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F.シュライアマハー『神学通論』初版

最終更新日2000126

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第3部          実践神学

序論

1.哲学的神学が、教会における諸々の出来事についての快不快の諸感情をはっきりとした認識にもたらすように、実践神学はそこから成立する様々な心情の動きを、思慮深い活動の秩序へともたらす。

2.したがって実践神学の必要が成立するのは、宗教的関心と学問的精神とが一つになっているような人に対してのみである。

3.学問的精神を伴わない教会への働きかけは全て、無意識的なものに過ぎない。キリスト教への関心を伴わない教会への働きかけは全て、偶然的なものに過ぎない。

4.思慮深く働きかける人に対して、その人のその都度の目的は、教会における出来事が彼に対して哲学的神学の立場から現われるあり方を通して成立する。

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5.しかし、出来事自体は、個別的なものと普遍的なものとの結合においてのみ、また現在と過去の統一においてのみ定立される。

6.したがって実践神学は、内容的にも形式的にも、先行する二つの部門〔哲学的神学と歴史神学〕に依拠する。

7.したがって実践神学が立てる技術的な諸規則は、各人に生じる諸目的に対する手段の選択と適用を、その対象とする。

8.したがってこれら諸規則のいずれも、目的に対する手段の従属ゆえに、何か教会の紐帯を解体したり、キリスト教の原理の力を何らかの仕方で弱めたりすることに寄与するものを、自らの内に持つことは許されない。

9.手段の現実的な適用は全て、行為者の一般的原理の下にあるので、神学的な心の態度の両要素の一方に対して、何ものも逆行することは許されない。

10.教会の領域においては、心情を持った人間を他にして他の作用対象は存在しないので、実践神学のあらゆる規則は、魂の教導という形式に属する。

11.教会に対するあらゆる働きかけの目的も、魂の教導以外ではあり得ない。したがって、手段と目的は完全に一致する。

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12.実践神学のあらゆる諸規則は、相対的で不確かにしか表現できない。それら諸規則があらゆる所与の事例の個人的なものを通して初めて、そしてそのような事例に対してのみ、完全に規定され、事実的になるからである。

13.したがって、それら諸規則は、あらゆる芸術規則と同様に、芸術家〔規則を行使する人〕を、作り出すことはできず、ただ導くことができるだけである。

14.実践神学は、その固有な性格において、ただ、聖職者と信徒の対立が教会において現われるその度合において展開可能である。

15.作用が可能な諸対象は、したがって、所与の時点において形成された教会の状態を知覚するようにしてまとめることができる。

16.教会は有機的な全体なので、教会に対する働きかけはいずれも、一般的であるか地域的であるかだが、しかし、この対立は常に相対的なものに過ぎない。

17.働きかけが向けられる最小の有機的部分は、一地域教会〔ゲマインデ〕である。

18.対立が支配的な一つの時代において、実在的な作用に対する最高の直接的統一は、教派である。したがって、各人の実践は、その教派の精神によって制約される。

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19.実践のこの制限は、諸対立の緊張自体が解消する限りにおいてのみ減少する。

20.神学的態度の諸要素は、釣り合った状態にあると見なすことは決してできない。したがって、どの作用も、聖職者の活動か、あるいは純粋に神学的な活動か、いずれかの優勢な状態から生じる。

21.全体に向けられた活動を、私たちは狭い意味での教会統治と呼ぶ。その特徴は、全体に対する個の優越である。

22.個に向けられた地域的な活動、それはそれはただ全体の名においてのみ実行され得るので、私たちはそれを、個の行為として教会奉仕と呼ぶ。

23.したがって実践神学は、狭い意味での教会統治と教会奉仕の理論によって論じ尽くされる。

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第1章          教会統治の理論

1.プロテスタントとカトリックにおける教会統治は、全く異なった仕方で遂行されるので、その各理論も両教派の一方に対してのみ、直接かつ同じ意味で妥当することができる。

2.したがって、この時代にその適用を見出そうと欲する理論は全て、この対立とその意義にはっきりとした意識を根底に据えるためには、哲学的神学の最も新しい結果(I.Erste Abth.9-12)と結びつかなければならない。

3.このはっきりとした意識が欠如するのは、単に人が両教派の差異の内的根拠を見逃す場合のみならず、両教派において様々に形作られた全てのものを、性急に対立から必然的に発生したものと見なす場合である。

4.聖職者と信徒の対立と共に、そしてその対立から教会において外的権威が構築されるとしても、しかし、教会統治に属する活動すべてがそこから生じることはできない。そうではなく、教会的権能の活動と、教会的権能には属さない個々人の活動とが存在する。

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5.教会的権能は、当然のことながら全体として、以前のエッポクによって既に固定化されたものの保持と形成をいっそう目指す。個々人はむしろ、前進的に次の来るものの準備を目指す。

6.同様に明らかなことは、教会的権能の活動においては宗教的関心がより優勢であり、全体に向けられた個々人の活動においては、学問的精神がより優勢ということである。

7.両方の領域において、それらの諸活動が形成する対立の意識によって、行為されねばならない。

8.もし教会統治が完全であるべきならば、両方の諸活動が相互的に理解されねばならない。

9.教会統治のための自然な諸課題は、両教派において、形式的には同じである。しかし、内容的には、それらは、各課題の解決において、異なった結果を与える。なぜならその諸条件が異なっているからである。

10.教会におけるキリスト教のイデーの叙述に属するものは、それがキリスト教の最も内的な本質に関わるものであろうと、あるいはキリスト教の自然的表面的諸状況に関わるものであろうと、全て教会統治の対象である。

11.教会統治における教会的権能の活動とは、とりわけ立法的活動である。

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12.宗教生活一般に関して、教会的権能が決定しなければならないのは、可視的教会内に生じる病的なものを、どのようにそこから排除するかということである。

13.自らは異質なものになることなく異質なものに働きかける方法を見出すという課題は、正しく解決されて真の教会法規を叙述しなければならない。

14.他所の表面的な裁可の助力得ることなしに、いかに排除する力が行使されえるか、これは破門によって叙述されなければならない。

15.礼拝の為の立法は次のことに向けられねばならない。すなわち、礼拝が長ければ長いほどいっそう宗教的感覚の十分な表現になり続けるということである。

16.宗教的感覚が多様に変化し、表現全てが、その価値や意味を次第に変えていく限り、礼拝もまた場所と時の要求によって多様に形作られていくことが可能でなければならない。したがって礼拝の自由や流動性がしっかりと基礎付けられねばならない。

17.宗教的感覚が、教会教派において常にいたるところで同じである限り、そして礼拝もその統一性を表現しなければならない限り、礼拝はいたるところでこの教派を代表するものとして認められることができなければならない。したがって人は礼拝の一様性(Gleichfoermigkeit)をしっかりと基礎付けねばならない。

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18.両者が一つの立法において必然的に結合されるべきなら、その自由は恣意や主観性に堕することは許されない。そしてその一様性は決して死せる形式に変わることはできない。

19.常に前進する教義の形成は、個々の活動から生じる。

20.教会的権能の立法活動は、個々人にこの領域における自由な働きを保障しなければならない。しかし同時に、その教説を信条−教説はそれによって構成される−によって確保しなければならない。

21.さらに教会的権能は、その立法活動によって、教会の側から、国家に対する関係を確証したり正当化したりしなければならない。

22.両者の関係は互いに、純粋に静的な均衡として前提されるべきではない。

23.したがって課題は、教会の領域に対してあるいは起こり得る国家の干渉を排除することだが、しかし、国家の領域に干渉することではない。

24.教会統治の理論は、人がどのようにして次の所にまで達するのかを示さねばならない。すなわち、国家に対する教会の関係が、無力な自主性でもなければ、有力な屈従でもないということである。

25.個々人の全体に向けられた活動は、教会の現在の状態では、学問的教師の活動と著述家の活動に過ぎない。

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26.学問的精神は、学問的研究によって初めて正しく意識化されるので、その理論は学問的教師に対して次のような課題を解かねばならない。すなわち、どのようにして彼が宗教的関心を弱めることなく学問的精神を活性化するかということである。

27.成し遂げられるべきものという点で、従来のものは十分ではないので、教会に存続しているものに対する信服を破壊することなしに、いかに個人的な前進を鼓舞激励すべきかという課題も解決されなければならない。

28.著述家の活動が、誤謬と戦うことを目的とし、誤謬は常に真実なものと密接している可能性がある限り、神学的著述家の特別な課題は、真なるものと善なるもの−そこから誤謬は出てくるのだが−を守ることである。

29.著述家の活動が新たな見解の流布を目指し、新たな見解は全て古いものと対立関係にある限り、神学的著述家の課題は、新しいものを次のように叙述することである。すなわち、その対立が失われることも無ければ、あまりに広く拡張されることも無いように〔叙述することである〕。

30.一般に、学問的伝達の手段自体は、それが本来の意味で理解される範囲以上に達し、読者はその解釈において自分のものを付け加えるので、課題はその叙述を次のように整えることである。すなわち、それがその利用可能範囲を超えて広まらないように、また、それが意図されているのと異なって解釈されないように〔整えることである〕。

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31.教会的権能と個々人の両者は、教会統治における自分の活動の限界を知らなければならない。それは互いに正しく理解しあうためである。

32.教会的権能は、聖職者信徒間の狭い対立の完全な意識においても、広い対立のそれにおいても、構築されなかったので、それは自らを流動的に保持しなければならない。それが前進する洞察に一致するためであり、また、自らをその時々の宗教的力の完全な表現として保持する為である。

 

第2章          教会奉仕の理論

1.教会の全体に向けられていないような指導活動は、最小の完全な宗教的組織としての共同体だけを対象に持つことができる。

2.指導活動には、その指導をもっぱら受ける対象が向き合っていなければならない。したがって、教会奉仕およびその理論は、聖職者信徒間の対立が、少なくともその働きにしたがって形成された程度に応じてのみ現れることが可能である。

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3.礼拝においては、この意味で、共同体全体が聖職者に向き合っている。宗教的共同生活一般において個々人は、共同体の構成要素として、共同体に関係している。

4.礼拝は技法の領域に属し、技法の諸要素で組み立てられている。したがって、礼拝論は概して、宗教的技法論である。

5.この技法論は、時には、あらゆる技法における宗教的様式を規定し、時には、技法の諸要素からどのようにして宗教的芸術作品、礼拝が形成されるのか、その仕方を示さねばならない。

6.礼拝において言語の領域に属するものは、教義に還元されねばならない。

7.したがって、礼拝のこれら諸要素全ての完全性も、教義に対するそれらの関係によって規定されるべきである。したがって教義の確定は、この部分の特殊な理論を形作る。

8.聖職者は礼拝において、時には、典礼指導者として任命された教会的権威の代表者であり、時には、彼は説教者としての個人的な自己活動に従事する。

9.〔典礼指導と説教という〕二つの行為様式は、礼拝の自由と拘束性として互いに離れ離れになっていることはほとんどない。むしろ至るところで相互に浸透し合っていなければならない。ただ状況の違いとして、あるいはどちらの働きに重点を置くかという程度問題として両者は別々にされるに過ぎない。

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10.したがって、二重の課題が解かれねばならない。何によっていかにして典礼的な働きにおいても個人的自由が示されねばならないのか、また、何によっていかにして自由な働きにおいても典礼的な代表行為が示されねばならないのか。

11.代表的な活動においては、教会的に規定されたもの、すなわち過去が優勢でなければならない。これに対して個人的活動においては、継続教育への努力、すなわち将来が優勢でなければならない。

12.全ての行為は、この両者によって組み立てられるべきである。したがって、両者がいかに統一されるかという課題が解かれねばならない。

13.宗教的語り〔説教〕は、礼拝の本質的要素ではあるが、その形式も、他の要素の前に現われるその度合も、非常に偶然的である。

14.説教の形式についての理論は、宗教的技法論の一部である。説教の素材〔内容〕についての理論は、教義に対する礼拝の諸要素の関係から生じなければならない。

15.個々人が直接の対象である聖職者の活動は、牧会(Seelsorge)である。

16.牧会なしに、教会(Gemeine)は存続することも再生することもできない。

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17.個々人が、特殊な聖職者的活動の対象であり得るのは、彼らが教会(Gemeine)との同一性を見出せない場合に限られる。

18.したがって、牧会が先ずもって目指す所は、この同一性を自然と求める人々に、それをもたらすことである。

19.概して宗教的原理を意識と活動へ覚醒することは、常に同時に、ある特定の教派における宗教性の個別的形式をもたらすことに向けられる。

20.そうした覚醒は、また常に同時に瞬間を特徴付ける変化しやすいものを刺激したり、通常の持続的なものを植え付ける。

21.このような諸規定から教理教授学の内容的な諸原理が導出されるべきである。

22.洗礼志願者に対する聖職者の関係は、完全な共生ではなく、宗教的原理がどの程度その都度形成されるかは、生の現実においてのみはっきりと示されるのであるから、この欠如を補うという課題は、ただ〔志願者に対する聖職者の〕その関係の方法論によってのみ解決可能である。

23.非キリスト教徒においては、この同一性に対する欲求は、教会の宗教的生を示すことによってのみ生き生きと〈313〉喚起し得るのである限り、この欲求の充足あるいは改宗の準備もここに属する。

24.この欲求は宗教的原理の活動のみならず、ある種の仕方で規定された原理の活動でもあるので、この理論は次のことを確定しなければならない。牧会のこの部分に対する欲求を根拠付けるために、教会との同一性に関して、何がどの程度そこになければならないのか、どのような方法でその誤謬が補われるべきか〔を確定しなければならない〕。

25.既に教会に所属している人々には、教会との同一性が内的にも外的にも損なわれる可能性がある。

26.個々人の病的状態−その逸脱が理論的なものであれ実践的なものであれ−を再び取り除く努力が、狭義の牧会である。

27.この関係は、時には聖職者と、時には信徒と結びつく可能性があるので、その理論は、どのような関係が、どのような状況で正しいものであるかを規定しなければならない。

28.その結末は、復興か、さしあたっての中断か、完全な分離かのいずれかであるので、その理論が示さねばならないことは、その可能性と共に、いかにして可能な限り復興を支援し、完全な分離を防止するかということである。

29.共同的な宗教的生に参与することが不可能な人々の、教会との同一性は、表面的には損なわれている。

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30.聖職者による病者の看取りの課題は、次のようなところにまで進む。すなわち、その欠如が補われて、内的同一性がその下で損なわれることなく、所与の状況下で完全に現れるまで〔進む〕。

31.聖職者信徒は、ただ教会内や、教会との関係において共にあるのみならず、国家においても、一般的社交関係においても、時には学問的団体においても共にある。

32.これら諸関係は、教会的諸関係を助長するものであるか、それとも阻むものであるかのいずれかであるから、聖職者的職務上の知恵の理論は、次のように規定されねばならない。すなわち、ある場合には、いかに有益なものがそれら諸関係において特に強調され主張されるか、またある場合には、それらの間の抗争がいかに純粋に解消されるか、それが無理な場合には、いかに他の諸関係が、教会的関係に従属させられ、教会的関係が、それら諸関係の間で損なわれることが無いようになるか〔というように規定されねばならない〕。

 

結論

1.神学者たる者は、およそあらゆる指導的な活動にかかわる者であるが、しかしその全ての部分を包括する者はいない。したがって、実践神学に関して次のことを知覚することは全ての人の義務である。すなわち実践の各部分の全体に対する正しい関係が何によって認識されるのか、また、その活動の個々のあらゆるあり方の理論が、いかにして特殊領域を形成するのか〔を知覚することは全ての人の義務である〕。

2.実践神学全般を最もはっきり分かるのは、哲学的神学を最大限自分のものとしている人である。〈315〉誰でも現在を歴史的に生きれば生きるほど、実施に最も近い特殊なものを、いっそう確実に見出す。

3.個々から次のように結論できる。経験的にも明らかなことだが、実践神学、とりわけ狭義の教会統治の理論は、まだ正しく形成されてこなかった。各個別の研究において最後のものは、神学の発展全般においても最後のものとして現われる。

4.教会統治の理論も教会奉仕の理論も同様に、各支配的な教派によって違ったものであることは必然的である。

5.したがって、この理論にとって最高の課題は、それを次のように定めることである。すなわち、その都度存在する諸教派の対立が、その理論の行使によって、衰えることもなければ、その自然な寿命を超えて、いたずらに人工的な仕方で生き延びることもないように〔定めることである〕。これによって、実践神学にとっての最高の課題は、最初の神学的学科、すなわち弁証論の最高の課題と直接結びつく。

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