(最終更新日2000年10月18日)
8.弁証法の新しい課題
a. 私たちがこの差異(根源的絶対者についての知と一般的知の差異)に結びつき、その解消を求めるならば、この修復のための比較は次のことに基づく。すなわち、人が知の諸原理と連関の構築を哲学的技法論においてまとめること、そして、知全体を、人間に内在する絶対者と最高者についての宗教的意識に基づかせるということである。その(最高者・絶対者についての)知を私たちは、すべての個物がそこへ戻っていかねばならない根拠として意識する。他方重要なのは、私たちがその両者(知の諸原理と連関の構築)を、根源的に技法論においてまとめることによって、それらが最後には学問的に現われ、したがって技法論が学問的形式に移行するというような結果になることである。
b. さて、私たちは最初の問いに戻ることになる。すなわち、私たちが求めているこの技法論において、私たちはそもそも何を持っているのかという問いである。私たちがそれを完成するならば、私たちはそれによって、同時に、あらゆる知の有機体を、あらゆる知の原理に還元することになる。したがって、哲学的技法論は、最後には、人が正当にも知識学と呼び得るものになるのである。これが、この哲学的学問論から、私たちに生じるべき最後で最高のものである。〈92〉これによって、思弁的な生活様式を取っている人の大部分は満足する。技法論がこの目標に到達する途上で、私たちにとって技法論は、個々に知として与えられるものすべてのものとの連関で、哲学的批判の技法にもなる。技法論がそのようなものであるのは、ただこの最後の結果の前提において、私たちがそれに戻ることができる限りにおいてである。技法論が私たちにとってそうなるのは先ず、私たちがその図式全体を、知の連関が私たちに明らかになるまでに貫徹した後である。これは、個々の学問的領域に携わる人々が、この技法論によって絶えず為さなければならないその使用法である。それから、個物が本来の学問の複合体に、学問の全体性に受け入れられるかどうか決まるのである。
c. したがって弁証法の帰結の全体は、@表象の各差異において、知の進展を展開すること、A知の各領域から各構成要素をその連関に従って判断すること、最後にB知の普遍的連関を認識することである。@はAの適用に過ぎず、その適用はただBの前提の下に為される。ここの各思考は、その場所を、全連関の中に持たねばならない。これを見出すことが重要である。思考はすべて、それが発話されたものであれ、知の何らかの領域に属さねばならない。もし人がその反対を見出そうと思うならば、それはただ次のことからのみ来ることができる。つまり、人はすべてをこの連関に引き戻すことが常にできるわけではなく、またこの連関を常に現在的に持っているわけではないということである。というのは、人が一つの思考から他の思考への移行に目を向けるならば、あらゆる境界は消滅するからである。もし私たちが学問の普遍的な組織を念頭に置くならば、私たちは、そこに属するべきすべての個々の対象に、それぞれ特定の場所を示すことができる。個々のものに関しては、常にただ普遍的なものを通して何かを表現することができる。
d. 私たちは、私たちの結果の最初の部分@を最後の部分Bと直接結びつけることも可能である。もし様々な考えが互いに対立し合うならば、〈93〉それらの比較のために同じ表象が常に存在しなければならない。人は、その同じ考えが、これやあれやの考えと結びつくことが可能であるかどうか、知らなければならない。しかし、各々の考えが、より大きな体系に属することによって、論争し合っている対象について了解しあう努力はすべて、関連ある知の表象をそもそも前提としている。
e. したがって、私たちが弁証法においてそのような判断する原理を持つならば、もう一つ別の適用は非常に近くにある。哲学は、知の原理や知の一般的規則に携わるものとしては、まだ持続的な形態には至っておらず、様々なあり方が釣り合っている状態か、あるいは、一つのあり方が優勢な状態かである。ここで次のように問うことができる。同一の根拠から弁証法は、それによって人が学問の形式としての様々な哲学の価値を判断可能な諸原理を、含んではならないのか? 諸体系が、結合の一般的規則の基礎になっている諸表象の複合体と見なされる限りは、そして、私たちが、その連関を結合規則に従って正しいか正しくないか判断可能である限りは、明らかにこれに当てはまる。しかし、これが与えるのは、諸表象の個々の結合の相対的な正しさのみであって、全体の正しさではない。なぜなら、様々な〈94〉体系は、様々な開始点に由来し、様々な方法に従う。単なる結合規則によっては、これは互いに比較されることはできない。しかし、もし弁証法の展開の中に同時に知の最終的根拠があるのであれば、何らかの哲学的体系の開始がどの程度それと結びついているのかいないのか、そこから明らかにならねばならない。しかしながら私たちは、これが普遍妥当的な判断であると言うことはできない。むしろ、それは常に主観的な真理価値を持つに過ぎない。なぜなら、開始点(複数)は、それ自体比較することはできず、むしろ感情に基づくものだからである。私たちが問題を純粋に歴史的に把握し、哲学の叙述の学問的な諸形式を並置するならば、そこにはそれら諸形式が相互に向き合わされるような関係が見つけ出されねばならないだろう。すなわち、ある体系が他の体系に対してより親密であるような様々な度合いが見つけ出されねばならない。この結果は、この課題との関係で様々な開始の比較によってのみ見出され、弁証法による以外に見出されることはできない。