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(最終更新日20001018)

7.弁証法の歴史について

a.         私たちは問題を次のように表現する。すなわち、私たちが学問としての知の原理と連関を持つとしても、私たちの表象を学問に還元する為に、その実行の技法論を持たないならば、何の助けにもならない。同様に、私たちは次のように語った。もし私たちが技法論を見出すとしても、知の原理を構築しないならば、技法論は私たちを満足させることはできないと。したがって、ここでも人は一方から他方へと移行しなければならない。思考する人間はみな次のような過程、すなわち、一方の人々は、哲学的学問から弁証法的技法へ、他方の人々は、弁証法的技法から哲学的学問へ移行するという課程において把握され、両方の道は、絶えず接近した後で出会うと仮定するならば、それによって私たちに、最終地点が規定されて与えられる。すなわち、二つの方向が出会うことによって、その時にはこの領域において、なすべきことは何もなくなるのである。しかし、この過程の開始点はどこにあるのかという問題が生じる。弁証法で始まる側では、どの点も、それが抗争を含めば含むほど、そして、哲学的知への関連が後退すればするほど、その度合に応じて終点から離れて後ろに横たわっている。同様に、もう一方の側では、逆のことが言える。しかし、最終地点がたった一つであるならば、開始点もまた本来は一つでなければならない。なぜなら、歴史的に見ると、弁証法的技法の最大値から始まり、その結果学問が最小値になることや、その逆は決してありえない。したがって真の開始点は、両方の相対的な差異よりもさらに背後にある。技法論から学問へ、あるいは逆に、学問から技法論への移行が、近似しつつ互いに並んで進むという状態であるならば、共通の開始点とは、両者が最小値になるような点、したがって、絶対的最小値としてのゼロ点である。すなわち、哲学は、この二重の組み合わせの下で、ゼロ点から始まるが、ただ精神的操作のゼロ点で始まるということではない。なぜなら、そのようなことはあまりにも広すぎる逆戻りであり、私たちを純粋に心理学的なものに導いてしまう。しかし、次のような開始点が存在するのである。すなわち、そこにおいて本来哲学的なものが正にゼロであり、他の精神活動がすでに展開しているような点で、そこに哲学的なものは含まれる。

b.         この定式の下に私たちは一つの価値を置かねばならない。それによって歴史的なものへの移行が与えられるのである。私たちが哲学を、その最初の起源にまでさかのぼって追跡できるような所で、哲学はどのように始まるのだろうか? 哲学が他の言語の伝統によって、他の民族から展開したようなところ、例えばローマ人の下では、それは実際には成立しなかった。それに対して、ギリシャの哲学以上に有名な事例は存在しない。私たちの技法もそこで成立した。ここに私たちは、哲学することの最初の無意識的な要素を見出すが、それは詩的なものとの混入から展開してきた。ここに私たちは、(哲学と)同じ内容の産物を見出すが、しかし、想像力の産物という全く別の形式においてである。ここにおいて、弁証法的技法の側で見るものは、ゼロであり、学問的形式も同様である。なぜなら、詩の全体性は、哲学的全体性とは異なる全体性だからである。しかし、それにもかかわらず、この努力の中に、最初の哲学的要素がある。

c.           さて、私たちは次のように言うことができる。これとの類似物はいたるところに見出すことが可能であり、あらゆる言語において、詩的なもの、すなわち、神話的なもの、その内容にしたがって哲学的なものは学問や技法の形式よりも古いと(言うことができる)。この前提の下で私たちは次のように言うことができる。すなわち、両者が最小値であるこの状態から、両者の方向性もまた生じることが可能である。つまり、学問が隠れ潜んでいるところでは、弁証法的技法が、生じ、後者が隠れ潜んでいる所には前者が生じる。このような状態からいかにしてギリシャ人の間でその発展が進んだのであろうか。明らかに次のような具合である。すなわち、想像力の産物に対立するもの、つまり、認識への努力によって導かれた意識が、実在的学問において先ず確定される。その後に、私たちは、自然科学的な知への努力を、同様に、倫理的政治的知−それはいたるところでこの詩的な状態に逆戻りするが−への努力を見出す。しかし、これは知の特定の領域であり、知の諸原理や知の連関の認識に携わるような領域ではない。これに対して、学問的形式よりも前に存在した弁証法的技法は、両方の領域で働く。なぜなら、その二つの学問が、神話的なものから展開し始めたことによって、これは異なる仕方で起こったからである。これによって、一致に達する必要が生じ、そこから、古代ギリシャ人の弁証法的技法が展開したのである。実在的学問を完成する努力が後退した所では、最も強力に展開した。そうでないところには、学問的形式が現れた。しかし、原理と連関の構築は、知それ自体として与えられはしなかった。古代ギリシャの全教養圏は、弁証法(哲学的技法論)、倫理学と自然学(実在的諸学問)という三重の形式において自らを完成させた。そして、絶対的〈87〉学問が、それ自体として現れることは決してなかった。アリストテレスの哲学には、最近の哲学にも受け入れられたものの幾分かがあるように思われる。なぜなら、そこでは弁証法的技法と、実在的学問とが区分されており、彼の形而上学は本来、知の全体性の構築と、その諸原理を含まねばならないものだからである。しかし、この形而上学が、私たちには非常に不恰好な形式で現れたということは度外視するとしても、それはまだ真の学問的な構築ではなく、そこに至る試みに過ぎない。

d.         しかし、私たちが一体どこに、学問的形式が根源的に作り出される事例を見出すのだろうか、そして、この点に関し、最近の諸国民はどのような状況にあるか? そこでは、私たちは根源的な開始や、持続的な系に至ることはない。これら諸民族も神話を持ってはいた。しかし、学問的なものは、古代の文化からはじめて展開した。それもまた新しいものと見なされるべきである。なぜなら、キリスト教が、古代と現代との融合(Amalgam)を実現するために、そこに登場したからである。キリスト教は、そこから学問的なものが展開した古代の神話を破壊した。そして、学問的発展は、古代ギリシャにおけるのとは違った進路を取ることになったのである。認識の衝動が用意をしたキリスト教的な感覚と精神から直接的に、絶対的学問、すなわち、最高の存在についての知が生じたが、それは、全ての存在とその連関の原理としてである。これが最初に現れたとき、実在的諸学問はまだ全く進んでいなかった。それらが後になって成熟してきた時、弁証法的な技法が発展しなければならなかった。しかし、それは起こらなかった。というのは、人は常に最高存在についての意識を規範として受け入れ、すべての差異を宗教の領域へ引っ張り込んでしまったからである。こうして近代の形成過程と古代のそれとの間に相違が生じた。

e.          近代になって人が、絶対者の学問を目指した時、それは当然であった。絶対者は全連関の原理であるべきだからである。しかし、人はその際同時に認識の多様性を持っていた。そして、そこから一つの連関を作り出さねばならず、後者(連関)は、前者(絶対者)に従属しなければならなかった。〈88〉思考の結合規則と知の連関の構築規則は、別々のものではあり得ない。なぜなら、いずれの場合も連関が問題だからである。しかし、人は形而上学のために結合法則を先に送ったことによって、それは認識の内容から全く分離されて論じられ、単に形式に関連して有効とされた。この比較的に空虚なものは、後になって、詭弁に似た論争術に堕した。知の破壊を目指したわけではないが、知の中心は抽象化されていった。

f.            二つの異なった方法の扱い方はどこで終わったのだろうか? 私たちは、ここで様々な領域における進展の状況を脇に置き、次のように言うことができなければならない。すなわち、哲学する古代の形式においては、知の原理と構築に関する学問は、弁証法以外のあり方で現れることは無かった。弁証法において同時に全ての知の連関に対して基礎が与えられたのであると。しかし、ここにはまだ独自な学問的形式の下での原理と構築の登場が欠如している。知の完全性ということを考える場合、技法論から学問的な姿が生じなければならない。しかし、この原理と構築の学問的姿が、個々の領域から分離され得るかどうか、私たちはまだ決定していなかった。近代になると、知の諸原理の学問は、独自な知として、形而上学の名の下に登場したが、それは全く形式的になった。というのは、個々の諸学問がまだほとんど手をつけられていなかったからで、そのため知の連関の構築は魅力を持つことができなかったからである。しかし、両者は関連し合っているので、新たな不完全性が生じた。結合の法則は何か形式的なものとして、全ての知に先立ってしまい、それゆえに個々の学問の構築が、何か偶然的で技法を欠いたものとして現れたからである。個々の学問には、共通の原理が基礎にあったが、他の学問に対する対立を形成するものは、その諸原理との同一性には受け入れられなかった。したがって、近代では、個々の学問において仮説的方法への傾向が生じた。〈89〉それはすでに古代にもあったが、当時はただ自然科学において見出されたに過ぎなかった。

g.          ここではおよそ諸国民の新しい全教養と共に組織されたもの全てが、したがって先ずスコラ学の時代に現れたものが意図されている。そこに、哲学的努力の衰弱と崩壊が起こり、個々の学問作業へ向かう結果となる。〈90〉したがって、カント以降の最も最近では、哲学的探求の形式は、見直しと批判の下に置かれている。そのような見直しの傾向とはそもそもどのようなものであるべきか? 二つの相対的に互いに対立する形式、すなわち近代の形式と古代の形式とを互いにつき合わせ、両者の長所を統一し、短所を避けることである。

h.         哲学のスコラ的形式の短所とは何か? 諸原理についての学問は、唯一の学問として登場したが、知の連関についての探求は、結合形式についての無内容な理論に堕してしまったということの原因になった。この学問だけが登場したということが、この欠点の原因かどうかは決められない。しかし、歴史的にはおそらくそうである。この短所に人は次のことによって対処することができた。すなわち、その学問を原理と構築から分離しないということによってである。これがどのように起こり得たかということを古代人は示している。知の連関の構築は知自体を前提としている。そして、それは実在的な知の後にはじめて来るものである。しかし、もし私が知の諸原理を持っていないならば、これら様々な個々の諸学問を、私は知として持つことはできない。したがって、もし私たちが両者を、一つのものとして扱おうと欲するならば、これは、実在的知の成立において、その知とともに同時に起こるのでなければならない。つまり、これが帰するところは、弁証法的な技法と同時に成立するということなのである。なぜなら、全ての対話遂行を通して知は成立するからである。

i.            ここで回避しなければならない古代哲学の短所とは何か? 学問的形式がただ個々の学問において現れ、知の諸原理がただ弁証法的な技法にのみ潜んでいることである。このことがどの程度短所であるかは、私たちが次のことを考えてみる時確信できる。すなわち、古代の人々は、その学問的な努力において、常に〈知はそもそも存在しない〉という主張と戦わねばならなかったということである。このようなことが生じたのは、知自体の諸原理が意識に昇ることが決してなく、技法論に隠されていたからである。詭弁学派、ピュロン主義(ピュロンを祖とする懐疑主義)そして新アカデメイア派(アルケシラオスを学頭とする懐疑主義で、ストア派の独断論に対立)という三形式における懐疑主義が、これについての証明をもたらしてくれる。そこにおいて懐疑主義は哲学的な形式さえ取り、〈91〉政治家の実践的な懐疑主義である。しかし近代において懐疑主義は個々の動きとして現れるに過ぎない。なぜなら知の諸原理が、よりはっきりと意識されてきているからである。その確かさはその根拠を、知の諸原理についての探求が、学問として登場できたということに持つのではなく、宗教的なものが優勢な(キリスト教登場後の)近代の哲学の性質に持つ。なぜなら、知の統一と全体性への要求はすべて、それ()と平行して進む他の根源的なもの、すなわち宗教的なもの、最高存在についての意識との結びつきにおいて定立されたからである。宗教的なものの性格とは次のような見方である。すなわち、生は、最高者との絶え間ない関係の意識の外では不可能であるという見解である。両者が結合されたことによって、次のような見解が成立した。人間に内在する絶対者あるいは最高者についての根源的な知が無ければ、知もまた不可能であるという見解である。

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