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1-4. 弁証法の不可欠性

さて、ここではすべてが不完全だが、それは次の3つの点においてである。第1に、私たちが知の原理、あるいは思考の完全性に目を向ける場合、第2に、私たちがすべての知の連関を観察する場合、第3に、幸福な終わりに達するような思考の交換や交流において幸福な終わりに達するような対話遂行の技法の使用を観察する場合である。連関において完全性がないならば、人は対話の善い終わりに達することはできない。なぜなら常になお新たな差異が残り続け、その解消は同時に将来の対話の課題となり、それは、絶え間なく続く対話の遂行によって、知の全体性が、あらゆる認識の原理と連関と共に与えられるまで続く。達せられたものがあったとしても、それは表象における差異の減少に過ぎず、完全な一致の意識への接近に過ぎない。

その到達不可能性を私たちがすでに洞察したこの点から私たちがなお離れている限り、この事柄において何が起こり得るのかを問うならば、答えは次のようなものであろう。知の一部分、ある特定の学問を見出せ、それ(特定の学問)が現在立っているところの立場を規定せよ、そして、可能な限りそれを何らかの仕方で支援することを求めよということである。同じことは、他の二つの主要点にも適用され得る。もし私たちが、この不完全性に安んじるならば、私たちは、本来私たちの意図であったよりもわずかのことしか為し得ないと認めたのである。

いったいこの不完全性は、それが私たちに弁証法の名称と価値にしたがって現れたように、そこに本当に含まれているのだろうか? もし私たちが弁証法を、その最高の意味と範囲において対話遂行の技法と見なすならば、すべての人がそれを用いることができるし、用いなければならない。なぜなら、思考の差異を解消するという課題は、至る所、あらゆる状況下で、すべての人の見解において現れるからである。人間の諸表象は、諸力のあらゆる一体化において、統一へと導かれねばならない。しかし、私たちは他のことをも付け加えねばならないとするなら、すなわち、対話遂行の技法と共に、知の原理と連関も同時に与えられるということを付け加えねばならないとするなら、このことはすべての人、知一般に関わるすべての人の責務であるというわけではないということである。すべての知の連関が与えられるのでない限り、それへの接近はただその知が、その連関から分離されるように駆り立てられることによって生じる。この分離が思弁的精神によって起こるのであれば、そしてこの個別的領域をより完全に作ることを誰もが目指すならば、それによって知の連関のためになる何かが支援されるのである。

しかしまた、知の原理だけを排他的に気にかけることも許されない。なぜなら、知の原理だけに従って仕事をし、知自体をなおざりにする人の努力は無益だからである。そのような人は、空虚で無内容な定式に出くわすだけである。しかしながら、知の連関を求めることにおいても、知の原理自体への間接的な反作用が起こらねばならない。人がある領域で完全な思考と不完全な思考とを区別するならば、それによって原理もよりはっきりとした光の中に置かれ、より自然に把握されねばならない。

弁証法は、精神的な仕方で人間が支援されるべき場所でなら一般に有効である。哲学は、知の原理と連関とに直接携わることである。そしてそこに戻ることが哲学をするということである。これはしたがって弁証法とは異なっているように思われる。なぜなら弁証法の規則は、その意義を、哲学的内容とは別にすべての対象に対して持つからである。人は弁証法をあらゆる領域において必要とする。なぜなら、そうでないと新しいものを、既存のものとの関連にもたらしたり、伝達したりすることがまったく不可能になってしまうからである。しかし哲学は常に必要である。なぜならそうでなければ、人は獲得された表象を、それが真理においてあるように保持できないからである。これによって哲学的見方の使用の必要性が、弁証法のあらゆる領域において生み出される。

弁証法の技法を、それがたとえ不完全であっても、知の原理と連関とを自ずから明らかにするというように扱うことは、知の全領域に対する一般の関心事でもあるのだろうか、それとも、知の領域をまったく自分の観察の対象とした人は、哲学を完全にわきにおいておけるのだろうか? 弁証法的規則を、知の原理や連関とは全く別に求めることは望ましいことであるかもしれない。また哲学することを個々の領域に持ち込むことは、助けになるよりも妨げになると繰り返し非難されてきた。もし私たちが原理と連関の不完全性にもかかわらず、個々の領域を完全にすることを次のように考えるなら、すなわち、疑いが解消され、不完全な表象が除かれることと考えるなら、原理に戻ることは、当然ながら阻止する運動である。なぜならこれが起こることによっては、その領域自体における表象のためには、何も生じないからである。人が個々の領域から他のすべての領域との関連で見渡す場合も同様である。これはそもそも予見する活動である。しかし、直接的な仕事に対しては、それは同時に阻止する在り方でもある。

一つの領域において、ついには助けとなるのは、誰の働きだろうか。知の原理と連関を頂点に置く人の働きか、それとも両者を無視する人の働きか。前者の働きをなす人が、より高い段階に立ち、より完全であることは明らかである。個々の学問領域においても、人はその仕事に向かう時、必ず人間的知のある立場を前提とする。しかし、人は、このすべてをそこから観察する立場の前提と規定にどのようにしてやってくることができるのだろうか。もし彼が自分の探求を完成させておらず、この問いにも全く携わっていないならば。したがってまた内的衝動や、内的関心を持っておらず、単に表面的な関心であり、見知らぬ衝動の器官に過ぎないとしたら! しかし、哲学的体系が台頭し成熟した時代には、ある種の伝染素が成立するのが常であった。それはあらゆる学問に属する領域に、その哲学的体系の傾向と形式にしたがって働きかける。そこから学問的領域において内容とは全く独立に、哲学的形式を際立たせることが発展した。この業が、自分自身の哲学的関心を有し、その仕方であらゆる素材を加工する人々によって促進されるならば、非難すべきことではない。これがそのようでない場合には、本来の内容は形式の犠牲にされる。哲学的なものに全く関心を抱かない人は、素材を集めることで満足する人である。それはもちろん称賛に値する有益なことである。しかし、本来の知を意味せず、従属的でそれゆえほとんど自立していない頭脳を暴露するに過ぎない。何かより高次のものを企てたい人は、素材全体を加工する。そしてその際に哲学的努力無しで済ますことはできない。なぜなら、もし彼がそれを、ある特定の領域のためにだけ加工しようとするなら、彼は、それが他の知に対してどのような関係にあるかを調べなければならないからである。

ある特定の知の領域においてのみ働こうと欲する人すべてにとって最小限必要なことは、知の領域において必要な批判のために哲学的努力を分割することである。しかし、哲学的関心から個々の領域の内的姿に働きかける人々が常に存在しなければならない。そのような努力についての単なる歴史的知識は、そのような批判のために十分ではない。哲学をしなかったならば、それが誰であれその領域において、単なる材料の収集者に留まる。

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