最終更新日2000年12月13日
〈110〉
11.懐疑主義の諸形式
a.
しかし私たちは、安んじて研究を進めていくために、さらに全く違った異義を克服しなければならない。その事情は、産出の道程で人がそれに思い当たることがなく、それら〔異義〕は外から人に与えられねばならないという他の諸々の異義すべての場合と同じである。したがって、私たちにとってあの見せかけの二重性を追い散らすのに役立ち得るに過ぎなかった先の異義について事情がそうであったように、この第二の、本来の懐疑的な異義についても事情は同じである。その異義は、知を〈111〉そこにおいて私たちがそれを把握したという意味での知を拒否し、したがってまた、抗争し合う諸表象がある一致へと至る可能性を拒否する。私たちの課題との関連で、どの程度の価値をこの拒絶に付すことができるのか、見なければならない。私たち自身がこの異義に行き当たることができなかったのは明白である。なぜなら、私たちの企てには、すでに全く対立する表象があるからである。それ〔異義〕はどこから由来するのだろうか?それは私たちを次のような議論を展開する懐疑主義において出迎える。すなわち、知というものは存在しないので、諸表象を調停する手段も存在し得ないと。従って、それらが出くわすのは純粋な偶然である。従って懐疑主義は、諸々の表象についての混沌とした見方である。
b.
経験的知についても思弁的知についても部分的な懐疑主義が存在する。もし人が、高次のポテンツと低次のポテンツという二つの異なるポテンツを諸表象について想定するならば、人は高次のポテンツから次のように判断することができる。感覚的印象から生じるものは全て、思弁的なものがそこに加わる時に初めて思考となる。そうでなければそれはいつまでも部分的なものに過ぎない。これに対して、人が経験によって与えられたものに安んじ、その際に思弁から生じる知を拒否するならば、何か同じようなものが存在することになる。
c.
しかし、部分的ではなく、完全な懐疑主義、すなわち知を総じて拒否する懐疑主義というものがある。そもそもそこに何があるのか、このような主張によって、私たちは私たちの連関で何をなすことができるのかを見てみたい。問題は二重の仕方で形成可能である。ある人が「私は知が存在し得ないことを知っている」という場合、しかしながらそこでは、知というものについての表象と、他者における知の主張が前提されている。彼が自分のそのような見解に到達できたのは、自分自身を意識する思慮深い方法によって、すなわち、他者の知との比較によって、しかもただ私たちが求めている技法の規則によってであるということは明らかである。確かに彼はさらに次のように言うことができるかもしれない。すなわち、知の存在の否定は、彼の意識の根源的状態であると。さて、思考に伴う自己意識で、私たちが感情と呼ぶ自己意識が存在する。あるいは、そこにおいて活動の結果が直接には定立されることのない意識的な状態が存在する。〈112〉抗争し合う諸表象の状態に伴う意識は、不確かさの感情である。動揺がおさまり、表象に静けさと平和が到来する場合の、抗争し合う表象の解消に伴う感情は、確かさと確信の状態である。懐疑家が、「自分が知の存在の否定に至ったのは、抗争し合う諸表象の状態を通してである」というならば、それは全く正しい。しかし、その場合彼は、確信に達するような規則が存在することも認めなければならない。そして、彼がその場合、そのような規則についての知を持っていることを認めねばならないということも確かである。そうでなければ彼は、どんな点についても不確かになってしまうからである。そして、彼がこの知を前提することによって、彼は他の知へと移行し、次のように言うのである。「自分がこの確信に至ったのは、対立する主張の定立によってではない。そうではなく、それは根源的な心情の状態なのである」と。しかし、その場合私たちは彼に問う。何によって彼はそれが真の確信であると決定できるのだろうかと。なぜなら彼は、知を求める人々における他の状態についての表象を持たねばならないのであるから。〈113〉もし彼がそれに対する基準を持っていないならば、彼はこれが確信の状態であるということも許されず、ただ「自分は知が存在するかどうか知らない」と言うことができるだけである。すなわち彼は不確かさの絶え間ない継続を主張するのである。しかし、静止している一点を否定することは不可能である。なぜなら、知を主張する多くの人の判断が、それには対立しているからである。そして、このような人々について彼が言えるのは、彼らの確信は間違っているということだけである。したがって私たちは、解消されなければならない抗争状態にある諸表象が存在するという古い地点に立ち、そして彼は私たちと共に規則によるその解消を求めなければならない。同様に彼は自分自身について「自分はしばしば知の妄想に囚われている」と言わねばならないだろう。そのように自分が確信の状態にあるように意識する瞬間を、彼は「知は存在しない」という自分の主張から区別しなければならない。そしてそのような瞬間を誤謬と定めねばならない。したがって彼は対立を定立することになり、彼の中には、ただ規則によって生じることができる進展が存在することになる。
d.
このように懐疑主義は、私たちがそれを一時容認するとしても、私たちの努力において何ら妨げにならない。懐疑家たちも自分自身の弁証法を常に形成してきた。私たちがこれら諸規則を見出したならば、私たちはそれらを抗争し合う諸表象において、少なくとも懐疑主義にいたるために適用するだろう。さて、もし人がこれらの規則との関連でいかなる確信も想定しないならば、ある一つの知から他の知への移行はあり得ないということは明白である。その場合人は最後には、プラトンが述べているように、何も主張できなくなってしまうだろう。すなわち表象のあらゆる規定性がなくなってしまうのである。もし懐疑家が首尾一貫していようとするならば、彼は、思考における精神活動全体の完全な破壊を受け入れなければならない。それによって人間の活動性全てが終わってしまうだろう。もし彼がこれを受け入れたくないのであれば、彼は、何かについての何らかの確信を認め、したがって知の存在―知の対象を私たちはまだ持っていないし、それについて気を使ってもいないが―を認めねばならない。たとえそれが「知は存在しない」(Nichtwissen)という知、あるいは「人間の中に現われる表象は、完全な知ではない」という信念であるとしても。しかし、知のイデーそして、完全性への近似のイデーに対する信念は根底になければならない。〈114〉そうでなければ思考における精神活動は全く不可能である。この根本前提を最後には懐疑家自身が私たちに認めなければならない。そうでなければ彼は、彼は自分自身の意識へ、個々の瞬間へ引きこもらねばならない。なぜなら彼は個々の瞬間の連関を持たないからである。それによって伝達は全く止んでしまう。私たちが一方では、抗争し合う表象と心情の静止の違いについてのこの根本前提を、他方では、思考の全領域の統一性を、懐疑主義に抗して救ったことにより、私たちが立てた課題が、その全範囲において救われたのである。