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(最終更新日2000620)

6.技法と学問の関係

a.弁証法という名称は、技法を示すものであったが、私たちが弁証法と同時に見出すことを期待しなければならないものは、知と見なされるのを常としている。技法と学問とは互いにどのような関係にあるのだろうか? これまでのことを度外視して、出発点、すなわちこの技法の中に、知とその連関の諸原理があるということに立ち戻るならば、技法の規則と同時に知の要素が見出されるべきだということはありそうもないと考えねばならない。知の連関から分離され得るような認識は一つとしてない。連関によってのみ、認識は初めて完全なものになる。原理と連関が知であるならば、それらもまた知の領域にのみ自分の場所を持つ。しかし、私たちがそれらを技法と共に求めようと企てるならば、私たちはそれらを技法の連関において、すなわち別の領域において見出すだろう。したがって問題は、技法と学問とが互いにどのような関係にあるかを理解するということである。

b.私たちの企てにおいて問題なのは技法である。なぜなら私たちはそれによって何かが作られるべき規則を探し求めているからである。規則なしに完成されるものは、技法を欠いたものである。私たちは、違ったものを対話によって統一へともたらすという仕事を成し遂げようと望んでいる。これを私たちは規則や理論、あるいは技法論に従ってなす。それが学問である。学問が知の諸原理や連関を含んでいるということは、一般的な用語法に合致している。しかし、ここには普遍的な一致はない。「個々の学問が存在するだけで、知の諸原理の認識はこの領域を超えており、より高次の名称を持たねばならない」と他の人々は言う。ここは、そのようなことを探求する場所ではない。私たちはただ、通常の意味での知が、技法に対していかなる関係にあるのかということに注意を向ける。私たちは(学問と技法という)先の二つの言葉を、それらの関係を見出すために、それらが互いにもっとも接近している場合や距離をおいている場合に探し求める。

c.私たちが思考の複合体を知と呼ぶならば、それら(思考)のもとに一つの連関を前提している。その結果個々のものすべては全体に統合された部分となるのである。これが知というものに対する一般的な要求である。しかし、学問を立てる各個人がそこに至る仕方、意識の由来はたいてい無視される。幾何学をみてみると、これは学問と呼ばれているが、それを超えて人はこれに全く卓越した(学問性の)度合いを帰している。どの命題もさらにその以前の命題に関係していなければならない。そのようにして初めてその教科書は完全になる。しかし、私たちが前後の命題を互いに比較し、その際にその証明を考慮するとしても、その全体を構成した人が、どのようにして一つの命題から別の命題に至ったかということは私たちには分からない。したがって発見の技法は、発見されたものの学問とは別の技法なのである。人が一つの命題から他の命題に至る在り方と、知の連関とは決して同じではない。これは高等数学にも妥当する。それは、数値に関係するすべての課題を解くために、一般的な諸公式を構成することである。しかし、その公式の発見者がどのようにしてそこに至ったかということを私たちは知らない。したがってここでも技法と知は別々に離れて登場する。個々のものがどのようにして発見されたかを知ることなく、人々は学問的連関を所有できる。人が学問的なものにより頼む度合いが大きければ大きいほど、技法の方は消えてしまう。多くの人は次のように言うだろう。「数学的発見の技法は、全く構築され得ない。なぜならそれは天才の問題であり、人はそれを意識しないのだから」。最後のような場合には、学問の根底に技法が欠如しているということになってしまうだろう。しかし、その根底に一つの技法がある知の方がより完全であることは明らかで、というのは、技法の欠如がまだ存在している限り、その学問は不確かな基礎の上にあるからである。これに対して、欠如しているものの補いについての指示がそこにあるならば、これは学問の最高の段階である。その時には、発見の理論もそこにある。

d.では、事柄を逆に考えて次のように言ってみよう。「発見者が、どのようにして自分はその発見に至ったかについても直ちによく思案してくれてさえいたら、彼らが意識の隠された深みを徹底的に究明し、数学的発見のための指示を与えてくれてさえいたら!」これに対して私たちは次のように答えねばならない。「そのような指示が存在したとしても、しかし、発見されたものの学問的連関はそこには無いのだから、これは他の面から見れば不完全な状態である」と。したがって、発見の技法は学問になることを求め、発見されたものの学問は技法になることを求める。両者の同一性においてのみ、最高の完全性がある。

e.これは他の様々な技法、例えば絵を描くことなどにも妥当するか? 明らかに否である。なぜなら、そこにおいては学問的連関を見つけ出すことを私たちは知らないからである。したがって、私たちは技法の領域において、技法と学問を対置することはできないことを知る。しかし、次のように言うこともできない。すなわち、学問はすべて、完全になるためには技法にならねばならないと。そうではなく言えるのはただ、思考の一般的領域のために一つの技法が存在すべきだということである。

f.しかし、似たようなことは、目に見える行為を営む技法にも妥当する。そこで私たちは、絵を描くことにおいても、技法を欠いた方法と技法に適った方法とを区別する。芸術家は自分の作業を規則に従って意識する。彼はこれらの規則を、個々の伝統としてか、あるいは学問的連関によって所有する。そしてもしその技法論が、後者を求めるならば、ここにもまた学問と技法の統一が定立される。技法における技法論は学問でなければならず、学問における方法は技法でなければならない。

g.私たちは、複合物よりもむしろ個々の要素に多く目を注ぐならば、このことを確証できるだろう。技法に適ったどの方法にも、知は先行できるか、あるいはできないかである。前者の場合、その方法はより完全になる。私たちは学問の要素として個々の知に目を向けようと、技法の要素としてその行使に目をむけようと、これはどちらの側にも当てはまる。人間の個々の状態をその精神的活動において観察するならば、私たちは先ず、より多く受動的な状態と、より多く活動的な状態とを区別する(絶対的対立は生じない)。私が感覚を通して獲得する表象は、内的にくるまれた意図的な思考のプロセスによって獲得された表象と比較して、より多く受動的状態である。前者には、私は意欲の最小限によって到達できる。後者には意欲の一系列が属しており、したがってそこにはより多くの活動が存在する。他方私たちが、技法なしにもなり得るし、技法に適ったようにもなり得る行為や行動を取り上げるならば、私たちはここに類似した対立を見出す。その根底には、思考または知の最小値または最大値が存在し得る。私たちは最大限の無意識の内に多くのことをなすが、これは、精神的な観点における行為の不完全な状態である。獣の生の純粋に有機的な機能は、無意識の内に進行し、そこにはこの段階における完全性がある。しかし、私たちがここ(獣の生)から遠ざかり、精神的な領域に参入すればするほど、無意識状態は行為の不完全性のしるしとなる。技法に適った行為においては、単に同伴する意識のみならず、先行する意識もそこにある。芸術作品の成立を考えてみると、イデーが、絶えず芸術作品に先行するものとしてすでに存在し、それがただ行為によって現実化するに過ぎない。意識が完全になり、行為に先行すればするほど、芸術(技法)としての行為もまた完全になる。それによって知が完成される意志の活動が完全になればなるほど、知も完全になる。しかし、意志活動は、そこ(知)において技法に適ったものであり、そうして技法は至る所で学問の中にも入ってくる。知は全て技法の完成を持とうとし、したがって、両者は正に結合している。その相対的な対立は、ただ対立させられる始めと終わりによるのであり、そのプロセスにおいては対立は消滅する。

h.このことへの一つの適用。私たちが考えようとしていることは、知の諸原理と知の連関の構築が求められているのなら、それは、私たちが哲学と呼ぶ学問が求められているということである。哲学か完全なものになるべきならば、それは技法にもなれねばならない。すなわち、知の発見においてどのように事が運ばれなければならないかという教説が存在しなければならない。そして、私たちが学問的連関とこの技法論という二つを持つならば、学問は完全になる。しかし、この技法論はどのような性質のものだろうか? 知の諸原理を求めるためには、表象の完全な状態と不完全な状態との間の相違が与えられねばならないし、知の連関を求めるためには、ばら撒かれた知がそれ以前に与えられねばならない。しかし、完全な表象と不完全な表象を私たちが見出し得るのは、両者の間に同一なものが存在している場合のみである。したがってそれら(表象)は、同じ対象に関係していなければならず、そうして論争状態に入るのである。もし原理が見出されるなら、論争は終わる。したがって、知の諸原理を見出す技法は私たちの対話遂行の技法以外にあり得ない。したがって、私たちは、知の普遍的な連関を発見することによって知の相違間の論争を解決するという私たちの課題を追求することにより、これは再び、この技法論の完全な扱いの結果となる。

i.知はすべて、散在する諸点から始まる。単に感覚によって知覚される知のみでなく、学問的伝統に基づく知もまたそうである。なぜならここで先ず私たちに教授されるのは個々の知識に過ぎないからである。〈78〉現実の連関がない所にも、しかし連関の可能性は与えられている。それはより大きな可能性であったり、またはより小さな可能性であったりする。すなわち、それ(知の連関)について論争し合う表象の可能性も与えられている。しかし、その可能性からその現実性も生じる。したがって、すべての知の連関という普遍的構造が成立すべきであるなら、それはただこの論争し合う諸表象から出発できるのみである。それはすなわち私たちの技法による。

j.さて私たちは、この差異から統一へいたる方法を意識化してみたい。技法の形式が、学問的形式になるべきであるなら、私たちの技法は、起源に関して、個々の差異を探し出し、確認しなければならない。対話遂行の途上で、私たちは正にそこに至るのである。私たちが技法の道を取るならば、私たちは、諸原理を、学問的な連関とは異なる連関の中に見出す。しかし、技法はすべて学問になることを欲する。したがって、その差異を止揚する規則が、私たちにとって正に完全な知となるべきである。異なった表象が統一へともたらされるべきなら、一方の表象において結び付けられているものを確認し、もう一方の表象において結合されているものを解くか、あるいは、両者を一つに還元しなければならない。〈79〉これが起こり、今や両方の結合が正しいとするなら、そこからそれら争い合っていた表象の連関についての知が成立する。あるいは、異なった表象は、それぞれ違った連関の中にあり、一方が他方を排除することはないので、互いに争うことはないということを示したいのであれば、お互いに対する両者の境界が探求されねばならない。そして、これが、普遍的連関の組織における第2の点である。この方法における学問的なものとは、その場合これである。すなわち、それによって私たちに次のことが明らかになるようなもの。私たちの技法の規則が、思考のすべての対象に適用可能であるということが明らかになるようなものである。他方で、もし次のことが、私たちの技法の本質に属するならば、すなわち、諸表象を、その完全性にしたがって区別し、思考の完全性の様々な度合と、知の様々な対象との間の関係を規定することが、私たちの技法の本質に属するならば、そして、私たちがその方法を完全に意識するならば、それが意味するところは、私たちが知の諸原理を、現実的な知として、最高の意識をもって所有しているということに他ならない。知の諸原理の連関のあり方は、思考の完全性の様々な度合と、知の様々な対象との間の関係である。この連関を私たちは見逃すことはできない。そして、この技法が学問への接近を打ち立てるべきであることによって、それ(技法)は、同時に自らの中に可能な限り学問的叙述を含み持つ。

k.次の両者の方法のあり方に差異はない。すなわち知の諸原理とその一般的構造についての学問的叙述から出発しようと、あるいは差異を統一へもたらす技法の叙述から出発しようと同じである。諸原理の学問的な叙述が与えられ、その目指す所が、異なった表象が解けて一つになる技法の規則でないとするなら、その叙述は不完全である。なぜなら、それは、知の以前の状態からどのようにして生じたかについて正しい意識をもっていないからである。技法が知の諸原理の叙述を含んでいないならば、それは不完全に分割される。なぜなら、そこにおいて差異が存在し得るあらゆる可能な表象に対する技法の関係が、〈80〉共に定立されておらず、その(技法が及ぶ)範囲についての明確な意識が欠如しているからである。両者いずれの課題も、一方が同時に他方と共に解かれる場合にのみ解決される。

l.人は常に一方から他方へと至るのであれば、両方の出発点に間には完全な平等があるように思われる。しかし、ある特定の場合には、一方が他方よりも賢明であるということはあり得る。これについて釈明を望むならば、私たちは、誰もが、課題全体に対して持っている関係に戻ることができるのみである。自分の生に完全な思弁的方向性を与えようと望み、またそれができる人にとって、この二重の課題は、たとえ、それが常に自分の生の課題全体の一部に過ぎないものであっても−というのは、誰も完全に孤立することはできないから―、本来的な目標であり、すべて他のことは付随的である。実在的知のある特定の領域に帰化しようと欲し、その方向性がさほど思弁的ではない人々や、さらに、自分の主要な仕事が、日常生活のある特定の領域にある人々はなおのこと、この関係において全く別の状態にある。思弁的な人が、学問的な叙述を開始するなら、彼は、知とその連関の諸原理を意識することによって、彼の生の主要課題を、その全連関において明らかにするのである。それは当然であるし、賞賛に値する。ただ彼はそこにとどまっていることは許されないし、私たちの技法をないがしろにすることも許されない。そうでなければ、彼は自分の思考の独自なプロセスについて明確になることはない。しかし、もし後二者の有識階級−それらもまたこの探求に携わらねばならないのだが−に属する誰かが、学問的な叙述を始めるならば、彼は、自分の生の主要課題を明確にするのではなく、ただ、自分の特別な課題の解決に必要なものがある場所の規定を求めるに過ぎない。彼が技法で始めるなら、彼は自分の生のすべての歩みにおいて観察されるべき方法を意識することを求めているのである。

m.これは、すべて前者の人々に一致した開始であるように思われる。しかし、後者の人々に対して私たちはさらに次のように言わねばならない。「この技法の知だけに満足していてはいけない。〈81〉そうではなく、それを応用し、すべて新しいものが知においてどのような場所を占めるのかを意識せよ。それによって学問的叙述を獲得せよ。そうでなければ君達は、君達の領域において真に知る者として現れることはない!」と。

n.私たちはさらに、このことに、次のことを結びつける。すなわち、哲学が原理と連関の学問的叙述として存在するような状況についての観察を結びつける。人は、現在の特定の瞬間を完全に固定することは決してできず、どの瞬間も空間と多様性を自らの内に含むゆえに、ここで私たちは、現在を時刻(Zeitpunkt)としてではなく時期(Zeitraum)として捉え、次のように言わねばならない。「現在の状態は、哲学が学問的に登場した以前のすべての時期と同じ状態である」と。学問としての様々な哲学の叙述様式が、絶えず形成され、ただこれらの叙述様式の関係だけが、異なったり、交替したりする。もちろん、ある特定の哲学的叙述様式が支配的であるように見える時期は存在する。しかし、この新しい様式は、多くの相対する表象における先行する論争の結果であるように、この新しい様式自体もまた、将来の論争の序曲に過ぎない。これは歴史が証明している。支配的な体系においては、あたかもそれは継続する体系であり、すべてそれ以前の体系によって準備されていたかのような見せかけが容易に生じる。しかし、このような見解は絶えず次の時代によって反駁される。したがって、私たちは、この交替がいつか終わると考える権利を持ってはいない。哲学をする普遍的様式がある時点で存在するというようなことは決して事実ではなく、ある民族において、哲学をする一様式が支配的であるような時点が存在するというだけのことである。しかし、他ならぬそのような時点に、異なった哲学をするが、成果を見込めないゆえに、公には登場せず、自分の財産として自分の様式を保持しているような個々人が常になお存在している。したがって、哲学の形式においては、常に複数の叙述が同時に存在しているのである。思弁的な人々が、そのような学問的叙述を開始するならば、彼らはこれによって前もって規定されている。しかもそれは次のような時代でもある。すなわち、彼らがまだ〈82〉弁証法を所有することによって、差異から統一をもたらしたり、自分の哲学の様式を他の様式と比較したりする能力を与えられておらず、一つの様式をただ別の様式の立場から眺めるだけであり、比較を行うことを妨げられているような時代である。これに対して彼らが、その技法(弁証法)によって始めるならば、彼らは、学問的叙述の様々な様式について、自ら決定を下す能力を与えらえる。その時、彼らの所有は、後になってから獲得されるものであるにもかかわらず、より吟味され、より根拠のあるものとなる。したがって、ここでは、特定の叙述の伝統で始めることは得策ではない。そうではなく、適切に吟味できるように、技法で始めることが懸命である。

o.私たちが学問のこの状態をより正確に観察し、次のように問うならば、すなわち、哲学が論争し合う諸形式から出て一つの確かなものに至ることがまだ決してないのは、どこに原因があるのかと問うならば、私たちは次のように言わねばならない。もしすべてこれら様々な形式が、純粋にお互いに、完全な形式が、より不完全な形式に対するような関係にあるのだとすれば、常に繰り返し、完全な形式が、不完全な形式によって克服されることは不可能である。なぜなら、様々なものを統一する弁証法的技法は、常により一層完全になるからである。したがって、なお別の差異が存在しなければならない。そして、叙述のどの形式も、自分の相対的な完全性を持たねばならない。私たちは、これらすべての相対的な完全性が一つの点で統一されるような所には、まだ至っていない。したがって、同じ形式がすべての人にとって最善の形式であるというわけではない。なぜなら、ある人は、この相対的な完全性に敏感だが、別の人は、また別の完全性に敏感だからである。したがって、彼は、ある特定の形式に巻き込まれる前に、どの形式が自分にとって最善であるか吟味できなければならない。この側面からも、弁証法が、企てられるべき第1のものであるように思われる。それによって、誰もが自分の哲学的立場を知るのである。そうでなければ、個的なものが死んだ伝統によって、一つの形式となるが、それは彼には適合せず、彼はそれをはっきりと意識することもないのである。

p.私たちは、あらゆる論争的な思考のやり取りにおいて統一と一致に達する技法を求めたことによって、そこにおいて、知の原理と構築を獲得できるということを見たにもかかわらず、私たちがそれに現実的にも到達するということは、同じように容易には確信できない。それにもかかわらず、私たちは最初から、両方の目標の結合を目指し、それを意識しなければならない。行為についても類似したことが言える。ここにもまた全く無意識的な行為、すなわち、教養なき人の行為と、根拠と方法の意識を伴う行為が存在する。意識を伴う行為は道徳的行為である。これに関しては、同時に私たちが倫理学と呼ぶ学問が存在する。しかし、道徳的に行為し、技巧的に振舞う人が、学問を知っているということは、それ自体としては必然的ではない。なぜなら、ある人が自ら、道徳的行為と非道徳的行為との差異のための定式を立て、それによって自らを吟味し、振舞いにおいても常に、その法則に矛盾することが何も入ってこないように注意するとすれば、これは技巧的な振舞いとある特定の類似を持つことになる。しかし、それによって、その学問が与えられるわけではない。なぜなら、これは道徳的行為の連関を一般的に叙述しなければならないからである。したがって、その場合私たちは、一致する行為に至る規則を描いて見せることも可能である。これに対して、もし私たちが、ただ個々の事例と応用を目指すだけならば、それによって、道徳的なものについての知の連関と原理が私たちに生じることはほとんどない。他方、根拠の意識を伴って行為する人は、行為の規則を気にかけない人よりも、道徳的なものの知により近く接近する。それはここでも同様である。私たちは思考の規則を求め、適用することによって、特定の法則を持たず、ただ混乱した思考の交流によって行為する人よりも、知の構築の達成により近づく。したがって、私たちは絶えず、技法論から学問へのこの移行にとどまるよう注意しなければならない。

q.もし誰かが次のように言うとするなら、すなわち、私たちはこれまで暗黙の内に技法と学問の相違から出発し、したがって、技法論から学問への移行は、常に飛躍のように見えると言うならば、それは真実である。なぜなら、私たちは次のように語ったからである。私たちはそもそも、二つの全く別の事柄をなすべきであり、ただ注意すべきことは、一方から他方への移行のどこが最も快適かということであると。その時しかし、私たちの振舞いは全く非技法的で、非学問的な二重性を持ってしまうだろう。これについては、歴史的な解説が必要である。

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