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F. Schleiermachers Dialektik(1811) Nachschrift Twesten: zusammengefasst auf Japanish von Kenji Kawashima.

F. シュライアマハー「弁証法講義1811年」 Nachschrift Twestenより

[ ]内の数字は、Arndt版のDialektik1811に対応するかたちで、訳者が付与したもの。

最終更新日200141

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思考が知であるか思考であるかを区別しないのは低い段階である。しかしそこにおいても、無意識にもかかわらず、この原理が現れなければならない。近年、厳密な知を自由な想像力との一致にもたらす試みがなされた。これは、思考がより一般的な思考であることによって可能であるが、その下に知もまた包括可能でなければならない。

見出されたものは、二つの極点、すなわち主語の最高存在と述語の最高存在による判断の基礎付けであった。ただ再び主語であるものだけについて、それによって述語付与されるものすべてが妥当する。このことがいまや知に適用されるべきである。知においては、思考と存在の同一視が端的に可能なものとして定立される。この同一視が生じるところに知がある。ところで私たちはすでに一度抗議をして次のように述べた。私たちは物の等しさを、先に述べたところにしたがって個々の物が知の中に定立されることによって予想するように見えるが、―そうでなければほかに知は存在しないから―、従ってまた絶対的な知は生じ得ないが、しかしながらそのような一致が前提される。これに対して懐疑主義的な抗議がなされ、次のように言う。人はたとえば色のような私たちの感覚の有機的機能がいかにして対象の中にあるべきなのかを考えることができる。したがって人は、思考を判断の形式によって対象の中に置くことができない。これは単に自然的領域のみならず、倫理的領域にも妥当する。たとえば、「ある人が温和だ」と言うような場合、それに対して1)思考においてはすでに最高の概念が定立されており、これによって私たちはすでに思考と思考の対象とを見出した。したがって思考自体がすでに思考と存在の同一性を定立している。したがって懐疑主義者は知のみならず思考をも破棄している。それにもかかわらず人は次のように異議を唱えることができる。最高の概念において、最高の存在との関係で、このことは認められるべきである。しかしここから分割が始まる。そして実際の存在はこの対立の領域内にあり、ただ現実の知がそれによって両方の側で純粋に構築される場合に限り、それは知であることができると。学問としての知の全体的な完成においてのみ、懐疑は破棄される。その懐疑によれば、学問としての知の完成が実現するかどうかは疑わしく、したがってまたその答えも疑わしいものに過ぎない。2)知や思考を廃棄しようと欲する懐疑は、思考に関して、物との実践的な交流を維持するという傾向以外の傾向をもつことはない。しかしもし彼が思考と存在の同一視を破棄するならば、彼は物との実際的な交流を破棄しなければならない。対象と概念の同一性は二重に考えることが可能である。すなわち存在が第一で、思考は第二であるか、あるいはその逆に、考えが思考対象の存在の原因になることによって、対象は考えに依存する存在として定立され得る。それはたとえば、あらゆる実践において、前者の原理を表象の原理と呼び、後者を叙述の原理―存在は思考の内容において現れるという―と呼ぶ。この二つのみが最高の概念を汲み尽くすことができる。ここにおいて最高のポテンツにおける実践のように、技法が知に対応し、すべてのより低い行動が、より低い知に対応している。生み出されたものが思考に対応しているということを否定しないならば、その反対もあり得るということも理解できる。なぜなら私たちは産出できないものを伝えることはできないからである。そしていまや他者において同じ考えを再現するのである。この二つの答えは、すべての知を確かなものとする。

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思考は概念と存在の同一性に基づくべきである。しかし、個々の事物は概念のカテゴリーから定立されるのであるから、知を他にして存在はない。もし人が根源的な最高の知の外に出ようとするなら、現実の知は空虚な題目にとどまらねばならない。少なくとも知は概念の中にあるのではなく、判断の中にのみあることができる。それ(判断)によって、人は個を概念の中へ包摂しようとするのである。前者は観念論的で、後者は経験主義的である。そこからは、人が学問の準備にとどまらねばならないということは生ずるとしても、学問に達することは決してできない。前者の見解によれば、学問の形式だけが残り、個々のどの領域も汲み尽くされることがない。なぜならそれは非存在として定立されるのだから。後者の見解は、学問の形式を空虚にし、経験的なものに頼ることになる。両方の見解を合わせることで全ての知が解消されてしまう。しかしまた次のように言うこともできる。人は、両者の積極的な面を叙述することによって、一方は形式を与え、他方は質料を与えると。どの知にも有機的な要素と形式的要素があり、両者はいたるところに存在することを私たちは見た。観念論的な見解と経験主義的見解とは、この一方の要素のみに基づき、他方を無視している。経験主義者は、純粋に概念形式へ入って行く主語以外承認しないことによって、物質的要素のみを持つ。彼が形式的要素によって手に入れたものは、不正入手である。したがって彼は自己撞着している。なぜなら彼は、個々のものについても判断を下すことによって、彼に共に与えられているものに対立しているからである。しかし結合は、個を概念の下に包摂することであるが、企てられたプロセスは、概念に限定されるべきだからである。したがって有機的側面は、この実践全体において思考の唯一の要素ではない。知はどの個物からでも降りてくることができる。なぜならそれ(個物)は概念に対して十分でなく、したがって存在でもないという観念論者は、あらゆる存在の基礎としての知と存在の有機的要素を拒否する。彼は、知を存在として定立しつつ、そこから全ての知を知として構築しようと欲し、統一性を数多性に変えようとする。したがって、最高概念から低次の諸概念を形成し、これらを判断によって結び付けねばならない。しかし、これら低次の諸概念の高次概念に対する関係は、概念に対する個々の事物の関係に他ならない。低次の諸概念は高次の概念から導出されるので、高次の概念は低次の諸概念を包括するものと見なされねばならない。そうでなければ統一性から数多性は生じ得ないからである。しかし、高次概念の下に低次の諸概念が同時に考えられることは、高次概念の中に低次概念があるということに他ならない。したがってそれは高次概念から導出されるべきである。そうであれば低次の概念は、高次の概念の下に包摂可能と見なされねばならない。したがってそれには有機的機能はない。獣という一般的概念には、それによって二つの要素がそこに定立される。しかし、その一つを分割し、一方を他方に従属させつつ、安定したものを運動にもたらす根拠は、もし人が直観によって動かされるのでなければ、統一性以外にない。したがって観念論者は、特殊という形式によって、器官を通して彼に現れるものを受け入れている。したがって人は、特殊というポテンツを一緒に取り込むことなしに、超越的知の統一性から出てくることはできない。最高の主語と最も低次の領域とが同時に存在することを私たちはすでに見た。したがって私たちは、両方の見解を必然的に結びついたものとして定立する。そして全ての思考において両者の純粋な同一性を認める。

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構築から出発しようとする単なる努力は常に知と詩作との間の揺れに、有機的なものから出発しようとする単なる努力は覚書の寄せ集めにとどまり、両者が学問をもたらすことはなかった。またいずれの見解もそれ自体で観察すれば、懐疑主義的性質を持っていた。なぜなら述語は常に概念でありつづけるので、経験は自らが単なる覚書として、判断として提示するもの全てを無にするからである。個々の存在を見せかけと見なす観念論も同様である。なぜなら全ての概念は個に基づき、個との関係から引き離されることはできないからである。

もし絶対的概念、対象と概念の同一性が根底にないならば、〔何ものも?〕知と見なすことは不可能である。超越論的なものは、全ての実在の基礎である。なぜなら、そうでなければいたるところに対立が定立されるからである。さらにこの同一性はあらゆる判断形式の本質をなさねばならない。なぜなら全ての思考に有機的なものが存在し、主語と概念の要素、述語、それらの同一性が初めて統一と知を作るからである。有機的に過ぎないものの純粋に後天的に振舞う介入は、結合の要素がなければ知を与えることはない。経験的なものは、有機的なもの、観念的なもの、結合的なものを孤立させる傾向である。両者とも知を要求する。

知であるべき全ての思考には存在が対応していなければならない。概念は、低次の存在と高次の存在間の多様性を越えた統一の固定である。存在自体はこの概念の本質と形式に対応していなければならない。そうでなければ人は実在知について語ることはできない。従属概念や低い概念、高い概念が存在するように、存在にも従属関係が存在する。したがって個物も存在の最も低い段階である。そして最高存在にいたるまで段階が存在する。最高存在とはその概念と同一になるような存在である。個々の概念のみならず、ジャンル(Gattungen)にもそのような存在が対応している。それは従属している事物の実在的な源泉であり、個々の事物の概念が、より高次の概念に従属しているのと同じである。したがって、私たちは「概念に存在は対応していない」と語る人々とは異なる。それが別に個々の存在を与えない限り、真実であっても抽象に過ぎない。しかし概念にはより高次の存在が−それによって個々の事物が生じるような存在が対応している。すなわち単に真実というだけではなく、比較にならないほど真実な存在が対応している。なぜなら、主語の中にはそれによって述語が付加されればされるほど、より多くの存在が定立される。そして、個物は無限に述語を付加される可能性を持っているからである。したがって概念が機能ではなく、存在に対応しているものである限り、これがイデーの実在性と呼ばれるものなのである。このことなしには知は構成され得ない。私が概念を抽象として定立するならば、そこには確かさはない。なぜなら抽象の規則などあるだろうか?もし一般的諸概念が、存在との一致を持っていないならば、それらは規則を持ってはいない。イデーに対し存在が直接的に対応していれば、真と偽を区別できる規準が与えられる。したがって私たちは、より高次の存在を定立するが、それは概念において、概念がそこにあるあり方に対応する。ジャンルの概念も存在を持つが、そこには個々の存在が包含される。最高概念は最高存在であり、それは概念との同一性を作る限り絶対的存在である。これは、しかし根源的存在で、全て他の存在がそれに従属する神(Gottheit)である。個々の事物は最後の存在としてある。イデー、諸力は中間にある。最高存在を実在的側面から見れば、全ての存在の源泉であり、観念的側面から見れば、全ての知の源泉である。この最高存在にその源泉を持たないようなものは、それが知であっても存在であっても実在的ではない。

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全て発展的に展開されたものは、一つの分離不可能な全体である。もし最高の存在と概念の同一性を認めようとしないならば、多くの概念に何かが対応していると考えることはできないだろう。なぜなら知の中に定立された思考と存在の一致が、私達にこの両者を強いるからである。違った考えをもつ者は、そこに他の点から到達しなければならない。これなしには、高次あるいは低次の存在の直観も存在しない。他の全てにおいては、最高存在は恣意的なものか把握不可能なもの、空虚なものになる。

一般的概念には、それが恣意的でない限り真の存在が対応している。それによって一般的概念は、知の十分な写しでなければならない。これがイデーの教説の一側面である。イデーと概念は二つの異なったものではない。イデーは古代の哲学に由来する。プラトンにおいては、[エイドス]と[イデア][ゲノス]という三つの術語が登場するが、プラトンにおいてそれらは常に混同されている。[エイドス][イデア]は形(Gestalt)であり、語源は同じである。[ゲノス]は産出(Erzeugung)である。内在する力のただ中で自らを再生産するものの同一性。したがってこの3つは全て様々な側面を持った同一物を意味している。なぜなら、産出された事物同士が同一であることが、姿(Gestalt)であり形(Form)であるに他ならない。そしてそれは、個々の事物が同じ起源をもっていることをまさに保証している。先の術語が等置されることの中に、形式の等しさは生む力に由来するという考えがある。

概念という術語は、まったく私たちの所有物である。それは多様性を指し示しているが、そこから統一も一緒に把握される。この言葉の中には別の見解が存していても、事柄は同じである。なぜならより高次の存在があり、その下に個物はある。私たちはその両者を知において統合する。したがって概念は知の中に定立されるとき、イデーと同じである。ただイデーの中には存在が直接表現されているのに対し、概念においては間接的に存在の思考が表れているに過ぎない。イデーにあるのは、概念が真の存在の表現だということである。したがって[イデア]という術語には、誤謬の可能性は本来排除されている。概念においてはそうではない。なぜなら「それは何か間違った恣意的な概念である」と言うことができるからである。その概念は、高次の存在の思考を、事物の知覚において、またその知覚と共に与えられたものとして表現するからである。

(Gottheit)のイデーは要請でもなければ、神を表現する仕方、実証でもない。要請とは何か他の目的のために与えられねばならないものである。私たちは知を成立させるために神(Gottheit)イデーを必要としない。神のイデーは知のイデーの条件である。これが君の思考の型であることが確かなように、神(Gottheit)のイデーも確かにそこに存在する。もし君が自分の中に最高の存在と知の同一性を持っていなければ、君は自分に知の課題を定立することはまったくできないだろう。またそれは神(Gott)の現存在(Daseyn)の実証でもない。なぜなら現存在が相応しくないのは確かだから。それは存在(Seyn)と違い、どこかに何らかの仕方で個別に存在していることを表しているからである。人は個々ですでに存在と思考を知っている。そして両者を仲介するものを求めている。しかし、ほかならぬその時、人は神(Gottheit)のイデーを捉えなかった。すべての証明は、所与の認識をすでに前提としている。しかし、そこから神(Gott)の現存在が証明され得るような認識は与えられることができない。神(Gott)の現存在はあらゆる認識の源泉に他ならない。もし誰かが知のイデー、知の型を自分の中に持っているなら、たとえ彼が実在的知を承認しないとしても、彼は神(Gott)を自らの中に持たねばならない。実証はすべて維持不可能か、もしくは純粋なイデーを与えない。これが、すべての人に内在する最も純粋な知であり、それによってすべての知が形作られねばならない型である。私たちはすべての事物を神(Gott)において見る。私たちが概念形式の下で思考する限り、低次の概念はどれもより高次の概念の下にあることが可能である。そして神において見られるのである。したがってすべては神(Gottheit)の中にある。

[16]

思考には、もしそれが思考であるべきならば、存在が対応していなければならない。概念は、個々の表象の中へ下へと向かっていくことで終わる。上への終点は存在と概念の同一性である。そのすべてに存在が対応していなければならない。すなわち、最高の本質の存在であり、個々の事物の存在であり、自然の諸力の存在である。

ジャンルの存在は、ジャンルの下に包括されている個々の事物の存在に対していかなる関係にあるのだろうか?それは個々の事物の存在同士の関係とは違っているはずである。なぜならそうでなければ、ジャンルが個物と対等の位置に置かれることになってしまうから。したがって人は、個々の事物の場合と同じ方法で、「どこ」や「いつ」といった問いを問うことはできない。ジャンルの存在もまた事物の外にあるのではない。なぜなら、外にあることによって、人はジャンルの存在を、場所や時による差異の関係に定立することになるだろうから。その存在は、したがって事物の中に、事物と共に同時にあり、「いつ」と「どこ」を顧みるとき事物と同一である。しかし価値(Dignitaet)の点では一つではない。したがって、ジャンルの概念も個々の事物概念の外にあるのではなく、それの中に、それと共に同時にある。概念というものは、個々の事物の外で思考されるなら、空虚な見せかけの思考であり、知ではない。なぜなら、それは存在に対応していないからである。したがって私たちは、普遍を個からの分離において考えるのではなく、個の多様性が、普遍の中に共に定立されていると考えねばならない。絶対的な個は、最も低い概念に対して、無数のものとしての関係にあり、低次の概念は高次の概念に対して特定の数多性としての関係にある。したがって私たちが高次の概念において低次の概念を直観する場合、私たちはその原理を理解しなければならない。すなわち、なぜこれらの概念がその概念の下に構築され、他の概念は構築され得なかったのかということである。前者を私たちは、同一の図式を常に生産、再生産する生きた力と考えねばならない。つまり、絶対的に単調で無限に、(なぜなら、個において異なっているものを、人は別の状態に定立するのであって、力にではないから)。他方において私たちは、どの概念においても再び出てゆかねばならない。私たちは、種とジャンルとを、単により低次なものとの同一性においてのみならず、より高次なものとの同一性においても見なければならない。多くのほかの種やジャンルが、ある特定の体系において、それと対等な位置に置かれているか。なぜならある一つの種の存在は、より高次のジャンルの外部にはなく、その下にあるから。このことは、概念の純粋に完成された領域の下にあるすべてのものに妥当する。

したがって、個々の事物の思考が知であるべきなら、純粋に完成された概念がそれに対応することはできず、それ(純粋な完成された概念)は、個々の判断の無限の集合によって表象される。なぜなら、感覚のイデーからはそれらは理解されることはできないからで、個々の事物においても種の概念は共に考えられねばならないからである。そしてそれによってのみ、個々の事物の表象を概念形式の下にもたらすことが可能である。そうでなければ、それらは判断形式の下に落ちてしまうだろうから。個々の述語が関係付けられる主語は、概念自体の一般的な形式に過ぎなくなってしまう。(この対象において私は茶色に気付く)。したがって、個々の事物の表象によって種の表象に至ることはまったく不可能である。なぜなら、個々の事物は、概念形式の下以外に固定される所はなく、したがって抽象によって初めて求めたかのように申し立てたものは、すでに持っていたものに他ならないのである。そうでなければ一つの種に属する事物の関係の原理を人はどのように考えるべきだろうか?したがって私たちは、個々の事物によって概念を獲得するのではなく、私たちがそれら(個々の事物)についてすでにもっていなければならない概念によって個々の事物を表象できるに過ぎない。

(概念を超えて思考と存在の同一性の中へ行くものは何か?)

 

[17]

自然的側面に妥当することは、倫理的側面にも妥当する。例えば国家や家族は、差異の原理をも一緒に理解することによって、有機的力としてのみ考えることができる。したがって、知のこの型は、倫理学と自然学の全領域を包含する。知でない概念はありえないし、そこにおいて従属するものの全領域、対等の位置に置かれているものの全領域が与えられるようなものでない概念はありえない。ここでも[個々のものの]汲み尽くしがなされる。一般的なものの下のほうでは、一部はより低次の形式の特定の量の原理への洞察を通して、一部は絶えず産出する力としてのジャンルの観察を通して、その際同時に個々のものは多くのほかのものによる産物と見なされる。個物とその概念との関係は、不特定な数多性と統一性との関係と同じである。しかし、個の数多性においては何かが多少なりとも相違しており、この量的な差異もまた認識の完全性に属する。上から下まで知が完全に展開されれば、この知は汲み尽くされる。しかし、これは同時に与えられるのではなく、生成するものである。ある人々は、国家や哺乳類の一般概念を、その下にある諸概念を導出できず、その原理を理解していなくても、持っていると主張する。しかし、より高次の概念には、その明晰さが欠けているということも否定できない。そこで問題となるのは、低いものを高次の概念からまだ理解していないのに、どうしてそれを所有できるのかということである。個々の事物の中にある有機的機能なしに知は存在しないのだから、私たちは従属しているものを持たねばならないからである。私たちは低次の諸概念を、個々の事物の表象を持つようにして持つことができる。ここにアプリオリな知と経験的知との分かれ目がある。後者の中に私たちは座するのみならず、「これは私たちにとって単に現象として与えられているだけである」ということによって、同時に否定する。また上にある知は、分離されたアプリオリな知で、それは経験的な知に必要である。そしてそれ自体としては完全なものでは決してない。完成した知においては、アプリオリな知と経験的な知の分離はないが、しかし、それは二重の性格を持っている。そこには形式的なものと質料的なものとの完全な同一性が存在しなければならない。私たちは個々の事物の中へ、高次なものからの構築の結果を追求可能である限り、それは哲学的である。有機的なものを追求可能である限り、それは歴史的である。しかし、両者を分離することはできない。

このことから最高存在−そこにおいて概念と対象とは同一である−の思考に対して何が生じるのだろうか?最高存在の表象は、対立の止揚のゆえに、概念の本質にとってもはや十分ではない。私たちは絶対的存在について、一つの対象についてのように概念を持つことはできない。なぜならその場合概念が私たちの中にあることになるが、私たちは絶対的存在そのものではないからである。一般的事物は、常にそれに従属する事物と共に同時に思考される。すなわち、神の思考(das Denken Gottes)は、私たちが神(Gottheit)を、特別にそれ自体で、個々の特殊なものとして、他の事物の外部に考えるような場合には、何ものでもあり得ない。それは他のすべてのものに、他のすべてのものと共に、共通の基礎として与えられる。したがって絶対的存在は世界の外に定立されるべきかどうかという問いは空虚な問いである。私たちは他のすべての存在を条件付けるものとして以外に神(Gott)の直観を持つことはできないが、しかし、その直観は他のすべての存在によって条件付けられている。それに対して、神(Gottheit)は個々の事物とは何か別のものなのかと問うならば、それは問題ない。それはジャンルが個々の事物とは異なるように、別のものである。後者(個々の事物)は、変化するものであるが、前者(ジャンル、神)は、永遠なものである。すべて他の存在は神(Gott)なしに思考することはできない。それは他のすべての存在と知の最も内的な原理である。神(Gottheit)自身は、何か把握できないものであり、私たちはその概念を持つことはできない。概念には対象が対応しているが、神は他のすべての概念の源泉であり、すべて倫理的なものそして自然的なものは神において基礎付けられる。これは最高本質についての宗教的見解とも並行している。宗教的感覚(Empfindung)の中にあるのは、神(Gottheit)自身の純粋な感情だけではなく、同時にそれには自己意識が伴っている。それは、神(Gott)が把握し得ないものであるということ以外のことを言おうとしているのではない。概念と対象とは相互的なものだからである。理性に基づいて概念と対象の同一性は一つに定立される。それによって神(Gott)の概念もより完全に定立される。しかし、この同一性は絶対的ではない。なぜなら私たちは自分自身を完全に理解することはないので、神(Gottheit)の概念もまた私たちにおいて完全な概念ではなく、ただ相対的に完全であるに過ぎない。絶対者を一つの対象として表象し、ある種の述語を区別し、イデーを分析するというこれまでなされてきたすべての試みは、非常にしばしば矛盾に陥ったので、人はそれを繰り返し修正するか、それを何か個として定立することをやめねばならなかった。

[18]

このことは歴史においても証明されている。なぜなら、神(Gottheit)のイデーは、世界のイデーなしには決してありえないし、またその逆もいえる。一方が不完全なものであれば他方も不完全である。しかし思考はただ漸進的に完全なものとなってゆく。多くの領域にはなお幻想が支配しており、第1存在のイデーもまた神話的感覚的覆いを被されている。

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判断の本質はその形式に従えば、主語と述語が互いに対置されているということである。しかし質料に従えば、両者が異なっているということである。「AAである」はまったく空虚な判断である。「この木はこの木である」は、異なったモメントにおける主語の同一性以外の何ものでもなく、概念自体が定立されたのである。判断というものは「私はこの木を植える」という場合にのみ意味を持つ。先のような同一的判断は判断ではない。主語が個々の事物または従属している概念であり、述語がより高次のものである場合、この判断も質料によれば判断ではなく、概念の定立に過ぎない。なぜなら、ジャンルが共に定立されなければ、個々の事物の真の表象は存在しないからである。そのような判断が表明されるたびに言われていることは、単なる思考から知へ移行したということに過ぎない。どの程度言明があっても、それは意識自体についての言明であり、意識の出来事であって、対象についての言明ではない。そのような判断も概念自体の定立に過ぎない。述語が、その下に主語が属するようなより高次な概念の徴標(Merkmal)である場合も同じである。それは主語の中にすでに存在しているものの部分に過ぎず、それが取り出されて特に立てられたに過ぎない。これは分析判断であり、そこでは述語はすでに主語の中に含まれている。分析判断は、質料によれば判断ではなく、形式によって判断であるに過ぎない。そこには、すでに概念の中になかったものは、何も存在しない。

私たちが問題としている判断は、述語が主語と異なっている判断のみである。述語は主語と異なっているが、主語に添えられており、主語と、ある分離不可能な表象によって結合されている。これは単に断言的判断だけに妥当することではなく、判断の他の形式にも妥当する。そこに常にあるのは、述語は主語と異なったものではあるが、主語と必然的に結合したものとして定立されているということである。したがってそれは存在と非存在の同一性である。どの判断においても主語は固定的で本質的なものであり、述語は偶然的で過ぎ行くものである。それは全く同一のことを言っている。どの判断にも主語と述語という二重の存在がある。これは判断において一つになるが、主語の統一性に従属する。これは存在の共同性であり、判断には存在に共通なものが定立される。判断の根源的形式は、主語は名詞で、述語は動詞ということである。(例:この炎は黄色い=この炎は黄色い光線を生み出している)動詞は、純粋な状態を表現しているか、あるいは能動や受動という状態か、主語の行動や、受動を表現する。状態は常に過ぎ行くものであり、他者に場所を作り出さねばならない。行動するものとして判断は、そこにおいて行動がなされる他の判断を常に前提している。つまり、他者と共通の存在を形成する努力である。受動(das Leiden)は、主語とその受苦(Passion)の原因性の共同的存在である。事物の状態と他者とのその共同性は同一である。事物の本質によってはやって来ない何かが、他からそこにやって来ることが可能でなければならない。したがって判断においては、自己自身において基礎付けられた事物の存在が前提されるが、同時にその存在を共同性へと定立する。したがって、判断形式の下で知が可能であるべきならば、存在は単に自己自身において基礎付けられるのみならず、共同的な存在でなければならない。

判断の本来の領域は、個々の事物の領域である。一般的緒事物は、ただそれらが個々の事物の形式に関係する限りにおいて判断に関心を持つに過ぎない。なぜならより高次の概念はただ存在から導出されたものだけを包含し、概念から出ることなしにジャンルの全循環(Cyclus)を共に定立するからである。私たちは上位の概念を下位の諸概念を産出する力として直観する。したがって下位の諸概念は常に上位概念の中にある。一般的概念自体の中には、決して偶然的なものは定立されない。なぜなら多様な表現の可能性は繰り返し概念に属するからである。個々の事物には本質的に、本質的なものと偶然的なものとの同一性がある。しかし、高次なものだけが本質的なものである。

 

[19]

およそ高次なものが判断の形式に関与するのは、それが個々の存在の形式と関わる場合だけである。したがって判断は、通常経験的認識と呼ばれる認識の本体的形式である。概念の構築が上から下へと完成される以前には、種もジャンルもまだ個と見なされなければならない。すべて個々の獣のジャンルは、私たちがそれを概念の下に理解しない限りは、偶然的なもの、特殊なものとして現れる。そこからそのようなジャンルがまだ判断形式の下にあることも結果する。なぜなら統一点が欠如しているからである。そこから明らかになるのは、判断形式は、概念形式の単なる補足に過ぎないということであり、個々の事物は常に判断に属するにもかかわらず、人は少なくとも常に下っていくことができるということである。しかし概念は常に形式的要素を身に付けようと努める。そして、そこにおいてのみ完成される。有機的機能は、しかし、判断の形式を身に付けようと努め、そこにおいてのみ完成される。ところで、一般的なものにも有機的機能が存在すべきである。したがって判断も存在しなければならない。なぜならすべての概念は、その下に含まれているものとしての下位存在がそこで把握されることによってのみ完成されるからである。その下位存在は、判断形式の中だけにある。なぜならそれは決して固定的な存在を提供せず、常に変化する状態にあるから。しかし、知が可能なのはこのところからだけであるが、それは知がしっかりしたもの、概念に包摂されることによってである(この正反対が子供において明らかなように)。完全な知は、有機的なものと形式的なものとの同一性を定立する。しかし、卓越したものがどこにあるか、どこに無いかで異なっている。そして、それによって歴史的知となるか哲学的知となるかに分かれる。後者においては概念が支配的であり、前者においては判断が本質的形式である。なぜならその生には存在があり、移り変わる啓示を認識する行動性があるから。したがって判断の形式が概念の形式の中へと解消されることは決してあるべきではない。そうではなく、両者とも存在しつづける。一方は歴史的知の図式として、他方は哲学的知の図式として。高次の存在や低次の存在のみが概念の生き生きとした直観に属するわけではなく、他の残りの存在すべてとの共同もそれに属する。後者は判断により多く属する。両者は生き生きとした直観に属して一つとなる。私たちがある概念を把握するなら、そこには他の存在との共同が可能性としては存在する。例えば、愛と憎しみの原理は人間の概念に共に属する。しかし、個々の人間が愛したり憎んだりするものが属するわけではない。したがって、判断が表現するものは、二重の原理である。すなわち一部は事物の本質に、一部はそれを取り囲むものに基礎付けられる。この共同性は、一部は同一の概念の下に共同的にある他のものとの共同である。なぜなら、この事実はその根拠を行為する者や行為を受ける者に持ち、また、それはその根拠を人間の概念自体に持つと言えるからである。また一部は別のものとの共同である。例えば、人間の体に対する臭いの作用は、人間の概念からはもはや理解できない。なぜならそれについては、そこにおいて両者が再び従属しており、そこから両者が再び理解可能な普遍的なものにまで進まなければならないからである。しかし、すべてが人間の概念から予定されるわけではない。例えば、abを愛する。特定の場合は常に個々の予知の領域に属し、ただ判断の形式のみがこれに適用できる。この形式は最高存在には適用できない。なぜなら、そこには一時的なものは存在しないからである。すべて個々の存在は、この最高存在に自らの最終最高の根拠を持つのである限り、そこにおいて為す行為も受ける行為も把握されるべきである。その限りにおいて、神がすべてを為すということができる。

 

[20]

知が一部は判断の形式に属する場合、私たちはこの判断に対応する存在をも定立しなければならない。したがって確固とし堅固な存在のほかに、共同的存在、事物の相互共存的存在というものがあり、それによって事物は共同的な行動を産出する。第一に個々の特殊な事物。個々の事物の状態はすべて一つの存在である。事物は主語として、行動は述語として定立されて、ここにおいてすでに、行動は主語に従属し、(その可能性に従えば)主語に部分的に含まれるということが示されている。個々の事物の存在は、これらの行動の絶え間ない変化を含むようなものとして私たちに与えられている。一部は等しく、一部は等しくない事物の共存が、それら(事物)を一つにするために定立されるが、人は種よりも高く上らねばならない。ここにはさらに存在の共同があり、この共同には終わりがない。それは一貫した交互作用であって、およそ分離や例外はない。個々の事物によって最も多く述語が付加され得ねばならない。そして、それらの存在は、判断の無限の多様性を通してのみ、すなわち残りのすべての事物との共存を通してのみ把握されなければならない。私たちは個々の事物の状態や変化の中に、存在する他のすべての事物の痕跡を見出さねばならない。このことを論理学では、どの事物もあらゆる側に向かって完全に規定されていると表現するのが常である。すべての述語は、本来二つの特殊な存在に還元されねばならない。しかし、唯一のより高次なものに(還元されねばならない)。そこにおいては、もはや対立は存在しない。例えば、服従する者と命令する者とは対立する。しかし、この対立は国家というイデーにおいては破棄される。このイデーは双方において異なった仕方で定立されている。すなわち一方では自発的な力として、他方においては受動的な力として。国家というイデーは、この行動を産出する力として、二つの側面に分割されるのである。そこで私は、一般的な自然力から、有機的本質と無機的本質の作用をそれらの統一性において見る。それは後者をも産出するが、しかし個々の行動は、その個々の形式に最も近い根拠を持つ。最高の対立は概念と対象の間の対立であり、したがって人は、すべての行動を絶対者の行動と見なさねばならない。この行為を生産的にこの対立に分解するものと見なさねばならない。自らの下における個々の事物すべての絶対的共存と、すべてにおける絶対者の存在とは純粋に一つであり、同一である。なぜなら一方において自らの下における事物の交互作用は、他方において、最高かつ絶対的統一における緒事物の一なる存在だからである。判断形式における知は、一方では、絶対的共同性による特殊で個々の現存在の止揚であり、それは個としてただこの共存の中にあるということによってである。それ自体の存在はより高次の概念に基礎付けられるのだから。他方において(判断形式における知は)、より高次なものが対立へと分解することである。なぜならすべて個々の行動は、二つの相対的に対立する要素から生じ、その対立は特殊な存在を形成することはなく、ただ特殊な行動の形式を形成するだけだからである。したがって私たちは、最高存在が、多くの形式、ジャンルや種に形作られるのを見る。それらは、(一方で)概念の体系において、他方で判断の体系において表現される行動の多様性の下で、あらゆる対立を前提としている。概念が表しているのは、行動の形式の下にある流動的で変化する存在である。両者の生き生きとした結合による以外に学問は不可能である。概念は認識に対して骨組みを与える。概念は堅固なものを教えるが、生を伴ってはいない。判断の形式は、行動を与えるが、行動が関係させられるもの、すなわち概念を伴っていない。知は両者の中にのみある。概念はより低いものからより高次なものへとまとめることによって構築される。判断は、一なるものとして定立されたものを二重の要素に分解することによって構成される。すなわち対立するものの結合である。これが知の形式を形成する。人は一方において、上から下へと下っていき、他方において、要素の対立へと下っていく。それによって最後には全体がまとめられ、包摂される。

 

[21]

他動詞的な行動はすべて共同性を前提としている。しかし、自動詞的な行動においてはそうでないように見える。例えば、「その木は花盛りである」は、単にその木においてあることのように見える。しかし、他動詞的なものは、可能性として概念の中に含まれている。「その木が花盛りである」ということは「その木が今花盛りである」という概念の中にあり、その根拠が他者存在の中に含まれているものを、時間規定が含んでいる。このことはすべてに適用され得る。したがって、活動性はすべて二重の要素を持っている。

誰もが普遍において、個々のすべての事物の現存在に対する自分の特定の影響力を持っている。私たちが個々の人間存在をその概念においてどのように理解しているかを見ることによって、私たちはその概念にすべてのより高次の存在を一緒に見ている。その場合しかしすべての存在は互いに浸透しあって(in einander)いる。判断においては、私たちは最も特殊な存在から一般的存在、そして最も高次な存在に至るまでの行動を見る。しかし、その場合には相互に浸透し合う状態ではなく、相互に離れ離れの状態(aus einander)で、時間と空間の条件が包含されている。その様々な行動における個々の事物も、あたかも私たちが、最も低いものから最も高いものまでのすべての行動を把握するかのようにして理解されるべきではない。事物の完全な認識は、両方の側面において絶対者における認識に他ならない。

概念の側面からは、最後の対立は概念と対象の対立であり、私たちが安息を見出すのはその両者の同一性においてのみである。判断における最後の対立は、安定したものとしての存在と、流動的なものとしての活動性の間の対立である。最高の存在が、すべてより低い判断の根拠であるべきならば、私たちは存在と行為の同一性においてのみ安息を見出す。したがって私たちは最高存在に対して二つの表現を持つ。概念と対象の同一性と存在と行為の同一性である。両者はなぜ同じものでなければならないのか?なぜなら、概念と判断の対立は相対的な対立だからである。両者は相互浸透(in einander)しながら進行し、互いに依存しあっている。したがって、私たちが最高存在にまで登りつめれば、対立は残存し得ない。(最高存在は)両者の同一性を含んでいなければならない。

概念と対象との対立は、内的なものと外的なものとの対立として現れる。存在と行為との対立は、本質的なものと偶然的なものとの対立として現れる。したがって最高存在とは、そこにおいて内的なものと外的なものとの対立と本質的なものと偶然的なものとの対立が止揚されるような存在である。

すべて個々の事物は、一般的存在と関係しており、その下に捉えられている。また行動にも関係しており、それは個々の事物における流動的なものを形作る。これらの関係はどうなっているのか?より高次の存在はより低次の存在の中に完全に含まれている。それはより高次の存在が、より低次の存在によって汲み尽くされているということではなく、より高次の存在が、より低次の存在の中に完全に現れるということである。しかし、その行動は事物の中に完全にはなく、一部だけである。存在に関しても概念に関してもそうである。このことは次のことに対応している。すなわち、個々のものには、その中にあるものとしてすべてより高次の存在が与えられているが、行動は、その外にあるものとして与えられているということである。個々の事物は現存在の側から見るならば、そのジャンル概念には現れない。そうではなく、別のものが、すなわちそれによって個々の事物が特殊な存在になるところのものが求められなければならない。それはすなわちすべての活動の共存である。個々の事物は、その落ち着いた現存在において見るならば、この特殊な形式において定立された活動の共存である。一本の植物の中に人は、そこに統一され得るあらゆる行動を一緒に見出す。それはこの存続している現存在の形式の下にあるすべての行動の総体である。ある特殊な活動の状態において見られた事物は、特殊な事物あるいは一般的事物だけで活動的なのではなく、全事物が活動的なのである。しかし、この活動の中にある事物は、この活動のポテンツの下にある。例えば、動物化(Animalisation)で、その他のものは従属し、退くが、他のものにおいては、すべてが植生の前に退く等々。両者の形式は互いに突き出している。個々の事物は、この概念形式の下にあって、あらゆる可能な行動の共存である。または、現存在の形式も、これらあらゆる諸活動のポテンツの下に定立されて、その現存在を満たす。

したがって主語と述語といずれがより高次な存在かと問うならば、一方ではいくつかの述語が高次であるように見える。他方では、それは人が両方の要素を知っている場合に理解されるだけであり、より高次な存在は、両者に分割される。したがって、述語はそれがより高次な存在に関係させられる限り理解できるのである。いずれがより高次か、存在自体か行為自体か問うとしても、絶対者においてはこの対立は消滅するのであり、主語と述語の同一性が現れるのである。

 

[22]

概念も個々の事物の中に含まれるのではなく、個々の事物が概念の一部に過ぎないということができる。しかし、生きた力としてはそうではない。私たちはただ種の表象が個々の事物の表象に対してどのような関係にあるかを語っているに過ぎない。判断においては主語と述語の概念は互いにまったく分離しており、ただここではじめて結合する。人が原因について気にかける場合、存在−それをも流動的なものと見なす限り−のことを気にかけはしない。そうではなく流動的なものを、何か堅固なものとして気にかけるのである。もし人が原因として統一を、特定の存在を持つことを欲するなら、それは何か不可能なものとなる。しかし人は、主語自体の中に行動の根拠付けられた存在を前提する。そして原因のことを気にかけることによって、人は他の要因を気にかけるのである。しかしそもそも原因への問いには、知を与える二つの答えが可能である。元来変化の原因は常に第二の要因―例えば有機体における薬―の活動に過ぎない。そしてそれから人は最初の本来的な知を持つのである。人が単なる薬の存在を告げる場合にはそうではないが。なぜなら、そこには別の多くのものも存在しているから。第二の答えは、人がすべて他の存在の全体性を述べる場合である。なぜなら第二の要因の活動は、その他の存在との共存によって他の活動を規定するからである。しかしばかげたこと、根本存在として活動の根拠を含んでいるもの、その結果そこからそれが理解されるべきものは、そこには現れない。人は絶対者のみを原因と呼ぶことができる。絶対者は最高存在であり、そこから人はあらゆる事実を理解できるのであるから。すべての生を理解する為に、私たちは常に全体と根源的なものに戻らなければならない。古代の哲学においては、生産という術語が用いられたが、それは二つの要因に還元され、そこから生産物が出てこなければならなかった。性の関係(Geschlechtsverhaeltniss)は言うなればあらゆる行動の産出の図式である。原因への問いはこのとき存在への問いと見なすことが可能である。そこにおいてこの行動は最終的根拠を持つ。

私たちはここで知の側から出発し、知に存在を対置させねばならない。そして、思考の二つの形式に存在の二つの種類を対置しなければならない。すなわち堅固な存在と流動的存在である。前者は事物の確固たる形式を、後者は事物の共存を表現している。前もって分かっていたことは、概念は判断なしには不可能だし、その逆もいえるということ、また、すべての生き生きとした認識は両者の同一性でなければならないということである。それは存在の側でもそうあらねばならない。堅固なものと変化するものは、相互的に考えることが可能でなければならない。これもまた相対的対立に過ぎない。堅固なものはそれ自体の存在(Fuersichseyn)を表現し、流動的なものはそれを止揚して、共存在を定立する。共存在がなければ自体存在も生じない。生においてここで存在の一般的統一が定立され、それによって、変化は現象となる。他方、現象は、事物が特定の形式自体の中にあることによって、部分的に止揚される。どの見方もそれ自体では一面的である。すべての真実な存在は消滅するか、混沌になる。単に流動的なだけ、あるいは単に堅固なだけの存在はない。そこには絶対的対立はない。有限存在は、この相対的対立の中にあるので、そこに存在し、最高存在において把握されるのみである。最高存在においては、存在と行為、堅固なものと生との同一性がある。

人は通常思考の第三の形式である推論を受け入れる。私たちは、これが自立した知の形式であることを拒否した。このことは、これに対応する存在の形式がないことによって確証される。三段論法とは、ある一つの知を他の知から導出すること、そして、他の知へと進んでいくことの関係である。この導出自体は何か従属したものであり、最高存在は導出なしにすでにそこにあるのでなければならない。三段論法の結果は常に一つの判断であり、一つの事実である。その中心にあるのは、分析的判断、すなわち一つの概念に過ぎない。したがって三段論法とは、ある事実の認識から他の認識へと、この概念を通して移行することに他ならない。したがって、行動の進展が、概念の進展へ固定化され得るということに過ぎない。したがって、存在の二つの形式の共存が、それに対応できるに過ぎない。この対立を相対的対立として定立するなら、これは新しいものでも固有なものでもない。したがって、三段論法によっては、何かが発見されるということは決してない。それは、一つの判断が形成されたのと同じであり、種の対立に過ぎない。述語が主語に対して定立される種類や方法は、それによって正当化される。せいぜい犯された誤謬がそこに発見され得るくらいで、そういう意味では、三段論法は力強い役立つ手段ではあるが、構築の手段である。なぜならそれは、誰かが概念形成の正しい体系の中に、また流動的なものの観察の正しい体系の中にあるということに基づくからである。その場合誤った主語や述語を彼が受け取ることは容易になくなるだろう。しかし、両者は三段論法に基づくのではない。三段論法は導きの手段に過ぎない。

 

[23]

私たちは哲学と実在的諸学問とを対置する。哲学は実在的なものを超えた超越的なものと形式的なもの、知を含む。実在的学問は、自然的領域と倫理的領域という二つの領域に分かれると私たちは考える。一方は、自然そのものについての知であり、他方は理性についての知―理性が自然においても活動的なものとして見出される限り―である。前者(自然学)の目指すところも、自然における理性についての知以外ではあり得ない。自然は、理性を度外視すれば、対象の全体性であり、理性は概念の全体性である。自然についての知は、対象と概念の同一性の知でもある。なぜなら、理性がなければ自然は不完全だからである。理性の知も同様である。なぜなら、そこには理性が自然を完全に貫いているということが含まれているからである。したがって、両者は対象の二重の同一性を表現している。なぜなら、一方においては、存在が典型(Vorbild)で、概念はその写し(Abbild)、他方においてはその逆だからである。各々は一面性を有しており、それは他方によって補われるが、消滅させられることはない。したがって、それを越える超越的なものを求めるということは、必然的な傾向である。この超越的なものを私たちは、根本存在のイデー、神(Gottheit)のイデーに見出したが、そこには、概念と対象の同一性という根源性、あらゆる生、活動の根源性が定立される。

私たちはここで知についてその形式を求めている。それによって客観的な思考は正しい知になるのである。なぜならある思考は知として現れるが、そうでない場合もあり、そしてその適用において人はしばしば誤謬を犯すからである。この感情の欺きに対して、私たちは確固とした原理によって確かにされねばならない。形式的なものを私たちも見出すが、それは私たちが思考の二つの図式に目を注ぐことによってである。そして、概念の基礎はすべて、最高概念の中に、判断の基礎はすべてあらゆる存在の最高の共同性の中にある―両者はここでも等しいのだが―を見出す。

したがって私たちは、超越的なものを、形式的なものの原理として同時に見出す。

判断と概念を基礎付けるものとして、私たちは根本存在の概念を見出したということができる。しかし、概念と存在とはそこにおいて純粋に一つであり同一である。概念と存在の間の一致は、最高存在において絶対的同一性以外のものではあり得ない。したがって根源的存在は個々の事物の類比によって考えることは決してできない。もしそう考えれば概念に存在は対立する結果になってしまう。最高存在の思考は、演繹された思考と共にある以外には存在しないし、また生の思考も、一者に属する分裂したものと共にある以外には存在しない。ここにあるのは、1)最高存在のイデーは、私たちにとってその現実性によっては決して完成しない課題であるということ。私たちがそれを神において持っているということは、あらゆる理解の本質であるが、私たちは、形式的なものと有機的なものとの同一性をも作り出さねばならない。そして、それは個々の事物の中にはない。あらゆる個々の認識の全体性においてのみ、私たちは有機的機能と形式的要素との純粋な同一性を持つ。最高の完成において私たちは決してそこへは到達できない。したがって私たちは常に最高の知の形成に携わらねばならず、それは終わることがない。

どのようにして私たちは全体性の知へと至ることができるのか?1)単に認識を他の認識に付加し集めることによっては、目的に達することはない。また、それによっては、最高存在の直観に関してさらに進むことはできない。2)私たちが有限者についての認識を[空白]においてまとめ、全体性の表象に達しようと求めることによって。実在的なものと共に、体系的なもの、全体性にしたがって企てられるもの以外に、真の個別知は存在しない。

根源的本質(Urwesen)についての他の知は存在しない。最高本質についての完全な見解に達するためには、実在的学問に専念する以外の道は存在しない。これができない人のために感情における代用品が存在する。これがなければ、他の道は存在できず、容易に個々のものへそらされてしまう。超越的な知においては、最高存在について、真の直観を伴わない形象(Bild)によって貶められるか、宗教と学問の混合によって貶められたもの以外産み出されない。

立てられたものの中に存する第二のものは以下のことである。すなわち、生成はすべて存在と非存在との同一性であるということ。したがって、最高本質の概念は私たちの中になければならず、そこでは概念と存在とが同一であるから、最高存在自体もそこにある。しかし、絶対的存在を含んでいないような存在は存在しない。神(Gott)なしにあるいは神の外部には何も存在しない。私たちに最高本質の概念を産出する能力がある限り、私たちは理性であり、また絶対的存在を構成している諸要因の一つにおいて絶対的存在そのものである。それによって根源的存在は私たちの中に直接現れる。すべてより高次の概念が個々の存在の抽象であるなら、最高本質は最後の存在であり、有機的機能自体に依存している。したがって私たちは最高本質の概念形成において直接的に獣(das Thier)である。しかし、最高存在の形象が私たちの中にあることによって、私たちは最高存在に最も近い存在であり、それは私たちにおいて最も根源的なものであり、そこに私たちの存在の最高のポテンツが定立されている。私たちは直接的に最高本質自体の写し(Abbild)なのである。下位の存在は有機的なものに依存している。このことは、思考と知を私たちに固有な行動と見なすよう導く。

 

[24]

私たちが見出したものを他と比較するという課題が生じる。私たちが主張するところによれば、単に何かを知っていると称する人だけではなく、一般にある客観的方向性を持って思考する人は、何らかの仕方で最高存在のイデーを持たねばならない。神(Gottheit)を拒否する思考体系はすべてこれに反対する。私たちがさらに語ったところによれば、最高存在のイデーは、実在的知と共に持つ以外には不可能であった。というのは、それはあらゆる他の存在の基礎だからであり、またそれは生き生きとした直観において、ただ全体と共にあることのみ可能だからである。私たちは、私たちの思考操作すべての根底にある前提、思考と存在の同一性から出発する。この前提を私たちは、絶対者に定立された両者の同一性から導出する。人が世界を持つことを望んでも、神(Gott)は望まないということは、以上のこととどのように折り合うのだろうか。その場合、思考と存在の同一性は、世界の中になければならないが、それは根源的なものが根底にある度合によるのではなく、概念と対象が有限者の完成に属するからである。しかし、世界において私たちはそれらを、理性的本質自体の外では分離されたものとしてしか見出せない。その共存は、ただ個別断片的に、不完全に把握されるに過ぎない。人は理性をある場合には経験において現れるものと見なすことができる。というのは、対象と概念の同一性は常に生成する何かであり、経験にこの同一性が現れることはないからである。またある場合には、人は理性をその全体性において根源的に共に与えられているもとの見なす。そこには認識全体が存するが、それはしかし、個においてはただ断片的に現れるに過ぎない。理性は、私たちが根源的なものに関して、概念の側から把握したものと同一だからである。したがって、人は同一性をまったく定立しないか、あるいは、それが理性において与えられているようにではなく、常に根底に置かれねばならないもののように定立するかのいずれかである。かくして人は存在の側からも、もはや個々に与えられたものにではなく、根源的に定立されねばならないものに至るのである。

絶対者の完全な否定が生じるのは、人が、思考と存在の同一性の発見を完全に放棄するときである。思考はその時、存在が真の存在であるのに対し、純粋に偶然的な思考となる。その場合には、知を構築するのも不可能になり、それゆえに、思考を継続する実践的目的に[達すること]も不可能になる。

別の観点は、世界は神なしには考えられないが、神は世界なしに考えられるということから出発する。したがって世界は、時間において開始され、それゆえに偶然的なものである。このことが定立するのは、対象は神において後から概念へとやって来るということであり、魂は、概念に基礎付けられるのではなく、後からやって来たもの、二次的存在である。ここには常に、いったい対象はどのようにして概念になったのかという根拠が欠如している。概念が最初に存在しているような所ではすべて、その理由が問われる。二次的なものがやって来ることにより、神には何も定立されないのか、そして、その場合、その二次的なものは神に基礎付けられないか、あるいは、二次的なものが定立され、神の中に何か二次的なもの、創造以前の不完全なものがあるかのいずれかである。

第一の観点は、それが世界を永遠なものとして定立することで私たちと一致する。ただそれは、現象の根底にある超越的なものを隠蔽する。その観点が概念と対象の新たな同一性を確立せず、前者を後者に対して二次的なものとして従属させる限り、私たちとは異なっている。第二の観点は、根源的なものの同一性を前提とするが、対象を概念に従属させ、実在的存在を把握できないことによって、これもまた対象と存在[概念?]の同一性を成立させない。両者共に、同一性を顧みないことによって、不完全である。第一の観点は唯物論の形式を、第二の観点は唯心論の形式を取る。前者は、二次的な知力(Intelligenz)の前に、存在のみを働かせ、後者はその逆である。

もし人が、存在と概念の同一性、行為と存在の同一性を根底に置かないならば、思考と知もまた別の仕方で説明されねばならない。私たちに知が把握されるということは、様々な事物における特定の存在として現れるものと、私たちの中に特定の概念として現れるものとが、根源的本質との関連において同一であると私たちが言うことによる。しかし、そのような同一性がそこになければ、その知を把握するようにすることもできず、したがって人は別の説明を求めなければならない。人は存在を思考に従属させるか、思考を存在に従属させるか、あるいは両者を結合するかしなければならない。

私たちのもとでは、すべての思考の形式は、等しい関係に置かれていた。ここではそれは従属関係、すなわち因果関係でなければならない。したがって、純粋な共存の関係―そこでは、一方が他方に依存するのではなく、両者が根底にあるものに共同的に依存している―の代わりに、因果関係が支配的になる。質料は思考から切り離された存在であり(私たちによればこのようなことはまったく不可能である。なぜならどの存在の中にも思考と存在の同一性がなければならないのだから)、思考は質料の単なる現象として現れ、私たちはそれをそのようなものとして説明する。知の保証は、ここでは空虚なもの、不明瞭な感情に過ぎなくなるが、それはそもそも(知の)仮定に矛盾する。対象が汲み尽くされるような思考の浸透が、それによっていかにして可能なのかが分からない。したがって、この保証の為には、常にすべてのものの一致が要求される。思考は存在の写しであるということは、常に空虚で不確かであり続ける。

 

[25]

最高存在のイデーは、それが思考されるところではどこでも存在しなければならない。しかしそれは、思考はされる場合でも、時折否定されるか、あるいは現われない。そのような場合、それは隠れ潜んでいるか、中断された思考プロセスである。時間における創造という考えにおいて、神の思想は、形式には従うが、質料には従わない。なぜなら前者〔形式には従うこと〕は、一面的に知的なものの形式の下に思考され、客観的存在は後退するからである。これに対して、後者〔質料に従うこと〕の原型は世界がそこから成立したところの根源的カオスである。ここにも形式に従った根源的なものが存在するが、客観的存在としてであり、理性的なものは従属させられて現れる。同様の理由から、発展、特に理性の発展も直観され得ない。ここでは純粋な質料の形式において、絶対的なものが現れる。なぜなら、このカオスは、すべての質料的存在の混乱した基体(Substrat)に他ならないからである。これは世界にはほとんど与えられていない。すなわち、私たちは純粋な知力と同様純粋な質料を見出すこともほとんどない。したがって、知を対象と概念の同一性において説明することは一つの不可能性である。

一方の意見は、根源的なものとして、知力としての最高本質を定立し、他の意見では、質料が定立される。両者は時間においてはじめて一つになる。ここにあるイデーは絶対者だが、質料に従ってであって、形式に従ってではない。なぜなら、それは根源的二重性として定立されるからである。そして両者それぞれが、お互いなしにどうして存在できるのか答えられない。この観点のみが、知を容易に説明できる。なぜなら、それは後に、知力による質料の浸透を定立するからである。原理が何か二次的なものとして現れるのは過ちである。

これに対して、純粋な同一性のイデー、世界のイデーは、永遠によって対立している。ここにおいて知の基礎は質料の後に置かれる。しかし絶対者の形式も欠如している。なぜなら、世界における知力と存在の同一性は、全体性なしには、常に相対的同一性に過ぎないからである。尊厳に従えば、絶対者のイデーは欠如している。

ここにはいたるところ絶対者のイデーの要素があるが、分散しており、それゆえ、どれも必然的な不完全性がある。

私たちは、思考と存在の一致を、存在と知力の根源的同一性から説明した。そこにおいて、根源的に存在が優勢であるものと、知が優勢であるものとが、再び出会わねばならない。他の人々はどのように存在と知の出会いを説明するか?

もし人がカオス概念を仮定するならば、思考は質料とその現象との結果であるように思われる。したがって人は、思考を現象として説明できる。しかし、対象との必然的な一致はどのように説明できるのだろうか。存在の他の現象は、そのような対立する形象を提供しないのだから。人は考えを形象として提供することによって、すでに形象的(bildlich)に語っている。早晩それは対象とは別の何かになるが、対象が、自分自身とは別の何かにどのようにしてなるべきなのか?私たちの知が客観的なものに基礎付けられているということに真実なものはあるのだが、それは、理性と、それ以外の質料によって動かされた身体の共存の結果である。しかし、質料は有機的機能のみを作り、しかも、それはまだ純粋な質料ではなく、概念の同一性を伴っている。しかし、人は形式を有機的機能に対して思考において提示することは決してできないだろう。

先の客観性が、概念に対する述語、働きとして現れたのに対し、対立する見解において、客観性は概念によってもたらされたものとして現れる。しかし、次のことを説明するのは同じくらい困難である。すなわち、質料がどのようにしていつか客観的なものになるのか。したがって、客観的存在、質料的存在を、概念に無縁な存在としてではなく、概念の単なる現象と見なす傾向がどのようにして成立するのか(を説明することは困難である)。前者が唯物的であるのに対し、後者は観念論的である。次のようなライプニッツ的主張もこれに属する。すなわち、質料はすべて、精神の滴り以外の何ものでもない。客観的なものはすべて仮象に過ぎず、それ自体には何もなく、ただ概念を通して、概念に対して存在する。またここに以下のことの真実もある。すなわち、客観的存在として、ある種の形式において現れるものはすべて、概念と対象の同一性をすでに提供しているということ。人はただ次のように言うべきである。概念と対象の同一性以外そこには何もないと。概念の体系、知力の本質を形作る確固たる形式の体系は、そのように説明できる。しかし、有機的機能がどのように現れるのか、それは十分には説明できない。何か確かなものがどのようにして出てくるべきかが直観され得ないところでは、すべては否定的な結果に終わる。

この感情において、両者を結合するという観点が考えられる。すなわち、概念と対象は相互に因果関係にあるという。一方では、思考はすべて質料に依存している。しかし、絶対者の知が再びそこにはあり、再び定立される。質料自体は今度は無限の思考に依存している。これは、もし人が同一性を再び立てなければ、説明困難な混合である。

形式:人が存在と呼ぶところのものは、本来は存在ではなく、概念の再現に過ぎない。人は概念に対立する存在として現存在を否定する。それに対して、絶対者の内在するイデーが再び存在する。そして、そこに定立されるのは現存在。私たちが対置するものは無である。しかし、根源的存在があり、それに私たちの思考は再び依存する。しかしこれはそもそも弁証法的に把握することはできないし、知の表現とも認められない。なぜなら、現象的存在に対する根源的存在の関係を問うならば、現象的存在は、それが概念からまったく分離されて定立される限り、見せ掛けに過ぎないからである。

したがってイデーはどこにおいても欠如していない。意識のポテンツにおいて常に現存しているわけではないにもかかわらず。首尾一貫して一面性にとどまってみよ。そうすれば懐疑主義が結果として生じる。

 

[26]

超越的なものそれ自体は、現存在の基礎であるのみならず、思考と知の基礎でもある。

これまで私たちは知を観察してきた、それも実在的な知ではなく、その概念を見てきた。ここから私たちは根源的なもののイデーを見出した。したがって私たちはこのイデーをすべての思考と存在に持たせてやるように考えねばならない。

思考が作用の概念のもとに理解されねばならないことは明らかである。なぜならそれは、この存在において変化するものだからである。どのようにして思考は作用として成立するのか?作用はすべて、個物のみを表現するのではなく、二つのものの共存を表現する。考えはすべて、私たちの存在(Wesen)だけを表現するのではなく、私たちの外部に与えられた存在と私たちとの共存を表現している。これは、対象において、他ならぬ概念を表している。すべての思考の中には、形式的なものと有機的なものとが定立されている。前者は私たちの思考の内的なものを、後者は外的なものを表している。前者は主語に相応しく、後者は客体に相応しいと言えるだろうか?私たちは通常自分とすべての外的存在との間に絶対的分離を立てる。しかし、それは思弁から見れば絶対的分離ではありえない。なぜなら私たちの存在自体が、他者との共存によって可能だからである。私たちは先の両者を同様に分離して観察できるのか?両者はまったく分離され得ないということが分からねばならない。

私たちが有機的機能を考えるのは形式的なものとの結合においてである。そして最も普遍的諸概念は有機的なものに戻るのでなければならない。同様に、私たちの存在と私たちの外部の存在との分離は絶対的な分離ではありえない。有機的機能は外的存在によって作られると言うことはできず、有機的機能の可能性が私たちの中に定立されることによって、外的存在は、その都度現在的なものの原因である。所与の思考または個々の事物の表象は、その種概念そのものではないが、その概念はそこに包含されている。種概念の中に含まれ、しかも個々の事物に属するものは、特に有機的機能によって表されるものである。したがって正にそれは、私たちのところに大部分外部からやって来るが、概念や図式自体は、主に内部から来る。有機的機能から成り立っている判断の果てしない定立から概念が成り立っていると見なすことは不可能である。なぜなら他ならぬそこにおいて、すでに概念を産出する方向性が優勢だからである。したがって、私たちが所与の思考における形式的要素をどのように有機的要素にもたらすのか、それに従って対象の存在は表現される。対象に対する概念の関係と対象の機能、有機的なものに対する概念の機能、形式的なものの関係と同じである。

ある状態や活動は、そこにおいて二つの分離された要因が一つであるところの、より高次の統一に戻るとき初めて完全に理解される。それはここでは概念と対象であり、その同一性は絶対者の中にある。したがって、絶対者の原初的同一性によってのみ、私たちは知における二次的な同一性を理解できる。

どの概念にも上昇と下降の全系列が定立されている。全系列の完全な存在がなければ、系列は固定化されることはできない。同様に、存在の体系がなければ、存在は固定化されない。あらゆる分離に先立って定立された絶対的同一性において、思考の真理は説明されねばならない。作用としての知は次のことを通して理解される。すなわち理性の中にすべての存在の総体が概念形式のもとで存在し、また思考者の外にある全体的存在の中に、すべての概念の総体が存在形式のもとで存在しているということである。両者は相互に本質的に対応している。すべての作用は次のようなことの中に存在している。すなわち、その存在に従って分離されたものは、一時的に統一され、(共存を表現する。)私たちが概念や認識、存在として定立する側面はいたるところで分離されず、すべての現実的な思考においてそれらは一時的に再び一つになる。すべての思考において私たちは思考される対象と端的に一つとなり、その一つである存在は、原初的存在から説明される。両者の分離は誤ったものである。なぜなら、この分離は相対的なものに過ぎないから。しかし、統一は真実であり、したがって、思考の作用はこの統一に対応していなければならず、思い込みに過ぎない分離に対応するのではない。しかし私たちは非知をも把握しなければならない。もし私たちが存在を、この形式における絶対者の絶対的な汲み尽くしと見なし、全体性における思考を、この形式における汲み尽くしと見なすならば、私たちが把握できるのは知だけである。非知は別の形式によってのみ理解できる。非知とは、私たち自身が思考の作用において直観する相対的分離に過ぎない。思考の作用によって思考と存在の対立は止揚される。ところで概念とは、それ自体で存在し、客体に対立しているものなのだろうか?そのような分離は決してあり得ない。なぜなら私たちは自ら思考可能であることによって、一つの存在の上にあるのだから。存在と概念自体の間には絶対的分離はない。しかし、絶対者は私たちに対して、概念がその本質を形作っているような存在に分解される。そしてそのような存在においては、概念が後退し、客体が前面に出る。両者は純粋に分けられるのではなく、思考が同時に存在であるから、その思考は純粋な知でなければならない。たとえ概念の作用が支配的であったとしても。それは個々の事物の機能であり、そして、この個々の事物が自らを明かすとしても、それは概念における絶対者の純粋な表現ではあり得ない。

 

[27]

私たちはいまや再び、形式的なものが優勢な部分に向かう。それは、私たちに現れる個々のものすべてから、超越的なものの助けによって、人がどのように知を成立させるべきかを見るためである。

したがって、今や私たちは実在的なもの、すなわち倫理的なものと自然的なものとをそこに持っているところのものに向かうが、それを構築するというのではない。形式的部分において私たちはそのようなことはできない。これを取り戻すことなしに私たちは超越論的領域を去ることができないようなものである。にもかかわらず、これはまだ完全には生じることができない。私たちは至るところで絶対者を、最高概念また最高存在―それによって他のすべての従属的存在はより詳しい規定であるが―として定立したことによって、これ(絶対者)は、私たちにこれら従属する諸規定の総体として現れねばならない。

私たちが絶対者において見出したものは、存在と対象、行為と存在の同一性であった。このところに私たちはすでに個物から至った。絶対者において同一的に定立されたものは、個物においては単に相対的対立においてあり得るに過ぎない。そうでなければ、有限者はまったく絶対者から分離されねばならないだろうから。そしてこれは対立ではない。対立のもとにあるものはすべて、私の前では相対的対立の中にあり、絶対的対立ではない。

判断形式のもとに私たちは存在と行為、安定したものと不安定なものとの対立を持っていた。しかし一方は存在であり、他方は行為であると言うことは決してできない。行為はまったく固定されなくなってしまうし、存在は有機的機能を伴わず、したがって正式な知ではなくなってしまう。両者が有限者に密着している限り、それは私たちにとって客体になり得る。ある時は一方が優勢になり、ある時は他方が優勢になるということはもちろん起こり得るが、分離されることはあり得ない。

したがって、私たちは対象と概念をも分離することは許されない。対象だけでは質料の神話的概念であり、(概念だけでは)知力の概念である。

概念の形式的機能が呼び出すことのできるものが質料には欠如している。したがって有限者は、一方において概念がそこにおいて本来的本質を構成する存在であり、他方において、概念は後退し、概念の外部で優勢に思考されるような存在である。比較的優勢に概念のポテンツのもとにあるようなものは、観念的なものであり、もう一方は実在的なものである。両者は、作用の形式の下に思考されて、倫理的なものと自然的なものにおいて成立する。倫理的とは、そこにおいて概念が第一で根源的である。実在は先ず概念から生じる。自然的なものはその逆である。私たちは対象についての私たちの知を、対象の写しとして把握する。倫理的なものについての私たちの知は、そこにおいて概念が原像であるようなものとして把握され、実在、客体は第二のものとして叙述される。これは存在の先の作用と関連している。概念が後退するところで、概念が入ってくるべきであるなら、概念の表現が生じるが、これは概念に由来しなければならない。そしてそれ自身は受け入れられるものとして現れる。しかし、概念がその本質を形作るところの存在は、客観的なものが入ってくるべきであるなら、これは客観的なものを通してのみ来ることができる。そして知にあるものは、客観的なものの結果として現れる。したがってここにあるのは、二重の実在的相対的存在であり、それは二重の実在的知と対応している。

実在的存在が作用としての思考に対応するべきなら、私たちは概念の領域に立っている。しかし、思考は共同的な作用である。したがって両者の上に共通なもの、両者の同一性が存在しなければならない。しかしそれは根源的なものそのものではない。なぜならそれ(根源的なもの)は、さらに高いからである。その同一性とは世界概念である。人は世界を定立することにより、この二重の存在の同一性を定立する。したがって、私たちは私たちの思考と知において、先ずこの有限存在の同一性、すなわち世界のもとにのみ立つ。もし私たちがこの同一性のみを統一性として定立するならば、知の総体においてもすべての存在の総体が定立されねばならない。私たちがこの同一性を、様々なものに分解される一般的なものと見なす程度に応じて、私たちの知は、私たちが属している個々の世界に与えられた存在のみを表現する。この知は、行動のプロセスと上昇のプロセスが完成され、相互に上昇してゆくまでは完成しない。構築の側から私たちが来ることはない。しかし、この世界についての私たちの知は、私たちが帰納の方法でそこに至らない限り完成しない。したがって、常にどの概念も個物の性格と世界に対して割れる性格を担っており、個物との出会いを通して、個として現れる。したがって世界は絶対的統一性のように見え、…(意味不明文)。構築において主語であるものは、すべての存在自体の総体以外ではあり得ない。それは、有機的機能が総体とのより完全な結合にある限りにおいて帰納によるに過ぎない。しかし、私たちはそもそも地上に限定されており、すべて他の存在は断片的に現れ、地上との関係においてよりよく知られるに過ぎない。私たちの知がどの程度進展すれば、概念は存在の総体を汲み尽くすのか?帰納のプロセスは、有機的機能を通して優勢に伝えられる。この有機的機能から私たちの認識に到来するものは、認識の体系を獲得しようという傾向を伴いつつ、個別的な所与の世界だけに及ぶ。構築の途上にあるものは、有限的存在すべての総体に対して妥当しなければならない。無限にある偶然は、有機的機能に依存しており、それによって再び、私たちに与えられた体系に制限される。形式的機能がなければ対象は存在しないので、すべての有限存在に妥当するものは何もない。私たちの知が実在的である程度に応じて、それは私たちの世界に直接的に制限される。その外部にあるすべてのものは、この世界との関係においてのみ思考可能である。私たちの知において、私たちの理解の法則が現れる程度に応じて、その法則は、すべての有限存在の総体に妥当する。この法則がなければ知は存在しない。そしてこの仮定がなければ、私たちは唯物主義に陥ってしまう。有限的知にはすべて有機的機能が関与しているが、この関与は、私たちを、私たちが直接的に共存しているものに限定する。しかし、地上と地上にないものとの対立は、再び相対的なものに過ぎないが、それは、常に繰り返し、連関が確立され、有機的機能自体において、総体との関係が繰り返し打ち立てられることによってである。思考の対立を私たちは総体として包括的に見なさねばならない。しかし、理性は再び有機的なものと一つとなるので、この身体との共存がどのようにして再び最高のものに[空白]か、区別することを私たちは知らない。これは実在的知全体に妥当する。私たちは決して、総体を包括するということに、確実さを持って至ることはできない。

 

[28]

世界は二次的な同一性であり、すべての対立が一つに出会うことから成り立っている。それに対して絶対者は、すべての対立を自らのうちに含んでいる同一性である。しかし、絶対者は、無限存在から個を導出することはない。このような導出は生じないからである。それ(世界)は存在の側にはない。神と世界は分離できないからである。思考の側にもない。絶対者は、ただ有限者と共に思考可能であり、世界は絶対者なしには思考できない。両者の関係のみが提示されるべきである。世界を導出しようと欲することによって人は常に形式的なもの―それは別のものではあり得ない―を獲得する。そして、それら形式的なものが、より多くのことを語ろうと欲するように見えることによって、際限の無い誤解が引き起こされる。例えば、個々の事物を神からの離反として描くことなどである。死が本来的な祝福、完成として賛美され(生が病気と見なされ)ることによって、それはさらに首尾一貫しない神秘的傾向(Mysticismus)へと導かれる。個々ではあたかも生き生きとした直観に努めることから、死せる抽象への後退が望まれているかのように見える。両者は類似している。なぜなら、事物の存在が神からの離反であるなら、神に帰ることはその(離反の)中止だからである。そこでは、ついには神自身が死んだものとなる。

世界の概念は、このイデーの形式に過ぎない。それが私たちにとって満たされるのは、普遍と特殊の同一性によってである。有機的機能はその時初めて普遍と一つになり得るほどまでに高められる。上から下ってくるプロセスにおいて、この世界のイデーは、私たちがそこに来る第一のものである。これはしかしまだ知の問題であり、それはさらに現実になることを期待している。有機的なものが完成されるまでは、世界の生き生きとした直観はまだ完成されない。そしてそもそもすべての現実的知において常にその限りまだ差異が存在するであろう。

しかしここには見出されるべき課題があり、個物はその場所を全体性の中に占め、複数の個々の事物の共通なものとして、それは一つの作用である。この課題は、世界の形式的イデーのために、実在的イデーに対応するものすべてを調達することだが、決して解決されない課題である。なぜならそれは個々の知すべての完成を前提としているが、これはしかし、判断の無限性を前提としているからである。もし倫理的自然的知が完成するならば、帰納の方法は、純粋にそれ自体で無限な多様性を与えることができるだろう。そしてある特定の数多性に戻され、これが一つの総体、自らにおいて完結した全体を形成するということは、帰納の道においては決して見出され得ない。いかなる道もそれ自体で辿られるなら目標には達しない。したがって私たちはこの第二の部分において、ただこのことのみを対象にすることが可能である。そこにおいて、知の形式的要素と有機的要素の共存が定立される。

超越論的知が同一性の形式の下にあるならば、実在的知は対立の形式の下にある。概念は、絶対者との連関において以外に確定されえないし、作用は、存在と行為の同一性において以外に確定されえないので、対立もすべて同一性の形式に従属する。したがって、対立の形式の下にないものは確かに無であるし、より高次の統一に従属しているものはすべて確かに相対的である。その統一への関係は、すべての部分において表現されている。これが、実在的知における真偽を区別する第一の、しかし否定的な基準である。例えば、そこにおいては概念のあらゆる同一性が止揚されているように見える何かまったく無形式なものが私たちに向かってきたとすると、それは、私たちがそれをより大きな全体―そこには同一性がある―の部分と見なさねばならない証拠である。

思考の質料的要素は、個と特殊に由来する。したがって私たちも直接個に結びつくことができねばならない。しかし今はまだ世界のイデー以外何も私たちに明らかになってはいない。したがって私たちはさらに何か他のものを見出さねばならない。

個はすべて空間と時間の形式のもとにある。この形式の範囲を超えて錯覚を抱くことがあってはならない。すべての有機的機能は、空間と時間の形式の下にある。この有機的機能はすべて個物から始まるのだが、しかしもし人がその形式を個に及ぼすだけであれば不正を行うことになる。有機的要素を介して、すべてが空間と時間の下にある。さらに、両者は私たちの機能の形式に過ぎないと言うことはできない。なぜなら、これは私たちと対象に共通の述語だからである。しかし、私たちの意識の中には、それを単なる私たちの側の産物と見なす暗示はまったくない。

 

[29]

時間と空間が有機的機能に依存しているのであれば、それは普遍的なものと最高のものについても言える。私たちがすでに見たように、一つの概念を完全に把握するためには、その量的なものも把握しなければならなかった。例えば、ある植物の希少性、ある地域に固有なものであるかどうか。ここには確かに空間的関係がある。同じことは時間についても言える。例えば、粘り強さや寿命に注目する場合。

また空間と時間が、私たちの器官自体の単なる結果に過ぎないものと関係すると主張することはできない。空間と時間が私たちに作用するように、私たちの外にある事物にも作用すること、そして、そこに私たちと事物との共存が表現されていることは明らかである。そこにおいて時間と空間の関係が広がっている領域は、いったいどれが本来的なのか?私たちは一般的事物にも広がっているのを見た。しかし、時間と空間の関係は事物自体の中にあるのか、それとも先ず私たちの表象にあるのか?この関係は認識における本質的要素である。そして、これがただ認識の対してのみ相応しいものなら、存在との同一性は再び止揚されるだろう。すべての実在的思考は、その場合端的に非知となるだろう。そのような分離は、すべての実在的知の止揚に他ならない。そして、懐疑主義による外からの突入。この関係が思考の本質的要素であるような領域はどの程度広がっているのだろうか?ただ絶対者だけがそのような関係とまったく無縁であり、絶対者はいかなる要素もそこに見出さない。むしろ私たちがそのような関係を持ち込むとき、私たちは絶対者を誤って考えている。これのみが端的に無時間的で内的、非空間的である。私たちに分割された存在が与えられるや否や、それによって同時に時間と空間とが定立される。空間は存在の区分性(Geschiedenheit)であり、時間は行動の区分性である。空間と時間は存在と行為の関係にある。しかし、空間が存在の区分性に他ならないならば、区間において分離された存在はそのように考えることができる。しかし、すべての事物が再び空間を占拠するということはどうなのだろう?しかし、どの事物も統一であり同時に多様性でもある。したがって、事物自体の中に区分性が定立されている。そして、これは空間自体に他ならない。それゆえ、どのように事物の空間のどの点が、他の残りの諸点に対して固有の関係を持っているかを人が見ないならば、事物の理解も存在しない。単に有機的なものの領域においてだけでなく、無機物の領域においてもそうである。なぜなら、至るところで(結晶化のような)形式が事物の特徴を表示している。したがって、私たちがその無限の関係を共に知るとき、事物はその本質において汲み尽くされる。

形式もまた外的なものとしてではなく、内的なものとしてある場合。例えば組織(Textur)を顧慮する場合。他方において、私たちは有機的なものの中に機能の差異を見る。そのどれもが自分に従属している統一を持っている。したがって、区分された存在はその統一の中に定立される。これは空間の充溢である。見かけだけ最小なものはまだ自分の為に有機的な教育係を持っている。個々の要素や機能は、無限な関係の中にある。もし人が、身体や魂について問うなら、個々では空間的なものは途絶える。なぜなら魂は、絶対的で最も内的な生の統一そのものに他ならず、それは至るところで現在的だからである。

私たちが内的そして外的空間、すなわち、事物が占め、その他からの分離を表現している空間に目を向けるならば、外的空間は、事物の別れ別れになった存在が相互に広がっている限り広がっている。同時にこの空間は両者を包括している統一と関係している。例えば、地と地、太陽系と他の太陽系の関係。このように外的空間は、分かれてあることの相対性や、同様に統一の内的相対性を指し示す。そして、そこで魂の対立において内的空間が消滅するように、世界の総体を考えるとき外的空間が消滅する。これ(世界の総体)が、空間の中にあるかどうかは、愚かしい問いである。

同一の関係は時間にもある。私たちがある存在を活動において考えるなら、私たちは全事物の活動を関係させる。作用とは二つの事物の共存であり、その空間的区別性はしたがってそれ(作用)によって止揚される。ある作用の瞬間には、空間は無にされる。しかし、作用は時間を定立する。なぜなら、作用が作用であるのは、それが時間的前後における区別性を定立することによってだからである。作用は存在から区別されるべきであることによって、作用として定立され得る。活動があるところには時間もある。それは、ある場合には充溢した時間として、ある場合には合間としてある。なぜなら、すべての作用は無限に分割可能だからである。両者は、充溢した空間と隙間と同じような関係にある。もし誰かが、私たちはどのようにして空間と時間に至るのかと問うならば、それは、私たちがどのようにして事物あるいは私たち自身に至るかと問うのと同じである。同様に、誰かが空間と時間は事物か表象かと問うならば、私たちが逆に次のように問い返す。君はいったいどうやって空間を事物から分離するのかと?空間は事物が存在するあり方であり、また事物を表象するあり方でもある。

この対立は、空虚な空間というばかげた表象以外の根拠を持たない。私たちは空間が質料で見たされねばならないかどうかということを当然のことながら問題にしない。いずれの場合も空間は作用で満たされている。なぜなら、空間とは様々な作用の統一を表現するものに他ならないからである。空間のあるところ作用もある。空虚な空間という表象は、空虚な何かである。空間は事物の存在のあり方、事物の存在の分離性や区別性である。

私たちが認識を、空間的時間的関係においても定立したところでは、決して知を定立できないということは、私たちにとって空間と時間―それらは、形式的なものに対して影響をもつ―の純粋に超越論的なものである。


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