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シュライアマハー『神学通論』初版

最終更新日2000124

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第2部          歴史神学

 

序論

1.内容的には歴史神学は、近代史とりわけその道徳教養史の一部であり、そこにある他の自然的な構成要素と同列である。

2.どの歴史にとっても、現場や対象の外的状況について知ることを容易にしたり、記念碑的出来事の理解に必要なものはすべて、補助学問である。

3.神学学科としてキリスト教についての歴史的知識は、何よりもキリスト教の継続的形成に対するあらゆる思慮深い働きかけの重要な条件である。その歴史領域の他の残りの部分は、この学科に補助的に従属するに過ぎない。その記録を理解するために必要なものを、この学科は補助学問として特に習得する。

4.歴史の領域において個として登場するものはすべて、突如成立したものとしてか、あるいは徐々に形成され展開してきたものとして見ることができる。

266

5.双方の見解共に互いに相対的に対立しているに過ぎない。したがって、どんな状態も、両者の一方が他方に対して優越しているに過ぎない。

6.歴史全体の経過はこの二つの状態が幾重にも交替することである。

7.静穏な継続的形成が優勢な時期は、法則に適った状態を表わす。そして歴史上の一時代を形成する。突発的成立が優勢な時期は、状況の交替あるいは転覆、革命を表わし、歴史的エポックを形成する。

8.総じて歴史というものは、そしてまた特に一つの力の諸活動の結果全体は、唯一の全体を形成する。したがって、より小さな歴史的全体の最初の状態はすべて二重に、すなわち新しい全体の成立としても、またすでにそこにあった全体の形成としても見なすことができる。

9.キリスト教史は、一般宗教史の中の個別な一時代と見なすことが可能である。しかしまた、独自な歴史的全体と見なし、その開始は一つの成立として、その全経過は、様々なエポックによって区切られる複数の時代の系列と見なすことも可能である。

10.歴史神学は、その目的をキリスト教の内部に持つものとして、後者の見方を取る。

267

11.無限に多様な歴史の素材を明瞭にまとめるために、二つの方法が存在する。時代を区分し、時間的統一性の中で起こったものを皆まとめるという方法と、内容を区分し、すべての時代にわたって、内容的にその部分ごとに該当するものをまとめるという方法である。

12.前者は対象自体の中に、常に内的状況の転覆―そこからエポックが形作られるのだが―を通して与えられる。後者は、その表出が観察されるところの力自体が、そこにおいて根源的に区分され分類される仕方によって与えられる。

13.静穏な進展の間には、全体の中の共存する有機的諸部分は、容易にそれらの相対的自立性によって別々に観察できる。これに対して、変革の時期には、あらゆる相互作用がより活発であり、各個は共通の状態により依存している。したがって、一般的に一方の叙述様式は、時代の叙述に適しており、もう一方はエポックの叙述に適している。

14.神学の有機的原理にとって、最も直接的原理は、将来のモメントがそこに結びついているところの現在のモメントを知ることである。したがってこれは特別に強調される。

15.現在は過去の結果としてのみ理解可能であるゆえに、現在についての叙述は過去を知ることを前提としている。

16.歴史的経過はすべて一つの力のさらなる展開を、他の諸力との共存において叙述するゆえに、時と共に、これら他の諸力の作用も増大する。そして、根源的な力を、純粋に直観して表現することは一層困難になる。

268

17.同じ理由から、この力は、その最初期の表現において最も純粋に現われる。

18.キリスト教の本質を、どの将来的な瞬間においても、より純粋に叙述することが、あらゆる神学の最終目的であるゆえに、神学は、そのような本質が最も純粋に直観できるところのものをも特に強調しなければならない。

19.したがって歴史神学は次の3つに区分される。すなわち、キリスト教の始まりについて知ること、その展開について知ること、そして現在の状態について知ることである。

20.歴史神学の対象が有機的に区分される(11,12)べきであるなら、先ずは教義体系と教会法規に分けられる(I.Erst. Abschn.3.)。

21.成立しつつあるキリスト教、原始キリスト教は、両者が初めて生成した時代のみを包括する。したがってそれら〔教義と法規〕は互いに引き離せない。

22.それがさらに特別に神学的イデーにふさわしく、キリスト教的原理の最も純粋な代表(17,18)と見なされるならば、その観察は〔教義と法規という〕部分に分解することはできない。それができるのはただ人がそれ〔原始キリスト教〕を、一つの初期のモメントとして、それに続くモメントと同じ種類であると見なす場合のみである。

23.その目的のために抽出された原始キリスト教についての知識は、正典を形成する数少ない文書記録に含まれている。〈269〉そして、それはとりわけそれら文書記録の正しい理解に依拠している。したがって、その名を釈義神学という。

24.釈義神学は最初、哲学的神学に列している。そして、これは歴史神学のあらゆる部分の中で、最初に研究される部分である。

25.その性質上、釈義神学においては普遍と特殊の差異(序論20)は、最小限の隙間しかない。

26.キリスト教のその後の展開の叙述、あるいはその本来的な歴史は、様々な個物を無限に含んでいる。したがって、そこにおいては普遍と特殊の対立は最大になる。

27.〔空間的〕広がりとしては、それは教義史と法制史に分けられる。

28.〔時間的〕長さとしては、その各々は、途切れることのない流れを表現し、そこではただ時間やエポックという概念(7)によってのみ確固たる諸点が作られる。そうした諸点によって、人はエポックによって区別される数多くの点の間に違いを定めることができる。すなわち、一つの時代に属するが、その結果、ある点は先行するエポックをより多く表現し、他の点は後に続くエポックをより多く準備するようなるといった諸点間の違いを定めることができるのである。

270

29.現在について知ることは、何よりも実行と結びついているがゆえに、歴史神学のすべての部分の中で最後に研究される部分である。

30.ある瞬間が、革命から疎遠であり、先行するエポックの結果が、その瞬間の完成に含まれていればいるほど、その叙述において教義と法規とは容易に区別される。また両者がどの程度同じ性格を表現しているかということも、この区別によって一層明らかになる。

31.ある瞬間が一つのエポックと絡まる度合が増すほど、単独で叙述することが困難になり、ただそのエポックとの完全な連関においてのみ叙述できるようになる。

32.ある所与の時点における教会や教派の教義の叙述が、教義学の課題である。

33.ある所与の時点における教会法規の叙述が、教会統計学(kirchliche Statistik)の課題である。

34.前者〔教義学〕は、その性質上教派全体の中により多くあり、後者〔教会統計学〕は、その性質上教派全体の上に広がる。

35.人は両者を等しく無限に完全化していくことができるので、それらは、普遍と特殊の対立という点に関して、本来の教会史と対等である。

271

36.歴史観はどこにあっても自ずから形成されねばならない。なぜなら、そうでなければそれに依拠する活動も教会において自立的なものにならないからである。

37.歴史的叙述は、叙述するものの独自な見解や判断から決して自由であることはできない。したがって、誰かが歴史的叙述によって自分自身の歴史観を形成するときには、彼は批評によって、素材をそこから自分自身の作業のために排除できなければならない。

38.歴史批評は、歴史一般の領域において、したがってまた歴史神学の領域においても、あらゆる真の習得の媒介者である。

 

第1章          釈義神学

1.特殊な学科としての釈義神学は、正典のイデーにのみ関係することができる。

272

2.正典のイデーとは次のようなものである。すなわち、絶対に純粋で、それゆえにすべての時代に規範となるようなキリスト教についての根源的叙述を含む記録の集成を形成しているものである。

3.ユダヤ教の文書を正典の中に取り入れることは、キリスト教をユダヤ教の継続と見なすことであり、正典のイデーに反している。

4.ユダヤ教文書について知ることは、歴史神学全体にとって、一般的な補助学問である。

5.〔突発的な〕成立と〔漸進的な〕継続(2部序論5)は、それと気付かれないうちに相互に移行していく。その開始もまた、継続における、継続の法則に従ったより早い点と見なすことが可能である。したがって、成立時代の記録のみを含み得る正典の現われも、同様は避けられない。

6.正典が含むものは、本質的に、弟子たちと共にいたキリストについての記録であり、キリスト教設立のための弟子たちの協働の働きについての記録である。

7.これら二つの部分が正典の中に共存することによって、すでに、成立とその継続の不可分であることが、このイデーとの関係にも定立される。

273

8.使徒教父の時代は、正典生成の時代と生成後の時代の間にある。この時代と正典の第二の部分との境界線は流動的である。

9.外典は正典時代の諸文書ではあるが、キリスト教の原理をその純粋性において叙述してはおらず、その変種のようなものである。正典の第一の部分が、それらに対して持つ境界線が不確かであるのは当然である。

10.正典がそのイデーに純粋に一致しているべきである限り、教会は常にその決定に携わらねばならない。なぜなら、その完全な一致が確かさをもって認識されることは決してないからである。

11.したがって、正典はその限り常に、高層批評〔文献批評、歴史的批評、文書成立の史的背景や条件の究明を課題とする〕の二重の課題の対象である。すなわち認識されていないものを承認へともたらしたり、疑わしいものを取り除く〔という二重の課題である〕。

12.ほとんどの場合高層批評のためには、表面的なしるしや内的なしるしの最も可能性の高い一致によって達せられる接近以外の確かさは存在しないように、ここでも表面的なしるしによって認識されることは、何かが後の使徒教父時代に属するのか、それとも教会の中心から離れた外典的処置の領域に属するのかということであり、内的しるしによって認識されることは、それが本質的で支配的な正典の諸見解と直接連関すると考えられないということである。

13.同じことは反対に、さらに何か正典に受け入れられるべきものが発見されたという場合にも当てはまる。

274

14.単に文書全体がこの意味で高層批評の対象であるというのみならず、個々の箇所も対象となる。

15.正典が歴史的に与えられたものと見なされるならば、それは現状のままにとどまらねばならない。最初の教会はそれについて本質的に誤った決定を下したというような考えは許されない。したがって、たとえ個々の文書が、それに付されているのとは別の著者によることが明らかになったとしても、それはその文書を正典からはずす理由にはならない。

16.いかなる語りも原語において以上に完全に理解されることはできない。最も完全な翻訳といえども、言語の非合理性を破棄することはない。

17.原語に通じている人だけが、その翻訳をも完全に理解する。

18.正典の原語はギリシャ語だが、その多くはアラム語からの直接の翻訳である。また間接にそうと見なされるものも少なくない。

19.何が根源的にキリスト教的であるかということについての自分の判断は、どこにあっても正典の正しい理解に基づくので、神学者は皆正典を自分自身で理解しなければならない。

20.方言の完全な理解は、その類縁の諸方言なしにはありえない。したがって正典について完全に知ることも、あらゆるセム語方言に通じることによって可能となる。

275

21.第一の点(19)ではなく、この第二の点(20)のみが、この領域における専門的技法に属する。

22.ここでもまた文献批評に次いで、専門家の技法が必然的な補助である。すなわち、実際の用法において、一面的な趣味がまれに洞察力を発揮して生み出したものを、真の言語学的才能が生み出したものから区別するためである。

23.およそ語りや文書の理解というものは、技法(Kunst)である。なぜなら、そこには法則に従って自発的な産物が属しているが、その適用を再び法則にもたらすことはできないからである。

24.正典の解釈は最も困難な解釈に属する。なぜなら、思弁的宗教的なものは、全体として無教養な地域出身の著者の不確かな言語使用において、非常に多くの曲解にさらされているからであり、また、著者の思考過程を動機付けた状況が私たちにはしばしばほとんど知られず、文書自体によって推測されねばならないからである。

25.神学者はみな自分自身の正典理解に達するべきであるゆえに、誰もがこの技法を自ら行使しなければならない。権威に基づく解釈を受け入れることは許されない。

26.解釈の技術は、釈義神学の中心点である。その点に関しては、一般的な所有と特殊な専門性との間に区別はない。言語知識が覚書に過ぎないようなところでも、自分の解釈がなされねばならない。

276

27.解釈の規則を単に観察の寄せ集めとして持とうとする人は、疎遠で不明瞭な感情に従わざるを得ない。

28.解釈の技法は言語学的学科であり、他の学科同様確かな諸原理に依拠している。

29.そのように見出された解釈学的規則を正典に適用することを破棄するような正典についての考え方は存在しない。

30.正典の特殊解釈学は、正典の特殊な言語に関して、また正典諸文書がそこに属し、そこから生じた特殊なジャンルに関して、その規則をより詳しく規定することに過ぎない。

31.あらゆる解釈の目標は、全ての個々の考えを、その全体のイデーとの関係において正しく把握することであり、書く行為を再構成することである。したがって、特に規定されなければならないのは、解釈にとってどの程度正典が一つの全体と考えられ、その個々の文書がどの程度単独で観察されるべきかということである。

32.どの文書も完全に理解する為には次のことを知らねばならない。それが所属する文学と時代、また特にその文書がその人たちのために書かれたところの読者、そして、その文書が生じた特殊な諸関係などである。

33.正典についての考えは、これらその理解のための諸条件を余計なものと見なすことはできない。

277

34.このような条件には際限がないので、ここにおいて特に、一般的なものと特殊なものとの違いが再び生じる

35.全体が明らかになるような大きな諸特徴を知り、それによって新約聖書時代の正しい姿を描き出すこと、これは全ての人の義務である。細々としたものを多数集め、それによって、細かい所まで解説すること、これは専門家の仕事である。

36.このような補助知識を所有するための最初の根拠が据えられるのは、通常新約聖書への導入においてまとめられる覚書によってである。

37.そこから諸々の解釈が取られるべき源泉は、まだ論じ尽くされてはいない。

38.解釈者に必要なものは全て、彼が校訂され信頼できるテキストを手にした時初めて与えられる。これが低層批評の課題である。

39.低層批評と高層批評の間に境界線を引くことは困難である。しかし、いずれにしても問題となる対象の大きさによって決められてはならない。

40.正典の表象様式も次のことを拒否できない。すなわち、正典のテキストが、他の全ての文書原典と同じ運命に服さねばならないということを拒否できない。

278

41.最初の書体は失われてしまったという可能性が、正典においては他の全ての文書よりも少ないということはない。

42.批評の課題の範囲は無限である。したがって、それもまた特別な専門性の領域を含む。

43.テキストの完全な復元は、正典においては他の著述家たちにおいてと同じ言語学的な価値を持たない。

44.誰にとっても必要な一般的なことは、批評の諸原理を知ることである。それによって権威としての批評の専門家たちを個々の場合において吟味でき、自分の判断の根拠に自ら通じるためである。そこから専門家達による主要な帰結について同様に不可欠な知識が生じる。

45.純粋に神学的に見るならば、キリスト教の根源的な叙述に属するものと関係する異文のみが直接的重要性を持つ。批評家にとっては、全てが重要である。なぜならどれも原典の判断に寄与するからである。

46.批評の次の課題は、まだ実現されていない可能な限り正しく正確なテキストの歴史を提供することである。

47.正典の理解はいたるところでまだ完成されていないように、個々の神学者も自分の研究を完成したと見なすことは決して許されない。

279

48.学問的授業は、それに対する根拠を据えることができるのみだが、普遍性と専門性という二つの方向性を自らにおいて統一しなければならない。

49.宗教的関心の伴わない継続的正典研究は考えられない。そのような研究は正典自体に反した研究になってしまうに違いない。

50.文献学的精神がなければ正典との関わりは単に禁欲苦行になってしまうか、似非教義学的なものに堕してしまうだろう。

 

第2章          狭義の歴史神学あるいは教会史

1.教会史の対象は、キリスト教の成立から今日までの生成過程あるいは作用過程の総体である。

280

2.キリスト教は、一方では唯一の直観と見なされるし、他方では、無限に多くの個々の直観の全体とも見なし得る。

3.歴史的個別としての各事実は、表面的全体としては、空間的変化であり、内的全体としては、観察される力の機能である。両者は同一と考えられる。

4.空間的変化の羅列自体は歴史ではなく、年代記に過ぎない。歴史的要素と見なされるべきでないような多くの変化が存在する。

5.最も完全な年代記であっても単に歴史の準備作業に過ぎないように、キリスト教会の年代記も特に神学的学科と考えることはできない。なぜならそれはキリスト教に対する働きかけについての関心と何ら無関係だからである。

6.空間的に知覚された変化を接ぎ合わせ、記憶にとどめることは機械的作業である。内的なものと外的なものとを歴史的直観へ結びつけることは構成であり、才能の業である。

7.生すなわち個人の歴史的実存は、この才能を自ずから発展させる。

8.キリスト教が活動的原理として世界に入っていくや否や、人は共通の教説の形成と共通の生の形成とをキリスト教の二つの機能として区別することができる。

281

9.教会は教説の共同体でもありまた生の共同体でもあるように、いずれの機能も他方なしにその活動において理解することはできない。いずれの瞬間も、その不可分な観察においてのみ生き生きと正しく把握することができる。

10.神学学科としての教会史はとりわけ、疎遠な作用に帰せられるべきものを、純粋に原理自体によって生じたものから区別すべきである。

11.教説の形成は特に、支配的な哲学上の学説や学問的状況一般の刺激を受ける。

12.共同のキリスト教的生の形成は特に、政治状況や社交的な状況一般の影響を受ける。

13.キリスト教の歴史的進路を認識するという課題は、一方の欠如を他方が補うという両方の方法の多面的な組み合わせによってのみ完全に解決される。

14.共通の生の形成においてさらに再び道徳習慣(Sitte)の形成と礼拝(Cultus)の形成とが区別される。

15.しかし、この両者も相互的なものである。いずれも他方に還元可能だからである。

282

16.いずれも孤立されるならば、その個性を失う。なぜなら道徳習慣を伴わない礼拝は、単なる儀式あるいは迷信として現われるに過ぎないし、礼拝を伴わない道徳習慣は、宗教的原理ではなく社交状態の結果として現われるに過ぎないからである。

17.教会的法規は外部からの批准(Sanction)を伴わないゆえに、完全に道徳習慣の領域に属する。

18.宗教的な心の態度がいかに様々な行動の部門に入り込んでいるか、また他の諸々の動機に対してそれがどのような関係にあるかは、道徳習慣において示される。

19.宗教的原理とその他諸々の動機とのこの共存においてのみ把握されるものとは、教会の中にあるが、教会から生じたものではなく、教会はそれから清められるべきもの全てである。

20.同じことは次のような強度な差異についても言える。すなわちそれによって宗教的原理が、その都度の時代や民族の道徳的法規から、生の様々な領域を自分のものとするような差異である。

21.礼拝の道徳習慣に対する関係は、技法の制限された領域が社交的生活のより大きな領域に対して持つ関係と同じである。

22.両者においては、ただゆっくり生じる変化のみが根本的である。それが早くなればなるほどそこには見せかけが多くなる。

283

23.このゆっくりとした変化は、途切れることなく続く系列において把握されることはできない。そうではなく、ただ一つの時期から他の時期へという進展を表現する不連続の諸点においてのみ把握される。

24.礼拝に最も近い関係にある教会法規は、その規律ある態度を道徳習慣を通して獲得し、同時に国家に対する教会の関係を表現するが、この法規の展開のみが、そこに他の残りのものが並んでゆく連続した糸を作り出す能力を持つ。

25.教会史における最も大きな革命とは、教会だけに関係するのではない革命である。このような革命も、最も強く教会法規において明らかになる。

26.教義の形成を孤立化して観察するときだけ、人は次の課題を設定できる。すなわち、キリスト教の本質と関係する内的合法性を、キリスト教の発展において見出すことができる。

27.完全に表面的な生の諸関係は、教義の領域における重要な決定のために真の根拠を含むことはできない。

28.漸次的な教義の形成は、一方ではあらゆる関連へと進展して行くキリスト教原理を見ることであり、他方では、有効な哲学体系においてキリスト教的感情の陳述のための場所を探し出すことである。

29.前者は正典からの演繹で終わり、後者は承認された哲学的諸命題との一致で終わる。

284

30.両観点の均衡はほとんど全く与えられないので、一方が他方に対してどれほど優勢かが注意されるべきである。

31.同じ時代に様々な教派がこの点で互いに対立している場合もあれば、様々な時代が、他方に対する一方の優勢によって自らを区別する場合もある。

32.哲学的体系を神学に導入する努力は、正しい聖書解釈の適用と対立するのが常である。

33.人は教義の発展の中に、理論的教義と実践的教義の形成を区別できる。

34.全体においては実践的側面が後退しているにもかかわらず、一方もしくは他方を優先的に行う教派や学派が常に区別される。

35.歴史的諸機能を孤立させて観察すればするほど、いっそう頻繁に人は分離されたものを再び統合しなければならない諸点に至るに違いない。人がただより大きな要素に頼れば頼るほど、人はいっそう長くとどまることなく前進できる。

36.歴史的なものを知るためには二重の方法がある。原典自体からと、歴史的叙述からである。

285

37.個々の諸事実のための狭い意味での原典は、記念碑あるいは記録に過ぎず、それらは求められている出来事の部分に他ならないか、直接同じものを引き合いに出す。歴史的叙述とは、たとえ同時代のものであっても、間接的な原典である。

38.全体の状態は、類似した個々の諸事実の大きな塊によってのみ証明できる。

39.原典から歴史的直観に達するための補助学問は、全ての文献学的研究、資料の信憑性について決定を下す批評、歴史的批評一般、そして最後に、残りの歴史全体である。

40.教会史の無限の領域から全ての神学者が知覚しなければならないものは、神学的目的からのみ判断できる。

41.したがって各人は、教会史を現時点の関心という尺度にしたがって知覚しなければならない。

42.そこに将来の瞬間が結合している最新の瞬間は全て、最新の革命的な出来事に特に基礎付けられる。このような出来事を通して、さらにいくつかのものが以前の静穏な状態からこっそり忍び込んでくる。然り、それ〔革命的な出来事〕は、正にそこ〔静穏な状態〕に基礎付けられている等々。したがって、あらゆる主要な革命について、それらの現在の瞬間との関係という尺度にしたがって知ることが、第一のことである。

286

43.二つのエッポクごとの間に、従属的な主要点があり、そこから人は各エッポクの力がいかに減少したり増大したりするかを認識できる。これらの主要点が次に不可欠なものである。

44.時代に共通の精神や性格は、大きな歴史像によってのみ固定化されることができる。あらゆる時代についてそのような像を描くことができない者は、歴史に生きてはいない。

45.これを超え出て行くものは、教会史の次のような営みに属する。すなわち、個々の部分自体の完全化や完成を目指す営みである。

46.教会史において専門家として何かを成し遂げようと欲する人は、原典から諸事実を探り出したり、修正したりするか、あるいは時代をより正しく本来的に叙述することを目的とする。

47.教会史においては、他においてよりも事実の誠実な叙述に達することは困難である。歴史的な芸術作品は至るところでまだ欠如している。

48.学問の充実化に関係する各人の仕事は、各人の傾向や、各人に提供される機会に共通の産物でなければならない。

49.一般的な必要に属するものは、先ずはただ派生する原典から論じ尽くされることができる。そしてここに属する歴史的構成の批評は、この種の熟練によって最もよく獲得される。したがって、各人は少なくとも教会史の小さな一部分を原典から研究すべきである。そして、287〉その全体像を正しく復元するために、必要な限りで各時代の原典にあたるべきである。

50.宗教的関心と学問的関心は、教会史の研究において互いに互いの進路を遮ることはできない。

51.観察するものが教会党派に立つ時の愛着が、正しいあり方をしているなら、それが惑わしや悪化になることは決してない。

52.学問的精神が要求する厳格な中立性とは、無関心主義でもなければ、それが教会や教派にとって害悪になることもできない。

 

第3章          現在の状態におけるキリスト教についての歴史的知識

1.教会史における現時点の包括的な記述は、ただ次のことを示すことを望み得る。すなわち、現在の時代の原理がどのような状況においてあらゆる面に渡ってそこまで展開してきたかということである。

288

2.他ならぬこの目的ゆえに、ここでもまた法規と教義の分離が生じる(2部序論20)。ただ両者の相互依存的な関係は、見逃されてはならない。

3.神論あるいは教義学的神学という名称で知られる神学学科は、教会で今現在有効な教義の諸連関の叙述を扱う。

4.単に主観的な逸脱した諸連関の叙述や、いわゆる聖書神学を立てること、さらには争いを避けるあまり争点となるものを故意に除去することは、この〔教義神学という〕概念には当てはまらない。

5.単独で叙述可能な瞬間(2部序論30)はすべて、二つのエッポクの間にあるから、そのような瞬間においては、教義との関連でも、ある場合には前のエッポクによって定立されて教会の中に存在し、ある場合には後のエポックを準備しつつ〔教会に存在する〕。

6.前者は、教会的に規定されたものとして優勢に現われ、後者は個から生じるものとして優勢に現われる。

7.比較すると、前者は至るところでそれ自身等しいものとして、すなわち統一性として現われ、後者はそれ自身において様々なものとして、すなわち数多性として現われる。

289

8.前のエッポクの原理がまだ展開に含まれていればいるほど、続くエッポクを準備する諸要素は目立たなくなる。

9.相互関係において両者の一方と認められる教義を、部分的に、あるいは全体として表明する人は全て、教会の不完全な器官(Organ)に過ぎない。

10.すでに存続し確定されているものを、その自然な推論によってしっかりと保持するという意味で構築される全ての教義の要素は、正統的(orthodox)である。

11.教義を動的に保持し、キリスト教の本質について新しい叙述を開くという意味で構築される全ての教義の要素は、異端的(heterodox)である。

12.キリスト教の歴史的進展にとって、またそこにおいて意義を持つあらゆる瞬間にとって、両者は等しく重要である。

13.すでに古くなったもの、それゆえに前進を妨げるものを教義において固持することは、誤った正統主義である。

14.キリスト教の本質と、その現在の時代を大切にすることなく全てを動かそうとすれば、歴史現象の統一性を破壊する。これは誤った異端である。

290

15.相対性に囚われている人は皆、対立関係にある真なるものと偽なるものを取り違える危険がある。

16.教会の状態を現実に包括する誠実な教義の叙述は全て、その基礎および主要構造において正統的でなければならない。しかし同様に個々の部分には、個別的に異端的なものが必然的に含まれる。

17.現時点の完全な知識に属するのは、将来に引き継がれ、今後の継続的形成に本質的に関わるもののみではなく、純粋に個人的見解として再び消え去ってしまうように作り出されたものも含まれる。

18.教義の叙述は、全体を流動的なものと見なすような方向性をも示すべきであるから、その叙述は、全て同時に存在するものを相当に顧慮しなければならない。

19.同時に予言的でないような教義の叙述は誠実ではありえない。予言的なものは〔射程が〕長くなればなるほど、内容豊かになる。また記述されるべき時点が時代の頂点に近づけば近づくほど、困難になる。

20.叙述に受け入れられるどの要素も、それが決定される仕方の真であることを、正典によっても思弁によっても確証しなければならない。

291

21.全体およびその最初の開始との関連で正典であるものは、現在進行中の時代およびその開始との連関では信条である。

22.正典による教義の正統的諸要素の確証は、信条によるその確証によって媒介される。

23.キリスト教の歴史における最も新しいエッポクは宗教改革である。それによってプロテスタントとカトリックの対立が確定された。

24.両教派の相互関係は、叙述においては常に顧慮されねばならない。

25.正典の扱い方が変われば、教義の個々の部分の証明の仕方も変わるが、それら個々の部分自体は変わることはない。

26.様々な哲学的体系との関連によって、個々の教説の様々な表現が生じる。しかし、それによって根源的宗教感情の同一性−これが教説によって代表されるべきものだが−は破棄されはしない。

27.教義の叙述は、全ての真に哲学的な体系に結びつくことが可能である。

292

28.教会の教義は、個人の様々な考えから成り立っており、そこ〔教義〕には常に一貫し持続的な諸要素が互いに結びついているので、そのその都度の状態について知ることも無限であり、そこでは、一般的に所有される領域と、特殊な専門性の領域とが区別されるべきである。

29.一般的に所有される領域に属するのは、〔プロテスタントとカトリックという〕二つの教派の教義に於いて、最新のエポックの原理と関わるもの全てについての完全な知識であり、それが歴史的意義を持つということをそれによって認識可能な新しいものについての知識である。

30.特殊な専門性に属するものとは、あらゆる個々の争点や大胆な考え、そして、単独で歴史に関与することなく再び消滅するようなものについての厳密な知識である。

31.以上の全て(330)は、教義の理論的側面、狭い意味でのキリスト教信仰論あるいは教義学に妥当し、またその実践的側面、すなわちキリスト教倫理学に妥当する。

32.両者ははじめから分離した学科であったわけでもなければ、常に互いに均衡しあっていたわけでもない。内的形成でも、外的叙述においてもそうではない。

293

33.理論哲学及び実践哲学の組織における厳密な一致が不明瞭になればなるほど、また、生において思弁的考えが生のあり方をも規定したり、あるいは〔思弁的考えが〕生のあり方によって規定されたりすることが少なくなればなるほど、最後に、最も近い過去また将来のエッポクの原理が、両方の側に等しい形で形成されることが少なくなればなるほど、教義の二つの側面が、二つの異なる学科に分離することは、目的に適ったものとなる。

34. 合理的神学に対する教義の理論的側面の関係は、合理的倫理学の義務論に対する教義の実践的側面の関係に等しい。

35.合理的神学と称するものは、単に教義学に過ぎないことがしばしばである。また合理的倫理学と称するものは、単に宗教的道徳に過ぎないことがしばしばである。両者はキリスト教に固有なものの隔離を伴う。

36.教義の理論的実践的側面は、完全に絶滅することなしに、様々な哲学体系に関わることはできない。

37.今の時代の教会的対立は、教義の実践的側面においては今のところ、理論的側面においてほどはまだ強く現れていない。

38.学問と現実の市民生活が分離すればするほど、学説と格率とが相互に規定し合うことも少なくなる。

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39.教義の両側面も特殊な学科として論じられるならば、いよいよ必然的に、その一側面のどの個々の命題においても次のような課題が生じる。すなわち、他の側面に対してそこから生じるものを引き合いに出すという課題である。

40.教義は全体として直観されるべきであり、その結果は、より一層発展した教義に於いてはるかに容易に目立っている。したがって、教義の現状についての研究は、その性質上単に断片的に過ぎない信条のさらなる形成よりも、教会的に固定された教義の厳密に連関し合う叙述によって始まらねばならない。

41.信条からは理解し得ない新しいものを知る際には、人は即座に次のような課題を自らに課さねばならない。すなわち、共通の態度と目標をそこに見出すという課題である。

42.同様に自らを病的と認識させるようなものに対しては、時代精神の中にある反キリスト教的あるいは不信仰な原理が探し求められねばならない。

43.教会の現況について知ること、すなわち教会統計学が特に観察しなければならないのは、キリスト教世界の全領域における宗教的発展、教会法および教会の外的状況である。

44.時代の発展原理によって、複数の教会教派の対立は形成された。したがって、各人は、これら全ての諸関係において295〉自分の進路をその時代を通じて前もって描いて見せた。したがって、各教派は単独で、また他の教派との比較において観察されねばならない。

45.宗教的発展の尺度やあり方は、次のような関係によって決定される。すなわち、ある場合には、教義が共通の宗教的意識に対して持っている関係によって、またある場合には、各教派の宗教的原理が、支配的な感覚的動機に対して生において自らを見出す関係によって〔決定される〕。

46.したがってここでは、小区分は、大衆に内在する共通の感覚様式の様々なあり方によって規定されるべきである。

47.あらゆる教会法の本質は、信徒と聖職者の相互関係によって表現される。

48.ここで政治的諸関係との類似が特に現われるので、それら諸関係によっても小区分は規定される。

49.表面的な諸関係において本質的であるのは、国家と学問に対する教会の立場である。

50.したがって、そのような表面的諸関係が、それら〔国家や学問〕の形成や働きかけにおいて互いにある固有の進路を取ったところには、ある特殊な領域が存在する。

51.従来のものから明らかなことは、これらの下位区分が国民性に従った叙述と見なされなければならないということである。

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52.教会内部の特定の領域は全て全体の有機的部分と見なされるべきであり、したがってそれへの意識的な働きかけは、全体を知ることなしには不可能であるゆえに、その影響の程度によって全体の今の状態を知ることは各人の重要な義務である。

53.人が属する個別教派の範囲にのみ自分の知識を限定することは、その知識とそれに対立している知識の緊張が最高に高まる点にとって、決して正当化され得ない。

54.教義についても教会的共同体についてもその現在の状態についての知識が欠如していることは、実践における死せる機械主義の主要問題である。

55.ある一つの教派における生き生きとした活動は、対立する教派に見出される善を承認することによって損なわれることはできない。

56.全て単なる地誌学、固有名詞学、書誌学上の知識は、補助的知識と見なされるべきである。

57.真に個人的に教養ある人のものであっても、全く個別に関わるだけに知識は、個別の専門性であり得るに過ぎない。

58.このような専門性は一面性を決して免れないので、その正しい利用のためには批評が不可欠である。

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59.宗教的関心を伴うことなく、キリスト教の所与の状態についての知識がいっそう個々に渡って追求されればされるほど、それは精神のない、単なる記憶の事柄になる。それが学問的に営まれれば営まれるほど、いっそう懐疑的で論争的になる。

60.哲学的批判的精神が伴わなければ、〔キリスト教の所与の状態についての〕知識は、誠実な結果をもたらすことは決してなく、単に個人や教派の主観性を高めるのに役立つに過ぎない。

 

結論

1.個々の時代にとっての諸信条は、キリスト教全体にとっての正典と同じである。したがって、人は信条学も個別下位学科と見なすのが常である。

2.同じ理由から正典研究においては基礎訓練としてしか役立たない歴史的なものが、信条学においては、主要事であり、それに対して、言語学的なものは従属的である。

3.過去の瞬間を固定し、十分に生き生きとその中へ身を置こうと欲する人は、その瞬間を、教義学が現在についてなすように、連関する叙述において目の前に保持しなければならない。

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4.聖書神学と呼ばれるものは、正典時代−それを一つの時点と見なすことができる限り−の教義の叙述に過ぎない。

5.どんな歴史神学的叙述の諸要素も、他の歴史的領域においてよりもはるかに伝記的である。

6.哲学的神学に達するために前提とされねばならないキリスト教の知識は、本来の神学研究に先立つ公顕的知識であることだけが必要である。しかし、歴史神学の全組織は、哲学的神学の結果に基礎付けられる。

7.哲学的神学は、その立場を常にキリスト教を超えたところに持つ。それに対して歴史神学はキリスト教の内部に持つ。

8.それゆえ厳密に見れば、歴史神学の対象は全て哲学的神学にとっても対象であり得るし、そうなければならない。そして後者〔哲学的神学〕は、常に前者〔歴史神学〕の同伴者である。

9.哲学的神学が学科として承認されることが少なくなればなるほど、両者の論じ方はいっそう混同され、取り違えられる。

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10.したがって、歴史研究と同時に自分の哲学的神学を形成する人々は、「歴史を自分たちの仮説によって解釈している」という非難を経験主義者から容易に受ける。

11.同様に、哲学的神学において全てを歴史的に確証しようと欲する人々は、自分たちの哲学的神学を別の立場で形成した人々によって、精神のない経験主義者と見なされる。

12.哲学的神学と歴史神学は、相互に共にあることによってのみ、完全なものとなる。

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