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(最終更新日20001025)

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10.高次の知と低次の知の関係

a.         ここで次のような見解が私たちに反対する。それは哲学の領域に時々現れる見解で、それによれば、技法なき思考から、技法に適った思考へのそのような漸進的移行などはなく、両者は、意識の異なったポテンツとして別々に存在する。そして、技法に適った思考は、人間の中に、以前の状態と無関係に、何か根源的なものとして飛躍を通して成立しなければならない。このような見解は、すでに古代人において、真理と仮象の対立のもとに存在したが、近代においては、平凡な意識と高次な意識の対立のもとに存在する。この見解が根拠付けられれば、それは、私たちの歩みにはわずかではあっても影響を及ぼすだろう。新しい表象の産出は本来〈100〉抗争し合う表象の止揚と同じであるという私たちの見解は、その場合には変わらねばならないだろう。なぜなら、そのような仮定によれば、学問の中に抗争し合う表象は存在せず、そこから知に至ることは不可能である。抗争し合う表象は、より高次の意識の原理によって先ずは絶滅され、その流通を全く止められる。それによって、それら(抗争し合う表象)は、次の段階においては、全く考慮しなくてよいことになる。抗争し合う表象から知へ達する技法は、それによって破棄されてしまうだろう。― ここは、この思考プロセスの二重のポテンツという見解の価値について決定する場所ではない。なぜなら、それは次のことを前提しているからである。すなわち、私たちが、私たちの企てをすでに完成していること、そして、私たちが求めている諸原理をすでに見出していることである。私たちがここで見ることができるのは、この見解が、私たちがここで個々に論じたことに対し、どのような関係にあるかということである。新しい表象の産出についての問いにおいて、私たちの探求がそれによって変わるということはない。変更は当然のことながら次のことにある。すなわち、私たちは技法論をもはや抗争の解決のために用いることはできないということである。

b.         さて、私たちは全くの始めから、より高次のポテンツにおける思考を定立すること無しに、抗争し合う思考状態という前提から出発した。そして、私たちが問わなければならないのは、抗争が生じるより低次の知と、より高次のポテンツとしての確かな学問との間のそのような相違の想定に、どのようにして人は至ったのかということである。もし、両ポテンツの産物が互いに全く離れており、異なっているのであれば、差異は明らかであろう。しかし、思考はすべて、諸命題の複合体に含まれているならば、論争的である。それは数学的な領域にさえ妥当する。そこには様々な種類の構築と解消とが存在し、どれが今正に最善の種類であるかについて論争が可能である。しかし、その結果は、ここではまったく別の姿をとるということはなく、したがって、その結果からそのような対立が認識されるということもない。この見解から出発したある人々は次のように語った。〈感覚的刺激のプロセスに戻ってゆくような思考はすべて、経験及び外的世界についての私たちの表象全体と共に、抗争し合う思考の領域である。それに対して、すべて内的なもの、ただ〈101〉精神において生じるすべてのものは、意識の最高のポテンツである。そして、これについての結果の全体性は、本来的な知である〉。しかし、今や明らかなことは、そのような相違は生じないということであり、外的世界についての私たちの表象の総体は、内的知から、そのように区別されないということである。なぜなら、対象は両者にとって、一つ同じものだからである。感覚的印象から私たちは自然学という学問を立てる。同様に倫理学も、私たちの行為が私たちに与える印象にのみ基づいている。記憶や思い出に属するものはすべて、常に有機的要素を持っている。他方、私たちは、その際にもし内的な操作が共に定立されていなければ、外的な経験認識を持つこともできない。なぜなら、単なる印象はそのような認識をまだ与えることはできない。というのは、それは多様性には通じていないからで、そのためには確かに内的活動が必要である。感覚的印象から生じる意識は、内的なものへの接近がなければ完全な意識ではない。また、思弁的な意識は、たとえそれが全く外的な印象から独立していることが可能だとしても、外的なものへそれを適用することによってのみ完全であるに過ぎない。前者(感覚的印象から生じる意識)は、内的なものがなければ、意識のための質料の複合物であり、自らが意識になることはない。後者は、空虚で対象を持たない意識の形式の複合物である。同じことは個々の行動すべてに妥当しなければならない。それ(個々の行動)は、どちらかのポテンツに優勢に属する場合にのみ、完全な行動であり得る。したがって、私たちは、分離された全体というようなものを受け入れられない。ただ相対的に不完全な状態において、二つの領域は分けられる。それに対して、完全な状態において両者は互いに一つに溶け合っている。したがって、潜在的相違はなくなってしまう。

c.           事例の先取り。感覚的器官を通して個々の外的事物について獲得された表象は、それがすべての知の連関に関係させられていなければ、全く混沌としたものであるということは明白である。すべての関係の可能性のこの直観―そこにおいて表象は定立され得るのだが―においてのみ、個々の表象としてその完全性は与えられる。同様に、判断の定式は、〈102〉そこにおいてその定式が適用され得るすべての場合を私たちが同時に直観するときのみ、私たちの中で生きた知となる。したがって、この面から二つのポテンツの相違を見出すことはできない。またこの面からは、私たちはその相違を全く無視することができる。しかし、より主観的な(先の立場はより客観的であった)別の立場が見出され得る。すなわち、私たちが次のように主張するとき、つまり、私たちの意識自体は、何かがより低い意識や高い意識に属する限り、全く別の意識である。あるいは、ある一つの領域には、ただ確信の感情だけが存在する。他の領域には疑いの感情のみが存在する。したがって、両領域は分けられる。しかし、私たちが両者の産出に目を向けるなら、このようなことも問題になり得ないことが私たちに明らかになるだろう。

d.         思考のどんな領域においても、完全性と不完全性との間に差異が存在するということを、私たちはそもそもの初めから前提としてきた。ただ問題なのは、思考の不完全性から完全性へは、漸進的な移行であるのか、それとも常に一つの飛躍であるのかということである。私たちはこれを、ある定まった形に表現してみたい。私たちが通常の経験によって知り、同時に学問の対象でもあるような対象は存在するだろうか、また、その際に私たちは、その操作と、私たちの状態についての意識とを区別できるだろうか?例えば私たちが太陽と地球の関係について通常の感覚で語るならば、実際に動いているのは太陽ではなく地球であると知ってはいても、太陽に運動を帰してしまう。しかし、私たちがこの関係を学問的領域において観察する場合には、異なった表現、すなわち、動いているのは地球であるとする。したがって、両者は互いに対立しつつ並存している。その際私たちは私たちの言葉が、私たちの見解と矛盾しているとは思っていない。そこで、もし人が日常生活の領域でも学問的な言葉に倣うとするなら、それは杓子定規というものだろう。私たちはこれまで、思考のより大きな完全性とより少ない完全性について語ってきたが、それによって、同一の人に、同時に、同じ対象に関して、両者が並存しているということを意図してはいなかった。そうではなく、それを移行の状態に定めたのである。私たちがこれを〈103〉完全な知識と不完全な知識とが並存しえるというように理解するなら、両者は完全に分離していると考えるべきである。そしてこれは私たちの敵対者の意見を支持することになる。しかし、これは見せかけに過ぎない。もし私たちが日常生活において、そのような誤った表現を用いるならば、そのようなことが生じるのは、ただ知ではなく、ある目的の為の手段だけが問題であるような状況においてであろう。そのような場合には、学問的な領域においてもそれ(誤った表現を用いること)は起こる。そのような場合、私たちは言葉(Ausdruck)と表象の差異を見落としている。表象は何か他のものへの通過点に過ぎないからである。しかし、個々の表象自体が問題であるならば、私たちが完全な表象と不完全な表象とを同時に持つことは起こり得ない。

e.          したがって、その差異は次のようなことに存するのではない。すなわち、私たちは不完全な諸表象−それに対しては完全な諸表象の系列が対立しているのだが−の関連領域を持っていて、その一方は平凡な、他方はより高次な領域である(というような事に差異が存するのではない)。そうではなくて、思考が私たちのもとにおいて二つの状態で現れるということに過ぎない。一つは、思考が私たちの精神活動の目的であるという状態、もう一つは、思考が何か他のことの為の手段であるという状態である。およそ思考というものは経験の領域では、〈104〉全く実践的である。すなわち、それは諸対象に関係する私たちの行為に関係している。そして、ここに於いては、それが行為の正しさに何ら影響しない限り、表象する行為の正しさは全くどうでもよいのである。自然学における二つの対立する理論を考えてみる。例えば、金属の硬化について、ある人々は、この現象は、ハ(かわ)が酸素と結びつくことによると説明する。他の人々は、燃素がハから逃げると説明する。このように、対象との交流には、そこにおいて二つの理論がどちらも当てはまるような地点が存在する。それが実践的領域というものである。しかし、表象の正しさは、ここでは精神活動の目的ではない。しかし、自然科学の領域においては、このことはどうでもよいことではない。各異なった表象は、全く違った結合を生じさせるからである。しかし、このような違いを私たちはここでは放置できる。なぜなら、思考が、自分自身のために生じるのでないような領域は、私たちの目下の探求の対象ではないからである。私たちは、平凡な生活において、差異を私たちの技法によって破棄しようと欲する場合、その対象をその一つの領域から際立たせ、それを別の領域へと移し変える。思考が行為のために利用されるような領域に立っている人々には、知の領域における本来的努力が不可能なのであろうか?決してそのようなことはない。その違いはただ、どちらが優勢であるか、どちらが抑制されているかの違いに過ぎない。この二つの活動の一方が欠如しているような人は、精神的な奇形である。人は誰もが、その実存によって、様々な対象との交渉へと、すなわち実践的な領域へと向かわせられる。そこで問題なのは、諸表象の系列を固定化することである。その際、事物についての彼の諸表象が誤るということはあり得る。しかし、それらが等しい関係にあるに過ぎず、彼が、それによってこれやあれやを引き起こすことができると知っているならば、彼にとって、このような誤謬は全くたいしたことではない。彼は、その表象を、彼がそれを獲得したままに、疑問にぶつかるまで放置する。この実践的なものは、常に不完全な思考領域であり、そこでは私たちは思考を、それ自身のために行うということはないのである。

f.            そのような人は、他の知を全く持たず、欲することさえないのだろうか?このような問いは置いておき、反対の側からこの問いにもっとうまく答えられないかどうかを見てみたい。共同的活動の領域から身を退き、もっぱら思考の為の思考に携わるような人が存在する。そのような人が、ただそのことだけに携わるということが可能だろうか?これは不可能である。彼は自分の生を、共同的活動領域から切り離すことはできない。二つの領域の完全な分離は考えられない。彼は、自分が実践的領域において、不完全な表象に通じているという付随的意識に至るだろう。知への欲求が、彼において衝動になれば、それは実践的領域においてもゼロであることはあり得ない。彼の表象は、ここでもまた常により確かで完全なものになるのである。

g.          実践的経験の領域に立ち、通常は従属的段階におり、したがって自分の内に新しい表象を産出することのない人の中には、ただ知の為に知ろうという努力は見出されないのだろうか?もし私たちがこのようなことを主張しようと欲するならば、私たちは彼に、本来的な意味でと呼べるようなものをすべて否認しなければならないだろう。なぜなら、人が何かを手段として利用するということとは別に、それと知り合いになるという努力なしに、何かを愛することは全く不可能だからである。人々をただ利用しようと考えて知り合いになろうとする限り、その人たちを愛しているとはいえない。愛が現われるや否や、人はその対象をそれ自体として知ろうと努める。このことは関心の対象になり得るものすべてに妥当する。前段落において、本来的な知を愛する人であっても皆経験も持たなければならないと語ったのと同じく、その主たる関心が機械的な領域に向けられているような人も、知を完全に免れることはできない。彼が愛の対象に出くわすや否や、彼は自分の表象の正しさについて不安に陥り、より高く純粋に確かになろうとする。したがって、愛は先ず懐疑主義を、すなわち、伝来の結果に満足することなく、すべての表象について愛によって確信しようと欲する努力を引き起こす。

h.         伝統的なものの安定した支配という性格を伴う実践の領域が存在する。また、不安定な性格を持つ愛の領域が存在し、そこにおいて私たちは、常により正しい表象を、確信の感情というある種絶対的な高みに達するまで求めつづける。私たちがこれに至るかどうかということは、ここでは立ち入ることはしない。

i.            したがって、思考の二つの活動は、どの領域においても異なっている。なぜなら、一方においては思考は目的であり、他方では手段だからである。そして、他ならぬ伝統的な確かさの領域においては、時おり本来的な知の点検(修正)が必要で、その作用によって、変化や新しい時代が、実践的領域の形式において生じるのである。そのとき二つの領域は互いに浸透し合い、実践的領域の安穏は止むのである。他の側では逆のことが起こる。学問的領域が実践的領域に適用されると、それは、学問的領域にとっては、落ち着きであり、一つの吟味である。したがって私たちは、そのような分離を、ただ将来における再統合という前提のもとでのみ考えることができる。そして、そこにおいて分離した領域の統一をも見るのである。したがって、二つの意識の間には、本来は違いなどないのである。

j.            私たちが大衆に(彼らは知をそれ自体のために行使することをしない)、彼らの中にも、より高次の意識と類似したものを持つ動きが存在しないかどうかを調べる為に、目を向けるならば、私たちはそれを否定することができない。知の伝統的な連関に関わることなしに、自分たちの表象を、それが手段であるような領域から取り出し、連関へともたらすような人々が常に見出される。彼らの中には、時折哲学的な独学者が現われ、そのような人においては、真理の二つの原理を互いに結びつける努力が間違いなく認められる。通常そのような傾向は宗教的なものと結びついている。なぜなら、宗教的領域は、最も普遍的に高次の意識を保持しているからである。例えば、ヤコーブ・ベーメのように。しかし、彼の思弁的な自然学を考察すると、そこでは宗教的なものは問題になっていない。それは思弁的傾向を持っているに過ぎず、そこには歴史的な養分が全く欠如しており、その結果それは明晰なものに〈107〉なることができない。いずれにせよはっきりしていることは、これら二つの意識の形式が離れ離れに進行することがいかにほとんどないかということである。したがって、この二重性を、私たちがここで限界付けしたように認識するならば、それは、一方の側に立つならば、他方とは全く結びつきを持たないといったような、二つの互いに分離した領域ではなく、むしろ両者は生において互いに結びついているのである。この結合は、弁証法的技法の一般的適用を、制限したり阻止したりすることは決してない。より低い領域における諸表象を統一化するという目的が現われるや否や、それらはこの領域から取り出される。そして、そのときそれが学問的な点検と吟味なのである。これが前提としていることは、いたるところに、ただ従属的な目的が考えられるに過ぎないようなところにも、知の原理が根底にあり、それは覚醒可能だということである。

k.         私たちは、私たちの技法を、ただ知の領域にのみ献身している人々の排他的な所有物と見なしてはならない。そうではなく、低次の思考に対する高次の思考の影響を生き生きと保持する為の共通財産と見なすべきである。私たちが精神形成の一般史に目を向けるならば、本来の哲学的行為が生の中に参入して以来、国民の意識の領域に大きな変化が生じている。そこにおいて健全なものと病的なものが区別されねばならないのは当然のことではあるが。すなわち、私たちは、従属的な思考の領域がそれ自体として保持されるべきだと考えているのではなく、それは常に直接的なものに根ざすよう努力すると考えるのである。〈108〉学問がまだ影響力を持たない限り、この影響力を行使するのは想像力である。それは目的を伴わない表象行為であるが、これも人間における最高の原理から導かれたものである。したがって、本来の思弁的思考がそれ(想像力)を形作る以前には、この生産的想像力は、いわばマトリックス(母質Grundsubstanz)のようなもので、思弁的思考が明るみに出されるまで続くのである。哲学的体系の前に私たちは神話的体系を見出す。そして、後者は同様にその影響力を従属的思考に対して行使する。しかし、これは、自分自身を規制する原理を持たないゆえに、迷信の支配が生じるのである。

l.            学問的な高次の思考が、従属的領域に対して影響力を獲得するや、迷信の領域は消失する。一般的思考様式におけるこの変化、迷信から普遍的連関の意識への移行は、高次の学問的思考の発展と、それが従属的思考に対して行使した影響力の結果である。そこから判明するのは、私たちが学問を、それが歴史的に形成されたと同様に、その最初の発端にさかのぼって追求するなら、それは、想像力の産出に包まれているということである。そして、大きな社会ではどこでも、いかにこの発端から学問の領域が大衆から際立って形成されてきたことか、他方ではしかし、大衆において、生き生きとしたこの傾向の影響がいかに目に見えるものとなり、その影響の結果にある種の確かさをどのように与えているかを私たちが考えるならば、そして、ここで私たちが、知と無知とを比較するならば、ただ次のように言うことができる。〈両者においては同一の原理があり、ただ知者は、より迅速な形成に携わり、無知者は、より緩慢な進歩に携わっている〉と。しかし私たちは、学問的原理のそのような増大する発展以外考えることはできない。一方では、思弁的思考が、神話的要素から常に一層解き放たれることによって、ある段階から次の段階へと続いていると考え、その結果、当初はこの知に与る国民はごく少数だが、やがて教育が進むにつれて、この操作(知るという行為)を成し遂げる人の数は増大するのである。他方では、私たちは、たった一つの契機に、これらすべての様々な段階が並列に並んでいるのを見出す。ある人々は、〈109〉個人的な無能力を代表するに過ぎず、実践的な表象の全領域に昇ってゆく。その結果、後者も独自な生産性に達することができるのである。したがって私たちも、知者たちのもとにも、他ならぬ新しいものの発見者や、新しい素材を今まであったもののために奪取するような人々を見出す一方で、他の人々は、再び、何も新しいものを産出はしないが、自分の活動によって、所与の型に従ってことをなす。さらにその下には、ただ高次の知の見せ掛けだけが現れており、その見せかけも、幾つかの瞬間にしか現われないような人々がいる。彼らは仲介的要素を表わしている。このようにして二重性はすべて消滅するのである。

m.      私たちがこれを、内的帰結においても、客観的な方法においてもさらに追求し、二重性についてのあの二つの問い、すなわち、私たちはこの特定の差異を知の特定の領域に見出すのか、それとも様々な状態に見出すのかという問いに帰るならば、私たちは両者を完全に否定して、次のように言わなければならない。〈経験に属し、事物との表面的交渉に関係するに過ぎない諸表象が、本来の知として形成されないにもかかわらず、それらの運動の中には、より高次の知の影響が示される〉と。それらは常に一層次のような仕方で表現され、関連付けられるのである。すなわち、全体の中へと把握される傾向が、各要素に常に一層刻印されるという仕方によってである。私たちがここでできる区別とは、国民の固有なものと関係するものが、一方はより多く、他方はより少なく発展したということである。私たちが他の問いに戻るならば、私たちは次のように言う。〈間接的思考に携わる人は誰でも、知の確信そのものから出発する人々が持つような付随的確信の感情を、諸対象との交渉との関連で持つことはない〉と。しかし、私たちは次のように言うことも決してできない。すなわち〈このような人々は、ただ共通の学問的生に受け入れられるや、彼らの中に知の原理が現れるような諸契機も持つべきではない〉と。このようなことは一方では、大衆において、あの個々の学問的な後追い現象において示されるし、一部は、次のような一般的傾向において、すなわち、通常の思考領域が、〈110〉想像力から取り去られるや否や、表象自体を観察するという傾向、すなわち、思考についてくどくど説明するという傾向において(示される)。このことが、哲学の学問的姿において、哲学の進展や発展に対してどのような関係にあるかを考察するならば、それはこの原理の最高の展開に他ならない。しかしそれは、全対象の連関において可能であり、国民の性格によって修正される限りにおいてである。この知もまた、それが直接人間性の統一から生じるようにいかに努力しても、同時に場所性と特定の時間性を自らに帯びることは明らかである。しかし、それは大衆全体に対して、最も暗い意識に閉ざされていたあの原理の最初の展開を代表しているのである。ここにおいて示されるのは、最大の精神的発展と、最も物質的な発展との間にある類比である。すなわち自然において、同じ化学的な混合物であっても、それが(化学反応によって)展開しなければ、生の塊として現われるに過ぎないが、しかし、もしそれが自分の原理を表現し、結晶として自らを形作るならば、それは精神的領域における先の操作と同じ様な状況にある。自然の神秘に通じることなしに、二つの自然の産物を観察する人は、両者の姿の連関を察知することもない。しかし、自然の連関に目を向ける人は、両者の同一性を確信できる。ここでも同じことが言える。そのような対立が高次の立場によって形成されることは当然である。そして私たちは、〈二つの領域は同一ではあり得ない〉と言いがちである。しかし、歴史的観察は、両者の同一性を知らせてくれる。

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