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最終更新日2001330

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第1部               解釈の文法的側面

1.私たちに最も近くあるのが、この側面から始めることである。

注釈:言語は、感覚的かつ表面的に語り手と聴衆とを仲介するものである。技術的解釈自体は、思考の内的プロセスにおける比ゆと結びつくことができるのみであり、したがって、非感覚的で内面的である。

2.課題は、言語から語りの意味を理解することである。

注釈:与えられていなくてはならないのは、言語の諸法則と、その言語の〔構成〕部分の内容である。求められるのは、考えにおける、話者が表現しようとしたものと同一のものである。

3.言語において二つの要素が区別されねばならない。実質的要素と形式的要素である。

注釈:諸々の単語とその結びつき。個々の音素(tonelement)には関わらない。それは重要とは見なされないからである。

4.解釈が一つの独自な技法であるべきならば、言語の諸要素は、言語の意味において、それ自体は不確かでなければならない。

注釈:もし人が、各単語や定式において、ただ一つのことだけを考えることができるのであれば、それら諸要素を知ること以外何も必要がなくなってしまう。それでは単に文法があればよいことになる。

5.文法的に不確かなものを、文法的に確かなものによって規定することの中に、解釈が常に存在する。

注釈:この説明は、相互関係的に対立する諸要素についての説明と同じである(序5,6を見よ)。なぜなら、語りが解釈の対象であればあるほど、語り手自身もまた言語形成的になるので(15の注釈2)、解釈はすべて継続的な言語理解である。したがって、その原理は、前提とされる言語知識のあらゆる度合において、同一でなければならない。子供の解釈学的操作から学ぶべきものが多くある。漸進的進展は、ここでもまた自然の条件である。

6.言語の諸要素は、全く不確かということはあり得ないが、しかし、全く確かということもあり得ない。

注釈1:そうでなければ、言語自体が全体性でも統一でもなく、習得ということもないし、〈1277〉学問的努力のないがしろにできない要求に対する使用の確かさもなくなってしまう。

注釈2:後者〔全く確かではありえない〕は、経験からも言える。言語の諸要素が経験自体から説明されるところでも、各要素は数多性として示される。

7.どの要素〔単語〕においても、使用の数多性と意味の統一性とが区別されねばならない。

注釈:諸々の単語の現実的な現われは、たいていの場合異なっている。その意味は、連関によって規定され、触発される。しかし、その下に、使用の数多性すべてが−様々な仕方によってではあるが−把握されるに違いないその単語の一つの場が存在する。

8.ある要素の個々の現われはすべて、使用の数多性の一つである。意味の統一性が、個々の事例に現われることは決してない。

注釈:それ〔意味の統一性〕は、単語のイデーである。前者〔要素の個々の現われ〕は同じものの諸々の現象である。後者〔意味の統一性〕は、常に連関によって触発される。すなわち、数多性の中に、他の様々な単語によって、何かが定立されるか、あるいは、その要素の場全体が、より小さな場へと制限されるのである。

9.これは言語の形式的要素にも実質的要素にも全く等しく妥当する。

注釈:両者の対立は、不変化詞〔副詞、接続詞、前置詞など〕によって仲介されるが、不変化詞は、内容的には形式的要素に属し、形態的には実質的要素に属する。それら不変化詞や実際の諸々の単語の間には、さらに別の品詞が存在する。それらは代名詞や幾つかの形容詞のような不変化詞に近いものである。それらは再び単なる形式に接近するが、それは、その形式が、それらの品詞に必然的に従うか、あるいは、それら品詞の同義語であることによってである。

10.ある実質的要素〔つまり単語〕の統一性とは、ある直観の−さらに規定可能な−図式である。ある形式的要素の統一性とは、関係の仕方の図式である。

注釈:このような見方は、次のような通常の見方、すなわち「実際の単語はすべて、最初からある特定の感覚的事物を意味し、すべて他の意味はここから導き出されたり、転用されたりする」という見方と対立する。しかし、そのような導出や転用は、全く恣意的で不明瞭な操作である。

11.使用の数多性は一般に、同一の図式が全く異なる場に現われることができるということに基づいている。

注釈:時間と空間(運動によって姿形を表象する)、外的なものと内的なもの(同時に定立された語りと思考、欲望と掴むこと)、理論的なものと実践的なもの、(考えることと決定すること)、理念的なものと〈1278〉現実的なもの、(認識と感覚作用)

12.どの要素も、その要素が現われうるすべての場に最初から現われるわけではない。

注釈:なぜなら、言語が最初から至るところで図式の同一性を意識するわけではないからである。ここには次のような事例も含まれる。すなわち、人が後になって現実的な場で現われる単語の為に、特定の感覚的な使用を、最初の使用として証明できるような場合である。ここにある図式は、常により強力に現われ、優勢になる。そして、個々の事例は、ただその具体例としての価値を持つに過ぎない。

13.結合の仕方が他の方向性を獲得するような場合には、単語は古くなるか、その図式がずれを生じるかのいずれかである。

注釈:例えば、異分子(Fremdling)や敵意(Feindseeligkeit)〔といった言葉〕は、誘因となる原因や内的働きかけとして、一つの単語に結合されることが可能であった。これが分離するならば、その単語は古くならなければならないか、または、それは単に両者の一方だけを意味するに過ぎない。

14.下層の国民による誤用によって、言語の中に入って来るものもある。

これは、もし正しく認識される前に根付くならば、そもそも専制政治の慣習の領域である。個々において何かを単なる言語使用と説明することは、人がその成立根拠を説明できるまでは、軽率である。

15.したがって個々の要素の意味は、語り自体においては明瞭ではない。そして、解釈の文法的側面は、現実的な課題である。

注釈:なぜなら、ある単語の内的本質が知られるとしても、その本質自体は決して現われないので、その内的本質に対して現実の現われの持つ関係が、常に先ず探り出されなければならないからである。しかし、この関係は、連関から知られ得るのでなければならない。この連関が、そこにおいて正にその単語が活動する場を規定するからである。

16.その都度規定されるべきものは、個々の使用法であり、これは既知のものとして前提されている統一に戻らねばならない。しかし、私たちは内的統一の知識に、個々の語りの理解を通してただ徐々に到達できるのであり、従って、内的統一が発見される場合には、解釈の技術も前提とされているのである。

注釈:すでに上(6)で触れられた困難。それは、(15で述べられた)言語に対する語り手の関係によって解決される。語りを理解することはすべて、言語の継続的な理解である。言語を理解することは、様々な単語の統一性を知ることである。したがって、両者は一つの同じ〈1279〉操作である。

17.すべての使用例という全体を並べることができた時にのみ、内的同一性を見出したという確信を持つことができる。しかも、このような全体は決して閉じられることがない。したがって、厳密に言えば、この課題は無限のものであり、ただ近似によってのみ解決可能である。

注釈:この近似の第一の部分は、最後の部分と同じ法則の下にある。したがって、その方法は本質的に同じでなければならない。

従って、子供の成長過程からは、解釈学にとって学ぶべきものが多くある。

しかし、理解は正に一つの系列であるがゆえに、人はただその都度前の要素から次の要素へと進むことができる。そしてただ段階的進歩によってのみ真の理解は可能である。

18.語り自体における個々の要素はすべて、多様なものに対する方向性を提供する。

注釈:なぜなら、どの要素に対しても、その単語に正に帰せられるような使用法の数多性が存在するからである。

19.個の理解は、したがって、全体の理解によって制約される。

27に従い、これは特に文法的側面に対して言えることである。

20.個々の要素に対する全体とは、先ず語り全体であり、それから、そこにおいて全体が直接現われるところの、個々の有機的部分である。基準:個々の要素における文法的に規定されていないものは、連関によって規定されねばならない。

注釈:なぜなら、この連関は、全体から、個々の有機的部分を通って、要素へと下ること、及びその逆にあるからである。この規定は、要素に最も対立するものとしての全体から始まらねばならない。なぜなら、他ならぬこの対立に、その救いがあるはずだから。

21.全体についての一般的表象は、個を特定の類に併合することによって、すでに個の多様性を制限している。

注釈:実質的要素も形式的要素も、詩と散文、学問的講演と家族的談話とでは、別の場を持っている。

22.また、全体についての一般的表象が、個を、言語の特定の時代に定めることによっても(個の多様性を制限している)

注釈:すでに12にしたがって、特に完全な生を達成している言語において人は次の三つの時代を想定できる。1)前学問的時代、そこではすべての対立はまだ展開してはおらず、詩人的自由や誤謬が支配的であり、その意義はまだ論じ尽くされていない。ギリシャ人では、哲学を構築したソクラテスまでの時代である。〈12802)本来の開花期、証明:哲学と芸術が互いに並行。ギリシャ人からマケドニア人まで。3)虚飾、融合、疎遠なものへの傾斜。

大きな時代の相違は、各個々の時代において、再びより小さな形でも現われる。個々の領域は、いつでも個々の時代の性格を帯びている。これらの事例のどれに対しても、重要性の独自な圏が、どの要素にも決定的である。

23.しかし、完全な規定は、ただそこにおいてその要素が直接現われるような、より小さな全体からのみ成長できる。

注釈:というのは、ここに先ずより厳密な境界線が現われなければならず、またここに最初に、様々な解釈学的操作の邂逅点があるからである。

A.        実質的要素の規定

24.この多様なもの(18)は、おそらくはより包括的であるとしても、単語の本質の表象がすでに閉ざされているならば、より規定されている。

注釈:なぜなら、その場合にはその表象は、かなり定められた図式の境界内に含まれているからである。

25.この多様なものは、人が最初にわずかの数の使用法しか手元に持っていなければ、おそらくはあまり包括的でないとしても、より不規定である。

注釈:なぜなら、その場合人は単語についての無知をより強く感じるが、どんな方向に他の使用法を求めたらよいかまだ知らないからである。

26.個々の使用例を人が一緒に持つことが少なければ少ないほど、既知の使用例から遠ざかることが容易ではなくなる。人がその図式について確信を持てば持つほど、その図式の下に包摂されるものを、容易に想定することができる。

前半についての注釈:すなわち人は、図式についての未知から不確かなものへ駆り立てられるからである。したがって、連関の力は、その場合非常に強くなければならない。あるいは、人は疎遠な助けを享受しなければならない。両者は通常母語を学ぶ場合である。したがって、外国語の学習においても模倣されるべきである。人が類似の原理をまだ見出していないか、様々な場を分離することを知らないときには、早過ぎる辞書の使用は危険が伴う。

この「少なければ」は、数的に理解されるべきではない。そうではなく、差異として理解されるべきである。対立する場からの使用例の少なさは、〈1281〉それが多い場合よりも、真の図式に通じている。

初心者のための疎遠な助けの正当な模倣は、この意味で作用しなければならない索引である。

後半についての注釈:ときおり人は、たった一つの箇所から最大限の確かさを持って、未知の使用例を探り出すことができる。人がその図式を知ることがまだ少なければ少ないほど、人は滅多にない使用例に気をつけねばならない。初心者によくある解釈ミス。

単に個々の使用例を集め〔その単語についての知識を増やしていく〕という前者の進展は、純粋に経験的な進展である。後者は、その図式から新たなものを想定することにより、構成的な進展であり、漸進的な言語の拡大の自己活動的模写である。両者がいかに互いに制約しあっているか、そして、子供の時すでに、いかに経験的な進展の端緒が構成的な進展に導かれていくかを人は見る。

27.使用法の完全性にできる限り接近するために自分の経験を補うものが種々の辞書である。

注釈:それら〔種々の辞書〕は、言語使用の蒐集として、経験的見解から生じるか、あるいは構成的であることを欲する。通常は、10の注釈のとおりである。人は、使用にあたっては、判断であるものはすべてできる限り脇へ除け、その構成自体を受け継がねばならない。

少なくとも人は、それら〔種々の辞書〕から、どの用法がどの場から出るものであるかを知ることができねばならない。

28.全体の表象は、それが対象を規定する限り、個の多様性を、素描された展望としても制限する。

注釈:当然のことながら、ここでは、主要対象を直接示している諸要素は、既知のこととして前提されている。(序の24に従って)これら諸要素を通し、特定の場が引き出され、そこへとすべてが秩序付けられねばならない。

29.主語として現れる単語は、もしその文が、対象自体の一部分を扱っていれば、このようにして規定可能である。

注釈:なぜなら、その場合、その単語は周知の主要要素と親和性を持つに違いないからである。

30.もし文が、そのような部分を扱わなければ、そこにある述語のみが、先のような仕方で規定可能である。

注釈:なぜなら、その場合述語のみが、なぜその文が叙述へと至るのかということの根拠を含むことができるからである。

31.全体の表象は、要素の規定に影響力を持つが、それは、その表象が、文法的契機に対する音楽的契機の関係に依存している限りにおいてである。

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注釈:音の全体性としての言語は、音楽的な体系である。音楽的なものは、どんな語りにおいても作用している。そして、この作用は、意味の作用とは別の根拠を持っているので、両者が争いあう可能性がある。

言語の音楽的要素は、ある場合には直接感情に働きかけ、またある場合には、記憶に刻印される。したがって、語り手が感情に働きかけることを望むほどに、あるいは、記憶に残る必要が強いほど、一層語り手は、音楽的な強さのために、文法的な厳密性を犠牲にするようになる。そのジャンルはしたがって、前面に出る音楽において、そのような偏向が前提とされるところ、されないところにおいて決定されなければならない。

散文的側面に対しては、前面に出る音楽のタイプが重要語であり、背後に退く音楽のタイプは、数学的な定式である。より高次の教育的な講演においては、音楽的なものは単なる遊戯として許容されるに過ぎず、文法的な厳密性を損なうことは決して許されない。

32.どの文も根源的には、主語と述語というただ二つの要素から成っている。

注釈:これは、プラトンと、さらにそれ以前にまで確かに遡る理論である。アリストテレスがはじめて連辞〔sein,bleiben,werdenなど〕を発見した。直観においては、両者の結合は媒介的ではなく、直接的である。動詞だけが述語の単純な形式である。形容詞は先ずは動詞から導き出された。そしてその導出の後で、動詞の単なる形式(それが連辞だが)がいわば蒸留後の残滓として残ったのである。多くの根源的な動詞が、このようにして失われた。〔一般〕動詞をbe動詞と共に分詞に解消するという倒錯。

33.最終的な決定は、主語を述語を通して保持しなければならない。また、述語を主語を通して保持しなければならない。

注釈:なぜなら、最終決定の諸々の場が、狭く限定されることにより、ある場の有効な部分とは、同時に他の場の部分でもあり得るような部分だからである。

34.拡大された文は、正にそのように取り扱われねばならない。

注釈:拡大された文では、二つの主要要素が、複数の部分に分解されるか、あるいは、副次的な規定によって、より厳密に叙述される。

一つの要素の場が、複数の小さな場に分解されるならば、それらは類似した関係にあるに違いないから、それらを互いに比較することは容易である。

副次的な諸規定は、そこにおいてそれらが述語となるような複数の文に解体され得る。そして、さらに多くの補助手段を提供する。その結果、複雑さは、同時に再びプラスになる。

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35.複合的な文はすべて、一つの単純な文に分解されねばならない。

注釈:真の統一であるようなすべての時代において、このことは困難ではあっても常に可能である。そして、これなしに根本的な理解は不可能である。

36.(Satz)の述語と主語は、対立する文(Gegensatz)の述語と主語からも規定される。

注釈:両者を、拡大された文の全体的意味において理解する。

複合的な文においては、至る所で対立の形式が支配的である。その範囲は、平行法−そこでは2番目の文は、1番目の文の反響に過ぎず、対立は空間的なものに過ぎない−から、厳密に論理的なものまで、あるいは、部分的なもの(対立する述語を伴う主語と対立する主語を伴う述語)から全体的なものまで。

類の相違は、言語の相違と同様、ここでも注意されるべきである。近代では、古代におけるほど対立は大きな役割を果たしていない。

37.最後に提供された諸規則は中途半端なものではない。

それらは、一緒に受け取られることによってのみ、単純な文に自らを関係させる立場を代表しており、従って、自らの中に一つの全体を形作る。

それらは、適用において、形式的要素の理解を前提としている。なぜなら、それ(形式的要素)によってのみ、拡大された文の要素は、正しく区分されることができ、複合文は正しく分解されるからである。従って、この課題は本来常に近似によってのみ解決されえる。

複数の個々の要素や部分のうちどれが最も説得力があるかという判断もまた、ある場合には、形式的なものの帰納に依拠し、ある場合には、解釈学的な技法の感覚に依拠している。

38.ここから成立した確かさは、ただ非難のない構成にとってだけ十分である。

注釈:語り手が、自らを完全に聴衆の立場に置くことは滅多になく[]彼は次のように考える。「自分だけのものであるものでも、そのいくつかは、聴衆にもまったく明らかであるに違いない」と。両義性と不正確という誤謬の二形式のうち、前者〔両義性〕は、形式的要素に、後者〔不正確〕は実質的要素により多く見られる。なぜなら両義性は、人がまだ対立する使用法の間で動揺する限り、一つの単語にのみ付着するが、このようなことは、所与の規則の適用によってはもはや不可能だからである。

39.もし不確かさが残るならば、人は説明の手段をその文―その一部がその要素であるところの文の―外に求めなければならない。

注釈:不確かさは、普遍と特殊の間の動揺がまだ残っていれば、その単語に付着する。もし人が次のことを知らないならば、すなわち〈1284〉全くの個々の場あるいはその一部分だけが、語り手の念頭に浮かんでいるということを知らないならば、あるいは、語り手が一般的な単語を用いなかったのかどうか人が知らないならば、彼は、いくつかの個々の事例だけを示そうとするだろう。

40.また聴者が、段階的な進展によって理解へと達するのでないなら、彼にとって直接的連関は十分ではあり得ない。

注釈:このような事例は、外国語においても自国語においても非常に流布している。私たちはほとんど至るところで、飛躍によって〔理解へ〕いたる。

41.理解できないものが、特定の語りに特に多く属すれば属するほど、人は解釈の手段を一層ただその語りの範囲内に求めなければならない。

注釈:なぜなら、その場合、その連関によって特に規定された使用が、前提されねばならないからである。

42.この場合の基準:説明されるべき場所が、解釈の手段に近ければ近いほど、助けは確実になる。

注釈:この近さは、機械的に理解されてはならない。同一の思考系列における一つの単語は、ただ一つの意味においてのみ受け入れられるという規則には、無数の例外があり、非常に限定された規則である。

43.双対文〔均整のとれた複雑複合文〕が、単純な文に還元できるように、語りはすべて双対文に還元できる。全体構造によって、語りに対応するような箇所は、自然な平行箇所である。

注釈:最も自由な構成と最も厳密な構成との間の相違は、相対的な対立を形作るに過ぎない。律動的な構造の類似物は、対話の境界線に必ずしもすべて含まれるわけではないどの全体の中にもある。

44.単語の並行と思考の並行とは、二重のあり方である。

注釈1:同一の単語が、それが理解可能な別々の状況に現われるところで。その結果、並行は、意味の同一性を必然的とするか、あるいは、特定の類比を必然的とするかである。

注釈2:難しい単語が全く現われないところで。しかし、並行によって、思考は、同じものとして、あるいは、特定の仕方で類似的に知られる。

45.それを正しく理解する為には、説明されるべきものが、語り全体の主語に属するのか、それとも述語に属するのかが、区別されねばならない。

注釈:なぜなら、配列が、対象のように分解されるのと、結果のように徐々に産出されるのとでは異なるからである。

46.より大きなあるいはより小さな確かさが、ジャンル(Gattungen)の差異と、著者の完全性から生じる。

注釈1:全体において決して詩節に分かれていない最も自由な構成も、何か循環的なものを持っており、それによって、諸関係の一系列が形成される。

注釈2:著者が、構成の規則に頼ることが少なければ少ないほど〈1285〉著者における信用も少なくなる。

47.理解できないものが、特定の語りに少なくなればなるほど、その語りについての解釈手段の求めに人は一層追い立てられる。

注釈:なぜなら、その場合、理解できないことの根拠は、より大きな領域にあることになり、そこから挙げられなければならないからである。一般的な目印:同じ理解できないものは、他の場所でも、ここでと同じように私に現われることが可能である。

48.ある語りの中に、疎遠な領域からもたらされるものは、その領域が主要な対象であるすべての語りから説明することができる。

注釈:これは中間的な事例である。無理解は、ここでは著者の責任であることも、読者の責任であることも可能である。

49.語りの本質に属するものも、それが客観的に理解できないのであれば、同じ領域に属するすべてのものによって説明されることが可能である。

注釈1:ここには、無理解は読者の責任であるという前提がすでにある。

注釈2:この説明の最大値は、同じものにとどまる。なぜなら、すべてこれらはあたかも一つのロゴスを形作るからである。

50.すべての著者は、この並行との関連においては、同一の対象を扱う一人の著者と見なされるべきである。

注釈:学問的な無理解さのための基準。しかし、人は自分の限界を超え出てはならず、自分を純粋に文献学的なところに適用しなければならない。

一般的な図式は哲学。それぞれの国に、それぞれ一つの教養がある。しかし、それは多くの個人と相対的対立によって生気を吹き込まれる。

著者が内容豊かで、理解困難になればなるほど、この基準は先の補遺に過ぎなくなる。

51.同一の論じ方を持っている人々のみが、現実的な観点で一つである。

注釈1:哲学の図式における学派の概念。

注釈2:対象が多様に扱われれば扱われるほど、先の基準は後者の基準によって制限を受ける。そして、より小さな統一が、優位を保つ。

52.同一の論じ方を、一つの言語の時代において扱う人々だけが、一つと見なされる。

注釈:言語の主要な時代(詩から散文への移行や無差別から対立への移行)に関係したり、特にあらゆる技術的な言語領域の時代に関係したりする場合。

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53.芸術の領域により多く属する人々の中でも一つのジャンルに属する人々は皆、一つと見なされるべきである。

注釈:詩と歴史と雄弁術のための基準。

この結合的な統一は、ある場合には、神話的グノーシス的なサークルであり、ある場合には、言語の音楽的なものへの等しい参与である。

54.ここでもまた亜種と時代が区別されるべきである。

時代は、厳密に時間に従って進むのではなく、反復し模倣する時代が、根源的な時代に数えいれられるべきである。アレキサンドリアの詩人とホメロス。

55.もし人が確かさのゆえに、先ずより小さな統一からのみ出発し、ただ欠如によってより広い領域へと移り、そして、それぞれの見解の領域に属するものを区別しようと試みるならば、両見解は一つになる。

注釈:後者は、再び事柄についての正確な知識−それはただ解釈学的に獲得可能であるのだが−を前提としている。従って、その解釈を伴う古いサークルである。

56.ある語りにおいて、純粋に言語として理解できないものは、同一の言語領域に属するものすべてによって説明可能である。

注釈:一般的目印は感情である。同一の無理解は他にも現われることができる。さらに連関から生じる感覚の予感、しかしそれ〔連関〕に対しては、文法的な懸念が対立し、したがって、それ〔連関〕は文法的な確証を要求する。

ここでの無理解は明らかに読者の責任であり、全く無教養な著者達においては問題にならない。

57.ここでもまた大小の統一という意図において、同一の留保が妥当する。

注釈:最も小さな統一は、個人的な言語の使用である。最も大きな統一は、一般的言語の時代、あるいは方言である。両者の一方にのみあまりに多くを譲り渡すならば、それは一面的である。ここでもまた次の規則が妥当する。著者は常に自分の最善の解釈者である。すなわち、人は自分自身の中に並行を求めることから始めなければならない〔という規則である〕。このような努力から、最も確実に、より大きな統一の領域が構成される。最も豊かな事例は、ギリシャ語である。ここでも並行は常に字面であることはできず、人は徐々に類比を作り出さねばならない。

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B.        形式的要素の規定

(注釈:実質的要素に対する対立におけるあらゆる解釈学的諸関係に関して)

58.形式的要素においては、図式の統一に達するのははるかに困難である。

注釈:ほとんど唯一の例外を作るのは、動詞の人称である。これは変装した主語を含んでいる。格、前置詞、時制、話法、〔これらを〕使用の仕方の最大の多様性から探知することは非常に困難である。

59.したがって、人はここでは、厳密に文法的に実証可能なものに導かれて、推測によって連関から遠ざかることは許されていない(9及び26と比較せよ)。

注釈:これが、言語学的な読み方を、そうでない読み方から区別する主要な目印である。非根本性の主要な源泉。

60.文法学者の諸々の観察は、自分自身の経験を支援するものである。しかし、それらは、先ず解釈学的に形成されねばならない。

注釈:多くの性急さ;人はあまりにも容易に感覚によって明白な文において、他の要素に属するものを、形式的要素の中へ置いてしまう。したがって、何らかの困難な事例には吟味されない使用は決してない。

61.単純な文は、たった一つの形式的要素を持っており、それは、述語動詞が主語名詞に関係させられている仕方である。

注釈1:ここでは話法と時制だけが考えられる。数〔単数か複数か〕と人称が、表現されない主語あるいは表現されたものに対応する主語である。(非人称動詞による文について)

注釈2:単純な文における唯一の自然な主語としての主格は、格と見なされるべきではなく、単に見かけだけの二重性を提供するに過ぎない。冠詞は、見かけだけ気に入るように、動詞との類比に従って形成されているか、単に、性の二重性に属している。

62.拡張された循環的文は、形式的要素との関係においても、単純な文に還元できない。

注釈:なぜなら、形式的要素は実質的要素と異なり、内側から拡張されることはなく、外部から倍化されるからである。

むしろこの実質的還元は、あらゆる形式的要素の理解をすでに前提としている。

63.付加的諸要素は、したがって、ある場合には主語と述語に対するより詳しい規定の関係を表し、ある場合には〈1288〉対応し合う文同士の関係を、あるいは従属文の全体に対する関係を表す。

注釈:語り全体が、単純な文章に還元可能と見なされねばならない限り、より大きな文を結合する要素は、ここにも属する。これらより大きな文章は、同様に、対等な位置に置かれたり、従属させられたりするからである。

64.有能な聴衆に対して語り手の責任でないのに、困難が生じるようなところでは、人は説明の手段によって、差し当たり語り自体の連関を示されることは全くない。

注釈:なぜなら、形式的要素においては、特定の語りに特別属するものは何も求められるべきではなく、他ならぬそのゆえにこの関係においても、語り手は独自なあり方でその場を規定することはほとんどできない。それが自らにおいて揺れ動くものであるように、他方では、個々人に対しほとんど自由を許さないようなものである。

65.並行する領域は、全言語の類似であり、それらの方言や時代、講演のジャンルによって限定されている。

注釈1:この限定は当然のことながら再び限定される。なぜなら、全言語を通じて差異のない多くのものが存在するからである。

注釈2:すべての言語は三つの階級に分類できる。A.形式の純粋な統一性を提供する言語であり、その結果、人はそれを、自分の言語と同じように、より大きな統一と見なすことができる。[...]B.複数のより小さな語幹の混合から成立し、しばらくの間複数の同じような形式の混沌として自らを示すような言語、そして、それから徐々に確かな物へと形成されるような言語である。図式:ギリシャ語(根源的には古代ギリシャやペラスゴイ〔ギリシャの非印欧語系先住民〕に由来し、おそらくはさらに組み合わされている)。ここでは、三つの時代が区別されるべきである。すなわち、混沌期、移行期、形成期である。C.疎遠な語幹の諸言語をも自らに受け入れたことによって、初めて登場した言語。図式:ドイツ語(ここでは時代的な区分は、確かさを作り上げようとする著述家達の区分の中に解消してしまう。そして、単に習慣や卑俗な聴衆だけに従う言語。

注釈3:ジャンルの両極端は、教育的なものと叙情的なものである。前者においては、形式的要素の感覚は、最も厳密に規定できなければならない。後者においては、そのような感覚は比較的漠然としている。前者においては、ここで顧慮される意味の諸対立(11)は、厳密に別々に保持され、後者においては、相互に浸透しあっている。

66.形式的要素の困難な部分においては、人は不変化詞と語形変化を単に一つの全体と見なさねばならない。そして、この全体について類比を行わねばならない。

注釈:より大きな諸統一は、それ自体として規定することは困難である。たとえば、epiprosまたは接続法。したがって、しばしば見られるのは次のような誤謬である。すなわち、〈1289〉このための図式をあまりに早く求めすぎることである。したがって、正しい格率は、さしあたり全体を、言語の自然が許容する程度に小さくすることである。しかし、これは多かれ少なかれどの言語の中にもある。

67.形式的な要素使用における個々の著者の独自性は、通常不完全である。

注釈:はっきりとした意識が欠如し、自己活動が単に従属的なものであるゆえに、人は容易に何かに慣れるのである。あるいは、人は子供のように類比に−それは、厳密な類比として自ずと胸に沸いてくるが、正しいものではない−従うのである。人がこの領域においても言語形成的であることができる限り(14と比較せよ)

68.最善の著者達にとっても、解釈学的な諸々の困難を避けることは不可能である。

注釈:実質的なものにおいては、不確かさが支配的であったが、ここ〔形式的なもの〕においては両義性が支配的である。

理由は次の二つ1)文法的な同音同形異義語〔例:das Steuer()die Steuer()〕は、多かれ少なかれどの言語にもある。2)連結不変化詞(Verbindungspartikel)は、従属部分に作用するのか、それともより大きな全体に作用するの区別できない。

著者が熱狂的になればなるほど、容易に彼は、主観的な明晰さと客観的なそれとを混同してしまう。本来的な内容を持たない伊達な著者は、この軽率さによって、古典的なものの見せかけを獲得する。批判的な読者は、この困難をより多く見出す。その他の人々はおめでたくも、それを読み過ごす。

構造が自由になればなるほど、様々な困難が山積する。

69.このような困難に対しては、唯一の助けが連関の中にある。

注釈:並行については、ここでは当然のことながら考えられない。この助けは、ある場合には、文法的に組み合わされた全体の理解にあり、ある場合には、技術的解釈の結果にある。

70.人は自ら、関係のあらゆる可能性を纏め上げなければならない。[...]

注釈:そうでないと不確かさの感情が残ってしまう。思考の進行についての知識は、非常に多くのことをなさねばならない。技術的解釈の広がりが少なければ少ないほど、それがとどまるのは一層困難になる。

71.諸言語自体に内在している、より自由な構造と束縛された構造との差異は、そこでは、わずかな影響力しか持たない。

1290

注釈:なぜなら、構造が自由になればなるほど、文法的な同音同形異義語は少なくなるし、その逆も言えるからである。

72.しかし、語りのジャンルが制限され、著者の誤謬が少なくなれば、それだけ一層決定は確かになる。

注釈:なぜなら、優勢な蓋然性は、常に、その他の可能な事例において、表現がより不正確になるということに基づくからである。

 

C.        両要素の質的理解について

73.いわゆる同義語においては皆、過剰または過小な理解が可能である。

過剰というのは、ある単語と別の単語の差異を、著者がどうでもよいとしているところで強調する場合である。過小というのは、その逆の場合である。

同義語についての注釈。このことすべては、厳密な同義語は存在しないという命題に基づいている。すなわち1)同一言語内で、同一の図式が二つの記号によって表現されることはないとは、同一でない単語の根底には二つの図式があるということと同じくらい、正に必然的原則である。これに反対するような原理は見出されないだろう。

2)もし一つの言語が、複数の方言から成立したとするならば、同じ図式に対して複数の記号が一緒に現われなければならないように思われる。しかし、ある場合には、図式の共通の統一性は非常にたやすく区分され、ある場に対する各記号の特殊な規定性が展開する。またある場合には、各方言が、各言語のように、自分自身の直観の仕方を持ち、したがって、すでに初めから諸々の図式は等しくない。

3)同義語は通常次のように成立する。それは最初は全く異なった関係から出発するが、しばしば同じ経験的対象に出くわし、したがって、最後には混同されてしまう。もちろん常に、多かれ少なかれ不確かな語法においてではあるが。それは、その中心点が、その半径の合計よりも遠く離れているような円に似ている。それらの場の内的部分は離れているにもかかわらず、外的部分は、重なり合っているのである。

74.同義語相互の関係を理解するには、同義語が相互に代替可能な場合を、〈1291〉それができない場合と比較してみればよい。

注釈:そうすれば、前者の場合〔相互に代替可能な場合〕でも、隠れた差異が発見され、混同が表面的に過ぎないことが明らかになるに違いない。様々な使用法のこの線を、共通の場から各圏の終わりまで追求し、そこから各圏の中心点を構築することは、唯一の体系的な方法である。

75.使用における厳密さが、あらゆる教育的な講演の内的部分においては前提とされねばならない。

注釈:ここにおいてすべてが構築されればされるほど、各々は、一層内的なものに関係させられねばならない。すべてが内的であれば、その厳密さは、アリストテレスにおいてのように、至るところにあるに違いない。表面的なものにおいては、たとえそれがプラトンにおいてしばしば見られるように、実質的には内的なものに近くても、このような分離もなされてはならない。

76.語りの性格が、技術的でなくなるほど、違いを顧慮しないということが、一層早く受け入れられるようになる。

注釈:単なる付属物として現れるものすべてにおいて、あるいは、日常的生活圏に全く近くあるものすべてにおいては、人は単に経験的な特徴づけで満足する。

77.音楽的要素が優勢になる度合によって、不適切な要素が意識的に選ばれる可能性も生じる。

注釈:なぜなら、その場合には表現の厳密さにおける小さな優位よりも、律動的な効果がより大きな意味を持つようになるからである。

78.この規則の適用は、著者の卓越性についての知識によって修正される。

注釈:最も自由な詩的領域においても善き著者は、この自由をただ、音楽的な振舞いにおいて根拠がはっきりしており、その連関が指導的であるところでのみ用いる。凡庸な著者は、これらの境界を常に拡大する傾向がある。

79.第二の事例。〔質的な〕高低(mehr und minder)を許容するような−そこには〔概念の〕内包(Intension)が居合わせるのだが−単語すべてにおいては、〔量的な〕増減(zuviel oder zu wenig)も入り込む可能性がある。

注釈:実体的形式を表現しない単語はほとんどすべて多かれ少なかれここに属する。これらすべては、何らかの仕方で活動のイデーの下に包摂される。(動詞はその次であり、それから副詞、形容詞、そして最後が形容詞から導かれた名詞である。)

そのような単語はすべて一つの系列に属するが、その要素は内包の様々な移行や段階を境界付ける。この要素の価値は〈1292〉この系列を揺れ動く。というのは時おり、幾つかの単語があまりに弱すぎたり、平凡で卑俗であったりして死滅するからである。

通常ここでは、強調に属するものだけが扱われる。しかし、これは特別な場合に単語に与えられる強調で、自然的な価値の中で揺れ動くものではない。

80.人は、単語の内包的な平均値についての表象を持たなければならない。それゆえに、どの単語においても、その全系列を目の前に持っていなければならない。

注釈:平均価値とは、言語の様々な時代や、様々な語りのジャンルにもあるもう一つ別の価値である。

81.すべての直接的な個々の使用は、この平均価値に対して、より高次の段階に上げられるか、より低い段階に下げられるかという関係にある。

注釈:人はあらゆる時代やジャンルの著述家達を、それぞれが持つ格率や実践によって区分することができる。全体において適度にすることは、個々人を持ち上げる原理であり、全体における暴力性は、下げる原理である。

82.その他に、間接的な使用というものがあるが、それは、最高の〔単語〕を最低の〔単語〕に直接近づける。またその逆を行う。

注釈:否定的な仕方で表現された最低の単語は、しばしば最大の上昇である。これはギリシャ人においてはほとんど規則である。最高の単語は、イローニッシュには最低の単語と等しく置かれることが可能である。後者を理解するには、私たちドイツ人は特別無能に定められている。何かがそれにはなければならない。

83.どの単語も、個々にはただ強調することによってより確かに認識されることができる。

注釈:これを正しく理解することは解釈学的訓練を必要とする。それは、際立った粗野な手段として倒置に始まり、最も繊細な律動的音楽的関係に至る。律動的な単語は、私たちの言語では特に、表現の内包を特徴付けるよう定められている。人はこれを、対立する取り扱いにおいて同時に成立する奇妙な効果に由来する他のものの下に見る。

84.様々なポテンツの下での同一の図式の反復から成立するものは、これや先の事例に共通に属する。

注釈:自然力、生、意識といった様々なポテンツ。これらのポテンツは先ず徐々に発見される。そして、それから同じ表現が雑然と入り乱れてこのポテンツに対して用いられる。確かな規定は非常にゆっくりと形成されるのであり、一遍に至る所でという訳ではない。そして、すべてを見渡す立場に立つ人々に対して有効であり続ける。哲学の領域における誤解は、大部分ここに〈1293〉その理由がある。ここではすべては次のことにかかっている。すなわち、支配的な諸表象を全体の連関から理解するということ、そして人は音が同じであることによっては惑わされないということである。

85.第三の事例。生じる副次的表象が意図されたものかどうかは疑わしい。そして、その場合、人はほんのわずかしか取り出すことができないか、あまりに多くを入れ過ぎるかである。

注釈:単語はすべて思考されたものの統一性と結びついているが、通常の結合法則に従えばその単語は記憶によって、その統一性には属さない表象を引き起こす。すべて聞くこと読むことにおいて私たちはそのような諸々の表象に満たされる。そのような大部分の表象は、単に私たちの主観性から生じたという素性をあらわす。このようなものは重要ではなく、むしろ遠ざけられねばならない。他方、人は「著者もまた〔そのような表象を〕持っていたということを信じる理由を持つが、それらが、著者においても遠ざけられる表象であるのか、それとも語りの目的の中に織り込まれる表象であるのかは、不確かなままである。

86.著者と読者に共通の主観的領域から自ずと生じる副次的表象は、それに対する特別な要求が証明され、それらの表象が特別な効果をもたらす時にのみ、意図的なものと見なし得る。

注釈:なぜなら、著者は、それらの表象を欲し、彼はまた確実に進むことも望む。そして、それらの表象を見出すということで、あまり意見が合わない人々の為に何かをしなければならない。しかし、彼はそもそも、忍び込んでくるすべての表象に対立して、気晴らしとして働かねばならないので、彼は、何か確かな物を達するためにのみそれらを欲することができる。

87.意図された副次的表象に先ず属するのは、次のような絵画的な表現である。すなわち、一般的類似性とは別に、対象の特別な特徴を他の対象に転用するような絵画的表現である。

注釈:上の11,12にしたがって、私たちは、他の人にとってはより絵画的な多くのものを本来的表現に数え入れる。しかし、私たちは、coma arborumにおいて現実に髪が表象されるべきであると主張するので、実際、木の葉は他の図式の下に考えられ、そのすべての特徴はそこに適用されるべきである。したがって、単に成長してきた四肢のみならず、豊かさや飾りなども。

88.絵画的表現の力は、慣れによって減少する。そこから読者と著者の表象に不均等が生じ得る。

注釈1:例えば、目の保養ということで、根源的な表象を考える人はおらず、すべて消滅してしまう副次的な表象だろう。ただ一般的な類似性だけが残りつづける。これは徐々に〈1294〉使用を通して生じるが、ある場合には語り手が表現を、副次的表象がふさわしくない所で用いることによって、ある場合には、聴衆がそれらの表象を見落としてしまい、その結果ここでは、強い表現を引き降ろすことによって上で言われたすべてのことが適用されるべきことによってである。

注釈2:したがって、もしその表現が聴衆にとってはまだ新鮮でも、語り手にとっては古いものであれば、前者は〔聴衆〕は、後者〔語り手〕が求めるよりも多くを読み取るだろう。しかし、対立するような場合も起こり得る。すなわち後の聴衆にとってはその像はすでに古くなっており、したがって彼はほとんど何も受け取らない。民族的な表象様式からも効果における差異が生じる。なぜなら、一方にとっては厳しい強制として現れるものも、他方にとっては自然だからである。したがって、ここでは、思考の仕方全体に通じることによってのみ、個についての正しい理解がもたらされるのである。東洋思想における二重の誤ったやり方。後代の著述家の技巧を凝らすことによる甘やかし−それは絵画を単にflores orationisとして用いるのだが−も、絵画が実際に自然なあり方で成立している人々の理解を困難にする。

89.絵画的表現を正しく評価するために、人は当該領域の変化の全系列と、著者の性格とを念頭に置かねばならない。

注釈:前者〔当該領域の変化の全系列を知ること〕は、表現の平均的な価値をすべて必要な時に正しく判断する為であり、後者〔著者の性格を知ること〕は、著者が上昇する人なのか下降する人なのか、技巧的な人なのか自然的な人なのかを知る為である。

90.どの程度著者の意図によって、一般的類似性と接続しているかということは、ここから、あるいは周囲から個別に判断されねばならない。

注釈:例えば、私たちが、自分には全く想い描けないような群れを、蜂の群れから導かれることで想い描いたとしても、私たちは、無秩序なうごめく塊を理解するだけである。ギリシャ人たちは、smenosという言葉によって−それは絵画的にも用いられるが−快楽を掴み、駆り立てることをも理解する。

91.さらにここに暗示のあり方も属するが、それは、単に語り手の主観的な結合によって説明されるだけでなく、客観的文法的誘因を持っている。

注釈:前者は技術的解釈に属する。文法的解釈だけが、そこに何かがあるという直観をもたらすことができるが、その直観を説明することはできない。

92.客観的な暗示は常に、古典的領域からの文の箇所あるいは事実の密かな引用である。

注釈:副次的な諸表象が絵画的な表現から〈1295〉も、それと並んで立てられ、そして通常の比喩が成立するように、記憶にもたらされるべきものも、それと並んで立てられる。それが完全な引用というものである。

注釈2:古典的領域とは、語り手があらゆる直接的聴衆において周知のものとして前提できるもの、聖書やホメロスや歴史のある領域である。

93.多すぎる取り出しがここで可能なのはただ、一般と特殊の取り違えか、純粋な創作による場合である。

注釈1:絵画的表現の効力が次第に失われていくように、ある種の暗示もあまりに頻繁な繰り返しによって、その効力が失われる。ある箇所の個々の語り口や個々の出来事についての記憶も教訓的なものになる。例えば、人が自分の妻を自分のあばら骨と呼ぶというようなことは、そのような表現が残存している特定の場に対してのみなお印象を残すに過ぎない。多くの出来事は失われてしまっており、神話と化しているように見える。例えば、平手打ちについての事など。特定の暗示をそこになお求める人は、過剰なものを読み込んでいる。

注釈2:この意味における創作の最も完全な図式は、カバラである。幾重もの意味等々。そのそもそもの理由は、人がすべてのものに特定の意味を求めるという語りの内容についての大げさな考えである。自分のお気に入りの作家については、誰もがある程度このようなカバラ化を行う。

94.少なすぎる取出しは、自然な取出しである。なぜなら、その引用は何か潜在的なものだからである。

注釈:私たちは特に、すべてが目に働きかけるがゆえに、粗野な認識手段によって甘やかされている。それゆえ、これ〔粗野な認識手段〕が欠けるところ、とりわけ古代人においては、そのようなものに気を留めないということはあまりに確かである。それゆえ、ここでもまた非常に多くの発見がなされるはずである。

95.著者はすべて、自分の直接的な領域においても、その結びつきがそれほど容易には来ないもの〔暗示?〕を考慮しなければならない。したがってそれを指し示さねばならない。

注釈:手は指があって手である。たった一つの不変化詞が、隠れた引用の形式であることがしばしばある。しかし、先ず語り手と同じ場に身を置かなければならないのは当然である。

96.暗示の古典的領域は常に、時間的に遠ざかっている領域なので、すでに言語において目印が生じなければならない。

注釈:これはもちろん同時的な歴史と哲学がその場所になる私たちについてよりも、古代の人について当てはまるし、また、実際の引用よりも言葉による引用に当てはまる。新約聖書のギリシャ語は、七十人訳(セプトゥアギンタ)を非常に模して作られた。ここでは、正確に知っていることがすべてを埋め合わせねばならない。

1296

97.文法的解釈の課題の本質的構成要素とその一連の補助手段がこれによって論じ尽くされた。

注釈:遂行されたものを他にして文法的な争点は存在しない。そして、ここですでに私たちは、技術的領域に近づいている。

なぜなら、たとえとおくからであっても、これはいたるところで協働しているからで、語り全体の生き生きとした観察による以外に適切な例証は存在しない。