神学者カール・バルトによるシュライアマハー賛歌

J.ファングマイアー著『神学者カール・バルト』(加藤常昭・蘇光正共訳)日本基督教団出版p.118‐123より引用。


シュライエルマッハーは―ザアカイのように「背が低かった」し、その上に、後に彼にきわめて近くあった姉妹のシャルロッテが、まだ幼児だった時に、彼を突き落としたのち、成長が悪かったが―大きな、したがって広がりのある、真実に包容力のある人物であった。

一切の「所見」、ただ分析するということを越えて、シュライエルマッハーが目指していたのは総合であった。彼は、自分と同時代の人々のやり方、言語やその理想を、快活に肯定しながらこれに参与し、あるいは同じように自由にそれから遠ざかり、あるいは自分の特別な認識を、断固として、彼らにとって新しいこととして対峙させる自由を持っていた。彼は、きわめて鋭くなった時にも平和を目指していた。彼が見、聞き、読んだ多くのことが、彼を悲しませ、怒らせた。しかし私は、彼の手紙や、まして著書において、彼が気難しく、不機嫌に、まして毒を含んで意見を述べているような箇所を、どこにも見出さなかった。

このことは確かに、彼がその生涯のあらゆる段階においても、その生涯における著作のいずれの部分においても、積極的なことを述べることができたということと関連がある。シュライエルマッハーの前奏曲は(『宗教論』と『独白録』という)若い時の著作に聞かれるが、既にそれは当時いつも同じ旋律であった。つまり彼が語ったり、書いたりした時に、彼は実験することはなかった。よく考えられた文章とその組み合わせによってそれをなした。これらの文章とその組み合わせを整え、形作る時に、彼の思考が決して硬化せず、驚くほど柔軟であることを明らかにしたのである。彼の文体が、特に彼の若い頃に、しばしば忍耐しうる限界にまで達したとしても、それは決して悪趣味なものとはならなかった。シュライエルマッハーはその人格的統一において、首尾一貫した哲学と、同じように首尾一貫した神学を発見し、それを主張したのである。そしてこの二つの領域において、全体と個、初期のものと後期のものとの、注目すべき緊密な連関を保ちつつ研究を進めたのである。

更にそれのみならず、いわば左手で軽々と、更になおプラトンの翻訳を、その全対話編に解説を付けながら完成してしまうことができたし―更に、自分の教義学の最も重要な箇所を、フルート協奏曲を聞いた後に、小説でも書くようにこれを書き表すことができたのである。

これに加えて狭義における彼の人間性がある。彼は友情がなんであるかを知っていたし、愛がなんであるかを知っていた。友情においても(フリートリヒ・シュレーゲル!)、愛においても(エレオノーレ・グルーノウと、後に彼の妻になった、あの未成熟で、自立できず、聡明でもなかった寡婦との間に)、彼は幻滅を味わわないですんだわけではないが、それを彼は、男らしい寛大な高貴さをもって耐え抜いた。気高く、騎士的で、どこまでも紳士であった。友情においても愛においても、単なる遊戯にふけるようなことを知らなかった。ベルリンにおいて、あれほど憎らしい仕方で彼と闘った二人の同僚、つまり哲学者ヘーゲルと、ルター派の教義学者マールハイネッケに対しても、人間的には、やはりはるかに勝っていた。

更にまた「リュッケへの書簡」やあるいは既に、『宗教論』のその後の版の注や増補において、いかに彼が自己批判をも行い、新しい、自分がこれまで展開してきたことを越える局面を展望しうる人であったかに注目して欲しい―たとえわれわれが、シュライエルマッハーがこれらのことを真剣にやっていたならば、驚くほど自分自身に忠実であり続けた―これこそ正に彼の強みであった―であろうにと予想せずにおれないような場合にも。

いずれにせよ―当時の時代一般を知るのに非常に啓発的な―ファルンハーゲン・フォン・エンゼの「回想録」によれば、シュライエルマッハーは、笑うことができる自由、何よりも自分自身について笑うことができる自由を持っていた。彼は深いエートスから生まれた倫理家であった。このエートスは、哲学的領域においても(まして)神学的領域においても、形式的なこと、方法論的なこと(彼はこうしたことを驚くほどわがものにしていた)にとどまることを許さなかった。そうではなくて(それが幸福なこととなろうが不幸なこととなろうが)、人間的にしてキリスト教的な存在、個人的にして社会的な存在にあえて接近することを許し、また命じたのである。

こうして今やわれわれは、彼の人間性の中心に触れる。この中心は、われわれがなおこれを続け、彼によって主張されている事柄の問題性を論じる時にも、しっかり見据えていなければならないことである。すなわち、シュライエルマッハーは、著しく教会的な人間であった。彼は生涯、まさしくこの面での自分の具体的な責任を意識しながら、考え、語り、行動したのであった。この意識が、若い時から晩年に至るまで、絶えず彼を説教壇へと駆り立てたのであった。

そして、事柄としてそのことについてどう考えようと、シュライエルマッハーは「絶対依存感情」についてただ単に語ったばかりでなく、この感情を持っていた―むしろこの感情の方が彼を捕らえていたのである。シュライエルマッハーは、自分が説教壇で(そして教壇で、またサロンで)この感情について語りながら、自分自身感動し、涙にむせびさえもしたのである。

そしてこのことは、彼が「合理主義者と呼ばれる尊敬すべき人々」に対して、既に当時承認されるべきことを承認していたが、しかし、イエスに対して―彼は敬虔主義者ではなかったが、「高次のヘルンフート派」であった―おそらく愛と呼びうる、一つの人格的関係を持っていたということと、疑いもなく関連がある。「来るべき方はあなたですか、それとも、他に誰かを待つべきでしょうか」という洗礼者ヨハネの問いは、常にくり返しシュライエルマッハーの心を煩わしはしたが、彼はイエスから去ろうとはしなかった。常にくり返しイエスのところに帰って来なければならなかった。私の推測するところ、このことからして特に(彼のキリスト論が見せる悪しき姿にもかかわらず)、ただこのことからして、「キリスト教信仰」をアフォリズム的な付けたりではなく、「その関連を尽くして」叙述することが、彼に可能だったのである。

このような男、思想家、説教家、教師また著述家として、シュライエルマッハーは、19世紀を規定した。