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3

序論

1

学問が不信の中にある理由は、一部は、支配的な心の態度―無秩序はいかなる種類のものであれ、法則を望まない−により、一部は、誤った扱い方による。矛盾。当為(das Sollen)は、実践的なものに優位を与える哲学に理論的根拠を求める。幸福主義は、哲学の尊厳の下にあるより低い人格性―というのは、そこではすべてが偶然的であるから―と関係している。もしある人が、自分は別の仕方で組織されていると言うなら、何も彼に反対して持ち出すことはできない。取るに足りないこと。規定と特質とは、人間的行為の産物に他ならない状況と関係している。したがって、これらは人間的行為の法則の条件と見なすことはできない。

倫理学の範囲に対して、ここから直接生じることは、すべてに社会的状況が倫理学において成立しなければならないが、それは、その状況における態度を規定しているのと同じ法則によってである。類比的に次のことが結果する。すなわち、知もまた現実的なものとして、行為として、倫理学によって成立しなければならない。なぜなら、知の差異もまた、道徳的戒律の誘因であるから。純粋に物理的な関係も、常にこの自由を伴い、行為を修正するゆえに、少なくとも、この法則と調和するものとして証明されなければならない。

したがって、倫理学は、哲学の全くの一面である。自然科学においては、すべてが産物として現れるように、倫理学においては、産出行為(Produciren)として現れる。各面は、他の面から、実定的とは違う仕方で何かを〈4〉受け取らねばならない。なぜなら、知や行為も能力としては自然であり、そのようなものとして証明されなければならないからである。それによって、すべての実在的な知は、この両側面に分けられる。それゆえ、倫理学は、歴史の学、現象としての知性の学である。

2

その範囲に対してさらに次のことが続く。自然科学からすべての学問が生じなければならないように、倫理学からはすべての技法論が生じなければならない。技法とは、法則の支配下にあることが最も少ないと考えられているものである。しかし、もしそれが倫理的に構成され得ないならば、それは全く存在を許されないだろう。技法は、決して個的なものでもなく、すべての他者による倫理的な完成である。したがって、いかに人が倫理学の範囲を拡大しようと、それは決して本来の解釈、すなわち人間的行為の法則の記述を超えることはない。

しかし、この法則はどのようなもので、いかにして分かるのか? これは、上記のことから、また倫理学の性格からの推論によって答えられる。当為の定式は、全く許容し難い。その弁護者たちも、それを、法則に対する葛藤に関係させて理解している。このことは、その定式がどこから取られたかという策略からも明らかである。最も自由な状態においても、人はこの葛藤を考える。しかし、学問は、この葛藤を他ならぬ仮象として叙述しなければならず、それゆえに、学問は、そこにとどまってはならない。葛藤には幸福はない。最高の定言的道徳性においてもそうである。歴史もまたそのようには理解されず、個々の事実が、個々の法則と比較されることで、学問と対立する。幸福主義の助言は、恣意に変じ、恣意は、法則と対立して非合理的である。法則のすべての方向性を偶然と考えるこのようなあり方には、幸福はあり得ない。歴史もまた恣意の向こう見ずな戯れとして現れるに過ぎない。

したがって、倫理学本来の形式は、単純に物語ることである。すなわち、(自然法則として〈5〉結果の矛盾なく叙述される)あの法則を、歴史において示すことである。この証明は、その本性上、多様であり得るし、直観を用いるためにそうあらねばならない。もちろん直観は、個々のものすべてを目指すのではなく、倫理的に構成された個を常に目指す。幾つかの個には直観が見出されないが、そのような個においては、認識は自立しておらず、したがってそれ自体としては無である。

古代の人々はこれを次のように表現した。すなわち、道徳的なものからの逸脱はすべて認識の欠如である。道徳性とは正しい自己認識に他ならないからである。道徳は道徳性からのみ生ずることが可能であり、叙述された道徳性は、道徳性の覚醒に再び作用することができる。

3

このことは、私たちを倫理学の様々な状態に導く。従来の諸形式は不十分である。それらは存在こそしていても、正しい形式はまだない。直ちにそれが完全になることもないだろう。倫理学が学問的に完全なものになることは、すでに見たように、心の態度(Gesinnung)にかかっている。それは、より低次の状況に関係する古典古代の金言(Gnome)に始まった。最初のソクラテスの学派において、真の哲学的直観がこれに加わり、学問的な時代が始まる。それはまもなく、エピクロス主義や弁証法、個についての推論へと瓦解していった。その結果。心の態度と学問的な衝動との間に不均衡が生じる限り、学問の進歩は動揺している。前者(心の態度)が優勢であれば、宗教が生まれるが、それは、学問的な開始においては、誤った音楽に堕する。後者(学問的衝動)の優勢は、弁証法的な練達を生じるが、それは学問的構造を満たすことにおいて、正しいものを見出すことができない。

倫理学の学問的な完成は、さらに、哲学の理論的側面にかかっている。なぜならこの側面は、倫理学の完成に、人間を与えなければならないが、この人間のはっきりとした〈6〉直観は、再び理論哲学の最高の帰結だからである。しかし、理論哲学は再び他ならぬ心の態度に依存している。したがって、両者は、その完成への接近だけが可能であるに過ぎない。

このことは、倫理学の頂点に何を置くべきかという問いにつながる。原則は、推論(Ableitung)による方法の記述である。人は、根源的直観を一つの命題にまとめることはできない。もしそれが可能ならば、人は、さらに遠く離れた方法によって、歴史的形式からも、直観の連続性からも遠ざかってしまうだろう。したがって、人は直接直観にとどまらねばならない(haften bleiben muss)

4

原則や命題における欠点の多い取り扱いの結果に、定式と言葉への隷属も属する。

理論哲学が人間を自然として与える限り、道徳的直観は、人間を、その精神的能力と共に、身体として定立する。そして、魂としての人間に対して、イデーの能力の自由を定立する。すなわち、規制の衝動としてであり、それは、その他のあらゆる活動のために、産出し秩序付ける原因である。したがって、すべてはこの純粋な認識行為において直観される。自由が、ただ制限する原理として現れるところに、通常の見解に対するこの見解の対立がある。通常の見解においては、したがって、ただ自然の関心だけが実定的である。その結果は、自由があるのはただ、個別化された自然の共存を可能にするためということになり、そこで人は堂々巡りに陥る。なぜそれらは共存すべきかが問われ、その理由は自由がそれらの中にあるからとなり、すべてが葛藤において現れることになる。私たちの直観からは、人格は、制限するものとして現れる。私たちが叙述しなければならないものは、高次の能力によって生気を吹き込まれることにより、人間の精神が産出するものである。それは、人間が自然と見なして与えるものと別の結果ではない。なぜなら、自然においては、すべては可能なものとして定立されなければならず、したがってまた〈7〉その本質にしたがって、自由によって存在すべきものが記述されなければならないからである。したがって、すべてがそこに定立されるが、ただ知性によって、全体が産出される。倫理学においてそれは、定言的に定立されるが、その人の産出として、個と全体とが定立されるのである。理論哲学は、産出の発展過程が、地上の自然法則に服していることを示す。実践哲学は、人間を自由なしに定立することはできず、また人間を全く自由として定立することもできない。そして、彼がそのようなものでない限りは、あの隷属は残るが、しかし、自由によって浸透されている。自然観察においては、すべてが一つで調和的であるように、倫理的観察においても、私たちは葛藤を飛び越える。悪は、それ自体としては無である。善が、生成するものとして定立される限り、悪は善と同時に、仮象として現れる。

5

直観をより明確にする為に、それを通常の諸原則と比較する。特に、一般的合法性の原則、幸福の原則、神の似姿の原則と比較する。人格の関心において、一般的合法性と出くわすことはできない。なぜならそこでは、前もってなされる行為の規定は、ただ恣意として、絶対的に非合法的なものとして現れるからである。しかし、このような考えは、自由の関心を制限するものでもない。なぜなら、人がそれによって獲得するのは、内容ではなく、空虚な枠組だからである。内容は共に定立されることはなく、したがって認識もされない。それゆえに直観についてはただ空虚な考えだけが残る。より高次のものは、低いものに対する対立として、その形式に従って予感されるだけである。−幸福は、完全に満足させられた、最高の生の感情である。その内容は、人格の中にあるが、しかし、概念が表明するその形式は、人格によってもたらされることはできない。なぜなら、生のさまざまな要因は、〈8〉相対的対立において現れ、したがって、生はあらゆる瞬間に妨げられるからである。その形式が与えられるのは、理性が魂として参入し、生の各要因が、理性に対する新たな関係を獲得し、相対的対立から取り出される場合である。したがって、このような定式には、より高次の有情化(Beseelung)も間接的に含まれる。それは内容空虚ではないが、無制約的である。制約という性質は、認識されず、ただ予感されるだけである。−神の似姿は、絶対的認識がただ個々の魂として扱われる所では、叙述され得ないように思われる。しかし、古代の哲学は、宇宙を正にそのように、生きたもの、有情化されものとして定立し、それから再び知性(nous)、他ならぬイデーを原理と考え、この魂の魂として、全くそこに含まれている私たちの根本直観と同じように考えた。

私たちの直観に対する前二者の定式の関係は、それらが、中途半端や否定なしで、課題を解くという希望を引き起こす。第三のものの関係は、私たちが、思弁哲学の理論的側面との正しい平行関係にあるという希望を引き起こす。

倫理学の扱い方は、従来のものと比較することによっても、最もよく明らかになる。古代の人々においては、最高善と徳であり、最近の人々においては、徳と義務である。この両者は、徳が与えられれば、義務は止むというように対立関係にある。人が義務を厳命しなければならない限り、徳はまだそこにはない。最高善と徳との関係は、全体とその積分の関係、あるいは、線分とその機能の関係のようである。したがって、義務論には、最高度に批判的価値が帰せられ、徳論は、最高善の教説と比較することによって、ほとんど余分なものとなるように思われる。自然との比較はもっと良い見解を与える。最高善は、宇宙誌(Kosmographie)であり、徳論の全組織は〈9〉動力学であり、義務論は、全体を成立させる個々の二極共振(Oscillationen)についての思弁的見解である。

6

前項の補遺。完全科の原理は引き合いに出されなかったが、その理由は、上手く説明できないからである。偶然的なものと本質的なものとの一致。偶然的なものは、本質的なものと共に非合理的である。したがって次のように言うことができるに過ぎない。偶然的なものは破棄されて、本質的なものに変わるべきであると。したがって、その定式も私たちの直観を表現するが、それが定式として用いられるべきではないということも人は見る。−神の似姿という表現によって、プラトンは自分の倫理学の精神を表現したが、それを定式として用いることはなかった。神の似姿自体は、ミクロコスモスとマクロコスモスの乱用された対立に基づくが、この対立は、倫理学自体の内部に、個と全体の間により良くとどまる。−この三つの取り扱い方は、最近一層否定的に叙述されたが、今またそれ自体で表現される。理性は、魂であるべきである。有情化する原理は、身体と生を形成し、維持する。したがって、私たちは、理性を見出さねばならないが、それは、人間性を自分のものにするものとしてであり、魂として、全体との交互作用において自らを保持するものとしてである。これをその全体性において考えるのが、最高善の教説である。この魂のすべての行為は、魂が自らに教え込んだ自然を貫いて進行する。この自然は、自分の活動と質とを―それらは、理性による有情化と、個における理性の産出行為によって新たな尊厳を保持するが―空間的配置において直観した。それが徳論である。さらに、理性の活動は、個々の契機や様々な行動を通して進行するが、それら(契機や行動)は、個において画一的であり、殊に生の特殊な側面に属し、個々の諸機能を整える。そこにおいて全体の性格を認識することが、義務論の形式のもとでなされる叙述である。人はこれら三つを結び付けなければならない。そうしなければ、〈10〉個における諸要素が、全体に対して、空間的にも時間的にもどのような関係にあるのか、分からない。

私たちは倫理学を、自然学、実践哲学―そこには普通多くの区分がなされるが―に全く対立するものとして見出す。一般的実践哲学と本来的な倫理学。人間的性質の観察を伴わない理性の最初の観察。イデーが抽象的概念に変化するに過ぎないのか、それとも哲学の最高のものなのか。ミクロコスモスとマクロコスモスの同一性。しかし、後者について考えた人はいなかった。応用倫理学、倫理学と並ぶ個々の学科。それらには二種類ある。禁欲主義(Ascetik)と教育学は、本来、改善の為の手段を定める。しかし、倫理学には手段は存在しない。行為はすべてそれ自体で存在すべきであるか、さもなければ手段としても存在してはならないかである。技術を持つ個々の技法においては事情は異なっている。

7

続き。政治学や経済学では事情は異なっている。これらは現実的な理論である。しかし、すでに見たように、産出の理論はすべて倫理学と関連している。そして、ある理論を、他の理論よりも倫理学とより密接な関係にもたらすことは誤りである。文法と詩学とは、政治学と同じ関係にある。この誤った見解は、倫理学の領域を制限するという真っ先に非難されたことと関係している。−したがって、私たちは、ある断片において、それ以上分離することなく、提出された形式のもとで全体を扱う。

導入となるイデーを、幾つかの短い命題で繰り返す。

倫理学の本質と範囲:倫理学が人間の行為の学問的な叙述であることが確かであるように、倫理学は哲学の全くの一面であり、それはもう一つの面と対立していることも確かである。

倫理学の状態と生成:この両面は、互いに依存関係にあるが、両者を媒介するのは〈11〉心の態度と学問性の(両者に)等しい必然性である。したがって、両者は、ただ共同的に、並行しつつ完全性に近づくことができる。

倫理学の形式(Form)と様式(Stil):倫理学の様式は、歴史的なものである。なぜなら、現象と法則が同一のものとして与えられる所にのみ、学問的直観は存在するからである。当為において定立されるのは、分裂であり、助言においては、発言と条件である。したがって、この様式は命令的なものでも、協議的なものでもあり得ない。したがって、倫理学の形式も直観の展開である。その頂点に定立されるのは、理性による人間性の有情化という輪郭である。

通常の諸原理は、この直観の個々の側面だけを含むに過ぎない。すなわち、合法性や形式−この形式はもちろん理性によってのみ生じることが可能だが―である。しかし、内容、幸福は伴わない。理性を通してのみ自然の中にもたらされることが可能な内容は伴わない。その完全化は、自然と理性との間の非合理性の破棄である。全体が神の似姿であることは、ただ宇宙との類比という前提のもとにのみある。この類比は再び倫理学に戻っていく。

倫理学の様々な叙述。組織化された生全体は、最高善として叙述されるべきである。新しい質としての人間の個別化による有情化は、徳論である。瞬間の理性内容としての時間の個別化による有情化は、義務論である。

最高善の叙述への導入。最高のものは、個別なものとして比較的に考えられるべきでは決してなく、全体性として考えられるべきである。ここで言う善とは、イデーにあるものの肯定に過ぎない。したがって、完全な有情化である。最高善として、同時に最も完全なのは、歴史の学問である。これら二つの規定をまとめることが、最高善を明らかにするにちがいない。

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