1-3 知の原理と連関の不可分性
今や私たちは人間の思考の開始を、先ず原理の観点から見てみよう。子供の時人はただ混乱した表象のみを持っている。それを彼はもはや直接は記憶していないが、彼にはまったく未知の新しい対象に出くわす度に、ただ類比的に再構成することができる。もし私たちがこの原理を現実的な定式として持っているのであれば、私たちは真の表象の他に何も持たないだろう。しかし、新しい対象についての私たちの表象は、正にそのような混乱を伴って始まる。すなわち、そこには常に真と誤謬が入り交じっている。(ついでならが、ここで私たちは真と誤謬がなんであるかという議論はわきにおいておく。そして、これらの概念を一般的な思考の交流からここに転用することで満足する。)私たちは最初から、新しい対象を従来の部門の中に置く傾向がある。それがうまく行かない時、新しい部門が生じなければならない。新たに発見された自然力が、これに対する例を私たちに与える。その基礎はまだ統一的な力の純粋な産物と見なされることはできない一連の現象である。他の未知の動因が共に作用することが容易にあり得るからである。ここで私たちは当初、非常にしばしば、根源力についての私たちの見解を変えるだろう。すべての人間の思考が同じような仕方で、真と偽の区別がない状態で始まると考えるなら、知の原理は、不変で、法則的に作用するものとして、私たちによって所有されているのではないということが明らかだろう。その原理は、発展によって効力を発揮すべきであるなら、このようなことはただ私たちの技法の対象であるあの思考の発展を通してのみ生じ得る。
さらに私たちの思考は、連関という観点ではどこから始まるのだろうか? 幼児期私たちの表象は、散在し、関連のない諸点に限定されている。ただ一つの点から他の点へ衝動的に動くのみで、連関というものは見出されない。これが生じるのは、自我の意識と共に、すなわち、自己自身の定立と、自らを他者に対立させることによってようやくこの連関は生じてくるのである。しかし、これもまた最初は、そこから人が思考の混乱を変えていくことのできる基礎を与えるに過ぎない。その後もさらにこの自我に対する関係が論争的になるような場合も生じる。しかし、この連関がより一層明らかになるのは、そこにおいて自我が与えられ、自らを定立するところの将来のすべての諸契機においてである。これは私たちに、知の原理に達する可能性を、そして意識の不動性によって思考の系列を生み出すことのできる可能性を与える。この両者が、すなわち、意識と対象の対立における安定した状態と意識の諸契機における連関とが、対話の可能性にも始まる。そこにおいて私たちに知の諸原理が生じる過程もまた始まる。
対話が含んでいるような表象、あるいは、原理の有効な適用を通して十分に発達させられるような表象の発展との比較においてのみ、思考と表象行為の内的連関が成立するという事情なら、そこから生じる結果は、私たちのすべての企てを笑うべきもの、空しいものにするように思われる。なぜなら、人はすべてを知らないうちは、まったく知らないからである。そして、人は知の原理をもはや必要としなくなって初めてそれを手にすることになる。このような抗議が根拠のあるものかどうか調べたい。一つの対象について、様々な表象が存在し、それらの表象の関係が、完全な表象に対する不完全なそれというのでなく、形式に従えば等しく発達させられたものであるような場合、すでに見たように、その根拠は常に他者に対するその対象の関係の様々な連関の中にあり、その際しかし、この連関はまだ十分に認識されていないのである。なぜなら、そのような論争がまだ現れ得る限り、対象もまだ十分に意識され認識されてはいないからである。また、私たちがただ対象自体を認識しようと企て、その他者との連関を認識しようとしないならば、これは全体として非常に不完全な知、あるいはそもそも無に等しいものとなる。しかし、私たちの表象もまったく連関しないということを同時に受け入れようとしないなら、部分的連関などは存在しないということを受け入れるように私たちは強いられる。したがってあるものは他のあるものと関連し、同じものは再び別のあるものと関連している、そのようにすべてはすべてと関連しているのである。このようにして人は全体的連関という概念に至る。したがって、他のすべての知と同時に関係していないような個別知などは存在しない。すべての知、すべての私たちの思考と表象は、それらの連関の絶対的全体性が確立されるまでは、不完全である。
知の原理とその連関とが実際に二つのものであるかどうかということは、さしあたって不確かなままにしておかねばならない。一方なしには他方は存在しないということはかなり予想されるにもかかわらず、私たちは今はまだこれを決定できない。したがって私たちはすべてを別々に、それ自体として観察しなければならない。
したがってその場合知に至る二つの異なった道が存在することになる。すなわち、単に原理のみを求め、連関はなおざりにするか、または連関の獲得に努め、原理はまったくわきに置くかである。両者の一方のみを行なうことができるような人が、いったい存在するだろうか? 明らかにそれは次のような場合である。すなわち、知の原理をなおざりにすることによって知の連関を獲得しようとすることを意味する以外の何ものでもないような仕方で人が経験のみを集めようとするような場合である。なぜなら、表象と力の連関の意識を私たちは経験と呼ぶからである。同様に人は、知の原理をその連関を求めることなしに追求できる。彼は自らにおいて次のように考える。彼は真偽を区別する能力をまだ獲得していないので、彼はそこにおいて区別がうまくいかないような表象を得ようと努力することはもはや望まない。そうではなくただ知の原理を目指す。その結果彼は、これを得たなら、そしてそれを個々の表象に適用するなら知そのものに達すると考えるのである。この場合人は経験をなおざりにし、超越的なものだけを目指す。
ある意味でおそらくそのような孤立化はあり得るだろう。しかし、そのような場合本来の知はどうなるのかを問うならば、答えは、いずれの場合も何も知ることはできないということになる。なぜなら前者の場合は、たいてい一つの経験が他の経験を破棄し、彼は見せかけの連関の間を―それはすべての新たな経験によって別の連関になる―漂うからである。同様に後者の場合もほとんど何も知らない。なぜなら彼にとってすべての学問は孤立して存在し、したがってどの学問においても絶対的な連関が欠けているからである。したがって知の連関と原理の両者が孤立させられているような場合には、そもそも知は与えられないのである。したがって両者は一体化して存在しなければならない。両者によって人はまったく貫かれねばならない。したがって知の連関なしには知はひとつだに与えられないし、また、知の原理なしには、その連関も与えられない。
私たちが知の原理について語る場合、私たちが考えていることは、それが知を構成するために働くということで、そうでなければそれは無である。したがって私たちが絶対的な連関を持つより先にこの原理を手にすることはない。この連関が完全でない時には、原理も本当に完全に持つことはないのである。したがって私たちは両者をどんな時にも完全に持つことはない。なぜならその場合には対話遂行は終わらねばならないからである。そしてそれによって人間の精神活動全体が終わってしまうからである。
したがって私たちはここである技法に取り組み、その規則を追求すべきなのだが、その規則はその結果を、私たちがもはやそれを必要としなくなった時に私たちに与えるのである。
したがって私たちは、本来はここに立ち尽くし、その技法を完全に汲み尽くすことはできないという絶望感、またそれを汲み尽くす手段を見出すことはできないという絶望感に囚われねばならない。そしてこの探求においてはできる限り高く到達すべき目標といったものは、そもそも私たちにとってどうでもよいものになってしまう可能性がある。しかし、それにもかかわらず私たちは、その唯一正しい到達に至る道を取ることを求め欲する。私たちの意図が絶対に達成不可能であることを知っているにもかかわらず。
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