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最終更新日2000118

1271

1.  解釈学は、語りが理解できないという事実に基づいている。

注釈:そのような無理解を最大限広く取れば、母国語や日常生活にも〔こうした無理解はある〕。

2.  この無理解は、ある場合には内容の不確かさであり、ある場合にはその両義性である。

注釈:すなわち、語り手の責任とは別に考えられるということである。

3.したがって、出発点は、理解のあらゆる条件を持つようにする技法である。

4.理解の説明をこれに加える人々もあるが、正当ではない。

注釈:エルネスティに、注釈を書くという章があるのはこのためである。しかし、このような説明は、構成の一種に他ならず、したがって、再び解釈学の対象である。原因は単語のギリシャ語起源にある。

5.このような説明にはあまりに多くのものが含まれ過ぎているように見える。なぜなら、言語や事柄の知識は、最初の読者や聴衆に前提されているからである。

注釈:したがって、解釈学が先ず向かうのは、文法と、諸々の学問である。そうでなければ、解釈学は、あらゆる教授を自ら引き受けなければならないだろう。

6.しかし、言語そのものや、感覚を超えた事物についての知識に人はただ人間による語りを理解することによって達する。

注釈:したがって、解釈学は、言語知識の上に立てられるわけではない。そうではなく、それは、その境界の決定が困難な二つのものの相互関係である。

7.私たちはこのような意味での解釈を子供の頃からしているために、そのような理論は余計だと考えるかもしれない。

注釈:一般的なものは、自ずと理解できるし、より高次のものは才能や天才の問題であり、その場合も助けは不要である。

8.〔解釈学の〕作業は、たいてい付随目的が存在するという場合に起因する。

注釈:神学者や法学者。後者においては、語り本来の内容を超え出る論理的解釈が主要問題である。〈1272〉前者においては、著者が写本に溶け込んでいるということによって必然的となる。そして、そこから教義的解釈や他の悪用が生じる。

9.本来の言語学者や語りの技法に精通している人は、解釈学を用いることはなく、実践で満足する。

注釈:言語使用のより厳密な規定によって、また、歴史的考証資料の提出によって、彼らは解釈学の領域を減らそうとする。まだ残っているのは天才であるが、これには分析は助けにならない(ヴォルフを見よ。)

10.この状況は、すべての技法理論において同じである。

注釈:これらの理論が芸術家を作るのではない。しかし、解釈者が芸術家的になればなるほど、彼の仕事を見ることは面白くなる。実践的指示による方が、直接的に規定された必要に、よりよく応じられることは当然である。

11.解釈学の仕事は、理解が不確かなところで始められてはならない。そうではなく、その企ての始めから、語りを理解しようとするところから始めねばならない。

注釈:なぜなら、その理解は、すでに以前から等閑にされていたゆえに、不確かであるのが常だからである。

12.解釈学の目標は、最高の意味における理解である。

注釈:低次の格率:矛盾にぶつかることなく、実際に把握したものすべてを人は理解した。高次の格率:人が彼のすべての関係と連関において後から構築したものだけを、彼は理解した。これにはまた、著者を、彼が自分を理解している以上に理解するということが含まれる。

13.理解は二重の方向性を持っている。すなわち言語へ向かう方向性と、思考に向かう方向性である。

注釈1:言語はその中で考えられ得るものすべての総体である。なぜなら言語は閉ざされた全体であり、特定の思考の仕方に関係しているからである。言語におけるすべての個別的なものは〔したがって語りも〕、その〔言語の〕全体から理解され得るはずである。

注釈2:どの語りも、語り手の持つ一連の考えに対応しており、したがって、語り手の性質や気分や目的から完全に理解され得るはずである。私たちは前者を文法的解釈、後者を技術的解釈と呼ぶ。

14.これは2種類の解釈があるということではない。そうではなく、すべての解釈が両者を完全に達成しなければならないということである。

注釈:人はしばしば解釈の種類について語ってきた。しかし、種類とは、ジャンルの概念を完全に自らに保持しているものである。このようなものはここでは起こらない。ただ文法的にだけ理解しようと欲する人は、常にただ非技法的に〈1273〉理解しようとする。ただ心理学的にだけ理解しようと欲する人は(人はこれをア・プリオリに悪ということはないが)、常に非語学的(unphilologisch)に理解する。

15.両課題の両立性は、言語に対する語り手の関係から明らかである。語り手は言語の器官であり、言語は語り手のものだからである。

注釈1:言語は、どの語り手をも誘導する原理である。言語において捉えられた思考の領域の外に語り手は出て行けないという否定的な意味においてばかりでなく、言語の中にある諸々の親和性によって、言語が語り手の〔行う〕推測を導くという積極的な意味においてもそうである。したがって、各人はただ言語欲するものだけを語ることができ、また、各人は言語の器官なのである。

注釈2:その語りが対象となりえる語り手は誰でも、独自なやり方で、考え方に自ら手を加えたり、規定したりしている。このような個々の人間の言語活動に常に起因する、新しい対象や新しい可能性(Potenzen)によって、正に言語はより豊かになるのである。

16.正にすべての理解において、両方の課題が解かれなければならないゆえに、理解は技法(Kunst)なのである。

注釈:個々の言語はすべて、おそらく規則によって習得可能である。そして、そのように習得可能なものは、機械論的である。技法とは、それについて確かに規則は存在するが、その規則を組み合わせて使うことについては何の規則も存在しない、そういうものである。〔語りの〕この二重構造も、二つの課題〔文法的解釈と技術的解釈〕の絡み合いも、正にそういうものである。

17.解釈のいずれの側においても、その二つの関係の一つが支配的関係になっている。

注釈:文法的側面は語り手を後退させ、彼を単なる言語の器官と見なす。そして言語を語りの本来の起源と見なすのである。技術的解釈の側は、反対に、語り手を語りの実際の根拠と見なし、言語を単に否定的な制約原理と見なすのである。

18.しかし、片方がより低次の理解に、もう片方がより高次の理解に用いられるということではない。

注釈:人は、より高次のあるいは低次の解釈について語り、その場合、文法的解釈を、より低次の解釈と言ってきた。しかし、文法的解釈は、著者自身意識していない多くの内容を明らかにする。したがって、最も高い理解に通じているものである。また、技術的解釈が、単に低次の理解にしか値しない対象と関わることがしばしばある。

19.両側面が、すべての対象において等しいウエイトを置かれているわけではない。

注釈:単に知覚が再現されるに過ぎないものにおいては、語り手は後退する。感覚が再現されたり、恣意として到来が予告されるようなものにおいては、〈1274〉語り手が前面に出る。最高の対象、哲学と詩においては、両者に等しいウエイトが置かれる。なぜなら、両者には最高の主観性と最高の客観性があるからである。

20.どこにおいても人は、それぞれの側と、あたかも他の側がないかのようにして取り組むようにしなければならない。

注釈:文法的解釈は、あたかも語り手については何も知らないかのように、あるいは、彼を初めてここから知るかのように。技術的解釈は、あたかもこの側面の確実さによって、与えられた語りから、初めてその言語を知るかのようにして。

21.理解は両解釈において、質的と量的という二重の理解である。

注釈:1)単語と内容、語りと考えは互いに正しく対応させられる。2)大きさと内容とは、正しく平均値が求められねばならない。副題を主題と見なしたり、重要なことを意味のないものと考えたり、高次なものを低次なものと見なしたり、あるいはその逆をしたりしてはならない。したがって、これはいずれの側にとっても主要区分である。

22.〔欠損〕

23.したがって、第一に、いかなる所与の語りもそれ自身だけによって理解されることはできない。

注釈:なぜなら、文法的解釈を支援しなければならない、著者についての知識は、他のところに由来しなければならないからである。また、技術的解釈を支援すべき、対象についての知識は、他のところに由来しなければならないからである。

24.語りまたは文書はすべて、より大きな連関においてのみ理解されねばならない。

注釈1:私が著者の研究に従事しており、彼についての知識をすでに持っているか、あるいは、私は対象の研究に従事していて、すでにそれを、特定の叙述の理解に結びつけることができるほどに知っているか、どちらかである。

注釈2:私が先ず語り手のところに行くならば、私は彼を特定の関係において見出す。もし私が、正しい仕方で著者のところに至るならば、私は、彼自身が大衆の中から特定の関連へと切り離された所において、彼を見出す。同様に、もし私が先ず対象に向かうならば、私は、教授されて最初に知り合いになったところから始めなければならない。あるいは、私はその対象を、それ自身が先ず展開した所で、すなわち、より大きな場からそれ自身の場として分離された所で、理解しなければならない。哲学が詩から、他の種類の詩が叙事詩から分離されるように。

注釈3:両者のうち一方だけが生じる所では、他方が補足されねばならない。

25.根本的な研究の進展における以外に、正しい理解は存在しない。

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注釈:根本的な研究はすべて歴史的であり、根源から始まる。不十分な理解はすべてその欠如にその理由がある。人がそのように作品に来る所では、人は部分的かつ不完全に理解していることを知らなければならない。

26.歴史的な系列が中断されるところでは、その穴は他の方法で補われなければならない。

注釈:これは事例としての新約聖書へのあらゆる導入の本来の目的である。批判的部分の不都合な優位は、解釈学的なものの怠りを伴う。その目的は、新約聖書が直接成立した世界を可能な限り叙述することでなければならない。各人は、自分がこれらの知識を、ただ時おり個々の箇所で獲得するのか、それとも、前もって獲得し、それらとともに全体的直観も獲得するのかということが生じさせる違いを感じるだろう。

27.したがって第二に、単に全体の理解が個の理解によって制約されるのみでなく、反対に個の理解が全体の理解によっても制約される。

注釈:というのは、もし個が系列の要素として理解されるべきであるなら、代表的人物や、全体の傾向、種類やあり方も知られなければならないからである。また、もし個が言語の産物として理解されるべきであるなら、どの言語領域に精通しているのかということも既に知られていなければならない。

28.全体は、さしあたりジャンルの個体として、またジャンルの直観として理解されるべきである。すなわち、すなわち、全体の形式的な理解は、個の実質的な理解に先行しなければならない。

注釈:人がジャンルの知識へと根本的に至ることができるのは、ただ、そのジャンルに従属している個体についての知識を通してであることは当然である。しかし、その場合にも歴史的に持っても早いジャンルの〔知識である〕。そして、そこにおいて人はそのジャンルも新しいものとして、既知のより古い場から生じるのを見る。恣意的な産物は決してジャンルにはならない。それらは常にただ従属的観点から理解されねばならない。

29.全体は、実質的にもさしあたり、素描として理解されるべきである。

注釈:すなわち、従来の諸前提の下においてのみ。生き生きとした語りにおいて、語り手は、聴衆が未熟であればあるほど一層この概観自体のきっかけを作らねばならない。彼がそれをできなければそれだけ一層次のように言うことができる。すなわち「すべては記憶にとどまり、したがって、後からの理解が容易になる」と。説教。法廷での弁論。

書かれた語りにおいては、これは連続した読み物である。最初の条件。

30.両方の操作が互いに補い合うことによって、理解が成立する。全体像は、個の理解によってより完全なものとなる。そして個は常に、人が全体を概観すればするほどより完全に理解される。

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注釈:このことも、理解が技法であることを証明する。もし人が個を互いに繋ぎ合わせるだけであれば、それは機械的な操作である。しかし、人は次のような実験をすることができる。すなわち、このような操作によっては、先へ進むことは無く、ただ空回りをしてしまうという実験を。