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KGA II/10,1 VIIff. Zusammenfassung und Erweiterung von Kenji Kawashima.

(アルントのテキストをもとに、自由に要約・加筆等をしています。出典は注に明記)

最終更新日 2003831

 

 

 

シュライアマハーの弁証法講義について

 

■前史

 

(1)「弁証法」の構想

 18101229日、シュライアマハーは友人ガースに宛てて次のように書いている。「私は既に倫理学を頼まれていました。しかし、フィヒテが唯一人の哲学教授である限り、哲学の講義をしないと誓っていました。しかし、この状況は復活祭までには変化するようです。そうなれば私は、初めて、私の哲学講義の序論として、弁証法を試みる気になっています。それは長らく私の念頭にあったものです。しかしまだ確定したわけではありません」。事実、シュライアマハーの哲学講義は、この時まで、倫理学や哲学史、国家論、解釈学といった特殊科目に向けられており、弁証法という意味での一般哲学を対象にはしてこなかった。その理由が、新設のベルリン大学で、フィヒテと競合することになるという事情である。実際、フィヒテとシュライアマハーの間には早くから相互に対抗意識があったようである。すなわち、彼は既に1801328日にF.H.C.シュヴァルツ宛てに次のように書いている。「観念論の内部で[]私と彼(フィヒテ)ほど、強く対立している者はいない。私たちは双方ともそれを意識している」[1]。ただ外部的には、共通性のほうが遥かに目立っていたようで、シュライアマハーは「フィヒテの弟子たちも、私のものを彼のものだと見なしている」[2]と苦言を呈してもいる。。

フィヒテ哲学の一面性の釣り合いを取るために、シュライアマハーは1810年初頭、彼の友人で、かつてハレ大学の同僚であったヘンリッヒ・シュテフェンスを、哲学教授として招聘しようと試みる。彼とシュライアマハーは既にハレで、学術上親しい関係を結んでいた。シュライアマハーは、シュテフェンスのためのこの努力の理由を「倫理学の講義」を持ってもらうためであると述べている。「一般哲学」としての弁証法によるシュライアマハーの登場は、友人シュテフェンス招聘の見通しが挫折した結果である。シュライアマハーは、哲学の教授活動を断念していなかったのである。このようなわけで、弁証法は、とりわけフィヒテの知識学との批判的対決と見なされねばならない。

しかし、弁証法は、単にベルリン大学の創設期の特殊事情からだけ説明することはできない。むしろ、弁証法は、シュライアマハー自身が述べているように、「既に久しく念頭にあった」のである[3]

シュライアマハーが久しく念頭においてきたもの、目指していたものは、既に1803年の『綱要』から読み取ることができる。すなわち、彼にとって重要だったのは、「あらゆる学問の連関と根拠についての学問」であり、これは「個々の諸学問のように、再び最上位の原則に基礎付けられる」必要のないものである。ここでは明らかにフィヒテの知識学への対抗が問題となっている。それは「絶対で、端的に無制約な原則」[4]を頂点に据えるものであったが、これに対してシュライアマハーは、自分の要求する学問を「一つの全体として」考え、その構想を次のように述べる。「そこでは、どの部分も端緒になり得る。個々すべてが、互いに規定し合いながら全体に依拠している。[]そして、そういう学問は、受け入れられるか捨てられるかであって、基礎付けられたり証明されたりすることはできない。そのような最高の普遍的な認識は、知識学と呼ばれるのが正当である。その名称は、哲学という名称よりも、争う余地なく遥かに優先されるべきであり、その発見は、おそらく、この名称の下に最初に立てられる体系よりも大きな功績と見なされるべきだろう」[5]

倫理学の学問的な基礎付けを何よりも成し遂げることができるような、最上位の学問の輪郭については、『綱要』はこれ以上詳しい情報を提供していない。それは、従来の倫理学体系に対する批判に限定され、学問としての倫理学の積極的な叙述自体を提供しないからである。しかしながら批判自体の根本的立場や方法は『綱要』において、後の弁証法に結び付けられている。すなわち『綱要』の前書きの中で次のように言われている。「おそらく、現在の諸学問の状況、及び今なお続く第一原理をめぐる論争においては、この種の批判は、認識の他の領域のためにも、有用であることが示されるだろう。それは、争点となっている領域の外部にある点から、それを評価するためである。少なくとも、個別をめぐる論争では容易に忘れられがちなこと、すなわち、認識と技法が相互浸透し合う学問的形式に、哲学の名に値するものすべてが導かれねばならないということが、不十分ながらも思い起こされるだろう」[6]。ここで言われている「認識と技法が相互浸透し合う学問的形式」こそ、弁証法の構想に他ならない。

また『綱要』の結びにある次の一文も、このときのシュライアマハーが抱いていた「最上位の学問」の構想を明らかにする。すなわち「今まで示されてきたような無敵の動的な観念論は、最高の認識のイデーに由来するという、その素性を証明すること−それは栄誉を受けるためには必要なのだが−は困難だということである。同じものについての二つの叙述、それらは同様に一つの重要で考慮を要する争いに巻き込まれているのだが、そうした二つの叙述の一方〔フィヒテ哲学〕は、倫理学を樹立するのだが、自然学の可能性は、ある場合には強情から、ある場合には意気消沈から否定する。また、もう一方の叙述〔シェリング哲学〕は、それに対して、自然学を立てはするが、倫理学には、学問の全領域において余地を認めない」[7]。したがって、要求された「最高の学」は、自然学と倫理学の両方の基礎付けを成し遂げることが何よりもできねばならない。

このように、この時点(1803年)で、すでにシュライアマハーの念頭に後の弁証法の構想があったことは確かである。しかし彼が、これに関して、根本哲学(あるいは弁証法)、自然学、倫理学という哲学の三区分を考えていたかどうかは必ずしも定かではない。なぜなら、それに対応する「古代の人」−ギリシャの哲学者、とりわけプラトン−による区分(この区分に彼は後に自分自身の区分のための拠り所を求めていた)への示唆が、同時に次のような批判を含んでいるからである。「これら三つの学問は互いに独立しており、それぞれが自分自身の根拠に基づいている。その際、それらの為に共通の推論が見出されることはない」[8]。「古代人の中で、完結した連関においていわゆる哲学を講じた人々は、それを論理学、自然学、倫理学に区分するのが常であったが、これら三部門がそこから生い立つ所の共通の根源を示すことはなかったし、さらにより高次の諸原則を立てることもなかった」[9]。自立した学科として、この「最高の学」が現れるという形で、この弁証法が実現されるべきか、それとも、それはただ自然学や倫理学といった実在的学問との関係においてのみ、それらの内部で叙述可能なのかといったことについては、この時点ではまだ定まっていなかったのである。

シュライアマハーのプラトンの翻訳の第1巻(1804年)の彼による序文の記述も哲学内部の区分に関心を寄せている。すなわち次のように言われている。「様々な諸学科への哲学の区分は、彼〔プラトン〕にとって少なからぬ関心であったので、人は彼をむしろある程度、その創始者と見なすことができるほどである。しかしながら、彼の書のどれも、そのような関心に特に限定されてはいない。そうではなく、彼は哲学の本質的な統一とその共通の法則を、より大きなものと見なしており、それを特に追求した。したがって、様々な課題がいたるところで、互いに多様に絡み合っているのである」[10]

すなわち、シュライアマハーは一方で、プラトンの対話の性格や形式を賞賛し、この「哲学的芸術家」による対話の構成や様式化を高く評価しながら、しかし他方ではプラトンの弁証法構想に関して、以下の三つの点を留保点として指摘している[11]

1)      プラトンは「教育的弁証法」を「教え」や「授業」という目的に限定している。

2)      プラトンの対話は、口頭による話し合いという根源的な相互伝達の模倣に過ぎず、それ自体は書かれたテキストに他ならない。

3)      プラトンの対話形式は、「彼の方法の全体を決して汲みつくしていない」。プラトンは戦略的手段(問いを投げかけ、謎を生じさせ、そこにとどまることが不可能な明白な矛盾を引き出す等)を用いる。それは、読者を最初から「意図された理念」に、読者自身の「自己活動」によって接近させるためである。見知らぬ先行知によって引き起こされる自己活動は、本当に自立的なものではない。前もって知っているものは、相当独断的に、自己の立場に固執しており、その妥当性を前提としている。プラトンにおいて対話形式は教育手段に過ぎない。

 さらに明確なプラトン批判を、シュライアマハーは哲学史講義の中で展開している。すなわち、プラトンはゴールを定めずに真理に接近する哲学ではなく、「体系的哲学の創始者」であるという。すなわち、プラトンは、妥当性を格納する確固として基準を持っており、どの確信においても、そこに「認識の理念が内在しているかどうか」を問う。ソクラテスの有名なイロニーは「認識の理念と、実際の洞察の不在の共存に他ならない。したがって、文字通り、自分が何も知らないということを知っていることなのである。立てられたどの命題に対しても、彼〔ソクラテス〕にとっては、その価値という点では未知のものであり、ただそれを、認識の理念と照らし合わせることによってのみ、その価値を初めて知るのであった。[]彼の絶えざる間接的な対話形式は、彼が、それによって表象の中に認識を認識する特徴点に基づく。すなわち、そのような認識は、どのような結合においても、あらゆる矛盾から自由でなければならないとか、それは、認識の原理やその全ての応用に対して、発見的でなければならないとかである。したがって、彼にとっては、自分がどのような対象から出発したかということは、どうでもよかった」[12]

 したがって、認識の理念は、語りを超えた直観に由来する。その直観が、ソクラテスを、気ままな対話の放浪から守り、歩みを確かにする。そして、それは、技法の形式にまで高められたプラトン的対話においてのみ明らかにされる。イロニーとは、ソクラテスにとってあらゆる対話の状況において、認識の理念を指し示すコンパスなのである。それゆえ、シュライアマハーによれば、プラトンの対話は、すべての人の中にその原理が存在し、生き生きとなされることができねばならないという前提に基づいている。こうしてプラトンは、ソクラテスの産婆術的な方法を完成することができた。産婆術は、すでに自分の中に胚胎して存在しているもののみを引き出す。それは対話によって引き出されるのではあるが、しかし、対話そのものが理念の真理を根拠付けるわけではない。それゆえシュライアマハーによれば、プラトンの弁証法は、厳密には対話論ではなく、「結合に関する技法」であり、考え得る全ての発言を、結合が合法的であるかどうか、あるいは分割が正当になされたかどうかという観点で吟味するものである。しかし、それはシュライアマハーが自らの弁証法で目指すところの、一致に基礎付けられた真理の合意論とは異なるというのである。

以上より、『綱要』において初めて提示される「最高の学」というイデーが、1811年に「弁証法」という、少なくとも形式的には倫理学や自然学から独立した学科として提示されるのは、シュライアマハーがプラトンの弁証法によって導かれたというよりは、おそらくフィヒテの知識学の刺激が直接の引き金となったと考えるべきであろう。フィヒテを意識して、シュライアマハーは、哲学と生の分離を批判し、フリードリヒ・シュレーゲルと共に、観念論と実在論の統合を目指したのである。すなわち、次のように言われている。「観念論と実在論とを一つにすること、これが私の努力が目指すところです。私はそれを『宗教論』でも『独白録』でもできる限り示唆しました。しかし、もちろんその根拠は非常に深く、両方の側に、このことに対する意義を開示するのは容易なことではありません。それを目指して多くのことを語ったシュレーゲルは、理解されていません」[13]

同様なことをシュライアマハーは、1805/06年にハレで行われた二度目の倫理学講義との関連で成立した『倫理学草案(Brouillon zur Ethik)』において次のように要求している。「客観的な知のイデー自体は、世俗的な知のイデーとして、個的に捉えられる。普遍と特殊の同一性として」。そして、これに加えて、次のように語る。「超越論哲学の通常の形式〔フィヒテ哲学〕は、これから完全に逸脱している。それは、あらゆる個体性から、普遍的客観的な知を抽象して定立しようと欲している。しかし、このような仕方では、ただ無内容で不確実な形式を保持するだけである」[14]と。この意味でシュライアマハーは、1805/06年の講義において、倫理学を「哲学の全くの一面と規定し、倫理学においては、すべては、自然学における所産のように、産出行為として現れる。各面は、他の面から、何かを異なって、ポジティブなものとして受け取る。[]それによって、すべての実在的な知は、この二つの側面に分かれるのである」と述べている[15]

このようにシュライアマハーが、実在的知の発展の外部で、自然学や倫理学に対して第三のものとして「純粋な」あるいは最上位の学の独立した叙述に余地を残そうと欲していたということを、確実には排除できないにしても、この『倫理学草案』にもそのような学科への示唆はない。「倫理学の頂点に何を置くべきか」という問いに対して、シュライアマハーは、むしろ「諸原則と諸命題における取り扱い」をはっきりと排除している。そして、「根源的直観」を示唆するが、それは、「一つの命題にまとめられない」ものであり、それゆえに人は「直接その直観にとどまら」ねばならない[16]。この「倫理的直観は、理論哲学が人間を自然として提供する限り、人間を、精神能力を持った身体として定立し、精神としての人間に対しては、イデーの能力の自由を定立する」[17]。すなわち、この直観は、自然学と倫理学の交点、無差別点に関わると言っている。

ハレにおける最初の倫理学講義(1804/05年)も、この点では、『倫理学草案』に代表される立場と根本的に異なってはいないと考えるべきである。最初の講義に基づいて成立し、シュライアマハーの友人たちの間で回覧され、筆写された草稿は、残念ながら一部分しか残っていない。シュライアマハーに宛てたガースの書簡(1805713日付)によれば、この草稿は、「超越論的要請」という詳細な記述を含んでおり、そこではとりわけ、シェリングに対するシュライアマハーの立場の独自性が、はっきり現れていたという。すなわち「超越論的要請を、短縮することは困難でしょう。むしろ私は拡張することを考えます。これはどんな場合にも、分かりやすくすべきです。すなわち口頭での講義のために。バルトルディは、特に好意を持って、あなたのシェリングからの逸脱に気付きました。私たちはその時、シェリングの『学問論』を手元に持っていたのです。そして、あなたが、それに決して接近しないことを願っています」。シュライアマハー自身が、この連関で、はっきりと「要請」ということを語ったのかどうかは、定かではない。しかし、友人たちがこの概念をシュライアマハーの論述に関係させたことは、偶然ではなかっただろう。カントは純粋実践理性の要請ということで、「理論的ではあるが、それ自体としては論証できない命題を考えていた。[]その限り、彼は、アプリオリに無条件で有効な実践法則を、常に支持していた」。要請とは、この理解に拠れば、実践的に基礎付けられる諸命題で、証明されることなしに受け入れられるものである。そのような機能は、自然学(理論哲学)や倫理学(実践哲学)の一節にある「根源直観」をも満たしているものである。そして、最上位の学問は全体として、基礎付けられたり証明されたりはしないという、先に引用した『綱要』の言説も、要請の教説と結びつけることが可能である。

1807/08年にベルリンでなされた三回目の倫理学講義において、シュライアマハーは、最上位の学問に対する倫理学の関係についてはっきりと語るようになってきている。

「もう一つは、第一哲学、認識に対する倫理学の関係である。そこに他のすべては依存しているのだが、それは次のような形式においてである。すなわち、すべての学問的形式は、それらの最終的根拠としてのその哲学に基づいている。純粋哲学である。それが自然あるいは行為への近づき方しだいで、幾通りものその運命がある。それが今、自然哲学として支配するならば、これは、先の空虚な観念論に対して、実在の側での釣り合いを取るものとなる。そして、このつりあいは全歴史を通して進行する。しかし、純粋哲学は、自然学と倫理学の間にあって、完全に均衡状態になければならない。その使命は、存在と認識の同一性を示すことである。この使命を、純粋哲学は、自然的形式か倫理的形式で行わねばならない。今は特に自然的形式で、おそらく後には倫理的形式でというように。私たちが純粋哲学の諸原則を前提とするのは、全く正当だが、そこではまたすべてが一つであり、すべての論争は、諸形式の有能さや、理解の為にのみ有効である」[18]

ここでのシュライアマハーの考えは次のように思われる。すなわち、「第一の」もしくは「純粋な」哲学は、自然学と倫理学が「完全な均衡状態にある」場合に、自然学と倫理学における実在的知の実行において生じる。自然学と倫理学とがそのような均衡状態にあるのは、ただ観念的なものと実在的なものの、あるいは存在と認識との統一が、それらの制約において正しく把握される場合である。このような前提において彼は、彼の時代の「自然哲学」を純粋哲学と同一視できた。このような発言は、「自然哲学」から区別できないことは当然である。既に1800年、シュライアマハーは、フィヒテの『人間の使命』についての書評において、自らを「自然哲学者」と自称していた。その際彼は、そう言うことによって、フィヒテの「観念論」に対する反対を表していたのである。したがって、このような術語の下に、シュライアマハーにとっては、たとえ個々には異なるとしても、すべての立場が包含されるのである。それらの立場は、フリードリヒ・シュレーゲルやシェリング、シュテフェンス、そしてシュライアマハー自身の立場のように、観念的なものと実在的なものとの合一を目指しており、それは、自然哲学と倫理学との均衡において実現されねばならなかった。

『大学論』(1808)においても、シュライアマハーは思弁と経験の密接な結びつきを支持し、純粋で思弁的な超越哲学の自立には反対している。「最高原理としての学問的精神、あらゆる認識の直接的統一は、何かそれ自体単独で、単なる超越論哲学において立てられたり、示されたりするものではない。残念なことに、そのような奇妙な試みをする人もいるのだが。そのように純粋に引き抜かれた哲学以上に空虚なものは考えられない。[]そうではなく,ただすべての知に対するその生き生きとした影響においてのみ、哲学は叙述され、理解されるし、その身体や実在的な知を伴ってのみ、その精神は叙述され、理解される」[19]。「学問の自然的組織全体」をシュライアマハーは、ここでも「純粋に超越的な哲学と、全く自然科学的、歴史的側面」とに分けている。しかしながら、それは「思弁の空虚な形式」であるべきではないと言われる。

以上より次のことが確認できる。シュライアマハーは、遅くとも1803年の『綱要』以来、その名称は様々に変化するが、すなわち「すべての学問の根拠及び連関の学問」「最上位の学問」「純粋哲学」「純粋な超越論哲学」「一般哲学」等々、哲学的な原理の教説を考えていた。それを哲学的実在的学である自然学や倫理学との密接な結びつきにおいて叙述しようとしており、その際、彼の言葉のいくつかが許す帰結は、独自な学科におけるこのような原理学の叙述は、彼によって最初は考えられていなかったということである。しかし、シュライアマハーは、1811年には、そのような独自な学科である弁証法を持って登場する。このことは、「純粋哲学」についての彼の考えの帰結とは考えにくい。むしろ、ベルリン大学開学後、彼の哲学の教授活動に関連して、彼が陥った状況に強制されたと考えるべきである。ここで彼は、フィヒテとの直接的な競合を避けることができなかった。フィヒテの知識学は、彼にとって、一人歩きした「空虚な」超越論哲学を代表するのみならず、それを越えて、彼の理解によれば、歴史的なものや倫理学と均衡する自然学を認めず、その限りで、観念的なものと実在的なもの、思弁的なものと経験的なものの合一という課題を実現できなかった。

これに対してシュライアマハーは、これまでの倫理学の論述だけでも対抗することができた。なぜなら、彼にとって倫理学は「哲学の一面に過ぎなかったからである。倫理学において、すべては、自然科学における産物のように、産出行為として現れる。各側面は、他の面によって異なって受け入れられねばならない。なぜなら、知と行為も、能力として自然であり、そのようなものとして証明されねばならないからである」[20]。このように倫理学に対応する(哲学的)自然学と共に、シュライアマハーの倫理学は、フィヒテの学問論に対する原理的なオルタナティーヴとして提示できたし、それが単なるフィヒテの倫理学の実在哲学的変種に過ぎないという見方を斥ける内容を持っていた。そのような自然哲学との結びつきは、ハレにおいては、ヘンリッヒ・ステフェンスとの交流を通して、確かなものとなった。しかしベルリンでは、シュテフェンスの招聘が頓挫したことによって、そのような見通しは立たなかったのである。

シュライアマハー自身は、自ら自然哲学の講義をするつもりは明らかになかったので、この状況において、彼に残されていたのは次の二つの可能性だけであった。すなわち、ベルリン大学における彼の教授活動の最初の学期のように、これからもフィヒテに哲学の領域を任せるか、それとも、自らの当初の意図に反して、哲学的原理学の領域において、フィヒテとの直接的競合に乗り出すかである。

しかしながら、その際、シュライアマハーは、彼のこれまでの確信に基づいて、実在的な知に対して独立しており、単独で立てられた超越論哲学は避けねばならなかった。そして、またフィヒテの知識学に対して、単純に代替的な知識学を対抗させることもできなかった。むしろ、実在的な知の実現と関わる諸原理−シュライアマハーの理解に拠れば、実在的な知においてのみ、それら諸原理は、認められるのであった−が、求められ、規定されねばならなかった。したがって、原理についての教説は、原理についての実在知としてではなく、技法論(Kunstlehre)、あるいは実在知の器官(Organon)として構築される。そのような企ての為に、シュライアマハーは、プラトンにさかのぼる弁証法理論の中に結合点を見出したのである。

 

(2)「弁証法」という名称について

独立した学科において哲学的原理論を扱うことが、1810年以前のシュライアマハーの考えの直接的な帰結として生じたのでないのと同じく、この学科の名称もそうではない。原理論との関連で、シュライアマハーが1810年以前口にしていた名称は「弁証法」ではなく、むしろ「知識学」、「超越論哲学」などであった。この関連で啓発的なのは、シェリングの『学問論』(1803)に対するシュライアマハーの関係である。シェリングの『学問論』において、弁証法が、カント以後初めて、単に修辞的論争の達人ぶりという意味、あるいは、不確かなものを考慮に入れた必然的な仮象というカントの意味のみでなく、哲学の「技法的側面」として理解された。それは、カントの『純粋理性批判』における超越論的弁証法と同様、思弁の対象としての無制約者に対する(有限な)反省の関係を対象に持つ。シェリングの『学問論』についての書評において、シュライアマハーは次のように書く。「哲学によって、本来教えられるものではないが、しかし授業を通して訓練されることが可能なものが、この学問の技法的側面であり、人が一般に弁証法と呼んでいるものである。弁証法的技法がなければ、学問的哲学はない! すべてを一として叙述し、元来反省に属する諸形式において、根源知を表現するという意図が、その証拠である。あらゆる弁証法が依拠しているのは、この反省に対する思弁の関係である」。「絶対者と単なる有限的諸形式との二律背反」が、証明しているのは「弁証法もまた、教えられることのできない側面を持っているということであり、それは、人が言葉の根源的な意味で、哲学における詩(Poesie)と呼ぶことのできるもののように、少なからず産出的能力に基づくということである」[21]。さらにシュライアマハーは、「特に哲学そのものに関する第6講において言われているのは、哲学における技術と詩に対する示唆である。この両者を承認することが真に哲学することの試金石であると主張されている。なぜなら、自分の哲学的努力の為に、技術を軽んじる者が、常に未成熟であり続けるということは、当然だからである。同様に次のことも確かである。すなわち、思弁における詩的要素を認めない者は、どんな弁証法によっても、空虚な空回りをするのが常であるということである」[22]。シェリングが詩的なものを、弁証法自体の教授不可能な側面と見なしていたとするなら、シュライアマハーはここで、技法としての弁証法を、哲学の詩的要素に対抗させている。弁証法は、ここでは、決して哲学的な原理論としてではなく、むしろ技術的な達人振りとして、現れている。

『綱要』においてシュライアマハーは、スピノザとプラトンを、彼の好む「客観的に」哲学をした代表として、すなわち、無限者から出発して哲学をした代表として、次のように対照的に言及する。すなわち、シュライアマハーは、スピノザを、プラトンが持っていた詩的感覚を欠いているとして批判するのである。「しかし、この最高の学問が、スピノザがそれを構築したのと同じくらい論理的であるか、あるいはプラトンが、それを、ただ最高存在の詩的な前提にしたがって指し示しているように、確かな根拠を持っているかどうか、それを判断することは目下の課題ではない」[23]。哲学の詩的要素は、「神秘主義」と同一視されることが可能で、既に1801年に、シュライアマハーは神秘主義を、フィヒテの「狭量な達人ぶり」に対置させ、またライマーに宛てた18036月のある手紙では、予告された新たな知識学の叙述に関連して、次のように語っている。「フィヒテの知識学を読みながら、私はむなしさを感じている。彼は、自らの体系によって、不明確さに陥っているというのが、私がそこから推測することである。そして、私が非常に好奇心を持って知りたく思うのは、そこからの出発点となるのは何かということである。しかし、愛する友よ、フィヒテの観念論の場合のように、どんな神秘主義も伴うことなく、ただ弁証法的根拠に依拠する哲学は、無に等しい」。

以上よりシュライアマハーによる「弁証法」という術語の用法から、次のような結論が引き出せる。すなわち、彼は、この用語で、近代の哲学の伝統と一致して、とりわけ、哲学の論理的修辞的側面を考えている。それを彼は、必然的ではあるが単なる技術と見なし、それ自体で、知の根拠や連関を把握する能力のあるものとは見なしていない。したがって、フィヒテはシュライアマハーにとって、一方では正真正銘の驚嘆に値する「私の知る限り最も偉大な弁証家である」[24]が、他方では、単に「非人間的な、大いなる一面的達人」に過ぎない。「すなわち、私が常に疑わしく思うのは、人がたった一つの点から自分の体系に至ってしまう場合である。従って、フィヒテにあるのは、単に弁証法的必要から知を成立させることであり、知のための知以外のものを彼は持っていない。このことを認めて以来、私は、彼への対処の仕方を知った」と言われる[25]

このような理解に沿って、シュライアマハーは『倫理学草案』(1805/06年)において、「心情Gesinnungと学問的衝動との」釣り合いを要求する。「前者(心情Gesinnung)が優勢になると宗教が与えられるが、それは、学問的な開始においては誤った神秘主義に堕してしまう。後者(学問的衝動)が優勢になると、弁証法的練達が与えられるが、それが学問的作業を満たすと正しさは見出せなくなってしまう」[26]。明らかに哲学の「神秘的」あるいは「詩的」要素を表す「心情Gesinnung」との結びつきで、弁証法は、シュライアマハーにとって、念頭にあった真の哲学以外の傾向を持っていない。心情Gesinnungを通して結びついたそのような弁証法の特徴付けのために、彼は、『倫理学草案』においてプラトンの模範を引き合いに出す。「思考、語り、命題、考えはほとんど至る所で同一である。最盛期の古代ギリシャでは、ディアレゲスサイすなわち対話の遂行と哲学は、弁証法、哲学の器官である。認識の個々の行為を語りを通して比較し続けることで、一致した知に至るのである」[27]。他の場所で、シュライアマハーは、認識の仲介を目指す、他に類を見ない活動的な愛との関連で、弁証法をその愛(すなわち、知への愛、哲学)と同一視している。「これは、直観における器官の最初の練習から、学派の領域で後の弁証法的な叙述に至るまで及んでいる。弁証法は他の傾向を持っていない。それゆえ弁証法は正当にも愛と見なされるのである」[28]

シュライアマハーは、彼のプラトンの翻訳への一般的な「序文」においても、弁証法を技術と見なしている。彼に理解によれば、初期の対話篇『ディアロゴン』『パイドロス』『プロタゴラス』『パルメニデス』において「展開されているのは、続くすべての作品の根底にあるものの最初の予感、すなわち哲学の技術としての弁証法、哲学の本来の対象としてのイデー、知の可能性と条件についてである」。それら初期対話篇は、「プラトンの作品の、最初の根本的な部分を提供している。他は、これら初期対話篇と建設的な作品との間隙を埋めるものである。すなわち、それら他の作品が、先の原理の適用可能性について語り、また倫理学と自然学という二つの実在的学問への応用における哲学的認識と一般の認識との相違について語ることによって(間隙を埋めるものである)」[29]。このようにプラトンの対話篇を主題重点的に解釈することからは、哲学の明確な三学科への区分を一義的に引き出すことはできないし、弁証法を諸原理と同一視することもできない。しかし、さらにシュライアマハーは、『パルメニデス』への序文において、次のように書くとき、ここに密接な連関を見ている。すなわち、エレアの哲学者は、「弁証法からより高次の哲学の領域へ侵入するという試みをした最初の哲学者である。歴史的にも『パルメニデス』を、ソクラテスと結び付け、弁証法を、この技法の一般的な父祖(ソクラテス)よりも早い父祖(エレア派)の弁証法から導き出すというプラトンの努力は、十分明らかである」[30]。また、『クラテュロス』の序文では、次のように言われる。この対話篇では弁証法は、「その対象が認識と表現の同一性において端的に真理であるような技法として表現されている」[31]。しかしながら、アルントによれば、このような言葉が一般化され、シュライアマハー自身の哲学理解に関係させられ得るかどうかということには、確たる証拠はない。むしろ『大学論』(1808)においても、「弁証法的なもの」は、全くシュライアマハーの以前の理解の意味において、「産出的なものPoetische」(シェリング同様、Poietische産出的というギリシャ語の原義による)というによる補いを必要としているように見えるという[32]。すなわち、講義の二つの要素が、次のようにして区別される場合である。「一方を私は通俗的なものと呼びたい。すなわち、聴衆がおかれている状態を推測しての叙述であり、彼らにその状態における必要を示す技法、知でないものにおけるすべての無の最終的根拠を示す技法である。これは正に弁証法的技法であり、弁証法的になればなるほど、通俗的になる。他を私は産出的なものと呼びたい。教師は、自分の語るすべてを、聴衆の前で生成させねばならない。彼は自分の知っていることを説明してはならない。そうではなく、自分自身の認識、行為自体を産出せねばならない。それによって、彼ら聴衆は、単に知識を集めるのではなく、認識がもたらされる際の理性の活動を、直接眺め、眺めながら模倣するのである」[33]

以上のように、シュライアマハーが、先に引用された18101229日付ガース宛書簡以来、自分の原理論を「弁証法」と呼んでいることは、その前史から直接導き出すことはできない。明らかなことは、彼のプラトン研究の影響下で、弁証法の積極的な理解への傾斜が際立ってきたことである。弁証法は、もはや空虚な論理的修辞的練達と関連させられることはない。しかしながら、そこからはまだ、この「弁証法」という術語を、哲学の技術的側面に対してのみならず、根本的な原理論として要求するという傾向を読み取ることはできない。

しかし、シュライアマハーが、1810年のベルリン大学の特殊事情によって、これまでは独立した学科としては眼中になかった原理論を、単独で講義するきっかけを得た時、シュライアマハーが「弁証法」という名称に立ち戻ったということは、十分考えられる。これがとりわけ、実在的な知の技法論、器官であるべき限り、したがって、この観点では全く「技術的な」学科である限り、それが哲学する技術としての弁証法という古代の理解と結びつくことは、明らかである。同時に、この弁証法は、それをシュライアマハーが1811年以来講義しているように、哲学的技術の内容、とりわけ、概念と判断の論理的形式の内容への反省において、あらゆる知の最終根拠や連関をも主題とし、その関連で認識の限界を主題とするようになる。弁証法は、これによって、シュライアマハーが「心情」としての弁証法的技術について語る初期の言葉の中で、「神秘的」あるいは「詩的」要素として、脇へ置いたものをも包括するのである。

このような要素、ならびに知の超越論的基礎付けが、弁証法自体の要素となるということには、しかし、補足的な説明が必要だろう。なぜなら、弁証法についてのそのような拡大された理解をシュライアマハーは、彼自身の弁証法講義に基づけば、既に古代哲学の中にはっきりと確認しているからである。彼をして、この新しい読み方へと突き動かしていったものに関して言えば、それは、いずれにせよ、カントが『純粋理性批判』のテーマにした有限者あるいは制約者の無制約者に対する関係という問題を取り入れたことを意味する。その際弁証法は、古代の理解によれば、「本来事物の対立から出発する、より低い反省に対する論争的に否定的側面だけを本来は」表している。「その積極的側面は、常に神話的形式を保持する」。より低い反省の批判として、弁証法は、悟性思考の批判と同等であり、しかしその際、カントとは異なり、無制約者の認識には悟性手段が不適当であるということよりも、むしろ、有限者における「より低い反省」の固執、無制約者に対する積極的関係による悟性の指導放棄が、批判されているように見える。カントの超越論的な弁証法の問題をプラトン的な構想と結びつけることにより、シュライアマハーは、シェリングの『学問論』における弁証法理解に近づくのである。

シュライアマハーが、ヘーゲルの『精神現象学』(1807年)で始めて定式化された、否定的運動としての弁証法的なものという理解に影響されていたということはあり得ないだろう。なぜなら、この作品の受容は今までのところ、証明されないからである[34]。これに対して、シュライアマハーが、彼の以前の同伴者であるフリードリヒ・シュレーゲルの構想を思い出したということはありえるだろう。シュレーゲルは既に1796年に、カントの超越論的弁証法の問題を、古代、とりわけプラトンと結びついた弁証法理解によって、扱おうと考えていた。すなわち「非常に重要なのは、ギリシャ語の弁証法という名称である。それは(カントにおけるような仮象ではなく)真理を伝達し、語り、共同で真理を探求するための真の技法である(プラトンの『ゴルギアス』におけるような)。それは、哲学あるいは論理学の一部であり、哲学の必然的な器官である」[35]

 

 

■弁証法講義の実際

1811年以降の弁証法の展開は、講義の進展と共になされるが、既に1814/15年以降、その仕事は出版を目指していたと言われる[36]。これは、1832年には講義とは別に取り組みがなされたが、「序論」の最初のパラグラフを越えるまでには至らなかった。この展開の経過においては、弁証法の叙述や構想上にも様々な変化が見られるが、その外的歴史的事実のみを素描する。

              シュライアマハーは、1811年の夏学期を皮切りに、合計六回、例外なく哲学学部の枠の中で弁証法について講義をしている。ベルリン大学の講義目録には、これらの講義は、その都度、「弁証法」あるいは弁証法の「根本諸命題」「根本特徴」と記されている。ただ、最初の講義の通知には、内容を説明する補足があり、そこには「哲学する技法の諸原理の範囲」とある。以下の一覧は、ラテン語とドイツ語で書かれた講義通知である[37]。(  )内は講義期間と聴講者の数。

@     1811年夏学期:弁証法、すなわち哲学する技法の諸原理の範囲を、学術アカデミーの会員シュライアマハー氏が教授。(聴講者63人;1811422日〜820日)

A     1814/15年冬学期:弁証法 王室学術アカデミー会員シュライアマハー氏、週5回午後5時〜6時。(聴講者49人、18141024日〜1815318日)

B     1818/19年冬学期:弁証法 学術アカデミー会員教授シュライアマハー氏、週4回午後5時〜6時。(聴講者96人、18181022日〜1819327日)

C     1822年夏学期:弁証法の根本特徴 教授シュライアマハー氏、5回 朝6時(聴講者118人、18224月15日〜816日)

D     1828年夏学期:弁証法の根本命題、学術アカデミー会員、博士シュライアマハー氏 週5時間、朝6時〜7時。(聴講者129人、1828428日〜822日)

E     1831年夏学期:弁証法の根本命題、王室学術アカデミー会員、博士シュライアマハー氏、週5回、7時から8時。(聴講者148人、1831425日〜93日)

F     1832/33年(出版のために準備された序論執筆)

以下このリストの順に概略を述べる。

@    1811年夏学期[38]

シュライアマハーは1811年夏学期最初の弁証法について講義をした。

シュライアマハーは、記述したように哲学の領域をフィヒテ一人に任せないという決意をすると、1811年夏学期、フィヒテと意識的に競合する形で講義を行った。1811325日付のアウグスト・トゥヴェステンの日記には次のようにある。「シュライアマハーが,フィヒテの学問論と同じ時間に、彼の弁証法の講義時間を変更した。彼はそれを意図的に行ったようだ。少なくとも彼は、その時間を動かすことは全く考えていない」[39]。実際には、それはフィヒテの知識学と完全にバッティングしたわけではなかった。フィヒテは、知識学を1811年夏学期に、「意識の事実」に引き続いて、4時から5時の間に講義したが、シュライアマハーは弁証法を5時〜6時に講義しているからである。それに対してシュライアマハーの講義が時間的に衝突したのは、フィヒテの法学である。それはフィヒテその他が伝えるところに拠れば、衝突ゆえに中止のやむなきに至ったという。

講義の準備のために、シュライアマハーは草稿を用意したが、そこで、彼が初めて講義をするときには常にそうしたように、自らの覚書のために、主題領域の探りを入れ、考えをまとめたのだった。これらは、初回、及び7時間目の講義へのはっきりとした示唆が確証しているように、学期中の個々の講義時間の準備に役立った。この草稿をシュライアマハーは後に、二つに折りたたんだ冊子に収めたが、それは表紙として役立ったり、あるいは1814/15年そして1818年の講義のために書き溜めたものをも含んだりしている。さらにシュライアマハーは、36の小紙片に12から49時間目までの講義内容を書き留めているが、それが、その都度の講義時間の準備段階で書かれたものであるのか、それとも講義後に書かれたものなのか、確かなことは分からない。注目すべきは、最初から11時間目まで(メモ書きで残された1時間目と7時間目は除く)の、シュライアマハー自身の手による草稿が残っていないことである。この部分は、主題としては一般的な序論と、超越論部門の始めの部分である。シュライアマハーが、弁証法についての最初の講義において、そこに遂行された基礎的概念の説明に対しては、思考の自由な展開に信頼して、何ら手がかりを持とうとしなかったということは、可能性としてはあり得ても、ほとんどありそうもないことである。むしろその草稿は失われてしまったと考えるべきだろう。

              シュライアマハーの草稿は、新版全集の出版(2002年)によって初めて全体が刊行されたトゥヴェステン[40]の筆記ノートによって補われることで、その全容が明らかになる。ヨナスが用い、そこから自分の全集版に短い抜粋と要約を提供している匿名の筆記ノートは失われてしまった。

弁証法についての彼の最初の講義の結果について、シュライアマハーは、1811511日に友人のガースに宛てた手紙において次のように報告している。「これは屈辱的な時間を消費しています。その決定は長く私の中で苦しみとなっていました。しかし私は、それが打開へ至ったことを喜んでいます。私はそれを始めた時、主要部分がようやく明らかになりました。今は、一層個々の部分に手を加えています。そして、全体が上手く行くよう願っています。私はおよそ60人の聴講者の前で講義をし、医学部生を除いて、今回最も大きな講義室を使っています」[41]18127月には、ふり返って研究仲間のカール・グスタフ・フォン・ブリンクマン宛てに次のように書き送っている。「私は思弁哲学の方法について、弁証法という題目で講義をしました。そして、この1回目で、少なくとも基礎がかなり明確な叙述でなされたと考えています」[42]

「明確な叙述」ということでシュライアマハーは、既にこの時点で、単に弁証法についての今後の講義のみならず、自分の哲学体系の概要の叙述の出版を仄めかしていたと思われる。なぜなら、既に1812/13年の彼の哲学的倫理学をまとめる作業において、彼は、「弁証法からの倫理学の演繹」を試みたが、それは倫理学の内部で「超越論的要請」あるいは「根源的直観」の場所に入るものだったからである。弁証法からの12の借用命題は、テーゼを述べる形式で、弁証法の超越論部門の核心を内容とし、その限りで、その核心は、この領域での実在的知の基礎付けのために、援用されねばならなかったのである。それは1811年の講義を基礎として成立し、弁証法の名の下に講義されたシュライアマハーの哲学的原理論の、最初に刊行のために確定されたテキストとして評価されるべきである。

A    1814/15年冬学期[43]

1814/15年の冬学期、シュライアマハーは1811年のように週三回ではなく、週五回弁証法について講義をした。このときの聴講生は49人と、1811年の時よりも少ないが、しかし、多くの学生が解放戦争[44]に参加して、まだ大学に戻っていなかったことを考慮しなければならない。この講義との関連で、部分的に注釈の付いたパラグラフからなる便覧形式の叙述が成立した。ここにおいてシュライアマハーは既にはっきりと教科書としての出版を考えていたのである。18141029日彼はガースに宛てて次のように記している。「弁証法について私は今、(すなわち後から)暫定的なパラグラフを書いています。それは、将来の便覧の最初の準備です」。また同年1227日ブランク宛ての書簡では、「私は倫理学に取り組んでいますが、当然のことながら進度は非常にゆっくりです。なぜなら同時進行で、読書の折に、パウロ書の私の版に対する最初のラテン語の準備を行い、また特に私の弁証法を、もう一度これを講義したときには、出版可能なように文章化しているからです」。1815626日のトゥヴェステンの次のような問い合わせ、すなわち、弁証法講義の折に、倫理学についての弁証法的序論も拡大するのかという問い合わせ[45]に対し、シュライアマハーは翌月の5日に次のように答えている。「私の弁証法講義は、倫理学への序論に対しては、まだ影響を与えていません。私は、あなたが倫理学を知って以来、それが拡張を受けたとは考えていません。しかし、私は弁証法自体については、本質的なものを書き表しました。そして、それを非常に気に入っています。それが日の目を見るならば、倫理学の場合以上に、それ自身のためによいことでしょう。スピノザの歴史がはっきりと物語っているように、これは倫理学自体を損なうだけでしょう」[46]

既にルードヴィヒ・ヨナスは、1814/15年講義の筆記ノートがないことを嘆いている。この講義を自ら筆記したハインリヒ・リッターが、ヨナスにそのノートをなぜ使わせなかったかは、アルントによれば謎のままである。以来、この講義の筆記ノートは見つかっていない。

弁証法の草稿と、おそらくは1814/15年講義の便覧的な叙述あるいはその一部を、シュライアマハーはブレスラウにいる友人のガースに送った。シュライアマハーの添え状は残っていないが、このノートと共に戻ってきたガースの手紙1816331日付が残っている。「H氏を通じて、感謝を持って弁証法のノートをお返しします。友よ。私は多忙な中にも時間を見つけ、注意深くそれを読み、その内容の梗概を作ることまでしました。そして、このような勉強の機会を与えられたことに心から君に感謝します。第2部に、私には不明瞭なところがありましたが、私の飲み込みの悪さを責めないで欲しい。問題となっているところは理解したつもりです。これ以上返却が遅れてはいけないので」[47]

この講義によって到達された原理的な自己理解に基づいて、シュライアマハーは、1818330日付のヤコービ宛ての有名な書簡において、ヤコービと自分の違いをはっきりさせることができたと述べ、彼の弁証法の理解に基づいて、ヤコービによってなされた神の人格的な表象についての対決を時代遅れと説明する。「私たちは、観念的なものと実在的なもの、あるいは、あなたがその対立をどう呼ぼうと私にはどうでもよいのですが、その対立から一度も出ることができません。あなたは、神を能産的自然として直観するよりも、人格としての方がより良く直観できるのでしょうか?」そうして彼は「哲学の領域において」次のように主張する。「一方の表現は、他方の表現よりも同じくらいよくもあり、また不完全でもある。私たちは最高存在の実在的概念というものを立てることはできない。しかし、およそ本来の哲学は次のような洞察だけを持っている。すなわち、最高存在のこの言葉に表せない真理は、私たちの思考や感情すべての根底にあり、この洞察の発展は、私の確信するところに拠れば、プラトンが弁証法の下で考えていたところのものである。それ以上に私たちも進むことはできないと私は考えている」[48]

B    1818/19年冬学期[49]

この講義においてシュライアマハーは、明らかに広範囲にわたって1814/15年のノートに戻っている。しかし、明らかに1818/19年講義に関係している二つの覚書が、1811年に構想されたノートの中にある。その他にも、講義の初めの部分についての覚書を記した15の紙片が残っている。そこに記された2から14までの数字は、明らかにその都度の講義時間の始めあるいは終わりを表している。それ以上の講義の流れを再構成することはできない。残っている筆記ノートは、時間を記していないし、その他のものからも、個々の講義の確かな境は明らかでない。

現在、三つの筆記ノートが知られている。一つはフェーダー・フォン・ゴットフリート・ベルンハルディ[50]によるもの、もう一つは、既にヨナスの手元にあったもので、エドゥアルト・テオドール・アウグスト・ツァンダー[51]によるものである。そして、さらに最近(1999年)発見されアルントの編集により新版の全集に収録された匿名の筆記ノート[52]がある。

ルドルフ・オーデブレヒトは、さらにもう一つフリードリヒ・ブルーメの筆記ノートがボンの大学図書館にあることを示唆しているが、同図書館によれば第二次世界大戦中に失われたということである。オーデブレヒトは、彼が編集出版した弁証法講義の序文で、「後の講義の核心を構成するために、1818年の筆記ノート(すなわち、ツァンダーとブルーメの筆記ノートのことだが)に手を加えて全貌を明らかにする」と書いているが[53]、オーデブレヒトによるこの編集本は現在に至るまで発見されていない。

シュライアマハーは、弁証法を、三回講義したら出版しようと考えていたが、その意図は実現されなかった。1818/19年の講義中に、彼はこの企てが実現にはまだ遠いことに気付き、ガースに宛てて次のように書いている。「エフェソ書の真正性は、一層疑わしくなりました。そして私の弁証法の真正性もです。それはさらに長い時間がかかります。五十にもなれば、人は無益なことにはもはや関わってはならず、ただ必要なことのみしなければなりません」[54]

C    1822年夏学期

シュライアマハーが1818年から書き始め、1821/22年に二巻本として出版される『キリスト教信仰論』への最後の取り組みの中で、彼は、1822年夏学期にこの弁証法講義を行った。

シュライアマハーは『キリスト教信仰論』との内的関連を意識しながら、弁証法の序論と超越論部門の改訂準備に取り掛かったのである。それを彼は新しい草稿として書き下ろしたが、その際に、しかし、なお1814/15年草稿のパラグラフに戻ってこれを参照した。この草稿はしかしながら、便覧形式をとってはいない。書き下ろしの形式はむしろハレ大でなされた『倫理学草案』に対応している。弁証法の技術的部門では、シュライアマハーは、1814/15年の草稿にとどまった。それを彼は60時間目から、彼の講義の底本にしているが、1822年に書かれた新しい草稿は59時間目で終わっているのである。

この講義についても、目下、6つの筆記ノートが知られている[55]。それらは、Eduard Bonnell[56], Karl Rudolf Hagenbach[57], Heinrich Klamroth[58], Johann Kropatscheck[59], Heinrich Saunier[60], Eduard Szarbinowski[61]によるものである。

『キリスト教信仰論』の出版後、数年間にわたって、シュライアマハーは多くの誤解にされされるが、それは彼の哲学的な根本姿勢に対するものであった。彼が教義学を哲学に基礎付けるという点が問題にされたのである。その基礎付けや体系は、とりわけ、弁証法講義において展開され、出版された『信仰論』においては、示唆にとどまった。したがって、『宗教論』初版(1799年)以来シュライアマハーに付きまとったスピノザ主義の疑いが改めて取りざたされた。すなわち神学の側からは、Ferdinand Delbrueckによって、1826年に出版された論争文書によって、スピノザ主義という非難が持ち上がったのである。コブレンツの牧師Karl August Groosに宛てた182684日付の手紙において、シュライアマハーは、自分の哲学体系を公にするために、先ずは、完全な連関を尽くした倫理学ではなく、弁証法の根本特徴の刊行を検討していると述べている。「Delbrueckの書について私はすでに聞いているが、まだ入手はしていない。前もって私がそれについて何かを言うべきか定かではない。私はただ公の業務においてのみ喜んで闘士として登場しよう。私の倫理学に関して言えば、それはまだ未決定である。その大部分(しかし最高善についての教説はまだだが)は、長年に渡って仕上げられてきている。他の二つの部分に関して言えば、その根本特徴は、徳概念についてと義務概念についての二つの論文に含まれている。それらはアカデミーの思想文書の中にあり、私はあなたにそれを一緒に送ります。これらに加えて、次の巻では、許可の概念についてと自然法と道徳法の相違についてが来ます。さらに同様な2、3の巻を最初の部分から提供できるならば、全体の構成は不具合なく示すことができるでしょう。それから私は弁証法の根本特徴を、もっと早く提供したい。これによって、多くの仰々しい騒ぎは収まるでしょう。そしてそのような解答が常に最善なのです」[62] 1826 922日付のGroosに宛てた書簡もこの関連である。それをシュライアマハーは、1827年にSackNitzschLueckeによって公刊されたDelbrueckに対する返答の「書簡による補遺」として、部分的に印刷させたのだった。その中で彼は、スピノザ主義や汎神論という非難に対して抗弁するが、その際彼は、自分の立場を明らかにするために弁証法の可能な限り短い概略を示している。「Debrueck124頁で私を確かにスピノザの弟子として引き合いに出すならば、少なくとも、私の書いたもののどこかに、スピノザの体系を存在させるような命題のあることを示すのは、彼の義務だろう。そのような命題や、それに結びついているものが私のものであることを、誰かが示すまでは、誰が私をスピノザ主義者であると言おうと、私は気にかけない。しかし、私が自己弁明すべきであると望んでいる私の友人たちは、おそらく次のように言うだろう。たとえスピノザ主義者とは見なさないとしても、私を汎神論者と見なすことは、そのような命題なしにもあり得る。そのような見せかけは除かれるべきであると。それは確かにそうかもしれない。しかし、Debrueckに対する敬意からも、そのようなことはしたくないのだ。同じようなことをいくら言われても、誰もそれを証明してはいない。今の状況下では、私は、すでにトゥヴェステンが次のように語ったこと以外に言うべき言葉を知らない。すなわち、もし私が私の弁証法の短い要約でも伝えることに成功するならば、より積極的なことは、ただその関連で伝えられることだろう」[63]。シュライアマハーに対するスピノザ主義との疑いがいかに広まっていたかは、1828年に出版されたWilhelm Traugott Krugの哲学百科事典の第3巻の項目も証明している。そこにはシュライアマハーについて次のように書かれている。「彼自身の哲学的体系を彼は[]これまでのところ灰色状態にしたままである。そこからは、再び事物についての汎神論的見方が顔を覗かしているようにも見える」[64]

D    1828年夏学期

おそらくは上述された疑いに、せめて自分の弁証法の概要を刊行することによって対抗するという意図に基づいて、シュライアマハーは、6年間の中断の後に、1828年の夏学期、弁証法への取り組みを、新たな講義をすることによって再開する。

1時間目から59時間目まで、シュライアマハーは1822年の講義草稿の欄外に書き込みをしている。68時間目から74時間目、及び76時間目は1814/15年の便覧形式の記述の欄外注として残っている。それ以外にも、確実に1828年講義のものであるもう一つの欄外注がある。77時間目の草稿が欠落しているが、それは失われたのか、シュライアマハーの草稿への書き込みが不正確であったのかは確定できない。

1828年講義の筆記ノートは残っていないが、ヨナスは、Schubring[65]のものを使い、そこから2、3の引用を伝えている[66]

E    1831年夏学期[67]

1831年夏学期、シュライアマハーは弁証法についての最後の講義を行う。

この講義のためにシュライアマハーは弁証法の新たな叙述に再び取り掛かる。31の紙片に、7から61時間目の講義のための書き込みがある。62時間目から82時間目のためのさらなる書き込みを、1822年の講義草稿が含んでいる。それらの書き込みは、1822年講義の59時間目に結びつく形で、「1831年、61時間目まで済んだ」という注釈の後に記されている。ここから次のことが分かる。シュライアマハーは、技術的部門において、講義時間数の書入れと共に、章立てを施されて数を付けられたパラグラフによる新しい取り組みにもかかわらず、なお1822年の草稿に依拠していたことである。同様に、1814/15年の草稿のパラグラフへの参照指示もある。

1831年講義の筆記ノートはもはや残っていない。ヨナスは、自分の版のために、Erbkam[68]の筆記ノートを利用し、そこから比較的長い抜粋を伝えている[69]

F    1832/33年の「序論」について[70]

新たになされた1831年講義に基づいて、シュライアマハーは1832年の終わり頃、出版の為の弁証法の仕上げに取り組み始める。この取り組みにとって決定的な動機が、その間に達成された自己理解によるのか、それとも、年齢的な限界から来る学問的作業能力の喪失を前に、なお自分の哲学的原理論について決着を付けるという願いなのかは、定かでないとアルントは言う。明らかなことは、シュライアマハーが、『信仰論』第2版−それは初版に比べて大幅に改訂されていたが−の完成の後に、初めて弁証法の仕上げという考えを検討したことである。この計画についての最初の示唆は、18311218日付のヨナス宛ての書簡に見られる。そこでは彼の次の仕事のことが語られており、彼は「キリスト教倫理学への取り組みを始めたい。また、それと共に、弁証法を、それが熟するように、いうなれば温室に持ち込みたい。これが私の計画だが、それはただ神の祝福と良い天候とを待っている」と書く[71]。この企てはしかしながら1832年にもまだ軌道に乗らなかった。18321118日のヨナス宛書簡には次のようにある。「友よ、ここに君は、3番目のDuで語りかける説教を受け取る。3は縁起の良い数だ。私は弁証法に時間を作るために、これで終わりにしたかったのだが、Knoblochによって、説き伏せられてしまった。しかし、弁証法では、私たちが会ったとき以来、全く前進していない。いずれにせよ、年が明ける前に少なくとも序論は完成させたい」[72]。しかし、この企ても実現できなかった。シュライアマハーのカレンダーへの書き込みは、労苦し、しばしば中断する弁証法の執筆の様子が伺える。そこから明らかなことは、彼が、休暇の時にだけ、そのための時間を見出せたということである[73]

その時までに、直接仕上げを目指した多くの準備作業に基づいて、「序論」の5つのパラグラフが仕上げられていた。その際シュライアマハーは、『信仰論』の叙述の形に従った。すなわち、彼は主題となる命題を掲げ、それにその都度詳細な注釈を付けたのである。これは、彼が、弁証法に、彼の教義学と同じくらい意義を認め、それを哲学的な主著として、形式的にも内容的にも神学的主著と同じ価値、同じ重さを置こうとしたことを示している。しかし、すでに1833年の秋には、シュライアマハーは、この計画はもはや実現不可能であるという結論に達した。シュライアマハーの学術的な講演や論文に対するヨナスの未刊行の前書きによれば、シュライアマハーは183424日にヨナスに対して次のように語っている。彼は病ゆえに自分の講義を中断しなければならなかった後で、「私が、自分自身についてよく考えるためにも、安静な時間を用いたことは、いかに正当なことでしょう。私は、全く新しい人生の道をとることに心を決めました。すなわち、君も知っているように、私は、自分の弁証法とキリスト教道徳とを、教義学に与えたのと同じ形式で仕上げようとしてきました。しかし、これを断念しました。私はこれをエンチュクロペディーが持っているような形式に急いでまとめたいと思います。それならばおそらくは完成できるでしょう。それ以外は困難です」[74]。しかしこの企てももはや遂行できなかった。1834212日天に召されたのである。彼は死の直前に自分の学問的な草稿の管理をヨナスに任せたのだった。その際に、彼は次のように言ったといわれる。「君に私の書いたものを委ねます。特に弁証法、キリスト教倫理学、そして使徒言行録についての私の見解をまとめて、刊行するように、心にかけて欲しい」[75]

 

■弁証法講義の反響[76]

シュライアマハーの弁証法講義について、同時代人による直接の反響は、今までのところ、親しい友人が日記に残した感想や、第三者を介しての伝聞しか見出されていない。このことの原因は、単にシュライアマハー自身がそれを出版にまで仕上げることができなかったためだけではなく、そのような証言のうち、偶然に残され、研究の対象になったのはほんのわずかであったことによる。アルントは、この講義の影響を帰納的推測によってここから引き出すことはできないと言う。聴講者の数を基準にするなら、ヘーゲルと比較しても[77]、シュライアマハーの弁証法講義の直接的影響は、少なくなかったと考えられる。しかしながら、彼の時代の哲学的議論において、シュライアマハーは、弁証法の講義によっては、ほとんど知られていなかった。

1811年講義に対する反響を示す主要な資料は、アウグスト・トゥヴェステンによるものである。既述したように、この講義についてのこれまで知られている唯一の筆記ノートは彼によるものである。彼は最初フィヒテに心酔していたが、やがてシュライアマハーに引かれるようになった。彼は、日記や書簡、彼によるシュライアマハーの倫理学の版(1841)に、弁証法についての数多くの意見や考えを書きとめている。1811422日の日記には次のように記されている。「今日、長らく待ち望んだシュライアマハーの弁証法講義が始まった。すばらしい講義だった。彼が示したのは、哲学を実在的学問から分離したり、あるいは、他の時代に起こったように、それに対立させたりすると、哲学からいかに不健康でいびつなものが生じてくるかということであった。知の諸原理を知らなければ、学問は不可能だが、しかし、それら諸原理をあれこれ思案して考案し、叙述するだけで、それらに関わり合うことは、精神を殺してしまうと語られた。それは、私にとって、魂を揺さぶるような言葉だった。私は今、日々一層次のことを確信している。個々のものについての多面的な知識がなければ、全体についての正しい見方も不可能である。精神を伴わないただの知識が哀れであるように、最も偉大な精神も、その精神によって家を建てるためには、素材を必要としている(ということを確信している)。[]真に偉大な人々、カント、シュライアマハー、エアハルト、ニーバーたち、さらに加えるにゲーテやシラーに近づけば近づくほど、一層私は、彼らの精神の力に驚くのみではなく、彼らの博識なことにも驚かされる。シュライアマハーとラインホルトとの、最も本質的な教説の一つにおける一致は私を驚かす。すなわち、知の最高原理と、学問の構築の原理が一つであり、論理学が、従来のように、形而上学から分離されるなら、あるいは逆に形而上学が論理学から分離されるならば、両者は空虚で、何の役にも立たない。この釣り合いが、さらにどのように展開するのか、私は知りたい。シュライアマハーがラインホルトの最新の研究成果を知らなかったと私は確信しているだけに、一層知りたい」[78]

1811925日には、トゥヴェステンは講義を回想して次のように記している。「シュライアマハーの教義学と弁証法とは、私にとって非常に有益でした。[]弁証法は、学問の構造について本質的な示唆を与えてくれました。そして、それは同時にシュライアマハーの哲学的な基本命題を含んでいるので、私は最大級の関心を持ちました。私はベルリンで、すでに教義学の大部分を練り上げました。これからは弁証法の練り上げという次のステップに進みます」[79]

トゥヴェステン編集のシュライアマハーの倫理学(1841年)の前書きで、彼はさらに次のような思い出を記している。「すでに用いてきた」純粋に学問的な構築の「規則と方法を証明するために、また、それによって、倫理学の基礎を全体としてより大きな明証性や明瞭性へと高める、同時に、認識行為の諸規則に倫理的観点から注釈をする部分に、より確かな基礎と、専門的な議論とを与えるために、シュライアマハーは1811年以来弁証法についても講義している」[80]。これに加えて、ある注釈では次のように言われている。「シュライアマハー自身が、彼の思弁的な立場について持っていた意識の表現として、ここで言及したいことは、彼は、この講義で、シュテフェンスの哲学的自然学の根本特徴への序論を、彼が大方同意していた最高知の叙述と呼んだ」ということである[81]

トゥヴェステンとは全く異なる判断に至ったのが、ディルタイの報告によれば、Christlieb Julius Braniss(1792-1873)である。「私はシュライアマハーとフィヒテとを同時に聞いた。1811年のシュライアマハーの最初の弁証法講義は、非常に不確実であるという印象を与えた。特に、それをフィヒテと比較した時に」[82]

ヨナスによって1839年に出版された弁証法についての書評において、リッター(Heinrich Ritter)は、自分が聞いた1814/15年冬学期の講義について語ることから始めている。すなわち、「評者は、この書評に先立って少し個人的なことを述べることせずにはいられない。ここに出版になったものの大半をなしているのはシュライアマハーによって推敲された草稿であるが、それと同じ講義が1814年になされ、評者はそれを非常な熱意を持って聞いた。それは評者がシュライアマハーのもとで聞くことができた唯一の講義であったが、当時すでに数年来哲学的探求に満たされていた評者の心の中に実り多い種を蒔いてくれた。後に評者が論理学を、それはここで弁証法と呼ばれているものと本質的に同じ学問だが、講じ始めたとき、もし評者が、本書のような書をその時に利用できたら、いかに多くのものを得られたことだろう! 評者は、重要な点で、シュライアマハーの教説との一致を自覚していたし、また少なからぬ重要な点でシュライアマハーの教説との争点を自覚していた。評者は、シュライアマハーの教説に対する自分の関係を、聴衆に喜んで説明しただろう。しかし、講義からの言葉を書きとめたに過ぎないものを、評者は信頼することができなかった。今や、当時あれほど待ち焦がれた書が、不完全な姿とはいえ、出版された。しかしながら、評者の当時の熱望は、今では冷めてしまっているのは当然である。評者は、自分自身の道を切り開かねばならなかった。25年前には、評者に重要な助けとなったが、今も同じであるというわけではない。しかしながら、評者をシュライアマハーの弟子であると呼ぶ理由がどの程度あるかを人が今判断できるということは、評者にとっても、非常に望ましいことである」[83]

講義の筆記ノートを除けば、講義についてのこれ以上の証言は、今のところ知られていない。これに対して、シュライアマハーの弁証法が、ヘーゲルの哲学に対抗する立場と見られたということへのいくつかの示唆が存在する。このことはついにはヘーゲルが、彼の『法哲学綱要』において、シュライアマハーの弁証法理解に対してあからさまにではないが論争を展開するきっかけとなったのかもしれない。しかし、こうした主張が講義の聴講に基づいていたということはあまりあり得ない。むしろ、シュライアマハーとヘーゲルの間での他の対決が、とりわけ、シュライアマハーの『信仰論』に対するヘーゲルの論争がきっかけとなったのだろう。ヘーゲルも自分のために弁証法を必要としたので、対立はすでに予想されたのである。

シュライアマハーが、弁証法によって、そもそもフィヒテの知識学の持つ絶対的な妥当性の要求を防ごうと望んでいたのならば、1818/19年冬学期にヘーゲルがベルリンへ招聘されたことにより、新たな事態が生じた。すなわち、シュライアマハーがこれまで根本的に取り組んだことのなかったヘーゲル哲学との直接的な競合が始まったということである。シュライアマハーの弁証法の中にヘーゲルの『論理学』に対するよき対抗策を認め、それゆえに繰り返しシュライアマハーに対して、それを出版するように迫ったのも、トゥヴェステンであった。1815626日付の書簡において彼は、シュライアマハーによって計画された哲学的倫理学の出版に関連して次のように書いている。「弁証法講義は、おそらくあなたが、弁証法の序論を幾分拡大するきっかけとなったでしょうか? そのような拡大にもかかわらず、次のことは今なお常に真実であり続けています。すなわち、倫理学は、目下前提とされている思弁的な見解をよりどころとしなければならないということです。したがって、もしあなたが、その思弁的見解の主要点を簡潔に叙述することによって、これまで以上に明確にし、それをはっきり理解したいと望む人々に資するならば、大変ありがたいと私は考えています。それを自らの課題としていたように見えるヘーゲルの客観的論理学は、その見事な序論によれば、すばらしい内容を含んでいます。[]あなたはこの書に一度は目を通されましたか? 私はあなたがそれについていかに判断されるか知りたい」[84]。これに対してシュライアマハーは、短く次のように答えている。「ヘーゲルに私はまだ目を通していません。しかし、書評から大体の見当を付けています」[85]1819720日付のシュライアマハー宛の書簡において、トゥヴェステンは、再びヘーゲルの『論理学』に触れ、その際彼はシュライアマハーの弁証法との違いを強調して次のように書く。「ヘーゲルに関しては、彼には論理的な形式がより多くの意味を持たねばならないか、さもなくば、そうした形式が彼に意味しているものを、それは意味することができません。あなたの弁証法には、ヘーゲルの論理学とは何と違った精神が存在していることでしょう」[86]

事実ヘーゲルは、すでに1820年に公にされた『法哲学綱要』(出版は1821年)において、パラグラフ31の注において、ある論争を織り込んでいるが、それは全くシュライアマハーに向けられたものであるとアルントは言う[87]。すなわち「概念の運動の原理、普遍の特殊化として、単に解消ではなく、産出的でもあるようなものを、私は弁証法と呼ぶ。したがって、それは感情や直接的意識といったものに与えられる対象や命題を、解消したり、混乱させたり、あちこちに導いたりして、その対象の演繹に関わるといった意味で、否定的な方法なのではない。それはしばしばプラトンにおいてもそのように現れるが。したがって、弁証法は、表象の反対を、あるいは、古代の懐疑主義のように決然と、表象の矛盾を、あるいは、真理への接近を、最近の中途半端を、その最終的な結果を見なすことができる」[88]。「プラトン」、「感情」、「直接的意識」といった言葉によって、生成する知の理論としてのシュライアマハーの弁証法が示唆されていることは間違いない。

 

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[1] KGA V/5,S.75(Brief1033)

[2] Ebd.,S.76

[3] Vgl.Schleiermacher:Grundlinien,S.11,2f.

[4] Fichte:Grundlage der gesammten Wissenschaftslehre, S.3 (Werke. Akademie-Ausgabe, Bd.1,2,S.255)

[5] Schleiermacher:Grundlinien,S.20f.

[6] Ebd.,S.V

[7] Ebd.S.487

[8] Ebd.S.23

[9] Ebd.S.22

[10] Platon:Werke,Bd.1,1,S.9

[11] [UPP:39]さらに[DF2002:31f]を参照。

[12] [DF2002:32f.]

[13] An Fridrich Heinrich Christian Schwarz, KAG V/5,S.73(Brief 1033)

[14] Schleiermacher:Werke, Bd.2, S.175

[15] Ebd.,S.78f.

[16] Ebd.,S.82

[17] Ebd.

[18] [KGAU/10,1:XIVf.]

[19] [KGA I/6:37f.]

[20] [Werke,2:79f.]

[21] [MAS:122f.]

[22] [Rez:580]

[23] [KS:45]

[24] [KGA V/3:314]

[25] [BW 4:94f.]

[26] [Werke 2:81]

[27] [Ebd.:164]

[28] [Ebd.:217]

[29] [UPP:67]

[30] [Ebd.:140]

[31] [Ebd.:241]

[32] [KGAU/10,1:XXI]

[33] [KGA I/6:48f.]

[34] ヘーゲルの『精神現象学』をシュライアマハーが入手したのはようやく1816年である。そして、今までのところ、この書をもっと前に受容していたという証拠は存在しない。ヘーゲルの『差異論文』(1801年)の方は、シュライアマハーは知っていたが、そこには「弁証法」「弁証法的」という術語は用いられていない。他方、1812年以降『論理学』が現れるが、シュライアマハーがそれを購入するのは、ようやく1816年になってからである。[KGA U/10,1:XXIV,anm.61]

[35] [KGAU/10,1:XXIV]

[36] [Ebd.]

[37] [KGAU/10,1:XXV-XXVI]

[38] この部分の大筋は[KGAU/10,1:XXVIf.]による。

[39] [Heinrici:158]

[40] アウグスト・デトレヴ・クリスチャン・トゥヴェステン(1789-1876)は、1814年からキール大学の神学と哲学の教授であり、1835年以降はシュライアマハーの後継者としてベルリンへ招聘された。

[41] [KGAU/10,1:XXVIII]

[42] [BW4:180f.]

[43] この部分の大筋は[KGAU/10,1:XXIXf.]による。

[44] 1813-15年の対ナポレオン戦争のこと。

[45] [Heinrici:261]

[46] [Ebd.:264]

[47] [KGAU/10,1:XXXI]

[48] [Ebd.:XXXIf.]

[49] この部分の大筋は[KGAU/10,1:XXXIIf.]による。

[50] ベルンハルディは、1800320日、ヴァルテのランズベルクでユダヤ人商人の息子として生まれた。1817年からベルリン大学で文献学を学び、1822年には博士号を取得、1年後には教授資格試験に合格する。彼は、ベルリンでヘーゲルの聴講生でもあり、後には、ヘーゲルが創刊した「学問的批判のための年報Jahrbuecher fuer wissenschaftliche Kritik」の共同者にもなった。1825年には員外教授となり、1829年には、ハレ大学の古典文献学教授及び文献学研究室の長に招聘された。幾つものアカデミーの会員であり、ベルリンのアカデミー会員でもあった。1875513日ハレで没する。

[51] ツァンダー(1799-1877)は、ベルリンでギムナジウム、グラウエン・クロスターに通い、1827年にはベルリン・ビスドルフの説教者となった。1864年4月1日に退職するまで、その職にとどまった。

[52] この筆記ノートはハンブルクの監督教区長ウタ・グロース夫人の所有になるものである。所有者によれば、この筆記ノートの以前の所有者は、フォン・ヴォルフラム少佐(詳細は不明)まで遡ることができる。彼は筆記ノートを、19世紀の80年代に、軍隊時代の同僚であり、後には海軍の呉服商としてキールに定住したヴィルヘルム・ヴィッテ(ca.1860-1939/40)に遺産として残した。記憶によるヴィッテの生没年が正しいとするなら、ヴォルフラムが筆記ノートの最初の所有者であったかは疑わしい。なぜなら、講義の聴講者であるためには、1800年には生まれていなければならないが、そうだとするとヴィッテと会った時すでに80代になっていたことになるからである。片面だけに書かれたノートで表題は「シュライアマハーの弁証法講義に折に触れて現れる言語論に関係する覚書」は、この筆記ノートの製作者あるいは最初の所有者が、駆け出しの言語学者であることを暗示している。

[53] [DO:XXIX]

[54] [KGAU/10,1:XXXIV]

[55] Klamrothはすでにヨナスが用いている。Kropatscheck, Saunier, Szarbinowskiは、オーデブレヒトによって、補足的に用いられた。BonnellHagenbachは、KGAの準備の過程で確認された。

[56] Karl Wilhelm Eduard Bonnell(1802-1877)、古代言語学者、ベルリンのFriedrich – Werderschen Gymnasiumの教授・校長。

[57] Karl Rudolf Hagenbach(1801-1874)、バーゼル出身、18191823年バーゼル、ボン、ベルリンで神学を学ぶ。バーゼルにて1823年私講師、1824年員外教授、1829年正教授(教会史及び教義史)

[58] Carl Heinrich Ludwig Kamroth、ポメルンのスターガード、バリーン出身。説教者の息子。182048日から1822817日までベルリン大学在籍。

[59] Johann Gustav Wilhelm Kropatscheck、ポツダムのNowawes出身。説教者の息子。182045日から182597日までベルリン大学在籍。

[60] Johann Carl Heinrich Saunier、ベルリン出身。説教者の息子。1821817日から1822108日までベルリン大学在籍。

[61] Franz Ludwig Eduard Szarbinowski、ポーゼンのブロムベルク出身。市会議員の息子。1821818日から1823410日までベルリン大学法学部在籍。

[62] [BW4:356f.]

[63] [BW4:358f.]

[64] [KGAU/10,1:XXXIX]

[65] Julius Schubring(1806-1889)シュライアマハーのところで家庭教師であり、後にデッサウの牧師となる。Felix Mendelssohn-Bartholdyと親交があり、彼のために、また彼と共に台本作者として活動。1829525日付のシュライアマハーの書簡の受取人としても知られる。国家論講義の筆記ノートも彼によって残された(vgl.KGA II/8,S.LVIII)

[66] [DJ:446f.]

[67] この箇所の大筋は[KGAU/10,1:XLf.]による。

[68] Wilhelm Heinrich Erbkam(1810-1884)Karl Heinrich Sackの甥。ボン大学でSack, Nitzsch, Bleekの下で、ベルリン大学で、Schleiermacher, Neander, Marheinekeの下で、ヴィッテんベルク大学でRotheの下で学ぶ。1838年、ベルリン大学で教会史の私講師、1847年からケーニヒスベルク大学で教会史の員外教授、1855年より正教授となる。

[69] [DJ:483f.]

[70] この部分の大筋は[KGAU/10,1:XLIIf.]による。

[71] [KGAU/10,1:XLII]

[72] [Ebd.]

[73]最初の書き込みは183212月暮れで、正確な日付はない。「弁証法、休みの間、非常にわずかしか進まず」。18332月末頃、シュライアマハーは、この仕事を再開する。223日の書き込みは「説教と弁証法の準備」とある。さらに5月末までの書き込みは次の通り。32日「弁証法と説教」、39日「説教、弁証法(しかし新しい事は何もなし)」、323日「説教と弁証法」、41日「弁証法の清書を開始」、44日「弁証法の最初の§を終了」、413日「弁証法、説教」、416日「弁証法と説教」、422日「弁証法」、424日「弁証法」、511日「弁証法」、525日「弁証法」。5月以降、次の、そして最後の書き込みは、ようやく103日である。その間、彼はスカンジナビア旅行に出ていたからである。その書き込みは「弁証法を少し、散歩をたくさんした」。[Ebd.:XLIIf.]

[74] [Ebd.:XLIII]

[75] [Ebd.]

[76] この箇所は主に[KGAU/10,1:XLVf.]による。

[77] 1822年夏学期、ヘーゲルは論理学と形而上学を講義するが、聴講者は74名。シュライアマハーの弁証法講義には118名。1828年の同じ講義のときには、ヘーゲルは128名、シュライアマハーは129名だった。

[78] [Heinrici: 177]

[79] [Ebd.:205]

[80] [KGAU/10,1:XLVII]

[81] [Ebd.:XLVIIf.]

[82] Dilthey:LS,Bd.2,1,S.148

[83] [KGAU/10,1:XLVIII]

[84] Heinrici: Twesten, S.261

[85] Ebd.S.264

[86] Ebd.S.346f.

[87] [KGAU/10,1:LI]

[88] [Hegel,Grundlienien:36f.]