ヨハン早稲田教会現役メンバーの経験談
【解説】私の研究室掲示板(http://6514.teacup.com/cult110/bbs)への投稿の内、現役のメンバーからの投稿です。( )は投稿時のハンドル名、末尾の日付は、投稿日です。
■現役メンバーAさん(むらさき)
私は教会において平信徒です。残念ながら筍長ではないのですが、この掲示板の主旨をたまたま知って、協力出来ればと思い投稿しました。川島先生がサモニム(担任牧師の夫人)と柳先生にお話されたことに厚く感謝を申し上げます。教会は勧誘を隠して表向きゴスペルコンサートとして多くの人を誘っていました。プロのゴスペルシンガーによるコンサートを聞きに来ただけにも関わらず、そこでは約一時間にも及ぶ「メッセージ」と称した説教が組み込まれています。それを全く知らされずにコンサートに訪れた人が不愉快に思っていることに常々胸を痛めておりました。また、教会に来ないと電話やメールでしつこく誘われます。日曜日はさまざまな筍長や幹事からかかってきます。近くに住む人は直接家まで筍長がやってきたりするそうです。「支度するまで待っている」というのは一見献身的なようですが、人には個々の生活があり、これでは強制的に教会へ通わせているようなものです。これが真の伝導と言えるでしょうか?私を初めて導き、キリストの教義を学ばせてくれるこの教会について悪くいうようで心が咎めます。しかし、こうしたカルトの要素を含んで信仰心が養われるとはとても思えません。むしろ教えに反している気さえしてしまいます。
2005年12月3日
私は都内の大学生で、教会でのゴスペルコンサートに勧誘するためのキャンパスコンサートを手伝ったことがあります。なぜ大学関係者ではない教会の聖徒がコンサートを行えるのかというと、聖徒が学生の場合もありますが、いわゆる信徒とはまだ呼べないような人とのつながりを利用するのです。教室を借りるために、一度教会のゴスペルコンサートに来たことがあるというような人の、学生番号や名を借りるのです。驚くことに「それさえ貸してくれれば何も手伝ってくれなくてもいい」と、言っているのを耳にしました。キャンパスのコンサートにおいても、ゴスペルの合間に説教の時間が設けられています。それはゴスペルとは何か?という話題から入るものですが、コンサートの三分の一を占める長さです。出入りは自由だし、完璧に閉鎖されているわけではありません。しかし、お昼休みに行なわれるにしても、続きのゴスペルを待っている人はそれだけで約二十分は拘束されます。私は、それは少しおかしくないだろうか?と思いました。教室をコンサート目的として借りているのに、伝導が行なわれているからです。人のふんどしを取って…という川島先生の御意見に同感です。キャンパスコンサートに関してもっと詳しく申し上げたいのですが、先生や筍長に私の正体が分かってしまうので、怖くて言えません。そう申し上げることが一つのメッセージであります。
私は、いたるところで強制的な部分があることについては胸を痛めております。しかし、先生方のキリストへの愛に私は嘘偽りがあるとは思えません。真の信仰心故に行き過ぎた伝道行為になってしまっているのかもしれません。とはいえ、「教会に通わないと何をされるか分らないから通っている」という人がいるほど、怯えながらいる人も事実です。教会の内部のつながりは地区ごとでありますが、洗礼を受けて私の友人は人見知りするタイプですが、筍長には協調的ではないと映ったようで「もっと周りのこと考えなよ」「不信仰だよ」と言われたそうです。
伝道したつもりが、教会に通う人数を重視しているために、かえって主と出会うことを妨げている部分があることに早く気づいて欲しいと願っています。
2005年12月3日
ヨハン教会の本質は、「ナイキの使命がもはや靴を売ることではなく、スポーツが人生を豊かにするという幻想をつくり出すこと」に似ています。ナイキが靴そのものの価値や機能で靴を売っていないのと同じように、ヨハン教会は教義の本質的な意味ではなく、巧みな手法や演出で人数を集めている気が致します。普段私達がどっぷりと浸かった消費社会の手法と極めて似ているからこそ、自然と違和感なく入り込めてしまう人がいるのではないでしょうか?時々牧師先生の喜びは教会の人数が増えるところにあることを感じてしまいます。私はそれが、売り上げを気にする企業と変わりなく見えてしまうのです。
2005年12月4日