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(最終更新日20001018)

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9.対話遂行の前提と方法

a.         私たちは再び私たちの出発点に向かいたい。すなわち、異なった表象の状態から、同じ領域において、同じ表象を経由して表象の統一に達するという課題である。これを私たちは生の進行において絶えず技法のないやり方で試みている。そして、それを今は技法に適ったやり方に高めようとしているのである。すなわち、そのプロセスについて熟考し、その前進を確かにしようとしているのである。この課題の解決に属しているものは何であろうか? 抗争しあう表象の外に、さらに何か他のものが、私たちに明らかに与えられているのでなければならない。そして、それは二つある。すなわち、一つは、何らかの共通の考え、共通の表象が与えられていなければならない。そして、二つ目に、一つの表象から他の表象へ進んでいくやり方について共通の承認された規則がそこになければならない。この両者が与えられた場合にのみ、私たちは実り多い成果を期待できる。しかし、一つが欠けるならば、私たちは、抗争し合う考えによって何を為すべきか分からないだろう。

b.         95〉私たちはこの二つの前提を、はっきりさせるために孤立化してみたい。自分とは異なった表象を持った人が、私たちに、やり方についての私たちの規則を認めるが、しかし、私たちは抗争し合う表象以外の点から出発できないと仮定すれば、その場合彼は、もし私たちの最初の表象が正しければ、私たちの推論は正しいということ以外認めることができないし、その逆に、私たちは彼に対してそれ以外のことを認められない。したがって、私たちは〈私たちの表象は内的に連関している〉と言う。しかし、私たちは互いに全く分離して進み、したがって、私たちの目的の正反対を達成する。

c.           第二の前提は、共通の考えで、それによって抗争し合う考えが判断されるべきである。このような考えは、抗争し合う考え自体に含まれることができるかできないかである。もし含まれているならば、その時には、その考えは、各人の表象において、他の様々な表象と結びついているのである。しかし、共通の連関規則がなければ、この共通の考えを発見し、異なった考えとのその結びつきを見出すことは不可能である。― あるいは、それ(共通の考え)は、異なった表象の外部にあり、そして、それらの表象はそれ(共通の考え)と、何らかの仕方で関連し合っていると誰もが主張するのであれば、その場合には、共通の考えから抗争し合う考えへの進展が可能でなければならない。そこから結果として明らかになるのは、異なる表象における正当さまたは不当さである。しかし、このような進展は、進展の規則を前提にしてのみ可能である。〈96〉しかし、規則の適用が同時に与えられなければ、共通の考えは私たちを何ら助力することはできない。したがって、双方の話者にとって確かな、共通の考えが与えられねばならないが、それと共に、そのプロセスの始動のために共通の結合法則が与えられねばならない。

d.         もし私たちがこの二つの前提を認めるならば、すなわち、すべての人にとって、彼らが了解し合うことを望む限り、何らかの共通の知と、進展のための共通の規則が存在するということを、私たちが仮定するならば、人々はいかにして抗争し合う表象の状態に陥ることになるのだろうか? これに対して私たちは次のように答えねばならない。もし彼らがこの共通の知から、常に技法に適った仕方でことを進めるのであれば、彼らは抗争し合う表象に至ることはなかったであろう。抗争状態はそれ自体次のことを前提としている。すなわち、技法無しに成立した思考―それは抗争の技法の行使によって正されるべきなのだが―というものが存在しなければならない。したがって、次のように主張することは正当化される。すなわち、もし、共通の知と共通の結合規則という二つの前提が与えられないならば、対話遂行の実り多い成果は不可能ということである。しかし、もし両前提が与えられればそのような成果が可能であるということは、まだ明瞭ではなく、さらに補足を必要とするように思われる。なぜなら、次のように考えられるからである。すなわち、両者の間に共通の知があり、それはしかし、それらの抗争し合う点と、等しい結びつきにない、あるいは、全く結びつきがない。その結果、人はその(共通の)知からこの(抗争し合う)点へ、全く至ることができない(ということが考えられる)。それでは不十分なのである。したがって私たちは、そのような前提を補うのだが、それは次のようにしてである。すなわち、前提されるべきは共通の知である。そこから人はすべて可能な考えに至ることができる。そのとき私たちの前提は、第三のものが与えられる必要なしに正しい。そして、その結果は、先の結合法則の実り多い適用に依存するのである。人がこれを理解すればするほど、彼は容易に対話遂行上のあらゆる困難を解くことができる。これに対して、彼がこの点において未成熟であればあるほど、それは困難になるだろう。

e.          そのような最後的な知が存在するのかどうかについては、私たちはまだ決定せずにおかねばならない。ただ言えることは、〈97〉いずれにせよ抗争の領域において、両者の側に対してそのような共通の知が存在する場合にのみ、抗争の実際的解決があるということである。これが対話遂行における通常のやり方であるが、それは不確かで不完全である。二人の人が一つの対象をめぐって抗争状態に入る場合、一方の人がある特定の命題を前提としているということは自然である。しかし、それは、その一方の人が論争の原因を帰した点が、両者にとって同じ価値を持つ場合に限られる。しかし、そのような解決は、仮説的な解決に過ぎない。なぜなら、両者は、先の仮定に対して同じ関係にないからである。そのもう一方の他の人に対してその仮説を認める側の人は、その仮説を立てた他の人のようには、明確な関連の意識状態にはいない。したがって、彼の承認は一時的なものに過ぎない。(仮説を立てた側の)他の人にとって、その仮説は一層確かさを持ってはいるが、しかし、その根源的な受け入れは、彼にとって多くの場合再び流れ去ってしまう。したがって、この解決における確かさは、ただ共通の知が当てずっぽうに利用されるのではなく、その知を認める人が、〈自分はその知を決して再び取り消すことはできない。なぜならこの知は、その他すべての思考と最高度に密接に結びついているから〉ということを認める程に、その共通知が根源的な場合に限られる。その間の点から始まる他のあらゆる解決は常に一時的なものに過ぎない。

f.            そのような根源知を前提するとき、抗争し合う表象の状態自体は、ただ次のように説明され得る。すなわち、その根源知か進展の規則、もしくはその両者が、以前は技法のない状態に置かれていた。それらを今や意識へと高めるべきなのである(と説明される)。同じことは、私たちが対話遂行の仕事を、個々の人間にとって何か内的なものと見なす場合にも妥当する。彼(個々の人)は、その場合、もしすべて他の人の根底にある根源知がなかったならば、様々な表象において一人の同一人ではなく、統一に至ることもできない。もし私たちが根源知を意識された知として考え、進展の規則も同様にそう考えるならば、それに続く知はすべて自らに確信を率いておらねばならず、差異というものは全く不可能になる。〈98

g.          もし私たちが、このような前提から出発するならば、私たちは、私たちの探求の対象について、もう一つ別の見解をさらに獲得する。異なる表象を統一へともたらす技法と、技法なき仕方で成立した思考を根源的知によって技法に適った知に変ずる技法とは、同一である。前者のやり方においては、人は現存しているもの、抗争しているものから根源知へと進み、後者においては、根源知から様々な方向へと進んでゆくのである。しかし、次のことはどちらでもよいことである。すなわち、私たちが、抗争し合う表象を、そこから前進して根源知へ戻るきっかけにするのか、それとも、その前進をただ根源知に結び付けるに過ぎないのかということ(はどちらでもよいことである)。なぜなら、そのやり方は双方の観点で全く同じだからである。そして、抗争し合う表象という状態が全くなく、一つの知に達するという努力だけがあるならば、これもまた同一の技法によって満たされねばならない。その際、方法は他の抗争すべての場合と同じである。ただ、抗争は人間の立場に対して必然的であり、私たちに次のような利点をもたらす。すなわち、抗争は私たちを常に私たちの意識に連れ戻し、したがって、私たちが普遍的な課題との関連でどの点にいるかをありありと描き出す。抗争し合う表象以外の状態は、私たちに与えられていない。そうした状態が領域によっては少ないということはある。しかし、その状態は、数学の領域にさえ存在する。少なくとも、ここには技法に適った思考と、一層無意識的思考との相違が存在する。根源知からある任意の認識をある方向性に向かって産出する努力は、人間の歴史においては、かなり後の時代の産物であり、真に思弁的な頭脳において意識されるものに過ぎない。ついでながら、私たちはこれやあれやの領域において、明確な思考の非常に様々な段階を、混乱と失神状態の極みに至るまで、見出す。したがって、哲学的技法論の発展によって、先の二つの点(共通の表象と共通の規則、S.94参照)から知を促進する必然性があるのである。

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