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最終更新日20001213

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12.弁証法の二つの主要課題

a.         さて私たちは、私たちの課題をより厳密に形作るためにすでに着手した小さな始まりに戻ることができる。課題の解決が可能であるべきならば、二つの部分に共通の意識−そこにおいてそれらの表象が落ち着くような−に帰るということがなければならない。ここから進展のための共通の方法も生じるに違いない。そして、人がその解消点に至った時には、抗争は止まねばならない。私たちが両者の一方を取り去るや否や、他方も私たちを助けることができなくなるということは、明らかである。したがって、私たちの根源的な課題は次の二つに分かたれる。1.抗争のある各々の所与の点から共通の表象に至ること。2.各々の所与の特定の点から、共通の展開方法を見出すこと。私たちがこの両者を見出すならば、対話遂行に関する私たちの課題は解決される。私たちは先ず、これら二つの課題を十分明らかにしなければならない。次のことは明らかである。すなわち私たちが抗争し合う諸表象の一点から、そこにおいて他の点が私たちと一致する何らかの点に戻るならば、これは一時的な決定に過ぎない。〈115〉もしこの点が、抗争し合う諸表象のあらゆる可能な点に対して等しい仕方で関係しているのでないならば〔一時的な決定に過ぎない〕。その間の点からの試みはどれも不十分である。なぜならこの点自体は再び抗争状態になり得るからである。しかし、私たちが次のように言うことができるならば、すなわち、私がその人とどんな抗争状態にあろうと、誰もが確実なものとして私に認めるような点が存在するならば、その時初めて私たちの課題は完全に解決されるのである。

b.         私たちが全ての争点からそこに至ることができるような一点は、全て抗争し合う表象の全く外になければならない。これは本来的な根源知、アルケーであり、知がそこから出発する原理である。そのような点を見つけることが私たちの最初の課題である。第二の課題は、進展や諸表象相互の結合の共通方法を見出すことである。私たちの課題にこの部分にそもそもあるのは何であろうか?ここにおいて私たちは先ず〈116〉通常の見解を除かねばならない。二人の人が表象の抗争状態にある場合、各人は自分の表象をある確信と結びつける。そして彼は、多かれ少なかれ明瞭さを持って、自分がどのようにしてその表象に至ったかを意識している。この方法を人は演繹と名付ける。推論によってその表象を保持したからである。それは後戻りの方法であり、ここでは不十分である。そのような一つの表象を他の表象から演繹する規則を私たちはここで求めるわけではない。そうではなく、結合の規則、すなわち、諸表象を、互いに結合したり分離したり、対立にもたらす規則を私たちは求める。

c.           そもそもおよそ論理的操作と言われているもの、とりわけ三段論法においては、遡及(Zurueckgehen)は通常のことである。説明されるべき表象が結論であり、それによって他の表象が説明されるべき表象が大前提、〔大前提から結論への〕移行が小前提である。しかし、人がある共通の根源的なものに至ろうとする場合、この方法は、規則を求める私たちの探求のこの部分には適用されるべきではない。なぜなら、それは、ある人や別の人がどのようにして自分の表象に至ったかを説明するに過ぎないからである。その限りにおいてこの定式は価値を持つに過ぎない。人は常にいっそう遡及することは可能であるが、しかし、根源的なものについては、それによっていかなる争点に達することもできない。そして、私たちの技法の完全性はただ〈117〉そこから同時にあらゆる知の連関が生じるということにある。

d.         私たちがその共通のものから求め、すでに見出されたものとして前提とする前進の方法がどのような性質のものでなければならないかを私たちが問うならば、共通のものからは、二種類の前進の方法、すなわち、区分のプロセスと結合のプロセスだけが存在し得る。私たちが前提としていることは、同一の対象に関わる様々な諸表象間の抗争を調停し、共通の表象を見出し得るということである。この共通の表象が次のような種類、すなわち、抗争し合う表象の対象がその表象の中にあるというようであるならば、人はただ〔共通の〕表象全体を規則的に区分することによって争点に至り、それが属する場所を見つけることができる。仮に次のようなことを仮定するなら、すなわち、他の語り手によって奪われたある特質が、もう一人の語り手によって、個々の事物の一つに、あるいはそれらのあり方に添えられ、語り合う両者が、より高次のジャンルの概念に戻るというのであれば、ここからのみ理解は可能となる。彼らがこのより高次のジャンルを明らかにしたならば、そこにおいて可能なものと不可能なものとが定められるに違いない。そして私たちが区分するなら、その固有性が見出されるかどうかが明らかになるに違いない。諸表象を正しく区分する技法は、その場合、個々の一般的表象から、そこに含まれる個々の各表象に、規則的な区分を通して達する技法である。

e.          しかし、共通の表象が単に部分的に争点を含むに過ぎない場合は、そこに共に立てられているのは争点の目印のみであり、その場合、抗争し合う表象においてその目印は他の表象と結びついている。そこで重要なことは、この目印が他の表象と結び付き得るかどうかを決定することであり、諸表象がどのように結びつき得るのか、その共通の規則を意識することである。第三の場合というのは全く起こりえない。なぜなら、共通の表象は、抗争し合う表象に対して、これら二つの関係のいずれかの状態に、すなわち、共通の表象が争点を自らのうちに完全に包含しているか、部分的にかのいずれかの状態にあるからである。そして、対象の認識が抗争状態にあるときには、そこに対象が含まれているところの、より高次の概念を求めること以外に他の手段は存在しない。〈118〉したがって私たちは次のように言うのである。抗争しあう表象のどの状態においても、二つのものが見出されねばならない。抗争の外部にある共通の根本表象と、抗争し合う諸点との連関へのその適用―それはすでに以前に見出され承認された思考における区分と結合の規則によってなされるのだが―である。

f.            しかし、私たちが共通の表象から各点を構成できるのは、知の全連関が私たちに客観的に与えられた場合のみである。私たちがある表象に、知の連関における場所を即座に示すことができる場合のみ、私たちは次のように言うことができる。すなわち、与えられた完全な連関という前提の下で、その表象は論争の余地のない確かなものと見なされ得ると。

g.          しかし、私たちはまだこのような状態にないのであるから、論争の外部にあると見なされねばならないその共通の表象は、どんな状態にあらねばならないのだろうか?私たちはそれを、思考展開の通常の方法で構築したということは許されない。すなわち、私たちはそれを決して保持できないのである。なぜなら、私たちがそのような方法で私たちの内にもたらす他の全てのものは、不確かであり、連関においてまだ確定されていないからである。したがって、私たちはそれを、そのようなものとして、すなわち、思考の展開すべての根底にあり、それに先立つものとして、すでに前もって常に所有していなければならない。しかしそれは空虚な公式に過ぎず、それに私たちが初めて価値を与えねばならない。そして他ならぬこのことを私たちは、共通の表象と抗争しあう諸点との間の連関に対する規則の適用について語り得るのである。その表象が何を含んでいるのか、その表象はどのような性質なのか、その表象は一種類なのか複数の種類が存在するのか、こうしたことは私たちにはまだ明らかになっていない。

h.         さて私たちの課題全体は、それは本来はたった一つであったのだが、全く異なった現われ方をする二つの部分に分割されてしまった。両者の間に関係は見られない。両者の大きさは未知であり、私たちはただその公式だけを持っている。私たちは私たちに与えられた点から、抗争し合う表象の状態から出発して、この課題を解決すべきである。このように〈119〉十分な手段を持ち合わせていない場合には、人は当てずっぽうに、しかし、その一つの公式に価値を添えるという予感によって、数学においてのように作業に入り問題を解決するのが常である。しかしその場合私たちは、個々の事例に関係する暫定的な解決に至るに過ぎない。ここから生じることは、もし私たちの課題が満足に解決されるべきであるなら、私たちが離れ離れに見出したものが一つにならねばならない。私たちの思考展開の根底にあるものが、区分と結合の方法に他ならないのであれば、これらの方法が共通のものを形成するとき、私たちの課題は解決される。それが二重性にとどまっていれば、私たちは課題を単に仮に解決するに過ぎない。次のように問うことは、手間をかける価値がある。すなわち、どのような前提の下でこの合一は起こるのか、また起こらないのかということについて、私たちは何かを決定できるのかという問いである。公式自体の分析から純粋に明らかなことは、考えを産み出す中で現れ得るどの思考も、常に、一方では分割された思考であり、他方では結合された思考であるなら、区分と結合の方法は、思考全体に根拠を持つものであることは明らかである。私たちは、抗争し合う表象が他の前提の下で現れるということを気遣う理由はない。思考は確かに、その発生〔起源/生成〕によって、すなわち他の思考へのその移行によって、分割された思考であったり結合された思考であったりする。ある表象が論争的になるなら、そこですでに分割されたり結合されたりしている。私たちは、法の世界においてと同じように行動できる。すなわちあらゆる表象を召喚できる。そして、思考の発展によって成立したのではない表象が到来するなら、それは直接的な啓示でなければならない。このようなものは、すぐに現れて論争が不可能になるか、現れないかのいずれかである。そして、そうでない場合にも、他方が主張することをもう一方が排除することにより再び結合と区分がそこにはある。

i.            しかし、これによって、二つの前提は全く一つであるなどと言われるべきではない。反対にそれらは次のような意味で異なっていなければならない。すなわち、出発点(基礎)と抗争し合う進歩のあり方と違いのように、あるいは、指数の累進(Progression der Exponent)と、そこから結果する項(Glieder)の違いのように。事柄に存在する二重性に対して私たちが要請した同一性の関係は、私たちにとってまだ未知である。しかし、そこにはある差異があるので、私たちは先ず知を見出すのか、それとも先ず結合や区分の規則を見出そうとするのかは、私たちの選択にかかっている。どちらを選ぶかについて内的に決定的根拠は存在しない。せいぜいよりよい秩序を結果するかどうかという理由である。

j.            私たちは私たちの試み全体に、相互に含みあっている三つの異なる目的を立てた。1.全ての抗争に終結をもたらすこと。2.全ての断片的な知を、他の知との結合にもたらすこと。すなわち、その知が普遍的連関のどこに属するかを学び知ること。(これを私たちが知るのは、私たちがその知を根源知及び、あらゆる知の連関と比較する場合をおいて他にない。なぜなら、そうでなければ私たちはその知が再び論争的でないかどうかわからないからである。そして、常にこの断片的な知には数多性が存在するので、私たちはここでもまた区分や結合をしなければならない。そして、ただ私たちの二つの方法によってのみ、私たちは目的を達するのである。)3.全ての知をその連関において構築すること。私たちがこれを達するならば、最初の二つの目的は無用となる。なぜなら、この場合にはもはや断片的な知識は存在せず、抗争し合う表象自体がなくなるからである。

k.         これら全てのために思考の区分と結合が必要である。それによって全てが規定されるか規定可能となる。ついでながら、以上の三つの部分の最後の部分は、あらゆる残りのものの総体である。そしてこれと、結合や分離は特に関連する。しかし先ずは根源的知から始め、第二の部分がそれに続くのがよいと思われる。全体の定義を常に必要としないように、私たちは、全ての定義をその都度繰り返さなくてよいように、略語を作ろう。すなわち、第一の部分を私たちは超越論的側面と呼ぶ。なぜなら、これは思考のプロセス自体に成立することは決してなく、常に前提とされるものだからである。思考の区分と結合を、私たちは私たちの課題の形式的側面と呼びたい。なぜなら、両者の間に何らかの連関が生じるならば、およそ思考というものは、私たちにおいてすでに結合された思考でなければならないからである。したがって、この方面の知識は思考の形式についての知識である。

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