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 生は、どこにあっても様々な機能において現れるが、それら諸機能は、互いに相対的対立の中にあるのであり、一つでは理解することも存在することもできない。それらは必然的に結びついているのである。したがって、私たちは有情化する理性の生も見出さねばならない。様々な個物において私たちはその生を見なければならないが、それら個物を、有機的に、必然的に関連させなければならない。同じ事を歴史学も語ろうとする。歴史における注目すべき諸現象は、集団において現れる個々の機能に他ならないが、それらは、全体との連関の意識を自らのうちに持たないことがしばしばである。

 一般的概略。これを正しく示す為に、私たちは生の直観から出発しなければならない。孤立した存在と全体との共同。より高く陶冶されればされるほど、存在はよりはっきりと孤立し、共同性は自由になる。この孤立化とは、一つの中心にすべての自然力が結びついている状態である。この共同性とは、自らの中に摂取することと自分の中から産出することである。最も低い段階では、前者(自己への摂取)は有機的な合一に過ぎず、後者(自己からの産出)は無機的な引き離しに過ぎない。より高次の段階では、前者は知覚に、後者は生産になる。理性的生においては、自己への摂取は認識や理解(Einsehen)であり、自己からの産出は表現行為(Darstellen)である。生産(生殖)(Zeugung)は自然の表現行為に過ぎないが、芸術はイデーの表現行為である。理解と表現行為のこの相互作用は、道徳的生の二極共振であり、両者のいずれも一方なしに他方を考えることはできない。この操作のプロセスと、それへの媒介を、理性は先ず作り出さねばならない。−世界は、倫理学において持つ関係は、これをおいて他にはない。世界は認識の対象、あるいは表現の象徴、また両者の器官(Organ)である。この三つの領域(対象、象徴、器官)は、機能による区別であって、質料によって分離されるわけではない。世界におけるどの領域も、すべてになるべきであり、それが一つである限り、どれも他の二つなしにはあり得ない。〈13〉対象と器官は互いに対立している。対象の領域は周縁から始まる(常により大きな周辺が定立されるにもかかわらず)。そして、中心点において終わる。器官の領域は、中心点に始まり、周縁で終わる。(したがって気象学と天文学は、器官形成の最大であり、心理学と数学は、知の終局である。)象徴化の領域は、両者の媒介である。地が増えれば増えるほど、表現するイデーも増え、器官が増えれば増えるほど、象徴も増える。−さらに、理性が魂になることにより、理性は様々な人格に分けられ、時空間に移される。理性の認識は、そうして常に個人的な関係を持ち、理性の表現行為は、人に対して瞬間的なものとなる。しかし、イデーは決して時間の中や有限的な中間点にはない。したがって、イデーが、有情化の原理として、理性としての性質も保持すべきならば、この制限も破棄されねばならない。この個人的なもの時間的なものの定立と、そこにある個人性時間性の破棄とは、生のもう一つ別の二極共振である。