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最終更新日20001128

シュライアマハー『神学通論』1811年初版

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1.この神学は実定的な学問であり、その様々な部分は全体に対して、ただある特定の宗教、すなわちキリスト教への共通の関係によって結びついている。

2.どの特定の宗教も、それが歴史的な意義と自己活動を保持する程度に応じて、すなわち自らを教会へと形作る程度に応じて、神学が仕込まれる。その組織体系は、ただその宗教の独自性から理解される。したがって、各宗教ごとに異なる神学が存在する。

3.神学は教会に属する者すべてに必要というわけではなく、ただ教会を指導する人に必要なものである。そのような指導者と一般大衆の対立と神学の出現は、相互的な条件である。

4.教会が進展し、多くの言語及び文化地域に広がれば広がるほど、神学もまた多くの部分に分かれ、複雑に組織されるようになる。したがってキリスト教神学は、最も形成の進んだ神学(die gebildetste)である。

5.キリスト教神学は、その適用なしにはキリスト教的教会統治が不可能な、学問的知識や技法規則の総体である。

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6.その同じ知識が、この〔教会統治への〕関係がなければ、神学的ではなくなる。そしてどれも他の学問に帰属してしまう。

7.この知識の多様性はその身体であり、教会の健康の為に規則的に働くという衝動はその魂である。

8.その知識が、ただキリスト教への関心によって、神学を形作る全体へと結び付けられるように、そのような学問的知識の習得によってのみ、キリスト教への関心も、それによって教会が実際に保持され、さらに形成されるような目的に適った活動になることができる。

9.宗教的関心と学問的精神の二つを、最高の度合において、最大限可能な釣り合いを保ちつつ、理論と実行に統合することが、教会指導者のイデーである。

10.ある人がキリスト教との関連で、知をより多く自らの内に形成する限り、その人は神学者である。その人が、むしろ教会統治の直接的訓練に携わるならば、彼は聖職者である。

11.そのように指導された学問的知を伴う実際の行動はすべて教会統治に属する。その最も直接的行使を伴う規則や条件についての知識はすべて神学に属する。

12.したがって、何らかの仕方で教会統治にも携わる人々だけが、本来の意味での神学者であり、また真に神学者である人々だけが、教会統治を行使できるように〈251〉、一方の方向においても、両者、即ち宗教的関心と学問的精神が、どの人においても統合されていなければならない。

13.自分の中で両者のいずれが優勢であるかにしたがって、教会における指導的活動に召されていると感じる人は、自分の活動のあり方を決定しなければならない。

14.教会指導の活動や、さらには神学自体も、教会統治が特殊な市民的立場の基盤であるということには決して依存しない。

15.誰も神学の課題すべてを完全に解くことはできない。なぜならその下に把握される知識は無限であるし、またその諸学科が様々あることは、等しい程度に統一することが不可能な才能の多様性をも要求するからである。

16.もし各人が完全に一方の部分だけに自らを制限するならば、全体は一つにおいても、また生き生きとした協働が生じないゆえに、すべてにおいてもまとまらないだろう。

17.各人は、そこにおいてそれを完成へともたらすために、先ずは神学の一方の面のみに携わることができる。しかし、これを通して全体に働きかけるために、その全体を普遍的な意味において捉えなければならない。

18.各人が神学のすべての部分について知覚しなければならないものは、目的の統一性にしたがって存在している普遍的なものである。各人がただ神学の一部分から獲得できるものとは、才能と対象の独自性と結びついている特殊なものである。

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19.実践的であろうと望めば望むほど、その人は神学者として普遍的にならねばならない。学者として業績を上げようと望めば望むほど、いっそう神学の一部分に携わるようにならねばならない。

20.その普遍的なもの(18)とは、1)目的を伴う神学の様々な部分の連関についての正しい直観、2)どの人においても最も多く他の諸学問や、その目的と関連しているものについての学問、3)必要な知識を直ちに作り出すための手段に通じていること、4)他の人々が成し遂げたものを利用するために必要な予防法に通じていること、である。特殊なものとは、個々の学科における完全性であり、その目的は、それらにおいてすでに達成されたものの純化と拡張である。

21.百科全書的叙述は、物質的部分自体に関係することなしに、様々な部分の本質と連関の直観に関わる。

22.キリスト教あるいは特定の教会の本質、そこからだけ偶然的なものに対する対立において、神学の組織体系は理解されるべきではないし、また、教会の本質一般は、単に経験的に理解されることもできない。

23.諸々の教会というものが存在すべきであるなら、人間の発展における必然的要素としてのそのような団体の設立や存続は、倫理学において証明可能である。

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24.このイデーの生き生きとした叙述は、あらゆる個的なものの萌芽を含む変化するものの領域をもそこにおいて証明しなければならない。

25.ここからキリスト教会の現象全体における本質的なものを理解することが、神学の哲学的部分の課題となる。

26.哲学的神学は、神学全体の根幹である。

27.それ〔哲学的神学〕はほとんど取り組まれてこなかったので、一般に通用する特定の名称が欠如しているほどである。

28.キリスト教的教会統治の目的が向かい得る方向とは、キリスト教にそれにふさわしい領域を確保し、キリスト教を常により完全に習得し、この領域の内部でキリスト教のイデーを常により純粋に叙述することである。

29.これには技術がなければならないが、それは叙述されるべきイデーの所有と、統治されるべき全体の知識に基礎付けられる。

30.この技術の叙述が、神学の実践的部門である。

31.実践神学は、神学研究の王冠である。

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32.実践神学は従来、大きな全体に対してよりも、小さな個々のものとの関連で理論として扱われてきた。

33.統治されるべきものとしてのキリスト教会は、生成するものであり、そこでは、その都度現在が、過去の産物として、また将来の萌芽として把握されなければならない。

34.そのような作用を受けるべきものは、したがって、その歴史なしには理解できない。それはその全範囲において、神学の歴史的部門を形成する。

35.歴史神学が、あらゆる時点をその原理との関連で叙述することによって、それは哲学的神学の確証を包含する。また〔あらゆる時点を〕先行したものとの関連で〔叙述することによって〕、それは実践神学の基礎付けを包含する。

36.歴史神学は、神学研究全体の本来的身体であり、自らのあり方で、他の二つの部門を自らの内に捉える。

37.倫理学は歴史の諸原理の学問である。したがって、これはどの神学研究においても前提されており、神学研究は倫理学に基礎付けられる。

38.神学研究のどの部門にとっても、哲学的部門が−それがすでに学科へと形成されているなら−第一の部門でなければならない。誰もがそれを自分で形成しなければならないのである限り、それはただ歴史的部門と並んで獲得されることが可能である。

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39.何よりも実施に関係する実践神学は、研究にとっては最後のものである。

40.したがって、先ず哲学的神学が論じられ、それから歴史神学、そして最後に実践神学である。これらに神学研究全体が包含されている。