が達せられるまでという以外には、選択の根拠を与えることもなければ、より長い持続やさらなる教育を与えることもないからである。そこで人は次のように言うことができる。この関係は、特殊な閉ざされた全体を形成することはなく、ただ偶然に結び付けられた同じような種類の法則の適用の系のみを形成する。そして、倫理的な課題はむしろ、その影響を生の残りの部分、単に自然を陳列したようなものに、可能な限り制限されてしまうと。そこでは、どこにも増して、この単に法的なものを考慮するだけの倫理学の頑なさと連関のなさがはっきり現れている。

            *これに対してフィヒテにおいては、彼が個々に示すよりよい傾向がいかにわずかしか体系の内的なものに基礎付けられていないかということをはっきり証明するために、関連の無さがさらに早くから始まっている。なぜなら、彼は、より高次の道徳的な愛を必然的なものとして定めるのだが、しかし、いかに彼がそれを友情から―それを彼は愛と同様に結婚に限定するのだが―区別するかが先ずはっきりしていない。そして両者のうち一方は空虚な言葉に過ぎないのではないか、あるいは、両者によって〈282〉規定される関係において、そもそも何が各人に帰せられるのかがはっきりしていない。さらに、愛が次のような感情、すなわち、結婚という事態における本質的なもの、つまり全体的な献身を表す感情である限り、彼が愛に割り当てる高度な課題、すなわち個人の合体も、望むに値するものあるいは必然的なものとして示されることは決してないし、その境界線によって定められることもほとんど無い。その結果、彼は第一発見者の喜びに与りながらも明確な洞察に達することはできなかった。なぜなら、性欲を満たすことを意味する身体的献身から、完全に精神的なものが生じ、有機的体系の正にこの部分に、他のどの部分にも増してより大きな意義が帰せられる。このようなことは、語られたことからは、倫理的にまったく理解され得ないし、このようなことに対するキニク派の無関心からどのように逃れるべきなのかも分からない。一方の根拠の無能さを、他の根拠―それは先の根拠と一致しないし、それ自体で全体を明らかにすることも無い―の付加によって除去しようとすることは、同様に、まったく非学問的で不十分な方法であろう。しかし、最も多く非難されるべきことは、次の点である。第一に、もしフィヒテが仮定しているように、性別による身体的差異に、精神的にも同じような差異が対応しているのであれば、課題は、倫理学に属さないものとして完全に見逃されてしまったものについて何かを規定するということにある。なぜなら、ある場合には、次のように言われねばならないだろう。それによって結婚が統一の仕事をも十分完全に完成できるために、どのようにしてそれは、結婚前に十分鋭く形成されねばならないのかと。また他の場合には、その人々には責任はないのに合体をなすことができなかった場合、どのようにして彼らはそれに対処しなければならないのか。したがって、普通の人間的なものと性的に固有なものとの間に境界線が引かれねばならなくなるだろう。そのようにして承認された固有性は、明らかに多くのその種類や段階にしたがって連ならねばならず、その結果、そのような承認は、何か異質なものあるいは不適切なものにならねばならないか、あるいは、このような倫理学は、〈283〉その根幹のほぼ半分を、その細部に至るまで発育不全にするだろう。第二に、彼は愛の規定根拠も、呈示できないか示し得ない。したがって何か不自由なものをそこに認めることになり、彼は、彼の倫理学の最も内的な根拠、すなわち、良心の教説をだめにしてしまう。なぜなら、その同意が無ければ、愛は、自分がどのように成立したかを知らないのだから、行為においてさらに追求されることはできないし、結婚は、生における最大の最も道徳的な関心事として立てられることもできない。良心はどのようにして不自由なものについて語ることができるだろうか。また、不自由なものの間で、すなわち、正しい選択と誤る可能性もある選択の間で、どこに道徳的判断力がそれ(良心)を導かなかったかということを決定できるだろうか?もし人がこの点にとどまるならば、次のような格率すべてが現れる。すなわち、それにしたがって、そうでない時にはこの体系において道徳的なものが困難な場合に構成され、あるいはむしろ不安に捕らえられるような格率である。時間が無いこと、召命の鋭い唯一の線、そしてそれに類するものが、あたかも誤解されるかのように、現実の体系を基礎付けることに無力なイデーが、一般に注目される。同じことは次の場合にも明らかである。すなわち、フィヒテがいかに彼のイデーから正しい方法で、性別と結婚に関係する愛にも、また、他のすべてのより厳密な精神的結びつきにも達することができたということを、人が修正しつつ探求しようとする場合に明らかである。すなわち、個体性が自我の本質的条件に属するということから出発しつつ、個を求めることに向けられた衝動を立てることは、綜合的な方法にとって容易であり、相応しくさえあった。この衝動は、純粋な衝動の浸透によって、道徳的衝動に作られ単に多様な友情に導かれたのみならず、必然的で今や非常に驚くべき芸術作品の発見を説明できただろう。然り、次のようなことも考えられる。これは、星々、批判的熱狂の最大の対象に至るまで示されたと。それにもかかわらず、各人が見るのは、この道で〈284〉所期の目的に達するために、その原理、すなわち、許可の法則を基礎付ける原理が、場合によっては荒野にとどまることになってもフィヒテの中にあってはならなかったということであり、また個体性(IndividualitÿBするために、その原理、すなわち、許可の法則を基礎付ける原理が、場合によっては荒野にとどまることになってもフィヒテの中にあってはならなかったということであり、また個体性t)も彼にとっては、単なる人格(Persÿnlichkeit)以上のもの、そこから生じる精神的なものの質料的な差異と共に身体の数字上の差異以上のものを意味しなければならなかったということである。その結果、それに従って、この体系の内的なものの全体的な変化無しに、その体系を完成することは不可能である。これを開始し、導き入れるという打ち克ちがたい衝動が存在していた。さらに多くの最近の人々において、彼らにとって愛が何であるかを尋ねることは余計なことのように思われる。なぜなら、この課題の主要な困難のみを求めた人は、すなわち、自然的性欲と特殊な精神的欲求との結びつき、あるいは、これが拒否された場合には、それが友情と愛のもう一つ別の違いの指摘であろうと、または、自然衝動から生じた関係を同時に知的衝動にするというもう一つ別の根拠の指摘であろうと、そうした困難を求めた人は、これをまだどこでも解決していない。しかり、そのための試みも見出すこともおぼつかないし、自ずから推測されることは、さらに浅薄で無能力な体系において、不確かさもさらに醜く、その混乱は、全体のさらに悪い性質によってさらにはなはだしいに違いない。

            *さらに本来の友情に関して言えば、手身近にただ次のことだけを付け加えたい。すなわち先ず、すでに普通の概念は、友情に多くのあり方を定めている。その中には、何か古い区分が、有用性や快適さやよそのゆえに理解されるべきだというのではなく、そのようなことは、単に各体系の精神に相応しい概念の規定に過ぎないだろう。そうではなく、これらのイデーの各々が、様々な部分を持つように、その中のあるときはこれが、あるときはあれが、〈285〉結びつきの対象になり得、その享受の共同の努力となり得るのである。しかし、倫理学の叙述においては、共同の本質も、友情のあり方の差異も、適切に注目されていないように思われる。というのは、カントがこれについても考えていたとするなら、彼は、弁証法的な友情―それは彼が友情に関して残したものに対する最も相応しい名称であるのは確かだとしても―が、唯一の従属的なあり方であり得るということを発見したという。あるいはフィヒテが、友情を正しいあり方に区分したとするなら、彼は友情全体をただ結婚に求めることによって、部分的な結びつきを暗黙のうちに完全に否認する必要はなく、次のような場所を見出したのである。すなわち、彼も人間的関係についての彼の欠陥ある叙述において、これやあれやの種類を用いることができるような場所である。例えば[]。しかし、結婚においてはまったく示されない友情に対して言うべきことは、それは確かに人間の活動のいくつかの部門から他の性別を排除することにおいて、確かな根拠を必要とするが、それはそれ自体明白なものとして無視されることができる。アリストテレスについても、彼は、この問題を他の大部分の人よりも厳密に考え、問いを投げかけ、答えているが、人は次のように言うことができる。〈彼の理論は過剰によって欠けのあるものとなった〉と。なぜなら、彼は友情をあらゆる結びつきを創り出す根拠と定め、カントとまったく正反対に、家庭的なものすべての中に、権利ではなく、ただ愛だけを見ようとしている。したがって、彼は、このようなあり方で家庭と社会の間に定めた差異を超えて、おそらくもっと大きな差異、すなわち、家庭について根拠を形作っている友情と、本来のいわゆる友情との差異を見落としている。その結果、人は、彼がそれについてさらに語っていることを、政治的な友情以外に関係させることはできない。〈286〉さらにさかのぼって人は、次のように主張することができる。すなわち、友情も愛と同様に、体系の原則から必然的に流れ出てくるものとして導き出されることは決してない。したがって、それは、善の目録の中にあっても、そこには、まだ誰も必然的連関をもたらしてはいなかった。しかし、友人を持つ義務などというのは、決して問題になり得ない。そうではなく、友情は常に見知らぬ領域から―どの領域が受け入れられるのかは誰も知らない―生じ、他ならぬそのゆえに、友情が根源的に伴って現れるところの諸要求から、多くのものを取り消さなくてはならない。そして、体系の秩序を装うために、いろいろな仕方で無理やり割り込むのである。しかし、倫理学においてそのようなことに耐えることは、第一原則と抗争することであり、そのようにして扱われる対象を同化する体系の無能力を示しているようなものである。したがって、友情の問題は、それが最も問題になるところで、正に最もはっきり現れている。なぜなら、それとは違った結果になり、もし、友情が、他の義務や関係との抗争において、根源的なものとして呈示され、協議されるならば、各部分はどれほどのものを断念しなければならないだろう? Marcus Tulliusが考えているように、ある人々は友情のゆえに、厳格な権利に反することになるだろう。ただあまりにも悪く不当な要求であることは無いだろうが。あるいは、アリストテレスによって友情がはかないものとして表象され、その場合の方策が提議されるならば、倫理的原理から成立したものは、何も解けていない。あるいは、ストア派が、彼らにおいては、真に道徳的なものは、決して単なる感覚に関係させられることはできないのだが、次のように問う場合、すなわち、同情のために、あるいは、共に楽しむために、友人が呼び寄せられるべきかどうか、そして、彼らの決定によって、悪しく呼び寄せられた友情は、同様に悪しく遠ざかっていくかどうか問うならば。というのは人はまた次のようにも言いたいからである。友情はその敵との論争を誘惑してこのような失策へ誘い、友情はその論争を、賢者の自足から出発して、賢者は自分の本質的な目的のために友を必要としないという自白へと強制的に導く。したがって、確かなことは、〈287〉友情がその体系において実際に根拠付けられていれば、友情はこのような仮象によって幻惑されることは無かったということである。したがって、このような事例すべてにおいて友情は、何か根源的に道徳的でないものとして現れている。それは、境界付けによってはじめて道徳的になるものであり、したがって、次のことは当然である。すなわち、友情は全体を形作ることはできず、その道徳的価値と影響において規定されて叙述可能なものであるということである。他のすべての人に先んじているのは、ここでもまたプラトンである。彼は友情と愛について、彼が至る所で正しくあらゆる点で十分であるかどうかは、ここでは解説できないが、しかし確かに関連をもって語っている。すなわち、それについていろいろ語られているすべてのことから、弁証法的神話的形式において、全体を創り出すことは容易である。ただ次のことを覚えることは許されるだろう。すなわち、いかに彼が、性欲を共同的にイデーを産み出す努力とを象徴的に結び付けているか、そして、個人的存在の不完全性と最高善をもたらすための不十分さに、この課題を基礎付けているかということである。したがって、各人は次のことを洞察しなければならない。ここにおいて、たとえわずかな暗示によってではあっても、他の人が考えてもいなかった問いが答えられているということ、そして、ここで友情と愛とが、外側から結合されたり貼り付けられるのではなく、彼の倫理的な根本イデーの独自な力によって、彼の体系の内側から駆り立てられ生み出されて(hervorgetrieben)いるということである。

            *至る所でほとんど完全に等閑にされている第三の倫理的な素材は、学問と芸術である。なぜなら、両者は、道徳的判断の支配下にある恣意的な行為を通してのみ成立可能だからである。したがって、このような行為やその産物についても―その前もって受け入れられたイデーは、行為の根拠だったが―倫理学は判断しなければならない。そして、このような行為を賞賛したり非難したりする根拠から、次のような精神が生じなければならない。すなわち、そこにおいて学問と芸術のみが道徳的に営まれることができ、またその境界が存在するような精神である。まず学問に関して言えば、ここでなされる要求を理解するために、次のような違いが観察されなければならない。すなわち、〈288〉すでに倫理的に課せられた何らかの他の行為の部分あるいは条件である認識と、他の行為において、他の行為と共にではなく、それ自体で求められ産出される認識との違いである。なぜなら、当然のことながら前者は、それが属している行為が正しいと認められている限り、特別な弁護や推論を必要としない。したがって、例えば、言語の習得や、身体的運動の自然的機械論の習得は、それが常に同時に他の直接的行為の部分であり、そこにおいて行われる限り、正当と認められる。同じことは、自ら正当と認められている職業の選択に従って、それに関係している認識の学習や蒐集についてもいえる。しかし、本来の知、すなわち単なる認識の所有であり、それによって目的を達し、したがって、自分のために特殊な行為を創り出す本来の知は、自分独自の推論を必要とする。これが欠如すると、それは、倫理学のそのような体系において、暗黙のうちに道徳的生の連関から排除され、否認される。したがってこれは、ほとんどすべての倫理学に妥当することである。なぜなら、知または学問的努力の倫理的構築は、ほとんどどこにも見出されないからである。なぜなら、第二の種類の認識あるいは学問は、第一の種類の認識に還元されることによっては、悪が取り除かれないからである。すなわち一方で、全学問が存在する。つまり、それ自体最高のランクを占め、それに対しては直接的で本来いわゆる行為への手段としての影響がまったく帰せられないような学問である。その下に、その命題に異を唱える人は、まず不可欠の手段だけを考えることができ、それは倫理的問いにおいては十分であり、それは確かにさらに多く示され得る。他方しかし、そのような影響が与えられえるような学問については、少なくとも、学問的形式はそこには属さず、ただ、最大限でも歴史によれば使用自体において見出される個々の命題だけである。〈289〉さらにまた、この連関に知の道徳的なものが基づくべきであるなら、それにもかかわらず実用的な学問に学問として、それが選ばれた職業としてであれ、個々の行為としてであれ専心する各人は、不道徳的に行為するだろう。なぜなら、彼が自分の行為をこの目的に関係させていないことは明らかだからである。したがって次のことは明らかである。学問の実用性についての問いは、それが倫理学の領域に引き寄せられるとしても、指示された点に当てはまることは無く、倫理的目的として、あるいは、善として立てられるのは、知それ自体でなければならない。それが義務としても見なされ、適切に規定され、境界付けられることが可能になるのはその後である。いかに多くの課題がここに、特に、最終的な扱いのために起因するかは、誰の目にも明らかである。また同様に、それら(課題)が、決して言及されないことも(明らかである)。

            *この点において、倫理学体系の対立する二つの系統に存在する混乱を認めることは、誰にも容易である。なぜなら、幸福主義の体系は知を軽蔑する傾向にある。というのは、この体系にとって、単に認識の所有のみならず、その産出を固有な快楽の状態として立てることは最も容易であり、したがって、この体系は、後者(認識の産出)を、相応しくないあり方で、単なる手段としてこっそり通り抜けることは決してできないからである。これに対して、実践的な体系はむしろ知を愛する。この体系にとって、そのようなことは、この体系のほとんどすべてに共通の、行為についての非常に限定された見解ゆえに、困難であるに違いないからである。そして、あたかも知を自ずから理解するかのように振舞う。この不可解な〈自ずからの理解〉、そこにおいては常にただ何かその義務のようなものが問題になるのだが、それを人は、アリストテレスがそれに与えた対応物と結びつける。アリストテレスは、ある点に至るまで、明らかに混乱して、すべての知を、そこに属するすべてのものと共に、独自な領域として、〈290〉道徳的なものから完全に分離する。そして、より包括的な意味で、また当然のことながら、より首尾一貫して、哲学することを同様に生からも分離する人々の先駆者である。このようにして不規定なものの全範囲が生じることになる。それは、課題を見誤ることに基づくのではなく、課題を解く無能力に基づくのである。

*ある場合にはすべてが前提され、ある場合にはすべてが取り除かれるこのような困惑の最善の事例をフィヒテが提供してくれる。彼は、まず研究を、ただ形式を通して制約されるべき義務として定立する。すなわち、それ(研究)は、義務のゆえに行われねばならないというのである。しかしそれからこの義務は、譲渡可能な義務となり、その結果、したがって、知ることも、道徳的であることも、すべての人の義務ではなく、ただ一般的に、それによって道徳律が支配しているということが知られなければならず、同様に、すべての外的な仕事におけるように、各人がそれを自分自身のために完成するかそれとも、少数の人がすべての人のためにそれを完成するか(ということが知られねばならない)。そして、後者のほうが、一般的な格率に従えばより良いので、したがって、学識者だけが知るということになる。しかし、彼らが知っていることは、一部は、自然に働きかけるための感覚的なもので、そこには上記によれば、厳密な知は決して属していない。また一部は、超感覚的なもので、それは、平凡な考えを道徳律承認のために改善したり、学問としての倫理学をもたらしたりするためのものである。倫理学はなぜ知られねばならないかと問われるとき、どのような循環が最も好ましい仕方で完成されるのか、これは、しかし、法則の支配のためにまったく要求されない。なぜなら、倫理学は知のためにあり、知は倫理学のためにあるが、両者は無に向かっており、したがって戯れである。それはしかし禁じられてもいる。なぜなら、道徳的なものは、両者、倫理学と知を拒絶するからである。

*したがって、ここでも再び、プラトンとスピノザだけが、幾分とも正しい示唆を持って残っている。前者(プラトン)は、各個の真の完全性において完全に道徳的なものを叙述しようとする努力において、それ(道徳的なもの)を知においても叙述することによってである。後者(スピノザ)は、彼において道徳的なものは至る所で、真の知と最も密接な関係にあり、しかも、それは何か個々の直接的実践的なものではなく、全体の知との関係なのである。したがって、〈291〉彼自身は、すべての知や、その獲得、共同の正しいあり方を、その諸原則から導き出すことに、熱心であるわけでないにもかかわらず、それが可能なのである。そして彼は、この点ではプラトンに勝っていると言える。これに対して、芸術に関しては、両者の関係はまったく異なっている。なぜならプラトンは、芸術を、個別的にはそれを憎んでも、全体として秩序だって推論し、自分の倫理体系の中へ一要素として取り入れている唯一の人物だからである。そのあり方や方法は、彼の第一諸原則がよく認めているように、形式に従わず、したがって、それほど明晰でもなければ、説得力のあるものでもないが。これに対して、スピノザはこれに関しては完全に沈黙している。したがって、人が彼を次のようにして補おうとしても、それは困難である。すなわち、芸術は、他の人における知恵の偶然的で不確かな運搬手段よりも、よりよい表題のもとに主張されているはずだ(として補おうとしても、それは困難である)。したがって人は次のように言わねばならない。芸術はスピノザによって大胆にも完全に拒否されている。正にスピノザの生自体が、彼がいかに学問の最低の職務を、もっと重要で道徳的と見なしていたかということの象徴的暗示のように思われる。そのような拒否に対して、それに矛盾するものは直接にも間接にも何もないが、批判もまた何ら意義を唱えられない。そして、この拒否されたものに対するあらゆる論争の欠如自体を、ただより高次の完全性と見なさねばならない。しかし、反対に芸術を要求するほかの人々においてはそのようなことは決してない。各人は自分のやり方でするが、しかし、その要求を規定する根拠や、芸術自体を再び規定するような行為の十分な叙述は誰にも見られない。そのために最も多くのことをなしたのは疑いもなくフィヒテである。しかし、彼においても多くの開始と再度の断念においてただ混乱だけが求められる。すなわち、まず芸術は彼にとって、倫理的に見られて、道徳に地盤を準備するための手段に過ぎない。したがって、芸術は道徳の部分ではないのである。そこから生じることは、一方では、本来の道徳的なものに対する受容性が、しっかりと基礎付けられるや否や、芸術はやまねばならない。そして、芸術は、〈292〉真に道徳的なものの全範囲にわたる叙述としての倫理学の中に、余地を見出すことはない。また他方で、疑いも生じる。なおのこと手段の不可欠性はその合目的性や許容性について証明されない。道徳性から直接奪い取られた大きな消耗に対する達成されたものの関係は計量できないからである。しかし、フィヒテが、そのような欠陥を除去するためであるかのように、芸術についてさらに語っていることには、いくつかの驚くべき点がある。というのは、悟性と意志の間の連合が何を意味しているのか。自ずから生じなければならない美的感覚はどうなっているのか。それについては、しかし、それは自ずから生じるとしか言われないのか? あるいは、それが精神の固有な能力であるなら、そのような重要なものについて、どのようにして完全性へのその形成は、流通可能な仕事でありえるのか? あるいは、もし芸術作品を楽しむことが、その作成と同様に完全なその(美的感覚の)形成であるならば、どうしてそれ(芸術作品を楽しむこと)は、特殊な職業を創り出さないのか? その他のこと、すなわち、芸術は超越論的な観点を共同で創り出すということは、次のような不明瞭さの中を漂っている。すなわち、芸術家は知恵の教師に対立しているように思われるということ、そして、両者のいずれでもない人は、自分をどちらかに完全に追いやる法則なしに、両者の間を漂わなければならないということである。したがって、ここではすべてが規定されないまま、確かな姿勢もない。しかし、ただ偶然的に芸術に触れるに過ぎないカントや、まして他の人々について語ることは実りのないことである。推論の不確かさは同じであり、根拠の浅薄皮相、不明瞭さはもっとひどい。古代人については、誤謬を和らげ退けるそれなりの言い訳がある。なぜなら、すべての知や教養が、何を目指し、どのように分けられるかという詳細な規定は、彼らにおいては国家の裁量に任せられていたからである。知と芸術が、彼らにおいてすべてのすべてであった国家の〈293〉最終目的とどのような関係にあるかということ、これを特別に推論することを、彼らは、自ずから明らかになることとして中断する。国家芸術と知との結びつき、神々の崇拝と芸術の結びつきは、体系によって論じられてはいなかったからである。このような欠陥は、彼らにおいても非学問的なものにとどまったが、しかし、その責任は、支配的なイデーよりも遂行のほうにある。これに対して、最近の人々はこのようなことを言うことはできない。なぜなら、ある部分では、彼らにおいて芸術は、特殊なものと特に関係しておらず、それはすべてのものとの一般的連関を通して正当化されるに過ぎず。またある部分では、彼らにおいて国家は、そのような権限を持っていないし、また、たいていの倫理学の叙述において非常に制限されているその目的のゆえに、そのような職務を果たすこともなかったからである。

*しかし、これは現在の非難のために、それ自体で考察に値する新しい対象である。というのは、市民的な結びつきがしっかりとつなぎ合わされ、保持される不安定なあり方以上に、奇妙なものは、ましてや最近の倫理学の叙述においては、存在しないからである。すなわち、もし私たちが、ただその二つ(享受の倫理学と活動的倫理学)の根拠―そのうちの一方にその(市民的結びつきの)あり方はほとんど至る所で依拠しているのであるが―だけを懸念するならば、国家がもたらすべき一般的な幸福は、ただ享受の倫理学においてのみ起こりえることは、容易に分かる。それとも、対立する(活動的)倫理学は、自分にとってはまったく倫理的でない(幸福という)目的に、場所を、すなわち、どの倫理的行為においても目を向けねばならないような場所を与えるということが、どうして可能だろうか?しかし、十分に示されたように、享受の倫理学においても、特殊が普遍よりも上位にある。そして、各人の特殊な幸福を至る所で制限し、最善の支援手段をそれ(各人の特殊な幸福)から奪い取るように思われる普遍的幸福というこのイデーの正しさの立証がまったく欠如している。然り、そのように不自然で複雑な課題においては、それ(特殊な幸福)は、特定の体制の理想や、よく基礎付けられた可能な多数性の構想を描くという要求を、無益にも拒むのである。〈294〉しかし、〈違いはただ処理の仕方にあるに過ぎない〉という通常の逃げ道は、暴力的な部門の構成における以外他の違いを見ない人を拒絶するにはおそらく十分であるが、他ならぬ倫理的な立場から他のすべてを知覚する人にとっては、無に思われる。正にこれが言われ得るのは、何かこの種の倫理学も、市民的結合の別の根拠を、すなわち、不正に対する防御を主張しようとする場合である。あるいは、幸福主義の諸原則による正義の導出がすでに存在するだろうか? むしろ各人は、幸福主義の教師たちが、いかにこのイデーから別のイデーに退却してしまうか、知ってはいないだろうか? したがって、彼らには、国家を建てるという命令から倫理学の全範囲において生じてこなければならないものを、完全に連関する形で規定する能力はほとんどないし、どのようにして自分たちの幸福を普遍的な幸福のイデーあるいは正義のイデーによって、より正確に規定したり、他のものに変えたりするというのだろうか? したがって、ほとんどすべてに見られるのは、この対象のまったく見知らぬ扱いだけである。もし人が、反対に、〈国家は不正の防止のためにある〉というイデーを、実践的な倫理学に与えるならば、次のことが明らかである。すなわち、不正は不道徳的のものであるから、国家は普遍的な道徳性の開始と共に止まねばならないということである。これは、次のような注目すべき意見すなわち〈よい国家のしるしは、自らが要らなくなるように努力する傾向にあるということ〉が証言するように、多くの最近の人々も免れないことである。このようにして、普遍的道徳性の状態においても考えられねばならないものを、国家にも押し付けることは許されないという自然な帰結はあまり注意されなかった。なぜなら、倫理学が国家を、その全範囲に従って叙述すべきであるとなるや、すでに国家は排除され、それと共に、その(倫理学の)叙述の何らかの本質的な部分の構築のために、手段が欠如していることは許されないからである。これはスピノザにも言えることで、彼は国家を防腐剤、改善の手段として立てるが、それに対して、しかしまた、人が、個々の、容易に〈295〉改善されるべき誤謬を考慮しようとしないときには、真に完全に道徳的なものは何も、国家から排除されて導き出されることはない。これに対してもし人が、他の人々を暗黙のうちに無視するために、今日の最も卓越した道徳教師(フィヒテ)を同じ基準で判断し、彼の教会と彼の博識な共同体が、いかに少なからず無力であるかを付け加えるならば、彼がこれに対していかに誤っていたかということは驚くべきことである。このことから、倫理学の範囲についてその体系に従って吟味を試みることはきわめて容易である。なぜなら、もし立法の力を持つものとしての国家が廃止されるならば、残るのは、いかに各人が扱われることを望むかその仕方への自由な洞察であり、それに背こうとする行為すべての自由な断念だからである。同様に、もし教会が廃止されるならば、超感覚的なものに基礎付けられた道徳的確信という点における一致が残る。しかし、もし人がさらに次のように問うならば、すなわち、単なる準備に過ぎなかったものすべてが取り除かれた後に、一体何が、この一致した確信とその自由な法的な取り扱いの本来的最終的対象として残るのかと問うならば、大地の支配とその産物の加工であるという以外、他のものを示すことは困難である。その結果、あたかも重農主義の倫理学が登場する。そこでは内容的には耕作が唯一すべてであり、その形式は、当然可能な限り厳格で拡張された、無形式という形式における誠実さ(Rechtlichkeit)と表現するほかはない。ただ忘れてはならないことは、非常に悪いにもかかわらず付け加えられるべき二つの付録、すなわち芸術と結婚である。この両者には、あの大きな対象の外にあり、直接人間自身に関係するすべてのものが圧縮されている。すなわち、世界全体に対する彼の観点の向上、彼の性質の愛すべき特徴の陶冶、彼の悟性と意志の最終的結合、その他この場所で書かれるべきもの、道徳性のより高次なものとして示されるもの、そのような細々としたことが(圧縮されている)。〈296〉いかに素朴な全体をこれは形作っているか、どの側から見ても多過ぎるか少な過ぎるか、これは明らかである。それが示しているのは次のような必然性である。すなわち、道徳性への予習にのみ関わるような入門的倫理学を、完全に放棄する―古代の人々がそのような倫理学をまったく知らなかったように―か、あるいは、スピノザがしたように、これをまったく分離するか、あるいは、別の方法で真の倫理学と結びつけ、入門的倫理学の体制に、それもまた真の完全な道徳的なものに役立てるような根拠と形態を与える(という必然性である)。そして、古代人たちが、彼らの倫理学の完全な強さを、国家の中にのみ立てたが、しかし、そのような国家は、たとえすべての人が道徳的であったとしても、目的には達せず、ただそのとき初めて、その全卓越性が展開し始め、最大の共同的な活動という最終目標を達し始めた国家であったが、この意味において、近代人も、一つの国家のみならず、一つの教会、そしてその他この種のものに提供されるものを持つべきである。なぜなら、この目的であるところの様々な善が、一つの同じ結びつきによっても達せられるかどうか、これは、独自な、ここには属さない試みを要求する。したがってそれらは、むしろ問題のある多数性として考えられるべきである。

V.倫理的諸命題の諸原理への不十分な還元

            最後の第三の誤謬だが、すべてこれまでここに論じられたところから、各人はおのずとこれを発見できるだろう。そこでそれはただ手短に言及されればよい。すなわち、その誤謬とは次のようなものである。道徳教師たちは、自分たちが規定するものについて、十分に遡ることなく、始点ではないような諸条件から始める。というのは、それら自身ただ倫理的に成立できたに過ぎないので、それらについても先ず道徳的かそうでないかを問わなければならないのである。あるいは、最も身近でありふれた事例を特徴付けるために、彼らはその都度自分たちに与えられた事物の状態を基礎にするが、その際その基礎自身を〈297〉吟味することをしないのである。事例は倫理的領域のすべての部分から容易に見いさすことができる。そこで、私たちは、前節最後に語られた国家の体制にとどまることにする。というのは、多かれ少なかれ、各人は自分が知っている形式から出発するが、その際その形式自体を倫理的に成立させることをしないし、あるいは、全く別の形式がそこにおいて同様に可能であるかどうか問うこともしない。それで、ギリシャ人の理想は至る所で小さな領域に、奴隷制度の前提に関係している。そして、諸民族の親近性という彼らの制限された概念の影響や、ギリシャ人と野蛮人の対立の影響は、精通者には至る所で容易に認められ得るものである。仮にある民族の倫理学があって、そこでは仕事と同業組合の相続が取り入れられていれば、これはそこにおいて確かに前提とされており、職業選択の問題が入る余地はない。同様に、古代人においては一般に、女性の従属的後退的な地位という前提があるが、これに対して近代人には、結婚の一回性と離婚の不可能性という前提がある。この関係について他の形態はすべて不道徳的でなければならないということについての証明を要求するというようなことは誰も考えることさえしない。一夫多妻から出発する東洋人の場合も変わらないし、ナイルの(nairische)倫理学は、その制度の自然さと確かさを称揚する。たとえ、次のような問いが、すなわち、賢者は国家を治めてよいかどうか、子供産んでよいかどうか、夫婦になってよいかどうかという問いが投げかけられたとしても、これらの問いは、そのような事態そのものが存在してよいかどうかというような意味は決して持たない。そうではなく、それらの問いは、ただその形式にのみ関わり、それだけが問題とされ得たのである。さらに、様々な身分の義務について論じられる場合でも、近代人はその都度、その正に存在する制度を持ち出す。そして、外面的な善の道徳的見解についての章では、ほとんど常に次のことが前提とされているのである。すなわち、それら(外面的善)は、偶然の下にあるということ、それにもかかわらず、しかし、この偶然は、一部は、人間の恣意的行動に基づき、一部は、人間がどのように〈298〉自然を共同で支配するか、その仕方に基づく。したがって、同じように倫理的に形成され、正されねばならないというのである。ストア派も、事故に際しての彼らの慰めの根拠において、また、その不幸に打ち勝つための彼らの規定において、常にその時の人間の無力を前提とし、他のことを考えようとしない。他の倫理学よりも、その推論においてさらに遡るフィヒテの倫理学においても事情は同じで、それは、現在的なものと似たものを見出さず、力ずくで道を開くという推論の無関連性に誰も目を留めないが、それは別のところに行き着くことを知らないからではないか? 一体力ずくでどのようにして、また、どのような曲解によって、教会を建てるために象徴の概念がその体系の中に引き入れられなかったのだろうか? また、様々な身分を区分する原理が、体系をあらゆる仕事の相続に導くことも、そのような制度に導くことも容易ではなく、そこからは完全な規定根拠は生じないのではないか?正に結婚の導出に関係のある第一の点から、結婚の代わりに、女性の完全な共同に至る道が見出される。しかし、このようなことを、そのような種類の追計算を熟知している人は誰でも見つけ出すことができる。同様にまた、次のこともすべての人に任せられている。すなわち、ここに属するあらゆる体系の誤謬から、さらに大きな数を、倫理的領域のあらゆる部分において探し出すことである。その領域は特に、現在まで存在する幸福主義の倫理学において、完成困難な仕事になっている。しかし、この開始の結果は、途中では次のようである。すなわち、すべての体系の根本イデーに相応しい完全に道徳的なものは、決して叙述されることはなく、むしろ不道徳的なものが固く保持される。というのは、その萌芽を含んでいる状態が、道徳的なものの規定において考慮されねばならない契機として間違いなく定立されるならば、このようにして規定されたものすべてはまだ不道徳的でなければならず、それが道徳的になることができるのはただ、それを正すという課題が同時に、同じ評価においてもう一つ別の契機である場合である。例えば、〈299〉勇気を、多くの人によって限定されるように、単に義務に従った戦場での勇気と定めるならば、それは、単に不道徳的なものの前提に基づく徳である。なぜなら、戦争が不道徳的な姿勢によってのみ開始されることは、誰も否定しないからである。この制約の意識がそこに添えられず、むしろ、すべての真の徳において思考されねばならないように、常に活動的に自らを示す努力が添えられるならば、それが不道徳的なのは明らかである。暴力の突発を妨げるような心の態度が、代わりに他の場所に現れるなら、両者の間には、目に見える形であれ隠れた形であれ、一種の対立が間違いなく現れる。同じことは、もっと一般的に、各人の行為によって取り除かれるべき欠陥においても生じる。すなわち、偏見に対する態度や、支配的ではあるが基礎付けのない公の意見に置かれる価値が問題であるような場合である。したがって、至る所でこの開始は、途中、すでにだめになったものにおいて、道徳的なものとそれ以外のものとの衝突の新しく豊かな源泉でなければならない。そして、人間の行為にまだ依存しているものが、道徳的なものの不動の条件として定立される限り、倫理学には、内容の確かさも、完全な態度も欠如している。然り、明らかな矛盾が、倫理的体系において出くわされるところでは、それとの結びつきにおいて、この種の欠如にも間違いなく出くわすのである。例えば、カントが、自分の幸福に配慮する義務を認めること以上に矛盾したものがあるだろうか?もし彼が次のような原則のみを堅持するならば、すなわち、倫理学の領域においては、所与のものは何もなく、すべては先ず作られねばならないという原則を堅持するならば―しかしもちろんそのような原則は、道徳性が単に制限する性質しか持たないような人にとっては明らかに困難なのだが―、彼(カント)は、先のような不合理な義務の代わりに、次のような課題だけを見出したことであろう。すなわち、継続される活動に必要な満足が先行する活動から規則的に生じるように、法則的な幸福を形作るという課題である。〈300〉そのような課題は、それが完全に解かれるならば、この領域において幸福のゆえに何か特殊なもの独自なものを行ういかなる必然性ももはや残さない。ストア派の自殺についても、その原因は大部分この種の欠陥に求められねばならない。最近の人々の中でもフィヒテはある場所で非常にはっきりと次のように語っている。〈道徳性にとっては、現存する諸条件に満足するだけでは十分ではない。重要なのはそれを改善することである〉と。しかし、一方で、これは彼において空虚な定式に過ぎない。というのは、彼の体系においては、これに従って何も実行されておらず、むしろ、彼が真に現存するものの改善を目指している個所はほんのわずかで、例えば、俗物(Biedermann)による危急国家の革命の事例である。また、象徴の変更において彼は、最高度に騒々しい方法を許容している。そして、改善が同じように差し迫って必要な他の個所、例えば、身分の区分のような問題を、彼は完全に見逃してしまっている。また他方、たとえ彼がこの格率を至る所で正しく守ったとしても、それは、倫理学に対しその内容の完全性をこの側面から確実にするには、あまりに限定され過ぎている。というのは、誰にも明らかなように、その倫理学は、それがその規定に際して、現存する諸条件から出発する場合、特殊な事例について普遍的なものを等閑にする限り、その応用可能性を制限してしまっているか、あるいは、その倫理学が、すべて特殊なものを計算することによって、普遍を案出しようとするとき、自らに果てしのない課題を立ててしまっているからである。そうではなく、倫理学は、完成された道徳的なものを、その存在において叙述しようとすることによって、その定式において次のことが起こらねばならない。すなわち、道徳的なもののおおよその生成は、すべて受容された条件のためにどのように構築されねばならないかが、そこにおいて見出されねばならないということである。しかし、このことは、次章の対象を形作るものと密接に関係しているので、ここでは触れずに、別の形で再び取り上げられねばならない。

 

2   形態に関する倫理体系の完全性について

私たちの研究の最後の部分を、ある〈作りそこない〉(Migestaltung)によって始めてみたい。それは一見したところでは欠陥としてではなく過剰として現れる。すなわち、決疑論と禁欲論を、倫理学の本来的直接的な体系的論述にしっかり結びつけることによって始める。ある人々はおそらく次のように考えるが、それは必ずしも不正ではない。すなわち、大きなものにのみ該当する研究においてそれら(決疑論と禁欲論)に言及するために、このような部門を開拓する道徳教師は非常に少ないと。というのは、宗教的倫理学を排除する純粋に哲学的な道徳の教師たちの中で、両者をはっきりと掲げているのはカントだけだからである。そして、この問題をその無であることにおいて示すためには、彼の例だけで十分であるということも付け加えたい。なぜなら、根本教説と方法論の全区分―それによってのみ禁欲論のための場所が見つけ出されるのだが―は、倫理学にはまったく適合せず、ただ彼の批判的著作の最も長く続いた姿に対する愛着から成立したように思われるからである。したがって人は次のように言うことができる。禁欲論は、その内容によってその場所が案出されたというよりは、むしろ、その場所を埋めるために立てられたと。その上、この禁欲論は、本来は空虚なまま放置された。なぜなら、熱心で喜ばしい心情状態を獲得するために、手段や方法が示されるわけでは決してなく、さらにまた、各人がそれを自ずから持たねばならず、保持できるということが示されるわけでもない。それは教授法によってよりよく果たされもしない。教授法は、一方で、教育技法の一章に過ぎず、それは、倫理学から導出されるにもかかわらず、特殊な学問でなければならない。また他方、カントにおいては本来〈302〉その第一原則が見知らぬ完全性の促進を拒否するということはまったく考えられていない。彼の禁欲論は、したがって、すでにその近隣関係と場所のゆえに疑わしいものである。しかし、彼の決疑論は、独自な場所も、近隣関係も持たず、少なくとも禁欲論と、空虚であるという非難を分かち持っている。なぜなら、それはほとんど排他的に、無意味で子供じみた問いに携わるからである。しかし、ここでカントは、私たちにとってどうでもよいような事例なのだが、ただ彼がそれによってこの対象を眼前に据えているその詳細さのゆえに事例として妥当するのである。その際、彼の固有性には目を留めることなく、事柄事態の詳しい観察によって、他の人々もまた、詳細さでは劣り、形をなしていないにもかかわらず、彼と同じものを共有しているということを示すためである。というのは、私たちが決疑論とはそもそも何であるかと問うならば、それは何か一見そう見えるような次のような指図ではない。すなわち、倫理的命令の下にある個々の困難な事例や倫理学に呈示された諸概念を正しく捉えるための指図ではない。そうではなくむしろ、次のような観点から人は決疑論を見なければならない。すなわち、決疑論は、あたかも境界線にあるような事例との比較を通して、初めてその定式の意味と範囲をより厳密に確定しようとするという観点である。なぜなら、投げかけられた問いは、常に次のことの上に立てられるからである。すなわち、倫理的定式の境界を規定する試みとしてである。[]例えばカントにおいては、次のような事例である。善を為すためには人はどの程度自分自身を中断しなければならないのか。あるいは、言語の使用において、どこで偽りが始まるのか。文字の持つ意味においてか、それとも暗黙の合意によって確定された意義においてか。あるいは、彼の決疑論的な最大の問いは、善意はどうでもよいものの中に数えられないのかどうかというといである。同じことは、宗教的倫理学からのあらゆる事例が示している。そこにおいて常に目指されているのは、対象の聖性の範囲を規定すること、あるいは、神の命令の境界を規定することである。〈303〉マルクス・キケロが試みているような、義務に適ったものと、その他のより大きなものとの比較も、同じ意味で決疑論である。ただそれは、より多くの定式の関係だけを互いに規定すべきであるということによって、他のものに先立って推薦される。しかし、この優先は仮象に過ぎない。というのは、もしすべてより小さな義務に適ったものが、すべてより大きな義務に適ったものに対して、完全に消え去るべきであるとしたら、ここに〈この比較はどこで始まるべきか〉という問いが生じるからである。すなわち、より大きな重要でないものに先行するために、個々の事例において、より重要なものは、どのくらい小さくてもよいのかという問いである。しかしこれは常に、すべての定式自体の意味と境界についての問いである。しかし、このような規定が、学問の特殊な部分であり得ないことは明らかである。なぜなら、いかにしてある部分が、定式の定立を自らのうちに含み、他の部分が、その境界線の規定を含むということがあるだろうか。というのは、後者(境界線)がなければ、前者には何も定立されないからである。そして、それに従って活動(Werke)へと至るように秩序はあり得なかった。しかしまた、カントがしたように、それ(境界線)を主要部分のあちこち、いたるところに撒き散らすことも、よりよいとは言えない。なぜなら、そうすると、それぞれの境界は、ただ一面的に、すでに確定されたものとの関係で規定され、すべて生じるものは、再び新たな決疑論的問いを、先の領域において引き起こすからである。またカントが正当化している決疑論の導出も、その本来的起源についての率直な暗示である。なぜなら、そこからまったく明らかなことは、定式の不規定性は、上で私たちによって、義務概念の通常の取り扱いの概観において非難されたのと同じ必要を引き起こす。したがって、義務概念に従った倫理学のすべての取り扱いにおいても、今日に至るまで、決疑論は最もはっきりと光を当てられている。個々において、徳や義務が至る所でいかに取り違えられているか、また、徳概念の区分がすべていかにまずく私たちに現れてきたかを人は懸念するにもかかわらず、そのような取り扱いにおいて、この異常な生育が見当たらないことはなかったということは疑い得ない。少なくとも、〈304〉善概念―そこにおいては不規定性はそれほど大きく多様に示されてはいなかった―に従う倫理学はそれに晒されてきたように思われる。しかしながら、これもただこの方法に従った乏しい取り扱いに負っている。そして、欠陥の多い体系的倫理的意味は、最も明瞭で容易な概念を、その意味が、その概念を我がものとする場合には、暗くだめにしてしまった。それにもかかわらず、善と徳の概念は、そのような誤謬の可能性の埋め合わせをする他の表象を与える。すなわち、これらの概念やそれから導出された定式にしたがって、与えられた事例に対する行為が規定されるべきである。したがって、これらの概念はこの仕事に適さないのであるから、決疑論を私たちに表すというような試みをなす以外にあり得ない。なぜなら、人はこの問いも解くと同様に、常にただ一つの善が促進されるように見える。そして、一つの徳が実行され、他は無視されるのも、体系の道徳性が、それらに至る所で見出される否定的性格を自らに負っている限り、理解される。[]その結果、先の前提のもとで、決疑論は倫理学のすべての体系にとって自然である。そこにおいて、善や徳の概念から個々の行為が見出されるべきであるか、あるいは、義務の定式によって見出されたものが、先の(善や徳の)概念の要求と比較される限りそうである。

*禁欲論についても似たような事情がある。すなわち、これは倫理学の技術を表象すべきである。それはあたかも、自らを道徳的になす、あるいはより道徳的になすための方法を、あるいは、個々に義務に適った実行を容易にするための方法を表象すべきだということである。したがって、それは先ず義務と徳概念との関わりにおいてのみ生じ、善概念が〈305〉禁欲論に導くことはあまりない。禁欲論が特定の行為の独自な系からなるべきである限り、そのような実行は倫理学においては要求されることも定められることもできないということ、それについては、すでに上で、その根拠が説明された。すなわち、何かを手段として定立することは、倫理学においていかに許されないかということが示されたのである。義務概念に従った倫理学の扱いにおいては、禁欲論は、ただあらゆる内的手段の総体と見なされることができるだけだからである。上のことの結果、あらゆる瞬間において、すでに獲得された徳は、職業の義務を果たすために、活動の中に定立されるべきである。しかし同様に、あらゆる瞬間に徳を高めるために何かがなされるべきであるとするなら、このような系はその実行において互いに抗争し合う。そして、たとえ要求されたものがその都度一緒に出会うとしても、この出会いの必然性についての確信がなければ、両要求の一方は、行為の意図において満たされないままである。しかし、倫理学が徳概念によって扱われるならば、徳は増大する成熟として表現され、それは、完全化の体系において固有なものを形作る。そのようにして、同じ対立が成立し、またその逆も言える。すなわち、ここで禁欲論はすべてになり、それに対して、本来の倫理学は、その要求によって、ただ偶然に満たされる。善の概念から見られるときにのみ、両者はこの点で互いに存続することができる。すなわち、徳は、成熟と見なされて、他ならぬ善であり、その産出は、したがって、一般的要求の一部である。しかし、これは事柄の実在的なものに関係し、ただ付随的に言われるに過ぎない。なぜならここで先ず問題なのは、形式的なものだからである。しかしこれについては次のことが注意されるべきである。すなわち、先ず、最後に考えられた場合を仮定するならば、次のことはもちろん見られるべきではない。すなわち、この善を産出するという指示は、何か他のものについて以上に、倫理学全体といかに抗争することになるかということ(は見られるべきではない)。しかし、同様に、なぜ倫理学が、他のもの以上に、学問の独自な部分や補遺を形作るのかということも見られるべきではないし、また、〈306〉富を倫理的に増す技法である経済学や、その他無数のものも同様に扱われてはならないだろう。しかしその場合、これらすべてのものの中で、どれも私たちに、何らかの特定の行為へ向かわせる命令を与えない。なぜなら、どれにおいてもすべての善が促進されなければならず、その結果、禁欲論は、決疑論と同じくらいに、義務概念に従った倫理学と、その他のものに従った倫理学の扱いの正しい結合ではありえないからである。しかしさらに、この最後の扱い(義務概念による倫理学の扱い)から出発するならば、つまり、倫理学が決疑論をも産み出すのと同じくらいに不完全であり、また、人が、この決疑論と並んで禁欲論を考える場合には、両者は奇妙に互いに組み合わされる。すなわち、決疑論がその実行において完成したものと考えられねばならないのと同様に、その特別な禁欲論も倫理学そのものと考えられねばならない。また禁欲論は、その不完全で無規定な義務と徳の概念に、その決疑論を関係させねばならないだろう。その結果、両者は不自然な罠(Netz)として、そのように形作られた倫理学を、出口のない状態に迷わし、倫理学には禁じられている無分別との関係を、ばかげた見世物として示す。しかし、その他に、どのようにして禁欲論は何らかの学問的形態を持つことができるというのだろう? 禁欲論を区分し整理するためには、二つのことしかなされ得ない。一つは、徳が区分され、これにはあれが、あれにはこれが欠如しているようにすることである。しかし、その場合弱い部分を強化する手段になり得るのは、他の部分のみである。それによって、区分は再び破棄されてしまう。原因と結果として結び付けられるものは、同一の全体に属する部分の間で生じる結合の中で、思考されることはできないからである。もう一つは、すべて同一のもののために、すなわち、行為による実行と、思考による予行である。しかし、その場合には、禁欲論は、二つのまったく別種の部分からなり、各部分は別の場所に属することになる。すなわち、徳概念の区分は、徳概念に従った倫理学の扱いへ、次のような一般的命題、すなわち、〈倫理学は道徳的行為と思考とによって強化されるのみである〉という命題は、〈307〉次のようなことへ、すなわち、〈各人は、最初の各概念とその他の概念及び全体との一致を整理することをもくろんでいる〉ということに属することになる。そこから十分明らかなことは、倫理学は真理にしたがって、そのような一致の個々の事例以外の何ものでもないということである。その個々の事例は、ただ断片的非学問的に、独自に拡張された全体へ仕上げられるに過ぎない。したがって、古代人による次のような区分は、非常に理解できるものとして確証される。すなわち、学問的な倫理学と教訓的な倫理学という区分であり、後者は、倫理学に対して、先の、奥義的なものや通俗的なものへの認識全般の適用としてある。というのは、ここにははっきりと次のことが承認されているからである。すなわち、何かが区別されるべきなのは対象においてではなく、その取り扱いにおいてのみであり、したがって、対象はまったく同一でなければならないということである。もし誰もが次のことを確かに疑い得ないのであれば、すなわち、教訓的な倫理学は禁欲論とまったく同じであるということ、そしてまた、禁欲論も倫理学自身に他ならないということ、ただ一般の人々に相応しいように、個から出発し、個の一致を叙述することによって、初めて全体として認められるということを疑い得ないのであれば、そのような区分は、正当にもすべて後代の学問的な作業をする人々に対して、告示に値し、カントが、倫理学の学問的な形式に対して、そのような区分を補遺として付け加えたようにではなく、本質的な部分として編入するに値するだろう。したがって、この迷いについても、様々な体系の精神において、主観的原因が捜し求められるべきであり、それは確かに、すでに非難された、単に制限するに過ぎず、根源的でない道徳性という表象の中に見出される。つまり、特に実践的諸体系においては、それらがただ正しいものとして登場させられ、したがって常に、意識の痛みを感じさせられる限り、個は倫理的要求全体に一致しない。しかし、幸福主義の諸体系においては、制限されるべきものが、道徳的なものと同種であり、ただ量において異なっているのである限り、後者(道徳的なもの)を通して、常に前者(制限されるべきもの)も共に育まれる。それに対して、特別な支援手段は、その都度のものとは別に、道徳的に要求されるように思われる。

*308〉決疑論と禁欲論の意味及びそれらの原因についての表象を確保しつつ、私たちはこの両者を、その誘因が存在する至るところに、それとは告知されないままに見出す。例えばアリストテレスでは、決疑論は、個々の諸概念の不規定性―それは彼の徳概念の特質においては避けがたいものだが―のゆえの弁証法の突発に過ぎない。彼は、彼が嘆いている倫理学の非学問性についての確信にしたがって、容易にそれを免責してしまう。しかし、彼のこの種のばらばらの問いは、カントにおいてのように、実在的諸概念の粗野な無規定性にはほとんど関係してはいない。むしろ、一部は形而上学的な予備概念の無規定性に、一部は純粋に道徳的なものと、それ自体は倫理的に構築されたのではない諸条件―この諸条件のもとで道徳的なものは現実に作られるのではあるが―との対立に基づく。エピクロスは、詳細な決疑論を必要とするが、それは、平穏さの快楽と、刺激の快楽の概念を分けるためである。そして、もし、そう、ほとんど笑うべきであるが、要求されている道徳的なものの叙述を学問が要求する鋭さにまで駆り立てることが、幸福主義の精神において余計でないならば、その決疑論は、かつて呈示されたもの以上に詳細になるに違いない。同様に彼は、禁欲論をその最後の表題のもとに必要とするが、それは苦痛と恐怖を避けるためである。なぜなら彼は、認識への衝動を自然な要求としては十分考慮しないからで、彼には、悟性の純化と改善に関係することはほとんどすべて必要である。そして、他ならぬこのことが、彼の倫理学の異常に出来の悪い点である。それは、それが持つほとんどすべての欠点と関係している。すなわち、苦痛は、それが恣意的な行為の産物であるか、あるいは、その影響下にある限りでは、道徳的なもの自体によって、見知らぬ用意なしに破棄される。しかし、恐怖は、常に精神力の活動から生じ、別のそれ自体は道徳的でない助けを〈309〉必要とする。したがって、倫理学とは無縁な独自な内容を持つ禁欲論を必要とする。これに対して最も完全な対立を形成するのがスピノザである。確かに人は〈彼においても悟性の改善のために勧められるものはすべて禁欲的である〉と言うことが出来る。しかし、彼においては、徳は生きた知として固有に現われ、またそのようなものとして倫理学において完成されたものとして叙述されるように、その禁欲論も、その生成において叙述されるのと同じ知に他ならず、悟性の課題の解決に他ならない。従ってそれは決して倫理学の付録ではない。そこには、禁欲論によって無いのを嘆かれるようなものは何もない。誰かが、スピノザの直観的な叙述に結びついたものをはじめて分離し、道徳的な心の態度や道徳的行為を、個々の事例との関連で、一面的に観察しようとし、その結果、彼は、直接現存する対象に関係しないものを、分離すること考えず、滅ぼしてしまうような場合は別だが、このようなことは、他の人々における多くの誤謬の源泉に他ならない。同様に、徳を行為や作用として叙述しているに人々においても、次のことが明らかにされねばならない。すなわち、どのようにして徳は自分自身を通して自らを拡張し、完全にするのか、また、どうして徳をもたらす方法は、徳の本質の叙述も含んでいるもの以外何も含むことだ出来ないのか。それを認めているに違いない人々の中で、この典型(Urbild)に一致しているのはプラトンだけである。そのような見本を作り上げることは、彼には容易であった。いかに彼自身において、独自な内容を持った特別な禁欲論について、最もかすかな痕跡も示されていないか。それが最も早く期待されるべき彼の政治学や教育論においてもけっしてそういうことはない。これに対して、最近の人における最善の例はフィヒテである。彼においては、同じように散り散りの決疑論と禁欲論とが、無形式な反抗と落胆を通して現れている。しかし、それは散り散りにばら撒かれているに過ぎず、何か彼の間接的な義務が、倫理学と並んで禁欲論の体系を形成していると思う人は誰もいないだろう。というのは、彼は次のように語っているからである。すなわち〈禁欲論は法則の道具になるための人間の仕度に関わってる〉と。これは、〈310〉非常に厳密に義務概念に頼っている彼においては、他の人々においておける徳概念の予行と同一なのである。なぜなら、このような人々は、人間の有能さを高めることを直接目指してはおらず、このようなあり方から現れるものは、道徳的でないもの、すなわち単なる練習か、もしくは、すでに非難された、ここには属さない誤謬に基づくものである。彼らはただ自分の特定の行為のための場所の占守と保持だけを提示する。その分離は、行為の開始をその自然な進展から分離するというすでに非難されたまったく倫理的でない分離である。むしろ他の区分では、求める人は、それ自体倫理的でないものとして立てられながら、しかし、道徳的なものの実行を容易にする手段として要求される多くのものを見出すだろう。そして彼は、禁欲論の系全体を発見するだろう。それは、小さなものから大きく進展したものまで、倹約の規定のような、個々の規定―それは同様に不確かな善行の手段として不規定なものだが―から、教会や学識ある公共団体のような大きく複雑な施設までを含む。なぜなら、両者は、彼においてはほとんどただ禁欲的な活動に属するからである。しかし、すべて次のような形式的な格率、すなわち、これやあれやに対する時を持たないとか、人間が自らを見出す最初の点の影響とかに関する格率は、明らかに決疑論的である。一体、それ自体不確かな実在的規定の確かな規定への変化を整理し引き起こすことを他にして、何が決疑論の仕事であろうか?したがって、不完全さという点でも、フィヒテがその高い学問的な威厳のゆえに、他に勝って秀でている。すなわち、彼は個々の問題を投げかけたり答えたりせず、すべて同種の問題を一般的に決定する規則を与える。しかし、この規則自体にいかに確固たる基礎付けが欠如しているか、いかにそれら(規則)が、確固たる場所を持っていないか、それらの権利がどこに持ち込まれるか、それらが以下に次のような誤謬と関係しているか、すなわち、別の場合には、そこから決疑論が生じるような誤謬と(関係しているか)、〈311〉このようなことを、多くのすでに与えられた示唆から、各人は自分で繰り返し組み立てることが出来るだろう。

さらに、今非難された二つの誤謬において、次のような必要が明らかであることによって、すなわち、倫理学の叙述に三つの主要概念の中の一つにしたがって、別のものに属する何かを付加する必要が明らかであるということによって、次のような問いが生じる。すなわち、そのような疑わしい必要は、それら諸概念すべてを包括しないどの叙述にとっても自然であるのかどうか、また、ここでより自足した状態を証明するという優先性が相応しいのは、これらのうちどれであろうか(という問いが生じる)。これらの問いに先ず現存するものとの関係で答えるなら、次のことは容易に決定される。すなわち、義務と徳の概念が、上記のことの結果これまで起こったこと以上に正しく捉えられ、しっかりと保持されていない限り、倫理学をそれら(義務と徳の概念)によって満足行くように叙述することは不可能に違いない。というのは、もし義務概念がただ決して終わることの無い分割可能性を示すだけであれば、そして実在的なものは何もこの概念に対して生じず、反対に徳概念は、相別れることを欲せず、あらゆる努力にもかかわらず、あらゆる分析に反抗する単一性を確証するならば、それらはどのようにして学問的叙述になるべきであろうか?そして、空虚や挫折したという避けがたい感情は、背後に身を隠すための防御すべてをどのように把握すべきか?そのような防御を、これらの概念の各々は、別の領域にあるいは、暗然と予感されるに過ぎない第三の領域に求める。しかし、事柄自体、あるいはこれらの概念の可能なよりよい取り扱いに目を向ければ、少なからず次のことが明らかになる。すなわち、各人は自分に対して倫理学をただ一面的に叙述できるに過ぎないこと、したがって、倫理学は、偶然的な知覚によって見出されるか、特別な必要によって放棄されるように見えるか(ということが明らかになる)。というのは、倫理学をただ義務概念の導きによって我が物とした人は、個々のものにおいて、道徳的なものを心の態度の定式に変換することが出来ないし、その逆も言える。そして、両者は非常に密接に関係しているので、各人は、何らかの仕方で、それ自体では認められないものを、他の源泉によって補うのである。〈312〉人間的傾向性の抗争の中に決定の妥当な法則を見出すという必要性も、また、道徳的感情を所与のものとして説明するという必要性も、そして、その感情が従う思考様式を厳密に区別するという必要性も、次のような性質を持っている。すなわち、学問的な形態において解消されて、この思考様式は、対象に対してあまりに大きく現れるように思われる(性質を持っている)。そして、それが本来どこに属するか誰も知らないのである。なぜなら、この感情を、真実で必然的な感情として前もって仮定することは、確かに性急で軽率だからである。しかし、人間的性質の学問的認識が、非常に発展して、それがそのようなものとして確証されるならば、その分析は、特殊な自然存在としての人間の認識の小さな部分に過ぎず、それ(人間的性質の学問的認識)に、より高い場所を指示する口実が求められねばならない。そのような非難は、倫理学の二つの取扱い方、すなわち、義務から出発するものと、徳から出発するものとに当てはまる。ここでは、善の概念による以外に他の助けは示されない。善概念のみが、調和的(kosmisch)であり、次のような課題から出発するからである。すなわち、たとえそれも人間的認識の体系のイデーから出発しなかったとしても、そのようなイデーに場所を持っていることは誰も疑わない課題である。なぜなら、そのまったく主観的な課題の解決が、まったく客観的な課題、すなわち、人間が自らにおいても自らの外においても形成し叙述すべき課題の解決と一致するのであれば、ただその場合にのみ休息地は見出され、学問的努力の正当化は見出される。しかし、善概念と、この概念が先ず関わる課題は、再び先の二つの概念を、それらの実在性の確証のために必要とする。なぜなら、叙述されるべきものに対しては、人間的性質における能力が、そこにおいて観察されるべき経験に対しては、規則が示されなければならないからである。したがって、私たちが正に最初に放棄した、より高い要求の無視と共に、倫理学の学問的内容に対して、必然的であるように思われるのは、先の三つの概念の合一である。それは、たとえ〈313〉正しい方法において見出されなくとも、少なくとも誤った方法においてでも各人によって求められねばならない。しかし、この合一が、先の三つの倫理学の取り扱いを一緒にまとめることにあるのでないことは明らかである。なぜなら、上記のことすべてにしたがって、道徳的なものは、個々において、その都度違った姿で現れる。すなわち、先の三つの概念とは別の概念のもとにもたらされ、そのように一緒におかれることを通して、正にその個物だけが光の中に置かれることによって(その都度違った姿で現れる)。したがって、それらの一致を明らかにする代わりに、この方法では、ただそれらの独立性と差異性の仮象だけが、さらに誘惑的に作られるだろう。そうではなく、この合一の本質は、その様々な道徳的姿の還元の中にある。それは、もし確かで普遍的であるべきならば、個々のものから個々のものへ向かうことは許されない。それはすでに事柄の性質が禁じている。しかしまた全体から個々のものへ向かうことも許されない。そうではなく、ただ全体から全体へ向かうのである。したがって、すべては、法則や賢者が示される定式を、最高善の定式に還元することにかかっているのである。しかし、これによってすべての倫理学に、形式的な部分が生じるが、それは、すべてそれらの定式を不可避的に含み、それらの一致を明らかにする。それから、実在的部分が生じる。それは当然のことながら、道徳的なものを、義務・徳・善の三つの概念すべてにしたがって叙述する場合にのみ、まったく完全なものになる。しかしながら、これらの叙述の一つだけでも正しく遂行されるならば、先の形式的部分によって、すべての出来損ないの追加物は不要になる。還元がすべてにおいて前置きされ、その個への適用が単に一つの試み、すなわち、それによって各人がその正しさをはっきりと示すことができ、しかし、学問的な取り扱いにはもはや属さないような一つの試みであることによって。前者の完全な叙述が、後者の個々の叙述に優先することについては、何も言う必要はない。また、倫理学が先ず、人間的認識の普遍的体系の一部門として取り扱われるならば、〈314〉他のものがそのようなものとして許容されることは困難だろう。しかし、その他のものに対する個々の叙述のあり方の、あるいは起こり得る優先について問われるならば、これについては、上で言われたことから、ほとんど一般に該当する考えと反対のことが生じる。なぜなら、最近の人々が義務概念に与えた大きな優先性については、その原因は不明である。むしろそれは、上記のことに従って、今のところ、善概念を誰かが使用するときに与える以上に有用な倫理学を与えることには程遠い。したがって、ここには欺きが根底にあるように思われる。すなわち、それ(善概念)が、徳概念と比較されただけだという欺き、すなわち、学問の産出という観点より生におけるその適用という観点で比較されたという欺きである。といのは、義務概念の下では道徳的なものは部分として現れるので、それによれば、あらゆる瞬間に生じるものを見出すことはより容易に思われる。もし人が上で言われたこと、すなわち、義務の定式も、それが十分なものであり、他の定式と一致するならば、道徳的な心の態度の前提の下で、これを通してのみ、その個々の適用が見出されるように整えられなければならない。したがって、次のように考えられるべきではない。すなわち、なぜ他ならぬ徳の定式は、同じものを成し遂げないのかと。それは、心の態度が欠如しているいわゆる誤った合法性の発見を夢想しているに過ぎない。同様に、徳概念は目下のところ、倫理学がそこから立てられるような取り扱いをされていないが、その不十分さは、ただ困難な適用にのみあり、それに関係する完全な道徳的なものの叙述は、それ自体不可能と見なされることはない。したがって、本質的な優先性を誇ることができるのは善の概念のみである。そして、その形式的部分の前提の下に、それ(善概念)は、確かな適用が可能なのである。そこでは、もし心の態度が現存するなら、誤謬に対しても、余地は最小限にとどまるのである。

*315〉しかしこのような比較は付随的なものに過ぎない。なぜなら形式の側面からは、正しい取り扱いにおいて、相違は全く見出されないからである。しかしここから、すなわち、洞察された必然性から定式の一致を明らかにし、この一致の上に実在的なものを基礎付けることから、従来の倫理学説の形式上の多くの不備が見えてくる。それは大きな一般的なものから個々のものまであるが、それが他ならぬこの全体の正しい形式の欠如から生じ、この欠如を覆い隠すものである限り、それはここに属するのである。そこで先ず混乱し、形式に合わないのは、ストア派が、倫理学の三つの取り扱いを合一することなく組み合わせるやり方である。あるいは、どのようにしてこれら諸概念の性質と連関への何らかのはっきりとした洞察が、周知のそれほど悪い全体をもたらしたのか?賢者についてのありそうもない諸命題、それらはたとえキニク派からの借用されて、体系に受容されながら、しかし何処にも場所を持たないのだが、形式的にはただ次のようにしか理解できない。すなわち、それらは、等閑にされた倫理的イデ―の還元を補うための急場しのぎであると。それらは結果としてはただ、個々に次のことが示されるということになる。すなわち、賢者のイデーの下に叙述された道徳的心の態度は、道徳的なものを、それが善の章において叙述されるのと同じ様に、完全にもたらすのに十分である。なぜなら、少なくともペリパトス派の意味から、キニク派において解釈し直されて、ストアにとっても、その諸命題が賢者について誉める富や王権などその他全てのことは、善なのである。さらにフィヒテにおいては、次のことが形式に合わない大きなこととして全ての人の目を引く。すなわち、先ず、義務についての問いが、〈何が生じるべきか〉と〈いかに生じるべきか〉の二つに分けられることである。そして、後者の問いは、前者とは全く異なる、義務に適合しないやり方で扱われ、その際、義務概念と同じくらいかもっと高い領域にまで戻される。〈316〉しかし、そこは出発点であった所である。これは、ここで生じた必要から同様に説明される。すなわち、探求のこの部分は、義務概念の取り扱いの一部ではなく、徳概念の取り扱いであり、それをこの哲学の認識の第一の部門に結びつけたのである。それがどのように置かれるかというその仕方は、事柄の性質によって要求される両概念の結合をはっきりと補うべきなのである。同様に、フィヒテとその他の人々が、この世におけるこの義務の成就によって成し遂げられ、産み出されるものによって、義務概念の取り扱いに洞察を加える時、それは、義務概念を善概念に還元するのを等閑にしていることの代わり、形式に合わず騒々しい代理行為に他ならないのである。

ここで要求された区分すなわち、形式的なものを統一する対立と、実在的なものの進展する叙述への区分の代わりに、最近の倫理学に多く見られるのは、あるものは現実に論じられて、またあるものは少なくとも前提され暗示されている別の区分で、それは先の、全ての人において等しい仕方で実在的なものを形式的なものから分離する区分とは異なり、純粋な倫理学と、応用された倫理学との区分である。この両者の間に、ある人々は次のような境界線を引く。すなわち、前者(純粋な倫理学)は、人間的性質の前に、その特殊な性質と無関係に倫理的に定立され得るものを含む。しかし、後者(応用倫理学)は、人間的性質の特殊な関係について獲得された認識にしたがって、より厳密に規定され得るもの全てを含むと。このようにして、前者は、フィヒテが正当にもそれを非難したが、実在的なものを何も含まないのみならず、形式的なものも決して包括しない。なぜなら、法則や賢者や最高善の定式が、何か次のように広く規定されたものを含むべきであるなら、すなわち、それによって倫理学の体系が、他の諸体系から区別され得るような、また、そうでなければ、倫理学は自分の場所を満たせない、そのように広く規定されたものを含むべきであるとするなら、〈317〉すべての体系が独自な仕方で自らを関係させ得るような何かが定立されねばならない。しかし、人間的性質以前に定立され得るものは、絶対的にただ、単なる思考によって要求され与えられる思考の法則以外には無い。したがって、この境界線において、それらの定式にはいかなる内容も割り当てることが出来ず、ただその形式だけが言い表される。すなわち、格率の一般性、徳の相互関係、善のKompossibilitätだけである。したがって明らかに、応用倫理学においては、その内容はどこか他の所から基礎付けられるか、こっそり忍び込まされたかでなければならない。そして、この実定的で実在的な原理に対し、先の形式的な条件は、吟味し制限するものとして適用され得るに他ならない。ここから十分明らかなことは、このような区分がそのような意味で生じるのは、ただ道徳的な性質が、その性質を制限することにある場合である。このような見解は、ここでもそれがもたらす悪い形式によって、学問の樹立としては、不都合に現れる。というのは、そのような区分は、全ての体系的な意味を侮辱せずにはいないからで、その理由は、それが、見知らぬものを実在的なものから分離せず、そうではなく、前者(見知らぬもの)自体を二つの要素に分解し、後者(実在的なもの)を完全に引き裂さき、否定的なものをそこに最高のものとして置く。この意味で、カントにおいては、彼の実践理性批判そして道徳形而上学原論における本来的に倫理的なものは、純粋な倫理学であり、その形而上学自体は応用倫理学である。さらに別の事例を増大する非難を証明する為に必要とするのは困難である。ここで非常にはっきりと示されるのは、統一されるべきものの分離である。また、分離されねばならないものが、下手に体裁を取り繕って結び付けられていることである。他の人々は反対に、同盟の区分によって、倫理学の実在的なものを、二つの異なった部分に分離している。すなわち、彼らは純粋な倫理学に、次のような規定を割り当てる。一般的なあり方で、人間自身の性質から、あるいは、義務の対象になるものから理解されるべき規則を割り当てる。〈318〉しかし、応用倫理学は、ただ経験において認識可能な特殊なもの、すなわち、特定の状態や関係を含む。そのような区分をカントもまた、彼の徳論において前提としているが、それはそこから何かを追い出すことができる為である。なぜならそれはこの意味に受け取れば、純粋な倫理学であるべきだからである。それにもかかわらず彼は、少なくとも、この経験の揺れを知覚しないことを正当化した。なぜなら、彼において人間的性質がどこからか導かれるものではなく、ただ把握されるものであるならば、普遍と特殊の間の全ての特定な差異は、消えてしまうからである。したがって、例えばなぜ、性別に関係するようなことが、心情のあり方の多様性から出るものよりも、むしろ純粋な倫理学に属すべきであるとされるのか理解できない。あるいは、なぜ、大人と子供の差異に、力に満ちたものと老衰したものとの差異が全く考えられていないような倫理学の全章節が基礎付けられるのか理解できない。しかし他方で、彼は、この応用倫理学の詳論を、付随的な事柄として等閑にするというひどい不正を働いていた。というのは、彼には、純粋倫理学において、あの特殊に関わる倫理的諸規定の為に、その根拠を十分に立てることが出来なかったからである。そこから同時に明らかなことは、彼の応用倫理学は、遂行される時、決して単なる応用を含むことは許されず、それ自体初めからしなおされなければならない。それは、一部は、区分の不法性の結果であり、一部は、義務概念を扱う混乱した不当な仕方の結果である。しかし反対に、人間的性質は、導かれ構築されるならば、普遍的なものと共に、特殊の為にも場所が見出されねばならず、他ならぬそのゆえに、純粋倫理学も、そこにおいて特殊が現れることが可能なあらゆる形態の倫理的規定の為に、その根拠をすでに含んでいなければならない。そして、それ以上に、特殊はその性質上、無限であり、尽くしがたい。したがって、再び、決定根拠が欠如し、このことは、〈319〉再び普遍として特殊を叙述する優先を含むべきである。こうして、学問的な取り扱いは、それが前者(普遍)の根拠からは必然的ではないのと同様、後者(特殊)の根拠からも可能とは思われない。

*さらに考えられることは、応用倫理学が携わるべき特殊で偶然的なものは、何か自然の必然性によってそのように与えられ、他のようではなかったというようなものではなく、常に恣意的な行為―それが自分のであろうと共同的なものであろうとどちらでも良いのだが―によって生じるということで、したがって、容易に分かることは、この区分が次のような誤謬と関係していることである。すなわち、倫理学には何かが絶対的なものとして与えられていると見なす誤謬であり、それはすでに、倫理学の学問性の最初の条件を破棄するような誤謬であることが証明された。したがって当然のことながら、この誤謬が引き起こす形式も存続できない。というのは、通常の仕方では、倫理学は義務概念によって叙述され、その区分の保護の為に次のように語られる。すなわち〈不完全な倫理的状態に関して二つのことが要求される。先ず、当然ながら、その状態を改善すること、次にしかし、その状態に対しても十分なことを遂行することである。したがって、この前言のそのような扱いを拒否せよ。なぜなら義務に適った行為において両者はその都度一つにされねばならないからである〉。しかし、倫理学が善概念の下に叙述されるならば、それぞれの叙述は、そこにおいて倫理的状態の変化の系全体を、すなわちその最初の働きかけからその完成までを包み込むような定式を含む。この系から、倫理学の特殊な部分における個々の契機を特に展開することはいかにして認められるべきなのだろうか? 然り、たとえこの展開は、全体として善概念にしたがって扱われる倫理学の対応物として、義務概念に服従させられるべきであり、それは、あのしばしば暗示されながら決して実行されない取り扱いと改善の結合を、ついに叙述する為であるとしても―そしてそれは確かに最も懸命な見解ではあるが―、〈320〉しかし、現実の特定な状態は、そのような学問的叙述には適さず、その正しい取り扱いはむしろ、むしろ人為的で自己形成的な適用であり、それは各人が、自分の基準尺度として有効な倫理学によって作らねばならないものである。というのは、学問は先ず後者の関係を個別化し、それから前者の関係だからである。しかし、現実の状態においては、個別化されるものは何も無く、各関係は、他の残りが規定されるあり方と関係している。しかし、その際に、現実に与えられた契機の諸条件全体が、特定の定式によって叙述されるべき全体を形作るということはない。したがって、対象について何かを語ることができるのは、その対象が、自分の個別性を失い、密かに多くのものと共に全体へと姿を変えることによってである。多くの似た事例に適用可能な規則を提供する代わりに、倫理学のこの部分は正当にもただ個々の全く特定の事例についての決定のみを含んでいる。しかし、そのような応用倫理学に対する見せかけの要求は、論争の余地無く成立した。なぜなら、先の誤謬の影響によって、純粋な倫理学として与えられたものも、大部分は、普遍妥当的でもなければ、全体を包括することもない。そうではなく、ただ制約された妥当性だけを残す前提から出発し、従ってある時間にのみ適合する。これについては、上で事例が十分に示された。というのは、この不十分な経験は、一度現実性によって閉じ込められ、支配的な精神において、より高次の無制約的な経験に上昇するよりも、むしろさらに限定された経験に下降するからである。しかし、倫理学の真の叙述は、すでに述べられたように、全く特定の時間にも、あるいはもっと長い、不特定な時間にも制約されない。そうではなく、全く普遍的でなければならない。すなわち、それは何らかの時間の内容を無視するのではなく、あらゆる時間の内容を包括するのである。然り、現在が倫理学の叙述によって規定されるのと同じ基準で、〈321〉その叙述は歴史的に過去をも、また預言者的に未来を規定しなければならない。というのは、過去に対して、倫理的な進歩の系の中にその場所を規定することによって、過去は本来的に認識され評価される。また未来に関して言えば、同様に全ての発見は、それが何か自然科学におけるようなものの発見でない限り、本来的に倫理的である。そして、倫理学の中に、多くの人によって求められる発見論の諸原理がある。これについては多くの事例が誰の心にも浮かんでくるだろう。あるいは、私たちの社交的な他の関係において、これらの関係がそうでなければ悩むであろう矛盾の解決以上に、より良いものに出会うということはそれほど多くないのではないか? また人は次のように疑うことができるのではないか、すなわち、もし誰かが道徳的状態を倫理的な要求と比較するならば、これは計算によっても見出すことが出来たのではないかと。ある人々がすでに以前そこにいたのと同様に、私たちの熟考に現在のものよりも、より良く思われるもの、そして、各人は次のことを洞察する。すなわち、もしそれが彼の道徳的価値において認識され、そのように把握されたのであれば、それが消え去るのは困難であるということを(洞察する)。というのは、人間的な事物において、ただ偶然そこにあるものだけが、過ぎ去るからである。しかし、今なお同様な非難の対象であるものから、将来その非難を是正する為に発見されねばならないものが評価されるのはやむをえない。倫理学自体が、これらの評価がそれによって基礎付けられる定式以外のものを何も含まない。その変化自体は、その領域の外にある。

最後に、さらに別の人々は、他の区別、すなわち、倫理学自体と、それに特別な仕方で属してるいくつかの下位の学問との相違を特徴付けるために、同じ名前を用いる。すなわち、それら諸学問が、目的と原則とを倫理学から借用することによってであるが、しかしながら、独自な全体をそれ自体で形作っている。しかしながら、その名前なしであっても、〈322〉そのような諸学問と倫理学の同じの結合が、他の場所にもあり、その結果、この形式の吟味を無視することがいよいよ出来なくなる。というのは、それが倫理学を、輝かしい見せかけによって大きくし、そこにおいて現実に全学問的循環が表現されるほどになるからである。一見したところでは、人はこの関係と、応用幾何学に対する純粋幾何学の関係との間に類似性を見出すことができる。しかし、詳しく観察すれば、まったく違うことがまもなく明らかになるに違いない。なぜなら、応用幾何学という学問が関係する対象は、決して純粋幾何学によって、あるいはそこにおいて導出されるのではなく、それは他のところから定立されねばならない。然り、反対に、その知覚は、ある程度前提されねばならず、それによってのみ純粋幾何学を求めるという課題が成立するのである。その結果、後者の真理を前者に適用することは、ただある場合には、以前は見逃されていたもの回顧することであり、またある場合には、見知らぬ領域に、従属的ではないより高次の領域に、すなわち、物理的力の領域に目を向けることである。しかし、倫理学及びそれに従属する諸学問の観点で起こることはまったく正反対である。なぜなら、例えば、政治や教育学や家政は特にこの意味において、応用倫理学を形作るが、これらすべてが学問の中に存在できるのは、ただ倫理的課題の前提においてである。それらがそのように見られることによりむしろ倫理学と対立するようにならねばならないことによって、それらが、倫理学から独立した特殊な必要によって課題を課せられる程度によってというのではなく、ただ、それらのイデーが倫理学の中に見出された程度によってである。しかしながらこのことは、しかしながら、このようなことは、根源的で、自らを産出すると考えられる倫理学にのみ妥当する。これに対して、幾何学とのあの類似性は、道徳的なものが制限的であるに過ぎない見解に対して存在するに過ぎない。制限のための素材は道徳的なものにとっては常に外から与えられねばならないが、それは、その課題が〈323〉感覚的要求から生じているからであり、要求されていることはただ、その取り扱いを倫理学の諸要求と一致させることだけである。このことは、もしそうでなければ原因が見出せないのであるから、それ以外では説明のつかない作り損ないの起源について示唆を与える。

*しかし、このような比較についてはただ付随的に触れるだけで十分である。事柄自体を見れば、見出されたことはまったく確証されているからである。というのは、自己活動的な倫理学の観点からは、あらゆる学問のイデーが倫理学の中に見出されねばならず、その遂行が課せられねばならない。なぜなら、そうでなければ、それに向かう努力は時を満たすことができず、存在さえしないからである。したがって、これに従えば、すべての学問は等しく、応用倫理学にまったく属さないかすべてが属すかのどちらかである。しかし、自ら現われてくる相違は次のような相違である。すべての固有な思弁的学問において、個は、時間における行為として以外に、倫理的判断の支配下にはない。しかしそれはその内容との関係での理論としてではなく、ただ認識の法則の支配下にあるということである。それによって、したがって、見知らぬものとしてのこれら諸学問の扱いは、倫理学から完全に遠ざかる。そして、そのような扱いは倫理学からは、ただ課せられた課題を他の方法で規定する技術と思われる。したがって、まったく無内容なことを語らないために、倫理学の中に天文学も要求される。次のようなことも行為として倫理的に判断されるからである。すなわち、他ならぬこれがそれに携わるべきか否か、正に今かそれとも今でないか、これやあるいは別の前提にしたがって、天体の運行は求められるべきかどうか、星雲を銀河と見なすのは正しいかどうか、このようなことすべては、その内容に関しては、倫理学ともはや接点がない。これに対して、実践的な諸学問は、その内容が、そもそもいわゆる次のような行為についての規定からなり、すなわち、個々にそれ自体〈324〉倫理的目的と関連するような行為の規定からなり、倫理学によって課せられるのみならず、それらにおけるすべて個々のものは、正に再び倫理的に判断されるべきである。例えば、教育技法だが、単に、若者の精神的な力の鼓舞に正しく働きかけるという一般的な課題のみが倫理学において基礎付けられるのみならず、そこに与えられるすべての指導、例えば異質な結果との恣意的結合によって精神力の活動は支えられ、方向付けられるのかどうかというような指導は、ただ技術的に目的のための有用性によって判断されてはならず、倫理的な吟味によっても、すべての目的の連関を解決するだけの力がなければならない。しかし、その普遍的な目的は正にこの連関において次のように表現されるべきである。すなわち、すべての倫理的な誤謬は、技術的な誤謬でもあると。したがって、その場合、すべて技術的なものも確かに倫理的なものになる。そして、この理論を特殊なものとして倫理学の扱いから分離する理由もまったく失われる。〈家政の技術〉、あるいはこの誤解されやすい名称を避ければ、〈富を増すための教説〉も例外ではない。なぜなら、それは単に倫理学によって課せられるのみならず、目的に向かう個々の前進は、それ自体で倫理学のすべての法則に相応しい、道徳的行為以外の何ものでもあり得ないからである。したがって、この課題の追求において、倫理的立場は、中断されることなく支配的な立場、唯一の立場であり続ける。同じことが政治にも妥当することは自ずから明らかである。したがって、これらは、受け入れられた立場から、独自な分離された学問的全体を形成できるが、しかし、それらの部分は互いに、それらが共により大きな全体に関係する以上に、厳密に、あるいは別の法則にしたがって互いに関わることがないのであれば、そのような全体から、それらは分離されるべきなのだろうか? 次のことも容易に予言できる。すなわち、もし実在的で自己産出的な倫理学が念頭に浮かんでいるような人が、これら導出された〈325〉諸学問の一つに手を加えようと欲するなら―正に今シュヴァルツが教育学に関して着手したように―、そのような人は、はっきりとした理由はわからないのに、自ずから厳密な学問的形式を選ばないか、あるいは、これを確保できずに、すべての個々の対象において、おそらくはもっと頻繁に、倫理学へ帰り、これを細分化してもたらす必要を自覚するかのいずれかであろう。適切に、またおそらくは決定的に、そのような分離は否定的倫理学の立場から考えられるであろう。この倫理学は、先の目的すべてを案出せず、そうではなく、何か他の必要に課せられて、それらをすでに見出すのである。したがって、それ(否定的倫理学)が、このような諸教説を、倫理学に次のような姿で与えることは不当ではない。すなわち、これ(否定的倫理学)がそれら(教説)に、外からの境界付けと同様、内的な働きかけによって与えた姿である。なぜなら、ここで次のことが明らかだからである。すなわち、ある場合には、それらは倫理学とともに一つのものを形作ることができず、ある場合にはまた、全体がこれと、非常に様々な仕方で関係しており、それは、その全体の部分を互いに結びつけ、学問の統一を規定するやり方による。しかしながら、この批判の前に、この起源は、たとえそれが十分示されたとしても、この問題に有罪判決を下すことはできない。そうではなく次のことが問われねばならない。それは存続できるのかどうか。するとここでは次のことが目に飛び込んでくる。先ず、この形式は至る所で、最高度に不完全に遂行された。したがって、すべて現実に存在する要素は、正しい観点から見れば、その必要に、他から導かれた。例えば、もし教育論が、上で描かれた課題から出発して独自な全体であるべきなら、教育論は人間の精神作用と交際についての一般的理論から恣意的に切り離された断片であるか、あるいは、もし一面的なものが、そこにおいて、区別する特徴を形作っているのであれば、少なくともすべて他の知的に等しくない人間の関係が、それとともに同じ権利で扱われねばならない。〈326〉そして、なぜこれらに対して、対立的な作用や、同じ要求との等しい関係が対立すべきではないのか? さらに、家政技法において富は、道徳的イデー一般の叙述のための手段と見なされるか、或は、そのようなイデーの叙述自体、すなわち無生物に対する人間の形成的支配の叙述と見なされ得る。しかし、物質は前者の場合、唯一の表現手段でもなければ、後者の場合、人間の支配は、動的で実在的あるいは象徴的産物の増大においてだけ示されるわけでもない。そうではなく、形式的なものも表現手段であるし、形式の増大や改善も人間の形成力の産物である。したがって、言語や芸術の拡張や改善のための理論が、富の理論と一つに結びつくか、それに対応するものとして向き合わねばならない。それらは、叙述の側面から、あるいは享受の側面から見られることを求める。両者の軽視の原因は、特殊の軽視と、普遍における満足以外には求められない。なぜなら、もし教育によって目指されるものが、正しさと公共文化以外の何ものでもなければ、教育に向き合って立つことが必要なのは国家以外の何者でもなく、その制度において、その国家の影響圏にいるすべての人においてそれ(正しさや文化)を産出する手段を、イデーに従って統一すべきである。同様に、もし普遍に属するものだけが叙述されるならば、物質は十分ということになり、形式的なものの文化は、これが特殊の叙述に役立つということによって、無視されるだろう。同様に、ついには、国家の理論に対して、実践的な倫理学―そこでは国家は直接的価値を持つ―においても、享受の倫理学―それは国家をただ応急手段として必要とする―においても、〈327〉学問的宗教的共同体の理論は、対立しなければならなくなる。しかし、両者は、独自な学問としても、国家の催しとしても適切に扱われていない。宗教については、もし人が、自由な結合能力がその下にあるところの倫理的圧迫を思い起こすならば、何もいうべきことはない。というのは、当然のことながら、ある人にとっては倫理的知の道具に過ぎないが、他の人にとっては、ある状況下においてのみ利用可能な従属的で偶然的手段である。学問的な結びつきを見逃すことは、明らかに、倫理学の否定性に基づいている。なぜなら、ここでは、国家や一部教会においてのように、その統一は制限的ではなく、拡張的であり、したがって倫理学によってこれ(統一)を要求することは、知の課題が倫理的な統一から直接生じるということを前提しているのである。古代人において、政治のみがあたかも応用倫理学全体をこの点において形作っている場合には、むろん判断はまったく異なる。なぜなら、すべて市民的なものは彼らにおいては、非常に自立的なものであり、宗教の範囲と国家の範囲は自ずから一致しており、知はまだ広まっても組織立てられてもおらず、したがって、私たちにとってはこれほど明らかなこの分離の理由を彼らは見出さなかった。

*しかしながら、現実にあるものとしての個については、それによってその建造物がまったく偶然の外観を保持する形式の矛盾を示唆するために十分だろう。なぜなら、最後の決断は、ただ目に入ってくるものの二番目のものを与えるに過ぎないからである。これはすなわち、もし完全な取り扱いが、そのような応用倫理学に、与えららたものに対応する部分をいたるところで付加するならば、その場合には、すべての実在的な規則がこの部分の下に置かれるだろう。しかし、純粋な倫理学には、形式的なものがその通常の貧しさにおいて残る他は何も残らないだろう。それによって、実在的なものの最も完全な取り扱いも常に、偶然的なもののあの外見を保持するだろう。なぜなら、〈328〉純粋に倫理的なものからの導出がなければ、完全性について確信する根拠はあり得ないからである。

*もし人が次のように問うことを欲するならば、すなわち、この失敗した諸形式にも、それに先ず言及したように、それらが享受するような同意を、何か真なるものがこっそり手に入れるかどうか(問うならば)、それは次のようなものであるだろう。すなわち、何よりも先ず、倫理的な規則を、それが産出した諸対象の割合にしたがって、ともに秩序付ける必要である。これは、義務概念に従った通常の取り扱いにおいては、不可能である。なぜなら、そこでは、たとえば富の理論を形成する規則は、自分と他者に対する多くの完全また不完全な義務の下に、一緒に求められねばならないからである。同様に、教育の規則は、一部は、道徳性を直接促進する諸義務の下に、一部は、他の人々の自由を考慮する義務の下に(求められねばならない)。そのような観点から見れば、これら失敗した形式はそもそも善概念の下でなされる倫理学の叙述の自然的傾向以外の何ものでもない。しかしながらそれは、はっきりとした概念の意識が欠如しているので、断片的で不完全な状態にしかなり得ない。しかしさらに、その際にも根底にあることができるのは、現存在の様々なポテンツを、義務概念に従った通常の倫理学の扱いにおいて可能であるよりも、明確に捉える努力である。そして、この関係は完全性の仮象を容易に産出できた。というのは、人が、人格あるいは個人としての自分の存在の最初の段階以外に、なお、家族の一員として、当然異種の人類の部分からなる全体の一員として、そしてさらに国家に一員として自分を見るならば、彼の使命の範囲は満たされる。そこで、教育術と家政とは家族の外的内的存在に関係するが、国家経済と政治とは国家の存在に関係する。ここから〈329〉古代人においては、彼らの実践哲学の姿において、多くのものが生じたように思われる。ただ、彼らは平均的なポテンツに関わることは少なく、家族はまったく国家の要素として扱われた。これもまた次のような見解に属する。すなわち、国家においてはその人は同時に自分の全特徴によって活動的でありえるので、最後には彼らのある人々にとって政治がすべてになる。しかし倫理学は、形式的根本教説として現れる。しかしもちろんイデーに従って、最近の人々がそのような区分に達するよりもはるかに完全な意味においてあり、むしろ従って、上で付随的に示された学問の正しい姿に大いに接近する。それにもかかわらず、上の示唆から確かに〈その区分はこの観点にとっても十分ではない〉ということが生じる。なぜなら、国家経済は、政治に依存しているとしか考えられない。しかし、家政と教育術とは、それらの境界が通常設定されるように、家族の倫理的理論を論じ尽くすということはまだはるかにない。さらに、一層欠如しているのは、この二つの全体において、なぜ合成されたもののすべて可能な構築が論じ尽くされるのか、その根拠が、形式的倫理学において提示されるということが欠如している。むしろその反対を示唆するようなことが見出される。すなわち、否定的には、制約されたものと偶然的なものが、家族はその形成においても破壊においてもそれらに服する。積極的には、ほとんどいたるところで承認されている友情という課題がある。それによって最も多くの人によって、私的な全体が目指される。したがって、形式における偶然的なもの、無意識的なものは、ここでも内容の皮相的な理解からおのずと生じるのである。

今までに検討された倫理学に対する政治の関係にまったく対立する自然法―それは少数の近代人によって立てられたに過ぎないが―が考察されねばならない。倫理学はそれをある程度外部から境界付けようと試みる。[]ここではただフィヒテだけを検討すれば十分である。なぜなら、〈330〉カントがこの添え物を基礎付けたやり方は、理性の立法を、ただ内的なものと、外的にもなり得るものとに分けることによって、非常に騒々しく、皮相的だからである。すでに、〈存在〉と〈可能存在〉という表現の無形式性によって、それは有罪判決を下される。しかしさらに、外的な立法の範囲は最高に変化しやすいという意見表明によって、そして、もしその際に人が〈可能存在〉に、すなわち契約と恣意的制度によって引き込まれ得るものに目を向けるなら、倫理学にはほとんど何も残らないだろう。さらに人がこの〈もまた〉、すなわち、外的立法が前もってすでに内的にならねばならないということを確認する〈もまた〉を吟味するならば、人は次のことを見るだろう。すなわち、カントは、カント以前の人に劣らず、自然法に対する倫理学の関係について、及び自然法の導出については不確かであると。然り、自然法が、倫理学に対する政治の境界規定を含むのか、あるいは、自然法は、そのような規定を前提として、政治的に可能なものの内容を分析するのか分からない。いずれの場合にも明らかなことは、この基礎付けによっては実在的なものは次のものを他にして何も表現されなかったということである。すなわち、人間の行為は、それ自体別の源泉と別の目標を持つべきであるが、倫理学は、ただその境界を規定するだけであるということである。その結果、自然法も、道徳性の概念の否定性以外の源泉を持たないように思われる。絶対的な許可(Dürfen)への問いの下に、当為の外部でもう一つ別の意味が置かれ得ないように。したがって、次のことも疑い得ない。〈自然法は特別な学問であり、それは探求を必要としている〉ということを前もって仮定するような気にフィヒテをさせたのも同じ精神であると。しかしこれについては行為も証明を導くことができるので、彼がどのようにそれをそのようなものとして導き出し、産み出したかということが吟味されねばならない。しかし、ここでは、すでに倫理学に対して非難されたのと同じことが非難されねばならない。すなわち、本質的なものと、その点では単に偶然に過ぎないものとが、同じ地位に置かれている。それはあたかも、〈331〉同じ根拠から直接導き出されたかのようであると。なぜなら、自らを個体として、あるいは同じことであるが、分割可能な世界や自分と並ぶ他の世界として定立する必然性と、世界を実際に分割し、自由を永続的な承認によって制限する必然性とはまったく別の必然性だからである。前者の必然性の根底にある理性の性格、すなわち、行為するものと、行為を受けるものとが一つであるということは、後者の必然性が依拠している結果の法則とは別のより高次の性格である。感覚世界あるいは身体と、法概念及び国家についての考えが、同時に同一の根拠から生じることは不可能なことも明らかである。[]この誤謬を詳細に検討することは、今の課題ではない。[]自然法においても、倫理学においても両者がどういう関係にあるかということを、フィヒテは述べなかった。一般的に示されることは、彼の基礎付けや詳論において、独立した関係は生じることができないということである。なぜなら、ここでのように道徳法則と結果の法則という二つの行為法則が存在するや否や、もし行為の学問が存在すべきであるなら、両者の間には特定の一致関係が示されなければならない。それが十分でないことによって、フィヒテが当然しているように次のことを示さねばならない。すなわち、すべての法概念に内在する習慣でない自由の条件のゆえに、法概念は道徳法則と決して抗争し合わないということである。彼は次のことを示すことができなければならない―彼はそれをしていないが―、すなわち、結果の法則をひとまず受け入れ、そこからはしかしただ法概念のみが導き出されるということ(を示すことができなければならない)。しかし、フィヒテは、要求された一致を見出すすべての道を遮断する。[]332〉すなわち、ある部分では、これは二つの学問の地位をけなすことになり、ある部分では、両者のいずれも、他方が含んでいるものすべてを排除しつつ、自分自身の領域を持たねばならない。これに対して、彼においては、その内容は一部は一致している。すなわち、結婚、財産、国家、その他いくつかのものが必然的に倫理学の根拠からも、また自然法の根拠からも生じることによって。このことはしかし、そのほかの場合には、〈すべて学問的に必然的なものには、ただ一つの根拠と一つの証明が可能である〉と主張する人にとって、有利な状態ではない。また一部では、しかし、両者もまた、両者が包括しているものの点では、完全に分離している。なぜなら、倫理学は、それを、倫理学が結婚や国家を要求する根拠によっては、自然法が形成できるような両者の構造にもたらすことはできず、倫理学は、自然法を完全に拒否しつつ、緊急国家を前提とする。しかしそれは、もし、結果の法則―そこからは正当な国家がおのずと生じるのだが―が、個体性の定立に等しいあの必然性を持ち、倫理学がこの法則について知っているならば、まったく不可能である。その結果、フィヒテが推測した次のようなことは決して入ってこなかった。すなわち、〈倫理学は法概念とそこから結果するもののために、新たな承認を招来する〉ということ(は決して入ってこなかった)。もし私たちが、今一度このいわゆる自然法の構成に目を向けるならば、それが、異質な事物からなっていることが示される。したがって、フィヒテが始めたことを継続したならば、それはすべて身体的なもの、表面的なものの導出となっただろう。理性的存在者(人間)は、自己意識の制約としての身体的表現の中にあり、したがって、観念論哲学の半分、すなわち、自然的哲学、フィヒテはこれを確保したと私たちは考えるだろう。そして私たちにはさらに、表面的対象の差異の導出や、その自然的分類の導出が贈られただろう。しかし、彼がそれを先へ進め、また他の人がそれを始めるように、それは〈333〉ただ倫理的な必要、すなわち、一致の必要を通して成立する次のような課題以外の何ものでもない。すなわち、政治において恣意的なもの、実定的なものとして現れるもののために、自然的で必然的なものを見出すという課題である。このような仕方で、他の同じように表現する古代の人々とともに、アリストテレスは、法的な正義において自然であるものよりももっと新しい自然法の内容のこの部分を表した。彼はこの付加物―それによって自然法は様々な姿で現れるのだが―を、不信心で不完全と見なしたにもかかわらず、彼は、独自な全体としてのあの純粋なものを叙述するという衝動は抱かなかった。彼はその倫理的起源と本質とを確信していたからである。その結果の法則が行為との関連で何を意味しているか、それは倫理学のどこにあるべきか、このようなことは各人が、上で完全な義務と不完全な義務について言われたことから考えてもらいたい。というのは、法は、フィヒテからおのずと生じるように、それが行為を規定する限り、決して根源的なものでもなければ、それ自体で存在しているものでもなく、別の見解として完全な義務に依存しているからである。[]したがって、正当な倫理学はこの不恰好(Unform)を破壊し、その本質と実践的なものをそこから自分自身に受け取らねばならないということ、[]これらのことは放っておかれねばならない。これは直接的に起こるのである。

 

334〉補遺 従来の倫理学の文体について

 

これまで考察してきたように、学問は様々な形式において現れる。また、倫理学の叙述として現れる個々の作品の形式や文体には、さらに特別な違いがある。これはもちろん、研究の上で前者と同じ重要性を持つものではなく、また研究の本来の範囲からは除外されてよいものではあるが、付随的な考察に値するものである。なぜなら、確かに個々の事例に入り、それらの叙述の形式や固有性を問うたり、それらの根拠を問うことは空虚な作業であるが、[]しかし、他方、この洞察において天分のある人は次のことを知らねばならない。すなわち、学問における芸術家の名を要求する人々においては、偶然生じるものは何もなく、形式の規定もその根拠を持っている。それが意図的に意識されているか、それとも、対象や叙述の誤解されることのない特徴において無意識的であろうとそうなのである。この観点から特に注目すべきは、倫理学の叙述における文体の三つの相違である。これらは、いろいろな人において、様々な時代に繰り返し見出されるだけでなく、根本イデーの特質や体系の内容とは独立している。したがって、それらは私たちの探求の直接的対象を超えて、おそらくは、私たちが本書第一部の序論でついでに見たようなところへ導く。すなわち、各人が倫理学を〈335〉見出し仕方や、結合する仕方に、それらは依存するものだからである。これがそのようなものであるかどうかを各人は以下に見ることになる。

先ず倫理学にあるのは、断片的で騒々しい方法である。それは、たくさんのものの中で、学問の領域に属するものすべてをいわば掘り返すことに満足し、個々のものを比較したり秩序付けたりする健全な弁証法を伴わない。体系的な方法なしに章節を選んだり、あるいはむしろ、当てずっぽうに、従来の吟味されないままの通俗的な生のあり方に従って把握しようとしたりする。したがって、もしアリストテレスのような、その自然学的、技術的、批判的な様々な作品が、一般的な判断によって、非常に優れた性格を持っている芸術家が、従来以上のものをもたらさなかったら、個々で、そのように不完全なものについて言及されることもなかっただろう。その永劫の断罪の根拠は、彼が学問をそれ自体として望んだのではなく、彼がはっきり述べているように、彼は学問を実現する可能性を見ていなかった。そうではなく、彼が執着したのは、物質的な目的である。すなわち彼は、学問の結果としてでも最高の芸術作品としてでもなく、現実世界における現実的な事物として、一般の存在を求めたのである。これは彼の倫理学のまったく主観的傾向であり、彼は国家について、プラトンのように何か高く超えてゆくことは望まず、ただこの立場に立った。このことは、彼の倫理学を知っている人はだれも疑いを持たない。これを前提することにより、この点で彼に似た人々に対するまなざしが、そのような倫理的叙述の性格をさらに確かに完全に捉えるのに十分になる。ドイツ人の中でそのような人にガルヴェがいる。彼は、彼の倫理的努力において、よい社会秩序以外のものは望まなかった。さらに、イギリス道徳哲学とフランス啓蒙思想の道徳教師たちの集団がいる。〈336〉前者にとって重要なのは、公共精神であり、後者にとっては、慣習の後見のもとでの自由(Ungebundenheit)であった。このように、まったく恣意的で実践的な目的に制限されることにより、断片的な方法は不可避である。このような方法を常に取るのは、何らかの生業との関係で自然物や自然力についての知識を使用する人々であり、その目的自体をはっきりと告白することのない人々である。というのは、もちろん、合目的性についてのうっすらとした予感や、それを求めてあちこち向こう見ずに手探りすることは、全体の秩序においても、個々の事物の規定や扱いにおいても、学問の場所の代行をするからである。物質的必要という同じ方向に、自分の根拠を持つのは、あのすべてこの種の道徳教師に付着しているイロニー的な傾向である。それは原理についてのあらゆる争いを避けようとし、〈自分は常に誤解にのみ安んじるが、すべては一つであるとよく理解している〉と好んで主張する。これにさらに付け加えることができるのは、より高い見地から来る人々に聞き入る能力のなさである。また、誠実な仕方でのしばしば幸福な努力[]以上が倫理的叙述の第一の不完全なあり方の特徴である。

第二のあり方は、誤解を招きやすい言葉ゆえ注意が必要だが、独断的と呼ぶのが最もよいあり方である。なぜなら、それはある確固たる点から出発し、学問のみを求めるからである。そこから第一のあり方とは反対に、確かな歩みが生じる。すなわち、特定の規則に従い、その出発点に相応しい固有な諸概念の区分と結合である。同様に明らかなことは、先のイロニー的傾向に代わって、むしろ、自らを直接あるいは間接に表す論争的な方向性である。〈337〉なぜなら、そのように確固たる点から学問的なあり方を目指す人は、必然的に何かを絶対に否認しなければならない。それに対して、第一のあり方のように、物質的目的を見ている人は、ほとんど相対的な決定に達するに過ぎない。そして、諸概念の対立を急き立てることはほとんどなく、それらをただ比較するのみである。このような部類に属するように思われるものすべての範囲を明らかにする最善の方法は、その両極を示すことである。すなわち、一方の極にはストア派の方法が、他方にはスピノザの方法がある。両者が第一のあり方に対立している点で一致することは明らかである。しかし、両者の目に見える違いは、次のことに基づいている。すなわち、その出発点がどのように作られたかということ、しかも、その内容に従ってではなく、意識に対するその価値との関係においてである。すなわち、ストア派は、その境界線を揺れ動く考えから出発する。彼らはこの考えを―その要素を学問のために高め規定することによって、その考えを純化することはできないので―ただ結果を通して証明することができた。すなわち、その上に立てられた建造物の完全で成功した遂行によってである。したがって、弁証法的な完全性によるほとんど無限に進む彼らの努力であり、したがってまた、論争が彼らをしばしば迷わせて、詭弁の領域に導いたが、それは彼らが、彼らの原則を概して否定的に確証しようとしたからでもある。これに対して、スピノザは、後に何もすべきことを残さない明白でまったく確かな直観から出発した。したがって、論争は彼自身の必要ではまったくなく、ただ他の人々に対する説明に過ぎず、それゆえ、全体と彼の個々の部分を、内的に体系自体の叙述に織り込まれるように包み込む枠を形作るかのように一層分離される。ストア派においてはそれは、最も大きな部分の場合である。さらに彼にとっては、ストア派が喜ぶようなあの小さなオランダ的完成は無縁であった。そうではなく、彼の満足は、まれに見る大きさと強さで、〈338〉自分の体系の輪郭と姿を目の前に置くことであった。しかし、幾何学的方法に関して言えば、彼は、それが意味するところを、この問題について驚くべき見解に従って繰り返し語る人々以上に、よく知っていた。また彼は、芸術家たちが時としてどういう状態なのか、おそらく何も知らなかった。しかし、主要問題は、様々な命題が示される表題の中に求められるべきではなく、ある場合には、根源的直観をしばしば、直接、起源的に引き合いに出すことの中に、またある場合には、〈進展する総合的な構成〉と、〈他から与えられたものや恣意的に受け入れられたものと、根源的なものやすでに見出されたものとの分析的比較〉の交替の中に求められるべきである。これら諸要素の第一のものについて、正当にも次のように言うことができる。それは単にスピノザにおいてだけでなく、その方法の外側を模倣するのではない他の哲学者たちにおいても、数学者以上に純粋に正しく遂行されたと。そこから確かに次のように推論できる。それは、数学と同じく哲学にも相応しいに違いないと。幾何学においては、それが体系ではあり得ないということによってのみ正当化されるような他のものは、倫理学においてはただ、倫理学が論争にまで広がるところでのみ適用可能である。そして、この尺度によってのみ、スピノザは、彼の方法のこの部分に関して判断されるべきである。道徳の教師たちの中の誰かを、そしてどのくらいの人々を、独断的な文体のこの領域へ置くに値すると欲する人は皆、すべての許された領域にとどまり、それによって極端な厳格さに迫られないようにせよ。

第三の方法は発見的方法であり、それをその完全性において立てたプラトンが唯一の模範である。その本質は次の点にある。すなわち、この方法は、一つの確固たる点から始まってある方法に進むというのではなく、懐疑的な主張によって個々の各規定から始め、媒介的な点をとおって、その都度諸原理や〈339〉個々の原理を同時に叙述し、そして、電撃によるようにして統一に至る。すでに上記の幾何学的方法が、特に目指していることが、次のことを妨げることであるなら、すなわち、原理への問いが、個々人がその原理からますます遠ざかることによって、古い解決済みの問題として現れないように、そしてその固有の本質が、長い導出によって弱められ、個々においてしばしば無視や誤解に晒されることがないようにするためであるなら、このようなねらいは、発見的方法によってはるかによく達せられる。そして学問には、そのあらゆる部分において、生の最高の度合いが保証される。なぜなら、学問の内的な力は、この方法において遍く感じられ、その叙述のすべての部分において、常に若々しく新たに現れるからである。この方法では、合間に迫られる準備によって全体の見通しが困難にされるかのように思われるというなら、そのような普通には該当しない妨げは、全体の成立への活動的参与―そのためにこの叙述は各人に必要なのだが―の前に物の数ではない。しかし、その学問的な長所は、運動の迅速さと緩慢さを支配する芸術家の完全な力である。彼はどの瞬間にも立ち止まり、あらゆる面を見回すことができる。しかし、これが重要なのはただ次のような人にとってだけである。すなわち、単に個々の学問を、そこにおいてすべての部分が同時に釣り合いを取って形成されている有機的な全体として産出しようとするだけではなく、すべて個々の学問をただ全体の部分と見なす人にとってである。そのような部分は、他の部分の先を超すことは許されないし、できもしない。そのような普遍的連関は、この方法によって、個々に時折達成され、また、達成されない場合には、少なくとも暗示される。プラトン的スタイルに固有なものすべてが、どの程度類(Gattung)自体に属するのかは、ここで探求することはできない。非常に広い意味での対話的な講義のみが、必然的と見なされ得るということだけで十分である。すなわち、そこにおいては〈340〉フィヒテの対照的な講演も対話的である。なぜなら、これもここに属するからである。然り、プラトンは、彼の方法の最大の倫理的構築に忠実にとどまったが、フィヒテは、本来の倫理学において、純粋に独断的なスタイルに回避した。この両者の比較、そして後者においてもたらされたものが、いかにわずかしか吟味に耐え得なかったかということは、どちらの判断を下すかに際して、各人を最もよく導くことができるだろう。

 

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