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最終更新日20001113

第2部               解釈の技術的側面

1296

1.この課題の意義は、連関する個々の語りを、著者の特定の思考系列に属するものとして理解することである。

注釈:もちろん単に可能性によってではなく、他ならぬそのように規定されたというこの必然性によって、いかにそれが文法的に言語から認識されるかが、認識されるべきである。

2.一つの個から他の個への進展として、技術的解釈は文法的解釈を前提としている。

注釈:なぜなら、結合の一要素を持つためには、少なくとも二つの文が認識されなければならないからである。

3.文法的解釈の完成のために、技術的解釈は前提とされる。

注釈:なぜなら、文法的に規定されないものを規定するためには、ただ一連の考えとしてだけそこにあり、ただそのようにのみ理解可能な全体についての知識が前提とされている。両義性を持つ個においても、その一連の考えは、常に特定の諸要素の一つである。

4.したがって、技術的な操作は、解釈の仕事全体を包括している。

注釈:したがって、技術的な操作は〔解釈とともに〕すぐに始めねばならない。そして、解釈の仕事は、技術的な操作が完成するまでは、完成されることはない。語りの精神全体を所有することは、ただ技術的操作によってのみ達成される。なぜなら、単に文法的に扱うことによっては、語りはどこまでも集積物に過ぎないからである。

5.文の技術的な理解は、話者の独自性についての知識と、その内的統一性に基づく。

注釈:結合の一般的論理的規則は、ただ否定的であり、それを超えては何も理解し得ない境界点である。同様に、個々のジャンルに対する特別に技術的な規則も、〈1297〉その外では、作品がもはや最初に理解された概念にしたがって理解され得ないような、狭い境界点であるに過ぎない。音楽的な規則に従う場合と同様に、両者によっては結合され得ないゆえに、理解できない。唯一積極的なものといえば、この特定の方向で理解された人間の個性的活動のみである。

まとまりのある一連の考え〔すなわち語り〕はすべて、この個性的な原理がある一定の方向に向かって表出されたものとしてしか完全に理解され得ない。そして、語りにおける個の必然性の認識は、人がこの原理自体を模写するその程度に応じて生じるに過ぎない。

6.さらに詳しく見れば、すべてはただ、表現に直接向けられた思考における人間の独自性にかかっている。

注釈:人間における独自なものはすべて連関しており、一つの共通な性格を持っている。しかし、その至るところで前提とされるべき連関を理解し証明できるということは、個性への洞察についての最高度の吟味である。したがって、人は、先ず、その個々の表出を観察しようと欲している働きにとどまらねばならない。そして、これは、個々では記述されるという働きである。なぜなら、というのは、表現に無関係な思考はここには属していないからで、そのような思考は、これまた、ただ非常に間接的に構成から黙想を推し量ることができるだけだからである。同様に、思考に由来しない他の種類の叙述も、解釈学の領域の外にある全く違った機能を形成する。例えば、ある人が、著述家であると同時に画家でもあるような場合である。

その他の独自性について、人が前もって知っていることは、常に必要とされるが、しかし実質的には、特に、説明されるべき物自体との関係で、単に表面的な諸関係に過ぎないものについての覚書にすぎない。

7.この独自性を私たちは、様式の独自性と呼ぶ。

注釈:この様式という言葉は、他の芸術でも、描写の内的原像がどのように徐々に実現されていくかという、そのすべてのあり方について一般に用いられている。したがって、ここでもまたこの高次の意味で用いられる。精神が思考のあり方であるように、様式は描写のあり方である。

8.理解への適用における独自性の知識の格率は、模写である。

注釈:技術的理解自体は、所与の理解の追構築(Nachconstruiren)である。その際人が個的原理の正しい使用において確かであれば、人はその原理を類比的に、他の所与の理解にも適用できなければならない。しかし、個別性を表面的なものにおいて模倣することは、単に想像力の戯れに過ぎない。

9.個という様式は、すべてのジャンルにおいて同一でなければならないが〈1298〉、そのジャンルの性格によって変容される。

注釈1:なぜなら、この独自性は、内的な個性に由来するが、言語による表現は、いたるところで同一の機能であり、したがって、それは同一でなければならないからである。それはまた、様々な種類の作品において、著者の同一性を様式によって認識するという課題でもある。

注釈2:これに対して、表現における唯一性が、異なったジャンルにおいても変化することなく現われるならば、私たちはそれを、作為、気取り、わがままとして非難する。なぜなら、それは、異なったジャンルで同じ意味をもつことはできないからである。

10.どの語り手も、至るところに現れる様式の独自性を持っている。

注釈:平凡な著述においては、語り手は消滅するように思われる。しかしそれはすべての独自性についても同様である。もし人がこの平凡なものを多量に受け取るならば、それは再びグループ分けされる。そして、さらに違いが見出される。それにもかかわらず違いが全く消滅してしまう場合には、人は次に高次の独自性を拠りどころとしなければならない。

11.様式の独自性はある場合には構成の独自性であり、ある場合には言語使用の独自性である。

注釈:前者は、より内面的な側面、考えの選択と配列であり、後者はより外面的な側面である。両者の最終目標、というのは、構成はすでに最初の素描において始まるし、言語は、あらゆる身振りにすでに含まれているからだが、これらは対立してはおらず、相互に移行し合う。なぜなら、それ自身表現に属する考えが存在するし、他方、重要な作品には、言語を独自に固定化したり、専門用語を作り出したりする努力があり、そのような努力は最も内的なものと直接連関しており、最も独自な考えだからである。

12.この独自性についての知識は、個々の思考系列についての先行する理解によって再び制約されている。

注釈:なぜなら、独自性についての他の言表からこれを構成することは、さらに困難であり、おそらく最後の試みだからである。そのようなものが常に与えられることはさらに少ない。しかし、第三の理解は存在しない。

それゆえ、個々の作品の試演とともに独自性についての知識は増大するが、ただ最初の作品だけが、独自性についての最初の概念を与えることができる。この関係は、単語の根本図式と個々の使用例との関係と全く同じである。したがって、個についての技術的理解と独自性についての知識は、一つの行動によって始まらねばならない。そして、徐々に相互的に規定されねばならない。

13.全体の構成の暫定的な概観は、両者に対する最初の根拠である。その結果ここでも全体と個の理解は〈1299〉同時に始まる。

注釈:この概観によって、技術的側面と文法的側面との循環関係が同時に解消される。というのは、諸要素のより詳しい文法的な規定に対するすべての示唆がここから生じるからである。

この構成から全体のイデーが明らかになる。そしてこのイデーの中にその独自性があるのでなければならない。なぜなら、それは対象を把握する独自なあり方だからである。他方、個はただ技術的に、全体のイデーに対する関係、後からの構築によって理解される。

人は、そのようの成立した像を、ただ変化可能なものとのみ見なすことが許される。その確証は個の研究によって始めて保持される。最初の試みにおける成功は、解釈学的完成度のなせる業である。したがって、進展する研究において露見されるあらゆる矛盾に人は注意していなければならない。

14.この暫定的概観は、十分に準備をしてそれに向かうときのみ、その目的を達成できる。

注釈:連関し合った研究(序を見よ)によってのみということである。ジャンルについての知識がなければ、個々の産物の独自性を見出すことはできないし、言語の時期についての知識が無くてもだめである。

15.技術的に見ると、どの語りも次の二つの要素から成り立っている。すなわち、客観性の強い要素と主観性の強い要素である。

注釈:全く主観的な語りも対象を持っている。ある気分を表現するということだけが問題であるような場合にも、それによってその気分が叙述されるような一つの対象が形成されねばならない。たとえ根源的に想像力によって自由に産み出されたのであっても、それは対象として詩人の念頭に浮かんでおり、彼に結びついている。

この対象の叙述に直接関係し、あたかも対象から生じたかのようなものはすべて、客観的要素に属している。すべて一致しているもの−それによって話者は、一層さらに別の仕方で自らを対象として表明するのだが−は、主観的要素に属している。

しかし、この対立も厳密ではない。純粋に客観的なものなど語りには存在しない。それは常に話者の見解であり、したがってそこにあるのは主観的なものである。純粋に主観的なものも存在しない。なぜなら、対象の影響が存在するに違いなく、それが他ならぬ主観的なものをつかみ出すからである。

16.概観とは、最も重要な客観的諸要素を、それらの有機的関連において取り出すことである。

注釈:なぜなら、主観的なものは、これら諸要素と比較して副次的なものに過ぎないからである。個々の客観的要素は、個々の部分の理解の為に参照される。この有機的関連とは、そこにおいて主要な諸要素が全体を表現すべき結びつきである。

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17.考えの歩みを後から構成することは、一般的概観によって制約されている。

注釈:話者は二重の働きのもとにある。客観的要素においては対象の力のもとにあり、主観的要素においては、この力の外にあって、この力をせき止め、中断している。したがって、主観的要素は、描写表現において〔筋の展開を〕遅らせる原理である。考えの歩みを後から構築することは、特に、人がこの二つの働きの関係と、その相互連関を理解することに依拠している。これには先ず、それらの結果の一般的分離が属している。そして、それから、その相違に気付く為に、理解者の念頭に、その都度次の客観的要素が浮かぶということである。

18.構成の独自性は、先ず一般的概観から明らかになる。

注釈:客観的なもの自体が、主観的なものを自らの内に持ち、独自な見解を含むようになればなるほど、〔構成の独自性は〕像の統一性からいよいよ明らかになる。

その扱い方だけが、個的なものを含むことが可能であればあるほど、〔構成の独自性は〕同じ像の有機的姿から明らかになる。

両者は決して互いに分離されず、相対的なものである。

19.語りが、理論の領域に属するものであればあるほど、すでに一般的な概観において、実質的な言語の取り扱いの独自性や単語使用の独自性が発見されなければならない。

注釈:なぜなら、独自な直観は、その場合たいてい概観においてすでに示されねばならず、その直観が鮮明に展開を始めれば始めるほど、独自な単語使用によってのみ自らを表現できるようになるからである。この領域の中心点は超越論哲学であり、そこから実在的な諸学問を通して、経験的な対象のあらゆる哲学的な扱いへと広がっていくのである。

独自な言語使用は、著者の完全性に応じて次のことの中にあるのでなければならない。すなわち、ある特定の類比によってその単語が、その場のある特定の部分で用いられるか、あるいは、諸対象が、通常の名称によっては決して受け入れられない諸関係に従って名付けられるか〔ということの中にあるのでなければならない〕。(事例;電気の両極についての対立する用語法)

理論から離れれば離れるほど、形式的言語の扱いの独自性は、与えられた語りにとって副次的で偶然に過ぎないものにおいて示されることになる。しかし、それも再び独自なものとして、何らかの他の理論に属するようにならねばならない。

20.形式的律動的言語使用の独自性は一般的概観から明らかになるが、その程度は、客観的要素と主観的要素との間の緊張の強弱に対応している。〔緊張が強ければそれだけ明らかになる度合いも多い〕

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注釈:緊張の強さは、ある場合には、常に質的に対立が分かれることに依拠している。例えば、客観的なもの自体が、主観性の大部分をすでに持っているような場合は、緊張は少ない。他の場合には、量的にではなく、その一要素が非常に押さえ込まれているということに依拠している。したがって、質的に強度な客観性があるところでは、量的にも強い関与を伴って主観性が一緒に現われる。

強度な緊張の場合、互いに対立し合う要素は律動的にも強調されねばならない。それによって、それらの要素が講演者において一つであるあり方が表明されねばならない。

したがって緊張が少ない状態は、律動的な取り扱い方の画一性によって示される。この画一性によって独自性は、それがすでに外観において現れるというようには示されない。例えば、a)叙情的大周期的でdystichialischに、b)アリストテレス的な技巧において哲学的なものは、全くの主観性の欠如のゆえに、均等に切断される。これに対して、プラトン的な技法はより強い緊張の中にあり、はるかに歴史的で哲学的である。その場合リズムは両要素の対立を追求しなければならず、したがって、すでに概観に現われる。

21.一般的概観は、その最終目的を常に達成するわけではないので、そこには回避すべき誤謬に至る可能性もあるに違いない。

注釈:作品についての誤った見解が、語りをしばしば支配する。一般的概観によって全体像が成立するのであれば、それが個別性によって破壊されることは容易ではない。むしろ人は、個別性を全体像に一致させようと努めるだろう。したがって、不正はすでに全体像に由来する。

22.客観的統一性は、開始と終わりを一緒に保持することによって必然的に見出される。

注釈:どの開始も、何らかの告知であり、また少なくとも最初の地点から一つの方向を一般に告げるものである。終わりは常に字面だけのものであってはならない。なぜなら、さらに個々の詳論が後から来ることが可能だからであり、その結果、終わりはおそらくほとんど頂点として中心にあるからである。しかし、何らかの仕方で開始を完全に引き合いに出すことは、常に決定的である。

23.しかし、客観的な統一性が、常に作品の主題であるわけではない。

注釈:主題とは語り手が表現によってもたらそうと欲するものである。そして、この主題が、語り手が客観的統一性と知ろうと欲するということに他ならないということは、まれである。これが生じるのはただ、純粋に客観的な技法の表象−そこではすべてが対象において現われねばならず、叙述の表面的目的は生じない−においてか、純粋に経験的な技法の表象−そこでは叙述する者は、他者に対し経験素材を提供するより低い感覚であろうと欲するに過ぎずない−においてである。〈1302

当然のことながら、絶対的客観や客観的統一性は存在しない。どの客観も各人のためにあり、したがって、客観がそれにしたがって各人のためになるような法則が、叙述には存在する。しかし、もしその法則が各人に対して客観と一つであるならば、客観と主題は一致する。

しかし、どの客観も同時にそこにおいて何か他のものが叙述される図式として扱うことができる。これは常にある意味でその対象の生成の法則であるが、それが特別に現われる程度に応じて、客観的統一性と主題も別々に現われてくる。例えば、シラーの崇高理論の実例としての彼による劇的叙述というように。多くの歴史的叙述が、小さな原因による大きな出来事の事例として、あるいは政治的教説を与えたり、道徳的真理を明らかにしたりするための事例と考えられる。他ならぬ哲学的叙述においてこれは生じる。客観的統一性は一連の概念であり得るか、あるいは従属的な実在領域から生じる。そして主題はより高次の直観あるいは方法論的な法則である。

24.もし人がその主題を、客観の背後に見出さなかったならば、人は誤った全体的印象を持つことになる。

注釈:主題はしばしば意図的に隠されるが、それは、不都合を避け、一層確実に説得する為か、あるいは、それによって叙述が、純粋な客観性というより卓越した概観を獲得する為である。

誤謬は一層危険なものとなる。なぜなら、語り手にとって最も重要事であるものを見落とすならば、その重要事に対する副次的なものの関係を認識することはできないからである。

25.特殊な見解の虜になっている人は、特殊な主題を、それがないところに、あるいはあっても誤っているところに求めやすい。

注釈:後者に属するのは、大きな幻惑であり、それは作為的な説明のあり方において主観的なものが客観化されるようにしてのみ可能である。前者は、純粋に客観的叙述に非常に容易に出くわす。

偏愛から自分の見解を推測するということがあるのと同様、疑いから対立する見解を推測することがある。その説明は全く誤ったものになるに違いない。なぜなら、人は常に結合と副次的な仕事において、そこにないものを求めつづけるからである。

26.特殊な主題はすべて、それが主観的なものの領域を支配しているあり方や、論争的な関係によって認識されるべきである。

注釈:前者の理由は、特殊な主題が[...]客観的なものを損なうので、それはどこか他の所、すなわち主観的なものにおいて現われねばならないからである。

後者の理由は、どの特殊な見解にも、他の敵対的な見解が対立しており、前者が気付かれないうちに働こうとすればするほど、〈1303〉後者を遠ざける為に、一層はっきりと生じなければならないからである。

27.ある作品の構成における固有なものは、人が主観的なものを客観的なものにおいて認識する時達せられる。

注釈:すなわち、精神において固有なものを、配列において認識するということである。人が純粋な対象を考えるなら、それは、無限に叙述可能な何ものかである。なぜなら、すべてのものは、目に見えるものと同様、統一体として直観することはできるが、無限に分割可能なもののように連続体としてしか表現できない。したがって、〔ある対象を表現するには〕全体を代表して幾つかの点が取り出されることになるが、その際に基準となる原理は、主観的なものである。

〔主観的客観的〕両要素の区別の過程及び、客観的要素の把握とともに人が降りてくる限り、常に同じ原理が妥当する。

28.人が、全体の一般的概観自体においてと同様、全体の個々の有機的部分においても、それ〔主観的原理〕を、同一のものとして認識するなら、次に吟味されるべきことは、人がそれを認識したかどうかということである。

注釈:なぜなら、どの有機的部分―そこにおいて、すでに見出された主要点の一つは、客観的統一性であり、中心であるのだが―も、再び正にそのような状況にあるのだから、主観的なものも両者において一つでなければならない。これがないところでは、著者は大きな不完全性を示し、彼の作品は寄せ集めの塊に過ぎず、少なくとも異質な模倣の集まりであるか、読者は、実際はそうでないものを主要点として受け取ったのである。そのような危険は、特に大きな部分的に類似した主観的塊やエピソード、予断から生じる。

29.あらゆる種類の独自なものを認識するためには、二つの方法が結び付けられねばならない。すなわち、直接的方法と比較的方法である。

注釈:通常人は後者だけで十分と考える。しかし、そもそも何か直接比較されるようなものはそこにはなく、すべては一つの種類の二つの作業において異質である。なぜなら、有機的なものは誰においても主観的原理によって規定されるからである。したがって、ある人において有機的な部分であるものに対しても、他の人においては、単に無機的な部分が対立している。したがって、ある部分は根底に置かれ大切に扱われ他の部分は切り刻まれるか、両者からは単に無機的な個別性が比較されるかである。

直接的な方法とは次のような方法である。すなわち、作品とそのジャンルの純粋なイデーの比較によって、人相学的に主観的な原理を認識しようとするという方法である。というのは、ジャンルの純粋なイデーは、純粋に客観的なものであり、その下にすべて個的なものはより詳しい規定として暗に包含されている。

後者〔比較的方法〕は、ある感情を産み出す。それは確かに十分なものであり得るが、それ自体は、明晰な伝達にまで高められることはできないような感情である。したがって、〈1304〉両者は結合されるべきである。すなわち、個別に人相学的に見られた作品は共同的なジャンルのイデーの下に互いに比較されるべきなのである。

30.したがって、独自性は完全な研究なしには認識され得ない。

注釈1:複数の同じような種類の作品を比較する程度によってのみ、ここの認識は完全になることが可能である。

注釈2:もしある人が複数のジャンルにおいて構成するならば、人は様々なジャンルの彼の諸作品をも比較し、構造の主観的原理の同一性をそこに見出さねばならない。しかし、最も困難な課題は最善の練習でもある。

31.独自性は、単に著者の心の態度の実質的側面においてのみならず、形式的側面においても示される。

注釈:すべて従来の独自性は、その半面にしか該当しない。客観的なものの観察のみでは先に進むこともない。形式的な側面は、ただ主観的なものに対する客観的なものの関係によってのみ示される。

32.客観的要素を取り出すことは、考えの歩みを後から構成するための基礎である。

注釈:人が著者を見るのは、ただ彼が、対象の〔暴〕力の中にある限りにおいてである(17を見よ)。ある客観的要素から他の客観的要素への進展はすべて、この働きの産物である。これは次のような暴力行為と考えられるべきである。すなわち、主観的な働きによって中断されても、再び客観的要素へと立ち返るように規定する暴力行為である。したがって、人はこれを、中断の間中ただ妨げるものと考えねばならない。

33.語りの主観的要素はすべてその根拠を、客観的プロセスを妨げる流動的な個性的結合の中に持つ。

注釈:15を見よ。客観的プロセスは、あたかも流動的なものの対立において硬直しているもののようである。両者は互いに制約しあっている。客観的なプロセスはどれも、ただこの流動的なものから展開する。どんな描写でも、その最初のイデーは、この流れの中で生じる。しかし、いったん客観的なプロセスが導入されると、この流れはその下位に置かれる。形成されたものはすべて、両者の生き生きとした統一である。

34.語りにおいてどのような主観的要素が現れるかということは、偶然や恣意と見なされ得ない。

注釈:なぜなら、もしそうであるなら技術的解釈は存在しなくなってしまう。それにもかかわらず、その考えはかなり一般的である。それは気取って模倣する著述家達の大群によって成立した。彼らの方法によって、皮相な理論は、その規則を抽象化する。

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35.主観的諸要素がその現われにおいて理解されるのは、その客観性が認識される場合に限られる。

注釈:なぜなら、すべて可能なものの中から、他ならぬこの要素だけが現われた理由は、その対象が、著者の固有なものにしたがって、そこに導かれたからだからである。

これを大局において理解することは、著者の固有なものをこの点において理解するということを意味する。個々の事例への適用においては、イデーの歩みを後から構成することである。

36.最初の条件は、ある著者において主観的要素として現れることが可能なものすべての全体性についての知識である。

注釈:客観的なものとの当然の対立。選択や棄却を理解するために、主観的要素においては先ず統一性を、客観的要素においてはあらゆる多様性の総体を、把握しなければならない。

この否定的な側面は、意識的あるいは間接的に著者においても可能なものとして、私たちにおいてのみ可能なものを考えたり、著者の素材に私たちの素材をこっそり押し付けたりすることである。通常の誤謬。古代人や疎遠な人においては、それゆえしばしば主観的要素が厳しく現れる。なぜなら、彼らにとってはまったく存在しなかったものの多くが、私たちには、彼らと対象との間に存在するからである。

積極的な側面は、著者の時代や個人的事情、あるいは実際に〔語りに〕現れていなくても彼が知っていたに違いないものすべてについての知識である。

37.人の意識の対象となる素材が、いかに各人の関心を引き起こすかという程度は、その素材が主観的要素として現れるあり方から明らかになる。

注釈1:すなわち、あるものはまったく現れないか、あるいは、ほとんど回避できない差し迫った誘因においてのみ現れる。したがって、それは、故意に避けていると見なす特別な理由がないとしても、等閑、関心の欠如である。

注釈2:他のものは、頻繁にあるいはまれに現れる(なぜなら、この頻度は純粋に対象に依存するからである)。しかし、それが現れるのは、容易に説明可能な誘因においてである。これは意識の共通要素であり、それは人が必要とするときおのずと提供されるか、あるいは、それが提供される場合、人は非常に容易にそれを用いることができるようなものである。

注釈3:また他のものは、同様に頻繁にあるいはまれに現れるが、その結果、それは求められるように見えたり、その誘因が[    ]される。これは、ほとんど常に、ある特定に時代にだけ意識に入ってくるような対象である。

38.ある著者において、客観的機能と主観的機能(狭義の技法と広義の生)が離れ離れに登場するその度合いは、ジャンルに応じて主観的な〈1306〉要素が、どの程度頻繁に、あるいは少なく現れるかということより明らかになる。

注釈1:ジャンルに応じて。というのは、あるジャンルは主観的なものをより多く我慢するが、他のジャンルはより少なくしか我慢しないからである。厳格なジャンルと優美なジャンル。しかしどのジャンルも両方の側に余地を残す。したがって、各作品のこの余地においていずれの側に向かうかは、その著者の性格である。

注釈2:技法と生。この差異が最も明瞭に念頭にある人は、構成における主観的結合からも最大限身をもぎ離す。無教養な著述家たちとは、このようなことが全くできない者たちである。

39.広義では技法に属するすべての作品はまた、狭義では生に属する行為である。著者に対しジャンルに応じてそのように現れれば現れるほど、主観的要素は、生に何かを引き起こす副次的関係を獲得する。

注釈1:ジャンルに応じて。同時に生へ介入することにほとんど耐えられないようなジャンルが存在する。これは全般に当てはまる諸作品である。そこにおいて生への諸関係が支配的であるようなジャンルは、特定の機会に作られる文書である。客観的統一性の外部でなお一つの主題を持っているような諸作品は、しばしば両者の中間に属するが、客観的な側面にある。

ジャンルの外でさらに時間が作用する。公共生活は技法を身近にもたらす。プラトンとアリストテレスの差異。

しかし、至るところでそうだが、ここでも自由な余地が著述家に残されている。

:この区分及び38の区分は、互いに混同されてはならない。一方の区分どの要素も他の区分のどの要素にも属することが可能である。

注釈2:ある文書が通俗的と特徴付けるすべてのものは、生への副次的関係に数え入れることができる。すなわち、作品の目的を達するために特別な気分を考慮したり用いたりすることすべてである。どの単語においても、著者はある種の読者を想定し、多かれ少なかれその読者との対話に入る。しかし、そこにおいて一時的なものを念頭に置くということは、常に生に介入することである。

この対立も厳密なものではない。なぜなら、著者が新しいもの、新しい真理を講演することに応じて、この対立も通俗的要素を呈示しなければならないからである。

40.客観的なものから直接生じるのでない言語使用の独自性は、主観的要素の全体性からは確実には推測され得ない。

注釈:主観的なものをまとめることにおいて、独自に現われるように見えるいくつかのものが、言語に見出される。しかし、ある場合には、人は〈1307〉古代人や疎遠な人々においてはなおのこと、それがある時代やあるジャンルの共通財産であるかどうか決して知ることができない。またある場合には、それが単に主観的要素においてそのようなものとして明らかになり、したがって純粋に個人的なもの(Persoenlichkeit)から生じるのであれば、人はそれを作為として特徴付けることができる。

41.言語使用の主観的独自性と見なされるべきものは、客観的な〔独自性?〕において基礎付けられることができねばならない。

注釈:ある作品において客観的要素に属するものは、それが独自な直観の仕方を含み、したがって言語使用をも基礎付ければ基礎付けるほど、他の諸作品において再び主観的要素としても現れる。すべて言語使用の独自なものは、独自な直観の仕方に起因するが、それ〔独自な直観の仕方〕は、たいていの場合、客観的要素を、おそらくは失われた作品においても形成した。しかし、それが、現実的にも、ただ断片的に立てられるならば、それら個々の要素の間に類似が見出されなければならない。そして、これが唯一の真の証明である。

42.言語自体一つの直観である。したがって、言語使用の固有なものも、一つの独自な言語直観にのみ基礎付けることが可能である。

注釈:それについての厳密な釈明なしに、感情に基づいて私たちが固有なものと見なすものは、たいていこのことに基づいている。言語の独自な直観は、たいていその有機的部分の相互関係についての特殊な一つの見方であり、言語における、形式的実質的要素の相互関係や、音楽的文法的要素の相互関係に該当する。個々の著者は、ある種の転換の力を意識へともたらすように思われる。1)それが高めるものであれ、低めるものであれ、言語の一つの場から他の場へと何かを植え替える。2)単語を、ある種の側面に従って使用する圧倒的な傾向、あるいは、ある特定の場にのみ属する言葉を一般に作り出すこと、リズム遊びや、組み合わせ、言葉遊び、破格構文。一般に人がこの独自性の要素と見なすのは、言語法則に反する見掛けを持つもの、他の誰にも見出すことが困難で、遂行困難に見えるものである。それが作為的であるという非難から完全に逃れるべきであるなら、人はそれについて共通の原理を探し出さねばならない。そしてある程度展開できなければならない。

43.これまでに示唆された諸契機すべてが生き生きと共に作用することが、完全な理解を産み出す。

注釈:ともに作用することは必然的である。なぜなら、厳密に言えば、いかなる箇所も一つの方法の適用だけによっては理解され得ないからである。もし人が、どこで客観的なものも主観的なものも単に最小であるかを見逃すならば、〈1308〉誤謬はいよいよ大きくなる。したがって、個々の箇所の理解は非常に明瞭であるのに、全体についての真の理解が伴わないということが非常にしばしば起こる。

44.その頂点において把握された完全な理解は、著者を、彼自身が理解している以上によりよく理解する。

注釈:なぜなら、完全な理解とは、ある場合には、語り手自身気付いていないものを意識化するような語り手の方法の分析であり、またある場合には、語り手自身そこにおいて区別していないような必然的二重性において言語に対する語り手の関係を把握することだからである。同様に語り手はまた、彼の個性あるいは教育段階の本質から生じるものを、偶然異常性から現れるものから区別しない。[...]

真理は次のことから生じる。すなわち、著者が自分自身の読者になり、彼が他の人々と一つの列に連なり、他者が著者自身よりもよりよくなることができる場合である。いずれにせよ、少なくとも、著者の仕事の無意識的な部分から、その困難と不明瞭さが生じる。

45.著述家の難易の違いは、完全な理解が存在しないということによるに過ぎない。

注釈:すなわち、あらゆる必然的条件の完全な所与存在で始まるそのようなものが、この違いを破棄するに違いない。なぜなら、もし言語が完全に与えられれば、ある唯一のものを、他のもの以上に言語として理解することが困難であるということもなければ、ある主観性がそれ自体として他の主観性よりも理解できないということもないからである。

この相違の克服しがたい点は、しかし、言語、とりわけ古代の言語の不完全な所与存在以外に、そのあらゆる時代と形式にある。1)ある場合には著者自身に;すなわち難しい著者とは混乱した著者であり、彼らは、自分達のジャンルのイデーを純粋に把握していなかったり、言語をその力において十分把握していなかったり、その個性を十分純粋に引き出していないために、冷害を前にすると規則に至ることができなくなってしまうのである。このような著者を完全確実に理解することは不可能である。2)ある場合には読者に。というのはすなわち、誰もがすべての領域に等しく通じているわけではなく、構成自体と同じく理解も、たいていの人においては一面に傾きがちであるか、すべての方面に理解が等しく向かっていても、技術的側面よりも文法的側面を一層確実に把握しているものである。

したがって、全体的な理解は、常に共同的な作業である。