home

back

最終更新日 20051228

ウールリヒ・バルト:「弁証法」による最終的基礎付けの方法−シュライアマハーにおける超越論的思考の理解

Ulrich Barth, Der Letztbegründungsgang der „Dialektik“  Schleiermachers Fassung des transzendentalen Gedankens. in:Ulrich Barth, Aufgeklärter Protestantismus, Mohr Siebeck, 2004. S.353-385. Zusammenfassung auf Japanisch von Kenji Kawashima.

353

はじめに

 主観性というテーマが、再び注目を集めるようになって久しい。というのは、ひとつには、およそ40年前からドイツ古典哲学の研究が隆盛してきたことが記憶されるべきである。この隆盛は、いわゆるカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった立役者たちだけに対して与えられたものではなく、その先駆者たちや、その周辺、影響史にまで及んだのである。これによって、主観性についての幅広い議論も、著しい正確さ、厳密さでなされるようになったのである。また他方、同じく60年代に始まったアングロサクソンの地域での展開が指摘されるべきである。シドニー・シューメイカー(Sydney Shoemaker)、ヘクトネリ・カスタネダ(Hector-Neri Castaneda)、ローデリク・シースホルム(Roderick Chisholm)、トーマス・ナーゲル(Thomas Nagel)その他の人々の業績以降、自己意識という主題は、分析哲学になくてはならないものとなった。これら時代的には平行している現象の背後には、しかしながら、著しい内容の相違が隠されている。超越論的もしくは思弁的観念論における主観性理論の再構築には、実践的自己意識や自我という考え、同一性概念への関心と並んで、とりわけ客観性、客観認識、客観意識の基礎付けの諸問題が、したがって、もっとも広い意味での構造理論的問いが支配している。そのような問いの原理として、主観性の一般的構造が現れるのである。これに対して、アングロサクソンの地域では、自己意識という主題でもっぱら問題なのは、その言語的表現の解明、「私」という見出し表現の日常用法における、あるいは、一人称単数現在において生じる自己の書き加えと共に、一人称単数現在の命題提起的なあり方における解明である。〈354〉対象性や対象意識の構築のための構造理論的考察は、せいぜい周辺である役割を演じるだけである。

 自己意識という主題とシュライアマハーの関わりを、以上のような議論の状況に位置づけをしようとすれば、間違いなく第一の文脈に組み入れられる。ヘルダーやハーマン、フンボルトと同じくシュライアマハーも、言語や記号の使用が、思考や意識の構築に決定的な役割を持っていると考えていた。−解釈学がこの点についてはおそらくもっとも雄弁な証拠を提供する。− しかし彼は、彼の未完かつ未刊に終わった認識論に関する主著、弁証法において、次のような理解を主張していた。すなわち、主観性は、そのもっとも深い核心において、言語以前の現象を表しているということ、また、主観性への認識論的回帰は、他ならぬ構造理論的な理由から必須であるということである。したがって、弁証法における感情あるいは直接的自己意識という概念は、『信仰論』の宗教現象学的基礎付けや、哲学的倫理学の文化論的叙述と異なり、優先的に超越論哲学的な性格を獲得するのである。しかしながら、そのような連関において「超越論哲学」が意味するものは何なのか?

 カントは、超越論哲学という理念を、作品史的にもまた体系的観点からも、範疇論の問題を手がかりに展開した。それゆえ自我の思想が、理論哲学の中心主題となった。なぜなら、範疇に従った表象の綜合はすべて、共通の認識様態的(epistemisch)機関への所属という先験的な均一性の条件を必要とし、また、意識の統一性への結びつきという先験的な同一性の条件を必要とするが、この両者は、思考の自発的な自己関係によってのみ、提供可能だからである。自己意識の可能性と対象意識の可能性とは、互いに含意し合っているということ、これは、カントの第一批判〔純粋理性批判〕の演繹の章の大胆なテーゼであった。〈355〉このような、範疇の問題を手がかりにして超越論的問題設定に接近するという方法は、カント後の観念論哲学にとっても主導的であった。他ならぬそこにおいて、その理論的な出発の状況が、さまざまな理由から、あまりにも狭すぎると見なされたのである。さて、シュライアマハーをカント、フィヒテ、シェリング、あるいはヘーゲルと比較してみると、シュライアマハーにおいて特徴的なことは、範疇論という主題、ましてや範疇の演繹可能性の問題が、まったく問題にならないということである。そこで改めて次のような問いを立ててみる。すなわち、シュライアマハーが、弁証法の第1部全体、弁証法の認識論的、形而上学的基礎付けを、弁証法の課題の「超越論的」部分と呼ぶとき、そのような表現によって何が意図されているのか(A I,89 = J 37f.)。以下、私は、7つの継起的に関連している章において、この問いに答えを与えてみたい。

 

T.弁証法の理論的プログラム

 シュライアマハーは、超越論哲学についての自分の理解を、今述べたように、何よりも弁証法の第1部門において展開した。しかし、また弁証法の機能全体が、超越論的という彼の概念に受け入れられてもいる。それゆえ、先ず、弁証法の理論的プログラムが、体系的な枠組みとして、想起されるべきである。少なくとも4つの次元が区別される。

(1)   学問論としての弁証法

弁証法においては、思考自体が主題化されてはいるが、しかし、思考について思考することが弁証法本来の目的であるわけではない。むしろ、そのような思考の自己解明は、何よりも、専門的学問の領域における事実的知の助成に資するものである。その際には、事実上、実在哲学の人文科学的学科が中心となる。このような実在知の学問化という目標決定によって、〈356〉シュライアマハーは、ハレ学派の哲学概念の伝統に立っている。

(2)   技法論としての弁証法

この規定は、一方では哲学の内部における方法論の比重を高める。近代、とりわけ現代における哲学的体系形成の肥大化は、シュライアマハーにとっては、何よりも形而上学と論理学とがばらばらになった結果である。両者は再び強く結び合わされることが重要だが、それは、哲学的方法論によってもっとも早く成し遂げられる。この規定は、また他方、凡俗な意識と、より高次の立場との分離を、真の思弁の前提としたエリート的な哲学理想に対抗するものである。このエリート的な哲学理想としてとりわけシュライアマハーの念頭にあったのは、初期のフィヒテと彼の知的直観の体系である。これに対して思考の技法論というシュライアマハーの概念は、日常的な意識も経験科学的な意識も、根源的知の欲求によって動機付けされており、多かれ少なかれその実現は常に技法にかなったあり方をするという前提に導かれていた。それゆえ哲学の課題は、この思弁以前の知の実践を概念化し、そこから規則を展開すること、そして、その知の実践により確かな歩みを与えることである。

(3)   認識論としての弁証法

シュライアマハーによれば、いかなる形式的な方法論も、その思考規則が、実在的知の認識様態的な根本構造に再帰的に関わり、それをよりどころとしなければ宙に浮いてしまう。これはさらに、カントの二部門からなる教説と関連して展開される。すなわち、知は、知的機能と有機的機能の二重性と協同によって産出されると。後者〔有機的機能〕を介して、私たちは、有機的印象や、感覚的形象という形式で外的な実在と接触する。その観念的な規定への転換は、〈357〉前者〔知的機能〕の責務である。しかしながら、両機能は、シュライアマハーによっては、カントにおける類似の概念よりも広い意味で受け取られている。

(4)   コミュニケーション論としての弁証法

知は常に、具体的な知覚の働く状況で形成される。そしてそこにおいてその都度の思考が表現される具体的な会話のやり取りと結びついている。しかし、同時に知には、間主観的に有効であろうとする意図が内在しており、それは、先の二重の割り当てに対して斜交いになっている。それゆえ、その普遍性への要求を果たすために、対話のプロセスが必要なのである。この対話が、整えられた進路で進み、それなりの成果を見込むならば、このためにまたも規則が必要となる。そのような対話の技法論という構想へと、シュライアマハーは、周知のようにプラトンの対話篇によって導かれていた。それは彼にとって、フリードリヒ・シュレーゲルとの共同作業以来、初期観念論の体系的思想の影響に対してバランスを取る対抗物となっていた。つまり、シュライアマハーにとって、他の諸機能と並んで、人間的な理解の実践の理論を展開することも、哲学の課題に属したのである。

 

以上4つの局面は、当然のことながら、これでシュライアマハーの弁証法の理解を汲み尽したということにはならない。特に、これらの相互関係を解明することは、さらに必要だろうが、ここではそれをなすことはできない。しかし、とにもかくにも、以上の4つの局面は、私たちが、シュライアマハーの超越論哲学の理解を限定することを可能にしてくれる。4つ目の局面が、その入り口を提供してくれる。対話遂行の技法論というプログラム形式が、すでに示しているように、シュライアマハーの出発点は、対話のパートナー同士の相互了解が、日常あるいは学問上のコミュニケーションの支配的状況では決してないということである。無理解が、あらゆる解釈努力の出発点をなすという「解釈学」の状況と類似して、弁証法もまた、通常物事は当初論争状態にあるということを考慮しなければならない。この不合意の状況を、方法的に規制された仕方で克服することが、弁証法によって立てられた〈358〉理解の規則の目的に他ならない。なぜなら、論争と知は、その言葉の十全な意味において、相互に排除し合うものだからである。これは可能的知の合意論的な(konsenstheoretisch)〔第一の〕前提である。そこでシュライアマハーは、次のような指摘をする。すなわち、もし当事者である討論の相手が、同一の現実に関わっているということを仮定し、そのように要求しないならば、その事柄について述べる論争は不可能であると。なぜなら、そうでなければ人は決して意味のある論争を交わすことはできず、単にどうでもいいおしゃべりをしているに過ぎないからである。そして同じことが、十全な意味において、今追求されている協調にも妥当する。しかし、このことは次のことを意味する。存在に対して共通の関係を持つことは、間主観的言語的世界解釈の必然的制約を作り出す。これが、認識に関する論争や理解のプロセスの第二の前提、可能的知の妥当論的な(adaequationstheoretisch)前提である。しかし、そのような伝達の状況をより詳しく分析すると、次のことが示される。すなわち、通常の事例では、そのような存在への関係が、全体として問題にされることはほとんどなく、単にその個々の部分や、その代案的な近接規定があるに過ぎない。それは異なった情報の連合体や概念装置であり、論争による評価へと通じるものである。シュライアマハーによれば、認識に関する論争状態のこの局面が、最終的に克服されるのは、潜在的なすべての論争相手が、言語上の世界解釈の仮想の全体に関わり、そこにおいて、すべての可能な経験データが有効となり、すべての述語体系、言説組織が互いに網目状につながった時である。認識の全体性についてのこの構想が、可能的知の第三の、統一性論的(kohaerenztheoretisch)前提である。もし人が、後二者の前提を、すなわち、妥当論的前提と、統一性論的前提を考慮に入れるならば、認識に関する理解の努力の成功は、知の概念における最高に前提豊かな構造要求と結びついていることが、認められるであろう。言語上の世界解釈の領域における合意形成は、いずれにせよ、それが集団的な受容の経験に限定されることがなければ、共通の慣習の実践的な承認よりもはるかに大きなものとなる。

今、正に述べたことを認識論的な真理概念の偉大な伝統に戻すならば、次のことが示される。その主要問題は、すべてシュライアマハーにおいても表れている。すなわち、統一性の問題、〈359〉合意の問題、妥当性の問題である。それらは、弁証法の意義において、言語上の世界解釈理論の中心に属する。同時にシュライアマハーの考えによれば、この三つの問題は、真理論の枠組みにおいては最終的に明らかにすることはできず、ただ知の理論の地平においてのみ明らかにされる。真理の定義と真理の基準論の区別によって開かれる空間は、彼にはまだあまりに狭く思われたので、実際に残っている網の目上に結合する作用を、方法論的に考慮することはできないのである。それゆえ、統一性や、合意、妥当性の問題は、弁証法によって、真理論的にではなく、知識学的に取り扱われるのである。シュライアマハーは、次の点ではヘーゲルと同意見であった。すなわち、それがいかなる種類のものであれ、真正性の問いに対して要求される調停の歩みは、非常に複雑なので、それはただ全体的な知の概念によってのみ相互に調整することが可能である。ヘーゲルと異なって、シュライアマハーは、そのような知の全体性のモデルの建設契機に関して、カントによって導入された構成(konstitutiv)原理と規制(regulativ)原理の区別‐それを彼は独自な仕方で主張しはしたが‐に固執した。完全な合意、完全な体系は、彼にとっては常に、最終的観念、あるいは理論的な目標概念であった。しかし、どのようにしてこのような構成に関する問題が、知の建設の内部で定式化され、解決へと導かれるのであろうか?

 

U.超越論的思考の端緒

 出発点を形成しているのは、次のような考察である。すなわち、構成主義的な性質を持つ知のモデルもまた、どんな構造にも先立つ前提を含意している。これが意味しているのは、そのモデルが、偶然的な知覚のプロセスや、間主観的了解プロセスの成功不成功の偶然性に依存しているということ以上のことである。そのような構成不可能な前提は、むしろすでに述べられた妥当性の問題に該当するものであり、知全般の可能性に関係させられる。私たちは、論争と合意についての構造的な含意を解説する関連で、次のことを見た。すなわち、存在に対する共通の関係は、言語的世界解釈の必然的条件を形成しているということである。〈360〉知の理論に立ち向かう超越論的問題を、シュライアマハーは次のことに見ている。すなわち、思考はすべて、それが現実の知欲求に対応している限り、それ自身の実現の可能性を暗に含んでいるか、あるいは逆に、独自な象徴化の活動に対して世界が開かれていることを前提としている。超越論的という概念についてのシュライアマハーの考察全体は、あらゆる構造に先立って、言語化された思考と現実世界の一致関係を可能にする条件をめぐっている。この一般的な状況もまた、知のプロセス自身において具体化される。シュライアマハーはそれを二つの事例によって明らかにする。第一の事例は、知の論理的文法的側面に関係する。およそ言語の叙述的な形式諸要素‐彼にとって中心的位置を占めるのは概念と判断であるが‐は、実在に、そのつどその実在のあり方で規定性を与える。それはすなわち、それら〔形式諸要素〕が、単なる思考形式として、それら独自の存在論を導くということである。知の産出の成功は、それが企てた記述によって、自らが、同一の存在の異なった局面であることを、最終的に示すことにかかっている。第二の事例は、二つの本質的な認識操作に関係している。知的機能によって存在は、観念的に表象される。これに対して有機的機能によっては、具象的な(bildlich)仕方で表象される。ここでもまた一貫して次のことが前提とされている。すなわち、第一に、具象(Bild)と概念とは、そもそもある存在を表わしている。第二に、もしそれら〔具象と概念〕が、収斂していくならば、それらは同一の存在を表わしている。これにより、超越論的問題へのシュライアマハーのアプローチは、次のテーゼにまとめられる。思考によって意図され、知において実現する概念と対象の一致は、「両者の根源的同一性」(A I,105 = J87)に基づいている。

 この現実性のあらゆる観念的な構築の構成不可能な「前提」(ebd.)を、シュライアマハーは、知の超越論的(transzendental)、あるいは超越的(transzendent)根拠と呼ぶ。この最終的根拠は、超越論的と呼ばれる。なぜなら、それは、およそ知一般の可能性の先験的な条件だからである。同時にこの根拠は、それが境界概念としてのみ思考され得る限りでは、超越的と特徴づけされる[1]。この根拠は厳密な意味では、もはや存在者ではない。なぜなら、それは自分自身の概念を、自らの外に持っていないからである。反対に、この根拠は、概念の系列の最終的代表という意味での最高概念の上にも、境界概念として立っている。なぜなら、この根拠は、その場合さらに、外的な存在の対応物を〈361〉所有するからである。それゆえ、シュライアマハーは、この根拠を、最終的な統一思考として、すなわち、そこにおいて「思考と対象の対立が止揚される」(A I,105 = J86)ようなものの「イデー」として捉える。知の可能性は、「観念的なものと実在的なものとの純粋に超越論的な同一性」(A I,142 = J150)に基づくのである[2]。この統一あるいは同一性の形式の概念史的背景を形作っているのは、明らかにプラトンのEpekeina思想[3]とシェリングの無差別の思想(Indifferenz-Gedanke)である[4]。事柄に即して重要なのは、絶対者という哲学的概念である。知を実現する条件としての超越的根拠を提示することで、シュライアマハーの超越論的議論は、哲学的な最終基礎付けについての思考へ拡大される。論理的に後退的な態度が持つ方法論的な限界が、そこには常に認められる。その点に、中期シェリングとの最も深刻な相違がある。「神は、その認識があらゆる認識の基礎であるのと同じくらい確かに把握不可能である」(A I,37 = J322)。この矛盾したテーゼにおいて、最初の弁証法講義は、その最終的基礎付けのプログラムを要約している。絶対者は知の根拠であり同時に知の境界である。シュライアマハーの弁証法は、絶対者の演繹的な形而上学を展開しない。そうではなく、人間精神の超越的関係についての還元的な理論を展開する。シュライアマハーによる問題構成の仕方に、直接的な模範を求めるとしたら、その名自体はこの連関に該当しないにもかかわらず、真っ先にカントを考えるべきだろう。すなわち、カントの『実践理性批判』の第U部における最高善に関する教説である。カントが、道徳性のゆえに〈362〉倫理法則と自然秩序との間の一致に対して、一致の保証人を要請したように、シュライアマハーは、知の絶対的統一根拠のイデーによって、思考と実在、あるいは、言語と世界との一致に対して、一致の保証人を要求する。この超越的な一致の保証人は、シュライアマハーにとってはカントにおいてと異なり、単に実践的確かさを内容とするものではない。ましてや,カントの第一批判における意味での単なるまとめの思想というのでもない。そうではなく、この保証は超越論哲学の意味における構成原理のあらゆる特徴を持つのである。

 

V.問題点の移動

 私たちは、シュライアマハーが、超越論的な問いを、知のための最終的一致の基礎の問題にまで[5]、先鋭化しているのを見てきた。シュライアマハーが、この証明目標の構成との関連で、その認識論的遂行に取り組むと、人は期待するかもしれない。しかし、そのようなことはなされない。そのような反応を引き起こすものは、さし当たって次のような発見である。すなわち、その最終的根拠の概念的把握は、すでに論理的存在論的境界によって、不成功に終わるということである。それゆえ、基礎付けの戦略に全く驚くべき変化が生じる。それは、一連の問題点の移動において現れる[6]。少なくとも、以下の三つがここで言及されねばならない。

(1)      超越論的問題の拡大

 シュライアマハーの説明によれば、超越論的課題の解決は、倫理的側面をも考慮しなければならない。なぜなら、ここでも思考と存在との一致が要求されるが、思考に関しては、意欲としても問題となるからである。私たちの意欲に関して、その実在への関係の可能性の問題が、知においてと類似した形式で表れる。シュライアマハーは三つの局面を念頭に置いている。第一に、意欲は単なる願望ではなく、願望には譲渡不可能な現実化の意図を含んでいる。志向的な地平において実践的意識は、自らを超えるように指示する。もしこの進出が単なる幻想であるべきでないならば、第二に、この進出には、外的存在の形成可能性が対応しなければならない。そうでなければ、その実践的志向性は、それにふさわしい実現の様態なしであり続けることになってしまう。そのような実現が意味しているのは、〈363〉因果的な変化の衝動に対する単なる感受性以上のものである。なぜなら、第三に、それは、現存する現実性が、意欲の目的設定を自分の中に受け入れることができるということを含んでいるからである。あらゆる行為は、その限り、実践理性の客観化なのである。したがって、行為となる意欲は、知となる思考と同様に、観念的なものと現実的なものの一体化を前提としている。しかし、これによって同時に、主観の外部への関連付けにおいて、構造的な紛糾が生じる。なぜなら、一方の認知的な立場では、外的存在は、規定するものとして現れ、人間の有機組織は影響を受け得るものとして現れるのに対し、他方の立場、実践的な立場では、人間的な有機組織は規定するもの、外的存在は影響を受け得るものとして現れるからである。両者は、人間知性の自己理解にも影響を及ぼす。シュライアマハーはそこから次のように結論する。これら知と行為における二つの逆方向の一致関係の超越論的条件は、少なくとも同一でなければならない。なぜなら、そうでない場合には、主観が持つ実在連関の統一性は失われてしまうからである。

(2)      超越論的問題の主観化

 思考に対して意欲の場合に生じる、規定する部局と規定される部局の交代は、単に人間の有機組織の外への連関に当てはまるばかりでなく、両機能を持っている主観内部においてすでに起こっているとシュライアマハーは指摘する。なぜなら思考の認知的な力は、直接外的実在に関係するわけではなく、実在に由来する主観的な感覚印象に関わり、それを加工するのである。また、反対に、意欲が持つ規範的力は、直接世界に働きかけるわけではなく、一般的な自然連関に介入する身体の動きが作動するという仕方でなされるのである。これが意味しているのは、精神の認知的な機能は、身体の有機的受容性適合していなければならないし、反対に、身体の有機的活動は、精神の規範的機能に適合していなければならないということである。したがって人は、精神と身体の関係という主観的次元において、観念的なものと実在的なものの二重の、対立する統一について語ることができる。この二つの正反対の対応関係を可能にする根拠は、異なるものではあり得ない。なぜなら、そうでなければ、両方の執行形式において行動する人間の統一性が、停止してしまうからである。

(3)      超越論的問題の内的転位

 具体的に示された人間学的ジレンマは、すでに人間の意識構造に由来するものであると指摘することにより、シュライアマハーは、超越論的問題設定をさらに広く押し進める。なぜなら、思考と意欲とは、‐それらの外的連関や現実化の様態を全く度外視しても、それ自体、志向的に正反対のあり方をしている[7]。それゆえ、その最も根底にある形式に従って、問いは次のようにならねばならない。思考と意欲の構造的な対立によって、精神生活の統一が破棄されないということは、何によって保証されるのか?超越論的問題設定の内的転移は、以上述べてきた三つの問題点の移動の中で最も射程距離の長いものであることは明らかである。シュライアマハーが感情概念を導入するのもこの場所においてである。

 以上の問題点の移動から生じ、弁証法の展開全体を規定する新たな証明目標は、二重である。先ず、感情は実際に、主観の精神的統一性を確保することができるということが示されねばならない。シュライアマハーはこの課題を、伝統的な同一性モデル及びそれと平行して現れるカントフィヒテ的な自己意識の理解批判を深めるという形で解決する。次に示されなければならないのは、感情が、その精神的統一性の創出によって、思考と意欲の実在性関係のために、超越的根拠の持つ構造的能力を有効に発揮させるということである。この議論の目標達成は、二つの部分課題に分かれる。第一の課題の実現は、意識の統一の事象としての感情が、同時に、超越的統一根拠を表すということの証明を、シュライアマハーが試みることによってなされる。第二の部分課題の実現は、感情が思考や意欲に対して主観内的に関わる仕方を通して、同時に、絶対者に対する感情の関係も構造論的に有効であるとシュライアマハーが示すことによってなされる。これによって、心理学的な問いが、再び、最終的基礎付けの思想の進展に開かれることになる。したがって、感情の機能は、三重に存在する。感情は先ず、思考と意欲の関係点及び統一点を準備する。次に、感情は、絶対者の主観的現在を保証する。そして最後に感情は、二つ〔思考と意欲〕と共に、人間の精神全体に対して、その超越論的機能を確保する。弁証法における感情論の体系的な要点は、次のテーゼに示されている。すなわち、主観性の統一性の問題と、その最終的基礎付けの問題とは、互いに結びついてのみ解くことが可能ということである[8]

 

W.同一性と感情

 感情概念の機能についてのシュライアマハーの論述は、超越論的考察で始まらず、一般的な主観性論の問いを解明することによって、それ〔超越論的考察〕を準備する。先ず重要なのは、啓蒙主義哲学の古典的な同一性モデルとの批判的対決である。このモデルはシュライアマハーによって、対象意識の枠組みによって方向付けられていると言われる。すなわち、一連の認知状態が基礎に置かれ、その一貫した関連部局として機能を果たすことが可能であり、その内容にしたがって、めまぐるしく変動する認知状態を意識の統一へともたらすことができるようなものの値が問われる。デカルト以来、この役割は認識様態的な自己意識に帰せられる。シュライアマハーは、次のように異議を唱える。そのようなモデルによっては、同一性問題の核心、その解決の本来の困難は、全く視野に入ってこなかった。なぜなら、認識様態的状態の統一が重要である限り、同一性の創出は、まだ構造的に同質の領域において生ずるからである。結合のための部局である自己意識、そして、その部局によって統一されるもの、すなわち入れ替わる意識状態、この両者は同一の媒体において、すなわち、認知的諸表象の領域で活動する。統一する部局の方が、統一される素材に比較して高次の位置にあるといっても、それは原理的な差異ではなく、段階的な差異に過ぎない。しかし、単に認識が総合へともたらされるばかりではなく、認識が意欲と入れ替わるような場合には、事態は全く異なってくる。そして、現実の意識においての常態は、正にそのような事態なのである[9]。意識化された生の進行は、単に内容的な断絶を示すばかりではなく、それは構造的不均質性をも抱えている。思考と意欲は、止むことなく相互に入れ替わっている。そして、この両者は、‐すでに暗示されたように‐構造的に同質ではない。思考は精神活動としては、模写的(nachbildende)活動である。意欲は模範的(vorbildende)活動である。前者では、〈366〉私たちは、世界に対して記述的な立場にある。後者では、規範的な立場にある。これに対応して、その実現様態も正反対である[10]。意識化された生の不均質なあり方は、したがって、この交替に先立つ関係の根拠、媒介の根拠、統一の根拠という構造的問題を投げかける。どのような精神的部局に、その同一性創出が割り当てられるのか?デカルトによる認識様態的自己意識は、‐すでに述べたように‐その構造的な限界のゆえに除外される。しかし、クリスチャン・ヴォルフの弟子たちによって取られた別の道、あらゆる特殊な心情能力に先立つ根本的力への立ち返りは、何の解決も提供しない。なぜなら、重要なことは、同一性の可能性を、本質存在論的にではなく、生の時間的な変化の流れという制約の下で、「系列としての生」(A I,266 = J428)を視野に入れながら理解できるようにすることだからである。したがって、本来の同一性問題は次のようになる。思考の状態から意欲の状態へと、あるいはその逆へと、自分の現実存在にとって意義深い転換に直面しつつ、その主観の精神生活の同一性はどこに基礎付けられるのか?同一性という主題の慣例的な理解ではなく、正にこのような問題をシュライアマハーは、主観性理論の重大問題と見なしたのである。

 この場所において、感情または直接的自己意識の概念も、今やとりあげられる。その超越論的基礎付けの能力が重要なのではまだない。そうではなくさしあたり重要なのは、その主観性理論的な役割である。この概念の強みは、シュライアマハーにとって次の点にあった。すなわち、それは経験的にも構造的にも(先ほど言われた意味での)同一性経験の姿として説明することができるということである。感情は、認知的な立場に対しても実践的な立場に対しても、独自なものを形成し、それゆえ、認知的また実践的自己意識の差異のまだこちら側でも、自己関係として存在しているのである。同時に、〈367〉主観が思考と意欲の間の交替という自分の状態を知覚する意識の形式を、感情が具体化する限りは、感情は、それら〔思考と意欲という〕二つの別の機能に関係しているのである。他ならぬそのゆえに、感情は、精神活動の正反対の形式の間を媒介することもできる。感情は、思考と意欲の移行を創出することにより、両者を結びつける。これによって、決定的な合言葉が発せられた。すなわち、感情の主観性論的機能の規定は、この移行の定理の明白さによって立ちもし倒れもする。感情は、シュライアマハーにとって二重の内容を持つ。一方で感情は、構造的制約として機能し、他方で、思考と意欲の間の移行が現実に起こる場所として機能する。この二重の仲介能力のゆえに、感情は、意識化された生の基礎的な同一性の条件を体現する。弁証法の移行理論は、シュライアマハーによる個人的同一性モデルの新理解の理論的核心を形作っている。従来の理解に対する体系的な深化は、次の点にある。すなわち、シュライアマハーが同一性の可能性の問題を、主観性の統一の条件への問いにまで拡張したという点である。

 移行理論についてのシュライアマハー解釈は、先ず、移行の場としての感情という局面に向けられる。これは二重の記述において起こる。第一は、限界値の分析という形で生じ、もう一つは、経験的心理学的観察という性格を持つ。前者に関して言えば、極限値の形成という意味で、両者の活動形式の間の転換が準備される。シュライアマハーはそれを「ゼロ点」と呼ぶ(A I,266 = J429)。すなわち、一方の活動の終わりと他方の活動の開始の転換点である。そのような境界の観察は、人工的な抽象を表現しているので、そこでは心理学的記述が援用され、それは常に連続へと導かれる。その結果、かのゼロ点は、それ自体としては決して純粋に実現化することはない。むしろ常に同時に、あの二つの活動が精神的状態としてそこに表れている。それが過ぎ去るところを捉えられたシルエットとしてであれ、あるいは正に始まりの先取りとしてであれ。〈368〉これが意味しているのは、移行の内的経過に基づく感情における思考と意欲の統一は、絶対的な無差別として経験されることは決してなく、常に「他方より一方により近いという相対的な同一性」(A I,143 = J151)として経験されるに過ぎないということである。それでは、感情を厳密な意味で、同一性の条件として、あるいは、主観性統一の基礎としてみなすということは、どの程度当てはまるのか?

 この問いは、思考と意欲の移行の構造的条件としての感情というもう一つの局面に通じている。先ず、1822年の講義草稿から決定的な箇所を読んでみよう。「思考において、事物の存在が私たちの中に、私たちの仕方で定立される。意欲においては、私たちの存在が事物の中に、私たちの仕方で定立される。[…]しかし、私たちの存在は、定立する存在であり、これはゼロ点にとどまったままである。したがって、定立するものとしての私たちの存在は、両方の形式の無差別の中にある。これが直接的自己意識=感情である」(A I, 266 = J429)。ほかならぬこのゆえに、同じ箇所の聴講者による筆記ノートは、直接的自己意識あるいは感情を「自己自身を保持する形式」(A II,576)と記している。とにかくこの箇所は、感情概念のより厳密な理解にとって、最高度に重要な解釈上の困難の全系列を隠し持っている。ここでは二次文献から最も重要な三つの解釈の試みを議論する。

 ファルク・ヴァーグナーは、上に引用された箇所から、感情がここでは自己を定立するもの、あるいは、自己定立と特徴付けられていると読み取る。そして、彼は、これによって感情を、フィヒテとの関連でディータ・ヘンリッヒによって主張された自己意識の反省のアポリアの事例と見なす。しかし、引用された箇所では反省的活動は全く問題になってはいない。シュライアマハーは単に定立について語っているに過ぎない。あるいは、感情において、私たちの存在が「定立する存在」として現れると語っているに過ぎない。そして、後続する文章は、定立という表現を、「両者の形式の無差別における定立」と簡明に述べている(A I,266 = J429)1831年講義草稿の対応箇所では、次のように言われている。「模写的思考はすべて、何かについての意識である。模範的思考もすべてそうである。移行自体はしたがって、ゼロについての意識である」(A I,334 = J524)。感情において現れるというあの単なる定立が意味しているのは、まだ何者にも向かっていない、そのような志向性のあらゆる差別化に先立つ意識活動であることは明らかである。思考と意欲における詳述‐それはシュライアマハーにとっては客観意識の形式をすでに表わすものである‐の手前にある精神活動一般が、ここでは問題になっているのである。〈369〉その意味は、弁証法における感情概念は、その根本的意義に従えば、まだ定まっていない意識活動の意識状態であり、したがって、精神的に生き生きとしたもの全般の知覚である。19世紀後半の理論であれば、ここで、精神的身体的活力の経験について語ったことだろう。エルプカムによる1831年講義の筆記ノートも、そのような基本的知覚を、「生の意識」と特徴付けている(A II,771)。意図されていることは、先の箇所と同じである。内的精神的に生き生きとしたものの感情において、私たちは、自らを一つの自己として発見し、現世での意図的な交替の経過に直面しつつ、自らを一つの自己として保持するのである。シュライアマハーが、感情を「自己自身を保持する形式」と特徴付けたのは、正にこの意味においてである。

 全く異なる解釈の試みをしているのが、マンフレッド・フランクである。彼は、自己感情と存在感情の関係への独自な体系的問題設定という地平に立ち、それは、存在への依存の経験が、自己意識の必然的契機を形成するという証明目標に役立つはずだという。このような前提から出発して、フランクは、先に引用した箇所と、後続の箇所‐私たちは後にこの箇所を議論することになるが‐に関して、次のような結論に達した。シュライアマハーにおいては、感情と直接的自己意識は厳密に区別されるべき概念である。その区別は精神的構造によるものではなく、その機能的面に関してである。直接的自己意識は、移行において自己を保持する「能力」にある。その際にそれ〔直接的自己意識〕は必然的に「存在の欠如」を発見する。直接的自己意識と感情の相違によって、次のような洞察が表明される。「自己意識は、それ自身の存在に対して現れることはなく、存在に絶対的に依存する」。このような解釈も、最終的にはシュライアマハーの意図を見損なってしまうと私は思う。これら二つの根本概念の原則的関係にここで立ち入ることはできない。なぜなら、そのような規定は、周知のように、シュライアマハーの著作全体を通して検討することを要求するからである。ここでは次のことを示せば十分である。正に引用された1822年講義草稿、フランクはこの草稿に特に依拠しているのだが、これは両概念を同一視している。さらに決定的なことは、この箇所に存在論的含意を持たせることは、テキストの中に全く根拠がない。シュライアマハーの〈370〉次のような確定、すなわち、「直接的自己意識=感情」において、「私たちの存在」は「定立する存在」として自らを表わすという確定は、自己の存在規定性を目指すものではなく、直接的精神的活力としてのその内容を目指している。存在の欠如というようなものは、全く問題になっていない。反対に、依存感情が内的に規定することを心得ていたものは、「存在」と等置されることは許されない。シュライアマハーにとって、超越的根拠は、厳密な意味で存在概念ではなく、他の場所でフランクも認めているように、絶対的統一のイデーである。フランクの存在論的解釈はシュライアマハーの議論の本質に関わるものではなく、ハイデガーや後期シェリングから着想したテキストの二重写しの結果である。

 第三に、アンドレアス・アルントによる議論が言及されるべきだろう。シュライアマハーの倫理学からのいくつかのテキストの助けと、関連するヘーゲルの事柄批判の光によって、アルントは、感情と直接的自己意識の等置から、ここでは一般的自己意識ではなく、個人的自己意識が問題になっていると読み取る。しかし、このような提案も、弁証法に関しては誤りに導くとわたしは思う。なぜなら、ここでシュライアマハーは、個体性理論の問いを問題にしているわけではなく、純粋にそれ自体として普遍的性格を持たねばならない知の形式的条件を問題にしているからである。特にこのことについて簡明的確に言及しているのが、1822年講義の筆記ノートである。引用してみよう。「自己意識は[]決して主観的なものではない」(A II,567)。「個人的なものは感情の中にはない。なぜなら、思考と意欲の同一性は、すべての人において同一だからである。移行も同様である」(A II,566)。弁証法の感情概念は、構造論の方法論的次元にあるのである。あるいは別のところでは、主観性は主観的なものでは決してないといわれている。それゆえ、シュライアマハーは、感情あるいは直接的自己意識の概念をどんな意味でも、感受性の概念から遠ざけておくことに、大きな価値を置いているのである。「感受性と〈371〉感情を、私は最大限厳密に区別する」(同上)。この区別は、先に言及した単なる定立の経験にも有効である。感受性においてとは異なり、精神的活力の内的知覚においては、「主観的受動性」(同上)は、問題にならない。シュライアマハーにとっては、受動性というカテゴリーは、感情の自己状態の場合には除外される。なぜなら「主観的なものと客観的なものとの対立は、ここでは使用不可能」(同上)だからである。感情の自己連関はおそらく区別や関係を含んでいる。しかし、区別されたものや関係付けされたものの対象化は含んでいない。この非対象的な反省に、その直接性は存している。

 ここで1822年夏学期の講義から優先的になされた引用について、全体として、次のことが注意されるべきである。すなわち、そこにおいてシュライアマハーが感情の構造について詳細に言及していることが目に付く。これは偶然ではない。その数週間前に、ヒンリッヒの宗教哲学への「まえがき」が、表わされたのである。そこには、絶対依存感情についての悪名高い冷やかしが記されていた。シュライアマハーが、ヘーゲルの「稀に見る愚かしい文章」を、少なくとも講義の枠の中で、自分の感情概念についてさらに簡明に説明することによって無力化するのが適当だと考えたことは明らかである。

 

X.感情と自我

 シュライアマハーの感情論の持つ批判的傾向は、以上に述べられた同一性問題の改訂では決して汲み尽されてはいない。それはまた、カント及びフィヒテ的な自我あるいは自己意識のモデルを取り入れている。カントは自己意識の概念を、「我思う」という悟性表象を手がかりに展開した。その表象は、『純粋理性批判』の第二版において、経験についての範疇の建設内で、我の所有性そして認知的諸表象の綜合条件として機能している。フィヒテは周知のように、自我という考えの建設に関する理論的立場の方法上の優勢を批判した。1798年の倫理学は、それゆえ、別の原理をその中心に据えている。それは形式的には、カントの根源的統覚に対抗するテーゼとして登場した。フィヒテの主張はこうである。「この自我は、根源的に自らを意欲するものとして見出す」。シュライアマハーは両者ともに不適切と見なす。なぜなら、それらは、彼の理解によれば、自己を自己となし、自己意識の内容を形作るものを、その根源性において見据えておらず、その変種において見ているに過ぎないからであった。

 このような反論の背景には次のような洞察がある。思考と意欲とは、志向的構造としてすでに、客観意識の性格を示している。思考は常に何かについての思考であり、意欲は常に何かについての意欲である。たとえこの「何か」がまだ内容的に特定されておらず、ただ空虚な場所という身分を持っているだけであるとしても。このことが正しいとすれば、それによってこの考えは、両者の機能にも当てはまる。「私は私自身を思考する者として意識する」という命題は、「私は私自身を、何かについての思考において意識する」ということを意味しているに過ぎない。また、「私は私を意欲するものとして意識する」というもう一つの命題も、「私は私を、何かについての意欲において意識する」という意味に過ぎない。そこから結果するのは、自己の思考の意識も、自己の意欲の意識も、言葉の厳密な意味では、自己意識を表わすことはできないということである。カント的な「我思う」も、フィヒテ的な「私は自分を根源的に意欲する者と見る」も、シュライアマハーとっては、自己意識と客観意識の高度に複雑な綜合をすでに具象化しているのであった。反論はさらに続く。認知的自己意識も、実践的自己意識も、それぞれの仕方で、自己意識の根本的な意味を変えてしまっている。両者は、自己の本来的性格を形作るものへの接近を、構造的な理由から妨げている。対抗して示されるテーゼは次のようになる。感情においてのみ、「私たちの純粋な存在」がそれ自体として現れる。「他の二つの機能においては、すでに事物存在が混入してしまっている」(A II,569)。それゆえ感情はシュライアマハーによって、「純粋な自己意識」とも呼ばれている(A II,565)。「純粋な」という付加語によって、直接的自己意識の概念は、上で言われたことと密接に結びついているさらなる要点を含むことになる。純粋な自己意識として、次のような自己に対する関係のあり方が有効になる。すなわち、そこにおいて、精神的生がただそれだけで、すなわち、それが持つ志向的な彫塑性や思考的な特殊化のこちら側で、意識されるというあり方である。感情はシュライアマハーにとって、そこにおいて自己が〈373〉客観意識の影響に依存することなく、純粋に自己として自己を把握できる唯一の経験形式なのである。

 ここからシュライアマハーの次の主張にも光が当たる。すなわち、感情は移行においてそれ自体として存在するのみならず、思考や意欲をも時間的な仕方で伴うことができるという主張である[11]。「伴う」という表現がカントからの借用であることは明らかである。しかし、それは弁証法のコンテキストでは別の機能を持っている。カントにとって、我思うによって伴われていることは、表象が先験的に私のものであるための条件であった。シュライアマハーにとって、感情の伴いは、その時間的登場という経験的地平において生じ、思考と意欲の活動の条件下での自己意識の現実的連続性に関係している。〔思考と意欲という〕精神活動の二つの形式は、そこにおいて自己自体が経験されるような知覚の形式〔感情〕を自らに伴っていないならば、私たちの状態として経験されないのである。認知的あるいは実践的意識についての反省の形式も、厳密に言えば、感情との結びつきにおいて現れる場合にのみ自己意識の形ということができる。したがって、感情の伴いの機能は、単純な、あるいは、反省された客観意識の条件の下での自己経験の恒常化に存在するのである。

 このような端緒から、シュライアマハーは、主観性論の到達距離に関して、あるいは、「自我」という言葉によって特徴付けられる自己状態の能力に関しても、批判的な結論を引き出す。自我という表象は、‐彼がカントに従う限り‐反省された表象であり、思考という身分を持っている。しかし、‐カントとは異なり‐、正にそのゆえに、それ〔自我表象〕には、根源的(primordial)な立場は与えられないという結論を引き出す。なぜなら、それは反省の産物であるから、あらゆる反省の媒介的性格に与っているからである。シュライアマハーは、自我という考えに本質的な反省の三つの次元を主張する。第一に、自我という考えは「抽象」の結果である(A II,567)。なぜなら、それは、思考する自我としてであれ、意欲する自我としてであれ、その開始を、客観的意識の領域から取り、その主観的極の孤立化によって成立するからである。私たちが「自我」を語るとき、私たちは単に、可能な実在的述語のもつ担う機能によって自分を同定しているに過ぎない。したがって、そこにおいて自我表象が捉えているのは、単に「意識された自己自身」であり全体としての「自己意識ではない」(A II,566)。第二に、客観意識のあらゆる活動における主観的極の一般的しるしとしての自我という考えは、〈374〉主観が、それとの関連において自らを自己を書き換える部局と見なす「諸契機の要約」に基づく。一般的な自我という考えは、したがって、意識の綜合あるいは総合的な統一の最終的可能根拠では決してない。そうではなく、綜合の働きの結果を表わしているだけである。第三に、同様なしかしさらに高次の段階の綜合の働きが、理論的また実践的自我の統一性の建設のために評価されねばならない。すなわち、思考と意欲が、その形式に従って、異なる系列を、すなわちただ構造的な転換(移行)によってのみ、それらの側では互いに関係を持てるような異なる系列を形成するならばである。その場合には、理論的自我と実践的自我の統一は、「先行する主観と後続する主観の同一性」(A I,334 = J524)に基づくことになる。ここに提出されている反省の構成要素は、したがって、「一つの系列から他の系列への[]自我の[]転送」(A I,335 = J524f)の状態にある。これら三つの反省の次元はみな、シュライアマハーが、自我という考え一般を、反省された自己意識という概念に包摂させ、これを本来的な自己意識、感情あるいは直接的自己意識から厳密に区別するきっかけとなる。

 最後に述べられた仲介的な機能、移行の綜合は、個人の同一性の建設にとって基礎的な前提としての移行というシュライアマハーの構想に、独自な光を投げかける。なぜなら、今述べられたことを取り入れる場合、移行の構造の受動的側面と自発的側面を区別することは不可避になるからである。直接的自己意識において経験されたあの最初の精神的生の統一は、「受動性の形式の下での移行」を象徴している。これに対して、理論的自己と実践的自己の統一で、反省において立てられる統一は、「能動性の形式の下での」移行を具現化している(A II,767 = J524)。シュライアマハーによれば、前者は、後者のための前提を形成している。しかしながら、前者にとって受動性の形式が特徴的であるということは、何を意味しているのか。ここで言われている受動性と能動性との区別は、明らかに統一性の構造の問いと関連している。今示したように、媒介された自己意識の統一性は、主観の綜合に基づいている。これに対して、直接的自己意識の統一性は、そのような綜合の働きに先行している。これによって、直接的自己意識の統一性は、次のような統一性の意義を指示している。すなわち、知を可能にする条件への問いという文脈において、自らを構造論的に決定的であると示すような統一性の意義である。それゆえ、最終的基礎付けという主題の全連関において自己の同一性や統一性の条件を問う心理学的あるいは主観性論的問いが〈375〉再び取り上げられねばならない。これによって私たちは、本来的な超越論的問題に戻ることになる。

 

Y.感情の超越論的機能

 知の可能性の条件を問う問いは、最上位の仮説あるいは「根源的同一性の前提」(A I,105 = J87)‐それは思考を実現する条件あるいは世界を解明する条件として機能するが‐に通じていることを、私たちは見た。次に私たちが見たのは、思考と存在の同一性の概念的な説明は、言語のカテゴリー的な可能性から遠ざかり、それゆえこのイデーはただ境界概念としてのみ評価できるということであった。最後に私たちが見たのは、そのような超越的根拠は、単に模写的思考〔知〕にとってのみならず、模範的思考〔意欲〕にとっても前提とされねばならないということであった。そして、その超越的根拠は、いずれの場合も、異なるものではあり得ない。なぜなら、そうでなければ、主観的な世界連関の統一性や主観の内的統一性が破棄されてしまうからである。とりわけ、後二者の点は、感情概念を超越論的基礎付けの見通しへと持ち来たらすものである。なぜなら、絶対者のイデーの境界概念的性格は、その述語化される以前の存在可能性を、常に未決定にしておくからである。同時に、思考と意欲の超越論的基礎をそれらが収斂する場所へ移動することは、両者の相互移動において自己自身を保持する受動的統一性としての感情を明らかにし、主観性の統一についての問いは、単に心理学的根拠からではなく、超越論的根拠からも解決が必要である。シュライアマハーのテーゼはこうである。感情を主観性の統一根拠にふさわしいものにするのと同じ特質が、感情を、超越的根拠の現われにふさわしくする。したがって、感情の超越論的機能は、その心理学的な統一作用と全体者の有限的現出というその役割の共同作業に由来する。

 認知的また実践的立場である反省された自己意識に対して、感情は、対象化されることのない二重のあり方をしている自己関係性を通して、自らを示す。一方で、感情は、主観の精神的な生き生きとした状態を、それが可能性として秘めている客観関係のこちら側で現在化する。それが感情の純粋性である。他方で、感情は、対象化されない仕方で、この内的な生き生きとした状態を意識にもたらす。これが感情の〈376〉直接性である。対象化される以前の知覚が持つこの二つの特質が、感情を、内的な存在解明の姿にする。「思考と意欲においては単に前提とされている統一性、観念的なものと実在的なものとの統一性が、感情において根源的に実現される。なぜなら、この統一は直接的意識だからである」(J152)[12]。感情の状態は‐アンソニー・クイントンの表現を借りれば‐自己表明的(selbstbekundend)である。この感情が、存在解明の理論的枠組みの姿(paradigmatische Gestalt)を具象化する。すなわちその独自な存在に関わるのである。この「私たちにおける直接的自己意識の中に、[]思考と意欲に対する超越論的根拠も存在しなければならない」(A II,571)。それが、観念的存在と現実の存在の内的一致という感情に特有な統一的性格に他ならない。シュライアマハーによれば、この性格が感情を、超越的統一根拠の現れ、あるいは「写し(Abspiegelung)(A II,572)となす。このように言うことによって、感情自体が意識内容の絶対的統一をもっているということが考えられているわけではない。むしろ感情は、その超越論的機能においても、家の外にあるものに、すなわち状態意識にとどまるのである。感情が、超越的統一根拠の現れとなるのは、感情が主題的に提示するものを通してではなく、たまたま、すなわち、特殊な統一の出来事としてのその性格を通してである。絶対者に対する感情の関係は、志向的な種類の関係ではない。そうではなく絶対者の存在的現われ(ontische Repraesentation)である。自己自身を所有する単なる形式として、感情は、絶対者の持つ対象を越えた統一性の図絵である。したがって、先にした議論との関係で、次のように言うことができる。感情は、シュライアマハーにとって、心理学的統一問題の中心となる。なぜなら、感情は、精神的統一の出来事として、最終的基礎付けの進展の最高点、絶対的統一根拠への入り口を開くからである。感情は、言うなれば絶対者との縫い目の場所にとどまる。二つの議論のプロット、すなわち主観性論的議論と超越論的議論とは、互いに補完して一つの全体を作るのである。思考と意欲を一つにするものとしての感情は、その対象化以前の統一によって、両者の存在解明の絶対的統一根拠を同時に表わす。

 感情と絶対者との存在的な関係についてのシュライアマハーの思想、またその現れの関係についての超越論的説明は、フィヒテが彼の後期の学問論で中心に据えている思弁的現象概念と、多くの点で類似している。〈377〉しかし、フィヒテにおいてと同様、シュライアマハーにおいても、その根本的な顕現関係は、直ちに、同じように根本的な屈折の規則によって覆われてしまう。後者〔屈折の規則〕は、シュライアマハーにとって感情の絶対者との関係自体から結果するものではなく、感情が精神の他の諸機能‐それらに感情は、自らの超越論的作用をもたらすのだが‐と束ねられている構造から結果する。現実的な意識の出来事としての感情は、観念的な存在と現実の存在の統一を具体化する場合、決して純粋な形式でこれをなすのではなく、常に思考と意欲の間の移行における同一性としてか、あるいは思考や意欲に伴うものとしてこれをなす。それゆえ、感情は、絶対者に対する感情の現象関係から感情に帰せられる統一機能、かの〔思考と意欲の〕機能に関する統一機能を、常にただ「相対的な対立を止揚する結合」として有効に働かせることができる。絶対者に対する感情の関係にとってこのことが意味しているのは、次のことである。差異の下での統一の創出として自らを働かせる感情の統一性は、ただ「超越的根拠との類似」(A I,266 = J429)を表わしているに過ぎない。その類似の契機は、観念的なものと実在的なものとの統一との構造的な同質性にある。差異の契機は次の中にある。感情によって作用する統一は、その統一がそこにおいて自らを働かせる諸条件の支配下にあり、したがって、常に相対的な差異の克服として作用するということである。伝統的な概念の組み合わせで言えば、絶対者は元型的な統一であり、感情は、その元型的統一に基づきながら、その外部でなされる(ektypisch)観念的なものと実在的なものとの統一である

 感情と絶対者の関係が持つ二つの特徴、現象関係としてのその性格と類比性に対する断絶性を、シュライアマハーは、〈絶対者が共に定立されてあること〉(Mitgesetztseins des Absoluten)という概念において結び付けている。この概念によって、弁証法の最終基礎付けの過程は思想的な高みに達するが、それは弁証法の超越論的部門に関してである。そこで私は、1831年講義から関連箇所全体をもう一度引用する。感情において絶対者が〈共に定立されてあること〉は「私たちが、私たちの自己意識において、一方の操作から他の操作への移行において私たちの存在の同一性をいかにして持つのか、存在の超越的根拠をいかにして持つのかというその仕方方法である。しかも、それを持つのは、模範的思考に対する関係と、その思考の存在に対する関係、模写的思考に対する関係と、その思考の存在に対する関係を平等に考えながらである」(A II,769 = 527)。絶対者が感情に共に定立されるということは、二重の意味がある。第一に、絶対者は、主題的に意図されるのではなく、現象関係の対概念(Relat)として与えられ、そこにおいて感情は、絶対者に対して有限的な統一の出来事として立つことになる。第二に、絶対者は、暗黙裡に要求された前提として、次のような場所でのみ使用される。すなわち、そこでは感情が、相対的対立の領域にあって、その対立の止揚として作用するような場所である。そのような〈共に定立されてあること〉の代わりに、シュライアマハーは、超越的根拠の無時間的な伴いについて語ることもできる。感情は時間的な仕方で思考と意欲に伴うことによって、これら〔思考と意欲〕は無時間的な仕方で、感情において表わされた統一根拠によってともなわれるが、それによって、それら〔思考と意欲〕の豊かさが確保されるのである。感情は、あたかも、それらを豊かに満たす媒体として機能する。

 これによってシュライアマハーは、この論文のはじめに素描した問題の移行や機能の拡大が目指す超越的根拠の規定を獲得した。絶対的統一性は、感情において現れることによって、感情に充満の媒体としての超越論的機能の能力を与える。それによって、絶対的統一性は、「思考の真理と意欲の現実性を規定するもの」(A I,305 = J475)として自らを示す。反対に感情は、「そこにおいて思考と意欲の対立が止揚される限りにおいて」(A II,572)、絶対者の反映という特質を持つ。したがって、絶対者の機能的性格と感情の機能的性格とは相互に規定しあっている。

 この対立を超えた同一性が、〈共に定立されてあること〉(Mitgesetztsein)あるいは無時間的同伴という形式においてのみ力を発揮するということは、さらに次のことを示している。すなわち、その同一性と有限な知や行為の間には、基礎付け関係が存在するが、しかし、それは演繹の関係ではないということである。思弁的演繹のいかなる試みも、始めから失敗に定められている。なぜなら、要求された最初の歩み、すなわち、観念的なものと実在的なものとの最高の統一を、有限な二つのものに分割(Ur-Teilung)することは、思考から離れているからである。あるいは、明らかにシェリングに反対して語られた言葉を引用すれば、「それらの産物における二つの要素を分けることは、可能である。しかし、対立自体は、その際、幕の後ろにとどまる。[]どんな説明でも、もっと成果をあげたいならば、詩的になるだろう」(A I,101 = J76)。単なる〈共に定立されてあること〉の思想、あるいは絶対者の無時間的同伴の思想は、したがって、厳密に還元的性格の最終基礎付けモデルの内的帰結である。

 しかしながら、共定立的あるいは無時間的に同伴する超越的根拠の実際的構築作用は、どこにあるのだろうか?ここでこの問いを包括的に扱うことはできない。そうではなく、〈379〉この問題の体系理論的側面について若干の示唆をするにとどめねばならない。それは、弁証法の中で何回も触れられている[13]。そのより詳細な論述は、「哲学的倫理学」において、特にその一般的序論の部分においてなされる。それによれば、基礎付けの連関は次のように述べられている。超越的な統一根拠、それはここでは最高の存在と最高の知の統一として述べられているが、それは、有限な存在や知に規定性を与えるあらゆる対立を超えている。その統一根拠が、感情における〈共に定立されてあること〉のゆえに、すべての有限な意識に、無時間的な仕方で伴うということは、シュライアマハーによれば、二つのことを意味している。第一の結果は方法的なものである。すなわち、その統一は現実の知においては決して特定の思考として現れないにもかかわらず、現実の知は、その統一の「図絵」になることはできる。すなわち、その「図絵」が、すべての反対の諸規定を、相互に組み合わされるものとして一つにまとめている場合である。それゆえ、対立の浸透や止揚の原則(Maxime)は、現実の知についてのシュライアマハーの理論の方法的根本規則を形作っている。また、思弁と経験との批判的な相互関係は、この原理の体系論的な適用を具体化している。これに対して、素材の観点では、以下のようなことが出てくる。観念的なものと現実的なものとは、常に、それらが同時に離れ離れになったり、相互浸透したりして現れることによってのみ、知の対象になることができる。有限な実在性では両者の最高の形(Potenz)である理性と自然、この二つは排他的対立を作ってはおらず、観念的なものと実在的なものの優位が変化するのに応じて、相互に浸透し合うのである。実在知に関する二つの基礎学科、自然学と倫理学は、それらの一般的な見通しの差異の内容に即した適合性の吟味のために、相互に役立つのである。対立の結合の原理は、それが方法的な観点であれ、内容的な観点であれ、感情において共定立された統一根拠の無時間的伴いの運用を可能にされた把握と見なし得るのである。

 

Z.最終的基礎付けと宗教

すでに見たように、シュライアマハーの超越論哲学は、問題構成からして次のような仮定によって制限されている。すなわち、人間精神の世界連関は、非経験的な基礎を必要とするということである。この基礎は、問題設定の拡大や内的移動を超えて、最後には、感情と絶対者、そしてそれらの潜在的構成の間の現象関係に見出される。同時にまた、感情概念は、シュライアマハーの神学的教義学における宗教理解の中心におかれる。それゆえ締めくくりに、哲学的な最終基礎付けの思想と宗教的意識との関係が論じられるべきである。この問いは、弁証法が、超越論的部門の終わりで、ほかならぬ宗教の役割に言及していることによって、特に危険なものとなる。一見次のように考えられるからである。すなわち、シュライアマハーは、宗教を、超越論的基礎付けの過程の最後を飾る要石として宗教を組み込んでいるかのようにである。しかし、弁証法内における宗教の機能の理解は、容易には規定できないものである。

 このことは、関連するテキストの部分の主題的な規定の試みにおいてすでに明らかである。§§216-227の論述は、神と世界のイデーを扱っている。そこで人は、このセクション全体が宗教を主題としていると思うかもしれない。しかし、詳しい検討が示していることは、これらの箇所は宗教的立場の解説とみなすことは決してできず、上述のイデー(神と世界)を何よりも形而上学の基礎概念として取り上げている。説明の第一の対象は、それらイデーの信仰的な意義ではなく‐そのような意義はただ境界付けのゆえだけに言及される‐知に対するそれらの原理的機能である。シュライアマハーは、両者の次元が互いに混同されるならば、それを形式的に方法上の混乱とみなすだろう。すでに1811年の講義草稿‐シュライアマハーは当時この問題については、まだ完全には決着していなかったにもかかわらず‐は、この点に関しきっぱりと次のように述べている。すなわち、「神が超越的存在としてすべての存在の原理であり、超越的イデーとしてすべての知の形式的原理であるということ以外には、知の領域で神について何も言うべきことはない。すべてそれ以外は、宗教的なものの誇張または混入に過ぎず、それは、ここに属すべきではないので、ここでは破滅的な作用をするに違いない」(A I,43 = J328)。神と世界という二つの思弁的統一のイデーの学問論的原理機能の最も簡明的確な規定は〈381〉1822年講義にある。そこには次のような簡潔な短縮形で言われている。「神=あらゆる対立を排除した統一。世界=あらゆる対立を含む統一」(A I,269 = J433)。神の思想は、知の統一的基礎を具体化するのに対し、世界概念は、知の規制的な全体性の観念である。

 この二重の定式によって、シュライアマハーは、一方で、『宗教論』で万有概念においてなされた両イデー〔神と世界〕の混合を放棄している。彼はいまや、万有概念は統一論的には保持され得ないという理解に達しているのである。他方、彼は、かつて彼をかの綜合へと突き動かしたスピノザ的な動機を、単純に消滅してしまおうとしてもいない。すなわち、その動機とは、私たちの世界関係の彼岸には、絶対者への関係は存在し得ないという確信である。それゆえ、弁証法は問題の関係を次のように規定する。神の純粋な統一性と世界の全体性とは、概念的に、知的機能的に区別されねばならない。しかしながら、それらは範囲、あるいは有効性の領域に従えば、一致する。したがって、§§216-227の優先的な議論目標は、両イデーの相互参照を互いに基礎付けることであり、それは神関係と世界所属の分離を構造的に締め出すためである。それゆえ、この二つの統一イデーの新たに発見された区別や組み合わせも、教会的な創造論に対して、批判的な異議申し立てをなす。これらの叙述は、『信仰論』§46に対応を見出す。すなわち、そこでは、神による世界保持の思想は、必然的に次のことを含意するということが示されている。一般的な自然連関によって規定された存在と、神において基礎付けられた存在とは、延長的に同等の大きさであるということ。もし人が、弁証法のパラグラフの主に形而上学的な路線を考慮に入れるならば、その場合には次のことが生じるだろう。知識論と宗教論の本来の枢要な地位としては、ただ§215のみがそれと見なされねばならないということである。1822年講義において、このセクションに対応するのはLI-LIIの講義である。最後にそれらに取り組んでみたい。〈382〉

 1822年講義草稿の決定的な箇所から始める。この文脈で問題となっているのは、絶対者の類比的な表れとしての感情、あるいは、感情において基礎付けられた、相対的対立の止揚能力である。シュライアマハーは次のように書いている。「しかし、この対立の止揚は、もし私たちがそこにおいて制約され、規定されたものであるならば、私たちの意識ではあり得ない。[…]この自己意識の超越的な規定は、自己意識の宗教的側面、または宗教的感情である」(A I,266f = J429f; Hhg.i.O.)。この箇所から次のことを読み取れる。感情の宗教的転換は、さしあたり次のようにして生じる。絶対者への現象関係に基礎付けられた感情の統一状態や統一創出が、同意関係(Für-Bezug)に取り入れられ、そして、それらの表現性格において明らかとなる。絶対者と感情の間の現象関係は、哲学的最終基礎付けの方法論的に距離を置いた次元にとどまることはなく、表現者自体の場所で、意識に達する[14]。超越論的機能における感情の宗教的感情への第一歩は、したがって、習得の行為と、自己同一化の行為にある。感情が自らを絶対者の現象として理解することにより、同時に感情は、自らを規定され制約されたものとして発見する。感情は、自分の特殊な働きや能力が自分自身によるのではなく、自らに先立つ規定根拠によるということに気付く。この根拠は、有限的領域にあることはできない。なぜなら、対立の領域にとらわれた規定根拠は、対立を止揚するような働きはできないし、そのような根拠によって規定されたものを、統一する力にふさわしいものとすることもできないからである。したがって、その存在の超越的根拠のみが、問題となる。その際、超越は、空間的意味での外面性と混同されることは許されない[15]。三つの契機すべては次のことを意味している。何よりも感情の宗教的側面(A I,267 = J430)が、その超越的規定性を、その意識へともたらす。ここにおいてはじめて、主観の超越的根拠は、それ自身にとって主題となる。あの超越的根拠の存在的な代理機能は、これによって、精神的代理機能の対象となるが、それは、〈383〉自らの統一機能や統一能力の根源の知覚という意味においてである。しかし、絶対者はここでもまた、抽象的な存在自体(An-sich-Sein)の形式においてではなく、それについては感情自体が自らを制約されたものと経験するようなものとして定立されることは明らかである。そのような根拠によって自らが制約された存在であるという意識は、この意識を担う主観との関連では、ついには、その自由の否定を意味する。この自由の否定は、心理内的な作用や自己意識自体の外への働きにではなく、自己意識の内的根拠への関係のみに該当する。この感情は、その超越的根拠に基礎付けられた存在の側面によれば、「一般的依存感情」(A I,267 = J430)[16]として表現される。これによって宗教の概念が、全く別の道で獲得されるが、それは、『信仰論』が、そのキリスト教理解の根底にしているものである[17]。弁証法に関しては、次のことが確実である。宗教への転換は、感情の自己説明的意義強化の結果であり、そこにおいて、感情に固有の自己自身に対する根本関係が、精神的存在へと達するのである[18]。〈384

 感情の宗教的次元への移行と共に、学問論的思考プロセスに対して、論証に関して何が生じるかと問うならば、むしろ答えは否定的となる。超越論的な思考プロセスは、そのような移行によっては、豊かにもならないし、補強されもしない。原理的な省察は、感情と絶対者間の現象関係の提示によって、また、感情の統一機能における絶対者の〈共に定立されてあること〉という仮説によって、その上方での境界を見出す。そして、この感情の宗教的自己解釈によってその境界を越えることはない。

 この結論は、ある意味で驚くべきことではない。それは、シュライアマハーが、ヤコービ宛の書簡において与えているあの有名な自己特徴づけに完全に一致している。そこにおいて彼は、悟性と感情の関係についての彼の見方を、ガルヴァーニのパイルの相対立した電極と比較している。印象的なのは次のことである。彼は、超越論的感情論の最も内奥の領域まで、その仕事区分に最後まで固執している。すなわち、その両部局が、最も密接に触れ合うにいたるところまで。宗教的感情の登場は、弁証法の最終的基礎付けに対して、基礎付けの働きをしない。その反対も妥当する〔弁証法が宗教感情を基礎付けることもない〕。最終的な基礎付けが信仰(Frömmigkeit)を補うことはできないし、信仰に道を示すこともできない。超越論哲学と宗教は、あまりにも異なる精神形態を具現しているので、両者は互いに他を直接手段とすることはできないのである。もちろん、間接的には、両者はお互いを安定させることができる。超越論哲学と宗教についてのシュライアマハーによる分類は、全体的な設計においても、また細部においても、真の両立性のモデルを現している。どちらかの延長でないような第三の立場というものは存在しない。弁証法は、今日、相互的〈385〉連関の合理性(wechselseitige Anschlußrationalität)と呼ばれるものに甘んじる十分な理由がある。啓蒙されたプロテスタンティズムは、宗教のグローバルな機能を目指すのではなく、意識的な自己周辺化を目指す。しかし、それは文化のあらゆる局面に、理論的にも実践的にも結びつけるものであることを示す。それゆえ、啓蒙されたプロテスタンティズムは、哲学と学問からの神学的他律化には、何の関心も示さない。



[1] シュライアマハーによる「超越論的」と「超越的」との無差別は、A II,731を参照。

[2] 実在的なものという概念によってシュライアマハーが理解しているのは、「思考に関係可能な存在の総体」であり、観念的なものという概念によっては「存在に関係可能な思考の総体」である(A I,294 = J461)

[3] プラトンの『国家』におけるepekeina tes ousias(存在を超えて)という表現(509B)をさすと思われる。

[4] 1811年の弁証法講義の注におけるプラトンの太陽の譬えへの言及を参照(A I,8)。シェリングに対する関係に関して言えば、ほとんどすべての弁証法講義草稿が、多かれ少なかれシェリングの同一哲学体系と結びついている。このことは、根源的同一性という概念に対してのみならず、観念的存在と現実的存在という区別につても妥当する。

[5] A I,44 = J329f.参照

[6] 1814/15,§214(A I,141f = J150f); 1822, §§XLVII-L(A I,262-265 = J424-428); 1828, §§47-49(A I,304f = J473f); 1831, §§46-49(A I,332-335 = J520-525)を参照。これについては、さらに1818年と1822年講義の筆記ノートの対応箇所を参照のこと(A II,234ff.556f)

[7] 「模写的な思考〔知〕と模範的思考〔意欲〕のみが、私たちの事実として常に離れ離れであり続ける」(A I,334 = J523f)

[8] シュライアマハーの感情概念をめぐるもっと広範囲の議論については、U.バルト『キリスト教と自己意識』1983年、7-50頁を参照。この点に関する大部分の研究が、次の点で困難に陥っている。すなわち、『信仰論』における感情概念の方法論的立場と、弁証法のそれとの間に、十分な区別を認めていない点である。しかし、もし人が、『信仰論』の注釈的次元を、最終的基礎付け論の次元の下では不十分であると見なすならば、この区別をしっかりと見据えることが重要である。

[9] 「デカルト。我思うゆえに我あり。この命題の意味は、主観が思考に向かう一つの方向の中にあり、したがって、個々の思考の契機のどんな交替においても主観が同一であるということ。しかし、これは根本において全く空虚な主張である。なぜなら、活動のもう一つ別の形式が入ってこない限り、これらの諸契機が異なったものであると考える根拠はないし、したがって、主観の同一性を主張する根拠もないのである」(A II,771 = J529)

[10] シュライアマハーは確かに次のことを認めている。ある種の仕方における思考と意欲の交替は問題のないものである。なぜなら、実際の生の進行は、両者の活動形式の局部的な入り混じり(Ineinander)として生じるからである。意欲は、目標を意識しない向こう見ずな衝動ではなく、いくつもの次元で、反省された目的概念によって、思考的に分節化されている。また、反対に、思考は、概念と感覚的印象の無計画な加工ではなく、知のプロセスを目的を持って制御する問題設定や、認識意図によって導かれている。いずれの場合も、したがって、認知的要素と意思的要素とが、幾重にも互いに交差しているのである。その限り、その交替においても完全な断絶は問題にならない。しかし、だからと言って、思考と意欲が、その意識形式に従えば、反対のあり方であることに変わりはない。それゆえ、そのような相互作用にもかかわらず、統一性の問題は構造的に残るのである。

[11] A I,266 = J429参照

[12] KGAにおいて底本として使われている1818年講義の筆記ノートは、ここではヨナスと少し異なっている(A II,239参照)

[13] 例えばA II,568

[14] 感情の宗教的転換を通して、あらゆる有限者の超越的根拠が「私たちの中に定立」される(A I,267 = J430)

[15] 私たちはむしろスピノザのcausa immanensの変種と関わりあわねばならない。初期シュライアマハーにとってのこの概念の中心的意義を示しているのは、Ch.Ellsiepenの学位論文(ハレ大学神学部)である。

[16] 一般的依存の概念が、弁証法の文脈で意味しているのは、観念的なものと実在的なものとのあらゆる有限な呼応関係の最終的根拠が、「私たちの自己活動の外部に定立される」ということである(A I,305 = J475)。

[17]

[18]