1-2 対話遂行の方法
以上のことを私たちは自然科学に適用することができる。私たちは諸現象から、その現象の法則と力とを観察するが、しかし、自分の表象を、しばしば様々な現象によって修正しなければならない。そこで学問的対象においては、非常にしばしば変更が生じるのだが、それもまた事実から生じているのである。したがって知は孤立してはいない。この観察の結果は決して満足すべきものではなく、私たちは他の方法でこの問題の答えを求めなければならない。したがってもし私たちが逆に、認識の連関は存在すると仮定するならば、すべての知は一つということになる。しかしなぜ私たちは知を、私たちが学問と呼ぶ個々の領域に分けるのだろうか?
さて、すべての対話の開始点と終点とを比較してみよう。対話は、他方の側の連関が誤っていれば、もう一方の側を正当とするか、あるいは、両者の関連が、その差異において承認されれば、両者共に正当とするかのいずれかである。しかし、その場合には二人の論争者とも二つの表象に至ったのであり、それは同時に一つではあるが二重の連関が承認され提示されることになる。しかし両者のいずれかが不当ならば、一方が有していた連関は存在しない。したがって、思考の一つ連関が定立されることなしに一つの対話が遂行されるということは決してあり得ない。規則のあらゆる使用を通して一つの連関が確立される。したがってこの使用によって知の連関も同時に成立する。そして私たちがさらに規定するであろう弁証法の規則の使用は知の発見に属する。
最後に私たちはなお次のことを問う。対話遂行が終わるような時は来るのだろうかと。どんな対話でもそれが遂行されることによって、対話への誘因が減少させられることは当然である。しかし、知と非知との混同がまだある限り、不明瞭な思考が存在する限り、対話も遂行される。すべての混乱した思考が知の中に解消されたとき初めて対話遂行も終わる。すなわち思考の形成によって知の原理があらゆる対象の中に実現されるのである。さらに次のように言うことができる。連関の中には常に差異が生じ、そこから再び対話が展開すると。しかし、次のように考えることができる。目標として一つの普遍的連関が承認されるならば、それはあらゆる論争を終結させると。人はこの目標にただ対話の遂行を通してのみ至る。したがって知の連関
― それを人はただこの点においてのみ完全に洞察できるのだが ― は、弁証法の規則によって厳密に規定され、それ(弁証法)自身の中にある。(しかし、私たちは、思考や表象すべての点において一致するような時を今は思い浮かべることはできないけれども。)しかし、さらに別の抗議を私たちは考慮に入れねばならない。すなわち、対話遂行の技法の中に知の原理と連関があるというこの主張すべては、不正な手段で獲得された可能性があるという抗議で、両者(知の原理と連関)は、なるほど対話において言語化され、弁証法によって呼び出されたかもしれない。しかし、必ずしも弁証法自体を通して条件付けられる必要はないという抗議である。先ず知の原理について見てみよう。すべての人は誕生と同時にこの原理を所有しているということを私たちが受け入れないなら、上のような場合は起こり得ない。すなわち、もし誰もが漸次知へと上昇していくのであれば、その移行はただ対話遂行によってのみ生じ得るからである。対話の遂行が思考を刺激し、知の原理をも呼び覚ますのである。知の連関に関して言えば、もしそれがそれ自体で共に与えられるのでなければ、感覚的、表面的な仕方で与えられることになる。しかし、このようなことは、先の場合と同様ほとんどあり得ない。連関は決して表面的に証明されることはできない。それは内的に見出されなければならない。もし原因と作用の連関が表面的に、感覚的確かさによって証明されるというなら、論争というものはまったく生じないだろう。したがって、その連関は私たちにただ対話遂行を通してのみ生ずるという以外あり得ない。
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Kenji Kawashima.