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5.弁証法と活動的生

a.多くの人が知の諸原理と連関を自分のものにするのは、それによってある特定の活動領域で行動するためである。そのような性質の生にとって,思考の交流のおいてこれを確かなものにする技法は、何か余計なものだろうか? 決してそうではない。なぜなら、諸領域が厳密に区分されていない活動的生においては、他者や自分自身との交流において差異や疑わしい事例が最も多く生じるからである。一貫した原理の無いところに教養は成り立たないし、自然と人間的生の連関についての知がなければ、行為は不可能である。しかし、この技法全体は、直ちに役立ち得るような特定の結果を提供するプロセスではない。古い時代―そこでは私たちのあらゆる知識の萌芽がそこにあるような方向性で,人間精神が形成され,それは私たちの研究が形を得る程度にまで形成されているのだが―に戻ってみると、そこに私たちは次のような非難を見出す。すなわち、国家の高度な活動的生に献身する若者たちは、この探求を避けはしないが、程々にしかこれを追求せず、人生の短期間これを行うに過ぎない。このように嘆く者たちの標語は「深く追求するか、さもなければ一切味見するな」であった。他方で、すでに活動的な生に携わっていた人たちは次のように非難した。「ここにおいて若者たちは、いかなる目標にも導かない無用な思弁と関わりあっている」と。私たちの現在の生は、当然のことながら当時とはもはや同じではない。当時は人は一方では「多すぎる」と不平を言い、他方では「少なすぎる」と不平を言った。学問的領域は今日、当時はほとんど学問と無関係だったような活動―例えば宗教的なもの―のあり方に対しても、避けて通れなくなっている。それにもかかわらず、私たちもまた知の栽培のために必要な純粋に思弁的な生と、後には実践的なものに移行し、ただ知の原理のみを獲得するに過ぎない生とを区別することができる。

b.重要なことは、より高次の活動的生の諸対象が、どの程度知の諸原理及びその連関と結びついているかを判断することである。この問いに答えることは、人間の活動のさまざまな対象の定義付けに対する批判を前提としている。もし知の様々な領域が完全に落ち着いていれば、いくつかの国家においてそうであるように、その境界は正確に定められていることになり、研究の領域侵犯もできなくなる。いずれにせよ、私たちの場合はそうではない。そしていずれがよいかを決めようとは思わない。人間の活動の様々な部門の親和性や境界についての問い(例えば、何が教会や国家の領域に属するか、何が行政や立法の領域に属するかというような)は、私たちの日常生活においてしばしば話題となり、決定されないままである。しかし、より高次の領域に参入したいと望む人は誰でも、あらゆる個別の事例においてこの問いに答え、自分が所属する社会の名において自分が代表できるような確信を形成する為の何かを自らの内に持たねばならない。しかし、そのような問いに答えることは、知の原理と連関についての問いと再び直接的に関係してくる。

c.人間の知は、それ自体は一つであるにもかかわらず、数多くの領域に分かれている。活動の領域も分かれている。両者は同じ仕方で分かれているのだろうか、ここにおいて正しいのは何だろうか? このような問いを私たちは回避できない。なぜなら私たちは生の区分を知としても持つことを望むからである。人が活動的生においてより高次の段階にあるならば、知の諸原理への問いも同様に避け難い。知が結びついていないような行為は存在しない。なぜなら全ての行為の根底には、生じるべきものについての構造があるからである。これが無ければ、その行為は確固たる行為ではなく、本能的な行為であろう。ここにおいてそもそも知るべきものとしてあるのは何だろうか?活動的生において人が知らねばならないことは、他の人々が行動する仕方とその理由であり、そしていかに私たちが彼らの行動に、よりよい方向を与えることができるかということである。また、人間の統一的な活動が手を加え、加工すべき素材についての知も必要である。したがって、活動的生の根底には二重の知が存在しなければならない。すなわち、人間の活動すべてにおける正しいことについての確信と、自然的事物および人間に対するその関係についての洞察である。人がこの両者を所有している程度に応じて、人は活動できる。あらゆる活動の根底に存在している確信をしっかりと保持し、精神を生き生きと活性化した状態に保つために、対話の遂行が必要なのである。ここで重要なことは、単に人が活動の領域において他の仲間と対話するということだけではなく、人が自分自身の表象を訂正するために、内的な対話をも行なわねばならないということである。私たちは自分の行動様式の根拠として真理についての活発な意識を至る所で持つその程度のよってのみ、人間の活動の一部門を指導できるのである。すなわち、それについての諸研究に無知であることは許されず、私たちの社会の必要に対して、私たちは常にそれら(諸研究)に戻ることができねばならない。だからといって私たち自身がこれらの研究を遂行できるわけではない。それをするのは少数の人達だけである。しかし、その結果を適用することに私たちが無知であることは許されない。

d.ここから私たちは、先の2つの絶えず続く非難に帰ることができる。すなわち、学問だけに専心している人々が「活動する人々は、彼らの学問的仕事をただある一時期のみに制限しようと欲している」という非難が正しいのか。それとも、「若者は過度に学問と関わり合っている」という活動する人々の非難が正しいのかという問題である。後者の非難は、今はもはや現れることはできず、知の始めの段階に属するように思われる。それにもかかわらず、私たちはこのような非難を今日も聞くし、自らそれ(学問)をした人々が、この非難を導いている。その理由はこうである。人間生活の様々な時代は、確固として落ち着いているものと、交替するものという生の二つの対立に対して全く様々な親和性を持つからである。あらゆる精神的感覚で満たされることを求めている若者は、自分のあふれ出る活動によって高度に活発であり、生における確固としたものと混合しようとはしない。しかし、人生を経た後には、善きものはこの活動的要素にだけあるのではなく、人は善きものを至る所で固定化しなければならないことを知るのである。持続的な形式によって達成される善きものの経験を人が持ち、そしてその活動性が失われるならば、すべての更新は悪化であるか、あるいは不必要な力の消耗であることに人は気付く。かくして精神活動の結果を実際の生において制限しようとする傾向が生まれ、それによって、自分の学問的活動から生じたものは何一つ変えられることがないようにし、およそ哲学や高度な学問に対する反感が生じる。そのようにこの努力はすべての世代において新たにされる。この側面からの非難は容易に理解できる。しかし、もちろんそれが正しいのは、過度な場合に対して向けられている場合だけであるのだが、それを決定することは常に困難である。

e.「若者たちはあまりにもわずかしか人間的知の諸原理の研究に関わりを持たない」という思弁的生に専心する人たちの非難は根拠があるだろうか? ここで問題になっているのが、精神生活の活動の二つの対立した在り方であることは明らかで、それらはある種の卓越した技量においては互いに排除し合うものである。活動的生についての理論を立てた人は、指導的な活動において働くために最も巧みな人ではなく、そのような活動を容易にするために理論が作られたのではないということは、一般的見解である。理論的な政治家は、実際的なよい政治家であることは困難である。なぜなら、彼は、個々の事例においても絶えず思弁を弄し、それが彼を脇道へそらせてしまうからである。もちろん天才と英雄は例外である。彼らには規則など存在しない。このことが真実であるなら、活動家はしばらくは、学問的な研究に携わるべきである。それによって、その後成立すべき新しいものを容易に身に付けることができるし、おそらくはそれを適用可能なところで適用することができる。

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