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最終更新日2001219

341

終わりに

前もって設定された境界内に研究を限定し、この研究に注意深く同伴してくれた全ての人の念頭に浮かぶ主要な思いが、倫理学があるべきものをほとんど逸しているという、倫理学に対するとがめであるならば、次のような問いが生じる。ストア派のあの不快な命題、すなわち〈各人は賢者であるかもしくは愚者である〉は、人間に対してよりもむしろ学問に良く当てはまるのではないか、したがって、倫理学には、それが完全なものになるまでは、いかなる意味も帰せられないのではないか、あるいは、人は少なくとも、〈倫理学はそのようなものとして、そのような条件の下にある〉と言うことができるのではないか(という問いが生じる)。このことについて、この批判の立場から望み見られる限りで付言してみたい。その目的の為に思い出されて良いのは、次の二つのことだけで、それはすでに上記で適切に示されたことである。すなわち、第一に、一般的なことであるが、いかなる学問も〈342〉それ自体では完全ではありえず、ただ全ての学問に共通の存在根拠を含む最高の学問のもとで、他の全ての諸学問と合一されることによって完全なものとなる。どの学問も他の全ての諸学問との連関によって確証されるのである。このことより自ずと次のことが結果する。すなわち、このような最高の学問は、時間的に最初の学問で、諸学問を産み出さねばならないが、このようなことを見出したと誰も主張しないか、あるいは、従属する諸学問は、同時に同じ規則にしたがって、形態と内容とにおいて完成に近づき、他ならぬそのことによって、そのイデーも次第に展開していく。もちろん、このような連関は、幾何学や論理学のような補助的学問にも及ぶことは無く、ただ、内容と意義によって自立した本来的学問だけに及ぶ。しかし、そのような学問については、各人の学問的感覚は確かに、詳しい説明が無くとも、言われたことを認めるだろう。第二に、特に倫理学との関連で示されることだが、実在的なものの叙述としての倫理学は、実在的なものと共にあってのみ、それと同時に発展できるということである。このことは、自然科学については、その実在的なものが自然科学自体によって完全に与えられるのである限り、自ずと妥当するが、歴史についても、ストア派が最高善について言っていること、すなわち〈それは時間の長さによって成長するものではない〉が、歴史についても妥当する限り、当てはまる。倫理学に対して、いつかは、規定されず再び消え去ってしまう現象以上のものとして、よく基礎付けられた持続的な存在が帰せられるべきであるならば、以上の二つの条件の間に必然的連関が生じなければならない。したがって、最高の認識の発見と展開を含む他の諸学問の進展が、人間における道徳的なものの発展に依存しているか、あるいは反対に後者が前者に依存しているか、あるいは双方が、共に第三のものに基礎付けられるか、いずれかである。このようなことの探求は私たちの今の課題ではないが、しかし、〈343〉ここで私たちが熟考可能な諸現象は、およそその前提さえ基礎付けられるならば、すべてこれまでに生じたことにおいても見逃しえない対応を表わさねばならない。なぜなら、倫理学の最初の断片的な要素だけでなく、ある時は多く、ある時は少なく生の中心点に当てはまったり触れたりした知恵の格言も、学問の最終目的についての予感と、後に学問が分岐してなる様々な姿の萌芽を含んでいる。これらは、単に、自然科学や歴史の諸要素と、あたかも同じ精神的緊張の突進によるかのように、同時に見出されただけでなく、そのためのしかるべき形式を見出す努力もまたほとんどすべて同じ歩みの点にとどまった。然り、さらに多くの証明する力を持っているもの、特に自然科学が、それにしたがって取り組まれる所のさまざまなイデーの間で、また、倫理学の根底にあるイデーに対して、関係の類似性と両者において等しいものの一貫して支配的な連関が存在する。その連関は、次の命題に、より早い承認を、すでにずっと以前から確約しなければならなかった。すなわちその命題とは、〈各人の実践哲学は、それ自体が各人の内にある道徳性によって確かになるように、各人の理論哲学をも規定する〉ということである。それとも、哲学の様々な学派や性格が存在するようになって以来、ストア派の倫理学とエピクロス派の原子論的な自然学との間に、同一のものにおける結合が起こったことがあったであろうか? あるいは、その自然科学が単に事物の永遠の流れしか知らないような人にとって、倫理学においてプラトン主義者になることが可能であろうか? すべての結合を破棄する懐疑主義に過ぎないものが、ある時はこちらに、ある時はあちらにというように、理論的なものにおいては後者の側に、実践的なものにおいては前者の側に傾くというようなことはほとんどあり得ない。これらの差異が、〈344〉いかに以前から互いに並んで存在していたかに注意する人は、次のような疑いを抱くことができる。すなわち、特殊な認識を成立させるそのような試みの根底に、ただ内的にも最高かつ普遍的認識のイデーがあったかどうかという疑いである。なぜなら、その立場がより高く取られれば取られるほど、その見解と実行の可能な多様性はわずかになってしまうからである。少なくともそれは一つの同じイデーではなかった。そのようなイデーの支配のもとでは、どの学問も内容形式共に一つのあり方でしか遂行されえないからである。しかし、誰かが、今はただそのようなイデーだけがすべての人によって承認されるしるしとして、またそこに存在する真理の働きとして、倫理学における幸福主義と、自然科学における原子論−それが化学的なものであれ機械的なものであれ―からの、外見上の完全な純化を引き合いに出すならば、前者(幸福主義)について批判が見出せたのは、ただ、それは学問を形成する能力がないということに他ならない。また批判は、両者の連関と、そこから結果するものを放っておかねばならない。しかし、批判は次のような熟考を求める。すなわち、このことは、批判が、倫理学の領域において見出した諸対立の一つにだけ当てはまるに過ぎず、今まで示されてきたような無敵の動的な観念論は、最高の認識のイデーに由来するという、その素性を証明すること−それは栄誉を受けるためには必要なのだが−は困難だということである。同じものについての二つの叙述、それらは同様に一つの重要で考慮を擁する争いに巻き込まれているのだが、そうした二つの叙述の一方〔フィヒテ哲学〕は、倫理学を樹立するのだが、自然科学の可能性は、ある場合には強情から、ある場合には意気消沈から否定する。また、もう一方の叙述〔シェリング哲学〕は、それに対して、自然科学を立てはするが、倫理学には、学問の全領域において余地を認めない。したがって、もし人が、非常に欠陥の多い前者の倫理学によって、〈345〉他方の自然科学−それも同様に一面的な否定を伴うのだが−に結末をつけるならば、両者が共に実在的なものを所有するということだけが、穏健な価値を持つことができる。それに対して、両者を共に拒否することは、[...]根本的な学問以上に、すべての実在的学問の本質をなしている。各人が表わす個々の学問の性格が、各人の道徳的意識の状態に依存しているように、一般に、それなしでは学問は完全でも真実でもありえないところの人間の認識の体系の真のイデーも、イデーにおける完全な道徳性に依存している。あるいは同じことであるが、最高の法則や人間性の真の性格を完全に意識することに依存している。この意識が存在した所には、同一の基準によって、真の倫理学の萌芽も存在した。そのような所から、それを認めるものは少数であっても、真の倫理学の生成が始まったのである。なぜなら、倫理学は、少なくとも種の形成を代表するすべての人によって、その意識が認められるまでは、生成しつづけることができるからで、その理由は、以前には、倫理学が叙述すべき道徳的なものの全領域についての見解は、戦いによって非常に制限され、不明瞭であり、必然的な発展の全進歩を、自らのうちに持っている諸定式において、道徳的なものが把握されには至らなかったからである。そのような意識がまだ存在しない所では、倫理学もまだ学問として生成することは無く、ただそのイデーだけが存在した。この後者の生成はしかし、一様ではあり得ず、偶然的なものの見せかけを提供しなければならなかった。それはある場合には、接近のある要素が、ある場合には別の要素が、他の諸要素に先行することによってであり、またある場合には、観念的なものに対する感覚が、単に形式の法則から〈364〉より良い実在的なものを予感し、現実性を背後に残してしまい、またある場合には、現実性における実在的なものが、学問において表現されたものに先走り、その承認を得ないままで合ったりするからである。したがって、その運動は、その中心点や法則が与えられていない人に対して、ある場合には先行したり、ある場合には後退したりするように見える。完全な真理と明確な自己意識においてのみ、その基準と秩序とは、見まがうことなく告知されるからである。

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