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The
Truth Has Set Me Free
真 実 に よ る 解 放
By
Jennifer Porter
ジェニファー・ポーター著
Translated by CBS (Courageous Brothers and Sisters:
Group of former members of ICC in Japan)
Japanese translation is
permitted by Michelle Campbell, Executive Director of REVEAL.
第 二 部
目 次
o審判
o分け隔て
o強力に御国を前進させる[Forcefully Advancing
the Kingdom]
o特別献金と十一献金
o聖書に罪のリストを追加
o律法尊重主義とパリサイびと
o数の強調
o ICCの構造
o教会の権威者
o教会のリーダー
o一致、画一性そしてさまざまな疑問
oインディアナポリスの実話
o脱落
o教会財政
o偽預言者
o隷属と自由
o不和と去っていく人々
・参考文献
o出所と推薦文献
oその他の出所
第一、いつ仕事を持っていることが伝道の基準になったのですか?第二に、全ての人に全ての物を、ということはどうなってしまったのですか?兄弟たち、姉妹たち、弱い人たちや疲れた人たちについてはどうですか?心のいためる者をいやしていますか?[原文はBinding up the brokenhearted?で、イザヤ61:1−3の引用(訳者註)] 弱い人びとに対してパウロは弱い人になりました。
特別献金と什一献金
什一献金は旧約聖書では聖書的な[律法的な]命令です。しかし、私たちはもはや律法のもとにはありません。私たちは恵みのもとにあるのです。私は什一献金は、10パーセントでも、確かにいいことだと思います。しかし、これは、新約聖書の教会では命令されてはいないのです。新約の教会では、“特別献金”のようなことはまったく記録にありません。
ここではっきりさせておきたいのですが、私は、使命のためにお金を集めることは喜んでやります。特別献金も、それが世界中に福音のメッセージを送る助けになるのですから、喜んでしてきました。しかし、年に一度、20倍の、17倍の、あるいは14倍の献金を、教会のリーダーがメンバーたちにお願いする、あるいは、ICCの場合には、要求する、というようなことは聖書のどこにも記述されていません。もし、そうしたい人、あるいは、そうできる人がいれば、それはすばらしいことです。一体聖書のどこに人びとが神にあるいは教会に何かを与えなければならないということが書いてありますか?パウロがこれについてなんといっているか見てみましょう。
“各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべ
きである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである”(コリント第二9:7)。
これが実際起こっていることでしょうか?そういう人もいるかもしれません。しかし、私は、この世の中で自活するよう努力しつつも、請求書の支払いにきゅうきゅうとしている多くの若い独身女性が、特別献金に対するリーダーたちからの要求を満たさなければという強い圧力を感じているのを見てきました。彼女たちはできることはなんでもしますが、お金をもっていないときでさえ、献金するようひっきりなしにせがまれています。“お金を集めなさい!”とリーダーたちはいいます。そして、ご存知、教会は、リーダーたちの要求、それは上からくるのですが、を満たそうと四苦八苦している悩める人たちでいっぱいになるのです。次の引用文はインディアナポリスの教会をリードしていた人のものです。彼は自分の教会に話しかけています。
“この教会には、実は私たちの裁量ではどうすることもできないことがたくさんあったし、
今もあります。特別伝道献金のような事柄です。いっとき、私たちは自分たちでそうした
いという考えから特別伝道献金をしたこともあります。私たちも伝道に参加したかったか
らです。今日では、特別伝道献金をするよう予定されているから特別伝道献金をしている
のです。私たちが納める額は、私たちによって、あるいは、私たちの教会のリーダーたち
によって、あるいは、あなたたちメンバーによって決められた額ではありません。そうで
はなくて、ロスアンゼルスで私たちを監督している人びとによって決められた額なのです。
今年はその額は25万4千ドルです。これが、私たちに責任を課せられた額です。これに
は私の意見はまったくはいっていません。私たちには聞いてくれさえしません。私たちは、
これを納める期限が指定されているだけです。そして、これは当然守られることと考えら
れています。
毎週教会員一人あたりの献金額がチェックされます。一人あたり30ドル献金するべきだ
と見込まれています。私たちはそこまでいっていません。平均して私たちは一人あたり25
ドルです。この教会の多様性、すなわち、ティーンエージャーの数、老人の数、母子家庭
の数や、さまざまなことを考慮にいれて、この献金額になっているのだと思います。そし
て、私たちは、リーダーとしてプレッシャーを感じています。それについてプレッシャー
を感じているのです――なぜなら、私たちは週30ドル献金して当然だと考えられている
からです…”(エド・パワーズ[Ed Powers]によるインディアナポリスICC教会への説
教から、1994年2月27日)。
質問させてください:私たちは誰の期待に答えようとしているのですか?神のですか?神は2000年までに全ての国に伝道チームを送ることをお急ぎになっておられるのでしょうか? 2000年の間にすでに福音が広まっているところにもですか?神はあなたのお金を得ることにお急ぎでしょうか?それとも、せっかちになっているのはリーダーたちの方ではないでしょうか?これについて、神のみ言葉はなんといっているか見てみましょう。
“自ら進んで[マケドニヤの諸教会は]、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、
私たちに熱心に願い出て、私たちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみ
こころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。”[引用個所
が抜けているが(コリント第二8:3‐5)と思われる。ただし、その中の‘私たちの希望
どおりにしたばかりか’の部分は‘私たちの希望にそわなかったが’‘THEY
DID NOT AS
EXPECTED’となっている。(訳者註)]
パウロはさらにこれらの教会に、“命令しているのではない”ということを明確にし、施しをしつづけるよう勧めています。そして、彼は、“能力に応じてそれを完成するように勧めています。もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っていることによって、神に受け入れられるのである。それは、ほかの人に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく…”(コリント第二8:3‐6、8、12)。
繰り返し繰り返し、私は、大勢の若い未婚の女性たちがこの要求された献金をささげるのに苦労させられるのをまのあたりにしてきました。私は、リーダーたちが、私たちの什一献金を特別献金の数ヵ月前に5ドル引き上げるよう全員に要求するのを見てきました。そして、特別献金は、またその17倍とか、リーダーたちが勝手に決めた任意の数だけ倍加したものをささげるよう期待されるのです。友よ、私は献金することに反対しているのではありません。しかし、聖書は、各自は…しいられてでもなく、自ら心に決めたとおりにすべきである!(コリント第二9:7)キップ・マッキーンがこれをどう見ているか見てみましょう。
“第二に、われわれは学び会[discipleship group]で献金をします。「まあ、何が起こってい
るか誰にもわかるじゃないですか?」とあなたがたはいいますね。フムフム!そして、わ
れわれは彼らが必ず什一献金をするのを確かめていますね。すると、あなたがたは、「どう
してそうするのですか?」といいますね。理由は、マラキ書第3章で、もし什一献金をし
ないならば、あなたがたは神の物を盗んでいるからです。そして、われわれは、誰一人、
什一献金をしないで、神の物を盗み、地獄へ行ってほしくないからです。あなたがたはま
たいいます、「それはまたずいぶん厳しい話ですね」と。そのとおり、大変厳しい話です。
もし誰かが献金しなかったら、どうして?と聞きます。学び会が終わるまでに誰が献金し
なかったかわかります。そこで尋ねられます。われわれの教会では、ほとんど100パーセ
ントの人が献金します。もししない人がいるとすると、それはある種の態度表明ですね。”
(Kip McKean, マラキ書:過激的であれという神の過激な要求[God’s
Radical Demand for
Remaining Radical], マニラ世界リーダー会議、1994年)
マッキーンは什一献金、および、その他の献金行為を教会のリーダーたちがチェックすべきだと教えています。これは、マタイ6:1‐4のイエスの教えに真っ向から反するものです。
“自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしない
と、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう…あなたは施し
をする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが
隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる
であろう。”
コリント第一16:1‐4で、“聖徒たちへの献金について”パウロは“いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき”彼がきたときになって“初めて集めることのないようにしなさい”といっています。ICCはこれを什一献金に関する聖句として用いていますが、これは決してそのことをいっているのではありません。コリントの教会はエルサレムの教会を助けるために特別の贈り物を送っているのです。これは什一献金ではなく贈り物だったのです。
ICCは、承知の上でそのメンバーに献金を強いています。私はあえてそういいます。というのは、このことが繰り返し繰り返し問題になっているからです。この問題はある牧師[evangelist]によっても提起されましたが、その牧師は、この[強制しているという]懸念を正式に取り上げてもらうことも反省してもらうこともないまま、後に[ICCの]運動から追い出されてしまいました。私たちは、これが神から出たものなのか、それとも人間から出たものなのか、自らに問うてみる必要があります。パウロとテモテが帳簿を持ってみんなが献金したかどうかチェックするなどとあなたは想像できますか?そして、献金していない人たちのあとを追いまわすなどと?ICCでは、献金をしないことがあると、そのことについて話し合いがもたれます。同じように、ペテロとパウロが弟子たちからある決まった額を要求するなどということを想像できますか?どんな理由があっても?決してそういうことはありません。
私は神にささげることをいつも好んでやっていましたし、喜んで教会のためにお金を集めていたということをどうか理解してください。しかし、什一献金や特別献金に関するICCの慣行は、本当は聖書の教えに反しているということは否定できない事実です。
聖書に罪を書き加えること
“しるされている定めを越さない[こと]”(コリント第一4:6)。
“この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加
えるものがあれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし
この預言の書の言葉をとり除くものがあれば、神はその人の受くべき分を、この書に書か
れているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。”(黙示禄22:18‐19)
ICCのリーダーたちはしばしば罪を聖書に書き加えます。リーダーたちが追加するのを個人的に聞いたものの中からいくつか列挙します。
“独立心”は罪である。私は最近説教壇から、“独立心は致命的です!それはあなたを台無しにしてしまいます!悔い改めなければならない罪です!”と説教するのを聞きました。聖書に独立心が罪であるという証拠はありません。パウロは明らかに独立していました(彼はキリストの啓示を受けた後、他の使徒たちに会うことさえせずに3年間ひとりで過ごしました−ガラテヤ1:11‐24)。それから彼は他の使徒たちに加わる前に14年間自分自身の道を歩みました。(これが、説教壇に立つ人たちが、パウロのように、学校で聖書の勉強をする必要がある理由です。)
“実を結ぶこと”のないのは罪であり、私たちにとって恥ずべきことである!もちろん、ICC
の実を結ぶということの解釈はたましいをキリストに導くことですが、それが非聖書的であることはすでに見てきました。[ICCでは]これをあまりにも深刻に受けとるため、この“罪”のために人びとはリーダーの座からはずされてしまうほどです。
“教会を休むこと”は罪である!聖書のどこでそういっていますか?へブル10:25でさえ、人びとに“集会をやめることはしないで”といっているにすぎないのです;これは、教会を休むことが罪だといっているのではありません。しかし、私はICCの中で大変尊敬されている教師の口からこれをききました。
“太りすぎ”は罪である。私は自分がこの異端説の恒常化に加わったことを白状します。ふしだらな生活をすることは罪ですが、太りすぎはべつに罪ではありません。私はこのような裁きの態度をとったことに対して兄弟姉妹たちにお詫びします。私はリーダーたちが太りすぎを罪として告白しているのを耳にしてきました。
“不安を抱くこと”は罪である。まあ、これは不安を抱いている人をますます不安にすることうけあいです。私たちの言葉は“人の徳を高めるのに役立つような言葉”であるべきです”(エペソ4:29)。
“教会に遅刻すること”は罪である。私の地域伝道者がこれをデボ[devotional]でいったおかげで、私は教会にいる間中なにかに遅れるということに常に恐れを抱いてきました。私はそれを罪だと信じていたのです。一度こんなことがありました。私が1分礼拝に遅れたばかりに人の輪の真ん中に立って歌を歌わなければならなかったのです。こんな態度が新約聖書のどこに見られますか?
“疑い”は罪である。“それはサタンからきている!”バプテスマを施すことや、教会やキャンパス伝道にある人数の人びとを集めることへの疑問について議論してきました。ICCでは多くの人が“疑いをもつ人は弱い人だ”と思っています。神を疑うことはよくないことです。しかし、誤った教義を疑うのはどうでしょうか?ICCのリーダーたちやその教えを疑うことは悪いことだと考えられています。しかし、これはキリストや神を疑うのとは違います。ヤコブ1:6は神を疑うことは悪であるといっています。しかし、イエスは人の疑いを受け入れました(マルコ9:24)。トマスが疑ったとき、イエスは彼を責めませんでした;実は、そのときイエスは情けをもってトマスの前に現れ、彼の復活に対する疑いを拭い去りました。私たちは健全な疑いと神への懐疑とを区別しなければなりません。神を疑うことはリーダーたちを疑うことと同じではありません。この二つを混同しないようにしましょう。
“批判的であること”は罪である。これは興味深いことです。というのは、これは一種のマインド・コントロールだからです。この教会では、人に“あなたは批判的だ”ということで、私たちは、教会とそのリーダーたちの進めていることや行動に対する批判的な考えや分析をその人の心から基本的に締め出してしまうのです。そのおかげで、私たちは、批判的に考えることをやめてしまい、盲目的にすべてのことをあるがままに受け入れるのです。(私はこのような手紙を書いているのですから、間違いなく人びとは私が非常に批判的だと思っていることでしょう;その人たちに私はいいます:“すべてを注意深く吟味しなさい”(テサロニケ第一5:19 NAS)。
“什一献金を欠かすこと”は罪である。なぜなら、私たちは什一献金に対して神に誓いをたてたはずだからです。神との誓いを破ることは罪だということに異論はありません。しかし、新約聖書の教会は什一献金に対して神に誓約する義務はありませんでした;彼らはただ自ら心に決めたとおりにささげたのです。ICCでは、什一献金を神に誓約しなければなりません、したがって、もし実行しないことがあると罪を犯したことになるのです。これは聖書に罪と律法の条件を加えることです。
私の牧師が“午後9時半前に床のつくのは罪だ!”といっているのを聞いたことがあります。明らかに、聖書のどこにもこれに近いようなことをいっているところさえありません。私は未婚の母をディサイプルしたことがありますが、彼女は二人の子供を養うために日夜働き、朝は4時、5時起きして神との時間をもっていました。彼女は早く就寝しなければなりませんでした。もし牧師がこれを罪だといったら、それはナンセンスです。
“落胆”は罪である。聖書はどこでこういっていますか?ICCはこのことゆえに詩篇の著者たちは罪にあったと主張するのでしょうか?ご存知のように、詩篇の著者は、繰り返し落胆し、嘆き、恐れ、気落ちし、不安でしたから。イザヤ49:4を見てください。イエスの声の預言として:“しかし、わたしは言った、「私はいたずらに働き、益なく、むなしく力を費やした。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」といっています(Amplified Bible)。イエスは落胆されました!そして、神に目を向けられました。ヨシュア記の第一章で、神が“ただ強く、また雄々しくあって…恐れてはいけない、おののいてはいけない”(ヨシュア1:7、9)といわれているのは、私たちを勇気づけているのです。落胆を感じるのは罪だといっているのではありません。確かに主はときには努力がむだであったと感じられました;彼は力を使い果たしてもなんにもならなかったと感じられました。そのような主を神は毅然として歩みつづけるよう鼓舞されているのです。
“心情的になること[Sentimentality]”は罪である。教会のメンバーのあいだで、これはどういう意味かというと、教会の外であなたが親しいひと、愛している人、尊敬している人に目を向けたとき、その人たちが真の“弟子”であると信じたとすると、それは“心情的だ[sentimental]”ということになります。私の祖母は信心ぶかい女性だと信じています。彼女はキリストで満たされており、キリストの愛と寛容が体現されています。彼女は本当の信者ですが、この教会のメンバーではありません。私はまた私のいとこたちも救われていると信じています。ICCはそれを“心情的だ”といいます。つまり、私は彼らの罪に対して“心情的に”なっているし、私が彼らの“救い”に心情的になっているかぎり“彼らの助け”にはならない、という意味です。この女性たちは神の目から見ればクリスチャンです。彼らが1)み言葉に耳を傾け、2)キリストを信じ、3)キリストを主とし、4)罪を悔い改め、そして、5)バプテスマを受けたにもかかわらず、[この教会の見方からすると]、彼らが救われているということはできないのです。これがICCの救いの“公式”なのです。そして、これがICCの外で実行された場合、信任されないのです。“キリストがあなたを受け入れたように、たがいに受け入れなさい”というみ言葉はどうなってしまったのでしょうか。
“心配すること”は罪である。“汝心配することなかれ”と神はいつ命令されましたか?もちろん、そんな命令はされていません。彼は、心配しなくともよいと私たちを鼓舞されているのです。神は私たちを責任を持って引き受けてくださるのです。
“感情的になること”これが罪だといわれているわけではありません。しかし、あたかもそうであるように扱われているのは確かです。私はしょっちゅう“感情的”になっていましたし、私の親しい友達の多くもそうでした。ここで思いついたのでもう一つ。“十分感情を表さないということ”もご法度です。誰がICCの基準どおり生きることができるでしょうか?一体どこまでやれば十分なのでしょうか?
多くの人はいうでしょう。聖書は“それだから、あなたがたの天の父が完全であられたように、あなたも完全な者となりなさい”(マタイ5:48)と。しかし、この聖句の文脈を見てください。ギリシャ語では、“完全”という単語は“徹底している”という意味です。このくだりの43節で、イエスは、正しい人と罪びとの両方を愛することについて語っておられます。あなたを愛している人を愛し、且つ敵をも愛すること、兄弟たちとそうでない人たちを迎え入れること、についてです。このようにして、ちょうど、天の父が正しい人の上にも邪悪な人の上にも太陽を照らされるように、全ての人びとを愛することにおいて徹底するようにと願っておられるのです。この聖句は罪のない完全性とは関係がありません。全ての人びとを愛することで完結するようにということをいっているのです。
これらの“ガイドライン”は少なくともあなたが全ての点で正しくなるのに役立つと考える人がいたら、伝道の書7:16‐18を読んでください。“あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか…神をかしこむ者はこのすべて[の過ぎたるもの]からのがれ出るのである。”
この世の義の全てをもってしても神の救いの賜物を獲得することはできません。“ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これはわたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである”(テトス3:4‐7)。ICC“独特の言葉”を使えば、“that fires me up!”ということになります。ICCがメンバーたちに押しつけている律法の正しい遵守も救いと恵みを獲得することはできないということを忘れないようにしましょう。そしてさらにいえば、神は、律法の要求を満たしていると私たちが言っている人の上にではなく、神がそう望まれる人の上にそのあわれみを注がれるのです。
律法主義とパリサイ人
ICCは繰り返し繰り返しこのことで非難されています。しかし、私は大変愛に満ちた伝道グループにいましたから、この律法主義は目にはいりませんでしたし、たとえ気がついても関心がありませんでした。私は教会へ行きたかったし;私は什一献金をささげたかったし;ディサイプルする時間をつくりたかったし;できるかぎり(常にではありませんが)新しい人たちと自分の信仰を分かち合いたかったのです。
ちなみに、もしある人がその人の信仰を分かち合わなかったら、それは重大な罪になります。ICCならアリマタヤのヨセフを非難したのではないかなと思ってしまいます。というのは、彼は“イエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを秘密にしていた”(ヨハネ19:38)からです。ICCは、恐れのためにキリストとの関係を秘密にしている人を非難するでしょう。しかし、パウロは敢えて“内には恐れがあった”(コリント第二7:5)といっています。
私がこのことをもちだしたのは、人びとはしばしば他者に“自分の信仰を打ち明ける”のを躊躇することがあるからです。基本的には、教えることは“悔い改め、大胆になる”ことです。聖書に出てくる弟子たちの中には、常に、恐れず、大胆さをもってキリストについて解き明かした者もいました。聖霊も彼らに力を与えました。そして、私はこれを模倣しようとしました。しかし、神は私たちの信仰を他者と分かち合うよう命令していますか?もしそうなら、神はそれをどのようにしてほしいと望んでおられるのでしょうか?
マタイ28:18‐20で、私たちは行って弟子をつくれと命じられています。ギリシャ語の原典では、“あなたが生活を続けるなかで、弟子をつくり…”となっています。言いかえれば、私たちは、日々の活動をやっていくなかで、学ぶ者、イエスに従う者をつくることという意味です。どうやってそうするのでしょうか?
神は私たちひとりひとりに人をキリストに引き寄せる賜物を与えてくださいました。エペソ4:11に“そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ・・・”とあります。コリント第一12:28では“そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行なう者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。”いいえ、私たちはみんなが教師ではありません。みんなが伝道者ではありません。しかし、この大宣教命令のために、私たちはキリストに従う者をつくる必要があります。しかし、わたしたちはみんなが通りへ出ていって伝道することによってこの命令を実行しなければならないのでしょうか?こうすることが全ての人に与えられた賜物でしょうか?もちろん、こうすることはなんら間違っていません。しかし、もしある人びとの賜物が子供たちを教えることだったらどうでしょう?あるいは、奉仕をすることだったら?あるいは、医者で、治療することによって、その仕事をとおして神のあわれみと愛とを示すのはどうでしょうか?
ディサイプリング運動にとっては、これはとんでもないことなのです!全ての人が伝道しなければなりません。しかし、神はそのみ言葉のなかで、全ての人を伝道者としてつくったのではないということをはっきりといっておられます。しかし、ICCでは、もし私たちが毎日伝道しなかったらそれはある種の罪なのです。私たちはそれを人びとに強要します。
分かち合うことの動機は愛からくるべきです。そして、それはしばしばそうなっています。私は、キリストを愛していますから、キリストについて分かち合うこともまた喜んでします。しかし、一日にある人数の人と分かち合うこと、全力を費やして私のキャンパスを伝道すること、10人の人が伝道グループに加わるように祈ること、一ヶ月の間、あらかじめ決められた活動と人名のリストのために毎日祈ることを指示された用紙にサインをするとき、“聖書のどこにこんなことが書いてあるのだろう?”と思ってしまいます。あなたは、パウロと使徒たちが彼らの弟子たちにこのような用紙をつくってサインさせたと思いますか?それとも、彼らは彼らの心の喜びから人びとと福音を分かち合ったのではありませんか?ICCの“強引さ”は人びとから福音を分かち合う喜びを奪い取ってしまいます。ちなみに、分かち合うように命令しているのはキリストではありません。ICCです。私たちは、イエスについて分かち合うことで満たされるかもしれません。しかし、究極的には、私たちは、その人が私たちの教会にきて、私たちのやり方で(私たちの解釈で)聖書を学び、私たちによってバプテスマを受け、そして救われることを望んでいます。ICCでは、福音ではなく、組織が人を救うのです。そして、このことが大変な重荷となるのです。
そこで、あなたがたはいうかもしれません、“それは重荷であるべきではない!”と。また、いうかもしれません、“ジャン、あなたの心は正しくありません!”と。そこで、私は答えます、“何をいっているの、私は人びとと分かち合ったし、バプテスマを施したし、一緒に聖書も学んだし、私はこれらのことがみなとても楽しかったのよ。でも、これらの正しい行いも全て神の恵みに比べれば汚い敷物のようなものよ”と。普段私は負担が重過ぎるとは感じていませんでした;圧倒されていましたが、負担が重過ぎるとは感じていませんでした。女性たちと学ぶことが大好きでしたし、伝道グループに喜んでささげていました。
しかし、伝道の職務は間断なくもっともっとと要求します。そして、学校とか、家族とか、芸術的才能とか、趣味など、私たちが楽しんでいる生活の中のさまざまなことがらを抑制されてしまいます。そして、突然、気がついてみると、神が私たちに与えてくださった賜物を生かす時間がなくなっているのです。そして、にわかに、キリストにおける兄弟姉妹たちの目の中に、あの疲れた、重荷を負わされた表情が表れるのです。然り、彼らは重荷に感じています。彼らは、人に声をかけないで通り過ぎてしまうと、罪意識に駆られるのです;その人の血が彼らの手についてしまうような。食料品店へいって誰にも声をかけない;すると罪の意識。ICCの弟子たちは、完全を目指して励むことと罪の意識との間の絶え間ない綱引きの生活を生きているのです。なぜなら、完全には決して到達することができないのですから。
イエスの重荷は軽く、そのくびきはきつくない、というところにその食い違いがあります。“そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである…世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信ずる者ではないか”(ヨハネ第一5:3)。もし、イエスのご命令が重荷でないならば、それではどうして、ICCの多くの友達がいつも重荷を感じ、燃え尽きて、疲れきってしまっているのでしょうか?ところで、イエスのご命令とはなんでしょうか?
“その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたよ
うに、互に愛し合うべきことである”(ヨハネ第一3:23)。
“わたしは新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたが
たを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい”(ヨハネ13:34)。
“愛は律法を完成するものである。”(ローマ13:8‐10、ヨハネ15:12、ガラテヤ5:14
を読んでください)。
“「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいち
ばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなた
の隣り人を愛せよ」。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている”(マタイ22:37‐40)。
神の戒めは決して重荷ではないのです!そして、これを見るとき私はほっとするのです。しかるに、ICCでは私たちはどうして重荷に感ずるのでしょう?
“そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいで
しょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神の
わざである」”(ヨハネ6:29[6:28‐29(訳者註)])。
ICCの中でこの質問を耳にすることがありますか?もし誰かが典型的なICCメンバーにこの質問をすると、その人は“行って弟子をつくりなさい”というでしょう。そのとおりです。それはしなければなりません。しかし、神のわざはキリストを信じることです。私たちはこれを認めれば、[ICCの]ほかにも何千もの人たちが神のみわざを行っていることを認めざるをえません。それ[ICCの主張]は[神のみわざの]否認です!
私はよくピレモン第6節を引用して、姉妹たちに“あなたの信仰の交わりが強められるように”といいました。ICCが“信仰を分かち合う”というフレーズをとったのはたぶん聖書のこの個所からだと思います。聖書は、もし私たちが分かち合うならば、“わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るように[なる]”といっています。ここで再び、別の翻訳を見て、この個所を文脈全体から調べて見るのがよいと思います。手紙の著者は兄弟姉妹たちをキリストにおける信仰と聖徒に対する愛のゆえにほめています。さらにつづけて、NAS版では、“キリストのためにあなたがたの中にあるすべての良いことが知られるのを通じて、あなたがたの信仰の交わりが強められるように祈る”とあります。そして、聖徒たちの心が彼らによって力づけられたから、大変喜んでいる、と続きます。ですから、聖書でいう信仰の交わり[信仰を分かち合う]とは、愛する聖徒たちと交わること[fellowshipping]を意味しているのです。ICCのいっていることとまったく同じではありませんね?
繰り返しますが、私は伝道には全面的に賛成です。しかし、聖書は他の信者との信仰のフェローシップのことをいっているのです。
もし、神の戒めが重荷でないとしたら、そして、ICCのメンバーたちが重荷に苦しんでいるとしたら(ある者は、この教会にとどまるよりは“地獄”の約束を受け入れてまで教会を離れてしまうほどに;ある者は自殺するほどに;ある者は気が狂うほどに;ある者は深刻な鬱状態になり、クリスチャンを嫌悪するほどに)一体、この重荷をつくりだしているものは何なのでしょうか?
ルールがそれです。“ルールなんかない”単なる手引きとしての“ガイドライン”だとあなたはいいます!次のリストは、聖書では強制されていないのにICCによってつくられたルールです。これらが聖書では命令されてもいないルールなのに、これらが守られないと、訓告され、正され、叱責され、“霊的でない”、“世俗的だ”、“欺瞞だ”、“利己的だ”、“反抗的だ”、“独立心が強すぎる”、“賢明でない”などといわれるのです。
1.
誰かと最初にデートをはじめるとき、それは月に一度にかぎられます。
2.
それから、アドバイスを受けた後月に二度のデートがはじまります。
3.
それから、リーダーのアドバイスと許可を受けてはじめて、二人は公に“ボーイフレンド、
ガールフレンド”になるのです。(私と私の前のボーイフレンドの場合、私たちの希望より
ずっと長くかかりました――理由の一つは、彼が別の町へ引っ越したこととと、もう一つ
の理由は、リーダーたちから許可がでなかったからです。
私はデートのルールに関してひとこといいたいと思います。私たちが望んでいなくても、教会はいろいろ別な人とデートするよう指導します。人によってこのことの良し悪しに対する意見はまちまちです。しかし、イエスがマグダラのマリアに、“今週はペテロと一緒に行きなさい、次の週はヨハネと、それからヤコブと、それからユダと、それからパウロと、それからステパノと…”などと指示されるのを想像できますか?そして、マリアがペテロを好きで、ペテロがマリアを好きだとしても、イエスがいいます、“ところでマリア、ペテロとのデートは月に一回にしなさい、そして、ヤコブと、それからヨハネと、それからマルコと、それからまたペテロと、それからルカ、それからユダ…”そして、二人が本当にお互いに好きだとすると、イエスがいいます、“二人がお互いに好きだとしてもまだほかの男たちとデートすべきです”と。ペテロと、それからヤコブと、ペテロと、ルカと、ペテロと、ヨハネと、ペテロと、マルコと、ペテロと、ステパノと…これではマリアが娼婦とよばれても不思議ではありませんね!
また、ICCのリーダーたちはこのデートのシステムを“神の教えにそったやり方”と呼んでいます。もちろん、聖書にはこのような慣行の裏付けは絶対にないし、このような聖書とは関係のない問題に関して教会のリーダーたちが発言権をもつという概念はまったく存在しないにもかかわらずです。
1. ダブルデートだけはしてもよい;それ以外は認められない。[エペソ5:2はギリシャ語で、
“あなたがたの中に性的不道徳があるといわれるようなことがあってはなりません”という
意味になります。私が兄弟と二人だけで聖書を読んだことが何度かありました。私たちの
間には絶対に不道徳なことはなかったにもかかわらず、私たちはお叱りを受けました。]
2. リーダーたちから承認されなければ婚約も結婚もできない。
3. “実りある”(ICCに人を連れてくる)者でなければリーダーにはなれない。
4. 罪を悔い改め、他の人たちに告白しなければバプテスマを受けられない。
5. ディサイプラーと毎日あるいはできるだけ頻繁に話しをすべきである。
6. ディサイプラーに全ての罪と誘惑とを告白すること。
7. 誰かと共同で生活する場合、ICCのメンバー以外の人ではいけない。
8. 毎日神とのクワイエット・タイム[quiet time]をもたねばならない。
9. あなたの信仰を毎日分かち合わなければならない。
10.教会の集会に欠席してはいけない。
11.月約献金に対してリーダーたちが決めたある倍率で計算された伝道献金をささげなければ
ならない。
リストは延々と続きます。この中にはガイドラインとして役に立つものもあるかもしれませんが、問題は、これらが“遵守されるべき”ものであって、神が聖書の中で示された神のガイドラインではないということです。
コロサイ2:9‐23を読んでください。第2節[10節の誤り(訳者註)]にはキリストにあって、それに“満たされている”とあります。しかし、ICCでは私たちは満たされていません。私たちは決して完結することはないのです。もっと多くのセミナーに、もっと徹夜の祈り会に、これにももっと、あれにももっと、行かなければならないのです。それらはみなよいことです。しかし、神はそれらを強制してはおられません。ICCのリーダーたちがそれらを強制しているのです。
“これら[の規定]は皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。
これらのことは、ひとりよがりの礼拝と、わざとらしい謙遜と、からだの苦行とをともな
うので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの
役にも立つものではない”(コロサイ2:20‐23)。
“あなたがたは、わざわいである。追い切れない重荷を人に負わせながら…”(ルカ11:
46[‐47])。
もし私たちがICCの基準に達していないと、そして私は多くの人たちがそう感じているのを知っていますが、彼らは、“やめたくなり”、“放り出したくなり”、“教会を離れたくなり”、もっと悪い場合には、彼らは、“弟子でさえなく、教会にいる価値がない”ということになるのです。キリストは、このように感じるほど過酷に人を駆り立てたことは決してありません。
よき羊飼いの心とはどんなものでしょう?創世記33:13‐14を見てください。ヤコブとエサウが再会したとき、彼らは一緒にセイルへ向かうことにしました。その途上、エサウはヤコブについていきたかったのですが、“ヤコブは彼に言った、「ごぞんじのように、子供たちは、かよわく、また乳を飲ませている羊や牛をわたしが世話をしています。もし一日でも歩かせすぎたら群れはみな死んでしまいます。わが主よ、どうか、しもべの先においでください。わたしはわたしの前にいる家畜と子供たちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いて行き、セイルでわが主と一緒になりましょう。”
良い羊飼いは幼い者のペースに合わせて進むのです。最もか弱い者がペースを決めます。そのようにして、最もか弱い者が大事にされるのです。それが神の目から見た優しさです。親愛なるICCの友よ、どうか、あなたの群れを、か弱い者がついていけなくなり、死んでしまうほど過酷なまでに駆り立てないでください。さもないと、あなたは悪い羊飼いになってしまいます。
数の強調
これは私がICCの教会にいる間気にかかっていたことのひとつですが、そのうちにこのシステムになれてしまい、それをどこかへ押しやってしまいました。しかし、これは見逃すことのできないICCの病根の一つとして私の目につきます。数、数、数。“今週は100人の人たちとシェアしましょう!一日5人とシェアしましょう!今日は何人の人とシェアしましたか?先週の日曜日は100人の人たちが教会にきてくれました!(そのたびに掛け声と拍手です。)私たちはサンディエゴ郡でもっとも早いペースで成長している宣教区です!この学期は10人の人にバプテスマを授けましょう!みんなでそのために祈りましょう!あなたは最近どのくらい教会を欠席しましたか?それはあなたたちの心がどこにあるかの表れです。”
私は出席したことはありませんが、数の強調はリーダーのミーティングでもっと顕著だということを知っています。しかし、ごく平均的なメンバーの生活の中でも、数の問題は大変重要です。学び会のリーダーから電話がかかり、日曜日に何人教会出席者があったかきかれます。
私は個人的にこのことについて疑問があります。誰が関心があるのですか?神ですか?神は天から統計表をもって見ておられるのでしょうか?神は、“宣教区のクランクを回せ[crank(活動を活発にせよ)]”と天から声をかけられるのでしょうか?これについて神がどうおっしゃっているか見てみましょう。
“キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合
わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ愛のうちに育てられていく
のである”(エペソ4:16)。
愛が教会を育てるのです。神が教会を育てるのです。というと、ICCのあなたたちはそれに同意するだろうと思います。しかし、実際問題として、それがあなたたちが実行していることですか?私のこの教会での3年間の経験から、私は神が人生を変えられるのを見てきました。これは、世界中の教会で起こっていることです。しかし、私は聖書の中に“宣教区のクランクを回せ”というほど完璧で、徹底的な自己依存を見つけだすことはできません。私たちが本当に神のみ心を映し出しているような教会であれば、走り回ってひとりひとりを数えるようなことはしないでしょう。み言葉のなかに答えを見つけだしましょう。
新約聖書の27の書の中で、信じた人の数を記述しているところが二ヵ所あります。一ヵ所は:“そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった”(使徒2:41)です。
その後で、み言葉はこのように続きます;“・・・弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受け入れるようになった”(使徒6:7)。“こうして教会は…基礎がかたまり・・・聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒のかずを増していった”(使徒9:31)。“こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった”(使徒16:5)。“彼ら[ユダヤ人]のうちの多くの者が信者になった。また、ギリシャの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった”(使徒17:12)。
“多くの、数人の、多数の”というのが、彼らが何人主のもとにきたかを数えるやり方でした。しかし、ICCでは、これらのことが大変厳密に追認されます。教会のコンピュータには、何人のメンバーがいたか、何人増えたか、何人が教会にきたか、誰のハウス教会[house church]にそれらのひとが属しているか、メンバー一人いくら献金したか、全体の献金額はいくらか、予算はどのくらいか、など、一ドルにいたるまで、人数一人にいたるまで、克明に記録されます。それはそれでいいじゃないかと思われるかもしれません。しかし、これは神のみ心を反映しているでしょうか?私は統計表のコピーを持っていますが、それには、成長率、教会に来る人の数の“増加率”が“悪い、良い、大変良い、オーサム[awesome(すばらしいことを表現するのに用いられるICC特有の表現)]というふうに評価されています。教会はこれらの数をコンピュータに打ち込み、その週の評価をプリンターに打ち出します。
ここで、聖書にもどりましょう。初代教会で統計表を想像できますか?“3000人のうち、あなたがつれてきたのは何人ですか?よし、ここで見てみよう、あなたの学び会がつれてきた人は何人ですか?その人たちとまた接触するのを忘れないように。フォローアップの学びをセットアップしなさい…”。“救い”の前に一連のバイブル・スタディーをさせていたわけではありませんから、こんなことは起こりえなかったでしょう。
ICCでもうひとつやっていることは、ひとりひとりが受けた学びの記録をとることです。学び会のリーダーが、ひとりひとりが学んだ日付、誰と学んだか、バプテスマを受けるのにどのくらい近いかを記録した図表をもっているのをごく普通にみかけます。この図表は、まるで、学んでいる人たちが救いにどれだけ近いかを計っているかのようです!パウロと兄弟たちがそのようなことをすると想像できますか?私は、“バプテスマの予想”という項目がある統計表さえ見たことがあります。このように、どうやって神を予告できるのでしょうか?
“…「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくし
む」。ゆえに、それは人間の意思や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのであ
る”(ローマ9:16[15‐16])。
この予想された成長はどういうことでしょうか?KNN[?]用紙にそれぞれの教会の正確な数値をリストした図やグラフをしょっちゅう見ますね?もし、何人の人が教会を去っていくかをリストしたら、なぜ、と思うでしょう。私たちはバプテスマをリストしますが、どれほど多くの人がこの教会は間違っていると気がつき、去っていくかをリストしません。人びとが去っていくと、彼らは“脱落者[fallaways]としてカウントされます。私は人びとが私の家に電話をかけてリーダーの女性と話をし、“脱落の可能性のある人”のリストをくれるよう頼んでいるのを耳にしたことさえあります。イエス・キリストに背を向けるかもしれない人が何人いるかどうやってリストできるのでしょう?新約聖書の教会がそのようなリストをつくっていたでしょうか?
ICCは、ある人がその組織を離れると、その人は神から離れた、したがって、地獄にいくとみなします。この教会に加わる人のうち、3人に2人が去っていきます。彼ら自身の神学によれば、ICCに加わった人のうちより多くの人が救われるより咎を受けるのです。ICCは、その慣行を続けることで、より多くの人を天国より地獄に送っているのです。
国際キリストの教会の構造
この問題はあまりにも多く批判され、書かれていますから、このことを議論することだけでも痛みを感じます。しかし、これについて知らない人たちのために--そして、ICCの全体像がどんなものかまったく知らない若いクリスチャンも大勢いることでしょうから--私にできる範囲内で説明します。ICCはピラミッド型の階層的に組織された教会群でできています。一般的に、それは、次のようになっています。
ロスアンゼルス[教会](以前はボストンでしたが、今はロスアンゼルスだと思います。ど
こでもこの運動のリーダーであるキップ・マッキーンのいるところが権威の上でトップ教
会ということになります。
ロスアンゼルス[教会]
支柱[pillar]教会
州都市教会
小都市教会
地方教会
いいかえれば、支柱教会がロスアンゼルスの支配下にあり、州都市教会が支柱教会の支配下にあり、というふうに権力が下へ下へと下りていきます。例をあげますと、サンディエゴ教会(支柱教会)はロスアンゼルスの支配下にあります。そして、アリゾナ州のフェニックスはサンディエゴの支配下にあり、周辺地域の小さな教会がフェニックスの支配下にあります。ロスアンゼルスがサンディエゴの上に、サンディエゴがノース・カウンティーの上に、それが、サンマルコスの上に、というふうにだんだん自分の住いに近づいてきます。
ところで、私は正式なリーダーではありませんでしたから、この階層組織がどのように機能するか正確には知らない(また、ここでお話することが詳細にわたってすべて正確ではないかもしれない)ということを理解してください。しかし、世界伝道をするためのこの考え方は、聖書には教会の“自律性”はないというマッキーンの主張が基本になっています。いいかえれば、聖書の中には、独立に制定された教会はないと主張しています。
第一に、この主張は正しくありません。ガラテヤ1:11-2:10を見てください。パウロはキリストに召命されてから、3年間も“血肉に相談もせず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上ら”なかったのです。彼は3年間自分一人で歩んだのです。“その後3年たってから、私はペテロ[ケバ]をたずねてエルサレムに上り”ました。彼はペテロと2週間ほど一緒にいました。そして、ヤコブに会いましたが、そのほかの使徒たちには会っていません。それから、彼は旅立っています。
第2章によれば、それから14年後にパウロはエルサレムにいき、“リーダーと思われる人たち”と親しくなり、福音について語り合っています。第6節でパウロは、“そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。”そして、パウロは続けて、ペテロが宣教区[教会]をもっており、彼自身も宣教区をもっていて、それらは完全に自律していて、別々で、独立しているかのように、両方の宣教区で“神は働きかけられた…”と説明しています。
ひとつの教会が自律して働き、もうひとつの教会も自律して働いて、両社の間に必ずしも常時接触がないということは可能なのです。結論としていえることは、新約聖書の中にはひとつの教会が他に教団の[congregational]権威を及ぼすという構造はどこにもないのです。しかり、テトス1:5で、パウロはクレテのすべての町に長老を任命するように指導していますが、クレテのひとつの教会が他の教会の上位にあるというようなことにはなっていないのです。
マッキーンはICCのハウス教会[house church]の構成を出エジプト記18:13-26のエテロの原理からとっており、これが“教会のリーダー制度に対する神のご計画だ”といっています。この聖書の個所はモーゼがイスラエルの民をシナイ山に導く話です。これは人びとをまとめるのに大変有効な原理です。しかし、これは決して教会に対して目論まれたものではありませし、さらに、この原理は新約聖書の教会組織にとっては無縁のものでした。
ICCの構成は次のようになっています。
Kip & Elena McKean
(世界宣伝道師と世界女性宣教リーダー)
8人の世界セクター・リーダー
ジオグラフィック・セクター・リーダー
伝道師[牧師]と女性宣教師
リーダー(主な都市部の教会の)
伝道師[牧師]と女性宣教師(小都市、町の教会の)
地区およびハウス教会、家庭グループ・リーダー
学び会[Bible Talk]リーダー
通常の弟子
権威は組織図の上にいくほど強くなり、指示は組織図の上から下りてきます。それぞれの教会の内部では、下記のようになっています。
伝道師[牧師]
長老
ハウス教会リーダー
学び会[Bible Talk]リーダー
ディサイプラー
弟子
テモテ第一3:1-8は“監督[overseers]”の仕事を記述しています。読みとおしてください。監督という言葉は“主教[bishop]”あるいは“長老[elder]”を意味しています。
テモテ第一3:8-10と12-13は執事の資格を列挙しています。
これらが聖書が特別に規定している唯一の教会の公職です。集団[群れ]の世話をする人たちです。でも、SDCCのどこに執事がいますか?ハウス教会リーダーたちがそうなのですか?学び会のリーダーたちですか?聖書は長老と執事が牧師[evangelist]も含めて群れ全体の上に立つことを示唆しています。(牧師[evangelist]に対しては聖書には特別な資格の記述はありません。)それなのに、ICCではなぜ牧師が長老の上に立っているのでしょうか?このような権威は聖書の中では牧師には与えられていないのに、ICCでは勝手に長老に対する権威を牧師に与えているのです。
私がこの問題を取り上げる理由は、端的にこの教会の構造(すなわちひとつの教会が他の教会の上に立ち、その教会がまた他の教会の上に立つという構造;ひとりの人が他の人の上に立ち、またその人が他の人の上に立つという構造)は初代教会の構造ではなかったということ、また、聖書によって命じられ、支持されているものではないということのためです。
教会の中の権威
テモテ第一3:1-13は特別に“監督”と執事に対する神の規定を定めています。監督は伝統的に主教[bishop]と呼ばれ、長老もまた監督とみなされています。この個所はまた、この人物が“非難のない人で…よく教えることができ・・・信者になって間もない者であってはならない・・・”と述べています。
ところで、“ディサイプラー”とは何者でしょうか?私が最初にある女性をディサイプルしはじめたとき、私のディサイプラーから、私にはこの女性の霊的生活に対する責任があり、神に対して彼女の救いの結果責任があると教えられました。後に私はディサイプルした女性に、彼女の霊的生活は彼女自身の責任ですといいました。しかし、“ディサイプラー”が、人のたましい[soul]、霊的生活、神との関係、永遠の救いを監視する、というのが一般的考え方です。
ICCでは、ものすごくたくさんの人が、“教える能力”がないのに人のたましいを監督する立場におかれます。その人たちは最近信者になったばかりで、なかには、まだ一ヶ月しかたっていないという人もときどきいます。
テトス1:6-9は長老の資格を説明しています。
へブル13:17は述べています、“あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。”この聖句は私たちがディサイプラー、学び会リーダー、ハウス教会リーダー、牧師、等々に服従し、従うように指導するために用いられます。しかるに、群れの上に権威を持つと神が規定された唯一の“リーダーは”長老と執事だけです。とすると、ICCでは、大勢の人びとが人間のつくりだした地位と(これが危険な部分なのですが)人間のつくりだした権威を与えられています。聖書のリーダーたちは誰ですか?長老と執事です。私たちが服従しなければならないのは誰ですか?長老と執事です。彼らは、その権威を私たちの上に振りかざしてはならず、キリストが仕えるためにこられたように私たちに仕える者たる羊飼いなのです。
***ギリシャ語版では、へブル13:17に‘権威’という言葉がないということを知っておくべきです。RSV、NASV、NEB、KJV、ASV、あるいはNKJVの訳の中にも“権威”という言葉はありません。ギリシャ語の“obey”はpetithoであって“説得する、議論に勝つ”という意味で、受身形では“説得される、耳を傾ける”という意味になります。これは私たちの“obey”に対する現代の理解とは違います。ですから、へブル13:17の“obey”は、“あなたのリーダーたちに耳を傾けなさい。そして、もし、説得によってあなたが納得させられたなら、その忠告に従いなさい”という意味になります。これは、この聖書のくだりに当てはめられた“絶対的な従順”[という解釈]とはずいぶん違った考え方になります。
さらに、へブル13:17において、イエスとその弟子たちは、リーダーは従う者に仕えるのであって、支配するのではないとはっきり教えています(マタイ20:25-28;ルカ22:25-27;ペテロ第一5:3)。
テサロニケ第一5:12“兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間
で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ・・・”
この聖書の個所は、女性宣教リーダー、牧師[evangelists]、ディサイプラー、などを尊敬するよう私たちを指導するために用いられます(もちろん、私たちはお互いに尊敬し会うべきです)。しかし、聖書によれば、主にあって誰が私たちの上に立つのですか?長老と執事です。私たちが牧師[pastors]、教師、等々を尊敬すべきだと私は信じているかと聞かれると、もちろん信じています。しかし、神[のみ言葉]によれば、彼らは主にあって“私たちの上に立つ”人なのでしょうか?神は、霊的賜物をとおして、キリストのからだ[教会]の中での彼らの役割をお認めになっておられはしますが、そのようには[彼らが上に立つべき人だとは]おっしゃっていません。
ICCは“ディサイプラー”を主にあって“私たちの上に立つ者”としてみるように期待しています。聖書の中にこれの証拠となるようなものは絶対に何一つありません。あなたはいうかもしれません、だって、神はイエスの上に立っていたではないか!イエスはパウロの上に立っていたではないか!パウロはテモテの上!テモテはシラスの上!と。しかし、イエスはすべての人の上に立っておられたのです。そして、今日、私たちは私たちの上に立つような使徒をもっていません。(使徒たちは彼らに特有の権威をもっていましたが、今日そのような権威は誰ももっていないのです。)私たちは、私たちを牧する[shepherd]ために神により聖書に基づく権威を与えられた長老と執事をもっています。“ディサイプラー”は神からいかなる権威も与えられていません;ハウス教会リーダーも、学び会リーダーもです。
さらに、使徒として(コリント第二10:8;マタイ16:19;ピレモン8)権威をもっていたパウロでさえ、服従を要求するためにその権威を使ったことはありません。彼は、イエスが教え、説明し、示唆し、圧迫するためではなく説得する目的で示された模範を踏襲し、自らも範を示したのです。この主題に関しては膨大な量の資料が書かれています。そのほとんどが、ICCの教えの間違いを証明するために原典のギリシャ語の翻訳を使っています。あなたがもっと詳細に調べたければ、私の持っている資料をさしあげます。
私は、SDCCの中で人びとの上に法外な権威が及ぼされるのを個人的に体験したわけではないということをここで指摘しておきたいと思います。事実、ノース・カウンティー地区のリーダーたちは誠心誠意私たちに仕えてくれました。そして、私は、それが彼らの真摯な心からきていると信じていますから、主にある彼らの勤めを尊敬します。しかし、そのことはピラミッド型の組織とディサイプリング・システムが、特権乱用[abuse](ことに、神が普通のクリスチャンに決して与えることを意図しておられない権威を誰かがもってしまうことから起こる特権乱用)が起こる仕組みを提供しているという事実を変えることはできません。
教会のリーダー
ICCのリーダーは誰が選ぶのでしょうか?ここでは、多くの聖書的課題をあげることができますし、過去20年に多くの人びとによってさまざまな課題があげられてきました。しかし、私はひとつの聖句を示すにとどめたいと思います。使徒6:1-7によると、初代教会でリーダーが必要になったとき、弟子たちがリーダーを選んだのだということに目をとめてください。“そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「・・・兄弟たちよ。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ・・・”(第2-3章)。兄弟たち――弟子たち――教会は自分たちのリーダーを選ぶことができたのです!私たちは、自分たちのリーダーを選ぶ権利がありますか?ICCにはそれはありません――私たちはリーダーが誰であるか、いつくるのか、いつ去るのか、知らされるだけです。そして、それを聞いて私たちは偉大な気分になることを期待されているのです。
世界セクター・リーダーは誰が選んだのですか?ICCの教団[congregation]ですか?いいえ、違います。ちょうどイエスが使徒を選んだように、キップが選びました。自分がイエスになって、主を演ずるというのはなんと厚顔無恥でしょう!初代教会では、リーダーを選んだのは、教会全体に対して独裁的な地位にある一人の人ではなく、キリストのからだだったのです。パウロでさえそのような大それたことはしませんでした。
私は心からサンディエゴ教会のリーダーたちを愛しています。しかし、私は、神がキリストにある人びとに与えられた自由をそれよりもっと愛しています。選択の自由、それはICCには存在しません。
一致、画一性、そして論議の余地のある事柄
“お互の間に分争がないようにし”、そして、“同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい”という言葉を分離するために、ICCはコリント第一1:10:13をよく使います。これをすることによって、私たちはリーダーたちに決して異議をとなえるべきではない――異議をとなえることは分争を生ずることになる、と結論します。しかしながら、文脈全体を見てみると、パウロはある特定の教会社会[community]の中の特別な問題について言及していることがわかります。彼が、同じ“観点”をもちなさいと請うているとき、彼は何の主題について話しているのでしょう?彼らはイエスにあってひとつになるはずですから、人間の追従者であるという問題で分裂してほしくなかったのです。
聖書の中で、人びとが意見を異にすときがありますが、彼らは依然としてキリストにおいて兄弟姉妹としてひとつになっていました。聖書的に見て、教義的なことに関してさえ、意見を異にするのはかまわないのです。ローマ14章はいっています、見解の問題について、論議の余地のある事柄について、“各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。”この章はまた、異なった意見や行いのゆえに兄弟をさばいてはいけないといっています。
ガラテヤ2:11[‐14]でパウロはペテロが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て“面とむかって・・・衆人の面前で”彼をなじった。これがまさに今ここで私がしていることなのです。私はあなたたちみんなの前で教会全体に影響を与えている罪に立ち向かっているのです。
使徒15:36の中で、パウロとバルナバは、彼らに別々の道をいかせるようになった意見の不一致をもちます。彼らは意見を異にしましたが、それでもキリストにおいて兄弟として結ばれていました。ICCではこんなことが起こるでしょうか?
使徒11章では、信者のうちの何人かがペテロの行動について公に批判しています。そして、ペテロは彼らが取り上げた問題につて公に申し開きをしています。コリント第一16:12で、パウロは書いています、“兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたの所に行くように、たびたび勧めてみた。しかし、彼には今行く意思は、全くない。適当な機会があれば、行くだろう。”なんと!パウロはアポロに対して服従し、行くように命令しましたか?いいえ、アポロは行くことを望まなかったのです。しかし、“忠告に反したこと”に対して咎められませんでした。
一世紀には、人びとは彼ら自身の意見をもつこと、彼ら自身で決めること、意見を異にすること、異なった儀式を行うこと、議論の余地のある事柄について異なった信念をもつこと、そして、行きたいところへ行くことを許されていて、しかも、彼らはキリストにおいてひとつになっていたのです。
私は、ICCの教えの公の矯正についてあなたたちみんなとはっきりさせたいと願っています。テモテ第一5:19-20によれば、2人または3人の証人によってもたらされたものでないかぎり、長老に対して非難をすべきではありません。長老で罪を犯した者は“ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。”また、いっています“これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。”
さて、この手紙はICCの教えに対する公の批判です。長老としてのアル・ベアード[Al
Baird]とICCの高い階層のリーダーたちに対する非難は、何万人でないにしても、何千人という人たちから公にもたらされています。彼らがみ言葉を正しい教義をもって堅持していない、ということを非難している人は“二人や三人”ではありません。この手紙は公開文書です。なぜなら、もし罪が一人や二人ではなく教会全体に影響を与えるならば、教会のリーダーたちの教えへの公の批判や非難を教会全体が聞きうるようにと聖書は教えているからです。
これは人間を批判しているのですか、それとも人間の教えを批判しているのですか?これは、神の教えに取って代わると主張している、人間がつくった教えに対する公の批判なのです。これはマタイ18章の問題ではありません。誰も個人的に私に対して罪を犯したわけではありませんから、その聖書の個所は当てはまらないのです。
教義や見解や慣行の違いを公に議論することはかまわないと聖書が教えていることをわかっていただきたいと願っています[この文には文法的誤りおよび欠落があると思われる。(訳者註)]、、、隠された愛より開かれた非難のほうがよい。そして、愛は律法を完成するものです。愛は真実にあって喜び、邪悪にあって喜ばない。愛はすべての欺瞞を退け、互いに真実をもって語る。そして、聖書の中で、人びとが繰り返し繰り返し公に批判をし、使徒たちさえをも正したのなら、この手紙を書くこともあきらかに許されると思います。
インディアナポリスの話
あなたたちはインディアナポリスのことを聞いたことがあるかもしれません。私がICCにいたときに、インディアナポリスの牧師[evangelist]が“教会全体を引きつれて神からフォールアウェイ[fall away]した”という話を何回となくききました。ICCリーダーたちからそうきいていました。なんとまあ、牧師[preacher]が教会全体を神を見捨てるよう導いたとは私には信じられない、と思いました。もちろん“falling away”というのは聖書では神に背をむけるという意味です!なんと恐ろしい考えでしょう。正直いって、私はこの人が彼の教会全体をまっすぐ地獄へ導いたと信じていました。
最近、私は、エド・パワーズというこの牧師が1994年2月に彼の教会で行なったスピーチの書写を読みました。また、キップ・マッキーンが行なったスピーチ、この牧師とマーティー・フクワ[Marty
Fuqua]と他のリーダーたちとの間の対話の書写も読みました。これらのスピーチと対話によって、インディアナポリス・キリストの教会とそのリーダーたちはこの[ICCの]運動から追放される結果となったのです。
私はショックを受けました。あなたが忠実なICCのメンバーであろうとなかろうと、これらの書写をあなたたちの誰もが読むことを進めます。また、これらの書写をどなたにでも喜んで差しあげます。しかし、時間を節約するために(私はそれをすべて読むのに一日半かかりました)、ここでこの話を要約したいと思います。というのも、それは私の心を熱くしてくれましたし、そこで知ったことを話さずにはいられないからです。
エド[Ed]は、足を骨折し一週間床につくことになりました。ベッドに横たわっている間、彼は聖書を読み、ボストン運動[Boston
Movement]、ICCは当時そう呼ばれていたのですが、のいくつかの教えが間違っていることに気づきました。回復後、彼は教会のスタッフ、リーダーたちに話をし、聖書に基づいて、彼の懸念を吐露しました。彼らはエドを支持しました。彼らは、これらの問題が取り上げられ、改善されることを望むということで意見が一致しました。
彼らは、まず教会[congregation]に対して問題を提起し、教会がそれに対してどう受け取るかを判断し、教会がそう望めばリーダーたちにやめるよう要求できる選択肢を与えることを決めました。エド・パワーズは、もしこの教義的問題をICCのロスアンゼルスのリーダーたち、マーティー・フクワとキップ・マッキーンに提示すれば、彼は首になり、口を閉ざされてしまい、彼の愛する人びとの集まり[congregation][彼の教会]にこの情報が決して提示されることはなかっただろうということがわかっていました。
これらの書写を読んで、私はこの人とその妻が神を愛し、教会を愛していたと断言できます。彼らは、繰り返し運動[ICC]を離れたくないといっています。エドは、謙虚で、思いやりのある態度で問題を説明しています。
1.聖書に関する見解の不一致は“分裂を引き起こすもの”ではない(使徒15:36[39の間違い(訳者註)]、使徒11、ガラテヤ2:11)。そして、エペソ4:1[4:4−5の間違い(訳者註)]にあるひとつになるようにとの呼びかけは“からだは一つ、御霊は一つ、望みも一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ”といっているのです。それは、“一つの見解”についてではないし、“一つの教義”についてでさえありません。コリント第一1:10は、見解においてではなく、キリストにおいてひとつになるよう呼びかけています。ローマ14章は、議論の余地のある事柄について、異なった意見をもつことができるということ、そして、各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきであるということを示しています。私たちがキリストにおいてひとつに結ばれているかぎり、これは分裂を引き起こすことではないのです。人びとが“われわれは救いへの唯一の道を知っている;われわれは正しい!そして、彼らはみな間違っている!”というとき、分裂は引き起こされるのです。
2.律法主義とピラミッド型の教会組織;彼らは彼らの上に立つロスアンゼルスからすべての指示を得ていました。ロスアンゼルスはいくら献金すべきか彼らに指示をだしていました。(これは、“しいられて”与えるべきではないといっている、コリント第二9:7に違反します。)彼らの教会出席の状況が週単位でチェックされ、“悪い”、“良い”、“大変良い”、“オーサム[awesome]”でランクづけされていました。彼らが出席者数で新記録をつくっても、この方式では、ロスアンゼルスのリーダーたちがその数を打ち込んでも、結果は“悪い、悪い、悪い”とでました。[インディアナポリスの]リーダーたちは、常に数を意識していなければならないので、彼らの喜びを奪われているように感じました。インディー[インディアナポリス]のリーダーたちは、彼らが行くのを欲していないところへ送られていました。(コリント第一16:12は行くことを“強制しない”といっています。)ひとつの教会が他の教会に対して権威をもつという例は聖書にはありません。パウロは彼の教会[ministry]をもっていました。ペテロも彼の教会をもっていました。そして、神はそのどちらにも別々にわざを示されたのです。
3.ICCのメンバーだけが救われているのでしょうか?コリント第一15:1は私たちは福音によって救われると述べています。
4.マタイ28:18−20では、[キリストに]従うように教えるのはバプテスマの前にではなく、後になっています。ある人との学びを中止するとき、それは、その人が福音を拒んだからですか?それとも、教義のある点を受け入れなかったからですか?教義に関しては、聖書は不一致があってもよく、それでも天国に行くと教えています(ローマ14章)。ICCの教義のすべてに同意していないから彼らは救われていないと告げるのでしょうか?それとも、彼らは福音に同意しないからというのでしょうか?
5.統計と数の割り当ては人びとから“愛の正しい動機を奪い、これらの期待にこたえられなかった人びとを傷つけます。”(これらのことを話している間中、エドは自分たちはこの運動から離れるすもりはないとい、しかし、へブル10:26のゆえに、このようなやり方で罪を犯しつづけることはできない、と絶えず強調しています。)
私がここに書いているよりはるかに詳しくこれらの聖書的課題を議論した後、彼らは教会に投票してもらいました:もし彼らがエド・パワーズと彼のスタッフに辞めてもらいたければ“イエス”と投票するように、そうしたら、彼は、これらのICCの教えに精通したリーダー[複数]を送ってくれるようロスアンゼルスにアレンジする;そして、もしエドと彼のスタッフにリーダーとしてとどまってほしければ、“ノー”と投票するように、その場合には、ロスアンゼルスにこれらの問題を提起する、ということになりました。
教会はエドと彼のスタッフが留まる方に投票しました。
その夜はみないったん家に帰ります。もちろん、アメリカ中に電話が鳴り響きます。ロスアンゼルスのリーダーたちは多くの弟子たちえをインディーに送ります。[インディーの教会の]人びとを“救う”ためです。これが、教会が二分することのはじまりでした;彼が否定しているにもかかわらず、エドが運動から離れるという噂が飛び交います。
エドは、これらの問題を議論するためにロスアンゼルスに招かれ、ロスアンゼルスのリーダーたちと話し合います。エドは、牧者として、人びとを町中で分争させたままにしておいて、教会を離れることはできないとわかっていましたから、マーティーとキップがインディーにくる旅費を払うことを提案しましたが、断られました。電話で話し合いもしましたが、これらの聖書の問題は何一つ話合うことができませんでした。最後に、ようやく面とむかって話をすることができましたが、それでも、聖書の問題は何一つもちだされませんでした。エドは分裂を引き起こす者というレッテルを貼られ、運動から追い出されてしまいます。約700人がエドについていきました。おおよそ200人がキップにとどまりました。
私はキップが運動にとどまると決めた人びとに話をしたときの書写を読みました。彼はエドの教会の人びとに“だまされて”“恵みからフォールアウェイした”というレッテルを貼りました。彼はインディーの人びとにエドに着いていった人たちを“ゆるす”よう勧めていますが、これは大変興味深いことです。というのは、彼らをゆるすように願いながら、彼らは恵みからフォールアウェイし、地獄へいくのだから、本質的には、神は彼らをおゆるしにならいだろうといっているからです。
この人たちは明らかに神を愛している人たちです!彼らの心は聖書に従うことにあり、互いに愛し合うことにあり、真実の側に立つことにありました。キップは聖書の問題をまったく取り上げませんでした。彼はそれを完全に無視したのです。そのかわりに、彼はこの状況をイスラエルの民が砂漠を旅しながら、モーゼとアロンに不平不満をいっているのにたとえています。キップはいっています:
“人びとは運動の指導者を悪くいいはじめている。あなたがたはモーゼとアロンに不平不満
をいっているのではない。あなたがたはキップとマーティーに、ロンとイボニアに不平不
満をいっているのではない。あなたがたは主に不平不満をいっているのです。”(McKean,
Indianapolis meeting、1994年3月17日、オーディオ・テープ第一巻、第一面)
キップは自らを主によって聖別された者[anointed]と称していて、主の聖別された者にたてつくのは恵みからフォールアウェイすることなのだといっています。そして、エドとその教会に“烙印を押し[marked]”、誰も彼らと話しをすることはゆるされないといっています。
家族が二分されました。そして、夫と妻が、姉妹たちが、兄弟たちが、友達が。そして、キップは、インディアナポリスには“唯一つの”教会、すなわち彼の教会しかないということをはっきりいっています。
この出来事の書写をぜひ読んでください。
私は、この神を愛する人びとがICCを離れたから地獄にいくと告げられて大変心が痛みます。私は個人的にだまされたと感じています。なぜなら、この人たちは神から離れたわけではないのですから!本当は、彼らは[ICCの]運動から追い出され、聖書に関する問題はついに取り上げられることはなかったのです。
“フォーリング・アウェイ[Falling Away]”
フォーリング・アウェイ[Falling Away]が本当は何を意味するかお話ししたいと思います。神のみ言葉を見てみましょう。
“いったん、光を受けて天より賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ
言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや
神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔い改め
にたち帰ることは不可能である”(へブル6:4−6)。この聖書の個所は神から離れる人の
ことをいっています。一教会のメンバーであることを撤回することではありません。
ガラテヤ5:4で、パウロは書いています、“律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。”規則や規制に従うことによって神の前に義とされようとする者が、本当は“恵みからフォールアウェイしている”人なのです。
“岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらく
信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである”(ルカ8:13)。
いいかえれば、もし彼らが苦難の時がくるのを信じなくなったら、彼らはフォールアウェイするのです。へブル6:4−6によれば、彼らは神からフォールアウェイするのです!(友よ、神とICCは同じではありません。)統計表の上で“フォールアウェイ”として数えられるであろうひとりとして、はっきりさせておきたいのです。私はイエス・キリストが神のひとり子であること、私の主であり救い主であることを信じます、そして、私の生きているかぎり、信仰をもって彼を礼拝します。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを
信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのであ
る。ヨハネ5:25
“彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた
後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪
くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ
義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われ
ても、またどろの中にころがって行く」とあるが、、彼らの身に起こったことは、そのとお
りである。”(ペテロ第二2:20−22)。
ICCの人びとは、“フォールアウェイ”について語るとき、しばしばこの聖句を引用します。私の友よ、これが私のようにきこえますか?知っています、あなたたちは、私が“フォールアウェイした”といわれるでしょう。私は神から離れたのではありません!私は決して神やキリストから離れることはないでしょう!その選択肢は私には存在しません!私は神のためにICCを離れた[神をとってICCを捨てた]のです!
私が友達から離れて嬉しいと思いますか?何年もの間私が心をかけた人たちから離れて?あなたたちは自分たちのことはよくわかっているはずです。この宣教グループには私の血と汗と涙があります。私は望んで去っていくのではありません。私はどうしてもそうしなければならないから去っていくのです。『基本的な教え』(First Principles) [ヘブライ人への手紙6:1に由来]の聖書の学びが非聖書的であり偽りであると知ってしまった以上、私はどうしてこの教会にとどまっていられるでしょうか?私は義を求めて去っていくのです!真実を求めて!正義を求めて!正しい教義を求めて!ペテロ第二2章を全部読んでください。この聖書の個所の文脈が伝えているのは、人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっているにせ預言者のことです。
なにか思い当たることがありませんか?この聖句は神を礼拝し、真実にあってキリストと歩む人には当てはまりません。
ICCは彼らの教会を離れた人は神から離れたのだと教えます。かつて私はスタッフの女性にきいたことがあります、“もし私がこの教会を離れたら、私は地獄にいくと信じますか?”と。彼女は、そのとおり、と答えました。私は動転し、どうしてなの、とききました。彼女は、この教会から離れた人はみな罪に堕ちることがわかっているから、と答えました。
“もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、
罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす
激しい火とを、恐れつつ待つことだけである。・・・生ける神のみ手のうちに落ちるのは恐
ろしいことである”(へブル10:26−31を読んでください)。
ICCでは、いつでも、この教会をやめて、ほかの教会に行かず、ただ、罪にひたって“自分の吐いた物に帰る”人のことばかり聞きます。こういうことはあるかもしれません。あってはならないことですが。しかし、私たちは、他の教会へ行って、指導し、牧し、健全なクリスチャン生活をおくっている人たちのことを耳にすることはありますか?決してありません。しかし、わたしが勉強している間、かつてICCに属していた、たくさんの、献身的なクリスチャンに会いました。その中の何人かは他の教会の牧師であったり、青年伝道のリーダー等々であったりしました。
はっきりさせておきたいと思います。私は罪びとです。でも、私は決して神から離れません。私は、私の霊をつくし、心のそこから神を愛しています。ICCの兄弟姉妹たちが、私は“罪”に落ち、生ける神に背を向けたといわれるだろうということを知って、私は圧倒される思いです。私は神から見捨てられるのを恐れていましたが、神は、そのみ言葉をとおして、繰り返し繰り返し、私の望みは断ち切られることがないと約束してくださいます。(箴言23:17−18、24:14;ヨハネ5:24;詩篇119:50;コリント第一15:2)
姉妹たち、兄弟たち、キップ・マッキーンのようになるのはやめましょう。彼は、ひとつの教会全体が“恵みからフォールアウェイした”と主張しました。私たちは神ではありません。私たちはどうして誰が神の恵みのもとにあり、誰がそうでないか、審判をくだすことができるのでしょうか?私たちは、神の子どもとなりましょう、そして、神にはその父になっていただきましょう。
この教会を離れることで私は心臓を破られる思いだといいたいのです。私はこの教会を愛しています。私は、この教会とそこにいたすべての時を愛しています。私は何年もの間、私の心とたましいをこの教会の人びとに注いできました。Heather, Mari, Malissa, Priscilla, Tara, Joe, Kat, Deb, Dee, Anieka,
Michelle, Andrea, Al, Franco, Scott, Rick, Tara. 私は離れたくない。でも離れなければならないの。私は、心臓が胸から剥ぎ取られ、ばらばらに切り裂かれ、ずたずたにされて、ぬかるみの中に投げ込まれたように感じています。こんなふうにしてしか私の今の気持ちを表すことはできません。
しかし、私の心臓の肉とたましいは神にゆだねられています。そして、神はこれらの傷を癒してくださる力をもっておられ、キリストがそうされたように、私にも私の心を与えつづけるよう教えてくださる力をもっておられます。そして、ありがたいことに、私の神との歩みは、より広大な空を、私が想像していたよりはるかに大きな空を開いてくれました。私は、“アバ、父よ”と叫ぶことができます。“イエスさま、私をお救いください!”と叫ぶことができます。そして、もう誰も神との間に立ちふさがることはありません。タラ[Tara]にもそれはできない。リック[Ric]にもできない。キリスト以外には、仲介者はいない。誰もいません。神だけが私が告白しうるかた、神だけが私を導き、行く手を示してくださるかただということを知って、神の霊が私を平和の道にそって永遠へと指し示してくださることを知って、ただ、その生ける神に大声で叫ぶだけです。
そして、私は依然としてキリストのからだに属しています。神は、すでに私を神を愛する多くの愛あふれる人びとに導いてくださったということは、なんとすばらしいことでしょう。その結果、私はキリストのからだから離れずにいられるのです。神はICCよりはるかに大きいのです。
“あなたはまるっきりだまされている。”
これについて私はいうべき言葉をもっていません;私にわかるのは、あなたたちが、私のことについて、あるいは、あなたたち自身のことについて、この言葉を思いうかべているかもしれないということだけです;神がその答えを与えてくださるでしょう。
教会の財政
私は、ホープ[HOPE]の献金が実際どのように使われるのかということや、リーダーたちの給料、経費、家賃などに関する財務情報をもっているということをお話しすると心が痛みます。私のもっているこれらの書類は、什一献金や貧しい人たちのための献金が正しく、正直に使われていないということを示しています。もしこれに関する情報をお求めならば、提供することができます。
にせ預言者
にせ預言者について興味がありそうな聖書の個所をあげておきます。私がICCにいた終わり頃の時期には、怖かったので、私はこれらの聖書の個所を避けていました。しかし、神は、私たちが傷つかないよう、全知をもってみ言葉の中に警告を与えておられます。
テモテ第一1:1−11(神のわざは信仰によるということに注目してください。)
ペテロ第二2:1−22(19節に注目してください――私たちに自由を約束しながら、自身は奴隷である。)
(追記――これは、第一部のはじめのみ言葉のまなびのなかで引用した聖句につづきます;もし、ペテロ第一1:20−21の背景をひとびとに示せば、私たち自身のにせ預言者の罠にはまることをふせげるでしょう。)
テモテ第一6:2−6(“わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉に同意しない”というところに注目してください。)
テモテ第二4:2−4(伝道者は“注意深い教え”を用いるべきであるということに注目してください。[この引用個所にはこの註に相当する部分が見当たらず、若干意味不明(訳者註)])
ガラテヤ人への手紙を全部注意深く読んでください;ICCの中で起こっていることを理解する助けになります。
隷属と自由
ICCはゆっくりと、しかし、確実に、弟子たちの首に耐えがたいくびきを負わせると確信します。最も強い人たちは生きのびるかもしれませんが、弱い人たちは死んでしまいます。これは、キリストのすべての教えに反しています。私たちは、義に対してではなく、神に対してでもなく、鞭をもっている支配者たち――群れを駆り立てている人びと、私たちの中に義を鞭でたたきこむ人たちの奴隷となるのです。パウロがガラテヤ4:15で、“あなたがたのすべての喜びはどうなったのか?”と書いているのも不思議ではありません。彼は、弟子たちが、彼らの行ないによって義とされようと試み、信仰によって義とされるという単純な教えを受け入れなくなっているということを知っているのです。再び律法の奴隷になるとき、喜びは消えうせてしまいます。
“神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。しかし、
今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧
弱な、もろもろの霊力に逆戻りして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。・・・
あなたがたのことが心配でならない”(ガラテヤ4:8−10)。
私の願いは、“不正の鎖をゆるめ、くびきの紐を解き、虐げられた者を自由にし、すべてのくびきを打ち砕く”(イザヤ58:6)です。ICCのメンバーであるあなたたちにお尋ねします。これはあなたの願いですか?人びとにバプテスマを施して教会のメンバーにし、彼らがほかの教会へ行くことを選択したとき、彼らは地獄へ行くとあなたたちが信じていることに、事後になってようやく気づかせるということで、かまわないとあなたたちはお思いですか?あなたたちはくびきの紐を縛る方ですか、それとも、解き放つ方ですか?鎖で縛りつける方ですか、それとも、ゆるめてあげる方ですか?あなたたちはすべての不正に反対しますか?あなたたちは、神のみ言葉がこんなにまで誤って扱われているのは間違った行為だと思いませんか?何千も何千もの人たちが、失意の中に、傷ついて、信仰を砕かれて、この教会を去っていくのが気になりませんか?鬱状態になってしまい、狂気と自殺のふちをさまよっている人たちをどう思いますか?
あなたたちに尋ねたい:あなたたちの傷ついた羊をどうしていますか?彼らをちりの中に死んだまま放置し、前進を続け、あなたたちの群れを手荒に前へ前へと駆り立て、次の、飼いならして自分のものとする、よく肥えた羊を探し歩くのですか?キリストの言葉を思い出しましょう。私の人生において新しい意味をもつことになった言葉です。
“わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕らわれ人に放免を告げ・・・すべての悲
しむ者を慰め・・・悲しむ者に喜びを与え・・・、”(イザヤ61:1−3)。
“自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅
く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。”(ガラテヤ5:1)。
私は、聖書にでてくる教会の慣行について学んでいましたから、多くの地域出身のクリスチャンい会う機会がものすごくたくさんありました。中西部の町にある教会に行ってびっくりしました。みんながみんな同じことをしているのではないのです;彼らはひとりひとり個性をもっていて、それぞれ独特の働きをしているのです。私たちは賛美歌を歌い、主を賛美しました。
しかし、牧師が講壇に上がったとき、彼に対する、反響するような、喜びの叫びはありませんでした。そして、彼が説教の前に祈っていいました、“主よ、あなたのみ言葉だけをすべて憶えさせてください、そして、私の言葉は地に落ちさせてください”と。なんとまあ、ICCの牧師がこんなことをいうとは想像もできない、と思いました。彼ら[ICCの牧師たち]はあまりに力強い演説家なので、私たちは彼らのタレントをしばしば畏敬をもって見ます。本当は畏敬をもって神を見るべきときにです。しかし、ICCの礼拝では新しい来訪者を取り囲んだり、お互い同士を見ることにあまりに忙しく、神さまに十分集中しているかどうか疑問です。
中西部で私が行った礼拝では、牧師が、信仰とキリストと永遠の命の賜物について話し、神の驚くべきみ言葉を宣教しました。説教が終わると、彼は講壇から降り、人びとは立ち上がって、みんなが混ざり合います。この人に対する鳴り響くような大拍手はありますん。というのも、彼は明らかにただの人であって、神のみが賛美に値するからです。キリストは優しく、ちょうどこの牧師のように、罪について真実を語られたということ、そして、キリストは心ににおいて優しく且つ謙虚であられたのだということが、私にこれほどはっきり示されたことはありませんでした。彼に従った者たちも優しく、謙虚なのです。
報告の時間に、この牧師が案内係のボランティアを募ったのにはびっくりしました。それから、彼はキャンパス・リトリート[retreat(静修会)]のチラシを配り、学生たちに参加を勧めました。“あなたは子供伝道に奉仕します;あなたは案内係をします;私たちは全員このイベントに参加します”というようなのはひとつもありませんでした。人びとは教会に奉仕をする自由意思をもっているのです。選択肢があるのです。彼らには自由があります!
“主は霊である。主の霊のあるところには、自由がある”(コリント第二3:17)。
**ICC以外の他のすべての教会は“死んでおり”、“生ぬるい”という考えについてコメントしたいと思います。これはICCでは大変難しい問題です。というのは、私たちがほかの教会へ行くと、彼らはみなが手をたたいているわけではないし、みながメモをとっているわけではないし、みなが熱心に聖書のページをめくっているわけではないし、みなが心をこめて用紙にサインしているわけではありません。私たちは、どういうわけか、熱心さと救いとを混同しているのではないでしょうか。“知識なくして熱心さをもつのはよくない”とありますが、ICCのもっているのはこの知識の無い熱心ではないでしょうか。
加えて、私たちは誰をさばくのでしょうか?あの、教会の片隅に静かに座っている白髪の婦人も、説教台に立っている牧師と同じようにキリストの血によって贖われているのです。“主が見るところは人とは異なる。“人は外の顔かたちを見、主は心を見る”(サムエル記上16:7)。外の顔かたちを見るのはやめましょう。神は心を見られるのです。そして、私たちは人びとの心の審判者ではないのです。それは主です。
それから、ほかの教会では、新しくきた人を熱心に取り囲むということをあまりしないようだということがわかりました。そして、これにはちょっとひっかかるかもしれません;私たちは“まあ、この人は私の救いに関心がないのだ!”と感じるかもしれません。そして、これは、教会が取り組むべき課題かもしれません。しかし、これは教会のメンバーたちが主におまかせしていることかもしれません。いいかえると、[福音の]メッセージが、来訪者の心を打つように、キリストを信じるようにさせてくださるようにと。ですから、他者の信仰について傲慢になるのはやめましょう。
ICCが神の唯一の真の教会だという宣言に固執する人たちにおききしたい:“神のみ言葉はあなたのところから出たのですか?”あるいは、あなたたちだけにきたのですか?”(コリント第一14:36)。“私に反対しない者は、わたしたちの味方である”というマルコ9:38[9:40]はどうでしょうか?思い出してください、“「しるされている定めを越さない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのはだれなのか。あなたのもっているもので、もらっていないものがあるか。もしももらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか”(コリント第一4:6−7)。
傲慢と裁きの態度は、この種の教えを受けた人びとにごく共通な二つの態度です。謙虚であることを忘れず、裁きは神にまかせましょう。
さあ、友よ、もしあなたたちがこの手紙の最後まで読んでくれて、もうすぐ近くまできてくれているとしたら、真実を捜し求める勇気を賞賛します。少なくとも、ICCを離れるという私の決心をあなたたちが尊重してくださり、神の国における私のメンバーシップを保っていてくださるようにと願っています!多くの人たちが私を裁くのはわかっています。しかし、キリストが私に示してくださったやり方で、すなわち、私と神との間にはイエス・キリストご自身しか仲介者をおかずに、キリストを拝したいと思います。そして、もし、あなたたちが私の自由を裁くなら、つぎの聖で質問させてください。
“わたしの自由が、どうでして他人の良心によって左右されることがあろうか。”(コリント
第一10:29)
私の心は破れました、そして、神が、この短い時間で癒してくださいました。行く手には多くの難問がひかえていることはわかっています。しかし、少なくとも、私はみ言葉の正しさと真実にしたがって行動してきたことを知っています。その確信は、疑いの影を越えていて、天の父にお願いして明らかにしていただいたひとつひとつのことに裏打ちされています。
“わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。”(詩篇119:45)
不和と去っていく人びと
ICC以外の教会で神を礼拝することを選択したメンバーたちに対する回避と禁止と“烙印”について、驚くほどたくさんの話を読みまた聞きました。私の知っているかぎり、これを正当化する聖書の個所として引用されるのはコリント第一5:5[5:11](不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者)、テモテ第一1:20(信仰の破船に会った人たちをサタンの手に渡した)、テトス3:10(分争を引き起こす)です。
コリント第一5:5[5:11?]に関しては、安心してください、これらの罪に私は捕えられていませんから。思い出してください、神はサタンより強いのです!そして、私は主を礼拝しています。また、はっきりさせておきたいのは、人をそしる者は“人の名誉を傷つけたり、台無しにすること、事実に反する告発と誤った説明を吐露すること”あるいは、“人のことを事実に反して陳述すること”です。私は、この手紙の中のすべての陳述が私の知りうるかぎりほんとうのことだということを証言します、そして、私は誰の名声も傷つけることを意図していません。
テモテ第一1:20に関して、この聖句は文脈の中で[解釈すれば]キリストの信仰を拒絶する人びとのことをいっているのです。私はキリストの信仰を拒んではいません。テトス3:10に関しては、この個所[3章]全体の文脈を見てみましょう。第一に、テトス3章はいかにして神が私たちを救われたのかについてで、それは“わたしたちの行なった義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって”なのです。続けていっています、神は聖霊により私たちを新たにされ、“キリストの恵みによって義とされ”私たちが永遠のいのちの望みをもつのです。そして、パウロはテトスに“これらのことを主張するように”といっています。
それから、彼はテトスに“愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを避けるように”いっています。“なぜなら、それらは無益かつ空虚なことであるから。”さらに、“異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである”といっています。
そこで、この人は何について争っているのでしょう?彼は何を論争しているのでしょう?律法についての愚かな議論です。彼は、わたしたちが恵みのもとにではなく、律法のもとにあると主張することによって、争いを引き起こしているのです。私が提起した問題は“愚かな議論でしょうか?”そして、私は律法について論争しているでしょうか?それとも、私は恵みを告げているでしょうか?テトス2:1でパウロがテトスに熱心に勧めたように、私は健全な教義を目指して励んでいるでしょうか?私は、律法に帰ることによって争いを起こしているでしょうか?いいえ、私は、このくだりにつながっているテトス3:1−8にあるように、あわれみ、信仰、そして、永遠のいのちに至る恵を強調しているのです。
私はキリストについて争っているのではなく、何が健全な教義と調和するのかについて、愛の真実について話しているのです。“耳を傾ける人びとの助けになるように”、“すべての偽りを捨て”、“誠実に”話しているのです。(テトス2:1、エペソ4:15、25、29)
“わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある”(コリン
ト第二13:8)。
“真理を語ったために、わたしはあなたがたの敵になったのか”(ガラテヤ4:16)。
これはとても辛い部分です。なぜなら、アンジー、ロミー、タラ、ミッシェル、アニーカ、ヘザー、ヘザー、ヘザー、ヘザー!!! マリ、カトリーナ、マリサ、プリシラ、セレナ、エリカ、アンドレア、私の素敵な三人−キャット、デブ、ディー――ジェイソンとアル、スコット、フランコ、クレト、マイク、リック、Sosefo、私があなたたちを愛しているのはわかっているでしょう。でも、私は知っています、あなたたちは私と話しをするなといわれるでしょう。私はあなたたちのだれひとりあきらめることができません。友情は条件付ではないはずです。もし、あなたたちが私を“異教徒や収税人”のように扱うよう命じられたら、思い出してください:キリストは異教徒や収税人を愛されました。彼らと食を共にし、彼らを癒し、そして、愛し、救いの恵みを与えられました。愛は律法を完成するものです!
これは、ICCで“間違っている”ことをあげつらう手紙ではありません。どこの教会でも間違っているところは多々あります。これは、“先に訴え出る者は正しいように見える、しかし、その訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる”(箴言18:17)。この教会は“神のただひとつの正しい教会”、“現代における神の運動”、“御国”だと主張しています。私はそのことを問題にしているのです。
この教会には多くの教義的な濫用[abuses]、聖書に対するあからさまな、あるいは、潜在的な謀反があります。私はそれと関わることはできないのです。私は、進み出てペテロを人びとの前で面とむかって非難したパウロのようにできたらと思います。そして、ペテロは悔い改めたのです。しかし、私は、牧師たち、クリスチャン、被害を受けた人たち、信仰深い人たち、悲しんでいる人たち、幸せな人たち、憤慨している人たち、正直な人たち、中立の人たち、客観的な人たち(ICCのメンバーだった人も、そうでない人もおおぜいいます、多くは事態がいっこうによくならないので去りましたし、自殺した人さえいます)の20年にわたる記録を読んできました。
これらの人たちはすすんでこの教会の慣行に異議を唱えてきました(そして、私は、非聖書的で人を惑わすICCの慣行について記述したこれらの文書、ビデオ、書籍のほんの一端に触れただけなのです)。この20年間にICC教会のリーダーたちの側にはただの一回の悔い改めもありません。
私がこの教会にとどまることができるただ一つの道は、強制的なディサイプリング組織の廃止と『基本的な教え』(First Principles) [ヘブライ人への手紙6:1に由来]の学びの中止、そして、この[ICCの]全運動の側が、恵み、信仰、献金、数、律法主義、審判、そして傲慢の問題に対する心からの悔い改めが起こることしかありません。
神とともにあれば、すべてのことが可能です。しかし、キップと長老たちとリーダーたちはこれらの問題に応答するよう数えきれないほど挑戦を受けましたが、なにごとも起こっていません。
“恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らか
にし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。”(コリント第二4:2)
私は、誤った教義の擁護者であったことをみなさんにお詫びします。あなたたちのだれをも傷つけるつもりは毛頭ありませんでした。もし私が、これまでに、裁きの態度をとったり、傲慢であったり、独裁的であったりしたら、お詫びします。私は人びとがキリストのもとへ来て、その光に満ち溢れて彼とともに歩むのをのを助けたかっただけなのです。そして、あなたたちの多くがキリストのもとへきました。あなたの救いは本物だと信じます:どうか、キリストにとどまていてください。
もし万一ICCを離れることがあったら、捨てるべきものと一緒に、大切なものをものを捨てないようにしてください[don’t throw the baby with the bath water]。イエスにとどまってください。彼がほんとうのぶどうの木です、ICCではありません。イエスにつかまっていてください、けっして離さないでください。いつでも私が必要ならば、私はみんなのためにここにいます。いつでも連絡してください。私は無条件であなたたちを愛しています。
“わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。主はわたしに耳
を傾けられたので、わたしは生きるかぎり、主を呼びまつるであろう。”−詩篇116:1−2
みんなを愛しています。でも、私は行かなければならないのです。主イエスとともに行かなければならないのです。
愛を込めて
Jennifer Porter
追伸:もし、この手紙の中でなにか不明瞭なところがあれば、お詫びします。そして、私の意味するところを喜んで説明いたします。この手紙に用いた資料の出所について、情報が必要であればいつでも提供いたします。
もし、ICCの慣行についてもっと知りたければ、http://www.reveal.org にアクセスしてください。そこには豊富な情報があります。ポルノではありませんよ!“”(箴言19:27)。神とともにあれば、なにものも恐れることはありません!
ジェニファー・ポーターは今現在ICC関連のお便りを受け付けていません。彼女はいいた
いことのすべてが上の手紙にしたためられていると感じています。しかし、もし、この手
紙に関して質問があれば、あるいは、彼女に連絡をとることが重要であるとお感じになれ
ば、遠慮なくCalvin Kwan, Michelle Campbell, または Catherine Hampton にコンタク
トしてください。[この原本は上のREVEALというサイトにあり、原本にアクセスし、この
3人の名前のところをクリックすると、電子メールを打てるようになっている。(訳者註)]
参考文献
出所および推薦する読み物
Chrnalogar, Mary Alice. Twisted Scriptures, Whitaker House, TN, 1997.
Indianapolis, the recorded meetings with Ed Powers, and Kip McKean, 1994, audio tapes one and two.
The NKJV Greek English Interlinear New Testament, Thomas Nelson Publishers, Nashville, 1994.
Vine, W.E. Vines expository dictionary of New Testament words, a comprehensive dictionary of the original Greek Words, with their precise meanings for English readers, MacDonald Publishing Company, McLean, Virginia.
その他の出所
Baird, Al, "The Authority of Leaders," ICC Audio Tape Transcription.
Fuqua, Marty, "Church Revival," Boston Church of Christ Movement, Audio Transcript, San Diego, CA 9/18/92.
Fuqua, Marty, "The Cutting Edge," Boston Church of Christ Movement Audio Tape Transcripts: World Missions Leadership Conference, 7/8/92-7/12/92
Ferguson, Gordon. Discipling. Woburn, MA: Discipleship Publications International, 1997) 59.
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©1999 by Jennifer
Porter. All rights reserved.
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