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1-2 対話遂行の方法

以上のことを私たちは自然科学に適用することができる。私たちは諸現象から、その現象の法則と力とを観察するが、しかし、自分の表象を、しばしば様々な現象によって修正しなければならない。そこで学問的対象においては、非常にしばしば変更が生じるのだが、それもまた事実から生じているのである。したがって知は孤立してはいない。この観察の結果は決して満足すべきものではなく、私たちは他の方法でこの問題の答えを求めなければならない。したがってもし私たちが逆に、認識の連関は存在すると仮定するならば、すべての知は一つということになる。しかしなぜ私たちは知を、私たちが学問と呼ぶ個々の領域に分けるのだろうか? 知の統一という観点からは、そのような分離は相対的なものでしかあり得ない。すなわち、私たちは個々の表象の纏まりを観察し、その連関を相互に観察するので、それを他の連関よりも緊密によりはっきりと発見する。そして、すべての学問を狭義の意味で一つの全体として観察するのである。しかし、これらの領域の間に厳密な連関があるのなら、私たちは何のために、それらを分離するのだろうか? ある特別な目的のためにである。私たちは連関一般を前提にしているが、ある一つの対象がとりわけ私たちに関わり合いが深いために、非常に目を引き、その結果私たちはそれを越えるより大きな連関を視野の外に置く。その後に私たちが、この私たちによって獲得された知をそれ自体として観察するなら、私たちにできることは、他の残りの知の連関にそれ(獲得された知)を押し込むことに他ならない。知の区分は、その内容や様々な観点によって、多様なものであり続ける。― 個々の学問は相対的な関係にあるのか、あるいはまったく孤立しているのかということだけが、なお研究されるべきこととして残っている。おそらく後者(孤立していること)は、否定されねばならないだろう。すなわち、私たちは次のことを知っている。諸表象のどの固まりも、ある時はそれ自体一つの全体として、ある時はより大きな全体の一部として扱われることができる。また私たちは知の全領域を、様々な時に異なって区分するのを見出す。そこで、もしこの固まりを非常に厳密に分けてしまうなら、それは自然に逆らうことである。また、人は旧来の区分に戻ることもしばしばある。このことは一般的連関の前提によってのみ説明可能である。私たちが学問と呼ぶものはすべて、私たちが事前に知っている内的努力において、ある自然的連関を前提しているように形作られている。私たちはこの前提を、人間の努力として内在するものと見なさねばならない。私たちがこのことを認める限り、対話の技法の中にすべての知の連関が与えられていなければならないかどうかという私たちの問題に帰ることができる。対話は、同一の表象についての様々に異なった表象を前提としている。この差異はどこから来るのだろうか? その答えは、誰もが他の人とは異なった方法、異なった連関において自分の表象に至るということである。もし普通の数学において、様々な分析的取り扱いにおいて、その定式が、最後に様々な結果を与えるとしたら、私たちはそこから弁証法的対話を形成することは決してできないだろう。ここには計算における誤謬がある。計算した二人はそれぞれの連関を比較し、どちらかが計算間違いをしていることを見出すだろう。しかし、私たちが同一の自然的現象についての二つの異なった表象を観察するとしても、それを計算間違いに帰することはできない。そうではなく、私たちは差異の理由を表象の異なった連関に求めねばならない。したがって、ここでは差異は、そこにおいて誰もが自分の表象を持つところの、連関の差異にある。しかし、計算間違いは単に数学のみにあるのではなく、論理的な計算違いというのもある。そしてこのことが対話の遂行を持ち出すのであり、それは人がその間違いを発見するまで続く。しかし、そのような事例は弁証法的領域には属さない。なぜならそれは個々の過ちに過ぎず、それは弁証法的原理の適用によって容易に破棄可能だからである。そしてこれについては論争の余地はない。差異の第三の種類というものはない。したがって、対話遂行の領域に属するあらゆる差異は、その原因を知の連関相互の中に持つ。すなわちそれ(知)がどのように生じ、表象されるかという様々な仕方にしたがって(その原因を知の連関の中に持つ。)

さて、すべての対話の開始点と終点とを比較してみよう。対話は、他方の側の連関が誤っていれば、もう一方の側を正当とするか、あるいは、両者の関連が、その差異において承認されれば、両者共に正当とするかのいずれかである。しかし、その場合には二人の論争者とも二つの表象に至ったのであり、それは同時に一つではあるが二重の連関が承認され提示されることになる。しかし両者のいずれかが不当ならば、一方が有していた連関は存在しない。したがって、思考の一つ連関が定立されることなしに一つの対話が遂行されるということは決してあり得ない。規則のあらゆる使用を通して一つの連関が確立される。したがってこの使用によって知の連関も同時に成立する。そして私たちがさらに規定するであろう弁証法の規則の使用は知の発見に属する。

最後に私たちはなお次のことを問う。対話遂行が終わるような時は来るのだろうかと。どんな対話でもそれが遂行されることによって、対話への誘因が減少させられることは当然である。しかし、知と非知との混同がまだある限り、不明瞭な思考が存在する限り、対話も遂行される。すべての混乱した思考が知の中に解消されたとき初めて対話遂行も終わる。すなわち思考の形成によって知の原理があらゆる対象の中に実現されるのである。さらに次のように言うことができる。連関の中には常に差異が生じ、そこから再び対話が展開すると。しかし、次のように考えることができる。目標として一つの普遍的連関が承認されるならば、それはあらゆる論争を終結させると。人はこの目標にただ対話の遂行を通してのみ至る。したがって知の連関 それを人はただこの点においてのみ完全に洞察できるのだが は、弁証法の規則によって厳密に規定され、それ(弁証法)自身の中にある。(しかし、私たちは、思考や表象すべての点において一致するような時を今は思い浮かべることはできないけれども。)

しかし、さらに別の抗議を私たちは考慮に入れねばならない。すなわち、対話遂行の技法の中に知の原理と連関があるというこの主張すべては、不正な手段で獲得された可能性があるという抗議で、両者(知の原理と連関)は、なるほど対話において言語化され、弁証法によって呼び出されたかもしれない。しかし、必ずしも弁証法自体を通して条件付けられる必要はないという抗議である。先ず知の原理について見てみよう。すべての人は誕生と同時にこの原理を所有しているということを私たちが受け入れないなら、上のような場合は起こり得ない。すなわち、もし誰もが漸次知へと上昇していくのであれば、その移行はただ対話遂行によってのみ生じ得るからである。対話の遂行が思考を刺激し、知の原理をも呼び覚ますのである。知の連関に関して言えば、もしそれがそれ自体で共に与えられるのでなければ、感覚的、表面的な仕方で与えられることになる。しかし、このようなことは、先の場合と同様ほとんどあり得ない。連関は決して表面的に証明されることはできない。それは内的に見出されなければならない。もし原因と作用の連関が表面的に、感覚的確かさによって証明されるというなら、論争というものはまったく生じないだろう。したがって、その連関は私たちにただ対話遂行を通してのみ生ずるという以外あり得ない。

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