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最終更新日20001128

F.シュライアマハー『神学通論』1811年初版

247

はじめに

人の教科書を手引きにして、学術的な講義を行うことに、私は常に非常な困難を覚えてきた。なぜなら、偏った見解はすべて、別の観点から生じた秩序からの逸脱を余儀なくさせるように思えるからである。もちろん、個々についての個人の独自な見解が、全体についての共通の見解に服すれば服するほど、すなわち、学派と呼ばれるものが存在するようになればなるほど、こうした困難はなくなっていく。しかし、現在神学がこのような状態にないことは誰もが知っている。多くの点で役に立つ入門書が必要とされる場合、自分自身でそれを作るという必要が私に生じるその同じ理由から、他の教師たちが私のものを用いるという要求はできない。したがって、ただ私の現在及び将来の聴講者のためだけに定められたものを、印刷出版するというのはもったいないように思える。そこで私の慰めは、この小冊子が、私の現在の神学研究の全見解を含んでおり、それは、その性質からして、その逸脱によって刺激的に作用し、必ずやよりよいものを産み出すことができるということである。他の人々は、百科全書的なものにおいては、叙述された個々の学科自体の短い抜粋をも提供するのが常である。私にはむしろ、〈248〉そのような講義においてはあらゆる注意を形式的なものにおいて保持するものに従うのがふさわしいように思える。それによって、個々の部分の意義やそれらの連関がよりよく把握されるからである。

ベルリン、181012

D.F.シュライアマハー