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周辺の声

【解説】私の研究室掲示板(http://6514.teacup.com/cult110/bbs)にヨハン教会について投稿された意見の内、メンバーでも脱会者でもない人、あるいはその点が不明な人の投稿で、内容に意味のあると私が判断したものです。

(  )は投稿時のハンドル名、日付は投稿日。

 

■Aさん(あさひ)

私は、現在アメリカのプリンストン大学で留学している者ですが、このサイトについてお聞きして初めて書き込ませていただきます。
最近、こちらでヨハン教会について色々な情報が行き交っているようですね。実は、私も東京で大学生活をしているころにヨハン教会のメンバーに出会ったことがあります。私が通う大学でゴスペルのコンサートがあって、そこでのことです。それまでは、キリスト教や教会というものに対して否定的な印象しかもっていなかった私ですが、そのコンサートを通して非常に良い印象を受けました。下の書き込みの中には、そういう活動が非常に強引で一方的なように書いてありますが、私が受けた印象は違います。何事にも興味がなくただ無意味に大学生活を過ごしていた私は、新鮮な衝撃を受けました。その出会いを通して、私は人生について考えるようになりました。そして、私にとって信仰を見つけるきっかけになったと思います。
私は、こちらで留学しながら日本の教会について考えてみるようになりました。今までの日本でのキリスト教や教会の観点から見ますと、ヨハン教会の伝道方法は異質に見えるかも知れません。しかし、いままでの日本の教会が果たしてどれだけ正しく、どれだけ良いことをしてきたかは非常に大きな疑問であります。だからこそ、私も以前はキリスト教についてよい印象を持っていなかったと思うし、だからこそ、今も日本では教会がほとんど存在感がないと思います。こうやって海外に来てみるともっとはっきりと分かります。それでも、日本の教会は全く危機感がなく、社会に対して何らビジョンを提示していないと思います。特に、アジアの国々に対して行った過ちに対する意図的な忘却が進行している現在、教会は社会の良心的な役割を全く行っていないような気がします。
私が出会ったヨハン教会の方々は、非常に親切で教養があり、何よりも今という時代に対するはっきりとした認識を持っていました。ただ静かに信仰するクリスチャンとは異なり、歴史に対して深く悩み、自分が出来ることを一生懸命に探している印象を受けました。勿論、彼らにも過ちがあるでしょう。過ちがない人なんていないと思います。でも、それは、教会がなすべき本来の役割を全うしようという葛藤と試行錯誤のなかであったものでは無かったかと思えるのです。
ヨハン教会に対して個人的によくない経験を持った方々がこちらで多く書き込みをしているようですが、その方々の経験が個人的なものであるように、私の経験も同じく個人的なものです。しかし、少なくてもヨハン教会の方々を通して人生に対する真面目な態度と神の前に立つ人としての責任感みたいなものを私は少なからず感じ取ることが出来ました。当時は、あまり認識しなかったのですが、こうやって海外に来てみて改めてそう感じています。そういう意味で、私がそれまで出会った日本のクリスチャンとは明らかに異なると思いますが、だからといってそれが誤ったクリスチャンだとは思えなく、こうやって一言書かせていただきました

2005年11月23日

 

ある意味で、キリスト教の信仰は「絶対性」を要求するものだと思います。
結局、最後はキリストを選ぶか、この世を選ぶか、キリストを選ぶか、自分自身を選ぶか、という選択が一人一人のクリスチャンを待っていると思います。
ただ、キリストを選ぶということがこのサイトで示唆するような「カルト」的な排他性を意味することではないと思います。
キリストを選び、全てを捧げた時こそ、この世の、自分自身のあるべき真の姿に出会うと思います。キリストの中で始めて人生の本当の意味が始まるのではないでしょうか?
ヨハン教会で出会った方々は、排他的だったり、極端的だったという印象派受けませんでした。ただ、上の意味でのキリストに対するコミットメントがあったと思います。それは、どの時代にとってもある意味で「異質的」なものに見えるでしょう。キリスト自身がこの世では非常に異質的な存在であったからです。
ヨハン教会で出会った方々のうち大勢は、勿論、非常に熱心に信仰生活をしたり、伝道をしたりしていました。でも、同時に自分が通う職場で誰よりも一生懸命に働き、自分の学校で一生懸命に勉強する姿を見ました。誰も関心を持たない人に興味を持ち、心からかまう姿や、お互いを支えあう姿、本当に正しいことに対して沢山悩みながらも実践しようとする姿は、教会のみならず今の日本の社会で私が見たことがない姿でした。
むしろ、私はヨハン教会に学ぶところが多いと思います。どうも、頭から否定的な考えを持った方もいらっしゃるようですが、もっと本当の見るべきところを見たほうが良いと思います。実際、最近は多数の日本の教会がこの教会に興味を持ち、学ぼうとしていることも知っています

2005年11月29日

 

■匿名さん

時々近所の住人が(教会に)怒鳴り込んできていたという意見ですが、私は一部始終を見ました。確か土曜日の夜八時半位だったと思いますが、突然五十代くらいの男性の方が教会のロビーで怒鳴り込んで来ました。その方のおっしゃっていたのは、毎回毎回夜遅くにドラムの音やピアノでものすごく迷惑しているとの苦情でした。その現場にいたのが、苦情を言いに来られた地域住民の方、警察官、韓国宣教師です。私はその宣教師の発言に唖然としてしまったのです。「明日の準備のためにやっている事で、礼拝のためだからしょうがない」と言いました。そしたら住民の方が「近隣住民がみんな迷惑しているのにも関わらず、これがキリスト教会か!!!!」とお怒りでしたが、宣教師は、日本宣教のためだ、など質問から逃れていたのです。

その話を後日旬長の人に話したら、祈り、近隣住民のトラブルとも戦っていかなければならない、仕方のないことだと言ったのです。自分たちの都合のために近隣住民に迷惑かけることを仕方ないと片付けて良いかなどは常識として分かると思います。

木曜の徹夜祈り会などは、凄まじい声が漏れており、大問題です

2005年12月1日

 

■JOHNさん(淀橋教会会員)

川島先生お久しぶりです。ヨハンの関係者の皆様こんにちは。淀橋教会会員のJOHNと申します。
 一度問題は収束したと思ったのですが、また、問題が表に噴出してきましたね。ヨハンについては、2ちゃんねるなどを見てみると、書き込みが事実なら伝道されて救われたばかりの信徒の方々が十分に養われないうちに伝道したり、養う側に回されたりとあまり大切にされていないようですね。
 また、急激に大きくなった教会はどこでもありがちなのですが、権威が神ではなくしばしば目に見える教会のリーダーに集中しがちです。今でもこのことに気づかずに失敗してしまったアメリカや韓国の教会・牧師たちは大勢います。日本では、春に事件になった京都の牧師がその典型といっていでしょう。
 ここまで、漏れ出てくるようだと先生が記されているように『(ヨハン)教会で行われている「弟子化訓練」「段階別聖書勉強」「個人伝道」なるものが、具体的にどのようなシステムであるのかは、オープンにしておく』ということは、伝道活動が展開されている大学側にとっても、ヨハン教会にとっても日本の教界にとっても意味のあることだと思います。
 理由として、
@大学・大学生にとっては、ヨハン教会の内容・システム・同世代のクリスチャンの大学生(恵まれている人・卒業と称して他教会へ移った人・クリスチャンを辞めた人など)を知ることができる。また、危険な団体でないとはっきりわかれば、他の危険なカルトやドラックにはまる前に自分にとっての安全な居場所を一つ確保できる。(逆ならば、その対策をとることができる)
Aヨハン教会にとっては、教会を紹介してもらえる。ただ、この場合、ヨハン教会に迷惑をかけられたとする側からのケースが多くなると考えられる。しかし、ヨハン側がこの批判に十分耳を傾けてさらなる質の向上を目指すならば、真の意味でヨハンから日本のリバイバルはおきてくると思われる。
B日本の教界にとっては、教会がどの方向で行ったらいいか見極める貴重な資料になる。
日本の教会は戦後の一時期を除いて、ジリ貧傾向にある中で、バンバン伝道して信徒数を伸ばしているヨハンは、将来日本の教会史に記されることでしょう。私はいい意味で記されることを願ってます。しかし、なりふりかまわず伝道する姿勢に対して多くの教会はおそらく批判的だと思います。一方で、教勢の減少や高齢化で頭を悩ませている教会にとっては伝道についての多くのヒントになることをヨハンから知ることができるかもしれません。実際、ヨハンの卒業と称する人たちの多くはおそらく、ヨハンは辞めるけど、クリスチャンは辞めていないと思います。ヨハンは生みっぱなしで育てていないという問題がありますが、日本の多くの教会がヨハンとは逆の課題を抱えていると思われます。

2005年10月25日

 

ヨハン教会に関しては、直接、教会を離れた方々を知っているわけではないのでよくわかりませんが私の印象では、いわゆるカルトの後遺症で悩まされている人は多くはないのではないかと思われます。むしろ、伝道する側のエチケットやコミュニケーション不足が大学関係者の不安をあおっているのではないかと思われます。
 インターネットが普及して、勧誘もそれを通しての巧妙なものが多くなった現在、今でもあからさまに愚直にキャンパスで伝道や勧誘をしているのはヨハン教会ぐらいではないでしょうか。
 古くはウエスレーや再臨運動を展開した時期の内村鑑三や中田重治、戦前のクリスチャンの多くも今のヨハン教会的な要素は持っていたと思います。そして、戦前のリバイバルは確かに起こりました。それらに共通して言えることは「命がけの伝道」ということではないでしょうか。
 ですから、それらに関する考察なしにヨハンを「カルト」の文脈で位置づけてしまうことがないようと願っています

2005年10月31日