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最終更新日20001129

シュライアマハー『神学通論』1811年初版

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第1部          哲学的神学

序論

1.キリスト教の独自な本質は、単に経験的に理解されるということはほとんど不可能であり、同様に、純粋に学問的にイデーのみから導出されることもできない。

2.したがってそれ〔キリスト教独自の本質〕は、キリスト教に歴史的に与えられたものと、宗教および教会のイデーに変化する大きさとして定立されたものとを比較することによってのみ規定され得る。

3.同じことは、すべての歴史的に与えられた宗教の諸形式と教会に妥当するので、この意味において、それらはどれもただ他のものに対する空間的(Nebeneinandersein)時間的(Nacheinandersein)相互関係によって同時的に理解されるべきである。

4.一般にキリスト教との関係における哲学的神学の立場は、ただ同じものについてだけ取られるべきである。

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5.キリスト教のイデーに対するキリスト教の歴史的所与の関係は、その内容によってのみならず、生成のあり方によっても表わされる。

6.歴史原理の学問としての倫理学は、イデーの純粋な表現にとって歴史的全体にあるものがどのように生じるかを示さねばならない。しかし、倫理学はそれをただ一般的にすることができるだけである。

7.ただ所与を、そこに示された普遍的形式と比較することによってのみ、歴史的所与としてのキリスト教の中に、キリスト教のイデーの純粋な表現にとってあるものが、その側面から認識可能となる。

8.歴史的現象は、そのイデーに純粋に対応しておらず、ただ病態と理解されるべきであるような、イデーには現われない逸脱を含んでいるが、キリスト教についてもそれが言える。

9.所与を、キリスト教の本質と認められているものと比較することによってのみ、実際に病気とされるべきものが何であるかが知覚可能となる。

10.キリスト教、あるいはすべての教会は、他ならぬ諸教派に分割される。これら諸教派は相対的な対立状態にあるが、そのキリスト教会自体に対する関係は、これやあれやの所与の諸教会の絶対的な教会のイデーに対する関係と同じである。

11.以上(19)言われたことすべては、必然的に諸教派にも当てはまる。

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12.ここに提示された課題が、哲学的神学の内容である。したがって、それは、その内的本質に従えば批判であり、その〔哲学的神学という〕名称を、倫理学の主要命題との直接的関係ゆえに、ただ広い意味においてのみ用いている。

13.教会や教派における個の生き生きとした存在は、同時にその歴史的妥当性についての内的確信である。

14.教会統治における個の生き生きとした活動は、同時にその内的妥当性を表面的にも主張、あるいは弁護する努力である。

15.教会あるいは教派における個々の生き生きとした存在は、同時にそこに現われている病的逸脱に対する内的不機嫌である。

16.このような逸脱そのものをはっきりとさせ、取り除く努力も、教会統治における個々の活動に属する。

17.神学の学科として、哲学的神学はその形式を、教会の健康な状態や継続的形成に対する関心から受け取る。

18.そのようなものとして哲学的神学は、そのような対立がある場合にはいつでも、本質的に一つの教派に拘束されている。したがって、教派ごとに特殊な哲学的神学が存在する。

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19.そのようなものとして哲学的神学は、上記にしたがって、弁証論と論争術の諸原理を含む。そして、それらがその内容のすべてである。

 

第1章          弁証論の諸原則

1.教会のイデーは、多数の歴史的諸現象において現実化する。それら諸現象はそのイデーにおいては一つであるが、そのもとにあって様々である。キリスト教についても、それがそのようなイデーとして主張されるべきであるなら、統一も差異も同様に証明されなければならない。このような研究は自然的概念と実定的概念の相関概念を包括する。

2.教会のイデーは、どこに特殊な宗教形式や教会の独自な本質が定立されるべきかについての一般的な規定に自らを基礎付けつつ、この領域においてキリスト教の本質を証明しなければならない。

3.特殊な宗教形式独自の本質は、観念的側面においては、その教義に於いて最も明確に表現される。また実在的側面においては、その法規において〔最も明確に表現される〕。したがって、キリスト教の内的一貫性を表現する為には、いかに両者において同一の本質が表現されているかを証明しなければならない。

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4.この一致は、キリスト教の本質が正しく把握されているかということの試金石でなければならない。

5.新しくまた根源的な事実としてのキリスト教は、それが成立した仕方によっても(1部序論5)自らを証明しなければならない。この研究は、啓示や奇跡、霊感などの諸概念を包括する。

6.教会のイデーの歴史全体に渡る叙述は、一つの連続した系列とも見なされるべきである。したがって、正にまた他方において、ユダヤ教と異教からのキリスト教の出現が叙述されなければならない。この研究は予言や予型といった概念を包括する。

7.歴史現象としてのキリスト教会は、時間的であり、それゆえ変わりゆくものである。したがって、このような変化の下にあって、教説の領域でも共同体の領域でも、その本質の継続的統一性が何によって認識できるのかも論じられなければならない。このような研究は、正典や聖礼典の諸概念と関わる。

8.必然的産物としての教会は、人類の発展において本質的に生じる他の共同的生の諸組織と同一の根拠に基づくがゆえに、キリスト教についても、それがそれらすべての諸組織と共に存続可能であることが証明されなければならない。このような努力は、教権制度や教権といった諸概念の正しい規定を目指す。

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9.同じようにして弁証論は、それが特殊な教会教派に向かう限り、キリスト教会における他の教会と共通の存在も、またその特殊な単独存在も基礎付けねばならない。その対象は、とりわけこの意味で、信条や儀礼といった諸概念に属するものすべてである。

10.各教派は、単に自分自身だけを弁護し、他の教派は弁護しないというのではなく、その見解は、多かれ少なかれ弁証論の仕事全体によって貫かれている。

11.対立としての諸教派が生じるのは、そこにおいて対立が起こらないような状態からだけである。したがって各教派は、無秩序や腐敗という非難に対して自らを弁護しなければならない。

12.そのようなキリスト教内部の諸対立は、すでにしばしば繰り返し消滅してきた。したがって、特殊な弁証論は自分自身をも境界付けし、次のことを知らなければならない。すなわち、教派の分離された存在は、もはやキリスト教の独自な叙述と見なすことはできないということである。

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第2章          論争術の諸原則

1.論争術の諸原理は、哲学的神学に属するが、それはその否定的側面としてである。すなわちキリスト教の現象において、そのイデーに一致しないものの発見や認知としてである。

2.現象において一般に衰弱した生のプロセスは、内在するイデーの根源的な力にもはや一致することはできない。イデーの叙述に属するものは、部分的には死に絶えることができるか、新たに発展することはできない。イデーに矛盾するものは、終には現象において発展することができる。

3.第一の悪の最も一般的形式は、無関心主義である。もしこれがキリスト教の原理から生じるならば、そのようなキリスト教は自らを破壊してしまうだろう。したがって、もしキリスト教に必然的な実存が帰せられるべきならば、それは病態として証明されなければならない。

4.第二の悪の最も一般的形式は、分離主義である。もしこれがキリスト教の原理に適っているとするなら、それは教会、すなわち、キリスト教の歴史的現実性そのものを破壊してしまうだろう。したがってそれは病として捉えられねばならない。

5.キリスト教の本質に逆らうものがキリスト教の現象の外に定立されたとしても、それは論争術の対象ではない。無神論や反宗教的団体に対する論争術は存在しない。

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6.キリスト教の現象内でその本質に逆らうものは、それが教説において自立的に組織されるならば、異端であり、共同的に組織されるならば、分裂である。

7.対立(1部序論12)ゆえに次のように主張されねばならない。個々の分裂や異端は、単に経験的に把握されることも純粋に学問的に導き出されることもできない。そうではなく、所与とイデーの比較によって把握される。

8.したがって論争術の方法とは、内容の悪化を証明することであり、それは教会に関しては正典や聖礼典に対する矛盾によって(1部第17)、教派に関しては信条や儀礼に対する矛盾によって(9)、あるいは異端と分裂の自然的な一致によって証明される。

9.キリスト教の本質に逆らうものはその成立様式によっても知られる(1部序論57)。そして論争術の諸原理はこれを規定する努力をしなければならない。

10.最初に現われる異端の要素は、個々の思念であり、〔最初に現われる〕分裂の要素は、秘密集会である。論争術の諸原理は、病的なものをこのようなものにもすでに認めるよう努力しなければならない。

11.新しい教会教派は先ずは次のようにして現われる。教会教派と教会分裂の違いを認識しているすべての教会は、教会分裂をその最初の諸要素において認識できるように規定するよう努力しなければならなかった。これが論争術の最高の課題である。

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結論

1.弁証論を論争術の諸原理は、相互に規定し合っている。それらの領域は互いに排他的である。

2.哲学的神学は、歴史神学の持つ質料的なものを前提としている。しかし、〔哲学的神学は〕個についての判断自体を基礎付け、したがってキリスト教の歴史的直観全体を基礎付ける。

3.神学の哲学的部門と実践的部門とは共に歴史的部門に相対している。なぜなら、それら両者は直接実施に向けられているからで、ただ前者〔哲学的神学〕は、観察にのみ向けられている。それら〔哲学的神学と実践神学〕は互いに最初のものと最後のものとして相対している。それは前者を通して先ず対象が、後者のために確定されることによってであり、また前者は最高の学問的構造と結びつき、後者は技術の最も特殊なものを自らの内に持つことによってである。

4.哲学的部門は他の二つの部門を制約するが、人が他者から手に入れるようなものは何も保有しない。したがって、そこには普遍と特殊を分離するようなものは何も存在しない。そうではなく、誰もそれを全体として所有し、自ら単独で産出しなければならなかった。

5.各人の哲学的神学は、その人の神学的思考様式のすべての諸原理を含む。

6.他ならぬそのゆえに、哲学的神学が形式的な神学学科に容易に形作られないのは当然である。

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