F.シュライアマハー「弁証法講義」1814/15年草稿 (川島堅二訳)

Schleiermacher, F. D. E.; Dialektik(1814/15), hrsg. v. Andreas Arndt, Philosophische Bibliothek Bd. 387, Felix Meiner Verlag Hamburg, 1986.

最終更新日 19999月21


【内容】

[1]-[85]

1部 超越論の部 [86]-[229]

2部 技術論の部 [1]-[116]

1章 知自体の構築について [7]-[100]

1節 概念形成の理論 [19]-[74]

2節 判断形成の理論 [75]-[100]

2章 結合について [101]-[116]

1節 発見的方法について [101]-[104]

2節 建築術的方法について [105]-[116]


[1]あらゆる共同的な研究は、当初、結合点を見出すという困難な課題によって苦しめられる。

[2]現在の研究はたいていそうした状態にある。なぜなら研究の対象が、研究の外部にあるということは全くなく、したがって両者は一つで、同一であるから。

[3]弁証法は、何らかの仕方で哲学する原理を含まねばならない。

[4]哲学するとは、狭義には、哲学、すなわちあらゆる知の内的連関を作り出すことである。

[5]およそ哲学するということは、広義には、ただその哲学が完成していない限り、個々の事物から生じる。

[6]したがって、哲学は最高の意識による最高の思考である。

[7]私は、彼らが既に哲学しているという前提から出発することはできない。なぜなら、そのような場合私は論争や弁明から始めなければならないから。

[8]もし私が、彼らはまだ哲学していないという前提から出発するなら、私はいかにして彼らとこの対象について語るべきなのか?

[9]この困難は一般に哲学を圧迫している。というのは、誰もが自分の哲学行為を伝達すべきだからであり、それゆえ哲学は、混沌の中から生成し形を取ることにおいてのみ存在する。

[10]それにもかかわらず、学問に携わる者はすべて哲学しなければならない。そうでなければ彼の知は単に伝統的なものでしかあり得ないからである。しかし、単に哲学することだけをすべきでもない。そのようなことをすれば、その人は死せる形式に過ぎない机上の学か、未熟な思索による神秘主義に終わってしまうに違いない。

[11]意識の漸進的上昇というものがある。すなわち、(a)子供の混乱した知覚から、(b)学問的要素の伝統的把握を通して、(c)哲学、あるいは意識の完全な発達へと至る。

[12]現実の学問は(b)と(c)の間にあるように見える。しかし、知はすべて哲学によって貫かれている限りにおいてのみ知である。

[13]個々の知はすべて二重の仕方で哲学的なものに依存している。それ(個々の知)が結合として先行するより以前の知と関係する限りにおいて、そして、知および、存在とのその連関の最も内的な根拠に属するものとして、それ(個々の知)が対象と関係する限りにおいて。

[14]結合の規則は、人がそれを学問的に所有しようと欲するならば、知の最も内的な根拠から分離されることはできない。なぜなら、正しく結合するためには、事物が結合しているあり方以外の結合は不可能である。その結びつきに対して私たちは自分の知と物との関連以外のいかなる保証も持たない。

[15]対象に自らを関係させるという知の本質への洞察が表明され具体化されるのは、結合の規則において他にはない。なぜなら、存在と知は、一連の結合された諸現象においてのみ現れるから。

[16]したがって、形而上学、超越論的哲学を伴わない論理学や形式哲学は学問ではないし、また論理学を伴わない形而上学は、恣意的で幻想でしかない姿しか持たない。

a.人は、論理学を他の学問に先行させることも、形而上学を後置することもできない。

b.そのような分離はアリストテレスによってなされたと言うことはできない。

[17]私たちの研究は、したがって、一つの形式、一つの名称を求めている。そして、哲学する術(Kunst)の原理として弁証法という名称を見出す。

[18]すべての学問は術になることを欲し、また、すべての術は学問になることを欲する。つまり、各々が、それぞれの側で、より高い位置にあればあるほど、お互いがお互いになろうとする。したがって最高の学問も術でなければならない。

[19]一般に、本来的な知はすべて一つの行為から発した。また広義における知というものは、すべての術上の規則に適った(kunstmaessig)行為に先行した。

a.能動的行為よりも、むしろ受動的な状態Leidenから成立したような意識の状態も存在する。これは、しかし、知ではない。知は感覚的な領域においてさえも、意志を持って慎重に幅広く注意することを通して成立するのだから。

[20]したがって意識の行為はすべて、それが知であればあるほど、求められて生み出されたものとなる。すなわち術から生じるものとなる。

[21]この哲学は、まだ学問として存在しているのではない。なぜなら、一つの(哲学上の)記述は、その他の記述を破棄してしまうので、知の性質の両要素は、普遍的に妥当する方法ではそこに存在しないから。

 

他の学問における相違との比較

[22]もし誰もが自分の哲学を最高の学と見なすならば、それは確固たる確信の証明としては賞賛に値するが、それが自己の過大評価なしには起こり得ないものである限り、非難すべきものである。

[23]哲学を直接的に学として前面に持ち出すことは横暴であるし、またそれを次のような人々に提供することは適切ではない。すなわち、その人にとって学問的状態が一時的なものに過ぎないような人、あるいは先ず主として実際的知に生きるべき人。

[24]両方の哲学的要素を現実の思考行為の中へ思い入れることは術である。なぜならそのような二つの要素に向かう傾向は、生産行為において意識的に根底にあるのでなければならなかったから。

[25]現実的な知はすべて術による業である。両方の哲学的要素が普遍的なものとして個々人において思考行為として示されるのである限り。

[26]現実的な知の領域においてのみ生き続けようとする人も含めて誰もが、この術の原理を持たねばならない。

[27]人は、道徳を学として持つことなしに、術的に道徳的に行為し、その行為について熟考することができるように、知を学として持つことなしに術的に知を生み出すこともできる。

[28]しかし、そのような人は倫理学の途上にあるのであり、やがてそれは彼に理解できるようになる。同様に、私たちも学としての哲学の途上にある。それも完全な形で。なぜなら、最高の哲学的学問の両部分は、形式的にも超越論的にも知の産出において現れ出るから。

[29]哲学的術は、当然のことながら先ず学と共に完成されるし、その逆も言える。同様に個々の現実的な知もすべて、先ずそれ自体として、哲学的術や学の完成において完成される。

[30]哲学的術が進歩するということは、学としての哲学に接近することである。それは倫理学的原理について熟考することが、倫理学へ接近することであるのと同じである。

[31-a]次のように言うことが可能である。術について熟考することから学としての哲学へ発展することには飛躍がある。それは伝承された理解から本来の知への発展に飛躍があるのと同じである。

[31-b]しかし、この領域においても、先の領域においてと同様に、第1のものは、第2のものに対して準備となっている。したがって、哲学的術における習熟は、学としての哲学の、それに伴ってはいるが無意識の生であるということができる。

[32]他の諸術や、また道徳的領域においても、人は理論や学問的直観でさえ、それを行使することなしに所有することができる。同じことはここでは不可能である。なぜならここでは知を目指しているのが衝動自体だから。

[33]したがって、哲学においては、術と学とは、お互いに対して相互接近の状態にあるといえるし、また同一原理を持つ二つの異なったやり方であるとも言える。

[34]したがって、術と学とは、哲学において互いに並んで進行するなら、それらの出発点は、両者の最小値あるいはゼロ点があるところにある。しかし、そのように言えるのは、哲学がまだ自立しておらず、他の中に包含されているところにおいてである。

[35]哲学は元来、最高原理の他の形式としての幻想の産物と混合している。そこにおいては、混合物は学でもなければ哲学的術でもない。

[36]この状態から哲学は、より一層術として、あるいは、より一層学として現われ出ることができる。これが古代と近代の間の本質的相違である。

[37]古代において、この状態から哲学的術の活動を通して先ず現実的学問の要素が発展した。そして、これについての省察から弁証法が発展したが、それは学的構造の理論に他ならなかった。絶対的学とは、この三和音においてのみ存在したのであって、それ自体で存在したのではなかった。

[38]近代において―そこでは、すべてが混乱の中へ投げ出され、個々の要素から再び新たにすべてが協力関係を組まねばならなかったが―キリスト教によって完成された宗教的衝動から学としての哲学へ直接的に向かうということが発展した。

[39]この試みは、したがって、形而上学として時が経てば経つほど一層多く結合の諸規則についての知識から分離されたが、それ(結合の諸規則)は神的事物とは何の関係もないと思われたからである。

[40]形而上学的諸学科自体は、結合だったので、人は結合の諸規則を先行したが、それは何も結び付けることがなかった。

[41]もし人が、いかにしてすべての現実的知の中に、より高次のものが含まれているかを示すこと以外に何も求めなかったならば、それはそれでもよかったのだが、しかし、人はそれ以上を求めたので、すべては誤解の内に終わらねばならなかった。

[42]現実的学における仮説的方法は、人が最高の学を除外した後では、はるかに一層恣意的になった。そして形而上学的諸学科は、それ自体仮説的となった。なぜならそれが他の諸学と同一に形作られることを欲したからである。

[43]カントは後者を、構成原理と規制原理とを区別することによって、防ごうとしたが、しかし、それは新たな誤解によるものだった。

[44]前向きな針路変更は、批判的な近代の事実の確固たる保持によって、古い事柄と結びつかねばならない。したがって、すべての知の原理として内住する神の存在という知識は、実際的知の構築において以外に求めないこと。

[45]したがって、弁証法という名称を再び新たに受け取り直すことは正しい。すなわち、それは本来思考交換の術であり、思考の差異から―なぜならそうでなければ、交換ということはあり得ない―一致まで―なぜなら一致がなければ結末があり得ないから―を扱う。

[46]成果の確かさを伴うプロセスについての熟考としての術は、結合の共通規則と、それを基礎付け、それゆえにすべての知の根拠に相違ないところの共通の根源的知とを前提としている。

[47]しかしながら、この術の完成は、知の組織体の構築においてなされる。その限りにおいて、それは学問論である。いわゆる巷で学問論といわれているもの(フィヒテの学問論など)は、学問の学問であることを欲したがそうはならなかったが。

[48]しかし、それはまた、断片的に与えられたすべての知に対する哲学的批判の術でもある。したがって、(弁証法は)哲学することの二つの形式の術である。

[49]弁証法は、本質的に二つの中心モメントを自分の内に保持しているので、それはまた知の最高の原理を可能な限り明確な意識にもたらさなければならない。したがってそれは、それに対峙している他の形式をあらかじめ暗示している。その形式においては、哲学を学問として叙述するために、哲学的術の理論が単なる手段として用いられることによって、術的なものは後退し、学問的なものが現れ出る。

[50]批判的な用法において、弁証法は、詭弁と見なされる危険性があるが、それはただそれが原理を失っている場合である。

構築的な用法において、それは詩的と見なされる可能性があるが、それは、それが結合の規則を越え出てしまう場合である。カントは後者に抗して、通俗哲学は前者に抗して働いた。

[51-a]選ばれたこの形式は、私たちの状態や私たちに共通の意図に適い、すべての知の根本を、誤った見せ掛けの知をもたらすことなしに、促進しなければならない。

[51-b]したがって、まとめると、弁証法とは、

1)知の論理学Organonである。すなわち、知の構築のあらゆる形式の座である。なぜなら、結合の原則は、単にあらゆる生得の思考系列の主観的前進の正しさを目指すのみでなく、大きな体へと知が客観的に組み合わされていくことをも目指すからである。両者は関連している。すなわち、一方では学問的全体が、個々人の思考系列においてまとめられたものとして、同時に歴史的に現れ、他方で、所与の思考がどの思考と結び付けられ得るのか、そして、それはいかにしてなされるのかということもそれが術であるべきなら、結合の一部である。したがって、知の相対的な親和性に従って、あらゆる点からなされる知全体の構築は、結合の一部である

[52]弁証法は

2)個々に与えられたすべての知について、明晰にされたあらゆる知の最終的原理との結合によってその位置を知る手段である。そのさいどの知をも、その直接的学問的連関において捉えることはない。したがって、すべての実在的知の補遺であり、それを人は学問的道自体において獲得はしなかった。

[53]その実在的知を吟味される人が、それをただ伝統的にしか持っていないならば、それは詭弁のように見えるに過ぎない。実在的知が、空虚な結合形式によって吟味される場合には、それは本当に詭弁的なものに過ぎないだろう。

[54]他の哲学的叙述を判断する原理としては、弁証法は間接的なものに過ぎない。

a)それ(他の哲学的叙述)が諸命題の複合物として、結合の法則に服する限りそうである。その方法においては、単に叙述の正しさのみが吟味され得るに過ぎず、根底にある原理の真理性は吟味できない。

b)知の最終的根拠が明らかにされ、したがって人は、どの程度までこの見知らぬ原理が私たちの理解と一致するか、知覚することを学ぶ限りにおいてそうである。この判断は、原理の真理性に当てはまるが、しかし、それは私たちに対してのみである。私たちの自己理解の尺度にしたがって正しいに過ぎない。

 

哲学的体系が並び立っている状態は、人が哲学を学問として提示しようと欲しない場合のみ、理解可能な状態である。

[55](知の生産の)方法について熟考することによって知の生産を術へと高めるという意図は、そこにおいてその方法が観察され得るような、術なしに成立した知が存在することを前提としている。

[56]この前提は、術論―それは常に知の生産自体より後に来る―としての哲学という見方と一致するばかりでなく、同一の原理がもっと以前から、より低い発展段階において活動していたということも哲学の高い価値と争うことはない。

[57]普通の知が、より高次の知と何の関係もないならば、最初の前提―それは、今([55]において)輪郭が描かれた方法とは一緒に存続できない―は、求められている原理が、その普通の知からは全く認識できないということになるだろう。

[58](普通の知と高次の知との)差異は対象の中にあるのではない。なぜなら実在的知は、普通の知と同一の対象を持っており、すべての思弁哲学は、それがすべての既に現存している倫理学や自然学を、ただ経験的なものまたはDoxosophie(主観的信念)と見なすとしても、少なくとも倫理学と自然学とを作ろうと欲しなければならないからである。

[59]その差異は、思考と共に与えられた確信の感情の中にもない。なぜなら、知の不完全性は、確信の感情に、一緒に反映しないということは、再び、この確信の感情の不完全性に過ぎないからである。そしてこのことは、思弁的領域においても、経験的領域においても等しく見られることである。

[60]一方の知が他方の知と正に対立するような状態にあるなら、(両者の)差異は、ただこの確信の感情の中にのみあることになり、したがって、普通の知が知であれば、思弁的な知は知ではあり得ないし、またその逆もいえる。

[61]もしそうであれば、思弁に生きている人と、そうでない人との間に全くの隔壁が置かれることになる。そうして、前者は後者に対しいかなる影響も与えられないことになるが、そのようなことは考えられない。また、一方の状態から他方の状態への移行は、全く新しい生の開始になってしまうだろう。

[62]上に述べた最後のこと(全く新しい生)は、回心―それによって生は幾分か、より高次の勢位になり、根源的に成立したように見える―との類比によって弁護でき、したがって、生の二つの時期の間の連関は証明できない。しかし、どの意識においても、ここで矛盾もまた同時に発生する。なぜなら、思弁の領域だけに生きる人はいない。つまり、この矛盾は意志に反するものではない。なぜなら、すべて他から外れて、経験の領域において思考し、行為しようと欲する人はいないからである。然り、厳格な区別は全く不可能である。なぜなら、思弁的知は、実在的知を通して経験そのものに作用しなければならないからである。したがって、個々の点においては、一面的な意識は全く破棄される。

[63]したがって知は、その性質に従えば、二重ではなく、単純なものである。確信の感情が追求されていたところでは(このようなことは、鈍感な状態では決して起こらない)、知の最高の原理もまた活動していたのである。

[64]したがって同一の原理が、普通の知の領域においては無意識的原動力(動因)であり、思弁的領域においては、その行為を通して自ら自身を意識化する動因である。

[65]この原理の産物としてすべての知は、一つの全体に携わろうと努める。客観的にはただそれに多く携わるか少なく携わるかの違いがあるだけである。

[66]一人の人において生きている知はすべて、様々な状態の相互作用に包含されているので、確信の感情を得ようと努力している人は皆、そこにおいて知の原理が彼の中に、より一層現われいで、明確さに近づくような瞬間(モメント)を持っている。

[67]ここから、理路整然と論じようとする一般的傾向や神秘的傾向は、上述したことを証明する経験として説明されるべきである。

[68]学としての哲学も、一つの同一の知―それもまた最も暗く真に人間的なものの中にある―の最高度の発展に過ぎない。それはちょうど、結晶化が、全く形のない固まりとして存在している同じ岩石の最高の状態に過ぎないのと同じである。

[69]二重の知という先の見解が、既に懐疑主義の変種である。すなわち思弁的なものによって、経験的なものを疑うという(懐疑主義である)。同様にそれと反対の状態も存在する。すなわち、経験的なものによって思弁的なものを疑うという経験主義者の思考様式である。

[70]彼ら(経験主義者)は、自分たちの知覚が、思弁的なものを自分の内に持つことによってのみ一つの知であることを認めない。それによって彼らは、自分自身の領域において真理と誤謬を区別するために、単なる分析的な結合の法則以外にはいかなる手段も持っていない。彼らの知覚は、物の作用によっては、分析分析の対象になり得る統一を全く含んでおらず、あるのはただ果てしない混乱だけであると彼らに示すことが可能である。

[71]真の懐疑主義あるいは知そのものに対する論争は、それが学説であることを欲するなら、知ることができない知というものを定立する。したがって、この思想や他の思想に伴う感情に差異をも定立し、よって、私たちの全課題を定立することになる。したがって、その(懐疑主義の)主文には形式的なものと内容的なものとの間に矛盾があり、それは自己自身の内に捕らえられている。

[72]もし懐疑主義が、知の知可能Wissenkoennenを拒否するに過ぎないのであれば、それは単に、知の理念やその実現への努力に全く相反することのない次のような主張を語っているに過ぎない。すなわち、すべての知は生成の中にあるに過ぎず、人は個々の知の完成を確信できないという主張である。あるいは、もし懐疑主義が伴っている意識の差異を拒否するのであれば、それは学説的なものであることはできない。

[73]思い違えられた知を、相互に止揚し合うものとして対置するという懐疑主義の方法においては、懐疑主義は、様々な考えの中に一つの対立を提示する。そして、何かが証明されるべきである場合には、この対立を意識的に提示する。したがって懐疑主義は、(この場合にも)同様に自らの内に捕らえられている。

[74]この懐疑主義に対して、あらゆる哲学的努力の原理として、知への信念が対置される。しかし、この両者、信念と知について、人は、一方が他方を凌駕しているということはできない。そうではなく、両者は相互に規制し合う関係にある。

[75]形式的側面から、構想された方法に対して次のように反対することが可能である。すなわち、ある既知の大きさを持つ量から、二つの未知のもの、超越的なものと形式的なものとを見出すことはできない。また人は、この二つのいずれかを仮説的に想定することで満足できない。なぜなら、常に不確実さが残り、自然学においてのように破壊的事実が到来する可能性があるからである。しかしながら、これはただ超越的なものと形式的なものの分離を目指しているに過ぎない。

[76]しかし、もし超越的なものと形式的なものとが同一であるならば、所与のどの知も、形式的なものを通してそれが今あるようになり、また、より以前の知を通して等々、ついには最初の所与の知に至るように見える。これ(最初の所与の知)が超越的なもの自体であるとするなら、すべて実在的な知は、超越的なものに他ならない。それがそうでないなら、すべて実在的な知は、唯一の実在的な知に従属することになる。

[77]これはしかし、主観的に正しくない。なぜなら、二人の人が、それぞれの意識において、全く異なる最初の知から出発する場合でも、それらはしかし時が経てば経つほど互いに均一化される。その結果、演繹の秩序は非本質的なものに過ぎない。

[78]それはまた客観的にも正しくない。なぜなら同じ高さにある多くの等しい点a,b,c,dが、すべての学問に存在し、その結果人は、dから原理に従って、aやbまたcを通らずに上昇することが可能であるし、その逆も可だから。同様に、どの高次の点についても、同じように直接的に下降していくような複数の低次の点が存在する。

 

数学における例、点や運動から、すぐ直接的に直線や曲線に(下降する)。

[79]したがって、形式的なものが演繹の規則であるということは、形式の本質ではない。それはまた単に一つの知から他の知へと進むということにあるのでなければならないだけでなく、すべての個々の知において、それ自体直観可能でなければならない。

 

ここにおいて私たちの方法は存続可能である(この一文は次の[80]の冒頭部の代用とも考えられる。その場合には、うっかり削除し忘れた文ということになる―編者)

[80]これはただ次のような場合にのみ正当である。すなわち、所与のどの知も、それ自体で結合した知、すなわち多様な知である場合である。この前提自体は、しかし、誰かが、概念や判断の形式よりも単純な形式の下に現実の知を提示するまでは正しい。

[81]すべての個々の知が自らの内に持っている結合の原理の他に、特別な演繹の規則を私たちの目的のために求めてはならない。なぜなら、これとは異なった演繹はすべて、術なき状態のための一時的なものに過ぎないからで、それは、知の客観的領域はどれも、完成されれば再び個々の知であることによる。その個々の知においては、以前に個として定立された知が、概念の要素のように、また判断の構成要素のように結び付けられている。

[82]私たちは知を、その大きさを特に定めることなく与えられたものとして受入れるのだから、私たちの結合の法則は、すべて知に、最大の知に対しても適用されねばならない。その時、私たちはこの面からは何も他に必要としない。

[83]形式的なものが演繹規則であるとするなら、所与の知から私たちは、先ず超越的なものを求めるのか、それとも形式的なものを求めるのかということは、同等のことではなくなってしまう。なぜなら、そうであれば、私たちは、形式的なものをたった一つの知から見出すことができないし、すべての内容的差異を無視しなければならないからである。したがって私たちは形式的なものを直接見出すことはできず、おそらくただ超越的なものを通してのみ見出すことができる。そして両者は互いに同等ではなくなってしまうだろう。

[84]各々は、同等であるので、私たちの方法は、どちらを先ず求めるかによって二重の仕方で形作られることが可能である。

[85]私たちの本来の目標は構築であるから、形式的なものが私たちの目標点となり、それを私たちは最後に置く。私たちは、どの方法においても、形式的なものと共に、同時に超越的なものとの同一性を意識することが可能であるように、先ず超越的なものを求めたい。

 

T.超越論の部

[86]知はすべて思考である。しかし、すべての思考が知であるわけではない。

1)思考は、意識における他の働きとの相違において、知的なものとして(als bekannt)定立される。

2)知は常に思考である。なぜなら、私たちは知を、現実的行動としてではなく所有として表象するのであれば、知は見せ掛けに過ぎない。しかし、知はその源を根源的な生産行為に持つからである。

[87]次のような思考が知である。A.思考能力のあるすべての者によって、それは同じような仕方で生産されるという必然性を伴って表象されるような思考。 B.そこにおいて思考されている存在に対応するものとして表象されるような思考。

 

ここにおいて、知に固有なものすべてが含まれているということは洞察され得ないが、それを想定する必要もない。

[88](理論的側面から考えれば)(知の)生産の均一性の定立は、知に伴う確信を与えるはずだが、その逆、すなわち、すべての確信が、そのような定立であるということではない。

 

私たちは、自分たちの格率や趣味的判断を―それらも確信を伴っている―もちろん部分的には、どんな場合にも私たちによってこのようにしか生産され得ないものとして定立し、私たちがこれを定立する限り、私たちは確信を持っている。しかし、このような確信は主観的な確信である。なぜなら、他のどの人も、そのように行為し、そのように判断しなければならないように、私たちが定立することはないからである。

[89](知の)生産の均一性の定立は、結果の普遍妥当性を与えるが、その逆ではない。

 

芸術(Kunst)においても、結果の普遍妥当性を目指す努力が為され、定立される。しかし、それは生産の均一性ではなく、(方向性は)反転している。というのは(芸術を)鑑賞する者は、その表現(芸術)から理念を獲得するが、しかし、生産する者(芸術家)はその逆(先ず理念があって、それを表現する)である。結果の普遍妥当性も、生産する者の表現によって伝達される。これに対し、知においてそれは直接的でパラレル(方向性が同じ)である。

[90]たとえいかなる(思考の)行動も、(均一性という)この性格に完全には対応していないとしても、理念はそこにおいて純粋に表現される。

なぜなら個として認識されるや否や、すべては(思考)行動の知の内容から除外されるからである。

[91]知の完成は本来次のような場合にある。すなわち、すべての知がすべての人にとって、単に結果としてのみならず、根拠としても一様に明らかになる場合、そして、すべての人が、自分や他のすべての個的なものを完全に見通す場合である。

[92]すべての思考が、思考者の理性および有機的なものの共同の産物である限り、知とは次のような思考である。すなわち、普遍的な型の中にある理性や有機的なものの産物であるような思考である。

 

1.この仮定は、ここではまだすべての思考を包括するものとしては証明され得ないが、しかし、すべての人によって全実在領域に妥当するものとして認められる。


2.個的理性は幻想である。個的な有機組織は、それが客観的なものと見なされるなら誤謬の原因ともなる。

[93]したがって知とは、この側面から見ると、次のような思考である。すなわち、思考する主観の多数であることや、差異にではなく、それらの同一性に基礎付けられた思考である。

[94](「87」bの補遺)どの思考にも、思考されるものが、思考の外に定立される。

 

人が何かを思考しているということは、単にその思考が規定されているということのみではなく、思考が、自らの外に定立されたものと関係しているということである。

[95]思考が、思考の外に定立されたものと一致しているということの定立は、確信を与えるが、しかし、すべての確信が、そのような定立から生じているわけではない。

 

倫理的命令や技術的命令には確信が伴うが、しかし、そのさい人は、そのような命令に存在が正確に対応しているということを定立しているわけではない。

[96]自分の外に定立されたものと関係してはいても、一致として定立されていない思考はすべて知ではない。

 

これに該当するのは特に、1)無規定に思考される対象を、より詳しく規定しようと試みる自由な空想。2)学問的領域に属してはいても、まだ仮説として提示されているに過ぎないものすべて。

[97]どの知も、このような性格に純粋に対応することはなくても、しかし、理念は至る所で純粋に保持される。

 

例として、古い天文学上の諸見解。今日、私たちはそれの間違いを見抜いている。なぜなら、そのような見解が対象と合致しているというようには、もはや私たちは定立しないから。しかし、私たちは、そのような見解が知の発展の系列にあることを受入れる。なぜなら、それは当時はそのように(存在と一致するように)定立されたのだから。妖精の教えについては、そのようには考えない。それは決してそのように定立されたのではないから。

[98]すべての思考が、[92]で定められた要素(理性と有機的要素)から成っている限り、次のように言うことができる。知とは、有機的あるいは知的機能の自立的活動に由来するものとして、同じ仕方によって定立されることが可能な思考である。

 

1)自由な空想には確かに有機的機能が結びついてはいるが、しかし、形式としてに過ぎず、その機能は本源的なものとしては定立されない。そのようなことがあれば、それは狂気だろう。


2)仮説的知や、非学問的な知覚には知的機能も結びついているが、しかし、形式としてに過ぎず、その機能は本源的なものとしては定立されない。

[99]知、ここでは先ず実在的な知は、したがって、両方の機能の差異と共にではなく、同一性と共に、また同一性において定立される思考であり、両者から等しく、根源的に、その思考の外に存在として定立されたものと関係する思考である。

[100]知とは、対象が変化しない場合には、悪化なしに変化することのない思考である。それに対し、知でない思考とは、対象が変化しなくとも、前進可能な変化する思考である。

[101]思考と存在との一致は、両者が絶対的に別種なものであり、比較不可能であるゆえに、空虚な思想であると言う人がいるかもしれない。しかし、自己意識において私たちに与えられていることは、私たちは思考と思考されたもの両者であり、両者の一致において私たちは、私たちの生とを持つということである。

 

これは、個体の多数性という前提と共に必然的に与えられる。

[102]知の外に存在を定立することは、未証明の命題による推論だから論拠を示せ(petitio principii)と言う人があるかもしれない。しかし、知自体は、私たちに自己意識においてただ存在においてのみ与えられるが、存在とは異なったものとしてである。この仮定は、知の決定的特徴を求めるという課題自体の基礎に過ぎない。

[103]存在に対する思考の関係は空虚である。両者は絶対的に分離しているに過ぎないからと言う人があるかもしれない。しかし、自己意識においては、両者の相互的生成が、省察と、意志とにおいて相互に私たちに与えられている。そして、両者が無関係に並んで進んでいくとは誰も考えられない。

[104]思考のおいて、存在に対する関係の差異が生じないならば、存在の尊厳には全く差異が生じなくなる。

[105]ある思考において、その思考の対象が存在と一致しているかどうかという疑いは、ただ次のことにのみ由来する。すなわち、両者におけるそのような一致と多数性とが等しい仕方において、なぜ分配されねばならないかということを理解しようと人は考えないということである。しかし、この等しさ―そこに知の実質的完全性は由来するのだが―は、ただ近似によってのみ達し得るに過ぎない。この等しさの内的根拠が、今求められている超越論的なものに過ぎない。

[106]思考と存在の一致は、存在の全体性が有機的なものに対して置かれている実在的連関によって仲介される。そして、ある特定の存在の有機的なものに対する関係を正しく表現するような思考はすべて一つの知である。

[107]もし人が、経験を形成する思考から―そこにおいては、知的有機的両要素は議論の余地なく存在するが―出発するなら、次のように言える。人が両方の側に対して、一方では理性的内容が、他方では有機的内容が、無において消滅してしまうほど離れてしまう場合、人は思考の領域からも出てしまうと。

[108]およそ理性的活動の伴わない有機的機能の活動は、まだ思考ではない。

1.なぜなら、それはまだ対象を固定化するものではなく、印象の混沌とした多様性に過ぎないからである。見ることについての例。

2.その時人はまだ思考していない。なぜなら、経験的思考を、器官の刺激によって始まると見なしているからである。人が構築から出発するなら、逆も言えるだろう。

[109]理性の活動は、それが有機的組織のすべての活動なしに立てられる場合には、もはや思考ではない。

 

有機的活動が少なければ少ないほど、一層思考の直接的生は破棄されるゆえに、もはやそれは思考ではない。

[110]一般的実在的諸概念、実体的諸概念は、有機的活動を保持している。なぜなら、それらの根源的成立において、それらは、自らの下に包摂されている諸対象の個々の感覚的表象を想起させるからである。

 

1.私たちは、これをもはや直接意識において持っていない。なぜなら、私たちはこれらの諸概念を、通常の使用においては、それらの真の生に来させることはほとんどなく、私たちの結合によって先へ進んでしまうから。私たちがそれらの概念をただしるしとしてだけ用いれば用いるほど、私たちがそこにおいて現実的に思考することもなくなる。


2.私たちにおいては、一般的諸概念は、根源的にただ独自な経験とだけ結びついているわけではなく、見知らぬ経験の伝統―それも、もはや完全な生に至ることはない―とも結びついている。


3.自然学同様、倫理学上の一般的概念にもこれは完全に妥当する。

[111]一般的形式的諸概念も同様に、自らの下に包摂されている個々の活動の有機的諸要素を保持している。私たちが、それらをそのように生かさないその程度にしたがって、これらの概念によっては何も思考されず、それらはただ符号として用いられるに過ぎなくなる。

 

1.例えば、主語という概念には、対象を固定化するすべての活動―それは明らかに有機的側面を持っている―が、要約されている。


2.ここにおいても、前のところ([110])においても、一般的諸概念が有機的活動を通して成立するということが定立されるべきではない。なぜなら、既に個々の表象が単にそれら(有機的活動)を通して成立するのみならず、それらなしには成立しないからである。


3.これまで述べてきたことが、個々の意識すべてにおいて常に証明されることができなくても、何の問題もない。なぜなら私たちは、すべての意識を一つのものと見なすことができるからである。

[112]一般的思考形式―その代表はA=Aという命題―もまた、それが過程の形式を保持するか、その条件を表現している限り有機的側面を持っている。それが有機的活動を包まない限り、そこにおいては何も思考されていない。

 

A=Aは、思考の対象と存在との同一性、すなわち知の形式であるか、または、主語の同一性、すなわち知の条件であるかのいずれかである。有機的活動がなければ、それは思想の単なる反復可能性にほかならず、したがって空虚である。

[113]ens(存在者)という最も高次の実在的物概念も有機的要素を含んでいる。なぜなら、それは、印象の多様性の中で自存しているものとして有機的組織を触発可能なものと同一だからである。

 

1.もし人が、他の世界秩序を自らの下に包摂しているような存在者をも考えるなら、そこにおいて同様に、理性的有機体と、それを囲むものとの関係を定立している。


2.たとえ物の概念において、有機的諸活動が単に間接的に過ぎない場合でも、一般的諸概念がそこで生き生きと思考されている限り、それら(有機的諸活動)は、A=Aという命題においてと同じく、そこにある。


3.人がこの概念を、すべての有機的活動なしに定立するなら、それは、A=Aの場合同様、空虚に過ぎなくなる。

[114]超越的領域においてのみ、この(有機的)要素の分離は定立可能である。しかし、私たちはこれ(超越的領域)を知の中に形作ることを欲しない。したがって、私たちはそれを、それ自体で存在する思考に形作ることはできない。

 

とどのつまり、私たちはこの領域の中に、ただ神と混沌という概念だけを定立できる。前者(神)においては、あらゆる有機的活動が否定され、後者(混沌)においては、あらゆる知的活動が否定される。このように理解されると、それらは現実的思考ではない。

[115]現実的で特定な思考にはすべて、両方の要素があるならば、すべての思考は三つの領域に分けられる。すなわち理性の活動が優勢で、有機的活動は付録的な本来の思考、優勢な有機的活動と付録的な理性活動を伴う知覚、両方の要素が均衡しているのが直観である。

 

1.思考は、それによって私たちが人間意識の特徴的形式を考えることによって正当なものと言われる。知覚においては、真実なものはあまり強調すべきではない。知の反対もまた両方の形において与えられ得るからである。


2.直観も誤謬を排除しない。

[116]中間の形式は前二者(思考と知覚)の相互作用において生成するものとしてのみ存在し、直観はすべて両者のいずれかの下に包摂されねばならない。

 

このような表現も、(思考と知覚の)純粋な平衡を意味するものではなく、前もって思考されたものを知覚するに過ぎない。その逆ではない。

[117]知は思考として、また知覚として存在することが可能だが、しかし、他方を前提としてのみ存在する。そして、中間的形式(直観)のみが自足的である。

[118]すべての思考において、理性の活動は統一と数多性の源泉であり、有機的活動は、多様性の源泉である。

 

1.これらの活動のいずれが与えるもの(統一、数多性、多様性)も、孤立化されるならば、実在的思考を解体してしまうし、何かそれ自身では証明不可能なものを保持してしまう。


2.諸感覚を満たす存在(感覚Sinn=有機的組織の触発が思考の二つの内の一つの原因Mitursacheになることを可能にする能力)は、感覚それ自体を通して、印象の混沌とした多様性に過ぎない。分離―それによって諸感覚は、分割され、規定された存在を表象するのだが―は、したがって、統一と数多性とをもたらす理性の活動を通してのみ手に入れることが可能である。


3.最も抽象的思考は、有機的活動がなければ空虚な確実さに過ぎなかった。しかし、その有機的活動は、もし理性の活動が再び個々の表象の中へ入っていき、それらと共に特別な活動を産出しなければ不確実な多様性をもたらすことができるに過ぎない(そのようなものには、一般的概念の下に生き生きと包摂される個々の表象の記憶がある)。

[119]統一と数多性とがなければ、多様性は不確実であり、多様性がなければ、確実な統一と数多性とは空虚になる。したがって思考における理性の作用は決定であり、有機的組織の作用は生命を与えることである。

 

前者によって、すべての思考は一つの思考となり、後者によってすべての思考は思考になる。

[120][93]によって、一人の人の有機的活動の代わりを他の人のそれが務めることが可能であり、またそれは、その他者の知的機能と一致することが可能である。同様に、一人の人の知的活動の代わりを、他の人のそれが務めることが可能であり、それはその他者の有機的機能と一致することが可能である。

 

1.これが意味しているのは、知の領域では、すべての諸感覚は、誰に対しても、その人の理性のために開かれており、またすべての人の理性は、誰に対しても、その人の感覚のために開かれている。そして、一つの同じ知を構成することが可能だということである。


2.これは誤謬には妥当しない。誤謬の場合に起こっているのは次のような事態である。その有機的活動は、他の人の理性の活動と結びついてはいるが、それは、この思考に対してではなく、他の思考―それも知であるかもしれないが―に対してである。

[121]同様に、[117]にしたがって、知覚された知が、他者の中では思考された知に属することが可能であり、また、その知覚された知は、思考された知と共に、一つの知に統一されるのである。また反対に、思考された知は知覚された知に属する。

 

すなわち、ある個人の思考行為は、しばしば他の誰かの思考行為と一つにされて初めて一つの知となる。従って、個々人の思考行為は互いに浸透し合って知を補っている。誤謬の場合はそうではなく、逆に、思考として定立されるのは、他の人の中における知覚が、それに全く対応していないような思考であり、またその逆である。

[122]まとめ:知のイデーと共に定立されるのは、すべての人のもとでの経験の共同性と原理の共同性である。それはすべての人における理性と有機的組織の同一性を介してである。

[123]意識において確信を伴っているが、個人的なものに過ぎず、知としては現れていないようなもの(ex.格率や美の感情)においても、理性の活動や有機的活動が含まれているので、その両者(理性の活動と有機的活動)において、先の同一性の他に差異も定立される。

 

1.有機的活動のない決心というものはないし、知的活動のない美の感情もない。


2.理性において差異を定立したくない人は、さしあたりそれを有機的組織にのみ定立しておけばよい。

[124]理性と有機的組織のこれらの機能は、知における機能とは異なったものだが、しかし、異なったものと同一のものとを分けることはできないゆえに、思考もまたその大きさ全体において、そうした状態によって浸されねばならない。

[125]したがって、実在性の中には、純粋な知は存在せず、経験と諸原理共通の、中心を同じくする様々な領域があるに過ぎない。

 

1.最も狭い図式。一緒に成長することと結びついた産出の同一性。そこにおいては、個人的差異は、格率と感情の同一性に至るまで消滅する。最も広い図式。言語の同一性。そこには(知の)過程の平均化の実在的可能性が含まれる。


2.私たちが確信を定立し、他者に私たちの知を示すことができることにより、私たちは伝達の媒体を前提にしているが、それは限定されたものに過ぎない。二つの言語において全く同一と見なされるような知はあり得ない。物についての知も、またA=Aという場合も同じと見なされることはない。

[126]それにもかかわらず、私たちは個別の知の差異の背後に、普遍的同一性を必然的に前提しなければならない。そして、それによって知のイデーの純粋性を保持するのである。そのような純粋性が自らを現わす客体を、私たちが明示できない場合にも。

 

その他に残っているのは、a言語を必要としない数学的なものである。しかし、それがそのように存在するのは、個人的な結合においてに過ぎない。そして、このようなあり方において相対的になる。新旧の数学的方法の対立。


b超越的なものは、絶対的存在のイデー=神を通して現わされる。しかし、ここにおいても、それがあらゆる過程の生き生きとした根拠である場合に限り、純粋な同一性が存在する。特定の思考として現れることにより、それは言語によって相対化される。神に対するあらゆる表現において、相対的なものが存在するが、それが止揚されるのは、人がそれをもはや語源的には追跡できないということによってのみである。

[127]知の相対性は、それによって私たちが、知を、他の操作との差異において意識するようなものと共に定立される。すなわち、それ(知の相対性)は、知の意識自体と共に定立され、知に意識にとって本質的である。

[128][87]と[117]にしたがって、思考も知覚も等しく存在に対応することが可能である。また[116]にしたがって、この前提においてのみ、そもそも知というものが現実に存在する。したがって、思考において、存在に関して、知覚においてと同一のものが含まれ得なければならないし、その逆も言える。

[129]したがって、理性の活動においては、統一性と数多性という形式の下で、有機的活動において不確かな多様性として定立されたものと同一のものが定立され得なければならない。

 

すなわち、思考においては有機的な機能が、知覚においては知的な機能が最小値であるから、したがって前者(思考)において定立されたものは、知的機能を通して定立され、後者(知覚)において定立されたものは有機的活動を通して定立される。像と概念とは、同一の存在を表わしている。

[130]知とは次のような思考行為である。そこに定立されたものが変わることなしに、思考から知覚へと、またその逆に移行することが可能な思考行為である。

 

1.記憶の中にあるような知覚を考えてみなさい。それから再び同一の対象に関係することによって強化された知的機能の活動を考えてみなさい。そこでは前者の知覚に応じた思考が成立したのであり、そこでは両者が知であるならば、同一の有機的活動が、最小限のものとして含まれており、その有機的活動は、前者の知覚においては卓越したものだったのである。


2.両者の一方が誤謬である場合には、正しい思考は誤った知覚の内容である像と同一の像の有機的活動を想起させることはない。また、正しい知覚の像は、誤った思考の内容である一般的区分や結合と同一のものに基づくことはない。


3.一つの形式から他の形式への誤謬の一様な移行、その場合、それぞれの形式は根源的仕方で成立したかのように見えるが、それはきわめてまれな偶然としてのみ考えることが可能である。

[131]どの思考においても、知覚において主として現れ出るものが既に、思考特有の仕方において含まれていることが可能である。同様に、思考に現れるものが、知覚特有の仕方で知覚に含まれていることも可能である。

 

例えば、獣類一般の概念には、もしそれが生きたものであれば、それが包み込まれている大きさの程度も既に含まれていなければならない。然り、誰もこの点で遠すぎるほどに離れ離れになっているものを一つの種の下に置きはしない。色等々の差異が含まれている度合いも、含まれているに違いない。つまるところ直接的感覚的印象において定立されるものはすべて含まれているのである。


同様に知覚の中には、一般的特徴を形成するものが、既に特に現れていなければならない。例えば、獣における最高のもの、自由な運動性は、知覚においても最も生き生きとしたものであるに相違ない。

[132]理性の活動は理念的なものにおいて基礎付けられ、有機的活動は対象の作用に依存するものとして実在的なものに基礎付けられる。したがって存在は、理念的な仕方においても、実在的な仕方においてと同じように定立される。理念的なものと実在的なものとは、存在の様態として互いに並行して走り続けている。

[133]次のようなもの以外に、この最高の対立についてポジティブな説明は他に存在しない。すなわち、理念的なものとは、それが全く有機的なものに由来するのでない限り、あらゆる理性の活動の原理として存在の中にあるものである。実在的なものとは、それが全く理性の活動に由来するのでない限りにおいて、その能力によって有機的活動の原理であるようなものとして存在の中にあるものである。

 

1.この説明は、その産物の二つの構成要素の分離のための手引きとして十分ポジティブである。しかし、対立自体は、そのさい常に幕の背後にとどまっている。


2.これ以上を求めようとする説明はすべて詩的になり、像のもとで、両要素が生み出したものについての記憶以上のものは何も提供しないだろう。あるいは修辞的なものとなり、空虚である。


3.術語は何でも同じである。しかしこれは、思考機能の主要な型から取ってこられた最も単純なものである。

[134]この最高の対立についての仮定は、私たちにとって、ここではただ次のことに基づいている。すなわち、思考における両要素(理性と有機的組織)は独立したものとして定立されているということである。これは、それがただ意識についての見方に基づいているゆえに、結局は、心情(Gesinnung)の問題なのである。

 

1.知を求める者、すなわち確信の感情を認める者は、この二重性を求めなければならない。なぜなら、そうしなければ、知とそれ以外の思考との間に差異を証明できないからである。


2.自分を見出し堅く保持しようと欲する者は、この二重性を受入れねばならない。なぜなら、もし理性の活動が有機的なものに由来するなら、私たちは、分割された存在の遊戯のための単なる通過点に過ぎない。


3.世界を自我との対立において保持しようと欲する者は、この二重性を求めなければならない。なぜなら、もし有機的活動が理性の活動に由来するなら、私たちが有機的印象を作り出していることになり、有機的印象を作るのを助ける存在を私たちの外に仮定する根拠を私たちは持たないことになってしまう。


4.したがって、およそ生の直観を求める者は、この二重性を求めなければならない。

[135]最高の対立は、超越的なものと内在的なものとの境界である。そして、それはすべてを自らの下に従事させるが、そこには対立の体系が広がっている。もし人がこの対立にとどまるならば、それは空虚な神秘になってしまうので、それはただ一つの存在に従事させられ、そこに帰っていくことが可能である。この一つの存在は、この対立およびそれと共にすべての構成された諸対立を自ずから発展させる。

[136]したがって、超越的なもの―そこへと私たちはここから思い至るのだが―は存在のイデーそのものであり、それは二つの対置され、互いに関連のある種(Art)または形式そして様態(modis)、すなわち知の現実性の条件としての観念的なものと実在的なものを内容としている。

[137]思考の二つの機能から出発して、知のイデーは、相対的な知の領域の総体の中へ、外へと拡大していく。それから、しかし、それ(知のイデー)は、最高の統一へと凝縮した。

[138]思考としての知は、概念と判断という形式以外の形式の下にあることはない。

 

.概念の外、言うなれば下にあるのは感覚である。それは、まだ客観的になっていない受動性の行為である。判断の外、、言うなれば上にあるのは意欲である。それは、既に客観的になった自発性の行為である。思考はこの両者(感覚と意欲)に包囲されているように、それはまた先の二つの形式(概念と判断)によって特徴付けられる。その一方の形式は感覚に近く、他方は意欲に近い。


これでは十分でないという人には、続くすべてのことは、その人が概念でも判断でもない知を作り出すまで妥当するに過ぎない。


2.三段論法は、


a.三段論法以外の思考は知ではないかのような意味での知の排他的形式ではない。なぜなら、大前提も一つの知でなければならず、これは常に、結論であることが可能であるわけではなく、根源的なテーゼが―それもまた一つの知である―存在するのでなければならないからである。したがって、三段論法は導出された知の領域にのみ妥当するに過ぎない。


b.結論は、それ自身判断の形式の下にあり、三段論法によってもたらされた判断を含んでいる。しかし、私たちは今、知の由来を問うているわけではなく、知の形式自体を問うている。これはしたがって、先の二重の形式に過ぎない。

[139]私たちの行程に横たわる問いは、概念と判断とが互いにどのような関係にあるかという問いである。

 

それは次の二つの行程に横たわっている。すなわち、最終目標に向かう行程において、というのは、私たちは(概念と判断という)二つの方法が、実際の知の正しい構成のために、どの程度存在するのか知らねばならないからであり、同時にまた超越的な中心点に向かう行程において、というのは、私たちは、知の二重の根拠を求めねばならないかどうかを知らねばならないからである。

[140]判断は、その本質に従って概念を前提としている。

 

1.主語と術語が一般的概念である場合には、それは明らかである。


2.主語が個々のものである場合にも、それが主語であるのは、一つの概念の下に包摂されている場合のみである。この炎は白い。


3.述語が、直接的感覚的表象であるように見える(白い、甘い等々)場合でも、これには、複数の修正が可能であり、このような事は言語によって特徴付けられるもっとも特殊なものについて言えることで、したがって、それは概念として判断の中に定立されているのであり、個々の確実さの中にではない。

[141]したがって判断は、諸概念が、より多く形作られるほど、一層完全なものになる。

 

「この炎は白い」という判断は、「白いものが、ここに示されている」という判断よりも完全である。後者の判断には、前者の判断においてはすでに作られている概念が欠如しているからである。

[142]概念は常に判断を前提としている。

 

概念が、単に技術的方法で形成される場合のみでなく、自然に生成した概念も、伝達において、議論の余地のある諸点に思い至る(動物や植物という概念が、そのどちらとも言えない植虫類を問題とせざるを得ないように)。その場合には、区分する判断によってのみ、知として固定化され得る。

[143]概念は、それが判断の体系に基づくものであればあるほど、より一層完成されたものになる。

 

なぜなら、どの概念も論争の余地のある領域を、すべての面において持っており、したがって、それは、すべての面に向かって、区別する判断によって、あらゆる周囲の存在との関連において体系的に規定される時、初めて知として正しく固定化されるからである。

[144]したがって、知が、均等に生み出された諸概念の中にあるべきならば、これらの概念は、均等に形成された諸判断に基づかねばならないし、また、その逆も言える。私たちは一つの円環に捉えられているのである。

 

もし私たちが、判断と概念が両者の無差別状態に出発点を持つに違いないと言おうとしているとするなら、それは飛躍であり、まだ予感に過ぎない。そのような無差別は、存在に対応しているなら超越的なものであり、概念と判断において発展するなら形式的なものである。

[145]概念の領域は、より高次な概念とより低次な概念、より普遍的な概念とより特殊な概念との相対的な対立の中を、根源的に揺れ動いているように見える。

 

概念は、無規定な多様性から存在の統一を分離することである。しかし、その統一自体は、自らの中に再び多様性を保持しており、部分として、他の存在と、より高次の統一を形成する。


このことは、諸概念が互いに、時には並列した状態に、時には従属した状態にあるということに由来する。

[146]完全な概念はどれも、自らの下に一つになっているものだけを持っている限り、より高次の概念である。

 

個々のものも、私たちがそれを思考において捉える限り、まだ概念である。なぜなら、それ(個物)は、現象や活動を自分のところから発展させるが、それら(現象と活動)は、個物の全性格を自分の内に持っている。(個々人の行為がそうであるように。)しかし、新たに加わったものによって規定される。そして、それら(現象や活動)は、個物に対して、より低次なものが、より高次なものに対するような関係にある。そして、そこにおいても再び、すべてのより高次の概念の特殊化可能性のような、修正可能性が定立される。

[147]したがって概念の領域は、低次方向に対しては、多様な諸判断の可能性に行き着くが、それ(諸判断)は再び多様にまとめられることが可能である。

 

すなわち、下方への概念の境界は、知覚の尽きることのない多様性である。

[148]どの完全な概念も、それがなお何がしかのものを排除する限り、同時に、より低次の概念である。

 

最も一般的な物概念も、まだ低次の概念である。なぜなら、その上に、一つの絶対的に分割されない存在という、より高次の概念があるからである。


このような概念も、それに概念と対象との対立がなお伴っている限り、まだより低い概念である。

[149]存在の絶対的統一というイデーのみが、そこにおいて思考と対象との対立が止揚されている限り、もはや概念ではない。

 

なぜなら、このイデーは、存在に関して何も言表できないことによって、判断の体系から成立したものとみなすことができないからである。そして、このイデーは、もはや何ものも排除しない。

[150]このイデーは内容(Materie)に従えば概念だが、形式に従えばそうではない。

 

内容によれば概念である理由は、そこに存在の統一が定立されているからである。

[151]そのイデーにおいては、すべての最高の対立は止揚されているという判断の多数性によっても、このイデーが概念になることはない。

 

なぜなら、これらの判断は否定的なものに過ぎないので、そこから概念が共に定立されるということはできないのである。

[152]概念の領域は、高次の方向に対しては、同様に、可能な判断の多数性で終わる。

[153]概念と対象の同一性としての絶対的存在のイデーは、知ではない。

 

このイデーは概念でもなければ判断でもない。なぜならイデーにおける対立の止揚についてのこのテーゼには、その主語(イデー)が概念であるという判断が欠如している。

[154]このイデーは、超越的根拠であり、すべての知の形式である。

 

1.前半(このイデーは超越的根拠である)は、まだ完全には明らかになっていない。ただ言えるのは、概念と対象を分離することから来る懐疑に対して、両者の根源的同一性という前提による以外に支点がないということである。


2.後半(このイデーはすべての知の形式である)は、明白である。なぜなら、概念と対象の対応は、先の同一性と同じものに過ぎず、ただ分裂した存在の領域に置かれたに過ぎないからである。そしてすべての知と無規定な思考との差異は、正に先の同一性との関係にある。無規定な思考自体は、その同一性と関係していないのである。

[155]判断が概念を、特に主語概念を前提としている限り、存在するのは次の二つの判断のみである。先ず本来的判断で、それは、主語概念においては、その可能性によってのみ立てられているに過ぎない何かを、述語において言表するような判断である。次に非本来的判断で、それは、主語概念において明確に定立されたものを言表する判断である。

 

1.完全な概念においては、偶然的なものもその概念の可能性及び内容にしたがって含まれているのでなければならない。なぜなら、ある物が、その可能性が含まれていない何かをなしたり、何かをさせられたりすることが可能な場合、概念は完全ではないからである。したがって、完全な概念との関係には、(カントが言うような意味での)純粋に総合的な判断は存在しない。


2.まだ形成途上にある不完全な概念との関係には、純粋に分析的な判断は存在しない。なぜなら、概念の歴史においては、すべてが、ある特定の瞬間を越え出ることが可能だからである。「死すべき」という述語がまだそこに定立されていない人についての概念も存在可能である。


3. もし人が、そこにおいてその区別のみが基礎付けられるような完全な概念を根底に据えることをしないならば、分析判断と総合判断の区別は確定できない。そこには違いはない。同一的判断も判断ではなく、空虚な形式に過ぎない。

[156]私たちは判断を、概念に基づくものと見なすので、本来的判断についてのみ語ることが可能である。非本来的判断は概念に先行するものだから。

[157]判断における主語は、それ自体で定立された存在である。述語は他者の中に定立された存在である。

[158]述語は、判断に先立って、主語の外に定立される。したがって、主語でない存在である。そこで述語の全体性は、主語でない存在の全体性である。

 

ここではただ思考としての思考が問題であり、どのような述語が主語と結びついて一つの知になることができるのかは問題とされない。しかし、主語のあらゆる境界は判断と考えられねばならない。

[159]判断はしたがって、主語の存在と主語でない存在との同一性であり、判断の領域の境界は、(主語)存在と主語でない存在の最大限から同様に見出される。

[160]主語の中に存在がより多く定立されればされるほど、主語によって排除されるものは少なくなる。したがって主語によって述語として付加されるものも(少なくなる)。そこで、絶対的主語とは、そこにおいてすべての存在が定立されており、それによっては全く何も述語として付加されないような主語である。

 

正反対の形式、すなわち、そこには存在が全く定立されていないような主語によっては、すべてが述語として付加されることが可能という形式は、空虚である。したがって私たちは、ここでは述語を出発点とすることを求めねばならない。

[161]ある一人の他者の中に定立された存在としての述語は、ある人と他の人の中に定立されたのと同一の述語である。したがって、それは前者においてより多く定立されれば、それだけ一層大きくなるに違いない。

[162]他者の中に、より多く定立されればされるほど、それ自体で定立されるものは少なくなる。すべてがすべてにおいて定立されれば、そこに述語の最大値がある。その時には、狭義における主語は残っていない。

[163]したがって判断の領域は、一方で、それによっては何も述語として付加され得ない絶対的主語の定立によって境界付られ、他方で、述語の無限性の定立―その述語に対しては、特定の主語は存在しない―によって、すなわち、存在の絶対的共同性の定立によって境界付けられる。

[164]これらの形式は、その内容を、概念が与えたものの中に見出す。すなわち、概念を境界づける存在の絶対的統一は、同時に、その定立がすべての判断を境界づける絶対的主語である。また、知覚可能なものの尽きることのない多様性は、それがまだ概念の統一に高められていない限り、概念を下方において境界づけるものだが、それは同時に、特定の主語の定立を伴うことのない述語の無限性であり、それが判断を境界づける。

 

なぜなら、存在の純粋な思考は、主語のための図式にほかならず、あらゆる理性活動を無視した単なる現象の固まりは、可能な述語の集合体に過ぎないからである。

[165]存在の絶対的統一の定立、及び現象の絶対的多様性の定立は、思考ではない。なぜなら、それは概念でも判断でもないからである。しかし、両者は、あらゆる思考、したがってまたすべての知の超越的根である。

[166]超越的概念と超越的判断が同一であるということによって、存在の絶対的統一においては、概念と対象の対立のみでなく、判断と事実の対立も止揚される。

 

本来的判断は、必然的に常に事実を目指す。

[167]ここからすでに予想されること([164][166]も予感されたものに過ぎない)は、次のことである。個々の知の全体性における完全な知の現象は、存在の絶対的統一と、知覚可能なものの無限の多様性との同一性に対応しているということ。また、知が知的機能かまたは有機的機能か、どちらから成立しても変らないということは、知が概念または判断のどちらから定立されても変らないということに対応している。しかし、これを越えて、真に何かに気付くためには、私たちは、この知が特に思考のあの二つの形式(概念と判断)に対して、どのような関係にあるかを見出さねばならなかった。

[168]すべての知はただ概念の形式において定立されており、本来的判断の形式ではないということは許されない。このような主張は観念論に居座っている。

 

1.観念論は次のように主張する。個々のものは、非存在者である。なぜなら、それらは概念には現われず、判断においてもただ無限者においてのみ現われることができるからである。したがって、それら(個々のもの)についての思考の中には思考と対象の同一性はない。したがってそれは知ではなく、それには存在は対応していない。知は他の終点から、すなわち存在の絶対的統一から到来する。そこから人は、分割と結合とを通して諸概念の体系のみを獲得するのであって、判断を獲得するのではない。この源泉に、また、そこから流れ出るものに、すべてに知は包含されている。


2.以上のような主張を通して確信の感情―それは物との交通において私たちに伴うが―は、概念の中にあるもの(エピステーメ)から完全に分離される。そして、上ですでに論駁されたあの二重性(帰納によって得た知は知ではなく、演繹による知のみが知であるという知の二重性)が意識にもたらされる。さらに知の相対性([127]参照)は破棄される。なぜなら存在の絶対的統一のイデーにおいては、純粋にそれ自体、これを有機的にも生じたものと見なすことなしには、相対性は存在しない。したがって純粋にそのイデーから導出されたものにも相対性は存在し得ない。この相対性は私たちにとって知のイデーと正確に関連している。ついには、有機的機能が、また二重性が([132]参照)―それがなければ私たちは知を、無規定で恣意的な思考から分離できないのだが―破棄される。(これを分離できないということが、観念論に対する古くからの非難であるように。)したがって私たちは、この命題を受入れることはできない。


3.この命題は私たちが以前に受入れたこととも対立する。というのは、すべての有機的機能、内的感覚の有機的機能もなければ、存在の統一のための分割根拠は見出され得ないからである。そして、私たちは、絶対的存在のイデーにおいても、それが最高の概念と見なされるべきである限り、有機的機能を見出す。

[169]すべての知はただ本来的判断の形式においてのみ定立され、概念の形式に於いてではないと言ってはならない。そのような主張は、実在論に居座っている。

 

1.実在論の主張は次のとおりである。個の把握においては、誰もが、すべてに同一と考えられる必然性によって最も拘束されていると感じている。個の把握は従って、その第一の性格のゆえに知であり、それには存在が対応している。これに対して諸概念においては、一致は偶然であり、したがってそれらの概念には存在も対応しておらず、単なるしるしに過ぎない。人はそれらを全く無しで済ますことができる。しかし、現実の思考の段階においては、この解釈は至る所で判断である。そして知は、個についての判断の総体においてのみ存在する。これに対して、いわゆる一般的物(概念)は、非存在者に過ぎない。


2.もし諸概念がしるしに過ぎず、意識に現われた個々の現象を、そのしるしのために正にそのように共に立てる必然性が、刺激自体の中に存在し得ないのであれば、主語の体系は全く恣意的であり、そもそも知の確かさが失われる。そして、すべての述語が、全く異なる主語の体系に関係させられるという可能性が常に定立される。したがって、それ自体で存続する存在の体系は認められなくなる。同時に知的機能の独立も破棄され、それがなければ私たちは知を、それ以外の思考から区別できないので、これによって、私たちには、知のイデーが破棄されてしまう。


3.あらゆる知的活動がなければ、無限の多様性に対して一致点も見出され得ない。そして、私たちは、個々のものの把握がある特定の知覚になるや否や、そこに知的機能をも定立することになる。このような考えは、私たちの以前の立場すべてに矛盾する。

[170]私たちが以上の二見解の立場を拒否したというのなら、その一つの立場は、概念を知の形式として定立し、他方は、判断を定立するから、したがって私たちは、知のすべての形式を拒否することになり、私たちは懐疑に陥ると言われるかもしれない。

 

1.これは、懐疑の間接的な在り方の中でも最も体系的な種類である。[73]を見よ。


2.観念論と実在論は、通常は異なった仕方で導出されるにもかかわらず、このような記述によっては何も失わなかった。ここに提示されているそれぞれの立場は、すべての観念論的、あるいは実在論的記述にはっきりと、あるいは暗に含まれている。

[171]私たちは、それによってそれぞれの立場が、知のための形式としての思考の一方の形式を排除してしまうような両者の否定的な面のみを拒否したのであるから、私たちは各々の立場を、他方による排除に対して弁護しているのである。

 

1.通常の記述において観念論は、人が判断しながらも知るということを否定はしない。しかし、ただそのゆえに、それは私たちの本来的判断を知らないのである。個物自体は知られた物ではないという命題は、どの観念論にも現われる。そして、この命題が結果として先の命題(cf.[168])になるのである。なぜなら、汲み尽くすということが概念の形式の下で可能であればの話だが、始点と終点との間で閉ざされたものは、有限的思考によっても、汲み尽くされることが可能でなければならないことによって、判断の厳密な無限性は不要になるからである。しかし、高次の概念の下への低次の概念のあらゆる包摂は、高次の概念との関係においては本来的判断でもある。


2. (この意味での)実在論のあらゆる記述は、唯名論的に、すなわち概念を単なるしるしと見なさねばならない。これをしない人がいたとしても、ここでは論駁しない。

[172]観念論と実在論に対する私たちの論駁によって、私たちが主張するのは、知は概念と判断との二つの形式の下に存在するということである。

 

知はすべて一つであり、また概念と判断は、その性質上、互いに制約し合っているゆえに、両者を分離することはできない。

[173]同一の存在が、概念として知られ、また判断としても知られるのであれば、概念として知られるすべてのものと、判断として知られるすべてのものの根底にあり、それ自体としては本来知られることのない存在もたった一つの存在である。

[174a]絶対的主語と存在の絶対的統一とは、思考として発生的には異なったものだが、同一の存在を表現しているに過ぎない。

[174b]内容的にもそれらは思考と見なせば同一である。

 

なぜなら絶対的主語は、もしそれが思考されるということが、本来的判断において、その主語によって述語化されるならば、まだ絶対的主語ではないからである。また、存在の絶対的統一は、本来的判断において、その統一によって述語化されるような何かが、その統一の外部に定立されるのであれば、まだこの絶対的存在の統一ではないからである。

[175]第一に、概念の形式の下にある知は、それがすべての人によって等しく産出された思考であり、二つの機能が統一された活動にのみその本質を持つのである限り、有機的機能に基礎付けられることはできない。

 

1.(自他における)有機的刺激(Affectionen)の緊密な関係においてもそれはできない([120]を見よ)。このような関係はむしろ同一の概念生産自体によって規制される。なぜなら私は他者の内実(Materiale)を、その思考の姿の下でのみ獲得するのであり、その思考が私の思考に表れてくる限りにおいて、私はその内実を、その思考から還元できるからである。


2.同様に、思考者の一種に本質的とされる有機的機能の同一性(Einerleiheit)においても(概念形式の下にある知を基礎付けることは)できない。なぜなら概念自体は決してそこに基礎付けられないからである。このことは確かに以下のことから明らかになる。すなわち、同じ有機的刺激は、時が異なれば、全く異なった概念になるということである。エメラルドについての知覚は、私にとって、ある特定の緑色という図式になり、それから特定の結晶化の図式、そしてついには特定の鉱物の図式となる。人はしかし、次のように抗議することはできない。すなわち「これは先のような場合には、単に思考の方向性に由来するに過ぎず、そこにおいて私は有機的刺激全体の内容を捉えているわけではない。もし私がそれを捉えていれば、それは常に同一でなければならない」と。なぜなら、知覚されたものは、決して概念において完全に現われることはないからである。そして、この相対性―それなしには概念は全く実現しないのだが―を規定することは、知的活動に依存しており、それがなければ知覚もまた境界付られることはできない。


注釈:したがって、子供たちに概念形成を獲得させる手助けをするという私たちの努力において、子供たちの非常に多くの誤解が生じるのは、私たちがどのような定立の列に置かれているのかを子供たちが知らない場合である。

[176]したがって、すべての人に共通する概念生産が存在し得るのは、ただそれが、理性の同一性に基礎付けられた場合に限られる。

すなわち、もし知というものが存在するなら、その知を構成する諸概念すべての体系が、すべての人に内在する同じ一つの理性において、無時間的な仕方で存在しなければならない。

 

1.理性に根拠を持つということと、理性に無時間的な仕方で与えられるということは同じである。(それは、空間的現われを形成する全植物が、種子の中に非空間的な仕方で与えられているのと同じである。)もし人が次のことを受入れようとするなら、すなわち、すべての概念が、すべての人によってある一つの瞬間に産出されるということを受入れたいなら、彼らすべてにおいて同一である理性の中に、これらすべての概念が等しい仕方で基礎付けられているのを人は見る。すなわち、個々人には、そのための有機的誘因が欠如しているゆえに、個々人はいずれもその時にはこれら諸概念を産出することはないが、それら諸概念は、個人の理性の中に正にそのようなものとして定立され、しかし無時間的な状態にある。


2.これは超越的領域に属しているので、人が生き生きとした積極的表現を求めれば求めるほど、一層人は哲学的話の外に出てしまう。諸概念は有機的要因によって覚醒されるまで、理性の中に眠っているということはできない。なぜなら、それらは以前は概念として与えられていないからである。しかし、理性は生き生きとした力として、その一時的な産出は別としても、あらゆる真の概念の産出のための生き生きとした力である。その本質は諸概念の図式の生き生きとした全体性である。


3.厳密な姿に接近する、唯一威厳のある像は、次のようなものである。すなわち、神があらゆる生き生きとした諸力の場であるように、理性はあらゆる真の諸概念の場である。あらゆる概念の産出方法は、理性におけるある特定の点において、生き生きとした力として定立される。


4.理性におけるすべての概念のこの無時間的存在は、生得的諸概念の教説における真実なものである。この教説が、すべての概念を単に有機的刺激による二次的産物と見なす教説に対立する限りにおいてそうである。しかし、そこに次のようなことがあるならば、この(生得概念という)表現は誤りである。すなわち、諸概念自体が、あらゆる有機的機能に先立って理性に定立されているというようのことである。二つの機能が共に現われて初めて概念は概念になるのだから。


5.人がただいくつかの概念のみを生得的と見なそうと欲するなら、この表現の下に保持されているものも誤った不十分なものとなる。すなわち倫理的概念のみを生得的と見なし、自然的なものはそうでないとしたり、あるいは高次の概念のみを生得的とし、低次のものはそうでないとするとかである。この制限がある仮象を獲得するのは、人がより高次の倫理的概念と、より低次の自然的概念とを共に立てる場合のみである。しかし、より低次の倫理的概念や、善や美の特定の形式が、自然物の特定の類や種の概念よりも生得的であるとはもはや言えない。高次の諸概念及び低次の諸概念も等しい仕方で無時間的に理性に定立されている。低次の概念において概念を作るものは、より高次の概念に過ぎないし、より高次の概念は、低次の概念の規定が、その勢位にしたがって保持されなければならないからである。

[177]知の体系の中にある諸概念は、したがって、どの人の理性においても有機的刺激の誘因に対して等しい仕方で発展する。他の人を通して概念が受領されることはそもそもあり得ない。

 

1.すでに知のイデーの中に、誰もがこの思考を等しくそのように構成できるべきだという要請がある。どの概念もこの生産の中にのみある。


2.したがって知の領域においては、発見者と模倣者の関係は存在しない。すべて真の発見は、知の外部で、無規定な思考の領域の中にのみあり得、知においては、発見者はすべて同輩中の第一人者に過ぎない。


3.これは「学習はすべて想起に過ぎない」というプラトンの言葉において正当なものである。そうでなければ、この言葉は生得的なものと同じく誤解され易い。私たちは概念を、それが先ず私たちの中に成立する以前には、概念として私たちの中に持ってはいなかった。理性にあるのは、生き生きとした衝動としての、すべての真の概念の図式論に過ぎない。

[178]私たちは、絶対的に考えると、均一の概念生産に対する要求を全人類に拡大することによって、私たちはそれ(均一の概念生産)を、すべての人の自己意識の均一性と結合する。

 

1.子供や幼稚な人々は、この要求を獣などに対しても行なう。なぜなら、彼の中には生一般の意識はあっても、人間意識に特有の意識は、確かな明確さにまでは発展していないからである。この転逸は当然とも言える。なぜなら、私たちは、凡俗な生の無意識的実践のために、それを完全に免れることはできないからである。しかし、私たちは、獣に自我を帰さない限りにおいて、すなわち、たとえ外的刺激は同じように定立されているようでも、自らの内的刺激の相互連関的知覚を帰さないことによって、それを免れるのである。


2.私たちは均一な概念生産を、均一な外的刺激に結び付けることはしない。なぜなら、むしろ私たちは、あらゆる伝達を通して、様々に異なった外的刺激においても、概念の均一性を目指すからである。したがって結合点として残るのは、その客観的内容を度外視し、純粋にその内的側面から見られた有機的刺激の同一性のみである。これは、その姿の同一性の印象についての知的側面である。


3.この結合の中に、以下のことが定立される限り、すなわち、自己意識において諸概念の全体系は発展できるし、発展しなければならないということが定立される限り、これは、小宇宙というイデーにおける正当なものであり、その根は、人は生のすべての段階を自らの内に持っており、それによって、外的存在に関する自分の諸表象を形作るのである。

[179]知を構成する諸概念が一つの全体を形成する場合、他の(知を構成しない)諸概念は、これとは別に、もうひとつ他の全体を形成するわけではなく、それら諸概念は、この全体に通過点として結びついている。

 

1.誤謬として知の概念と同一の対象を共に持っている誤謬のみならず、一見自由に形成された概念も同一の源泉を持っている。なぜなら後者も、より高いところから見れば誤謬に過ぎず(例としてケンタウロスやセイレン)、知と思考の対象は、全体においては、一つだけだからである。


2.知が少なければ少ないほど自由な思考が多くなることはないし、また知が多くなればなるほど自由な思考が少なくなるということもない。なぜなら、衝動の欠如に基礎付けられている限り、少ない知はわずかな自由な思考しか許容しないからであり、その逆も真だからである。しかし、次のように言うことができる。もし知があらゆる方向に完全に発達するならば、自由な思考は停止してしまうと。それ(自由な思考)は次のような試みの中にのみ存在している。すなわち有機的刺激が与えられていない概念体系の分岐を形作る試み、あるいは正しい包摂の道がまだ見出されていない有機的結果を捉える試み、あるいは欠如した外的存在を補う試みである。これらすべての試みは、知の到来と共に終わってしまう。


3.このような(自由な)思考の在り方は、芸術や詩の要素であると人が考えるならば、当然結果するのは、学問の増大につれて芸術が減少しなければならないということである。しかし、この見解は不当である可能性がある。

[180]第2に、知が概念の形式の下にあるべきであり、したがって概念において思考されたものには存在が対応しているなら、存在においても概念においてと同様、普遍と特殊の対立が生じなければならない。

 

1.なぜなら、概念は、この対立の中にその本質を持っていたのであり、概念において定立されたものはすべてこの形式において定立されたのだった。したがって、存在が概念自体と対応可能なのはこのような対立をおいて他にはあり得ない。


2.この教説は、イデーの教説あるいは諸概念の実在論である。

 

a.この理論は、すでに排他的なものとしての実在論的見解の拒否と関係している。そして人はここで諸概念の実在論と個々の事物の実在論とを対置せねばならない。なぜなら、絶対的で無規定な多様性が全存在でないならば、そのような多様性は概念の下にあるから、概念と等しく置かれた存在、あるいは概念を越えて立てられた存在が存在しなければならない。


b.もし人が、イデーについての教説と、諸概念の実在論の教説を等しく置くなら、人はイデーと概念とを等しく定立してはいない。古代のプラトンの用語法では、エイドスとイデアとゲノスという3つの語は、ある場合には思考の中に、ある場合には存在の中に定立された普遍的なものに対してというように混同して用いられていた。後になって、人はイデーを後者の場合と見なすか、または概念にそのような存在が対応している場合に限り、知としての概念と見なした。

[181]低次の概念は、より高次の概念の中に、その可能性にしたがって根拠付られ、より詳しい規定の多様性において、それ(高次の概念)を直観へともたらす。また、高次の概念は、低次の概念の数多性の生産的な要約である。そのように、より低い現存在も、より高次の現存在を直観へともたらす存在あるいはその(高次の存在の)現象である。そして、その可能性にしたがって、より高次の現存在に基礎付けられる。そして、より高次の現存在は、生産的な根拠あるいは、諸現象の数多性に向かう力である。

 

したがって、それ自体定立されたり、定立可能な存在としての生き生きとした力は、一般的概念としての属や種に対応する存在である。そして、その現象は、より低いものとしての個々の表象に対応する存在である。

[182]一般的概念が他の連関においては特殊な概念でもあり、特殊な概念は一般的概念でもあり得る。正にそのことによって概念の領域は制約されている。同様に、どの実体的力も現象と見なされることができ、またすべての現象が力と見なされもする。正にそのことによって実体的存在の領域は制限される。

 

従属した=一層特殊な力は、より高次の力の諸現象の一つである。そして、すべて個々のもの(人間)は、その属(人類)との関係において現象に過ぎないが、それ(個々のもの、人間)が、さらに概念にまとめることが可能である限りでの統一から諸現象の多様性をもたらす限り、再び力でもある。

[183]正にそれゆえに、力の概念の最高の上昇は、概念の上の境界に対応しているもの、すなわち神と同じではあり得ない。

1.神のこの構築、汎神論的構築は二重の仕方で実現される。

a.抽象的諸概念の側で、諸対立における上昇を通して、観念的なものと実在的なものを二つの最高の力と見なし、両者がそこを出発点とするところのものを、それについて他に考えられないと見なすことによって(実現される)。

b.生き生きとした諸概念の側で、人が属から生の力の統一へと上昇し、無生物の調和を通して天体の統一へと上昇する。それから天体の多元性の調和を通して世界を形成する力の統一へと上昇する。そこにおいて、すべて実際の思考は有機的自然の中に含まれていなければならないゆえに、概念と対象の対立もまた止揚される。

2.私たちの内にある概念は、その概念に従属するものの体系と同時にある時のみ真実であるように、この絶対的な力についても次のように語られねばならないだろう。すなわち、それは、その力に従属しているもの、様々な天体の生き生きとした統一と共にあるものにほかならず、それを通して―絶対者の自然哲学的表象もそこに逆流するのだが―、また先のものによって、それは、観念的なものと実在的なものとが一致する存在においてあるものに他ならない。

3.それから、それは、全く最高の概念の形式の下に置かれ、したがって、概念を超越し、その外に定立された思想には対応していない。したがってまた、それに対応可能なものが、現象する力の領域の外部にあるものだけであるような思想には対応していない。

4.したがって、神がそのような境界付された思想に対応すべきである限り、それは最高の属と見なすことはできない。

5.スピノザ的概念は、ここでは特に判断の対象にはなり得ない。それは抽象的形式に過ぎない。なぜならそれは抽象的な対立という結果になるからである。したがってそれは実在性を持つが、ここはそれを吟味する場所ではない。

[184]したがって神の確信は、存在における力と現象の対立についての確信と同一線上にはない。

1.もしこのようなことがあれば、私たちは属を直観するように、神をも生き生きと直接的に直観できなければならないが、それは不可能である。

2.この類比のゆえに、汎神論的イデーもまた宗教的意識の表現と見なされることはできなかったし、常に宗教的意識によって退けられた。

3.自然哲学的構築における誤りは一層明白である。なぜなら、諸天体の多元性は、その統一が有機的力と無機的力の二重性において現われる限り、創作に過ぎないからである。そして知は、天体の統一性以上には進まない。その統一性において、理念的なものと実在的なものとの対立は、相対的な仕方で結合しており、従属的な諸力の相対的全体性は要約される。

4.人はこの危機を次のようにまとめることも可能である。自然哲学的構築は、固有性の領域にとどまっており、それゆえ絶対的知に対応するものに至ることはないと。スピノザ的構築は、普遍的なものにとどまってはいるが、しかし、それは他ならぬそのゆえに単なる形式に過ぎない。

[185]判断が多数ある可能性についての考え―下方向への概念はそこで終わるのだが―に対して存在の側で対応するのは、混沌とした物質あるいは物質的混沌である。

1.この混沌の中に、不確定的な多様性は定立される。統一性と数多性との確かな対立は、数多性が自らの対立の欠如や統一の欠如によって没落することにより破棄される。そして普遍と特殊の相対的対立―それと共にすでに形式が定立されているのだが―は、特殊の孤立化によって消滅する。これが、この考えの否定的側面である。

2.しかし、混沌とした物質には、すべての有機的刺激の無規定な根拠が(当然ながら間接的にしか過ぎないが)定立されており、したがって、判断が多数あることの根拠もそこにあり、そのような諸判断から概念が形成可能となるのである。したがって、それは特に下からの概念である。これがこの考えの積極的側面である。

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[209]

存在の全体性についての私たちの知の中にのみ、思弁的なものと経験的なものとの同一性があり得るとしても、しかし、存在の個々の領域はすべて、両者の在り方の内の一方だけにおいて、別々に意識され得る。

[210]

思弁的なものと経験的なものとの相互浸透の代わりに、私たちに可能なのは、他方に対して一方が伴うという関係、あるいは学問的批判である。

[211]

私たちにとって行動の体系は、ただ有機的刺激を介して、したがって活動的意識を介してのみ存在する。そこで自ずから次のような対立が生じる。すなわち、意識が、ただ受動的でしかないような行動と、意識が能動的に現れる行動との間の対立である。前者は経験的な領域で自然的知の領域を形成し、後者は倫理的知の領域を形成する。

そもそも行動の意識においてはすべて、私たちはその一方の要素であり、私たちの外に定立されたものが、もう一方の要素である。ただ間接的にのみ、その後私たちは、後者[私たちの外に定立されたもの]において、二つの互いに作用し合う要素を区別するか、または、私たちが、私たちの様々な能力に目をつける場合には、前者[私たち]においても、そうした要素を区別するのである。

212]

倫理的領域と自然的領域とのこの対立は、すでにずっと以前に、私たちが知を意欲とともに意識することによって私たちに与えられていた。

213]

人は倫理的なものと自然的なものとを、二重の仕方で一つの系列を形成するものと見なすことができるが、人間における対立が現れる点は、常に転換点である。

214]

私たちは知における確かさのためと同様、意欲における私たちの確かさのために超越論的根拠を必要とするが、両者は異なるものではあり得ない。

215]

これにしたがって、私たちは超越論的根拠をも、ただ思考と意欲との相対的同一性においてのみ、すなわち感情において持つ。

216]

私たちは、私たちの中に、また事物の中における神の存在を知るだけであり、決して、世界の外にある神存在あるいは神存在自体を知るのではない。

この問いに肯定的に答えた場合には、神の中に異なるものが定立され、神は絶対的統一ではなくなってしまう。否定的に答えた場合には、世界の存在が神の中に基礎付けられなくなってしまう。なぜなら、そうでなければ、神存在の内の世界存在を越えて聳えている部分が、世界を基礎付けつつ、世界と同等なものになるに違いなく、それによって、前のところ[a]に戻ってしまう。カントはこれを彼の二律背反において提示したが、自分の最も内奥で捉えることをしなかった。それゆえ彼においては、単に混乱した形で作用しているに過ぎない。

217]

したがって私たちは、宗教的感情を表現する不十分な絵画的表象すべてと一致できるが、それはただ私たちが、その効力の限界をわきまえているからである。

218]

世界という(問題の多い)イデー、すなわち、数多性として定立された存在の全体性も同じく私たちの実在的知の外部にある。

219]

世界と神という両イデーは相関的である。

[220]世界のイデーは、神のイデーと同一の意味で超越論的であるわけではない。

すなわち、私たちは、私たちの地上を所有するのと同じように、すべての天体を、その倫理的・自然的体系と共に所有するという可能性を考えることができる。障害が残る理由は、世界は他ならぬ私たちと同様に、対立の形式の下にあるのだが、過程の無限性と私たちの有機的組織の限定性のみが地上の勢位(Potenz)の下にあることである。これに対して神のイデーに関しては、私たちは次のように告白しなければならない。私たちはそのイデーに、無限の過程を通してや、上昇する有機的組織によっては決して達することはできないと。なぜなら、私たちがそれを持つことができるなら、それをただひとつ行動によって(uno actu)いっぺんに所有しなければならない。そこには数多性が存在しないからである。それゆえ、私たちは神のイデーを所有することは決してできない。なぜなら、すべて認識の対象は、有機的なものだが、神のイデーは有機的には把握され得ないからである。(したがって、神のイデーは実際には、私たちが、言うなれば有機的思考に先立って表象する衝動の中にあるに過ぎない。)

[221]しかし、世界イデーもまた独自な仕方で超越的である。

1.すなわち、神イデーは、進歩する知としての私たちの知の根拠ではない。私たちは神イデーに、知が拡張することによっても、知が完全なものになることによっても近づくことはない。なぜなら、神イデーは、特定の知のどの行為においても同じように与えられるからであり、それは人間意識一般の特徴的要素だからである。獣が神イデーを持ったり、特定の知を持ったりできないのは、同じ一つの能力の欠如による。しかし、神イデーは、多くの行為においては一つの行為においてよりも多くあるというわけではない。また集中的な知の進歩(すなわち、そこにおいて、すべての個における全体性が表現されるような、より高い程度)によっても、私たちはそれに近づくことはない。したがって、神イデー以外に他の超越的原理が存在しないならば、私たちは常に思考し、知ることがあっても私たちは知において進歩するよう努力せず、知は偶然に委ねられたままになってしまう。これは、神イデーの中に休息してしまう人々が、学問を軽蔑する仕方によっても明らかである。知のイデーの中に、有機的知への傾向があるのが明らかならば、知は[世界という]もう一つ別の超越的原理をも必要とする。

2.上記([220])にもかかわらず、世界イデーは、知の広がりという意味で外に向かってのみならず、内部に向かっても私たちの実在的知を越えている。なぜなら、私たちは、概念としての私たちの知と、判断としての私たちの知の間にある不一致を明らかにすることができるが、それは、世界イデーにおいては完全に止揚されねばならないからである。同様に、世界イデーは密度に関しても私たちの知を越えている。というのは、私たちは(以下に示されるように)すべての概念を常に、一時的なものと見なさねばならないが、しかし、世界イデーにおいては、すべてが必然性を伴って定立されるからである。したがって真に超越的なものとして、世界イデーは、原理でもあり、形式でもあらねばならない。

[222]神のイデーが超越的な開始点であり、知自体の可能性の原理であるように、世界イデーは、超越的終点であり、知の生成における知の現実性の原理である。

1.神イデーに人は接近することはない。このイデーは個々の知すべてに対して―この知は神イデーがなければ遂行され得ない―等しい仕方で根底にあり、その連関とは無関係である。(私たちはこのイデーに対して、ただ間接的に二重の仕方で接近する。先ず誤謬を遠ざけることと不十分さを認めることによって、それから、この神イデーの写しとしての世界に私たちが接近する限りにおいて。)

2.これに対して、世界イデーについては、次のように言うことができる。私たちの知の全歴史は、それへの接近であると。なぜなら、人は経験的なものと思弁的なものとが相互浸透すればするほど、知の広がりにおける、また密度における完成を通して世界イデーに実際に接近するからである。

したがって世界イデーは、現実的にも念頭に浮かぶ図式として、言うなれば、実践的に超越的な知の原理である。なぜなら私たちは、このイデーを実現するために意図的に前進するのだから。同じようなことは獣には不可能である。獣は世界イデーを捉えることはできないし、知への衝動を持つこともないが、それは同じ一つの能力の欠如による。上(主命題)において用いられた表現は、これ以上の意味はない。

[223]世界イデーについても、その存在自体や神との対立におけるその存在が私たちに与えられることは、ほとんどなく、ただ私たちにおける(世界の)存在や事物におけるその存在が与えられるに過ぎない。

世界は、私たちの中で意欲と知の衝動として、神のイデーと全く類似している。世界は事物の中にあるが、それは事物の本質が、事物の連関によって規定され、それによってどの事物の中にもすべて有限なものの全体性が置かれるという程度による。世界は私たちに神との対立において与えられるのではないということは、上のことから生じる。世界自体の存在が私たちに与えられることもないが、それは、過程の無限性のゆえのみならず、数多性を、世界イデーの対応しない単なる集合体として把握することなしに、あるいは数多性を特定の統一に還元することなしに、私たちは数多性を現実に定立することはできないからである。すべて現実に実現された世界の諸表象は(例えば、世界を精神世界と身体世界などに分離する場合のように)不十分であり、また神の諸表象と同じように比喩的である。

[224]私たちには神と世界との共存という関係以外に他の関係を両者の間に定立する権限はない。

というのは、私たちが両者の対立を構築することはほとんどできないのと同じように、私たちは両者の同一性をも構築できない。なぜなら、私たちにおけるそれらの存在において、両イデーは異なっているからであり、他方では、私たちはそれらを、それ自体として互いに分離して考えることもできないからである。私たちはしたがって一方の存在と他方の存在の間を揺れ動いており、慎重さをもってしても他のあり方を期待することはできない。両者の同一性や対立の定立は、等しく、現実の思考から出てしまうことであり、それ(神と世界という両イデーの同一性や対立の定立)は、しかし、すべて真に超越的なものがそうであらねばならないように、同時に内的必然的な行為ではなく、両イデーが私たちにおいて超越的原理であるあり方からも、それは結果しない。

[225]哲学的技法は、いかなる仕方においても、両者(神と世界)の関係について絵画的表象を承認することはできない。両者の必然的共存は、それと調和しない。実際には、この共存の表現に他ならない絵画的表象は、誰の役にも立たない。

それゆえ全く許容しがたいのは、有限な存在は神からの離反であるというシェリングの表現である。なぜならもし神が、神からの離反なしに思考され得ないならば、善が悪によって規定されてしまう。悪は神の必然性と等しい実在性を持つことになる。純粋に保持された神イデーは空虚な統一すなわち無に等しく、世界のみが完全な統一であらねばならないという表象は、焦点がずれている。神は完全な統一であり、世界はそれ自身において数多性である。それによっては、両者の緊密な関係以外に何も定立されない。

神は原像で、世界は写像であるという考えは、写像がなければ原像も存在しないという前提がある場合にのみ妥当する。

[226]もし超越的なものと形式的なものとが分離され得ず、同一であるならば(序[14]‐[16]、[76]‐[85]を見よ)両イデーにおいて、形式的内容は、超越的内容と同じ関係にあり、したがって神イデーは、すべての知自体の形式であり、世界イデーは、知の結合の形式である。

この両者はすでに上(序[14]−「16」)で、形式の方向性と表現において異なったものとして区別され、しかし一つのものとして互いに分離できない。これらの形式的関係が、そこにおいて与えられる両イデーも同じような関係にある。

知はすべてそれが概念としてであれまた判断としてであれ、統一へともたらされるならば、知として完成される。その統一とは、普遍と特殊、理想と現実、存在と行為の統一だが、これは絶対的統一によってのみ思考され得る。同様に、一つの知と他の知との意図的な結合―それは単なる分析ではない―はすべて、相互に対応する断片を、部分に対する部分を、部分に対する全体を探し求める。しかし、それゆえに、全体は常にくり返し相対的全体であり、したがって数多性が定立され続ける。

[227]超越的なものと形式的なものとの同一性として、両イデーは、駆り立てる力を持った原理だが、それ自体としては、個において等しい比重を占めることができない。一方(神イデー)に重点が置かれれば、神智学となり、他方(世界イデー)に重点が置かれれば哲理(Weltweisheit)となる。

一方(神イデー)は、落ち着いた原理であり、実在的知の内容やその進歩にも無関心である。知自体における至福である。他方(世界イデー)は、進歩における知の活動であり、常に全体に向けられ、個々のものすべては通過点と見なされる。

進歩において優勢な人は世界イデーに駆り立てられており、そのような人には、個々の知すべてにおいて神イデーが到来することもなく、そこにある至福が意識に上ることもない。

これら両方のモメントを、誰しも持っていなければならないが、皆自分固有の程度においてである。一方が他方から完全に分離されたり、誤解からそのように見なされる場合に限り、(神と世界との)対立が始まる。その時にも、しかし、知のイデーの真の生は、個々のもの自体にはなく、再びただ人類の統一の中にあり、そこにおいて両者は本質的かつ永遠に一つにされている。

[228]諸原理の集合体である形而上学も、超越的なものを分割したことに不当性がある。

合理的心理学が幻想的なものになったり、経験的なものの中をさ迷ったりすべきでないなら、そこには、知のイデーと行為のイデーが人間存在の構成原理としての神と世界イデーへ発展すること以外のものが含まれることはできない。存在論の中には、もしそれが経験的になったり、経験主義的心理学に基づくべきでないなら、次のもの以外含まれることはできない。すなわち、知の形式への対応―それが先の二つのイデーを構成するのだが―と、あらゆる対立の相対性の発展である。したがって、これら二つの学科は、相互連関的なものであり、分離され得ず、しかし後者は、本質的に前者に包含される。なぜなら、私たちには、私たちの存在の根本条件においてのみ、これら有限的存在の構成一般が与えられているからである。しかし、もし神学と宇宙論が、心理学と存在論のためのイデーとは別のものになろうと欲するならば、それらは超越論的領域を飛び出してしまい、独善的なものや経験的物質的なものに侵食されてしまうだろう。

[229]従来の形而上学に対するカントの論争も誤解によって汚染されている。