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The Truth Has Set Me Free

真 実 に よ る 解 放

 

 

by Jennifer Porter

ジェニファー・ポーター著

Translated by CBS(Courageous Brothers and Sisters: Group of former members of ICC in Japan)
Japanese translation is permitted by Michelle Campbell, Executive Director of REVEAL.

 

第 一 部

 

訳者註:1)オリジナル文書は、一部、二部に分かれていないが、長文のため訳、の都合

      上、第一部、第二部に分けた。

    2)四角括弧[  ]は原則として訳者が挿入したものである。

 

第一部

目 次

・カバーレター

・メインレター

oバイブルスタディーシリーズの『基本的な教え』(First Principles) [ヘブライ人への手紙6:1に由来]

み言葉

ディサイプル制度

神の国

闇光

十字架

教会

カウントコスト

ディサイプリング

果実

第二部

目 次

  o審判

  o分け隔て

  o強力に御国を前進させる[Forcefully Advancing the Kingdom]

  o特別献金と十一献金

  o聖書に罪のリストを追加

  o律法尊重主義とパリサイびと

  o数の強調

  o ICCの構造

  o教会の権威者

  o教会のリーダー

  o一致、画一性そしてさまざまな疑問

  oインディアナポリスの実話

  o脱落[Fall Away]

  o教会財政

  oにせ預言者

  o隷属と自由

  o不和と去っていく人びと

・参考文献

  o出所と推薦文献

  oその他の出所

私の名はジェニファー・ポーターです。私は1995年の初頭にキリストとそのみ言葉について学びはじめました。そのとき私はヨーロッパでファッションモデルの仕事をしていましたが、神さまの愛が私の心を捉えてくださったことが私を物質主義的で薄っぺらな世界から救い出してくれました。イエスさまは、私が主の恵みと赦し、救いと癒しを求めた瞬間に私の人生のなかに入ってこられました。私はキリストを信じ、14年間在籍したモデル業界、世界をまたにかけたスリリングな仕事と決別しました。主はこれまで私が味わった何よりも美味なものに感じられました。

 

私はヨーロッパから家に戻ってしばらくはろくな仕事にありつけませんでしたが、ようやく、栄養食品店の職に着くことができました。そこで私は傷ついた体を癒し、家から開放された時間を過ごしたいと願っていました。家では、私は私の体験をもとに小説を書いていたからです。さて、その栄養食品店で私はICCのメンバーと称する一人の女性に出会います。私たちはすぐに親しくなり、彼女は私を聖書の学び会に誘い、私はそれに応じました。学び会は私がキリストの求めておられるような生活をしていないということを悟らせてくれました。私は、麻薬を使い罪深い関係を持つ生活から、すっかり生き方を変えました。そして、キリストのために正しく生きる道を追い求めました。そして日曜礼拝にまだ出席もしていないのに、1996年6月2日に洗礼を受けました。

 

私はその後間もなく‘カルト’という言葉を耳にしはじめます。私は怖くなりました。しかし、私と学びを共にした女性たちは、この集団はキリストの教えに忠実なだけよといってくれました。そこで、私は、ICCの教義に従い、聖書を読み、祈り、ディサイプルし、バプテスマを授け、みんなを愛する日々を過ごし3年が経ちました。私は、主との関係で成長し、キリストのために可能な限り最も正しい生き方をしているのだと信じていました。

 

私の両親は、私のすべての時間とエネルギーを使い果たすこのグループに疑問を持ちはじめていました。両親は、ICCがメンバーを心理的に、感情的に、また霊的にアビュース[abuse]していることを知ったのです。両親は、一年半にわたってICCを調べ上げた末、私に脱会カウンセリングをする決意を固めます。

 

1999年1月、私は家族とのバケーション旅行に出かけることになりました。両親はICCの元メンバー数名と牧師を一人週末に私と話をするために招待していました。私は怒りをあらわにし、両親に裏切られたと感じました。しかし私は神と共にあれば何も恐れるものはないと知っていましたから、彼らの話に応じました。まる三日間、私たちはICCを取り巻く聖書的、財政的、はたまた歴史的諸問題についてじっくり話し合いました。聖書がどのようにいっているかということが私にとってはもっとも重要でした。

 

私は教会を愛していましたから、大変な痛みを覚えました。しかし、私は救いの問題が誤って扱われているのではないかと恐れていましたし、ICCが唯一真実の教会であるとは決して信じていませんでした。私がICC教会を離れることを神さまがお望みになるならば、神さまは私の命の中に真のキリストを宿らせてくださり、そのキリストが私たちの教えや学びが誤りであることを示してくださるようにという祈りを常にもっていました。それが示されるまでは、私はICCの仕事に私をささげることにしていました。ですから、牧師先生が三日の間ICCの教えの誤りを指摘されたとき、謙虚にならざるをえませんでした。私は、霊における葛藤の末、主が私に命を授けるための叱責を与えてくださっていると悟ったのです。私は、自分自身でもっと深くICCの問題を吟味することを約束しました。

 

それから数日間、私はICCについて読み、聖書を精読しました。それは圧倒的な経験でした。私を支え愛してくれている両親のおかげで、私は2週間オハイオ州のウエルスプリング・リトリート・センター[Wellspring Retreat Center]で過ごすことができました。そこは元カルトメンバーの保護施設で、そこでは元メンバーたちは、落ち着いて考え、思考リフォームやマインドコントロール、また、聖書について学ぶことができるのです。私は毎日、リフトン[Lifton]の思考リフォームの基準やマインドコントロールについて学び、それらを聖句と比較しました。目から鱗が落ちる思いでした。私の聖書では、マインドコントロールを非難している個所には決して下線が引いてありません。その個所の前後はマーカーがついているのにです。

 

私はもの書きですから、ウエルスプリングで学んだことすべてを夜遅くまでかかって書きとめました。まず、ICCの親しい友人たちに短い手紙を書くことからはじめました。教会では聖書の課題が誤って伝えられていることをわかってもらうのを意図したのです。しかし、私はあまりにも多くのことを学び、それをみんなに伝えたいと夢中だったので、手紙はどんどん長くなっていきました。

 

ウエルスプリングから戻って、私はかつてバプテスマを授けた二人の姉妹に話をしました。私が導いたもう一人の姉妹にも話したかったのですが、彼女はリーダーたちとハウスホールドしていて、リーダーたちに、私は、だまされている、真の弟子ではないから話をしてはいけないと、いわれたのでした。私は手紙のコピーをつくり、私の愛する人びとへ渡しました。リーダーたちの住まいには最後に届けました。私は自分の身が二つに引き裂かれたような気持ちでした。私は教会の人びとを心から愛していましたから教会を離れるということは死ぬ思いでしたが、私に選択の余地はありませんでした。聖書の言葉が巧みに操られていたことは明らかですし、私は彼らを愛するより神さまとそのみ言葉の真実をより深く愛していました。

 

次の日、私の牧師[evangelist]は、私が、キリストのぶどうの木から落ちた悪い種であり、異教徒、あるいは、収税人として扱われるべきだと, 教会にアナウンスをしたのです。その二日後、私は私のハウスホールドへ入ってみて驚きました。私の持ち物があるだけで、そこはもぬけの殻でした。私の三人のルームメートは私に面と向かって話をすることもなく、引越しの理由を説明することもせず、忽然と消えてしまったのです。三人のうち二人はキリストへ導かれる手助けを私がしましたし、もうひとりは2年間も一緒に暮していた人です。見捨てられたという信じがたい思いに駆られました。それは、私がモデル業の世界にいたときの、暗い、欺瞞に満ちた生活の中でさえ一度も経験したことのないほど悪意に満ちたものに感じられました。

 

私のほうからは率先して話がしたいとリーダーたちに知らせていましたが、彼らは私に接触することはありませんでした。教会から2,3度電話があり、数人の教会員と会いましたが、私の身に起こったことを親身になって考えてくれる人は一人もいませんでした。教会には一人の友も残されていませんでした。私は私の友人たち、ことに私と手を携えてキリストのもとへきた姉妹たちのために嘆き悲しんでいます。彼らが主を知ったことを嬉しく思いますが、彼らが人間の奴隷になっていることが悲しいのです。

 

私は愛犬と一緒に1LDKのアパートに引越し、再出発をしました。何軒かの教会を訪れ、多くの礼拝やバイブル・スタディーに出席しました。今でも毎日み言葉に接しています。そして、私はこれまで以上に主を愛しています。今回の出来事は、私にあらゆる意味において主にゆだね、主に従う挑戦を与えてくださいました。私はこれまでの人生で味わった以上に、幸せで、自由で、平安を得ています。主はここにおられるとかあそこにおられるというものではなく、心の中におられることに気づきました。それは、イエスさまがどのような方であるかを教えてくれた私の家族の、ICCの外での真の友の、そしてボーイフレンドであり最良の友の無条件の愛のお陰です。なぜなら、彼らは私のために命をなげうって、主の教え給うとおりに私を愛してくれたからです。

 

私は私にバプテスマを授けてくれた姉妹のひとりから最近郵便を受け取りました。それは、“イスカリオテのユダからの公開状”と題されており、私の手紙がユダからのものであり、私が裏切り者ユダそのものであると書かれていました。それが私にバプテスマを授けてくれ、私を最も愛してくれていたはずの三人の姉妹からの唯一のコンタクトでした。

 

私が教会に手紙を出した直後、リーダーたちは教会員にそのコピーを直ちに提出するよう命じたそうです。リーダーたちは金曜日のデボ[devotional]に集まり、キャンプファイヤーを焚き、私の手紙を燃やしたそうです。エレミヤ書36章を参照してください。

 

真実と自由の神を褒め称えます。私はキリストにおいて自由な生を見出したのですから、二度と奴隷に帰ることはできません。私はまるでヨルダン川を渡り、約束の地を歩いているような気がします。肥沃で祝福に満ちた地です。それは、イエスさまがそのために死んでくださった地、永遠の自由と平和と愛の地です。

 

この手紙があなたにとってもこの地を見出す手助けになるよう祈ります。

 

心から愛をこめて

 

Jennifer Porter

 

 “わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し…” エレミヤ書31:3

 

 “イエスはいわれた、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはし 

  ない」”(ヘブライ人への手紙13:5)

 

 

親愛なる友へ

 

この手紙を広く心を開いて読んでくださるようお願いします。

 

何日も何日も祈り、聖書を読み、涙を流し、そして勉強をした結果、私にはあなた方と分かち合いたいことがたくさんあります。私のあなた方への愛が深まっていくにつれ、私が神のみ言葉の中に見い出したものをあなた方と分かちたいという思いをキリストによって駆りたてられました。そこで私たちは真実を見い出すはずです。私は真実を追い求める一信徒にすぎません。私はその真実に関して権威を持っているというつもりもありませんし、それが私の専売であると主張するつもりも毛頭ありません。そう主張できるのはキリストのみです(ヨハネ14:6)。しかし私は告白します、あなた方に対する私の愛が真摯なものであることを。私の願いは、あなた方が真実と共に歩まれること、それのみです。

 

 “わたしは主 正義を語り、公平を告知する者!”−イザヤ45:19

 

 “わたしは真理について証をするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、

  わたしの声を聞く。”(ピラトに対するイエスの言葉、ヨハネ18:37)

 

テサロニケ人への第一の手紙[テサロニケ第一と略す(訳者註)]15:21“すべてのものを識別して、良いものを守り[なさい]と教えています。新アメリカ標準版(NASV)では聖句は“しかしすべてを注意深く吟味しなさい;良いものをしっかりと保持していなさい”[訳者訳]となっています。コリント第一14:29“それを[いわれたことを(訳者註)]吟味すべきである”と勧めています。ギリシャ語の原典では、これは語られたことに“判断を下す”という意味です。使徒行伝[使徒と略す(訳者註)]17:10‐11は、指導者の語ったことが真実かどうか聖句を吟味することは気高いことだと書かれています。黙示録2:2の中でイエスは“使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためす“よう命じておられます。キップ・マッキーン[Kip McKean]は自らが“預言者”であると主張しています。そして、“自らを神の運動の指導者”と呼んでいます(Woburn, MA:DPI, 1994, オーディオテープ#9104、第一面;McKean, Sydney, Australia, May 1996, オーディオテープ)。彼は自らを主により聖別された者と呼び、自身をモーゼに比肩しています(McKean, Indianapolis Meeting, March 17, 1994 オーディオテープ1の一面)。私は質問したい。キップ・マッキーンを吟味してもかまはないのでしょうか?ICCの学びの『基本的な教え』(First Principles) [ヘブライ人への手紙6:1に由来]を吟味してもいいのでしょうか?聖書はもちろんそうしてもよいと教えているばかりか、詳しく吟味し、自ら判断するように勧めているのです。

 

テサロニケ第一5:21で私が大好きな個所は、すべてを吟味し、よいものをしっかりと保持していなさい、といっているところです。サンディエゴ・キリストの教会(SDDC)にはすばらしいところがたくさんあります。善良な人々、善良な心、よい原則、良き信仰、希望、愛・・・。そして、私がすべてを吟味するとき、私の力でできる限りのことをして、良いものは離さないようにしようと思います。しかし22節が述べているように、私はあらゆる種類の邪悪を避けるようにつとめようと思います。私はSDDCの教えに関連している聖書の個所を注意深く吟味しました。そして、私は私が学んだわくわくするようなすばらしいことを分かち合いたいという思いに駆られているのです。これは教会の人びとのことについてでも、またその罪についてでもありません。実は、リーダーたちのことについてでさえありません。これは、正しい教義に基づいて真実のみ言葉を示すことについてなのです。そして、International Church of Christ(ICC)は彼らの教義は聖書に基づいていると主張していますので、み言葉の権威を使ってそれを吟味してみることは理にかなったことだと思います。

 

思い出してください、イエスがヘロデとピラトから尋問されたとき、彼らはイエスに何の咎も見い出さなかった、ということを。もしこれが神の真実の教会であるならば、その教義の吟味に耐えるはずです。真実は確固として崩れません

 

もしあなた方がこの言葉に恐れを抱くなら、真実のために祈ってください。私もまさにそうしたのです!そうすれば“真実の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。”(ヨハネ16:13)。私たちはこのことに身を委ねなければなりません。私もそうだったのですが、あなた方が恐れを抱きつづけICCの教義の吟味に耳を傾けることに抵抗を感じるならば、箴言16-17[15-16の間違いか?(訳者註)]を読まれることをお勧めします。(15:2に注目してください:知恵ある者の舌は知識をわかち与え;15:7:知識をひろめる;15:10:戒めを憎む者は死に至る;また15:12;15:14:知識をたずね;15:31:ためになる戒めを聞く耳をもつ者は、知恵ある者の中にとどまる;15:32;16章全体を読んでください;また、19:8知恵をうるものは自分の魂を愛し、悟りを保つものは幸を得る

 

 “さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める。”(箴言18:15)

 

私は過去4年の歳月をかけてみ言葉の中に神の真実と知恵を捜し求めてきました。そして、先月はこれまでよりもっと集中的に知識と知恵を捜し求めました。そして今、私の捜し求めたものをあなた方と愛において分かち合い、愛において語りたいと願っています。どうか私がどれほどみんなを愛しているかわかってください。私はみんなを愛しているあまり、真実をお話しせずにはいられないのです。ですから私がこの手紙を書いている理由ははっきりしています。私はみ言葉に従わなければならないからこそ健全な教えにかなうこと(テトス2:1)を分かち合いたいのだといわせてください。私は神から認められた働き人であるようにと願っています。

 

 “あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない練達した働き人になって、神に自 

  分をささげるように努めはげみなさい。”(テモテ第二 2:15)

 

いくつかの聖書的課題に言及したいと思います。

 

 1.聖書の学びのシリーズ

   a. み言葉

b.      ディサイプル制度

c.      神の国

d.     

e.     

f.      十字架

g.      教会

h.      カウントコスト

2.  “ディサイプリング”

3.   “果実”

4.    審判

5.    分け隔て

6.    強力に御国を前進させる[Forcefully Advancing the Kingdom]

7.    特別献金と什一献金

8.    聖書に罪のリストを追加

9.    律法尊重主義とパリサイ人

10.       数の強調

11.       ICCの構造

12.       教会の権威

13.       教会のリーダー

14.       一致、画一性そしてさまざまな疑問

15.       インディアナポリスの実話

16.       “脱落[Fall Away]

17.          教会財政

18.          にせ預言者

19.          隷属

20.         自由

21.        不和と去っていく人びと

 

私が引用する聖書の個所はできるだけ全部読んでください。そうすることによって、聖書の文脈、その美しさと真実が理解していただけると思います。

 

『基本的な教え』(First Principles) [ヘブライ人への手紙6:1に由来]に基づく聖書の学びのシリーズ

 

私が二人の女性(その女性たちを私は今でも愛し、すばらしいと思い、尊敬していますが)と聖書の学びのシリーズを共にしたとき、それは大変有益でした。聖書に入っていく手助けとなりましたし、私の生活のどの部分がキリストの教えと一致していなかったかを理解するのに役立ちました。自分の罪と、キリストが私のために苦しまれたことを見つめるよい機会となりました。学びのシリーズは私にとってあまりにも役立ったため、また他の人びとにもそうであったため、私は長年の間に気づいたり疑問に思っていた聖書の歪曲された解釈に目をつぶってしまいました。これをもっと早く吟味しなかったことに対してあなた方のお赦しを請うとともに、心からお詫びします。そしてようやく今、私自身で発見したこと、学びのシリーズを過去に分析した大変多く人びとが見い出したことを参考にして、ICCの聖書の学びを論議したいと思います。

 

私が学びを共にした二人の女性が、誠実であったこと、私を操ったり私に嘘をついたりする意図はなかったことを私は固く信じています。そして私も人びとと学びを共にしたとき、私の唯一の願いは、その人たちがキリストの信仰を得ること、生活をキリストに捧げること、そして神と共に歩む栄光を学んでくれることでした。

 

しかし、その誠意にもかかわらず、この学びのシリーズは有害であり、人を惑わすものです。私はキリストにおける兄弟姉妹と真実を分かち合わなければという思いに駆られています。それがどのような痛みを伴おうとも。

 

第一に、使徒行伝の中で、人が救われるために一連の聖書の学びをまっとうすることを義務付けられているかどうか自問してみる必要があります。当時は旧約聖書の記録だけしかありませんでした。使徒行伝2章で人びとが信じたとき、ペテロは、一対一で教えを受けること、旧約聖書のさまざまな個所を読み、祈ることを要求したでしょうか?それからペテロは、人びとに罪のリストを作り、それらの罪を他の人に告白するように、そして涙を流してブレークするまで赦されない、と教えたでしょうか。悔い改めるよう命令し、彼らがボーイフレンドと縁を切り、傷つけた人びとに謝罪し、他を赦し、生活からあらゆる罪を切り離すまでバプテスマを引き伸ばしたでしょうか。バプテスマの前に、什一献金をすること、教会の人意外とはデートをしないことに同意するなどの対価を要求したでしょうか。これが使徒行伝の慣行でしょうか。決してそうではありません。人びとは信じ、そしてバプテスマを授けられたのです。そして彼らは救われたのです。

 

使徒2に出てくる人びとについて読んでみてください;使徒8のシモンしかり;同章のエチオピア人たちしかり;使徒9のサウロの改心しかり;使徒10のコルネリオしかり;使徒16の獄中人物しかりです。(このようなリストはいくらでも続きます。)これらの人びとは救いの前に一連の聖書の学びを要求されたでしょうか。彼らはみ言葉を聞き、信じ、そしてバプテスマを授けられたのです。これでは不充分だというのでしょうか。パウロにはそれで十分でした。私にもまたそれで十分なはずです。

 

一連の聖書の学びをよく吟味してみてください。今日に至るまで、ICCでは、本質的にこの一連の聖書の学びを救いの前提としているのですテモテ第一5:21にしたがって、これは吟味されるべきです

 

み言葉

 

ここでは、神のみ言葉の権威を確かなものにするのが目的です。しかし、これは聖書のどんな解釈にも権威を与えることを意味しません。み言葉は剣であることを思い出してください。み言葉は注意深く用いる必要があります。さもないと、それは深刻な害をもたらすからです。

 

  テモテ第一4:16:“自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そう

  すれば、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。”

 

私たちは、はじめのうちだけは教義を注意深く吟味するようにと教えます。しかし、今の私のように、年が経ってから人びとが教義を注意深く吟味しようとすると、“苦悩している”あるいは私がそうであったように“疑いの心をもっている”というレッテルを貼られてしまうのです。私は神への私の信仰に疑問をもっているのではありません。ほんとうのことをいわせていただきます。私は、自分自身の救いのために、私に耳を傾けてくれる人びとの救いのために、教義を詳細に吟味してみようと心に誓っているのです。あなた方もぜひそうされることをお勧めします。

 

使徒17:10-12:はじめに、みなさんがICCの主張していることが真実であるかどうか聖書を詳しく吟味してみることをお勧めします。言い換えれば、あらかじめ決められていた「聖書の学び」[かぎ括弧は訳者が挿入]のときに使ったノートを取り出して読んでみる必要があります。ICCの教会のメンバーとして自問しなければならないのは、ICCのリーダーたちがいっていることが真実かどうか私たちは今日でもチェックしているだろうかという問いです。それとも、私たちは、イエスがマタイ15:1-9で公然と非難されている人間の戒めを教として教えられたことを盲目的に受け入れているにすぎないのではないでしょうか。私たちはべリアの人びとでありつづけなければなりません。

 

ペテロ第二1:19-21:私は常に、この聖書の個所をキップ・マッキーンが“ディサイプルのハンドブック”の中で述べているような仕方で解釈するのを不自然に感じていました。彼はこういっています。「“聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでない・・・なぜなら、預言は決して人間の意思から出たものではなく人びとが聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。”のくだりは“聖書の私的解釈はあり得ない”ということを意味する」と。これは不合理です。この個所は聖書の起源について述べているのです−−すなわち、それは聖書が書かれたときの書かれ方のことをいっているであって、聖書が読まれるときの読まれ方をいっているのではありません。この聖書の個所は、聖書が預言者たちの解釈の産物ではないということをいっているのであって、今日聖書にはただ一つの解釈しかないということをいっているのではありません。

 

聖書に対して自分自身の解釈はありえないということをまず納得させておくことで、私たちが聖書を一緒に学んでいる人は、あらかじめ決められた順序にしたがって提示された一連の聖書の個所をキップ・マッキーンの解釈のままに受け入れるしかないのです。それは、その人の考え方をICCの考え方の中に鋳型のようにはめ込むためにつくられています。

 

ディサイプル制度

 

ディサイプルのハンドブックによれば、この学びはまずICCメンバーが一緒に学ぶ人[勧誘される人:(訳者註)]が、弟子ではない、クリスチャンではないこと、したがって、救われていないことを前提としてつくられています。その人のキリストへの信仰の如何にかかわらず、ICCメンバーは、ディサイプル制度を説明するために抽出された聖書の個所が記述している弟子の定義に合致しないことを理由に、その人が地獄へいく運命であることを証明するよう意図されています。これはイエスが真の弟子と呼ばれたことの意味を学ぶのに一見有益に見えます。しかし、この学びの中で用いられている聖書の個所のどれ一つをとっても救いに至る道に言及していないのに、私たちは弟子の定義を他者が救われていないことの証明にしようとしています。

 

誤った教えは次の関係式に起因しています。

 

  “弟子 = クリスチャン = 救われる

 

この引用は使徒11:19-26に由来しています。この聖書の個所は救いに至る道について言及しているのではありません;これは単純に弟子たちがある特定の場所で“クリスチャン”というニックネームを用いたことを述べています。もしこの式が正しいのだとしたら、イエスはなぜ弟子だけが救われると率直に言われなかったのでしょう。

 

もし、弟子=クリスチャン=救われる、というのが正しいとすれば、この中の単語は互換性があるはずですね?それでは試してみましょう。“わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての民をクリスチャンとして、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し・・・。”もう一度試してみましょう。“それゆえに、あなたがたは行って、すべての民を救われた人々として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し・・・。”ICCが教えるように、もし誰かがバプテスマを受けたときに救われるとしたら、これは不可能です。

 

マタイ28:18-20からICCは、弟子だけがバプテスマを受ける候補者だ、と主張しています。人はバプテスマを授けられる前にまず弟子とされねばならない。この教会は、救われるのはバプテスマの時点だ、と教えています。この[ICCの]運動の教師たちによれば、この時点で私たちはクリスチャンになるのです。

 

それゆえ、人はクリスチャンになるために弟子にならねばなりません。しかし、この二つの言葉は同じ意味なのです!もう一度関係式を見てみましょう:

 

  弟子 = クリスチャン = 救われる

 

バプテスマの候補者は誰ですか?弟子です!

 

バプテスマの候補者は誰ですか?クリスチャンです!

 

バプテスマの候補者は誰ですか?救われた人びとです!

 

それゆえ、私たちは救われるために受けるバプテスマの前に救われていなければならない。私たちは救われるために救われていなければならないことになります。

 

明らかにこれはばかげた話です。ここでICCの教義は自己矛盾に陥ります。

 

マタイ28:18-20の意味に関する混乱を取り除きましょう。聖書の他の翻訳を見てみましょう。

 

  KJV:然れば汝ら往きて、もろもろの国人を教え[KJVに合うように訳者が改訳]、

 父と子と聖霊との名によりバプテスマを施し・・・。”

 

ギリシャ語の原典は次のように読めます:“・・・すべての国々[の人びと]を弟子とし、バプテスマを施し・・・

 

おわかりのように、キング・ジェームス版を見るとICCの解釈は意味をなさなくなります。これらの二つを結びつけると、訳文は、すべての国の人びと、すなわち、世界中の人びとを弟子(従う者、すなわち、学ぶ者)としなさいという意味になります。しかし、ICCはこれをすべての国々において弟子を作りなさいと解釈しているのです。これはずいぶん違った意味になります。前者は、従う者となるよう人びとに教えなさい、という意味になりますし;後者は、従う者を作り出す、という意味になるからです。後者の解釈がICCの伝道計画の根幹をなしています−−世界の国々へ出ていって彼らのディサイプル制度の基準に合致した人びとを作り出すこと。

 

聖書に出てくる弟子たちの中にディサイプル制度に合致した人たちがいたか大変疑問です。キリストに従ったけれど、信じた後にも繰り返し罪に落ちたペテロはどうでしょう?アリマタヤのヨセフはどうでしょう?“ヨセフはイエスの弟子となりましたが、それを秘密にしていました。ユダヤ人を恐れたからです”(ヨハネ19:38)。ICCによれば、それを秘密にしていたのでは真に弟子ではありえません。ましてやそれが恐れの結果だとしたらなおさらです!イエスを疑ったトマスはどうでしょう?私たちは疑いを持つ者に寛大でしょうか?とんでもない、私たちは疑いを持つ者をいとも簡単に救われていないと決めつけるのです。

 

マタイ28:18-20から、ICCは弟子だけがバプテスマの候補者だと教えます。これは・・・、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し・・・からきています。しかし、作るという動詞がバプテスマを施しという語の前にくるからといって、その順序でことが運ばれなければならないということにはなりません。例を見てみましょう。"Go and get the mail, walking down the road and taking it out of the mailbox." あるいは"Cook me a meal, putting the pasta in the pan and heating up the sauce." パスタをフライパンに入れ、ソースを温めることによって食事を作るのです。道を歩き、郵便物を郵便箱から取り出すことによって郵便物を得るわけです。バプテスマを授け、主に従うように教えることによって弟子をつくるのです。

 

ここで、[ingのついたbaptizingとteachingの(訳者挿入)]動詞の順序にしたがって大宣教命令に従うとするとどうなるかに注目して見ることは大変重要です。そうすると、人びとにバプテスマの前ではなく後になってから従うよう教えることになります!しかし、ICCは人びとにバプテスマの前に従うよう教えます。それは使徒行伝の中の初代教会の慣行を反映していません。ICCの中心的な教義はなんと文法的誤りの上に成り立っていたのです!加えて、マタイ28:18-20のこの解釈は、他の約編に照らし合わせてみると成り立たないことがわかります。なぜなら、KJVは往きて、もろもろの国人を教え・・・となっているからです。神は救いの極意を明らかにされるのをNIV版が出版された1970年代まで待たれたとお思いですか?私はそうは思いません。神はそれよりはるかに大きいのです。

 

ちなみに、私たちは行為に基づいて他人の救いを審判するためにこの学びを利用しているのです。神は私たちの心を見ておられるのに!

 

この大宣教命令の観点から救いに至る道について語りたいと思うなら、他の福音書の該当する個所を見てみるのがよいと思います。マルコ16:15の中で、イエスは“全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えよ。”と命令されています。これははっきりしています;イエスは世界中にみ言葉を広めることについて言及しておられます、そして誰が救われるのかを告げておられます。[信じてバプテスマを受ける者は救われる。(訳者挿入)] 明らかにこれはマタイ28より救いに関してはっきりしています。それにもかかわらず、ICCはマルコの宣教命令を用いません。なぜなら、これはICCの外にも、たくさんの人びとが救われていること認めることになるからです。

 

もし私たちが人の救いを認めたり、否認したりするために一連の聖書の個所を引用するのであれば、いかにしたら救われるかということに焦点を当ててイエスが語っておられるところを読んで見たらいいではありませんか。聖書の次の個所で、信ずることは救いにとって必要であり(ヨハネ3:18、8:24、へブル4:2、11:6)、そして十分であること(ヨハネ3:14-15、3:36、5:24、6:40、6:47;20:30-31;さらに、使徒10:43、16:30-31;ローマ1:16;ヨハネ第一5:1、5:13)は明白です。

 

マタイ28:18-20のICCの解釈はもう一つのことを主張していますが、それは弟子が弟子をつくるということです。私はある聖書の学び会で一人の女性に会いましたが、彼女は、キリストの信仰を持ち、バプテスマも受け、罪の悔い改めもして、神を愛する女性でした。しかし、ICCのメンバーたちは、み言葉にではなくICCの教義に忠実で、その女性が弟子をつくっていない、すなわち、実を結んでいないことを理由に、真の弟子ではありえない、したがって、救われていないと主張したのです。この言葉によって彼女は打ちのめされました。今となっては、彼女が、神の恵みと救いを受けるためには他者をキリストに導かねばならない、ということが一体聖書のどこに書かれているのですか、と問いただしてくれたらと願っても後の祭です!救われるために他者をキリストに導かなければならないなどとは聖書のどこにも書かれていません。にもかかわらず、ICCは人がつくりだしたこの規則を使って多くの人びとの信仰を軽視し、故に彼らの救いの確信を打ち砕いてしまうのです。

 

ICCだったら使徒9:36にでてくるタビタを弟子とみなしたかどうか疑問です。“ヨッパにタビタという名の弟子がいました・・・、”彼女が他者を魂の救いに導いたという記録はありません。ICCのメンバーたちが彼女とディサイプル制度について学んだら、あなたは“神のみ旨”を全うしていない罪により悔い改めバプテスマを受けなおさなければならないといったのではないかと思ってしまいます。ばかばかしく聞こえるかもしれませんが、しっかり見てください、これは事実なのです。

 

アポロはどうでしょうか?使徒18:24-28を読んでください。アポロは“主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それをプリスキラとアキラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。”

 

“アポロがアカヤに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし・・・”とあります。さて、ICCは、さらに詳しく神の道を解き聞かせたということをICCの『基本的な教え』(First Principles) [ヘブライ人への手紙6:1に由来]の学びのようなことをしたのだと主張するでしょう。このくだりのトーンは、プリスキラとアキラが、本当の弟子でないという彼の咎を非難し、彼の信心ぶりに挑戦し、彼らの前で罪をすべて告白させ、それから彼にバプテスマを施し、ディサイプリング・パートナーをあてがった、という風に聞こえるでしょうか。ここに出てくる弟子たちは、彼にただみ言葉を伝え、彼の自由意思で旅立たせたのではないでしょうか。パウロは後に彼を兄弟と呼んでいます。私たちはそうできるしょうか?

 

エチオピアの宦官を見てください(使徒8:26-40)。彼が誰かによって“ディサイプルされなかった”としたら、彼はどうして“真の弟子”でありえましょうか。ピリポが彼にバプテスマを施した後、ピリポは姿を消してしまいこの宦官は“彼に二度と出会いませんでしたが、宦官は喜びに満ちて帰途の旅をつづけました。”ICCの学びのリーダーたちはしばしば、誰かがキリストを信じており、バプテスマを受けているにもかかわらず、その人がバプテスマを受けた後ディサイプリングされていないという理由で真の弟子ではないと主張します。もしこれが真実なら、このエチオピア人は救われていないことになります。

 

本質的に、ディサイプル制度による学びは、キリストの血だけでは人びとを浄めるのに十分ではない;キリストの犠牲は世界中の信仰深き男女すべての人びとの罪を贖うに十分ではないのだ、と証明することを目的としています。ICCのメンバーは、ICCの外で信ずる者たちがなにをしようと、ICCの外での帰依は救いに十分だとは誰も信じないでしょう。これはイエスの言葉にまさしく相反しているにもかかわらずです。

 

  よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを

  信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのであ

  る!(ヨハネ4:24)

 

にもかかわらず、ICCは、信ずるだけでは不充分だ、あなたの以前のバプテスマでは不充分だ、あなたの神に対する誠の愛では不充分だ、と教えます;彼らの定めた基準にしたがって生きなければ、あなたは地獄へ行きます。ディサイプル制度による学びはイエスの救いの基準ではないのです!それは[ICCに]従う者に対する基準なのです。これらの基準に合わない者は罪の咎を受けるとはイエスは決しておっしゃっていません。イエスは、もしあなたが信じるならば、あなたは永遠の命を授けられ、罪の咎を受けることはないとおっしゃっています。私たちは神のためにこのような試練を経なければならないということはないのです。神が私たちのために釘付けにされたのです。私たちは彼のために他者を釘付けにする必要はないのです。

 

神の国

 

この学びでは、[ICCの]教会が神の国であるという考えを植えつけようとします。学びのリーダーたちはICCが神の国であるということをあからさまに主張はしませんが、実はそれが彼らの教義なのです。事実、あなたは今すぐでないにしても、これに気づくのに時間はかかりません、みんながICCを御国と呼ぶからです。彼らはダニエル7:18を用いて、聖者たちすなわち弟子たちが御国を受け継ぎ、永遠に所有するのだということを示します。ICCの教えでは地上で彼らが知っている唯一の弟子たちはICCだけですから、結局、ICCの人びとだけが天国を受け継ぐことになるのです。ルカ17:20を引用して、学びのリーダーはこの御国の王はイエスであるということは明確にします;その臣民は弟子たち[すなわちここではICCのメンバーだけを意味しますが、この時点では学んでいる人はこれを知りません]です、そして御国の領土は心です。ここで興味深いのは、後になって、御国が教会すなわちICCと同義語となることです。そして、この聖書の個所はまったく無意味なものになってしまいます。イエスは御国について:人々がここにあるとかそこにあるというものではない。神の国は実にあなたがたの内にある。といっておられるにもかかわらず、神の国はICCなのでしょうか?神の国とは内なるもの、なのにそれは人の組織体なのでしょうか?これは[み言葉と]一致しません。

 

次の聖書の個所はICCが自分たちの教会が御国であるということの最初のヒントになります。マタイ16:13-20です(がしばしば、18-19節しか読まれません)。この聖句は単純に教会イコール御国だといっているのではありません。それは、・・・あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。・・・わたしはあなたに天国のかぎを授けよう。・・・この個所をどんなにねじ曲げて解釈しても、教会と御国とが同義語にはなりません。ペンテコステで聖霊が降ったとき、御国についての預言が本当になるのです。にもかかわらず、突然、教会は西暦33年頃建てられた地上における神の国なのであるMcKean, First Principles, 1993, 11)ということになってしまうのです。違います、教会は神の国の一部になるのです。憶えておいてください、アブラハムも、イサクも、そしてヤコブもまた天国に座しているのです(マタイ8:11)。

 

教会を御国と等しいとすることは神学的な問題を引き起こしますし、聖書学者たちもそれを認めています。新約聖書はときに現在の御国に言及しています(コロサイ1:13、コリント第一4:20)が、ほかの多くの個所では、御国について、継承されるもの、私たちが現世の後に引き継ぐものとして語られています(コリント第一6:9、15:50、ガラテヤ5:21、ヤコブ2:5)。御国=教会というICCの教義をいくつかの聖書の個所に当てはめてみて、理にかなっているかどうか見てみましょう:パウロとバルナバは弟子たちにいいます:わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない(使徒14:22)。もし神の国がペンテコステの日からはじまって、ここでの[ICCの]教えのように、使徒行伝に出てくる弟子たちがその御国の一部であるなら、この聖句は意味をなしません。なぜなら、御国のメンバーが御国に入らなかったことになるからです。彼らはすでに持っているものを受け継がなければならなかったのでしょうか?兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血は神の国を継ぐことはできない・・・コリント第一15:50あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、ICCで[天国で]、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくマタイ8:11)。

 

多くのギリシャ語やへブル語の単語が英語には的確に訳せないという事実を理解するとこの混乱を取り除くことができます。ギリシャ語には“過去、現在、未来”の三つの時制のいずれをも意味する時制があります、すなわち、“それは…であった、である、となるであろう”という具合にです。英語にはそのような時制はありません。ですから、聖書を英語へ翻訳した人たちは一つの時制を選びます。しかし、御国を述べているときの動詞は私たちの言語が意味している以上にずっと幅広い意味をもっています。御国はあった、ある、そして、あろう。御国は過去に存在し、現在も存在しており、未来にも存在しているであろうところのものである。それは教会に限定されるものではありません。[ICCの]教会は御国の一部なのです。しかし、ICCの外の子どもたちもまた御国の一部なのです;精神障害をもった人びともまた、神は慈しみをそそがれ、御国の一部になるのです。御国は教会よりはるかに大きいのです。

 

繰り返しますが、教会は信ずる者たちの体ですね?教会とは人びとです。しかし、教会はゆびで指し示すことができますが、御国は指し示すことができるようなものではありません。それは内なるもの、アブラハムもその一部であったもの、そして、私たちがこれから継ぐものなのです。

 

それにもかかわらず、ICCは教会を御国とイコールだといい、マタイ6:33まず神の国と神の義とを求めなさいそうすれば神はあなたに着るものを与え、食べるものを与え、そしてあなたの一切の世話をしてくださる)を引用して、教会、すなわちICCが私たちの一生を通じてほかの全てのものの上にこなければならないと意味づけるのです。これが神よりはむしろ教会の方にに微妙に重点をおくことのはじまりです。そして、誰かが教会の活動に参加しなかったり、教会の活動を第一義に考えなかったりしたときはいつでも、その人は御国を第一に求めていないということになるのです。この聖句はその根源的な意味において教会の集会に参加することに関係があるのでしょうか?いいえ、否です。にもかかわらず、私たちは人びとがICCをほかの全てのものの上に置いているということを確認するためにこの聖句を用いるのです。私は、私たちがまず神を求めなければならないということにはまったく同意見です。しかし、神の国は追随者の組織体に限られたものではありません。それはもっともっと壮大なものなのです。

 

 

3年前この学びをしたとき、私はその間中涙を流していました。それはとてもいい涙でした。(ICCの友に出会う約1年前に、私はすでにキリストに身を委ねていました。私はキリストを信じていましたが、悔い改めについては教えられていませんでした。そして、私の生き方には多くの罪がありました。)今日に至るまで、私はこの学びをわたしとともにしてくれた女性たちに感謝しています。私に自分の罪と向き合うよう挑戦してくれた彼らの勇気、私をその痛みから抜け出させてくれた彼らの忍耐、わけても、私の罪が私自身を、家族を、そして神をどれほど傷つけているかを悟ったときに私の手を握ってくれたその瞬間を、とても感謝しています。これらは、私の記憶の中に刻み込まれています。そして、私はこれらの聖書の個所を学んだ経験をいっときたりとも後悔していません。

 

しかしながら、彼らへの愛にもかかわらず、また、この学びが女性たちに罪と悔い改めを学ぶ助けになったかにかかわらず、それをいかに彼らの生活に役立てることができるかにかかわらず、私はこれが聖書の教えににかなった学びであると偽ったり、装ったりすることはできません。この学びは人によって捏造されたものなのです。それは聖書の次の個所を参照すればわかります:[聖書の引用が抜けている(訳者註)。]

 

この学びの鍵はガラテヤ5:19-21です。学びのリーダーはこれらの罪が学ぶものを神から引き離しているものだと定義します(イザヤ59:1-2)。ガラテヤ5:19-21は読むのが大変恐ろしい書です。というのは、これだけを取り出してガラテヤ人への手紙全体の文脈から切り離して(その意味では、聖書全体の背景から切り離して)読むと私たちがこれらの罪を犯すなら、神の国を継ぐことはできないといっているようにきこえます。文脈の中にいれて見てみましょう。ガラテヤ書はパウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた手紙です。その中で彼は、義は私たちに救いをもたらさないといっています。また、私たちが神からただ一つ正当化されるのは信仰であるといっています。パウロは、律法や規則によって生きることは私たちを奴隷にしてしまうが、信仰によって生きることは自由にしてくれると弟子たちに告げています。

 

この手紙はクリスチャンの人びとに宛てて書かれています。救われた人びとにです。ですから、ガラテヤ5:19-21は彼らに対して罪深い性質に身を任せることへの警告なのです。パウロは、あなたがたはこのような生き方をしているなら悔い改めてもう一度バプテスマを受けなければならないといっているでしょうか?もしこれらの罪があなたがたに当てはまらないとしたら、たぶんテモテへの手紙の中に記されている罪には当てはまるかもしれない。そして、もしあなたがたがこれらの罪のうちどれか一つでも犯しているとしたら、あなたがたは本当は弟子ではない;あなたがたははじめからやり直さなければならない、十字架を学び、涙を流し、打ち砕かれ、これらの全ての罪を詳しくしたためた手紙を神に書き、このようなことをすでにしたことのある誰かに罪の全てを告白し、その全てを悔い改め、最初のバプテスマが無効だからもう一度バプテスマを受けるようにとパウロはいうでしょうか?

 

ICCのやり方にしたがえば、ペテロは使徒2:38で自分が何をしているのかぜんぜんわかっていなかったことになります。なぜなら、彼はみんなにバプテスマを施す前に、自分と他の使徒たちの前で罪の告白をさせ、神に手紙を書かせ、全てを悔い改めさせるのを忘れたからです。この現実を見るとき、マタイ28:18-20がますます当を得たものになります。(人びとにイエスについて教え、バプテスマを施し、それから従うように教えるのです。)

 

このガラテヤ人への手紙は単に次のようにいっているのです;パウロは与えられた神の霊に従うよう教えているのです。彼は、彼らのバプテスマが無効だといっているのでもなければ、彼らがここに述べられている罪のいくつかを犯したからといって救われていないなどといっているのでもありません。彼は単純に“そのような生き方をしてはいけない”といっているのです。

 

神に手紙をしたため、罪を告白することは悪いことではありません。実のところ、それは大変よいサジェッションだと私は思います。ICCにおいては、この告白の正当化はヤコブ5:16からきています。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。ヤコブ5:13-17のくだりを全部読んでください。この個所はとりわけ病にかかっているある人について語っているのです。第14節と15節は肉体的な癒しが主題であることを示しています。あなたがたの中に、病んでいる者があるか。・・・信仰による祈は、病んでいる人を救い・・・その人が罪を犯しているなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるように互のために祈りなさい。告白の奨めは肉体的な病をもった人に向けられていて、その人は癒されるために祈りが必要だといっているのです。明らかに、この聖書の個所はバプテスマ(そして救い)の前に誰かほかの人に罪のすべてを告白するよう命令したものではありませんし、日々誘惑や罪を他の人、とりわけディサイプラーに告白しなければならないと命令しているわけではありません。ここでは、病気にかかった人について述べられており、その人が罪の告白をすることで、みながその人のために祈れるようにということなのです!バプテスマの前の罪の告白とはまったく関係がありません。そのような慣行について述べている個所は新約聖書の中にはどこにもありません。

 

ですから、罪を他の人に告白することは救いの条件なのでしょうか?そういっている聖書の個所はありません。しかし、ICCでは誰かが学びのリーダーに罪の告白をすることを拒否したらどうなるでしょうか?その人は高慢だ、心を開かない、見てくれをよくしている、頑固だ、などとみなされます。そしてつぎはどうなるでしょうか?その人が悔い改め(それは救いに対する聖書的ではない条件なのですが)をしなかったら、学びはここで中断します。そのような人とはこれ以上学びを続けないのです。一貫の終わりです。このことは、イエスが述べられた次の言葉を思いおこさせます、偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない(マタイ23:13)。

 

闇について学ぶとき、興味深いことがあります。それは学んでいる人がその時点ですでにキリストを信じているということがままあります。“預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています”(使徒10:43)。もし全ての預言者たちがキリストを信じる者はみな罪の赦しを受けるとあかししているならば、ICCの真の弟子たちはどうしてこのようにあかししないのでしょうか?この教会は信仰は罪びとに赦しをもたらさないと教えます。しかし、聖書は赦しをもたらすといっています。にもかかわらず、ICCメンバーは、キリストを信ずることですでに赦されているはずの罪を洗いざらい言い開きするよう要求するのです!

 

このような慣行をはお認めになるでしょうか?学びのリーダーにときどき見せなければならない罪のリストについて神はどう感じられるでしょう?

 

主よ、あなたがもし、もろもろの不義に

 目をとめられるならば、

 主よ、だれが立つことができましょうか”(詩篇130:3-4)。

 

もし神ご自身が私たちの罪の記録をおとりにならないとすれば、なぜ私たちがそうしなければならないのせしょうか?“わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない(イザヤ43:25)。友よ、私たちはどうしてこんなことをしているのでしょう?あなたたちはそれが人を手助けする“ツール[道具]だといっていますね。それはそうかもしれません。それなら、神ご自身が要求されないのに、私たちはどうしてそのような行為を要求するのでしょうか?救いの諸条件を聖書に加えることで、私たちは危険な領域に踏み込んでいます。

 

 

この学びは“どのようにして闇から光へ到達するのか”教えます。ここで“救いの計画”を学びます。それはつまるところつぎのようになります:1)福音を聞く2)キリストを信じる3)罪の悔い改めをする4)イエスが主であると告白する5)バプテスマを受ける。

 

これらはみなすばらしいもので、私たちはこれらを学ぶべきです。それでも、聖書全体の観点からみると、どこかおかしいところがあります。旧約の時代からずっと、人びとはつねに信仰によって救われました。そしてイエスがこられたとき、彼を信ずる者は永遠の命を得るであろうと繰り返し述べられました。福音書のさまざまな個所と同様、ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙は、人びとはその正しい行いのゆえではなく、信仰によって救われるということを伝えるためにその全てが費やされているように思われます。

 

エペソ2:4-10の中で、“あわれみに富む神は・・・罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。”さて、神はわたしたちをキリストによっていつ生かしてくださったのでしょうか?私たちが変わるために正しいことをしたときでしょうか?それとも罪に死んでいるときでしょうか?答えは、私たちが罪に死んでいるときです。私たちはどのようにして救われたのでしょうか?恵みによってです。第7節を読んでください。第8節[と9節]はまたこういっています、あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである。私たちはどのようにして救われたのでしょうか?恵みによってです。私たちは救いを稼ぎ出したのでしょうか?いいえ、それは神の賜物[たまもの]なのです。

 

これについてもう少し考えてみましょう。賜り物とはなんでしょう?贈り物とはだれかがあなたにただで贈ってくれるものです。誰かがあなたに贈り物をくれたとしたら、あなたはどうするでしょうか?手を伸ばして受け取りますね?賜り物は稼ぐものでしょうか?いいえ、それは与えられるものです。そして、それは受けるものです。それだけです。それにもかかわらず、ICCでは神が誰かに永遠の命の賜物を差し出しているとき、その人が悔い改め、打ち砕かれ、罪のリストを書き、告白し、弟子になるよう自分を変えるまで、その人に贈物のおあずけをさせるのです。神は[救いの賜物に]条件をつけるのでしょうか?救いの賜物を、それを稼ぎ出した人にだけお与えになるのでしょうか?

 

人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれ人り義とされることがないからである。(ガラテヤ2:16)。上述の文章の中で、私たちは律法の行いによってではなく、信仰によって義とされるのであるということをパウロは何回繰り返しているでしょうか?3回もです。ガラテヤ人への手紙を通じて繰り返し繰り返しいっています。とりわけ、第3−5章では、何かをすることによってではなく、キリストによる信仰によってのみ義とされるといっています。

 

“わたしは神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる”(ガラテヤ2:21)。これを繰り返し繰り返し読んでください。そのうえで、ICCの光の学び――“救いの計画を見てみてください。それは恵みについて述べていますか?救いが神からの賜物であるといっていますか?救いは、義とされるために悔い改めをするとか、バプテスマを受けるとか、そういったさまざまな行為をとおして稼ぎ出すことはできないということを強調していますか?そうではなくて、私たちは神の恵みを棚上げにしているのではないでしょうか?敢えていわせてください、この学びは神の恵みを棚上げにし、人にこれらのことを全て行ってはじめて、その人は神のプレゼント、永遠の救いの賜物を得る資格ができると信じさせているのですから、私は心の底から悲嘆にくれてしまいます。

 

私は悔い改めや、バプテスマ、あるいは罪の告白を非難しているわけではありません。そうではなくて、救いが、決められた事柄を、決められた時に、決められた順序で行った結果もたらされるものではないということをいいたいのです;あなたが打ち砕かれ、罪に死んでいて、泥の中に落ち込み、“主よ、私を救ってください!私にはあなたが必要です!あなたを信じます!あなたは私の主です!おゆるしください!”というとき救いはもたらされるのです。そして、聖書はそれをあかししています。以下に、聖句とそれに対応する質問とを列挙します:

 

ヨハネ第一11-13[ヨハネ1:11-13の間違い(訳者註)]何を根拠にイエスは“神の子となる権利”をお与えになるのでしょう。

ヨハネ3:16-18:滅びないで永遠の命を得るために人は何をしなければならないのでしょう?

ヨハネ3:36:人はどのようにして永遠の命を得るのでしょう?

ヨハネ5:24:人はどのようにしたら、永遠の命を受け、またさばかれることがないのでしょう?

ヨハネ7:37-39:人はどのようにして御霊を受けるのでしょう?

使徒10:43-48:人はどのようにして罪の赦しを受けるのでしょう?このくだりでの出来事の順序はどうなっていますか。

使徒13:37-39:私たちはどうしたら赦しを受けられるとこの個所はいっていますか?

使徒16:29-34:獄吏が“わたしは救われるために、何をすべきでしょうか?”と問うたとき、パウロとシラスは“主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”と答えています。それから、ふたりは彼に神の言葉を語って聞かせたのち、彼は悔い改めてバプテスマを受けた。彼が救われるために悔い改めバプテスマを受けなければならないのであれば、弟子たち[パウロとシラス]は、なぜ、なすべきことは信ずることだけです、といったのでしょうか?悔い改めとバプテスマは彼の信仰の自然な結果であって、彼が救われるための条件ではないのです。

使徒26:17-18:私たちはどのようにして聖別されるのでしょう?どのようにして罪の赦しを得るのでしょう?

ローマ1:16-17:救いを得るためにはなにが必要でしょうか?義人はどのようにして生きるのでしょうか?

ローマ3:21-24:人はどのようにして義とされるのでしょうか?あるいは、どういう根拠で義とされるのでしょうか?

ローマ5:1-11:私たちはどのようにして義とされるのでしょうか(1節と9節)?私たちはどのようにして神と和解されたのでしょうか?どのようにして救われたのでしょうか?

ローマ6:22-23:パウロは永遠の命をどのように記述していますか?

ローマ10:6-17:義は何に基づいていますか?人は救われるために何をしなければなりませんか?

ガラテヤ2:16-3:14:私たちは何によって義とされないのですか?どのようにして義とされるのですか?(16-17節)パウロはどのように生きているのですか?(20節);第2節のパウロの修辞疑問――彼らがどのようにして御霊を受けたか、に対する答えはなんですか?第5節のパウロの質問に対する答えはなんですか?アブラハムはどのようにして義とされたのですか?アブラハムの子とは誰のことですか?神は異邦人をどのようにして義とされるのですか?アブラハムと共に祝福を受けるのは誰ですか?第14節で約束された御霊はどのようにして受けるのですか?

ガラテヤ3:21-26:約束を受けるのは誰ですか?第24節で、私たちはどのようにして義とされるのですか?26節で、私たちはどのようにして神の子とされるのですか?

エペソ1:13-14:救いの出来事を順を追って書き出してください。

エペソ2:4-10:私たちはどのようにして救われるのですか?救われないのは何によってですか?

テモテ第二5-10[1:5-10の誤り(訳者註)]9節で、私たちは何に基づいて救われるといっていますか?救われないのは何によってですか?

へブル10:10-14:私たちはどのようにしてきよめられるのですか?キリストは誰を全き者とされたのですか?

ヨハネ第一5:4-13:何が人を世に勝たしめるのですか?13節で、人はどのようにして永遠の命を受けるのですか?

ペテロ第一1:18-22:創世記6:8-9も見てください:ノアが神によって義とされたのは――洪水の前ですか、洪水の最中ですかそれとも後ですか?神は何の目的で洪水を起こされたのですか――ノアを救うためですか、それとも世を裁くためですか?ノアを実際に救ったのは何ですか、そして、何から救ったのですか?ノアを救ったのは水ですか、それとも、箱舟ですか?私たちを救うのはバプテスマの水でしょうか、それとも、キリストにとどまることでしょうか?

コリント第一1:10-17:もしバプテスマが救いのために、あるいは、罪のゆるしのために(それは同じことですが)必要ならば、パウロはどうしてコリントであまり多くの人びとにバプテスマを施さなかったことを喜んだのでしょうか?・・・もしバプテスマが救いにとって本質的なものであれば、どうしてパウロは、キリストは彼をバプテスマを授けるためにつかわしたのではないなどといったのでしょうか?

 

私は、あなたたちが救いに関して自分で理解していただくためにこれらを全て書き出しました。

 

使徒2:38を綿密に学んだことと、上に掲げた全ての聖書の個所は、私にとって罪の赦しと聖霊を受けるのは信仰によるのだということを理解する助けになりました:“彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである”(エペソ1:13-14)。“「わたしを信ずる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである”(ヨハネ7:37-39)。“わたしは、ただこの一つの事を、あなた方に聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか”(ガラテヤ3:2)。“彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである”(エペソ1:13)。私たちは自分自身の確信に至るには、これらのことをたくさんの学ぶ必要があります。

 

それでは使徒2:38はどうなのだろうと、あなたたちは思い巡らしているかもしれませんね?ギリシャ語を母国語とする人たちと一緒にそれを学び、このくだりの多くの分析を読んで、ギリシャ語のeisという単語は罪の赦しのために悔い改めてバプテスマを受けなさい・・・というときのためにを意味している言葉で、新約聖書に出てくる他の全ての個所でバプテスマと共にこのギリシャ語の単語が使われるときは、実は、、、の目的のためにというよりはむしろ、、、を考慮してという意味になるのです。(これが大変複雑な議論であることはわかっています。もし、あなたたちがこれについてもっと詳しく知りたければ、私は喜んでこれを証明しているギリシャ語の研究のコピーをさしあげます。)

 

私の疑問は“教義的な”ものでしょうか?まあ、そのどちらともいえます。私がかつて堅く信じていたように、あなたたちがバプテスマは赦しと救いの核心であると信じたとしても無理はないと思います。しかし、私は“信じる者はみなアブラハムの子である”ということを悟るに至りました。そして、アブラハムの信仰が彼を義としたように、私たちの信仰もまた私たちを義とするということを悟るに至りました。(ガラテヤ6-14[3:6-14の誤り(訳者註)])ローマ3:21-4:25しかし、私の最も深く懸念することは、この聖書の学びが、神の恵みと救いの贈り物を棚上げにすることなのです。

 

神の恵みと救いを受けるために、これら全ての[律法による]義なる行いをしなければならないと人びとに教えつづけることはできません。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている;恵みから落ちている(ガラテヤ5:4)のです。(ここに私たちはフォール・アウェイ[fall away]という言葉の真の定義を見出します:それは律法によって義とされようとすることです。)ガラテヤ2:21でいっているように、神の恵みを棚上げにして、救いを得る道は義を行うことを通してであるとするならば、イエスが私たちのために十字架にかけられた意味がなくなります。

 

十字架

 

これはなんと心を動かされる学びでしょうか。これについてただ一ついいたいことは、この学びが、学んでいる人−すなわち弟子に信じがたい罪意識を植え付けうるということです。人が告白する全ての罪がキリストを十字架に着けたのだということを強調するために私たちはしばしばこの聖書の個所を読みます。それはまさにそのとおりです;人に己の罪を悟らせるためにはよいと思います。それでも、しばしばこの学びの動機が人を打ち砕くことにありますから、私たちは告発者になってしまい、その人がその人の罪によってキリストを十字架に着けたのだと告発するのです。聖書では、キリストの血による信仰によって人びとはすでにゆるされているといっているにもかかわらずです

 

悪魔は最も偉大な告発者だということを忘れてはなりません!

 

 “今や、われらの神の救いと力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟ら

  を訴える者夜昼われらの神のまえで彼らを訴える者は、投げ落とされた。兄弟たちは、

  小羊の血とかれらのあかしの言葉とによって、彼に打ち勝ち・・・”(黙示禄12:10-11)。

 

  使徒10:43はいっています、“イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるし

  を受けられる・・・。”したがって、この学びが定着させようとしていることは、ICCの弟子、

  すなわちその学ぶ人−弟子が、すでにキリストを信じていて、また、その人のキリストへ

  の信仰によってその人の罪はすでに赦されているにもかかわらず、その人がその罪によっ

  て“キリストを十字架に着けたのだ”ということです!私たち が私たちの罪によってみ

  なキリストを十字架に着けたことは事実です。しかし、キリストの信仰をすでに持ってい

  る人を、その人が罪を犯したからといって非難して神

  から引き離しているのは悪魔の仕業です。悪魔は“私たちの兄弟姉妹らを訴える者なので

  す!”そして私たちは“昼夜神のまえで彼らを訴える”のです。それでも、すべてが語ら

  れ、終わったとき、その人は小羊の血によって悪魔に打ち勝つでしょう。その血は彼ら

  ために流されたのですから。キリストの血はICCの外の人たちにもまた流されたのです。

  その血は、[罪を]洗いきよめるに十分な力を持っています。ICCが拒絶した兄弟姉妹たち

  は小羊の血と彼らのあかしの言葉とによってによって打ち勝つのです。

 

教 会

 

私は教会にいる間ずっと、ICCがただ一つの真の教会である、すなわち、神の目から見て地上の他のいかなる教会も正当ではないという考え方に疑問を持っていました。ここで、この聖書の学びに用いられる聖書の個所が、文脈全体の中においたとき、この主張が正しいかどうか見てみましょう。

 

コリント1:15-18はキリストが教会の頭であるということ確固たるものにしています。知ってのとおり、世界中の多くの教会はキリストの犠牲と主としての導きを中心に成り立っています。したがって、ここまでは、彼らを軽んじる理由はありません。

 

エペソ2:19-22は神の家族と私たちがその一員であることを述べています。私たちはどのようにしてその一員になるのでしょう?同じ章の前の方で、神の恵みによって“聖徒たちと同じ国籍の者となる”といっています。なぜなら、“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである(エペソ2:5-8)。したがって、この個所の文脈の中では、神の家族の一員であるものたちは、神の恵みをとおして、キリストの信仰によって救われているのです。この救いについて誰も誇ることはできません。なぜなら、それは神の賜物であって、誰でも信ずる者にはみな与えられるのです。神の家族の一員とは誰のことでしょうか?それは、信仰と恵みとによって救いを受けた人びとのことです。

 

エペソ4:4-6この個所は“からだは一つ、御霊も一つ・・・一つの望み・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ;すべてのものの父なる神は一つである”ということを確立します。この個所から、学びのリーダーは“からだは一つ、だから、教会は一つ”といいます。

 

さて、ご承知のように、キリストは教会の頭です。そして、人びとはそのからだです。したがって、教会は有機体ですね?しかし、ICCの学びのリーダーは基本的には教会は組織体だと教えます。一つのからだ従うものたちの一つの組織体すなわちICCになるのです。

 

しかし、聖書は、そのからだは神が恵みを注がれた人びとによって形成される有機体であると教えます。思い出してください。私たちは恵みを稼ぐことはできないのです。どんなに数多くバイブル・スタディーをしても、どれほど悔い改めても、バプテスマを受けてさえです。恵みは神の賜物です。ICCのバイブル・スタディーが第6節で終わっているのは興味深いことです。それに続く個所が教会について語っているのにです。

 

その次の節には“しかし、キリストから賜った賜物のはかりに従って、わたしたち人りびとりに、恵みが与えられている”とあります。(キップ[Kip]のはかりに従ってではなく、キリストから賜る賜物のはかりに従ってです。誰に恵みが与えられるか誰が決めるのですか?そして、どんなはかりに従ってですか?あなたの?バイブル・スタディー・リーダーの?それとも、キリストのですか?)この次の個所はキリストがどのようにして恵みをそれぞれのメンバーに配分するのか理解する上で大変重要です。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちた徳の高さにまで、至るためであるエペソ4:11-13)。伝道者になる人もいますが、全員がなるわけではありません。教師になる人もいますが、全員がなるわけではありません。みんなが伝道者ですか?みんなが教師ですか?そうではありません。

 

それにもかかわらず、ICCはしばしば、ICCの外のある人が伝道せず、キリストに従うよう教えていないから、その人は真の弟子ではない、したがって、救われていないと主張します。これは全くの誤りです。全ての人が同じ賜物を与えられているわけではありません。パウロは私たちに一致に至るよう呼びかけました。かれは私たちが何によって一致するようよびかけたのでしょうか?信仰と神のみ子の知識においてです。彼は画一性[uniformity]を求めたのでしょうか?それとも、一致[unity]でしょうか?彼はイエスの信仰と知識において一致するよう求めたのです;彼はわれわれの教義において一致してほしいといっているのではありません。

 

それでは、ほかの教会の人たちがキリストの信仰と神の子の知識を持っているならば、パウロは私たちが彼らと一つになる事を望んでいるでしょうか?聖書はなんといっていますか?聖書ははっきりとパウロが教義における画一性ではなく、キリストにおいて一つになることを望んでいるといっています。また明らかに、他の信ずる者たちとも一つになるようにともいっています。それにもかかわらず、ICCは、ICCの外の信者たちに彼らが救われていないということを認めさせ、ICCに加わらせるように試みるときを除いて、彼らとは決してフェローシップをもつことはありません。

 

ローマ12:4-5ここではキリストのからだは一つという事を強調します(一つの組織体ではなく、一つの有機体だということを思い出してください)。そのからだの全てのメンバーが同じ機能を持っているわけではありません。“わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。”ICCはこの個所を引用して、International Churches of Christが一つのからだを形成しており、そのおのおののメンバーは互に肢体なのだ、と主張しています。つまり、ICC=キリストのからだ、です。

 

この聖書の個所を全体の背景の中で見てみましょう。第4節の前に、3節で、わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。といっています。

 

この個所が学びの中に含まれていないのは興味深いことです。わたしたちの教会が神のただ一つの真の教会であり、他の全ての教会は神の目にはまったく価値がない、すなわち“死んでいる”と主張することは、思うべき限度を越えて思いあがっていることになるからです。第5節につづく部分を読んでみましょう:このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教えるものであれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄付するものは惜しみなく寄付し、指導する者は熱心に指導し、慈善する者は快く慈善すべきである。

 

サンディエゴ・キリストの教会(SDCC)では、いつ奉仕するか指導され[toldという語が使われていて、「命令される」とも訳せますが、それでは少し強すぎるかもしれません。また、「言われる」とも訳せますが、それでは弱すぎる感じがします。(訳者註)]、いつ教えるか(人をディサイプルするか)指導され、いつ勧めをするか、等々を指導される[told]のです。しかし、聖書はそれをするよう指導しなさい[tell him to do it]というのではなく、自分でそれをするようまかせなさい[let him do it]といっているのです。ここでは、全ての人が全ての賜物を持っているといっていますか?そうはいっていませんね。しかし、SDCCでは、誰でもが全ての賜物を持っていることを期待されます;全ての人が預言をし、奉仕をし、教え、勧め、寄付をし、リーダーになることを期待されます。これ[この要求]に対して寛容を示す人はほとんどいません。(SDCCは他の教会を痛烈に非難し、多くの人びとの信仰を拒絶します。聖書がわたしが寛容であるように、あなたがたも寛容でありなさいといっているにもかかわらず、このようなことが慣行とされているのです。)

 

聖書は私たちがこれら全ての賜物を受けているといっていますか?いいえ、聖書は、私たちひとりひとりが異なった賜物を与えられているといっています。しかしICCでは、私たちはみんながこれら全ての賜物を持っている、あるいは、少なくとも、それを育成するよう、期待されます。もし誰かが伝道する賜物、あるいは、勧める賜物を持っていないとすると、そのような人はしばしば、霊的ではないとか弱いと警告されたり、そう見なされたりするのです。

 

みんなが消耗してしますのも当然です。彼らは本来の自分ではない者になるよう、神の基準ではなく指導者の基準にしたがって生きるよう努めているのです。友よ、神はそれぞれに異なった賜物を与えてくださるのです;神は、私たちが必ずしも神から賜っていないことをするよう命じられません。ICCでは、誰かがこれら全ての賜物を持っていないとすると、その人はリーダーの基準に合わず、いつもいつもその基準に合わせるよう自分を変えようと努めるのです。賜物とは私たちが自身のなかに作り出すものではないということ、それは神が私たちをとおして愛を示すために私たちに賜ったものだということを思い出してください。

 

コリント第一1:10-13この聖書の個所は教派が“霊的ではない”ということを示すために用いられます。まずいっておかなければならないことは、International Churches of Christ [ICC]が、ウエブスター辞典の単一の法的、管理機構の中に多くの地方教会を束ねている宗教的組織という定義によれば、一つの教派であるということです。ICCはあらゆる観点からこれに当てはまっています。

 

辞書の定義だけでなく、上に掲げた聖書の個所を見てみましょう。

 

 “さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。

  みな語ることを一つにし、お互いの間に紛争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、

  堅く結び合っていてほしい。わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あな

  たがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わ

  たしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言

  い合っていることである。キリストはいくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがた

  のために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によ

  ってバプテスマを受けたのか。”

 

この聖書の個所は私たちが“一つに”ならなければならないということをいうために用いられます。そして、ある人たちはルーテルに、あるいはカルビンに、あるいはジョセフ・スミスに、あるいは[ローマ]法皇等々についていったから、彼らは本当のところ分裂を引き起こす者だと主張します。しかし、待ってください。私たちはキップ・マッキーンの教えに追随しているのではありませんか?そのとおりです。しかし聖書がここで問題にしているのは、人びとが、わたしの一番好みの教師はパウロだ!いや、わたしはケパの方がいい!いや、わたしはあのキリストという奴がいい!と言い争っていることです。パウロは、みながキリストにおいて一つになってほしいといっているのです。この聖書の個所は、何において一つになるよう呼びかけていますか?キリストにおいてです。

 

ICCのバイブル・スタディーは、その次の節、すなわち、パウロが“わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちだれにも、バプテスマを授けたことがない・・・。”そして、さらに、“そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり・・・”(コリント第一1:14-17)といっている個所を除外しています。

 

この聖書の個所がなぜ学びから除外されているのでしょう?この個所はパウロが心において完全に一つになることを望んでいたこと、福音について思いを馳せていたことを示しています。この個所はまた、パウロがバプテスマを授けるためにつかわされたのではないことを示しています。しかし、ICCの考え方は、わたしたちが誰と学びをしていても、その人たちがバプテスマを受けることを望んでいて、それこそが人を救うというものです。しかるに、人を救うのは本当は福音なのです!(コリント第一15:2ローマ1:16

 

信仰、キリスト、そして福音の上に立って、ICCの外のクリスチャンの世界の大部分が一つになっているのです。そして、彼らの教義のあらゆる点において彼らに同意しないという理由で、他の全ての人びとを神の国から締め出しうると考えているこの教会こそが本当は分裂を引き起こしているのです。

 

コリント第一12:12-26キリストのからだの異なった機能がどのように教会をかたちづくっているかを第28-30節が述べているのに、ここでの学びが第27節で止まっているのは興味深いことです。使徒、預言者、教師、力あるわざを行なう者、いやしの賜物を持つ者、補助者、管理者、異言を語る者をおかれているといっている個所です。ここではみんなが教師だろうか?と問うています。それなのに、ICCでは、たとえ私たちが教える賜物を持っていなくても、みな教師になることを期待されます。み言葉はみんなが教師ではないといっているにもかかわらず、私たちはディサイプラーつまり、神のみ言葉の教師に当然なると考えられています。みんながみんな伝道の賜物を持っているわけではありませ。それは神にとってはゆるされることなのです。でも、ICCにとってはゆるされることでしょうか?

 

へブル10:21-25[キリストの]からだの全ての集まりに参加しなければならないということを義務付けるために用いられますが、聖書がいっていることはそういうことではないのです。じつは、集まりをもつことを諦めてはいけないといっているのです;単に集まりをもちつづけるように、それをやめてしまわないように勧めているのです。教会が集会をもつたびにそれに参加しなければならないといっているのではありません。ICCではこの聖書の個所があまりにも乱用されているため、人びとは教会の集まりに欠席することが罪であると信じこまされていたり、それに対してはなはだしい罪意識を感じたりしています。本当のところ、神はそのような律法主義者でありません。神は愛であり、律法ではありません。しかし、ICCでは誰かが水曜日に教会にこなかったり、ある集会に欠席したりすると、霊的でない献身していない弱い自尊心が強すぎるなどと責められるのです。この聖書の個所はそんなことをいっていません。一緒にフェローシップをすることをやめるなといっているだけなのです。

 

この学びに関してイザヤ56を読んでください。また、ガラテヤ5:20でいっている“分裂、分派”が悔い改められなければ罪であるといっているのは、神の国を継ぐことを妨げる人びとのことをいっているのです。キリストのからだから分裂しているのは誰の方でしょうか?誰が分派的なのでしょうか?

 

カウントコスト

 

ここでは、バプテスマを受ける前にキリストに従うことによって弟子が支払わなければならない“対価の計算”について理解する手助けをします。その間、学ぶ人−弟子は、教会でリーダーとじっくり話し合い、リーダーはその人がバプテスマの準備ができているかどうか決めるのです。ここで、ちょっと待ってください。聖書のどこで、他の人がバプテスマの準備ができているかどうかを人が決めるということをいっている個所がありますか?ありません。

 

 “しかし、彼を[イエス(原著者註)]受け入れた者、すなち、その名を信じた人々には、彼

  は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず[not of human decision]

  人の決定によらず(訳者註)]、ただ神によって生まれたのである。”――ヨハネ1:12

 

人がキリストを信じてバプテスマを受けるという決心を他の人が吟味し、決定を下すということは、福音に反していますし、私たちのキリストにおける自由を犯すものです。ICCはバプテスマの瞬間が私たちが神の子とされ、生まれ変わる時だと教えていますから、上に引用した聖書の個所、信じた者には神の子となる権利がある――それは人の決定によるものではなく、の決定による、という聖句にもろに違反しています。

 

“対価の計算”の学びはには学ぶ人−弟子に什一献金について、また、ICCの仲間だけとしかデートすることができないということを教えることも含みます。友よ、一体、新約聖書のどこに人がバプテスマの前に、什一献金をすることや[ICCの]クリスチャンとだけデートをするということに同意しなければならないと書かれているところがありますか?どこにもありません!使徒2:38に出てくる弟子たちがバプテスマの前にこれらのことを全て学ばなければならないなどと想像できますか?そんなことをすれば、永久に彼らを水に浸す[彼らにバプテスマを施す]ことはできないでしょう!彼らはイエスの道について救いの後で教えられたのです。バプテスマの前に必要とされたのは信仰だけです。私にもいわせていただけば、什一献金はすべきだし、クリスチャンとだけデートすべきだと思います。しかし、これがバプテスマの前に同意しなければならないことだというようなことは世界中のどこにもありません。

 

この学びのシリーズについて私がいえることは次のことだけです:

 

“まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。”――イザヤ8:20

 

**私はここで救いに関して最後のひとことを添えたいと思います。旧約聖書においてさえ、人びとは信仰によって救われたのです。新約聖書がどうしてそれとは違いえましょうか?キリストが来られた後に、どうして神は、ユダヤ人が古い律法のもとにあったときよりも、救いをより困難にするようなことをされるのでしょうか?

 

ちょっとの間[ICCの]教会から離れて、神を見てみましょう。私たちの神は救いを複雑なものにするような神ではありません。私たちの神は一つのことだけを求められる神です――それはそのひとり子への信仰です。私は信仰が悔い改めとバプテスマでより豊かになると信じます。しかし、あくまでも救いは神の賜物なのです!私たちの神はもしあなたがA、B、C、D、Eの段階を踏んだら、そのときにはじめてこの賜物を与えよう。そしてもしあなたがその段階の一つでも踏み外したら、私はこの賜物を与えないといわれるような神なのでしょうか。そして、もし、あなたの生きているうちに段階Fを教える人が誰もいなかったら、わたしの賜物を受けることはできないというような?神の心はそういうものではないと思います。神は全ての人が救われることを望んでおられ、救いを極めて単純なものにしてくださっているのです。

 

“ディサイプリング”

 

私は個人的には“ディサイプリング”をエンジョイしました。親しい友人がたくさんできましたし、多くのことを学びました。話をしたり、涙を流したり、告白をしたり、また、教えを受けたりすることのできるキリストにある友をもつことは決して悪いことではありません。しかし、これは聖書によって強制されているものではありません。ダビデとヨナハン、パウロとテモテの関係は模範的で、私たちはそれを模倣すべきです。しかし、各人が主にあってその上に立つディサイプラーを持たなければならないというような神からの命令はありません。聖書の中にはこれが神の命令であるという証左はありません。しかし、ICCは教会のメンバーになるためにはこれを要求します。

 

キップ・マッキーンはマタイ28:18〜20を、全ての人がディサイプルされなければならないといっていると解釈しています。このディサイプラーは主にあって私たちの上に権威をもっていると考えられているということは興味のあることです。(へブル13:17はディサイプラーではなく教会のリーダーに従うようにといっています;そして、新約聖書が規定しているリーダーは執事と長老だけです。)私たちの上に立つディサイプラーを指定するとき、イエスがマタイ28:18でいわれている肝心な点が無視されていることが一層はっきりしてくる思われます;イエスはわたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられたといっておられます。したがって、私たちの一生を通じて人間的権威を持った人物を認定するためにこの聖書の個所を用いるのは奇妙に思われます。

 

ディサイプラーに告白しなければならないと命ずるためにヤコブ5:16が用いられています。たとえこの聖句が聖書の命令だとしても(実際はそうではないのですが)、この節は(病気の人について語っている背景の中で)“互に罪を告白し合い”といっているのです。

 

しかるにICCはこれ[互に告白すること]を勧めません。ICCはひとりの女性が主にあって上に立つ女性に告白するよう勧めます[それは本質的に非聖書的です]、そして、こんどはその女性がまたその上に立つ女性に告白し、というふうに順送りになります。私は証言しますが、私のディサイプラーが私に彼女の罪を告白したことはありません。でも、私は彼女に、しばしば涙ながらに、告白しました。私はこういっている自分を見出したものです、ごめんなさい、ごめんなさいと。なぜでしょうか?罪を犯すことで彼女を失望させてしまったと感じたからです。そして、彼女の方もそのとおり失望したとときどきいったものです。

 

待ってください。私の罪は神に対してです!彼女には関係がありません。しかし、この非聖書的で、強制的なICCのルールは、それをディサイプラーに告白したいかどうかという観点から人びとに誘惑の結末を考慮させることになるのです。ばかげた話です。私は決して互いに告白し合うのが悪いといっているのではありません。そうではなくて、それが、聖書の命令ではないし、このルールが神によって作られたものでもないということをいっているのです。

 

ひとりがひとりの上に立つ[one-over-one]ディサイプリングの関係ははこの教会の大きな問題です。神がこれを命令されなかったこと、また、新約聖書の教会にはそのような例がないことに対して、神をほめたたえたいと思います。パウロがテモテを教えたこと、そして、テモテがシラスを教えたこと、それはそのとおりです。神がイエスを教えられたこと、そして、イエスが彼の弟子たちを教えられたこと、それはそのとおりです。しかし、イエスが使徒たちを教えられたという事実は私たちがイエスに成り代わって他者をイエスが教えたように教えるということを意味しません。イエスは唯一であり、主です。私は彼の召使いにすぎません。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた・・・テモテ第一2:5-6)。

 

ディサイプラーが私たちと神との仲介者ではないことはおわかりいただけましたね。しかし、不幸にしてディサイプラーたちはそのように振舞うのです。私は誰かと神の間の仲介者として振舞いたくはありません。聖霊が私たちの助け主なのです。(ヨハネ14:16、26)。神は私たちを助けるために御霊を贈ってくださるのです。

 

それではなぜICCでは人間のディサイプラーから私たちのすること全てに対して忠告を求めなければならないのでしょうか?これは、霊的決心や判断をくだす能力を人から奪ってしまいます。もちろん、聖書は私たちに忠告を求めることを勧めています。しかし、忠告は忠告です。あなたはそれを取ることも捨てることもできます。しかし、ICCでは、もしあなたが忠告に反したなら、反抗的であると見なされます。これは非聖書的であり、人の生き方を他人がコントロールすることを奨励してしまいます。私たちが互いに教え合うような、一対一[one-to-one]の対等なディサイプルの関係ならもつこともできますし、勧めることもできます、またそのような関係なら、祈り合うこともできます。

 

ICCは、このディサイプリングの構成に関する聖書の個所を見過ごしているように思われます。ICCのディサイプリングの組織ではほとんど全ての人が教師の立場におかれるのです。“あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。(ヤコブ2:1[3:1の誤り(訳者註)]。ここでは“多くの者は[教師に]ならない”といっていますが、ICCでは教師は“大勢”います。もしある人がICCに加わっていて、“ディサイプラー”をもつことを望まないといえば、その人はICCにいられなくなります。こんなことが聖書のどこに書いてありますか?教会のメンバーのひとりひとりにディサイプラーが指定されていますか?これでは、教師の数が多くなりすぎるのは当然です。

 

ディサイプリングの構造はほかにも問題があります。弟子の罪がディサイプリング組織の系統図にしたがって順ぐりに上に伝えられることです。これは本当のことです。私はICCのリーダーをしたことのある多くの人と話をしました。彼らは、リーダーたちが教会の弟子たちの罪について話し合うのはごく当たり前のことだといっています。もし罪が悔い改められ、赦されているならば、どうしてそんなことをする必要があるのでしょう?

 

イエスはみなに公然と告げられなかったことを“内輪”で話されたことはありません。“イエスは答えられた、「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。”(ヨハネ18:20-21)。ICCのリーダーたちは、ビジターも含めて、教会全体の前でオープンにリーダーズ・ミーティングをやるなどということがあるでしょうか?

 

キリストは教会の構造がこのように形作られることを意図されていません。キリストは自らを神と人との間の唯一の仲保者として立てておられるのです。

 

果 実

 

サンディエゴ・キリストの教会(SDDC)にいる間、果実実を結ぶことの問題を疑問に思っていました。なぜなら、聖書の学びの間ずっと、果実= 神のために救われた魂、という証拠が見られなかったからです。しかし、教会のメンバーたちもリーダーたちも一貫して果実をキリストのもとへきた人という意味にとっていました。神のみ言葉の中からこの問題に関して私の発見したことお話しましょう。

 

マタイ7:15〜20で、聖書はその果実によってにせ預言者を見分けることができるといっています。また、“よい実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。”ともいっています。

 

それでは一体“果実とは何でしょうか?”

 

ガラテヤ5:22では、御霊の実は“愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制”と定義されています。

 

ピリピ1:11は“イエス・キリストによる義の実”に言及しています。

 

キング・ジェームス版のへブル12:11では“義の実”は神の規律による訓練の結果であるといっています。

 

コロサイ1:10には“さらにまた祈るのは[これは11節のはじめにある文節(訳者註)]、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加える・・・とあります。

 

多くの人がこの“実を結ぶこと”を魂をキリストへ導くことと解釈しています。もちろん私はこの[魂をキリストに導く]使命に献身していますが、聖書の中にこの解釈を裏付けるものはありません。両方の考え方に言及している箴言11:30でさえ、果実=魂だとはいっていません。端的にいって、聖書では果実を人びととみなしてはいないのです;聖書は、人びとがキリストをとおして得る(喜びや義のような)特性を果実とみなしているのです。さて、聖書には果実のほかの形もでてきます:

 

マタイ26:29では、主の晩餐のときにイエスは“あなたがたに言っておく。・・・、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない”といっておられます。ここでは彼は明らかにぶどうの実のような実際の果実を指していて、霊的果実とは違います。

 

創世記1:28では、はアダムとイブに“生めよ[be fruitful]、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよといっておられます。ここでは、主は彼らに子供をもち地に満たせと告げています。

 

“果実”についての解釈の大部分はヨハネ15:1〜17からきています。これは私の大変好きな聖書の個所の一つで、私が4年前にはじめてここを読んだとき、キリストにあって生きたいと願わせてくれたくだりです。(ぜひ、このくだりを全部読んでください。)

 

ヨハネ15:1〜2[実際は8節まで引用されている(訳者註)]にはこうあります、“わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。・・・わたしにつながっていなさ。そうすれば、わたしはあなたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなたがたは何一つできないからである。・・・あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。”

 

“弟子の指標”という論文の中で、ロジャー・ラム[Roger Lamb]は、ヨハネ15:8あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろうを引用して、ヨハネ15の約束はわれわれが弟子としてイエスにとどまるならば、弟子を生み出す。事実、イエスはこれを真の弟子の指標にしているLA Story, 12/15/96, P3)と書いています。

 

この果実が弟子であると聖書のどこでいっていますか?聖書はそうはいっていないのです。本当は、これが正しいということはありえないのです。これは次のような図を暗示しています。[この図は抜けている。(訳者註)]

 

明らかに、このシナリオは成り立ちません。たとえ実が地上に落ちて種をつくったとしても、この種はぶどうの木に直接新しい枝をつくりえないからです。

 

弟子が実を結ぶことをキリストの定義に基づいて正しく図式すると以下のようになります。[この図も抜けている(訳者註)]

 

不幸にして聖書のこの誤った解釈のために、キップ・マッキーンは、1992年の世界リーダー会議において[The Dream];スーパー・チャーチ[Super Churches]と題するスピーチの中で次のようにいっています。われわれの教会のメンバーはみな学び会に参加しています。その人たちは毎週訪問者たちをつれてくるよう期待されています。ひとりひとりがみな毎週訪問者たちをつれてくるはずです。もし彼らが訪問者をつれてこなかったら、どうしてなのか問いただします。プレッシャーをかけているのではありません。私は彼らの魂を心配しているのです。知ってのとおり、もしあなたが実を結ばなければ、あなたはぶどうの木から切り落されてしまいます。実を結ばないクリスチャンはフォール・アウェイ[fall away]するクリスチャンです。私はただ心配しているのです。(20)

 

聖書のどこで“果実”が来訪者だといっていますか?あるいは、[それが]バプテスマだと[いっていますか]?あるいは、[それが]魂だと[いっていますか]?私たちがこのような成果をあげなかったら、神は私たちをイエスというぶどうの木から切り落されるとあなたは信じますか?

 

弟子の指標は、愛、平和、寛容、慈愛、善意、柔和、自制、喜び、忠実、などで定義される果実のことです。そのようなことに対して律法はありません。たとえ私たちの果実が愛だけだとしても、私たちはイエスのぶどうの木から切り落されることはありません。

 

個人的な注釈としていっておきたいことは、多くの人が、その年“実を結ばなかった”ために、自分は不適格だ、基準を満たしていない、不幸だと感じ、自分に失望しているのを見てきたことです。サンフランシスコで、その年一人の魂しか増えなかったので彼の教会は“落第”だったといっている伝道者に会ったことがあります。悲しいことに、この人たちは彼らの喜びが果実であることに気がついていないのです。彼らのが果実であることにも・・・とても悲しいことです。

 

私の友人のひとりは、結婚する前にリーダーたちから“実を結ぶ”よう要求されたといっています。聖書のどこにこのようなことが制定されていますか?人は結婚するために誰かを主に導かなければならないのでしょうか?そんなことに関係なく、彼女は実りある人でした;彼女はキリストにおける信仰のゆえに義とされたのです。

 

この誤った解釈のために、彼らは自分たちが、バプテスマのヨハネが説教の中でいっている木だと思っているのです、すなわち、:“良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる”(ルカ3:9)。これは人びとを傷つけ、彼らの救いの確信と救い主の力とを損なってしまうのです。

 

イザヤ5:7はぶどう畑と庭をよく説明しています。

 

 “万事の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、

  主が喜んでそこに植えられた物は、

  ユダの人々である。

  主はこれに公平を望まれたのに、

  見よ、流血。

  正義を望まれたのに、

  見よ、叫び。”

 

ぶどう畑は神の家です;男たち、女たちはその庭です。神は彼らの果実(公平と正義)を求められたのに、流血と叫びを見出されたのです。

 

“個人的な実り”についてもう一点だけ述べます;“カッティング・エッジ[The Cutting Edge]、LA[ロスアンゼルス]の教会への手紙”の中で、キップ・マッキーンは、「ディサイプル制度のシリーズができてから、われわれは個人的な実りを“[新しい弟子を]植えることあるいは水をそそいで[弟子の数を]増やすことと再定義しました。したがって、弟子のひとりひとりに、行き止まりの弟子にならず、次の三つのうちのどれかにおいて個人的に実を結ぶように励むことを勧めます:一つ、弟子になるような人に会うこと、二つ、弟子になるような人と学びをし、親友になること、三つ、あなたの子供にバプテスマを施しキリストに導くこと。」(LA Story、1997年12月、P3)

 

*第一に、人はいつから聖書に属するはずの概念を“定義したり”あるいは“再定義したり”する権利を持ったのでしょうか?これらのことがらを定義するのはみ言葉[聖書]にまかせましょう。

 

コリント第一3:5〜9によれば、この概念は非聖書的として全く無視できます。この聖句ははっきりと“植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。”といっています。一体どのようにしてこのくだりから、あなたが人をキリストに導く手助けをしたからといってあなたが個人的に実を結んだと解釈しうるのでしょうか?聖書はあなたは取るに足りないといっています!さらにいえば、私たちが種を植え、その種に水をやるならば、果実ではなく苗が成長するでしょう。果実はもっとあとからやってきます;ちょうどキリストの平和が時間とともに成長するように。そして、私がキリストに導いく手助けをした女性たちの人生で成長した果実について、私はそれを私の手柄だと主張はしません。誰でも自分を“個人的に実りある”とみなす厚かましさをもつということは神のみ言葉に反しています。

 

  主はいっておられます、“わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。

  知恵ある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人に

  これらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとこれにつ

  まずく。”(ホセア14:8〜9)

 

[第二部へ続く]

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