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(最終更新日2000716)

1.  対話遂行の技法としての弁証法

a.         どこでもそうだが、この弁証法についての探求においても、私たちは、私たちが取り組まねばならないものが何であるかを先ず知りたい。しかし、私たちが取り組むこの学科の概念は、本来講義の最後になって初めて与えられることが可能である。いま私たちが持っているのは、それについての不十分な表象か、あるいはそれさえ持っていないかのいずれかである。

b.         また、そこから私たちがこの学の内部に入り込むことができるような共同の出発点を決定することは、ここでは困難なので、その開始も不十分なままにされておかざるを得ない。したがって、それはあてずっぽうに生じることになる。ここで私たちに最も身近にあるのは、この学科の名称である。それは恣意的なものではない。なぜなら名称はすべて何か普遍的なものを包含すると共に、それが現しているものの成立と内容をもその中に捉えているはずだからである。この名称は古代の哲学におなじみのもので、プラトンはそれを第一に特定の技法の名称として呈示している。しかし、哲学においてこの名称が存続したのはアリストテレスまでで、彼は技法の表現全体を変え、全く新しい術語を導入した。

c.           dialegesthai(議論する、話す)から派生した弁証法は、プラトンとその弟子たちにおいては、対話を遂行する技法以外の何ものでもなかった。これは非常に包括的で不正確に響く。しかし、対話の遂行において考えられる意図はただ二つしかない。内的な意図か外的な意図かである。そこにおいて追求される外的目的とは、誰かを真理のゆえではなく、ある特定の成果のために様々な表象に向かって動かし、その際真理は好き勝手に消えうせてしまえという立場である。ここにおいて最善の人とは、しかるべき成果を生み出す最も多くの根拠と見せかけの理由を先導できる人である。この目的が達せられるならば、他の人は、事情を確かめることも無しに、何か真なるものを持っていると信じてしまうのである。しかし、それは真実ではあり得ない。なぜなら、そのようにして生じた表象は、普遍的真理を根底に持っておらず、説得する者の意志に依存した限定的な表象を持つに過ぎないからである。このような仕方で、この技法から心を惑わす技法が生じる。したがって、それは異なった形式を用いるという点においてのみ雄弁術と区別されるに過ぎない。なぜなら、通常雄弁術が、連関し中断することのない語りを通してもたらすものを、弁証法は、交互の語りや応答を通してもたらそうとするからである。したがって、その場合弁証法は、ある人に対し、決して真理としてあるわけではないものを、真理の姿で伝える見せかけの技法になる。

d.         しかし、このような意図は私たちにここで妥当しないし、プラトンの哲学に現われもしない。したがって、私たちに残されているのは弁証法の内的意図のみであり、それは対話の遂行を通して表象を呼び起こす技法としてであるが、そのような表象はただ真理に基づいており、それによってそれらに相応しい結果を持つものである。対話の開始点を形成しているのは常に表象の差異である。しかし、人がそのような対話を遂行するなら、絶えず二つの終点が示される。すなわち、語る両者が、彼らの考えの争点について一致するか、または、この点については同一の表象を決して得ることはないと確信するかである。両者は当然その対話の終わりにならねばならない。なぜなら、一致していることについて、または一致できないことについて語ることは無益だからである。したがって、幸運にも、そのような(一致している)目標を達した後で、さらに対話を続ける場合には、話し合いを終えたところから、新たに理解しあわねばならない新しい対象を展開させようとしなければならないのが常である。

e.          したがって弁証法とは、あらゆる表象において、所与の出発点からその終着点へと最短で最も確実な仕方において到達する技法である。二つのうちいずれかの終着点に達するかどうかということは、私たちにとってどうでもよいことでは決してない。なぜなら、他者の持つ表象への関心が前提とされないような対話においては、対話の遂行は不可能だからである。あらゆる考えや表象を孤立化することは、人間の性質に存するものではなく、相対的に過ぎない。このような無関心は、道徳的無関心になり得、個々の人間や人間のある階層の性質に関係し得る。もし誰かが、これやあれやの階層の人と考えや表象において一致することを骨折りがいのあることと思わず、そのような考えが一般的となるなら、その根底にあるのは人間軽視であろう。そして、このようなことは人間の根本原理ではない。この道徳的無関心によって、対話の遂行はそれ自体すでに破棄される。したがって、この無関心は相対的なものと見なされ、ただ非常に限定的に考えられる。人はそれをただ次の理由で弁解できるに過ぎない。すなわち、当該者は別の領域に属しており、彼と彼の表象について理解し合うことは目下のところ他の人の責任である。他方、彼を理解することは、私たちの義務であるけれども、今のところ私たちの活動領域外に存する(という限りにおいて弁解できるに過ぎない)

f.            対話遂行の義務における相対的無関心の第二の種類として、技術的無関心が指摘され得る。どんな事物の遂行にも手段がある。何らかの方法領域において手段の正しい使用に関係しているすべてのことは、技術的である。ここにおいてその手段とは、他者の中に表象を引き起こす技法として語りの中に存在する手段である。したがって技術的無関心とは、私と他の人々との間に、この手段が与えられていないということを、私たちが固く確信する場合である。その場合には何らかの対象についての幸福な対話の遂行は不可能となる。このような手段は普遍的なものではなく、技法はそれによって非常に制限されてしまう。しかし、この手段についての知識とその適用とは、互いに非常に密接に絡み合っているので、それを分離することはできない。そこで対話の遂行は、ただこの条件の下でのみ可能である。語り合いのための最も卓越した手段は同一の言語であるから、弁証法は必然的に言語の同一性によって制約されている。しかし、対話遂行のために単に最も卓越しているのみならず、唯一でもある手段は、言語が等しいということである。― さて、同一の言語を語る二人の人は、対話によって常に、先に述べられた終着点の一つに到達するのだろうか? 私たちはそれを主張することはできない。言語の同一性と共に、そこには全く特有な事情がある。私たちに与えられたある対象について、同一の言語を語る他の人と対話を開始することはおそらく難しいことではない。しかし、その言語を完全に理解している人はなく、ある人にとっては開かれ理解可能な言語領域が、他の人には分からない場合がある。両者が一つの確かな結論に至るべきなら、探求の対象がその限界内に属する全言語領域が両者にも共通でなければならない。しかし、もし一方がそのような言語領域に通じていないならば、そこに属する他の人の表象はすべて彼にとっては失われてしまう。したがって、同一の言語においても、相互的語り合いのための手段が欠落することがあり得る。さらに、言語の中には、個々の対象に関わることなく、個々の対象を把握する仕方に関わるような領域も存在する。もしある人がそのような領域に全く無自覚なら、それに関係するすべての表象は彼にとって理解できないものとなり、彼の思考は混乱させられてしまうであろう。このような混乱や暗闇から人は、純粋さと明瞭さへと人は高められるべきである。そして、そのためには対話の遂行に勝るものはない。

g.          道徳的無関心が許されるのは、人が自分の代わりに他の人を用いることができる場合に限られるとするなら、技術的無関心の場合はどうなのかという問いが生じる。他の人に言語一般が欠如しているならば、それは先の(道徳的無関心の)場合に戻る。もしある人が、私の母語を話さないのであれば、それを語る他の人の責任である。しかし、同一言語における言語領域が問題である場合には、これは別々の場合に分かれる。ある人にある一つの領域が欠如している場合は、それらの表象を持つ必然性が彼には欠けているのである。したがって、それは道徳的無関心に戻ることになる。これに対して、ある人が、何かについて考えたり語ったりする際に、明瞭不明瞭の区別をすべての対象に対して持つほどにはその言語をマスターしていない場合には、表象と思考の違いも彼においてははっきりしていないのである。しかし、そのような無関心が生じることは許されない。なぜなら、そこにあるのは克服されなければならない道徳的欠陥だからである。これは一般的な事柄である。もし私たちが様々な言語の境界さえ突破するなら―表象の同一性への熱望をこれは示しているのだが―人はこの同一性をそもそもただ対話の真の目標と見なすことができる。

h.         なぜ理解し合うことができないかを問うてみると、それはただ道義的意味か、あるいは技術的意味しか持ち得ない。一方の人が他方の人とは全く異なるものを求めている場合には、道義的な意味である。意志の差異もまたないがしろにできない。したがって、意志の同一性は対話の最高の目標である。これに対して技術的なものに根拠のある無関心は能力と関係している。

i.            先述した二つの終着点をさらに厳密に観察してみると、第二の終着点、すなわち他者と同じ表象に至ることができないという確信が、一時的なものでしかあり得ないことがわかる。それは個々の行動だけに関係しているのが常であり、生の連関全体には妥当しない。私たちはまもなく新たにその対象を受け取り直し、ついには他者との完全な一致という明瞭な結果に至るまでそれを取り扱うのである。以上で弁証法という名称は十分に説明された。今や私たちは弁証法の価値と意義に向かう。

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