ヨハン教会の問題点
川島堅二
2009年9月4日記
凡例:
( )の数字は、金圭東『主は荒れ野で働かれる』(ヨハン出版社2005年)の頁数
太字下線は筆者(川島)による強調のための付加
この報告書は、ヨハン早稲田キリスト教会(以下、ヨハン教会)の問題点を、この教会の主任牧師である金圭東の著書『主は荒れ野で働かれる』によって裏付けようとするものである。これによって、これまで主に脱会者など、この教会を離脱した人によって指摘されてきたこの教会の問題点が、根拠のない一方的な誹謗中傷でないことが分かるであろう。
ヨハン教会の主任牧師金圭東氏は、1985年に来日、日本における正規の牧師の資格を取得するべく3年制の東京基督神学校(千葉県印西市)に入学する。同校修了後の1988年にウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会に韓国部を設立、ここを拠点に日本における本格的な宣教活動を始める。しかしながら、宣教師としての彼の基礎を作ったのは東京基督神学校の教育ではなく、彼が韓国の忠南大学化学工学科在学中に接触した韓国大学生宣教会(Campus Crusade for Christ 以下CCC)である。著書によれば彼は親の反対を押し切ってでも大学卒業後、CCCの幹事(有給スタッフ)になることを望むが、その道は開かれず、一般企業に就職する。しかし、CCCで受けた影響は彼の生涯を決定付けた。「私はCCCで素晴らしい師匠に出会い、リーダーシップが育てられ、大胆な伝道と徹底的な弟子訓練、そして民族福音化と世界宣教に対するビジョンを抱くようになった。[…]今でもCCCに対する感謝の気持ちを忘れはしない」(97)と記されている。現在の彼の宣教論、教会形成論のルーツはここにある。以下に述べられるこの教会の問題点の多くが、この宣教論、教会形成論、とりわけ「弟子訓練」の実践の必然的な結果である。
今日、社会問題化している宗教団体、統一協会、摂理、親鸞会などに共通の問題点、すなわち、特定の宗教団体への勧誘であることを隠した勧誘による自己決定権の侵害という問題がヨハン教会にも認められる。このことは金氏の以下の言葉によって裏付けられる。
「キャンパスで積極的に活動するため、学校公認の正式なサークルを持たなければならない。[…]しかし、学校は聖書的な内容や宗教的な臭いがする団体にはサークルの登録の許可を出してくれなかった。そこで知恵を絞って名称を考え出したのが『ヘブライ文化研究会』だった。内実はクリスチャン・サークルだったが、名称だけを見ると既存の『中東問題研究会』に似ていたので正式なサークルとして許可がおりた。しかし、徐々にクリスチャン・サークルとして知られると学校側から抗議を受けることもあり、翌年には他の名前で登録するなど苦労もあった。私たちは『韓日留学生交流会』、『聖書と文学』など、一年ごとに名前を変えて登録したりした。[…]私たちは現在東京圏で50個余りの大学にサークルを設けている」(150-151)
「今、私たちの教会では約40箇所程度の大学にサークルの登録を済ませて合法的に活動している」(287)
このように述べて金氏はキャンパスでの活動の合法性を強調するが、そのサークルがヨハン教会への勧誘を主な目的としていることを隠している限り合法とは言い難い。
こうしたダミーサークルを用いた活動は、金氏によって「私たちのキャンパスの教職者たちはキャンパスを5箇所以上担当している。」(266)「担当のキャンパスに(教職者が)出勤したら」(267)と書かれているように、ヨハン教会の教職者の正規の仕事として位置づけられている。彼らは毎週仕事として「ヘブライ文化研究会」「韓日留学生交流会」「聖書と文学」等々の名で大学キャンパスにて活動しているサークルに外部指導者としてでかけ、ヨハン教会への勧誘を行うのである。
また、こうしたサークルを拠点として年に2回大々的なコンサートが催される。それも表向きはコンサート活動だが、金氏も著作で明言しているとおり「福音伝道が目的であり、音楽会が目的ではない」(251)。しかし、そうした本来の目的は勧誘段階では隠されている。学生たちは、純粋にゴスペルを楽しめるコンサートだと思って来場する。このことは、以下の金牧師の言葉からも裏付けられる。
「私たちは毎年春と晩秋の二週間ずつ各キャンパスを回りながらコンサートを開く。春にはゴスペル・コンサートを、晩秋にはクリスマス・コンサートを開く。[…]単に歌ったり踊ったりするコンサートだと思いながら来た学生たちは讃美を聴くうちに心に変化が起こり、短いメッセージを通してイエス様が誰なのかと関心を持つようになる」(152)
「いつまでも音楽ばかりで彼らの調子に合わせてあげるわけではない。ある程度音楽で会場が盛り上がると、私は彼らの前に進み、福音の核心的な部分に関して短く話しをする」(153)
以上のような本来の目的を隠した勧誘行為に対し、ヨハン教会の信徒からも憂慮する投稿が複数寄せられている。
「教会は勧誘を隠して表向きゴスペルコンサートとして多くの人を誘っていました。プロのゴスペルシンガーによるコンサートを聞きに来ただけにも関わらず、そこでは約一時間にも及ぶ「メッセージ」と称した説教が組み込まれています。それを全く知らされずにコンサートに訪れた人が不愉快に思っていることに常々胸を痛めておりました」
「キャンパスのコンサートにおいても、ゴスペルの合間に説教の時間が設けられています。それはゴスペルとは何か?という話題から入るものですが、コンサートの三分の一を占める長さです。出入りは自由だし、完璧に閉鎖されているわけではありません。しかし、お昼休みに行なわれるにしても、続きのゴスペルを待っている人はそれだけで約二十分は拘束されます。私は、それは少しおかしくないだろうか?と思いました。教室をコンサート目的として借りているのに、伝道が行なわれているからです。[…]キャンパスコンサートに関してもっと詳しく申し上げたいのですが、先生や筍長に私の正体が分かってしまうので、怖くて言えません。そう申し上げることが一つのメッセージであります」
以上のような、特定の宗教団体への勧誘という本来の目的を隠した活動は、被勧誘者の自己決定権の侵害という違法性の高いものであることは明らかである。
こうしたダミーサークルを用いた活動に加え、学外者であるヨハン教会のメンバーの無断入構、教室の無断使用という事例も複数の大学の学生部等から報告されている。また、正規の手続きを踏んだ場合でも、申し込んだ来訪者数よりもはるかに多い人数の部外者が来訪したりという問題も過去にはあった。そのような問題が発生するたびに、幾度かヨハン教会に赴き、教職者に注意を促してきたので、現在では多少の改善がされていることを願っているが、以下のような巧妙な手口も報告されている。
「私は都内の大学生で、教会でのゴスペルコンサートに勧誘するためのキャンパスコンサートを手伝ったことがあります。なぜ大学関係者ではない教会のメンバーがコンサートを行えるのかというと、メンバーが学生の場合もありますが、いわゆる信徒とはまだ呼べないような人とのつながりを利用するのです。教室を借りるために、一度教会のゴスペルコンサートに来たことがあるというような人の、学生番号や名を借りるのです。驚くことに『それさえ貸してくれれば何も手伝ってくれなくてもいい』と、言っているのを耳にしました」。
メンバー特にリーダー(筍長)による執拗な勧誘は、金氏も次のように書いて認めているところである。「筍長たちはひっきりなしに訪ねたり、頻繁に電話したりして、しぶとい教会の人たちだと噂される」(203)
私のところにも、これまで次のような経験が報告されている。
「教会に来ないと電話やメールでしつこく誘われます。日曜日はさまざまな筍長や幹事からかかってきます。近くに住む人は直接家まで筍長がやってきたりするそうです。『支度するまで待っている』というのは一見献身的なようですが、人には個々の生活があり、これでは強制的に教会へ通わせているようなものです。これが真の伝導と言えるでしょうか?」
「私は、いたるところで強制的な部分があることについては胸を痛めております。しかし、先生方のキリストへの愛に私は嘘偽りがあるとは思えません。真の信仰心故に行き過ぎた伝道行為になってしまっているのかもしれません。とはいえ、『教会に通わないと何をされるか分らないから通っている』という人がいるほど、怯えながらいる人も事実です」
以上のような執拗・強引な勧誘の主体である「筍長」とはどのような人たちなのだろうか。金氏の著作から少し引用してみよう。
「我々の教会での執事と筍長は、信仰者としての原則を殆ど守る人だけが持ち得る職名である」(191)
「私たちの教会の自慢と言えば、小グループ(筍)のリーダーである筍長たちの献身だ」
「所定の弟子訓練と伝道者訓練を受け、信仰者として均衡のある社会性と情緒、人格などを総合的に判断して任命する」(157)
「私たちは各担当教職者に筍長を推薦するように推薦権を与える。一年に一回年初だけ推薦をもらう。私は推薦があると信用して筍長を任命する」(346)
「筍長の評価課程はすべての訓練を終わらせるべきだが、教会で受ける訓練だけではない。総合的な評価、人間性、社会性、人間関係を評価する。魂をケアすることはまじめな人を選ぶ」(347)
「一人の筍長には5〜6名、少ない場合でお3〜4名の筍員がいる。筍長は1週間1回筍の集まりを導き、聖書や正しい信仰生活に関して教える。そして個人的なことにも積極的に関わる。アルバイト先は見つけたか、健康は良好なのか、誘惑に陥り、さ迷っていないか、進学準備は大丈夫かにまで気を配る」(157)
「筍長は両親のように、お兄さんやお姉さんのように、善き牧者のように筍員をケアする」(157)「まさに小さい聖職者のように筍員をケアする」(158)
「彼ら(筍長)は、アパートの扉を固く閉めて顔さえ見せない新来者の家を絶えず訪ねて扉を叩く、扉を開けてくれないと、彼らのために扉の引手にりんごやラーメンなどが入ったビニール袋を掛けておき、愛の手紙を加える」(159)
では、どのようにしてこのような従順で献身的な筍長が養成されるのだろうか。「筍長をどうやって育てるか、これが弟子訓練の勝敗を左右する」(347)と言われるように、筍長養成こそ「弟子訓練」の眼目である。「(弟子訓練の)結果として筍長が育てられた。私たちの教会の筍長は小牧師のような役割をままならぬ環境の中で最善を尽くして筍員を導く。彼らは訓練の大切さを知っているからである」(183)
筍長訓練のプログラムにおいて金氏がくり返し強調するのが「心の芯が変わる」「軍隊式訓練」であり、それは時に体罰とも解釈され得る行為を伴うもの、「他の教会では想像もできないほどのきつい課程」(183)」であると言われる。
先ず強調されているのが「叱る」という行為である。
「私に叱られたことがある信徒達はその分、教会で中心的に用いられたということになる。だから、度々叱られる信徒達は自分が教会で用いられる人になっていくのだと思って耐えている」(188)
また金氏は「弟子訓練」を好んで軍隊のそれにたとえる。ヨハン教会の訓練課程に対し「軍隊の訓練所」という批判を受けた時、「我々の状況をあまりにも適切に表していて驚いた」とさえ言う。(190)
「リーダー・グループは兵士のように強く育てるべきだ。命令を受けた兵士はそれを遂行するかどうか自分で考えるか? その命令の根拠を問うか? いや、違う。その命令をなぜ遂行しなければならないかという理由を聞き直さずただ服従する。羊のリーダーもそのようになるべきである」(233)
「私はカリスマという言葉を好む。カリスマにはプレゼント、恵みという意味もあり、独裁という意味を含んでいる。ある意味で、牧羊には恵みと独裁との両面性があるのではないかと思う」(233)
このように金牧師が理想とする教会運営は「軍隊のように訓練した少数のリーダー・グループが残りの90%の羊の群れを導いて行く」姿である(234)。
「教会には軍隊のような規則があるべきだ。特に90%を導く10%のリーダー・グループは軍隊のような規律で厳しく育てるべきだ。そうしないと教会全体が正しく立たない。サタンを先制攻撃できる強い力を育てなければならない」(237)
「私のことを『軍隊式の弟子訓練家』だという人たちがいる。人は心の中が揺さぶられるまで本当には変わらないので、叱り、戒め、厳しく若者たちを育てる、そういう教育スタイルを『軍隊式』というならば私は『そのとおりだ』と言いたい」
このように「軍隊式」の「弟子訓練」は、「心を変える」のが目的だといわれる。このことはニュアンスを変えてくり返し著書の中で強調されている。
「(私の人生は)厳しい戒めを受けて、驚くほどに変わる純粋な若者を対象とした牧会人生」である(223)。
「弟子訓練で上の段階に上がることが信仰のすべてではない。心の芯が変わってイエス・キリストの真の弟子とならないといけない」(238)
「『心の芯が変わる弟子訓練』を通して人生観、世界観が健全に、聖書的に変わった大学生達は素晴らしい宣教の資源となる。(彼らは)キャンパスに飛び込み日本人達を伝道して日本の主要拠点都市である大阪、福岡、名古屋、仙台等々にヨハン教会が立てられている」(241)
「私は1ヶ月という短時間でリーダーを養成できると信じている人物だ。信仰のリーダーになるということの正しい意味を確かに認知させ、容易に接近し、理解できるマニュアル化した訓練があるなら1ヶ月も経たない内に人が完全に変わる」(253)
このような心の変化の実態は「『心を改める』ためには指摘されることを好まざるともついて行きながら教育されることである」(255)といわれているように、自分の好みや願いを殺して教職者の言葉に従順になることである。
このような「心を変える」訓練は段階的テキストにしたがって以下のように行われている。
「私たちはこの段階を6週間で終了させ、第7週目には個人伝道、1対1の養育、小グループの指導などのテストを実際に行うようにした」(250〜251)
「私たちの教会は強い軍隊を作るような弟子訓練で知られている。一段階上がるためには出席率は80%以上、テストの点数は80点以上でなければならない。若い学生たちは本当に一生懸命各段階を早めに通過しようと頑張る」(238)
「試験を受けたが、点数が足りない場合は再試験を受ける機会が与えられる。出席も80%に満たない場合には希望者に限って補習を実施する」(290)
以上のような「弟子訓練」の課程においていわゆる「飴と鞭」が効果的に使用されている。先ず「飴」の要素として金氏の著作には次のような記述が認められる。
「講壇を通して中間リーダーたちの大事さや苦労をたくさん話したり、誉めたりする。年末になったら、盛大なパーティを開いて励ます。伝道王と模範筍長を選んで賞を授与する。各地区から推薦された人々の中で模範になっている筍長たちを誉めたりする」(333)。
他方、「鞭」の要素については、先述した「叱る」という行為の具体例として以下のような記述がある。
「私たちの教会で用いられる兄弟、姉妹たちは、叱られるとき、頭を下げることができる。ときにはリーダーが遅刻した場合、壁に向かって手を挙げて立っているように言っても、その通りにする。教会の全体の雰囲気が叱られることに対して心を開いている」(318)
遅刻した罰として「壁に向かって手を挙げて立たせる」、これは体罰ではないだろうか。体罰とは一般に親や教師が、子どもや生徒など自分の管理責任の下にあると考えられる相手に対し、教育的な名目を持って「身体に直接に苦痛を与える罰」をいう(広辞苑)。そして、実際にこのような行為があったことは、それを直接経験した元メンバーからも確認している。
このような訓練を経た筍長たちは、金氏が著書に「美談」として記している以下のような常軌を逸した行為も平気で行うようになる。
「扉を開けようとしたが訪ねて来た人が筍長だということに気付いた筍員が急いで扉を閉めようとすると、筍長はドアの隙間に素早く足を入れて確保したその僅かな隙間から話をする」(159)
「ある筍長は扉を開けてくれない筍員に話をするために周辺の電信柱に登り、窓を叩いた」(160)。
このような行為は、厳密には不法侵入に問われかねない違法行為であろう。金牧師は「弟子訓練はスパイを教育させるくらいの覚悟をもっていなければならないと思っている」(330)と言うが、上記の筍長の行為はそのような金牧師の覚悟の影響と言えるのではないだろうか。そして金氏によればこのような「弟子訓練は牧会の方法の中で選択肢の一つではない。弟子訓練こそが牧会の本質であり核心である」(303)
このようなヨハン教会の本質が事前に知らされていたら、一体どれだけの大学生がこの教会に足を運ぶだろうか。正体を隠した勧誘による自己決定権の侵害はここでも明らかであろう。
この教会では、信徒たちが日曜日以外の平日も相当な時間を教会で過ごすことは、金氏の著作からも認められる。
「私たちの教会は今でも役員と青年たちが順番を決めて毎晩11時から翌朝6時まで教会を守っている。毎日仕事やアルバイトで疲れきっているにもかかわらず、自分の順番が回ってくると黙って教会に来て夜を過ごす彼らの従順さが私に感動を与えた」(131)
「弟子訓練をするため、信徒たちは平日も休日もいつも教会に集まっている」(282)
これだけを読むと信徒たちは自発的に集まっているように見えるが、教会の活動にコミットすればするほど有形無形様々な賞与が用意され、逆に、教会での奉仕に消極的な言動に対しては「恵み泥棒」などの非難、さらには先述したような体罰や厳しい叱責と言う形でコントロールされていることを考慮しなければならない。
また、仕事よりも教会活動を優先するようにという指導もなされている。
ある所帯持ちの留学生が、生活のためのアルバイトで木曜聖書勉強に参加できないと言うと、筍長(リーダー)は「ではその店を辞めて下さい。それから集会に出て下さい。絶対神様が助けてくれるはずです」と集会優先を強要。その留学生が、悩んだ末に筍長の命令に従ったところ、勤め先の給与が上がって生活が成り立ったという話が美談として紹介されている(213〜215)。しかし、このような幸運な一人の背後には、教会活動を生活よりも優先した結果、心身の健康を害し、留年や退学、転職や退職に追い込まれてしまった人も複数いるのである。
大阪のあるクリスチャン事業家とヨハン教会のメンバーである韓国人留学生の間になされた次のような会話が紹介されている。(113-114)
「あなたたちは留学生ですか」
「はい」
「学費のためとはいえ、大変ですね。どこから来たのですか?」
「私たちは東京から来ましたが、学費のためにやっているわけではないんですよ。教会建築献金のために働いているんですよ」
また、ヨハン教会の役員たちについて「日本の職場で働いていた役員たちは、全財産を率先して捧げた。彼らから『信徒たちにも教会建築に参加するよう説得しましょう』との意見が出たが、どうにも言い出せなかった。[…]けれども、信徒たちは自ら賛同した。[…]建築献金を捧げるためにアルバイトをもう一つ増やした兄弟たちもいた」(115)と金氏は述べて、信徒による献金の自発性を強調する。しかし、問題は、洗礼を受けて正規メンバーとなった大学生に要求される献金額である。洗礼式の直前におこわなれる面談で収入の1割を献金するよう約束させられる。これがアルバイト収入の1割、2000円程度を毎月献金するというのなら許容範囲であろう。しかし、私がこれまでに聞き取りをした限りでは、教会に定着した学生信徒の毎月の献金額はおよそ2〜3万円、つまり親からの仕送りを含めた全収入の1割を献金するように指導されている。これは学食と自炊でつつましく暮らす学生の食費1ヶ月分に相当する額である。このような経済的負担が要求される団体であることは、最初の接触の段階で明らかにされるべきであろう。しかし、実際にはゴスペルや韓国料理が無料で楽しめる催し、サークル活動といった程度の認識で多くの大学生が誘い込まれるのである。さらに献金の収支報告(会計報告)は筍員に対して一切なされていないことも大きな問題である。
「冨のあるところにあなたがたの心もある」(マタイ福音書6・21)とキリストは言ったが、このような高額の献金は信徒の教会への帰属意識をいよいよ高めることになる。純粋な学生信徒は、意識的にしているのではないにせよ、教会で奉仕していれば食事も教会で提供されるので、食費を浮かす理由からも教会で過ごす時間がいよいよ長くなる。
2000年7月に現在の北新宿の建物を購入する以前、賃貸していた場所を出ざるを得なくなった理由について、金牧師は次のように書いている。「ここの生活も長くは続かなかった。月曜を除く毎日、数百名が集まって礼拝を捧げることによって起きる騒音が原因だった。夜ごと催される徹夜祈祷会の際のオープン祈祷と高らかに鳴り響く賛美の音楽に対して、住民が抗議の声を上げたのだった。とうとう建物主のもとに「教会を撤去させろ!」との抗議文が届き、やむなく、私たちに退去命令を下した」(106)。当時の金氏の切なる祈りは「神様の御前で思い切り叫びながら祈っても文句をいわれない、我々の教会を備えてください」(106)だったという。
現在の建物を購入し、晴れて入堂礼拝をささげることができた時、金氏は次のように述べたという。「お祈りの声が大きくなるのを心配して、互いに自粛し合いながら苦労した皆さん、今日からはここで思い切り賛美し、祈ってください」。「これからはいくら叫んでも、文句を言われることはない。ニンニクやキムチの臭いを漂わせても気にすることはない。夜遅くまで賛美しても嫌がる者は一人もいない」(117)。
しかしながら、JR総武線の東中野駅から徒歩数分の閑静な住宅街にあるこの建物で、以上のような姿勢で教会運営がなされた時、近隣住民からの苦情が止むことはなかった。以下のような投稿が、私のHPの掲示板になされている。
「私がいたとき、時々近所の住人が怒鳴り込んできていました。自転車駐輪や夜間の騒音(平日の活動には行ったことがないので知りませんが、土曜日の徹夜集会では午前0時をまわってもマイクで大声でお祈りしていますし、日曜日は一日中ですから私が近所の住人だとしたら我慢できません。)についてのクレームだと思います」
「確か土曜日の夜八時半位だったと思いますが、突然五十代くらいの男性の方が教会のロビーに怒鳴り込んで来ました。その方のおっしゃっていたのは、毎回毎回夜遅くにドラムの音やピアノでものすごく迷惑しているとの苦情でした。その現場にいたのが、苦情を言いに来られた地域住民の方、警察官、韓国宣教師です。私はその宣教師の発言に唖然としてしまったのです。『明日の準備のためにやっている事で、礼拝のためだからしょうがない』と言いました。そしたら住民の方が『近隣住民がみんな迷惑しているにもかかわらず、これがキリスト教会か』とお怒りでしたが、宣教師は『日本宣教のためだ』などと質問から逃れていたのです。その話を後日旬長の人に話したら『近隣住民のトラブルとも戦っていかなければならない、仕方のないことだ』と言ったのです。自分たちの都合のために近隣住民に迷惑かけることを仕方ないと片付けて良いかなどは常識として分かると思います。木曜の徹夜祈り会などは、凄まじい声が漏れており、大問題です」。
統一協会や摂理ほど露骨ではないが、ヨハン教会においても巧みな性の管理が行われている。結婚前の男女の同棲は止めるように指導される。そのような誘惑を避けるためにも信徒同士の共同生活(サランパン)が奨励される(283)。入信前に彼氏彼女がいることが分かると別れるようソフトに指導される。「先ず信仰が大事」「教会に連れてきなさい」と言われる。教会に誘ったからといって仲良くアベックで礼拝できるわけではない。礼拝は男女別れて座るように配慮されている。さらにヨハン教会では学生信徒同士の恋愛は原則禁止である。「長い時間、悩んだ後、同じ教会で信仰を共にする男女が結婚する場合の大きい原則を定めた。『学生同士は恋愛をしないように。まだ勉学の基礎を固める時期であるので、禁止する』」(321〜322)とある。男女交際禁止の原則を定めることが問題なのではない。大学の運動部などでは、部員同士の交際を禁じているところもある。しかし、そのような部活動では、入部の時点でそうした条件がはっきりと伝えられる。学生はそれを承知の上で入部するのである。しかし、ヨハンはそうではない。こうした重大な原則は、キャンパスで最初に勧誘する時点で公にすべきであるが、そうした情報の提示は一切なされていないのである。
少なくともこれまでに2件、教職者等からセクシャルハラスメントを受けたという訴えを、1件は被害者から直接、もう1件は被害者からの又聞きという形で受けている。これについては現在、当事者に確認中なので、あくまで疑惑として述べるにとどめる。また、たとえ確認されたとしても密室で行われたことで物的証拠はないので立件は困難である。
韓国人教職者に与えられる休養として金氏は次のように述べている。
「(教職者を)少なくとも1ヶ月に一度以上は完全に解放させてやろうと思っている。春になると景色のいい温泉に行って教職者のリトリートを開いている。[…]昼飯の時間にスタッフ会議を持っている以外は完全に自由時間である。[…]お風呂、睡眠、ビデオ、ドラマ、ドライブ、将棋、囲碁など思いっきりやらせる。日本の温泉地にはマッサージコースが当たり前だといえるほど備えてあるが、お金のことは考えずに受けるようにしている。食事もメニューを決めてあげるのではなく自分が食べたいものを食べさせる。[…]わざと東京圏の中でも一番よさそうな食堂に連れて行ったりしている。『あなたたち、教職者は誰でもがなれるのではない。引け目を感じてはいけない』という象徴的なイベントである」(269)
教職者にこのような休みを与えることを、私は批判しようとは思わない。むしろ日本で10年間牧師を経験した者として、うらやましくもあり、また、日本基督教団も一年に一度くらいはこれくらいの休養を教職に与える予算を組んで欲しいと思う。しかし、同時にヨハン教会において韓国人教職者と同じか、時にはそれ以上に教会のために働いている日本人筍長たちの境遇を思わないではいられない。「彼ら(筍長たち)は平信徒ではあるが献身者並の働きを担う人々である。[…]毎日1回は教会に寄り、自分の家のように手入れをしたり、筍員の世話をしたり、早天(早朝)祈り会にまで参加する」(189)と金氏も認めている。韓国人教職者たちは、高給ではないにせよ生活の糧を教会から得、さらに上記のような休養が与えられる。しかし、日本人筍長たちは、そのような教職者の手足となって教会のために従順に働き、自分の生活は教会の活動とは別に働いて自活し、その収入の1割以上を教会に献金して教会を支えている。心身ともにすり減らしながら果てしない奉仕の生活に献身しているのである。
金牧師は、著書の中でキリスト教の「義」とは無縁の独自な「義」の概念について語っている。
「日本は和の民族である。これに対して韓国は義の民族である。和の民族は、和解が大事であるという意味のように思われるが、実は現実の利益が大事なのである。日本人がいう和は現実の利益の前ではいくらでも和解できるという意味である。しかしながら、義の民族はそのようにはならない。真理なのかそうではないか。正しいか正しくないか、これは生命である。利益は関係ない。[…]日本人は喧嘩をしないように見えるが心の中が病気にかかっている。歴史的に見る時、神様は義の民族を使うのである」(259〜260)
ここから読み取れるのは韓国人である金牧師が、日本人の学生たちを「訓練」する根底にある心理、すなわち神に用いられる「義の民族」である自分が、「利」に溺れ心が「病気にかかっている」日本人を救うという使命感である。
しかしながら、キリスト教神学において「義」とは、新約聖書の『ローマの信徒への手紙』や『ガラテヤの信徒への手紙』の主題である「信仰義認」の文脈で用いられる中心概念であり、「救い」や「神の愛」との関係概念である。それに対して、ここで金氏が用いている「義」は「和」の対立概念で、しかも、この「和」の内実は「利益」のためには真理を曲げても妥協することだとされる。したがって、その対立概念として「義」は、目先の利益に妥協しない姿勢というきわめて通俗的な意味しか持っていない。「義」というキリスト教神学の中心的概念をこのような通俗的意味に転用する、これはキリスト教の真理を伝えることが本来の仕事である牧師・宣教師の口にするべきことではない。
ヨハン教会は、統一協会や摂理、オウム真理教のような意味での破壊的カルト集団ではない。個々の教職者や筍長・筍員の逸脱行為や、騒音などによる地域住民への迷惑行為以外、少なくとも私の知る限り深刻な組織的犯罪は認められない。しかし、反社会的なカルト集団に共通する問題点、すなわちこの報告書においてもくり返し指摘してきた「自己決定権の侵害」という問題を持っている。最初の勧誘時には、この教会に関する基本的な情報が意図的に隠蔽されているからである。ヨハン教会の教職者にすれば、「初めから宗教団体であることを明かしたら大学生は来てくれない」ということだろう。しかし、本文で詳細に述べたように、金圭東の教会形成、牧会の中心は軍隊式訓練にもなぞらえられる非常にハードな弟子訓練及び「小さな聖職者」としての筍長の養成である。この教会に勧誘された大学生は、最初の接触時に氏名や携帯番号などの個人情報を与えた瞬間から、この訓練の候補生、筍長候補生として位置づけられ、アプローチされるのである。しかし、勧誘された大学生がこのことを知るのはずっと後、受洗準備クラスを終え、洗礼を受け、この教会の正規メンバーになってからである。この段階になると、それまでに信仰告白や洗礼前の面談での誓約など、様々なイニシエーションを受けてしまっており、心理的に後戻りできなくなってしまっている。こうして、多少の不安を抱えながらも弟子訓練のプログラムに突入し、筍長への道を歩むことになる。このようなやり方はフェアでない。
ヨハン教会の日本人部を統括し、金圭東牧師の娘婿でもある柳廷勲宣教師は東京神学大学の後輩である。また金夫人はじめその他の教職者や執事の方々ともこれまでヨハン教会を訪れた折にお話をする機会があったが、個人的には皆、好感の持てる方々ばかりであった。したがって、ヨハン教会には社会問題化するような団体になって欲しくない。カルトまがいの情報操作の手法などは用いずに、「私は福音を恥としない」と喝破した伝道者パウロの模範に倣って正面から福音のみで勝負する宣教のあり方に立ち帰っていただきたいと切に願っている。
All rights reserved by Kenji Kawashima.